「1574」 『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(副島隆彦著、PHP研究所、2015年12月17日)が発売となります。古村治彦筆 2015年12月15日
 SNSI・副島隆彦を囲む会研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。今日は2015年12月15日です。

 今回は、来週に発売開始となります、副島隆彦先生の最新刊『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(副島隆彦著、PHP研究所、2015年12月17日)を皆様にご紹介いたします。





 この最新刊『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』で言いたいことは、タイトルにすべて凝縮されています。日本史の定説、常識に挑戦する一冊となっています。

 日本の歴史の中でも特にファンの多い戦国時代、特に桶狭間の戦い(1560年)から
関ヶ原の戦い(1600年)までの時期を副島隆彦先生が独自の視点で分析した成果がこの本、『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』です。

 以下に、まえがき、目次、あとがきを公開いたします。参考にしていただければと思います。そして、年末年始の読書計画の1冊にお加えいただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。

(貼りつけはじめ)

 はじめに

 日本の戦国時代について、これがより大きな見方からの真実だろう、と自分が確信したことをこの本に書く。

 信長、秀吉、家康の3人が主従(親分と子分)として生きた時代は、合わせて50年間である。わずか50年なのだ。

 ・桶狭間の闘い(1560年5月)、・本能寺の変(1582年6月)、・関ヶ原の戦い(1600年9月)で、合計50年間だ。日本の戦国時代(の後半)のハイライトは、この3つだ。日本人にとって長年そういうことになっている。この共通理解(土台)に私も乗る。桶狭間の奇襲(1560年5月19日)の時、信長は26歳だった。秀吉は2歳下だから24歳だった。家康(松平元康、世良田元信)は、信長より8歳下で18歳だった。

 私は今62歳だから、もう50年間(半世紀)を自覚的に生きた。日本の戦国時代を代表する軍事権力者3人が輝いていたのは、今から約500年前のたった50年間のことだ。日本の戦国時代がどんなに激しい動乱の時代だったと言っても、僅か50年間のことだ。

 私は、これまで、きっとこれが真実だ、と自分で吟味(審査)して、こっちが真実だろうと判定したことしか本に書かない、という態度で生きてきた。

 私は虚偽の言論が世の中に平気でまかり通っていると、我慢できなくなる。どうしても“真実の暴き言論”の爆弾投下を行いたくなる。

 日本の戦国時代の歴史の定説、通説にも多くのウソ(虚偽)がある。最近また「戦国もの」の真実への関心が起きている。この論戦に私が参加しないわけにはゆかない。自分が持っている“真実暴き刀”を持ち出して、このケンカの中に私は飛び込んでゆく。

副島隆彦


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はじめに

第1章 現代に伝わる「徳川家康像」はウソの塊

清洲会議に仕組まれた戦国武将たちの野望 14
三大事件を一つに繋いでこそ真実が浮かび上がる 18
バテレン以外に信長を殺せる者はいなかった 22
なぜ「明智本」はあと一押しの真実に踏み込まないのか 28
摩り替わり説を決して認めない史実捏造派 34
戦国時代の真実を塗り替える決定的文章 37
もはや禁圧するしかなかったキリスト教の恐怖 42

第2章 山崎の合戦で明智光秀はなぜ敗北したのか

「明智本」から発見できる戦国時代の真実 48
光秀の書状が書き換えられた理由 52
なぜ「キリスト教の日本侵略」のテーマがタブーだったのか 55

第3章 信長を爆殺した本能寺の変の真相 

フロイスの信長への好意的な人物評 64
大男の黒坊主・彌助とはどんな人物か? 68
不倶戴天の本当の意味を考えない知識人 71
「不寝の番」の侍たちが油断した隙に爆殺を実行 73
「明智本」が取り逃がしている巨大な敵 77
秀吉が本能寺を移したのはなぜか 80
証拠隠滅のために光秀の殺害を命令 83
「変」の命令者に気づいた秀吉がとった行動 88
あまりにも不自然な信長の最期の言葉 92
南蛮寺から放たれた大砲を見抜いた八切止夫 96
なぜ光秀は真犯人に仕立てられて殺されたのか 100

第4章 信長が見抜いたキリスト教の虚偽とは

わずか二年しか布教しなかったザビエル 106
裏で動く特別な才能を持つ細川藤孝の真骨頂 109
義昭をあっさり見捨てて信長に付く 112
僧侶の腐敗と堕落に怒り心頭に発した信長 115

第5章 信長暗殺計画を秀吉と家康は知っていた

光秀を生きたまま連れ帰った忍者・水野忠重 120
やはり明智憲三郎説には無理がある 124
犯行を隠すために捏造情報を広めたバテレン 128
秀吉の隠れ子分だった“毛利の外交僧” 132
信長と同じ危険に気づいてバテレン弾圧を始める 135
光秀の句をもとにした定説のバカらしさ 138
「四国攻め阻止説」も事実隠蔽のためだった 142
裏付ける根拠がない「唐入り阻止説」 145

第6章 地球儀から日本征服を見抜いた信長の眼力

地球儀を献上したことで失敗したバテレンの征服計画 148
気づかれたからには信長を殺すしかない 152
兼見日記の改作、削除は何を意味するのか 156
次第に孤立する光秀の周りで何が起こっていたのか 161

第7章 秀吉、家康、藤孝の「三人の密約説」は成立しない

家康のおかげで処罰を免れた細川ガラシャ 166
どうしても三人密約による共同犯罪にしたいわけとは 168
秀吉の“股肱の臣”の筆頭だった加藤清正 173

第8章 呪われた江戸城の家康重臣たちのその後

家光の生母が春日局であるという事実 180
尊王勢力を打ち破って綱吉を継嗣にした力とは 182
「三ざる」は家康摩り替えの緘口令だった 189

第9章 信長の「天下人」が始動する桶狭間の戦い

今川義元の本陣の横っ腹を突いた信長軍 196
両軍が衝突した場所は今も判然としていない 202
「天下人」の天下とは何を指すのか? 204

第10章 戦の天才武将たちを破っていく信長の力

新家康は伊賀者だという事実 212
川中島の合戦で歴史に名高い大激突 216

第11章 洋式大砲が勝負を決めた関ヶ原の戦い

家康はなぜ自信を持って進撃できたのか 222
一五万人の合戦でも、実際に戦ったのは一〇分の一 230
命がけで戦う兵は一大名当たり二〇〇〇人くらい 234
三成は三キロ先の小早川の陣まで見渡せたはず 237
家康を強気かつ大胆にさせた秘密とは何か 241
本陣を移した最大の理由は、アダムズの洋式大砲の存在 246
確固たる集団指導体制は秘密の共有にあった 250
『史疑』に連綿と書かれた徳川家康の新実話 255

第12章 新時代のまさに嚆矢となった洋式の巨砲

実際に関ヶ原の現地を確認して分かったこと 262
三成挙兵の報が届いても態度を変えなかった家康 265
ウイリアム・アダムズから得た重大な知識 268
アダムズの世界最新鋭の大砲が天下を分けた 272
キャノン砲の威力に驚き寝返った小早川 277
戦国時代の終わりを告げたもの 280

おわりに


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 おわりに

 これで私の「真実の信長、家康」を書き上げた。

 日本の戦国時代(西暦で1500年代)についての私なりの歴史の全体概観がこれで出来た。鬼才・八切止夫の業績の復権、復活を誓いながら。

 私はいつも、ものごとを大きく全体像で捉まえる、という考え方をする。そのために評論家業をやっている。

 知識や学問や思考の過程がたどる道というのは、常にそのようなより大きな広々とした高みに至る、ということを目指す。これができない者は相当に頭のいい人とは、どうせ言われない。かつ、この作業は自分勝手な偏った考えであってはならない。証拠(史料、文献、証言、諸事実)を提示しなければいけない。

 Truth is mightier than power. (トルース・イズ・マイティアー・ザン・パウア)
「真実は権力よりも強い」 はずなのである。しかし隠され、押し潰され、闇に葬むられたままの真実も多い。その理由は、事件から450年も経った今の今でも、真実が明らかにされることが不都合な人々がいるからだ。それらの真実は、ごく少数の堅い決意と志を持った者たちによって、無念に満ちた地底から掘り起こし救い出されるべきものである。恨みを呑んで死んでいった者達の怨霊が私たちのまわりの中空を今も舞っている。

 この本を書くために、私は桶狭間、京都の真実の本能寺跡、松平郷、上州(群馬県)世良田村、清州城、岐阜城、関ヶ原、駿府城などに行った。現地に行って事件の現場を歩き回って考える必要がどうしてもある。現地に行くと多くの収穫が有る。眼に見えないはずのものが見えてくる。調査旅行の幾つかに同行してくれて、この本が完成するのを辛抱強く待ってくれたPHP研究所の大久保龍也氏に感謝申し上げる。

平成二十七年十二月
副島隆彦

(貼りつけ終わり)





(終わり)

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