「1547」好評連載企画:「思想対立が起こした福島原発事故」 相田英男(あいだひでお) 第3章 福島事故のトリガーがひかれた日(1) ※会員ページに掲載したものを再掲 2015年8月10日
 副島隆彦の学問道場中田安彦です。今日は2015年8月10日です。

 会員の相田英男(あいだひでお)氏の大作論文、「思想対立が起こした福島原発事故」の第3章をこれから2回連続で掲載します。

 第1章は、「重たい掲示板」に掲載され、第2章は会員ページで今年の2月に「1514」「1515」番で掲載されました。

 ※しかしながら、7月21日に第3章を掲載したのですが、現在、会員ページの表示がうまく行かず、途中で文章がきれてしまっています。申し訳ありません。不具合が治るように今、対策を講じていますが、7月21日に載せた文章をとりあえずこちらの方に転載したいと思います。次回以降はこの「相田論文」は会員ページに掲載いたしますのでご了承ください。「会員ページ」では副島先生以外の書き手の論文や、外部からの寄稿も折にふれて紹介しております。※

 この第1章をお読みになりたい場合は、「重たい掲示板」に入っていただき、その右上のページ検索のところに「相田」とキーワードを入れていただくと、過去の投稿が全部出てきます。(投稿番号「4175」から)

 相田氏が第1章を掲載する前に「重たい掲示板」に書いた序文です。


(貼り付け開始)

「思想対立が起こした福島原発事故」 の第3章

はじめに 相田英男

 本論考は戦後の日本の科学者、技術者の間で広く存在した左翼思想が、原子力開発に及ぼした経緯と影響について調査し、まとめたものである。

 シンクロニティ(意味のある偶然の一致)というべきか、本論考を書いている2014年5月に、漫画の中の登場人物達が福島を訪れた後に鼻血を出し「原発の放射能の影響だ」と訴える「美味しんぼ」の騒動が、マスコミを賑わせることとなった。ここで私は、「美味しんぼ」で描かれた山岡の鼻血が放射能に由来するかどうかを議論するつもりは毛頭ないのだが、この事件の中心人物である原作者の雁屋哲(かりやてつ)氏が、原発問題に強くこだわる理由はよく理解できる。

 雁屋氏の経歴によると1960年前後に東京大学に進み、教養学部基礎科学科で量子力学を専攻したとされている。大学には残らずに電通に就職した雁屋氏であるが、この東大時代に「量子力学を専攻した」という箇所が、今回の事件で実は非常に重要である。雁屋氏の「量子力学を専攻した」という経歴の真の意味については、今の若手評論家は誰も説明できないだろうなと思えるので、私がここで明確化しておく。

 終戦直後の1945年から60年代の時期において「量子力学を勉強する」ということは、武谷三男(たけたにみつお)、坂田昌一(さかたしょういち)という二人の物理学者の影響を強く受けたということなのである。

 武谷三男、坂田昌一は普通の学者ではなく、ノーベル物理学賞を日本で初めて受賞した湯川秀樹(ゆかわひでき)の直接の弟子であり、湯川の執筆した一連の「中間子(ちゅうかんし)論」に関する論文の共同執筆者に名を連ねる、超一流の理論物理学者である。

 その一方で武谷と坂田は強固な左翼主義者でもあり、素粒子物理学の理論研究に打ち込む傍らで、左翼思想や共産主義に関する思想・哲学の論説を数多くの雑誌や新聞等に発表した。武谷、坂田の二人は戦後の自然科学者、技術者達に向けて、左翼思想の啓蒙活動を積極的に行うことで、反体制、反原子力開発の今につながる大きな流れを作り出した張本人達といえる。

 今回の「美味しんぼ」騒動に関するニュースやネットの報道を見ながら、私は地の底に封印されていた武谷、坂田の二人の怨念が、現代に再びよみがえったような印象を感じた。同時に私には、中曽根、正力(しょうりき)達により捻じ曲げられた戦後日本の原子力研究を、正しい方向に引き戻すべく奮闘しながらも、その理念を無残に打ち砕かれた菊池正士(きくちせいし)の魂が、無縁仏となって福島:F1(エフイチ)の周辺を彷徨(さまよ)い続けているようにも思えてならない。

 そもそも私がこの論考を書こうと考えた最初のきっかけは、さかのぼること2004年頃に、東大名誉教授で応用化学分野の大家である西村肇(にしむらはじめ))先生と、副島先生とによる幻の対談「理科系研究者のトップ百人を斬る」の原稿を読ませてもらったことに始まる。この対談は惜しくも未発表のまま10年を経過して今に至っている。

 その内容は宇宙ロケット開発、原子力、コンピュータ、半導体、バイオ等の多岐に及んでいた。その中で西村先生は、「日本の原子力開発に携わった技術者の多くは共産党員であり、彼ら左翼系技術者と政府の対立により日本の原子力開発は大きな影響を受けてきたのだ」という驚きの指摘をされていた。私は自分の学生時代に、大阪の熊取(くまどり)市にある京都大学原子炉で実験を行う機会があった。

 その時に原子炉実験所の職員でありながら原発廃止運動を続けている、数名のけったいな助手の方達がいることを知った。(その中の一人の小出裕章(こいでひろあき)氏は、3.11福島事故後に反原発の論客として一躍脚光を浴びることとなった)他にも企業で原子力開発に従事しつつも組合活動にのめり込み、仕事の傍らで反原発を訴え続ける技術者の話、等を度々聞く機会があった。 私には、幻の対談の中で西村先生が述べられた、左翼思想と原子力開発に関するコメントがずっと頭の隅に残っていた。

 その後の2008年には、益川敏英(ますかわとしひで)、小林誠(こばやしまこと)、南部陽一郎(なんぶよういちろう)の日本人物理学者3人がノーベル物理学賞を同時受賞するニュースがあった。私は理論物理には詳しくなかったため、受賞理由について当時はよく理解できなかったが、TVのニュース報道は大変興味深い物だった。

 受賞者の一人の益川氏はインタビューの際に、「(受賞については)大してうれしくない」「純粋な学問の追求こそが目的であり、賞を得ることが目的ではない」等の、ひねくれた趣旨の発言を連発し、スウェーデンでの授賞式でも「私は英語が得意ではない」と公言し、招待講演は日本語で押し通した。私はこれらの一連のニュースを見ながら「ああ、典型的な左翼物理学者がここにいるな」と直感で理解した。

 それ以前の2002年に田中耕一(たなかこういち)氏がノーベル化学賞を受賞した際も、「英語が得意ではない」とのコメントがあったが、授賞式の講演で田中氏は不得意ながらも英語でプレゼンを行っている。私は同じ変人とはいっても、益川氏の不遜な態度は田中氏の謙虚な物腰とは全く異なると感じた。益川氏の長い人生経験を重ねて来た大人(老人)が、周囲から見られる様子を全く気にせず不遜な態度を貫く姿勢は、反体制を生き甲斐とする左翼主義者によく見られるパターンだと私は思った。京大原子炉の小出裕章氏の振舞いも益川氏と全く同じように私には見える。

 益川氏は名古屋大学の理学部出身であり、坂田昌一の研究室に所属していたという。先に述べた通りに、坂田はあの湯川秀樹が中間子理論を構築する際の共同研究者であり、戦後日本の素粒子物理学を構築した碩学である一方で、強固な共産主義者としても知られている。湯川秀樹、朝永振一郎のノーベル賞の栄光の影であまり広くは語られない。

 だが、西村先生が指摘されたように、終戦直後の日本の物理学者の多くは共産党員かそのシンパであったことは事実である。彼ら物理学者に代表される自然科学系左翼主義者達の活動とその変節が、戦後日本の学術方針や技術の発展に大きな影響を与えていると私は考えている。もちろん日本の原子力技術の勃興と3.11福島事故に至る過程に関しても然りである。

 3.11福島原発事故以来、マスコミでは「原子力ムラ」の存在とその害悪について盛んな報道や攻撃がなされている。しかし、現在の原子力ムラが形成されるに至った背景にある、終戦後の原子核物理学者や技術者の間に存在した左翼思想家達と体制側との激烈な対立に目を当てないと、福島事故が起こった理由を十分には理解できないと私は思う。

 本稿で私は、戦後の原子力開発に携わった研究者の政治思想の側面に着目して、福島原発事故に至る過程を纏めてみた。最初に本論考の結論を言ってしまうと、福島原発事の責任は国(政治家、官僚)や財界、企業(東電、メーカ等)にあることは当然ではあるが、少なくとも3割、場合によっては責任の5割は、左翼系の反原発技術者や活動家にもあると私は考えている。なぜ左翼技術者に3~5割の責任があるのかについては、本論考を最後までご覧頂ければ理解して頂けると私は思っている。

「思想対立が起こした福島原発事故」第1章 はじめに

(貼り付け終わり)

それでは、以下に「第3章」を掲載します。(ここまで、学問道場の中田安彦でした)


相田英男 「思想対立が招いた福島原発事故」

第3章 福島事故のトリガーがひかれた日
3.1 それは10月26日に起こった
3.2 悲劇の原子炉 JPDR

(以下次回です)
3.3 発足当初の日本原子力研究所
3.4 原子の火、灯る
3.5 嵯峨根遼吉、原研を去る
3.6 露わになり始めた矛盾
3.7 南極越冬隊長の奮戦
3.8 紡がれる破滅への伏線
3.9 菊池理事長、魂の独白
3.10 「原子力の日」の真実



第3章 福島事故のトリガーがひかれた日
3.1 それは10月26日に起こった

相田です。第3章のタイトルは大仰なものにしているが、最初にいきなり結論を述べる。毎年10月26日は「日本の原子力の日」と定められているらしい。この「原子力の日」こそが、福島原発事故に直結する最も重要な出来事が起こった日である。

「お前はそんなハッタリで我々を煙に巻くつもりなのか」と、呆れる方も多いと思うが、流石にそんなに単純な話ではないので、御安心頂きたい。

さて普通の方ではあるならば、「原子力の日」というものがあることは知っていても、その当日の現場がどのような状況であったかについて関心がある方は、ほとんどいないと思う。以下に、「原子力の日」の当日に実際に起きた状況を簡単にまとめる。

原子力の日とは、1963年10月26日に茨城県東海村の日本原子力研究所(略称原研、現在は日本原子力開発機構として組織替えされた)において、初めて原子力発電に成功したことを記念する日である。大変紛らわしいのだがこの日は、1957年8月27日に同じく東海村の原研で、原子力実験施設JRR-1により日本で初めて核分裂反応を起こした日、いわゆる「原子の火が灯った日」とは別なのである。原子炉を使って日本で初めて「電気を起こした」ことを記念するものである。

この東海村原研で初めて発電に成功した装置は、正式名称を「動力試験炉」(Japan Power Demonstration Reactor)、略称JPDRと呼ばれていた。(英語と日本語の名称を合わせるには、本来は『発電実証炉』とすべきである)。このJPDRはメルトダウンした福島第一原発と同型の、沸騰水型軽水炉(Boiling Water Reactor, BWR)の小規模実験装置であり、福島と同じくアメリカGE社の製造したものである。福島原発に先駆けて日本に導入されて発電に成功したBWR装置こそが、このJPDRである。

さて、私がこの「原子力の日」について何故こだわるのか、その理由を述べる。1963年秋の「原子力の日」の当日、東海村の原研では「発電成功おめでとう」などど、祝賀イベントが呑気に行われた訳では、実は全く無かった。この日に一体、東海村では何が起きていたのかを、当時の科学技術庁原子力局長であった島村武久が、国会(科学技術振興対策特別委員会)で行った証言をもとに辿ってみる。

―引用始め―

まず、いわゆるJPDRと申しますもの、これは動力試験炉でございますが、この炉につきましての建設の経緯を若干申し上げてみたいと思います。この炉を建設しようといたします計画は、昭和三十二年に始まりまして、予算的に申しましても三十二年度予算からこれに必要な経費が計上せられたわけでございます。

すなわち原子力委員会におきまして電気出力一万ないし一万五千キロワット程度の動力試験炉を原子力研究所に設置いたしますことは、将来の日本の原子力開発の上におきまして、動力炉の建設、運転、保守というような問題につきまして実際的な経験を得るということ、あるいは各種の実験、試験をこの動力炉によりまして行ない、その特性を把握することができるということ、さらに国産の燃料の性能試験、あるいは各炉への応用の問題、そしてまたそれに続いていろいろな国産部品の特性試験、寿命試験等を行ないますためには、このような炉が必要であるということを決定いたしまして以来、日本原子力研究所におきましては海外へ調査団を派遣いたしますとか、あるいは海外各社から見積もりを取りまして、その中身を検討するとかというような準備段階を経まして、昭和三十五年の八月に、その中からアメリカのゼネラル・エレクトリック会社の製作いたします沸騰水型の原子炉を採用することを決定いたしまして契約を結んだわけでございます。
(中略)

建設は他の原子炉に比べまして、割合に順調に推移して進行いたしておったのでございますが、本年度(1963年)に入りましてから少しずつおくれてまいりました。(中略)八月二十二日ようやく臨界に到達いたしました。この炉は熱出力四万六千七百キロワット、電気出力にいたしまして一万二千五百キロワットでございます。臨界後さらに整備を進めまして、十月十日から出力上昇試験を開始いたしました。二十六日には熱出力で一万キロワット、電気出力にいたしまして二千キロワットの発電試験に成功したわけでございます。これはわが国におきます初めての原子力発電といたしまして原子力平和利用の歴史の上で画期的な意義を有するものであると考えられ、多くの人々から喜ばれたわけでございます。

しかしながら、発電を開始いたしました二十六日の三日あと、十月二十九日に至りまして、受注社でありますGEJ(ゼネラル・エレクトリック・ジャパン)社が突然運転を中止するという申し入れをいたしまして上昇試験を中止したわけでございます。なぜ運転を中止したかということにつきまして、原子力研究所側から先方に対しまして説明を求めましたところ、十月三十日先方が明らかにいたしましたところでは、現状のような雰囲気では出力上昇試験を行なうことは危険であるということでございます。

さらに、その雰囲気という言葉の説明といたしましては、原因不明の故障や誤操作がしばしば起こっておる、あるいは絶えず組合のストライキに脅かされておる、また原研の組織の運用が当を得ていないように思うというような説明がございましたが、その後話し合いをいたしました結果、原因不明の故障や誤操作というような問題、あるいは組織運用の問題というようなことは、あるいは現場の意思疎通が十分でなかった、あるいはそこに働きます場合の日本側とGE側との間の作業態勢が食い違っておるというような問題に起因いたします、いわば誤解によるものが多いということで、撤回せられまして、最後に残りましたのは、絶えず組合のストライキに脅かされているという問題になったわけでございます。
(中略)

当時、原子力研究所の組合は、ベースアップの要求をいたしておりました。これは一般公務員のベースアップ問題に伴います。政府関係機関のベースアップ要求の一環でございました。特別に原研独自の問題ではなかったわけでございます。他の関係労働組合に先がけまして、原子力研究所の労働組合は十月二十四日に早くもスト権を確立いたしまして、翌二十五日、これはちょうど先ほど申し上げました、動力試験炉の発電開始の前日に当たるわけでございますが、スト権を確立いたしました。その翌日に、約五十名ぐらいの組合員でございますけれども、部分ストを現に運転いたしておりましたJRR-3と申しまして、通称国産一号炉と呼ばれておりますが、熱出力で一万キロワット程度の原子炉でございますが、この原子炉に対しまして部分ストを実施したわけでございます。おそらくはこの情勢がJPDRにもいつ波及するかわからないという不安をGE側に感ぜしめたものと思われるわけでございます。

〔第045回国会 科学技術振興対策特別委員会 第2号 昭和三十八年十二月十二日(木曜日)議事録より〕
―引用終わり―

相田です。以上の島村の話を整理すると、問題が起こったのは、JPDRによる日本初の発電試験日の前日の10月25日であった。午後2時になって、原研の職員労働組合(原研労組)は突然、「運転中」であった実験用原子炉の一つのJRR–3に対して、ストライキによる運転員の引き上げを原研側に通告した。上の島村の話にある「部分スト」とは、研究所全体の組合員のストライキではなくJRR-3の運転員だけに限定されたスト、という意味である。この時、組合が原研側にストの通告を行ったのは、実施の30分前というほとんど抜き打ちに近いものであった。そして原研労組は実際に、通知から40分後には約50名の運転員を、予告通りにJRR-3から引き揚げさせたのである。

運転員がいなくなる前に、なんとかJRR-3を無事に停止することができたものの、翌日の日本初の発電試験を控えた原研では大きな緊張が走った。JPDRの発電試験の最中においても、労組による同様な抜き打ちストライキが起こされる可能性が高まったためである。すなわち、26日の「原子力の日」の東海村原研では、発電を開始したJPDRから作業員がいきなりいなくなってしまうかもしれない、という恐るべき疑心暗鬼を抱えた状態で、実験が進められていたのである。

幸いにも26日には、組合はストライキを掛けることなく、発電は無事に成功し、夜には東海村唯一のホテルにて祝賀会も催された。しかし、その3日後の29日には、JPDRの製造元のGEから、「作業員がいついなくなるかわからないような状況では、原子炉の運転は出来ない」とJPDRの停止要望が出され、運転を中断することになった。この原研当局による突然の発電試験中止が国会で問題とされて、当時の原子力局長の島村が説明することになったのである。

これが一体どのような状況であるか、読んだ方々は理解できるであろうか?

日本初となる晴れの発電実験を控えた東海村原研で、その前日に運転中であった出力1万kW級の別の原子炉に、突然労働組合の幹部が現れて、組合員を原子炉から引き上げさせたのである。この労組の行為は、「明日のJPDRの発電試験の最中にも、運転員を予告なく引き上げることが出来るのだぞ」という、原研当局側への実質的な「脅し」であった。その時には、はたして無事に発電実験を終えられるのか、万が一の重大事故にはつながらないのか、といった、緊迫感に包まれた状況で、東海村は「原子力の日」を迎え、そして終えたのである。

断言すると、この原研労組がJRR-3に対しておこなったスト行為は、限りなく「テロ」に近いものだと私は思う。運転中の原子炉から、予告も無く(実際には30分の猶予時間だけで)作業者を引き揚げさせるなど、原子力に携わる研究者・技術者の常識を完全に逸脱する行為としか、私には思えない。福島事故以来、日本の原発のテロ対策は大丈夫なのか?といった、多くの報道もなされている。しかし何のことは無い、日本で初めての「核施設へのテロ(同然の)行為」が、50年前に茨城県で現実に起こっていたのだ。

そしてこの事件が起こった場所とその時期が、何にも増して最悪であった。結局のところはこの「運転中の原子炉への抜き打ちスト事件」が、3.11福島事故に至る最後のトリガーを引いてしまったのである。


3.2 悲劇の原子炉 JPDR

日本には軽水炉型原発に関しての、独自に考えて作成した「安全に関する技術基準」が無い。自分はこのことを、08年に「エコ洗脳本」で原子力の話を書いた時から気づいてはいた。日本の軽水炉の安全基準は、アメリカのASME(American Society of Mechanical Engineers, アメリカ機械学会)が作成した、圧力容器に関する安全基準(Boiler and Pressure Vessel Code)のsectionⅢ:原子力施設用機器の製作に関する規則(Rules for Construction of Nuclear Facility Components)の内容をそのまま使っている。軽水炉の導入当初から日本の安全基準は、ASMEに断りもなく内容を丸々勝手にコピーして、通産省の名前で発行するという、恥も外聞も無い代物であったという。

80年代になると、日本側も流石にASMEの許可だけは一応はもらってはいたようであるが、中身を全く変えないままで使うのは、相変わらずであった。福島事故の最大の原因は、フクイチの設計基準がアメリカそのままであったため、非常停止用ディーゼル発電機が津波で全て流されるという、全くアホらしい理由であったのは、ここで説明するまでもない。日本の技術者達が自分の頭で考えることを避けてきたことが災いしたのだと断言できる。

軽水炉の安全基準を独自に作り上げる気風が、もしも日本の「原子力ムラ」にあったならば、軽水炉の抱える技術問題を洗い出すことで、福島事故を防げた可能性は大いにあると、私は思っている。ならば日本で、アメリカのサルマネでない、独自の安全基準を作るには、一体どうすればよかったのであろうか?

安全基準を新たに作るのは実は非常に簡単で、内容を紙に書いて「これが安全基準です」と決めてしまえば、それで終わる。ただし、そこに書かれた技術内容が、実際に正しく発電プラントで作用しなければ、当たり前だがその基準は全く意味をなさない。また、安全基準の内容を日本で変更するからには、変更によって発電設備に新たな不具合が起こらないことを、十分に確認しておかねばならない。たかが紙切れの(今では電子化されているだろうが・・・・)文言を修正するだけでも、非常に高い技術力、判断力と多くのデータの蓄積が必要になるのである。

さて、アメリカに無い新しい安全基準を日本で加えるとなると、これまでのようにASMEの規格を丸々パクることは出来ないので、新たな基準の妥当性を日本人が自力で証明しなければならない。必要となると、実験を行って新たにデータを取ることになる。しかし研究施設による実験では、限定された環境でのデータしか得ることが出来ないので、実際の軽水炉での有効性には疑問が残る。日本の技術レベルが非常に高く、「ラボのデータでも、実機軽水炉で全く同様に再現できます」と、力強く言えるならば問題ないのだが、多分無理であろう。ならばどうするか?最後は、実際の軽水炉を用いた安全基準の確認が不可欠であるのだ。

ただしである。日本にある軽水炉は全て電力会社の所有物であり、実際に発電を行って「消費者に電気を売る」ための機械である。日本では、民間企業が所有する商業設備を用いて「実験」を行わないと、独自の安全基準は確認ができない、ということになる。しかし、発電用の軽水炉は運転コストの削減や安全確保のために、一旦稼働させると次回の定期点検を迎えるまでの、最低1年間は停止することは出来ない。「実験」を開始してもデータが取れるまで1年以上かかることも覚悟しなければならない。さらには電力会社においても、自分たちのプラントで「実験」をおこなって、万が一にも不具合が生じた場合は大事(おおごと)になるため、協力には後ろ向きにならざるを得ない。

ならばどうするか。私が考えて出した答えは、「安全技術を確立するための、試験目的専用の軽水炉を持てばよい」であった。電力会社とは別に、国が管理する軽水炉を作って、そこでやりたい放題実験をやれば良いではないか、と私は思った。別に私でなくても、誰でも普通に考えることであろうが。

ところが日本には電力会社以外にも、政府が管理する軽水炉が実は存在していたのである。それが東海村原研に造られたJPDRであった。JPDRというBWR型軽水炉が電力会社に先駆けて原研に導入されて、発電に成功した日が記念日とされたことを知った時には、「ああ、日本の原子力の先達者達も馬鹿では無かったのだ」と、嬉しかったことを憶えている。

先に引用した島村武久の発言にも、JPDRを導入する目的の中に「各種の実験、試験をこの動力炉によりまして行ない、その特性を把握することができるということ、(中略)いろいろな国産部品の特性試験、寿命試験等を行ないますためには、このような炉が必要である」という内容がある。軽水炉で起きる様々な現象をよく理解して、国産部品の開発を含めた日本独自の技術開発に役立てることが、JPDRの重要な目的であることを島村は明言している。

そのJPDRであるが、63年10月に発電試験に成功してから数年の間は順調に運転をおこなっていた。しかし、70年代に熱出力を倍増したJPDR-Ⅱという型式に改造された後には、トラブルが相次ぐようになり、まともに稼働することが出来なくなった。70年代の半ばには遂に、JPDRは廃炉となることが決められて、廃炉技術(デコミッション)のモデルケースとして、80年代に解体されてしまったという。JPDRがあった跡は、今では何もない更地にされてしまっている。

一体これはどういうことなのであろうか?軽水炉の独自技術を日本で蓄積して、安全技術を確立する上で必須であったはずのJPDRが、本来の役割を果たすことなく、このようなあえない最後をどうして迎えることになってしまったのだろうか。私にはまったく理解できない大きな謎であった。

3.11福島事故の後で私が改めて調べて見えてきたのは、原研へのJPDR導入が労働紛争の舞台となってしまった事実であった。この1963~64年に東海村原研で起きたJPDR導入にまつわる労働争議は、大きな問題として国会で取り上げられた。そして、当時の理事長を始めとする原研の幹部は軒並み更迭させられた後に、原研の中の高速増殖炉の開発グループが動力炉・核燃料サイクル事業団(動燃)として、別途分離されるという、大規模な組織替えに繋がることになる。

この時に原研の理事長として、問題の責任を一身に浴びて辞任に追い込まれたのが、あの菊池正士であった。55年に東大に設立された原子核研究所の初代所長に就任した菊池は、59年にその職を外れて原研の理事長と東海研究所長を兼任する重責を務めていた。原研時代の菊池の最大のミッションが、JPDRの導入と立上げであった。しかしJPDR導入を進める菊池の行く手には、あまりにも理不尽すぎる運命が待ち受けていたのだった。

(ちなみにこの第3章の内容は、ferreira(フェレイラ)というHNの方が発表されている「負ケラレマセン勝ツマデハ」というブログを参考にしている。フェレイラ氏は原子力業界の事情に大変詳しい方で、私は彼から多くの事を学ぶことができた)


(つづく)

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