「1476」番   文学とは何か の 2 。 日本文学とは何か 論。 を 載せます。 副島隆彦 2014.9.6
副島隆彦です。  今日は、2014年9月6日です。

 「1470」番の 文学とは何か、の 続きの話をします。
お約束したとおり、 文学とは一体何なのか、の続きです。  今日は、前回が、西洋文学(世界文学)の代表である フランス文学の、その中のフランス詩人の アルチュール・ランボー の 詩を取り上げて、彼は、ヨーロッパの中心であった、大都パリの、1871年の 政治事件である パリ・コンミューンの革命(民衆暴動)を描いたのだ、そして歴史の舞台から去って行ったのだ、と、という話をしました。

 今日は、 それでは、日本文学とは何か。を話します。大きく、日本文学とは、それで何なのか、一体どういうものなのか、の説明をします。 大きな話をしないと、物事(ものごと )は、大きく理解できない。大きく理解できないことは、チマチマといくら小さな理解を持っても、それでは、私たちの人生を貫く大切な知恵にはならない。

 文学とは何か、という問題で、じゃあ日本の文学って何ですかといったら、一言で言うと、恐らく紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』なんですよ。ものごとは一言で言い切らなければいけない。私は、物事ものごと、ドイツ語でザッへ、事象)の中心にあるものをまず一言で言うことが大事だといつも思っています。



 日本文学を、一言で言うとすれば、私たち日本人は、こう思っている。それじゃ、『源氏物語』をみんな読んだのかと言うと、読んでないんですよ、みんな。ほとんどの人が読んでいない。 私は知識人だから、与謝野晶子(よさのあきこ)訳で読みました。ただし、57帖(じょう)の全てではない。半分ぐらいだ。そのとき私は18歳だった。

 みんな、普通の日本人だったら高校の国語の、さらに古文(こぶん)の授業で習ったんだ。教科書にその一部が載っていた。その一部分の 文 は記憶がある。 若紫(わかむらさき)の巻か、桐壷更衣(きりつぼこうい)のところ辺(あたり)だ。あるいは、光源氏(ひかるげんじ)が、須磨(すま)明石(あかし)に流されたときの巻とか。他に、吉屋信子訳とか瀬戸内晴美訳とか、女流文学者たちが、自分の箔付けと商売でやったものものある。それ以外に、国文学者の 池田亀鑑(いけだきかん)たちの訳と解説がある。今日は、それらの個別の内容は話さない。

 大事なことは、日本文学とは何かというと「源氏物語」を中心にする、ということと、それらの日本の中世の文学作品で主要なものは、全て 実は、紀元(西暦)1008年に成立している、ということだ。 この事実が重い。ものすごく重い。

  日本文学は、紀元(西暦)1008年に成立して、そしてその頂点を突いている。少なくとも、外国人の日本研究者たちはそのように冷静に見る。 歴史年表にもこの、1008年が、「源氏物語の完成の年」と一行だけ書いている。

 どういう訳か、西暦1003年から1008年に日本の王朝文学(おうちょうぶんがく)と呼ばれる、女流文学がここらで成立している。 平安時代の日本文学と呼ばれているものの最高の作品は、みんなこの年に成立しているのだ。本当ですよ。 この1003年から1008年に一体、日本国に何が起きていたのか。このことを私、副島隆彦は真剣に考えた。そして分かった。

 この1003年に『源氏物語』が書かれて、爆発的に読まれている。それからこの同じ年に、『和泉式部(いずみしきぶ)日記』も書かれている。 これと、ほとんど一緒で何年も違わない感じで、清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』もほとんど同じときに書かれている。それから当然、『紫式部日記』とか、ああいう日記文学も出てくる。成立は、もほとんど一緒だ。『拾遺和歌集』も一緒だ。あと何だろうか・・・・。









 だから、日本で “ 愛の文学 ” が成立したのは西暦1003年だ。あんまりこのことは、文学部の国文学の教授たちは言わない。このことの重要性を分かっていない。では、『源氏物語』とは何かというと、あそこに出てくる光源氏とか桐壺更衣とか若紫とか、あれは何かというと、藤原道長(ふじわらのみちなが)の話なんですよ。

 光源氏(ひかりげんじ)というのは藤原道長(ふじわらのみちなが、 966-1027)のことなんですよ。彼が光源氏のモデルだ 。 だから、当時、実際に生きていた最高権力者の男の物語であり、彼の人生をスキャンダラスに描いた、ゾクゾクするほどの同時代小説だ。だから、貴族たちの世界で先を争うように需要(所望、求められて)されて、食い入るように、密かに、ひそひそと読まれた。

・藤原道長

(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/藤原道長

 藤原道長が、彼の人生で最高の年、絶頂期 が、おそらくこの年からであり、この時、西暦1003年で、37歳だ。 彼が詠(よ)んだ、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば 」という有名な歌があるでしょう。 藤原氏( 外戚として歴代の天皇を操(あやつ)った藤原貴族摂関家、せっかんけ)が最高に栄えたときだ。 そしてそのピークを迎えたのが、1008年だ。このとき道長は、42歳だ。彼は、1027年に62歳で死んでいる。最後の10年は出家して権力を手放した。

 なぜ、すべてが1003年なのか。ここに日本文学を語る上での巨大な秘密がある。 そうすると、この謎解きは、日本国民とは何か、私たち日本人とは何者か、という、大きな問題の説明にもなるだろう。

 作者の紫式部( 978-1016)は、中宮彰子(ちゅうぐう・しょうし)ではなくて、皇后定子(こうごう・ていし)という皇后に仕えた。お側に侍(じ)した。皇后陛下のお抱えの女流文学者だった。それに対して、中宮定子(ちゅうぐう・ていし)に仕えたのが清少納言(生没不詳。おそらく990年から994年まで 定子に仕えたことだけはっきりしている)だ。 

 中宮と皇后では、皇后のほうが上だろうか、どちらも正式の天皇の奥さまだ。時の一条天皇(いちじょうてんのう)は、この事実を指してふたり皇后がいたとも言われる。  この他の、妾(そばめ)愛妾(あいしょう)も、女御(にょうご)とか、いろいろの女の官職がある。武家(ぶけ)で言えば、お局(つぼね)さまだ。東アジア(中国や朝鮮の 制度では、総じて、伎女(きじょ)という。下に下(くだ)れば、愛妾(あいしょう)であり、売春婦である。

 だから、紫式部と清少納言のふたりは、同じ時期に、同じ宮中にいた。京都の御所(ごしょ)の中にいた。御所の中の、清涼殿(せいりょうでん)と、紫宸殿(ししんでん)とか、完全に中国式の宮中の体制があって、その一部の北の方に、女たちが暮らしている場所がある。 世界基準では、それは後宮(こうきゅう、ハーレム)である。

・源氏物語の京都御所・内裏の図

(参照:和子/源氏物語

 男たちは、よっぽどの者しか入れない。宦官(かんがん、ユーナック)たちはここにいる。去勢しているから男扱いにならない。日本には、宦官の伝統が本当に無いのか、私は、まだ調べたことはない。武家では、大奥(おおおく)である。江戸城であれば、本丸(将軍の座所)、西の丸(引退した将軍の座所、どちらも跡地がある)の北の湯に、北の丸があって、そこが女たちの居た大奥の場所だ。今の北の丸公園で武道館がある。

 京都の朝廷の中で、女たちの住む場所は、どれぐらいの広さあったか、正確には知らないが、人間関係で言えば、狭い世界だから下女(げじょ、奴婢、はしため)まで入れても、1000人か2000人ぐらいの世界だろう。そこでなぜ、突如、のちに王朝文学(おうちょうぶんがく)と呼ばれる 女流の日本文学が生まれて、すぐに完成したのか。この話をしなきゃいけない。

 それより100年ぐらい前に、紀貫之(きのつらゆき、868-946)の『土佐日記(とさにっき)』や、『竹取物語』、『今昔(こんじゃく)物語(集)』が成立している。これは男たちが書いている。あと『伊勢(いせ)物語』というのも成立している。 これは、在原業平(ありわらになりひら)という実在の知識人貴族が主人公(モデル)だ。東下り(あずまくだり)と行って、彼は、本当に今の東京の隅田川のあたりまで船で来ている。これらの話は今日はしません。

 で、文学とは何かと一言で言うと、やっぱり、前回同様、男と女の愛の物語なんですよ。愛の物語って何かというと、もうとにかく、死ぬほど男と女が愛し合う話だ。 あるいは、そに第三者が現れて、それに邪魔されて、三角関係とか、四角関係の複雑な話になって、運命的な愛とか、その男女の愛が引き裂かれるとかする。奪ったり、奪い取られたりする、離れ離れになったりする話ですね。それだけのことだ。皆、知っているとおり。

 微視的(びしてき)には、今の私たちたちも、これと同じこをとやっている。とりわけ女たちは、この愛の物語が大好きだ。男女の三角関係で、グチャグチャになるやつだ。それに時代背景とか、事件とかが絡(から)まって、人が死んだり、殺されてリする。 人間がやることは、古今東西(ここんとうざい)変わらない。

 それで、ではなぜ、『源氏物語』や『和泉式部日記』、『和泉式部日記』それから清少納言の『枕草子』が全く同じ時に成立したのか。

 この『枕草子』と、同じ随筆文の双璧(そうへき)を為す『徒然草(つれづれぐさ)』は、1300年代の中頃、1340年頃に書かれている。だから、300年、後(あと)だ。こっちは、枯れ果てた、じいさんの文章ですからね。吉田兼好(よしだけんんこう、1283-1350)あるいは、卜部(うらべ)兼好(かねよし)という隠者(いんじゃ)になった、元(もと)武士の男がいて、彼が書いた。

・吉田兼好

(菊池容斎・画、江戸時代)

 おそらく、吉田兼好 (後年、出家して兼好法師)は、伊勢神道や朝廷の神祇官(しんぎかん)と争った、吉田神社(よしだじんじゃ、吉田神道、吉田兼倶=かねとも=が大成者) の系統の、占(うらな)い師・呪(まじな)い師だったろう。この時代は、もう室町時代で、足利氏の時代だ。

 「源氏物語」たちは、西洋の文学と共通していて、男と女の愛の物語だ。 もうそれだけだ。 どういうことかというと、当時の人々というか、貴族さまたちは、死ぬほど男と女の恋愛小説を読みたかったんですよ、みんな。 今では恋愛小説がそこらじゅうにあるけど、当時はそんなものは無かった。あからさまに男女の交情、情交を描いた小説など無かった。しかも、当て擦(こす)りで、時の権力者だった藤原の道長のことを、彼の行動を、逐一、細かく、どの女のところに出かけた、とか、仮名で書いている。 それは、それは、面白かったでしょう。

 だから、当時の貴族たちは、この桐壷更衣とは誰で、若紫(わかむらさき)とは、誰かを、知っていた。空想の空想など、この世には、存在しない。 すべて 実在の人物が、擬(なぞら)えられている。のちに、後世に、すばらしい文学作品の大作、と言って持て囃(はや)されるものの、ほとんどが、書かれた時には、事実の話であり、実在した人間たちの世界なのだ。

 今は、こんな 恋愛小説なんで、誰も読みたくもない、そんなもの。今は、ゲーム、アニメ、オタクですからね。中年の女たちまでが、電車の中で、スマホで、ゲームをやって、脳の疲れをとっている。

 何がすごいことかというと、例えばヨーロッパのイタリアで、丁度、1300年ぐらいにダンテという男がいた。このダンテ・アリギエーリ(1265-1321) というのがものすごい人なんですよ。

・ダンテ・アリギエーリ

(サンドロ・ボッティチェッリによる肖像画(1495年))

こいつが、後に年とってから、『ディヴィーナ・コメディア( 英語読みなら ディバイン・コメディー)』( 1304-1320 に完成)を書いた。この本は、普通は、『神曲』と訳されて、大きく誤魔化されているが、本当は、「神聖なふりをした喜劇」というで、このような意味だ。

 これを『神曲(しんきょく)』と訳すからおかしくなる。日本人で、このダンテの『神聖なふりをした喜劇』をまともに読んだ人はほとんどいない。理解できない。いや、理解させないように、大きな策略でさせられている。ここにも、人類史レベルの大きな秘密がある。

 ダンテは、ものすごく激しい憎しみを込めて、当時、自分が生きた時代前後の、歴代ローマ法王( 教皇、Pope ポープ。パパ) たちが、どんなに汚れまくった人間たちであるかを、この本で赤裸々に描いたのだ。これでもか、これでもかと、実名を上げて、ローマ法王たちの悪行を暴いて、呪っている。

 法王というのは、最高位の僧侶のくせに、隠れて愛人に子供を産ませた、ろくでもないローマ法王たちがいっぱいいた。彼らは、腐敗の限りを尽くしていた。 実は、今も、裏側ではそうなのだ。これを言うことは、西洋白人世界では、今でも、強い禁忌(タブー)である。アメリカのハーヴァード大学の教授たちでもローマ教会の批判はほとんどしない。 ダンテは、そういう真実の話をずっと詩にして、書いて、そして後世に残したのだ。だから偉大なのだ。このことが日本人の知識層が全く分かっていない。

 この『デヴィーナ・コメディア』 ” Divina Commedia ,1304-1320 "は、 「地獄編」” Inferno ” インフェルノ  、「煉獄篇」” Purgatrio ” プルガトリオ 、「天国篇」” Paradiso ” パラディソ   から成る。
 
 ダンテは、40歳になって(1304年から)、政治的に失脚して、追放されて、フィレンツェの都市に入れなくされて、ずっと生きた。 彼は、その前は、そのずば抜けて優秀な頭脳を人々に認められて、フィレンツエの都市の行政長官(プリオーレ、Priore)までしていた立派な政治指導者だった。

 1301年に、法王と政敵たちの謀略で 敗北した。だから、ダンテは、そういう激しいローマン・カソリック批判をやっている。何と、この14世紀の初めという時代に。 坊主たち、僧侶たちというのがどんなに許しがたい人間たちかということを書いている。彼らは、言ってることとやってることが違うんだ、と。隠し子をたくさんつくって、汚れた金をいっぱい受け取っている、と。

 ところが、ダンテが、世の中でものすごく評判をとって、おおいに受けしたのは、彼がまだ若い、28歳の時だ。

ダンテは、この1293年に、「新生(新しき生)」という、“La Vita Nuova , 1293 “ 「ラ・ヴィータ・ヌオヴァ」 という 詩集(文学書)を、出した。これが、一世を風靡(ふうび)した。当時のフィレンツェは、ヨーロッパ最大の都市だった。だからこれが、皆に広まって、ヨーロッパ中で読まれた、と言ってもいい。    この詩集が、このあと150年後のルネサンス( リナシメント)運動の強烈な政治運動、文芸復興の運動の魁(さきがけ)だ。

 ダンテは、ベアトリーチェという美しい女性(初めは少女、当たり前だが)との愛の物語を書いたからなんですよ。それが、フィレンツェの都市や他でも爆発的に人気が出て、まず、都市の女の人たちが、うわっーと読んだんですよ。ついでにその恋人や旦那たちまで一生懸命読んだんです。そのときの人々の熱狂的はものすごかったと思いますよ。この愛の物語というのは、詩集なんだけどもね。韻文(いんぶん)ですから、韻を踏んでいるすばらしい詩集だ。

 その後、ダンテは、前述したとおり政治家になって、激しい政治闘争の中で追放処分になって、フィレンツェに入ることが出来なくされて、周りの田舎の町をうろうろしながら、残りの20年を生きて、そしてその間に、前述したディバイン・コメディー「神聖を装う喜劇」を書いて56歳で死んでいった。

 その120年後ぐらいに、同じフィレンツエで、ルネサンス運動が湧き起きるけど、これも、その一側面は、愛の物語の大流行なんですよ。 当時の多くの知識人や、思想家や、詩人たちが出現して、愛の歌を歌う。それを、ネオプラトニズム(新プラトン主義)という。 それらの愛の文学が、当時のヨーロッパで爆発的に受け容れられた。これが文学だ。

 ずっと後には、同じように、ゲーテが1700年代。

・ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

※ゲーテ。70歳の時の肖像。(1828年)

その前に、モーツアルトが、偉大な闘いをやっている。「フィガロの結婚」や、「セビリアの理髪師」や、「ドン・ジョバンニ」や、「魔笛」のオペラで、激しく、貴族制度や、ローマ法王や僧侶たち(自分の故郷のザルツブルグのコロレド伯爵=大司教でもあった、と憎しみ合いになる)を徹底的に、風刺して、嘲(あざけ)った。

・W・A・モーツァルト

※バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年。モーツァルトの死後に想像で描かれた)

 モーツアルトは真に偉大だった。そして、38歳で、演劇音楽の芸術の形を借りた政治闘争の中で、斃(たお)れていった。その時、1791年だから、すでに1789年からパリでは大革命 が起きていた。 モーツアルトが、人類の最高の人間のひとりのはずなのだ。 モーツアルトは、ローマ・カトリックの坊主たちと闘ったのだ。そして、その前に、当然、偉大なる ミケランジェロがいる。 



 これらの話を、私、副島隆彦は、『隠されたヨーロッパの血の歴史』(KKベストセラーズ、2012年11月)に書いた。

・『隠されたヨーロッパの血の歴史』


この本は、おそらく私が死んだ後、高く評価されて残ってゆくだろう。今は、相当な副島隆彦読者でも、その重要な意味を理解できる人はあまりいない。それは、そのはずで、おそらく、この系譜につながる、西暦1900年に死んだニーチェの思想の意味を、日本人で、本当に理解したのは、ようやく、私、副島隆彦が初めてだろう。
この本の真価を、私が死んだ後、人々が語り出すだろう。

・フリードリヒ・ニーチェ


 ゲーテはナポレオンに会っている。ナポレオンの方から、会いに行ったのだ。

・ナポレオン・ボナパルト


ゲーテは、1774年に『若きウェルテルの悩み』とかを書いたときに、やっぱり爆発的に人気が出た。何がすごいかって、失恋して自殺する青年の、女性への愛の物語だからですよ。

 それから、ゲーテの大作『ファウスト』(これは、全体が長すぎて意味不明になった)には、グレートヒェンという女が出てきて、自分がグレートヒェンという女を捨てて、彼女が地獄に落ちたとか、そういう愛のドラマだ。これがすごいことだった。さっきの、ダンテの「ラ・ヴィータ・ヌオヴァ(新生)」のベアトリーチェの話と同じように、当時の大繁栄のワイマールとかを中心にして、全ヨーロッパでものすごい評判をとった。

 だから、前回、話した、ヴィクトル・ユゴーだって、17、18や20歳ぐらいで愛の詩集を書いて大ヒットしている。これで、わあっと人々に受けちゃってるんですよ。人々と言っても、字(本)が読める読書人階級、上流階級のヨーロッパ人たちにだが。 

 いわゆるロマン派知識人とかロマン派詩人というのもそうやって出現した。後のバイロンやシラーたちだ。だから、日本でも、明治になって与謝野鉄幹(よさのてっかん)、晶子(あきこ)なんていうのも、アララギ派なんかがあらわれる前に、出てきたロマン派(日本浪漫派=にっぽんろうまんは=)と言われる。

・与謝野鉄幹


・与謝野晶子


 これを下品にしてゆくと、男と女の不倫(ふりん)の話になってしまう。不倫そのものが死ぬほど好きだったわけで、みんな。大正時代も、昭和になっても。もうとにかく芸能人という人種がまだいませんから。新劇(しんげき)の松井須磨子(まついすまこ)が男との愛情のことで自殺したとかで大騒ぎになった。当時は、團十郎とかの歌舞伎役者ぐらいしかまだ居なかった。

 テレビ、ラジオ(これはこのあとすぐに現れる)も映画も、何もないんだから。そうすると知識人、文学者と言われる連中が、男と女の三角関係のぐじゃぐじゃのドラマをやった。そのころまだ姦通罪(かんつうざざい)というのがあって(1947年に廃止)、これは刑法犯ですから、捕まっちゃうんですよ。逮捕されて裁判に掛けられる。

 たとえば、佐藤春夫(さとうはるお)と谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の、契約による奥さんとっかえ事件( 「細君譲渡事件」 )とか。あと、平塚らいてうと森田草平(もりたそうへい。夏目漱石の弟子で威張っていた)が、「塩原事件」の心中(しんじゅう)未遂で騒がれた。

・佐藤春夫


・谷崎潤一郎


・平塚らいてう


・森田草平


 男と女の肉体関係を交えた、スキャンダラスな関係を結んだということで、神近市子(かみちかいちこ)の「日陰茶屋(ひかげのちゃや)事件」とか、ものすごく騒がれたんですよ、日本でも。

・神近市子


それが、「日本近代文学史」というものの、本当の姿だ。伊藤製(いとうせい)という学者がずっと書いている。 皆、そのように習っていないだけだ。夏目漱石の、朝日新聞の当時の連載小説でも、本当は、上品に書かれた、当時の最先端の 恋愛小説だ。

 与謝野晶子の「柔肌(やわはだ)の 熱き血潮に 触れもみで 悲しからずや 道を説く君 」とかというような、ああいう歌( 和歌)が当時、ものすごく受けたんですよ。それだけのことなんだ、文学というのは。もう死ぬほど好きなんだから、みんな、愛と恋の物語が。そんな馬鹿なって皆さん思うだろうけどもね、どこの国でもそうなんですよ。

 和歌の会 というのは、明治、大正の 両家の子女たちにとっての、高級な恋愛の場所だった。頭のよい優れた男たちとの出会いの場だった。 今、NHKの朝の連ドラ でやっている、「赤毛のアン」を訳した村岡花子の
親友の 柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)という 華族の出の 女性の 激しい生き方も、そういう和歌の会という場所で、起きている。 宮崎滔天(みやざきとうてん)という 中国革命を支援した 壮士(そうし)の長男のル龍介と、白蓮は、激しい恋の後、戦争時代も、戦後も、反戦と 平和のための 苦難の努力を続けた。
 
 で、それで、ですね。 何で日本で、西暦1008年に、このときはまだ、藤原氏が権力を握り締めていて、天皇(本当は、御門=みかど= とか、お上=かみ= 、すめらぎ と言った。テンノーなんてコトバは、明治時代まで無い。使われてない) を、ないがしろにして、結婚、縁戚、閨閥(けいばつ)で、藤原氏が、宮中(=朝廷)をがんじがらめにしていた。

 まだ武士(ぶし)という連中が出てきて間(ま)がない。律令制(りつりょうせい)を自分たちが内側から掘り崩した、荘園制度で、藤原家が天皇たちをあやつって(どうせ、自分の子供や孫だから)、荘園からの上がりで、京都で貴族たちが優雅で豪勢な暮らしをしていた。 受領(ずりょう)層と、新興の地頭(じとう)層(これが武家にんる)争いが始まっていた。 

 その頃の、都の貴族たちの総数は、まあ1万人が限度だろうけどね。それ以上の貴族階級を養うだけの経済力(京都に貢物、租・庸・調を収めさせ、集める力 )が 日本にはない。この人たちの中で文学なるものが、成立したんですよ。
 
 何で1003年に一気に出現したかというと、実は、それは後で、証拠を挙げますけれども、どうやら、この『源氏物語』とかを、書き写す係の職業の人たちがいた。彼ら清書、浄書を専門職とする者たちが必要に応じて出現していた。 きれいな字でさらさらっと書いていくわけですね。それをひとりで、恐らく10巻、20巻分、書いているんだと思う。

 それらを、当時の立派な紙に書いて、ご贈答品用に箱詰めにして、どうやら、それを貴族同士で贈り物として贈りっこしたんですよ。当時は大変なすばらしい贈り物だったろう。それらの書き写された物語が、あちこちに遺って伝わっている。たいていは、古い大きな寺院の書庫に残された。

 何で 『源氏物語』がすばらしい贈り物だったかというと、仏教の坊主たちが厳しく監視しているわけですね。そんな恋愛小説などという、エロ小説を読むのはけしからん、罷(まか)りならぬ、と。当時は、貴族の男たちは、そのまま官僚( 殿上人、てんじょうびと)ですからね。 

 中国から齎(もたら)された漢文の、漢籍(かんせき)のむずかしい文章を読まなければいけない。それから、仏教の坊主たちが教える、仏典を読まされて、坊主たちの話を聞かなきゃいけない。それが、死ぬほど嫌(いや)だった。 クソ面白くもない仏典とか、漢籍(中国語で書かれた歴史書や儒教の本など)を強制的に読まされた。それがほんとに大変なことだった。もう嫌で嫌でしょうがなかった。長々と意味不明のお経(きょう)を何時間も聞かされる。なんとかの法要(ほうよう)とか儀式と言っては、それに参加して畏(かしこ)まっていなければいけなかった。

 あと儒教だ。儒教の教えを、漢文で読まされるんだ、男たちは。 そういうわけで、もうほとほと嫌になっちゃっていたと、私、副島隆彦は、強く想像する。そういうむずかしいのを読まされること自体に、男たちも飽(あ)き果てていたんですよ。

 だから愛の物語に走った。他にはないんですから。『源氏物語』のような、男と女の愛の物語なんていうのは、その当時、ない。そういう楽しみ事なんかないわけで。しかも、この主人公の光源氏(ひかるげんじ)は、自分たちの上にいる、現職の最高権力者である藤原道長なのだから、ドキドキして興奮したに決まっている。

 当時の これらの、ほとんどが、女のひらがな文字で書かれた 草子(草紙)や、物語と呼ばれる世界であり、それでも、抽象観念であり、書かれた文字の、言葉だけででき上がっている。それを読むことは、人間の脳の重要な作用である。字が読める人と、読めない人とでは、天地の違いがある。文盲(もんもう)というコトバは、今は、もうほとんど死語(オブソリート)だが、字が(本が)読めて、それで楽しい、ということは大変なことだったのだ。今でも、そうだ。

 こうして、副島隆彦の文を味わって読める、という人々は、今の日本では、最高級の読書人階級に属します。そのように私が保証します。この「学問道場のサイト」に集まってくる人は、日本の読書人階級(ブック・リーディング・クラス)の人々だ。 副島隆彦の本を、なんとか読んで、「こいつは、おもしれーなあ。本当の、ホントのことを書いているよ」という人間たちの集まりだ。このことを、私、副島隆彦は、十々知っていて、このことを最重要視している。

 京都の貴族たち(公家)にとっても、そういう物語を読むことが、密かな、最高級の楽しみだったんですね。このことがわからなきゃいけないんだ。人間の脳にとって、文を読んで観念、抽象(ちゅうしょう)として、世界を理解する、ということは最高の喜びなのである。

 だから、これらの女流文学の、手弱女(たおやめ)ぶり、と呼ばれて、表面上は、「頭の軽い、馬鹿な女(おなご)たちの、慰(なぐさ)みものだ」と軽視しながら、ところが、それに皆で隠れて熱中した。だから高価なご贈答品として、みんなで書き写しちゃあ、回し読みしてたんですよ。

 1200年代の終わりのダンテの頃は、いくらヨーロッパの先進地域でも、まだ印刷技術がないですから。活版(かっぱん)印刷はない。だから、やっぱり羊皮紙(ようひし)に書き写したのがいっぱい出回ったんでしょうね。1400年代のルネサンスのころになると、どうも初期の活版印刷のようなものが出現している。グーテンベルグの印刷は、それからもう少しあとの、1500年代だ。

 ルネサンスは、プラトン主義者たちの思想運動ですから、プラトンのプラトニック・ラブの、すなわち、愛の世界を一生懸命歌い上げた詩集とか文学作品の初期のやつをみんなが読んだ。 そこからもう100年もしないで、1517年のマルティン・ルターの宗教改革(リフォーメイション)のプロテスタント(抗議する者たち)の、ローマン・カトリックに対する激しい闘い、そして戦いが始まった。

 このときには、もう(ヨハネス・)グーテンベルクの活版印刷があるわけですね。それで、わあっと爆発的にルター版のラテン語からの翻訳の聖書が、出て数十万部、いや、数百万部が出版されただろう。ヨーロッパ人は、目覚めた。 同じく、やがて、カルヴァンが、ジュネーブを神聖都市というカルヴァン派の牙城に変えて(これが問題だ。ここが、ヨーロッパ・ファシズムの始まりだ)、カルヴァンが、フランス語訳の聖書を出す。これも人々がむさぼり読んだ。

 それまでは、「聖書」をずっとカトリックの坊主たちが、読ませないようにしてきた。
この隠されてきた「聖書」の他に、やはり、愛と恋の物語 をみんなが死ぬほど欲しがっただろう。
 そのことをわからなきゃいけないと私は思います。それが文学というものなんですよ。だからヴィクトル・ユゴーの話を、もう繰り返してもしょうがないですが、みんなロマン派文学者というのは、愛と恋の歌で盛り上がったということだ。ところがランボーぐらいになると、きわめて政治的な詩ですね。ただの愛の歌では、もう済まなくなった。世の中の人々が我慢しなくなった。
 
 だから、非常に激しい詩になっていった、1870年ぐらいになるとね。そこが文学自身が成長していって変わっていったというふうに考えるべきだ。これ以上は、今日は、「政治と文学」の話はしません。 その前は、愛と恋の物語がそれぐらい爆発的に売れたんですよ、どこの国でも。
 
 『アベラールとエロイーズ』という物語があります、フランスで。11世紀の人です。アベラールは、パリ大学の前身であるソルボンヌ(という修道院運動)をつくったお坊様なんだけど。ソルボンヌは、今は、確か、パリダイ大学(文学部)になっていると思います。 『アベラールとエロイーズ』の、 このアベラール(1079-1142、 Abelard , Abaelardus ラテン名はアベラルドゥス)という若いお坊さま(神学者でもある)が、エロイーズという尼さんに恋い焦がれた。

・『アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡』


 そして 掟(おきて)というか、戒(いまし)めというか、戒律(かいりつ)を破って、2人で愛し合って、逃げてしまうわけですね。そしてその後(あと)を、エロイーズの家族(兄弟たち)が追いかけてきて、アベラールを捕まえる。そして、アベラールの金玉を切っちゃうんですよ。 「おまえは私たちの大事な妹である、清純な尼さんをかどわかした」といって。これが、当時、大変なスキャンダルになったんだ。

 と同時に、死ぬほど周りの人たちが、この話に恋い焦がれたんですよ。それが今のパリ大学のというものなの。ソルボンヌというのは、ね。そういう話なんですよ。だから、ソルボンヌの修道院が、そのあと、フランス人の自由の精神を守る拠り所になった。 今は、ソルボンヌは、パリ第7大学と呼ばれて、文学部のことだ。その建物だ。第八大学が、法学部だと思う。逆かもしれない。

 このアベラールとエロイーズの事件を中心に、フランス人は、当時おおいに盛り上がったんですよ。当時のフランス人には、イタリアのローマに、カトリック教の総本山(バチカン)があることが気にいらない、ということもある。 アベラール(アベラルドス)は、神学者として、唯名論(ゆいめいろん、ノミナリスト)という思想系譜の初期の人だ。

 ドゥンス・ソコトゥス というのが、”ノミナリストの暁将(ぎょいしょう、戦闘隊長)”と、呼ばれて、
リアリスト(実念論者)という体制保守派の ローマ教会の残酷な神学者たちと争った。 「スンマ・テオロジカ」
『 神学大全 』 を書いた、トマス・アクィナス。あの男たちが、体制保守派で、宗教裁判で、多くの自由思想を求める、あるいは、宗教の自由を求める人々を、異端裁判にかけて、焼き殺した。それが、10、11、12、13、14、15、16世紀の、中世のヨーロッパだ。

 「アベラールとエロイーズ」事件から、フランスでの 自由恋愛の思想の始まりが、この12世紀の「アベラールとエロイーズ」の話なのです。そうなんだよ。男と女の愛の行為なんて、自由にやらせればいいんですよ。

 今の、一夫一婦制の強制、というのも、本当におかしい。男たちだけでなく、女たちも困り果てている。それが今の人間社会の地獄の一つを作っている。やっぱり元凶は、この一夫一婦制の制度(法律による)強制を作った、ローマ・カトリック教会の策謀だ。 それで、世界中の人々を苦しめている。

 そしてカトリックの坊主(僧侶、神父)たち自身が、性欲の禁止、抑圧で、同性愛や、異常小児性愛(ペドフィリア)に走ったりして、おかしくなっている。この巨大な偽善(ヒポクリシー)との闘いもまた、私、副島隆彦は、日本という持ち場でも始めなければいけない、と思う。

 アベラールとエロイースは、ふたりが死んだあと、パラクレトゥス修道院に合葬されることで(1260年)、2人の愛の世界は成就したんですね。

 これもそれが近代文学というか、要するに愛と恋の物語なんですよ。わかったかね。ということで終わりにします。

副島隆彦です。 こいや、これで終わり、ではなかった。そういうわけにはゆかないのだ。もっと続けます。

 なぜ日本で、女流文学のかたちで、西暦1003年に、一斉に作品が花開いたか。それは、 私の発見になるのだろうが、「源氏物語」 について あの 八切止夫(やぎりとめお)  氏が、重要な事を書いて遺(のこ)してくれていたからだ。 

・八切止夫(1914-87)
八切とめお

 私が、鬼才・八切止夫氏が書いた文章を発見しました。それを、私が、かなり手を知れて、余計な部分を削り落として、文章を短くした。それを以下に載せます。

 以下の文は、八切止夫(やぎりとめお) の 『日本の特殊部落発生史』という今では、あまり手に入らない奇観本(きかんほん)の中の文章です。 これは、本当に重要だ。今日は、私、副島隆彦は、この八切止夫の文章を、分かり易(やす)く、読み易(やす)くして載せるだけにして、皆さんに、うーん、なるほど、そういうことだったのか、と 深く納得していただきたい。


(ここから 転載。  八切止夫 著 の 『日本の特殊部落発生史』 からの 文 )

 ・・・・今日刊行されている「歴史年表」には 西暦1003年をもって「才媛輩出」の年に当てている。 赤染衛門(あかぞええもん)も和泉式部もみな名を並べている。といって当時、「女流文学賞」や「田村俊子賞」を賭けて、女流作家の育成をした、とも聞かない。どうしてこの一定の期間だけ、突然変異のような現象をきたしたのか。

 ここで首を傾けざるを得ない。 王朝文学(おうちょうぶんがく)といわれる物の大半は日記体である。あるいは日記そのものなのである。 西暦1003年という時代は、どういう時代かというと「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」によっても判るように、国内の紙すきの技術が、未だ開発されず、美作経紙(みまさかけいし)、播磨経紙(はりまけいし)、美濃経紙(みのけいし)ともすべて、今日で言えば四百ポンド級の厚紙であって、薄くて文字の書ける用紙は、のちの越前紙(えちぜんがみ)なども未(いま)だ無かった。

 越前紙(えちぜんがみ)が世に現れてくる1200百年代までの紙は、みな輸入品の唐紙(からがみ)であった。 その用途は、その二世紀前(すなわち1000年頃)に仏教を持って渡来した人々によって「紙は弾丸より貴重なもの」として、その身の後生(ごしょう)、つまり来世功徳(らいせくどく)のために、各自が信仰心を持って写経(しゃきょう)用にしか使われなかったのである。

 紙は少なくて一般には木や竹が削られて伝達用には笏(しゃく) として用いられ、この削板(けずりいた)に文字を書いたのが反古(ほご)になった時、勿体ないからと、飯盛(めしも)り用に用いたのが今日の笏文字(しゃもじ)であり、文字通りである。

 その写経用紙を他へ転用するなどは、仏罰の祟(たた)りを恐れねばならぬ世相であった。恐れ気もなく、その貴重な輸入用紙を使って日記をつけるだけの身分の者は、限られた人間たちだ。その王朝部文学の書き手の殆(ほとん)どが女性で、しかもそれが千年間もその後この世に伝承したのは何故か。

 今日、文学全集の明治物には必ず樋口一葉(ひぐちいちよう)が入っている。だが彼女の作品たるや現在の女流作家と比較しても、その文章の語句の用語法は段違いである。 というのは巧(うま)くないということだ。 ただ、明治期に二十有歳で死んだ当時としては美人だった女が書いた物だという事と、明治風俗 とくに吉原遊廓(よしわらゆうかく)が出てくる点で、それは買い被られているに過ぎない ( 副島隆彦注記。樋口一葉は、吉原遊郭の正面である「大門」そばでタバコ屋をやっていた。遊女たちの生態を見ていた )。

 日本の女流作家であっても僅(わず)か数十年でこれ程の格差が生じる。それなのに千年前の女流作家が、雑誌や書評も考慮せず書いた物がどうして今日、まだ読むに堪えうる形態を備えているのか。
京都に都を移したのは桓武帝(かんむてい、794年)であるが、この帝(みかど)の女御(にょうご)は、百済王媛教法、百済永継姫、尚侍(ないしのかみ、しょうし)には藤原継縄の妻である百済王女明信。

 藤原武鏡 の 妻の百済王女教仁。百済王教徳の女の貞香娘。さて、次の嵯峨帝(さがてい)の女御(にょうご)は、百済王俊哲の豊命姫。宮人女官の尚侍には百済王女慶命。仁明亭の時にも百済王永慶姫と、果てしなくこれが続いている。

 百済とは朝鮮である。向こうで生まれた作家は皆、日本語で書かせると、どれもみな文章が巧い。 といって何も一千年前に海の彼方から一群の女性が筆と紙を持参して日本に渡来して、又朝鮮へ (風の如く去りぬ) と、私はいっているのではない。

 ただ、「源氏物語」にしろ「紫式部日記」にしろ、あの一連の作品は、構成法や叙述法の在り方が、宋学(そうがく。中国の10世紀頃)のものに相似性(そうじせい)がある。有りすぎるぐらいだと、ここに指摘しておく。

西暦1003年と現在の1998年の中間は 応仁の乱の終わった頃に当たる。
 寺子屋という私学が出来たのは、その後もう一世紀後であり、勿論、千文字(せんもじ)や素読(そどく)を教えたのはそれから又二世紀も下った後の、元禄(げんろく)以降の事である。となると「源氏物語」が出来た年代と現在との間には、十世紀の距離がある。

 そのうちの最初の七世紀は、文字が書けて読めるというだけで 「祐筆(ゆうひつ)」 の職種に就ける時代であった。1792年に江戸で湯島聖堂の学問所が出来た時ですら、和学(わかぐ)は教えてない。だから、ますます話は奇妙になってくる。

 「源氏物語」等が公(おおやけ)にされたのは十九世紀の伊勢の国学者グループ(副島隆彦注記。本居宣長=もとおりのりなが=たち)の手によるものである。これらは手写しで伝わった。

恐らく当時の専門の筆耕屋(うんぴつや)の仕事だろう。今日と違って文字を書けることが特殊技能だったから、写本は相当に高価な物だったろう。 これらは当時としては「進物(しんもつ)用品」として、書かれ綴(つづ)られ、何処かへ贈られる用途のものとして作業されていただろう。

 当時は貴重だった紙に経文(きょうもん)を写せば、その功徳で極楽へ行けるという応報が約束されていた時代だ。ところが、有難いお経の写字(しゃじ)の代わりに、 和泉式部の許(もと)へ 帥(そち)の宮が訪れてきて、他の男と睦(むつ)み合った後であった、等の状景描写を書いたりして、激しくジェラシーを起こす、これらのものを写したり、明石の上の許へ、光源氏が通ってきて、まぐわれるベッドシーンを書き写した。これでは、来世の功徳など考えられない。 

 それを写した者には、その労に対して布や食料を、そしてそれを上官や高貴なお方に贈った者には官位役職といった現世の御利益を得ただろう。 

 (ここで 副島隆彦注記。 だからこそ、藤原貴族の、当時の最高位の殿上人(てんじょうびと)たちだけは、先端の人間の感覚をしていただろうから、自意識と自己決断の能力をもっていた。だから、彼らは、すでに仏教の、僧侶たちの民衆騙しの偽善のイデオロギー性にそれとなく、気づいていただろう。

 だから、人間の性欲を肯定した、こういう いやらしさの表現されたポルノ文章に、貴族たちは、死ぬほど憧れて、魅惑されて、虜(とりこ)になって、皆で、宮中で特に女性たちを中心に回し読みされて、どきどきしながら、深く感動していたのだ。 それを、「どれどれワシも読みたいな」と男たちも読むようになった。 

 その時代の評判をとった文学作品は、どの時代でも、どこの国でも、その国の最先端の意識 を表しているものなのである。それは、イタリアの1300年ごろの、フィレンツェのダンテの文学作品の、男女の愛の物語の、大変な評判と同じものだ。 副島隆彦注記おわり) 

 私事になるが、終戦直後に、私は、天明壬寅(てんめいかのえとら?)つまり1782年に書かれた(筆写された)漢文の「源氏物語」の一部を神田の古本屋で入手した。それを見ると「紫式部日記」だって、漢文にリライトされたり、それが又別人によって和文になったりして、進物先(しんもつさき)で変化していたと考えられる。

 現在の「源氏物語」その他と、江戸時代までのそれらとは、全く異質のものだったといえよう。しかし、千年余も、高級進物品として流通していたからといって、その具象(この現象)は、かっての日本人の知的教養がいかに高く、極めて文化程度が高かったとか、その頃から既に国文学の愛好者が多かった、という例証にはならない。

 つまり、「枕草紙」が 「枕草子」に内容が変化したのは、江戸の文化文政(ぶんかぶんせい)以降の柴田鳩翁(しばたきゅうおう)の道話(どうわ)全盛時代である。そして「和泉式部日記」や、その他の王朝文学と称されるものが、今日の形象に於いて活字化されたのは、19世紀末の、明治に入ってからの、西洋活版技術による出版ブ-ムにのってからである。

 清少納言は清書納言(せいしょなごん)か?

  近江の石山寺(いしやまでら)に閉じこもった紫式部が、一人で五十六帖の「源氏物語」を書き上げ、それが世に流布し、主上(しゅじょう)のお耳にも達し天覧(てんらん。天皇に引見された)を仰ぐまでになったということになっている。 が、果たして「本当であろうか?」という意見は、明治時代から議論されてきた。 しかし大正、昭和にはいると大手の一流出版社で、この「源氏物語」の現代語訳など刊行するところが多くなってきたせいか、今ではこれに触れるのはタブー視されてしまい、

 「源氏物語というのは、現在流布されているようなものを、間違いなく紫式部が一人で書いたものである」と凝(こ)り固まってしまい、それによって稼いでいる人間も多くなったので、今では神聖化されて居る。

 しかし 明治44年に京橋銀座一丁目に、その頃はあった読売新聞社刊行の、当時の史学の泰斗久米邦武(くめくにたけ) の著作では、 「寛弘五年十一月の日記」の中の「皇子五十日の御祝い」の条文を引用し、それから解明してゆき、 「源氏物語が評判になってから召されて宮中へ奉公し、彼女はそのとき中宮から<若紫の巻>にちなんで、紫式部の名を付けてもらったのだが、その当時の日記さえ、よく見ればその事情もよく判るし、その<若紫>でさえ、彼女ではなく、その父の為時(ためとき)の筆になったものということが判る」 と書いている。

 中宮へ提出するために全部の浄書だけしたのが、さも紫式部だったような書き方もしている。しかしこれもやがて禁句のようになってしまい、今では誰もあまり触れたがらないようである。とはいえ、ここから解明してゆかなくては「源氏物語」の謎は解けはしまい。

 彼女を中宮に召して採用し、紫式部の名を与えた一条帝の中宮とは誰かといえば、藤原道長の娘彰子(しょうし)である。産み奉った皇子が後の後一条帝(ごいちじょうてい)。その弟君は後朱雀帝(ごすざくてい)と、次々と即位されるのだが、その彰子の妹の、「研子(けんし)」は、三条帝(さんじょうてい)の后(きさき)となり、又その妹の「威子(いし)」は、後一条帝の后。次の妹の「嬉子(きし)」は後朱雀帝の女御となって、後冷泉帝(ごれいぜんてい)の御腹(おんはら。が生みの親)となる。末の二姫は伯母の立場なのに后となった。 

 女御として、御種(おんたね)を頂戴をしているが、この彰子(しょうし)の伯父・道隆の娘の定子(ていし)が、一条帝の后でその道隆( みちたか。副島隆彦注記。道長の兄だが、先に死んだ。だから道長が後を次いで、藤原宗家の「氏(うじ)の長者」となった)の(別の)弟である、道兼(みちかね)の娘の尊子(そんし)も同帝の女御である。

 ということは下世話(げぜわ)にいえば、彰子(ていし)はその従姉妹(じゅうしまい)の定子(ていし)や尊子(そんし)と共に、一人の男性を巡る存在だった。こうなると、なまじ身内だけに互いに負けられず、一条帝を巡って競合した。つまり女の戦にしのぎを削っていた事になる。現代ならば、そうした立場の女性は化粧を競い互いに美味な食事でも作って、男を引き寄せようとするだろう。

 となると、もしも「源氏物語」が現在流布している形の、ああした内容のものだったとしたら、( 彰子は自分が国文学の勉強をするために )新しく召し抱えた 彼女に、「紫式部」の名を与えて、それを読ませ、講義させ聴聞していたのであろうか。

 彰子は、他の従姉妹二人を押さえ、帝の寵(ちょう)をほしい儘(まま)にし、二帝の御生母、ついで1018年には「太皇太后(たいこうたいごう)」にさえなった。

 明治37年6月に、富山房(ふざんぼう。という出版社 )「史学会論」の中でも 「才媛(さいえん)輩出というので11世紀初頭には紫式部、清少納言、赤染衛門、和泉式部らが数多くの著作を一斉に書き残したというが、その時代は藤原家一門全盛の頃というものの、1019年3月27日には刀伊(一、とい )が来襲し、四国伊予三島社司越智近清(おちのちかきよ)らが討死。翌4月7日には対馬方面へ来襲し、壱岐(いき)の守将藤原理忠(ふじわらもりただ)ら玉砕(ぎょくさい)、5月に入ると波状攻撃 は肥前の国に及び、上陸してきた異民族軍は
略奪をほしいままにした。 この元寇の時のような国家の非常時が、史料となる物を同時代に書かれた物にどれも一行すら書き残していない」 と疑問を呈している。

 当時の国難ともいうべき刀伊(とい)賊(ぞく)の大事件を何も書き残さなかったことが不思議だ。才女たちの作品は紀行文や軽薄な物ばかりで、当時の外憂について、彼女らが誰一人としてその作中に触れていないのを怪しみ、 (だが、 ことによったら、その書かれた年代がもっと以前の物か、ずっと以後ではなかったろうか)、とまでは言い切ってはいない。
 
 その論の中で、「史学会雑誌第八号」に発表した「藤原氏論」で故丸山正彦(まるやままさひこ)は、疑問を投げかけている。 これからして、故久米邦武(くめくにたけ)氏の、「源氏物語は紫式部の作ではなく、その父が手を加えるか書いた物ではなかろうか」 といった。その日記を援用しての展開になったが、その後は出版資本の圧力によるものかどうかは分明しないが、丸山から久米まで引き継がれてきた疑問符は、明治の世だけで立ち消えになってしまった。今はそれについて論ずる者は居ない。

 さて話は戻るがこの時の刀伊(とい)の来冠は「刀一(とい)」とも書く。これは、「この世をば、わが世とぞ想う もち月の、欠けたる事のなしと思えば」と、説いた藤原道長が入道となって「行覚(ぎょうかく)」と名乗り出家して一週間目に、「ご注進、ご注進、見慣れぬ異国の船が群をなして近づき、馬に触れれば馬を斬り、人に触れれば人を斬り、女と見ばこれは触れた後は担ぎ去り 」 と襲来の知らせが届いたのである。そして、次々と櫛(くし)の歯が抜けるごとくに、「四国の社司が惨殺された」 とか、「壱岐対馬の男は皆殺しにされ、女は掌(てのひら)に穴を開けられ縄をそれに通され、十人一束にして拐(かどわ)かされていった」 と報告がひっきりなしに入ってきた。

 元冠はこれより262年後の出来事だから、当時としては大騒ぎだったろう。各寺院においては一斉に、悪魔退散の祈祷(きとう)が催され、今にも京の町まで異人が攻めこんでくると流言飛語が飛び交い、庶民達も、「えらいこっちゃ」 と、疎開しだして混乱の最中だった。

 だから明治40年で立ち消えになった、「源氏物語は紫式部の作ではない」という明治の史学者達の率直な疑問がある。 日本史に忽然(こつぜん)として才媛が並び現れ、一斉に名作を書き残し、後が続けばよいが、900年がたちましたというのは、どうも変だ。 私は、 「清少納言」や「赤染衛門」は、今でいうアンカー(マン。週刊誌の記事の最終の完成者)ではなかったかと想像する。

 つまり以前から有ったもの (昔は著作権法等が無かったから、版権や著作権の必要もなく、作者名が付けてなかったもの )を、真名書(まなしょ、漢字)の読める清少納言や赤染衛門といった女官たちが、判りやすいように手を入れて、清書(せいしょ)するとき、 「淨書者(じょうしょしゃ)」として、責任の所在を明らかにするためその名を表紙に書き込んだ。だから、後世になると、その清書した者の名が筆名として誤られて、「才媛輩出の時代」とされ、それに辻褄(つじつま)を合わせるため、暇な人が日記まで作ったのではあるまいか。紫式部の源氏物語もその類かもしれぬ。

 「大日本古文書」を見ても、印刷のなかった当時は、文字の書ける者は男女とも「筆生(ひつせい)」として大切にされ、そして書き写しに誤りがあった時の責めを取らされるためか、その名がはっきり上部に書かれていた。

 「正倉院文書」に入っている天平十一年三月六日付け で、高屋赤万呂(こうやのあかまろ)が責任写字したものも、その名が表紙に明記されているし、同じく天平十六年十月八日に脱稿した「足万呂私書(あしまろしじょ)」のごときは、第四十五巻のものを、「鬼室乎人、角勝万呂、峰田在人、弓削狭人以下七人」で分担して写した内訳(うちわけ)、それに要した筆墨(ひつぼく)の員数も出ている。

 そして同年十二月十八日の、「写集論」百七十三巻の筆写となると、同年八月一日から写しだして十二月十六日までに終えたとなっているが、王広万呂のうつした十巻のごときは、「第三巻にては用紙三十二枚受領し破損三枚 」「 第五巻にあっては三十枚の内で破損二枚」と明細があって、用紙として計三百三十九枚を受け取って写したもの三百二十五枚。 書き損じ八枚、白紙返上十六枚」 と、 第一巻の第一枚目に但し書きのようなものをつけ、それに責任者の自分の名をつけている横に明記し、十巻の最後に、この浄書料二千六拾七文を拝受した旨も附記している。

 つまり文字の書ける者が希少だった頃は、正確に古文書を書き写す仕事というのは、大変有利なことだったから、紫式部の父為時(ふじわらのためとき)の筆によって、「源氏物語」中の<若紫の巻>がなったろう。

 ということは紫式部も、研子の方や、威子の方、嬉子の方の注文で書き写しをしていたと考えられる。誰の作か判らぬものを写すのだから、そこには彼女らの主観も投入されたであろうし、その書き上げて綴じた表紙に、御礼(おれい)を貰う立場上で、筆写の責任者として、中宮から頂いた名前をはっきりと「紫式部」と署名したのがその後、また次々と書き写されてゆく段階で、まるで彼女がその原作者の如く誤られてしまったのではあるまいか。

 そして紫式部の名が<若紫の巻>から選ばれて中宮から拝領した名となると、「清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘で、生まれた年も没年も、そして本名すら判らない」とされる清少納言もやはり中宮定子(ちゅううぐていし)に仕えていた女官だったろう。

 中宮彰子が、為時の娘に紫式部の名を作って与えていたものなら、定子の方も清少納言の名を作って元輔の娘にやった事になる。今日では当て字は誤字扱いされ、こじつけのように見られるが、明治になる迄(まで)は漢字はその発音さえ通れば可とされていたものである。

 だから淨書者のことを「清書」と呼ぶから、定子が付けた名は「清書納言」ではなかったろうか。つまり「枕草子」 その他が彼女の名で伝わっているが、写すのが綺麗で美しく、その名を堂々と表紙に書いたから、彼女が作者になってしまったのだろう。

 また「大日本古文書」二巻の 「写経所解」等を見ると、「校生」の文字で、写した文書を点検した責任者の名が必ずついている。後には「校訂」の字も当てられる。これは朱筆を入れて校正することである。

 「大江文集書」に、「右衛門志時用、学識豊祐校生厳格故賜赤染」といった一行があると、久米氏は説いている。 その時用(ときもち)の娘で、大江匡衛(おおえのくまさえ) に嫁して藤原道長の妻やその娘の上東門院(じょうとうもんいん。彰子の院名)に仕えていたのが 赤染衛門である。つまり、姓の「赤染」というのは、あまりにも朱筆を加えて紙を赤く染めてしまうの意であろう。私(八切止夫)は、あの時代で本物だったのは、「和泉式部日記」を残した平保清娘 ぐらいだと思う。が、これとて後世の人の作だとの説が昔からある。

 
 八切止夫(やぎりとめお)「日本の特殊部落発生史」(日本シェル出版刊) から

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 以上のとおりです。 八切止夫氏が、再度、日本の知識社会に復活させるべき重要な知識人、文学者である、ということがよく分かります。私、副島隆彦は、その作業をコツコツとやります。

・八切止夫(1914-87)若い頃


以上で、文学とは何か、とりわけ 日本文学とは何か、を終わります。

副島隆彦拝

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