「136」 ユダヤ問題のまじめな優れた歴史文で、ネット上にあったもの。作者不詳。 2010.9.11
副島隆彦です。 今日は、2010年9月11日です。 続けて載せます。

以下は、ネット上になった歴史の文で、作者不詳ですが、なかなか優れた内容です。おかしな”陰謀論者たち”の、頭のおかしな馬鹿な連中が書く、無根拠の文とは、違います。以下の文で、優に本一冊の中身です。この内容が本になったのかも不明です。相当の書き手だと思います。覆面を被(かぶ)ったったまま生きたい人なのでしょう。その意思は尊重されるべきです。この人が書いたであろう文のうち、私が採集して保存しておいた分だけ、取り敢えずここに載せます。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

作成 1998.3 「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台
序章
はじめに
第1章
「アヘン戦争」と
「開国維新」とユダヤ人
第2章
「日清戦争」で日本を援助した
ユダヤ人マーカス・サミュエル
第3章
「日露戦争」で日本を援助した
ユダヤ人ヤコブ・シフ
第4章
「日露戦争」でユダヤ資本から
「恩」を受けながら、
満州の共同経営の約束を破った日本
~ 「ハリマン事件」の実態 ~
第5章
太平洋をめぐる
日米両国の覇権争いが激化
第6章
「日露戦争」後に
アメリカで広まった「黄禍論」
第7章
ヤコブ・シフと高橋是清の死
第8章
「フグ(河豚)計画」
~ 日ユ関係の回復を試みる ~
第9章
支那事変(日中戦争)と
上海の「サッスーン財閥」
第10章
蒋介石(中国国民党)と
毛沢東(中国共産党)

 ●「日中戦争(支那事変)」勃発の背景(遠因)は、人によって様々な意見(見方)があると思うが、当館は20世紀初頭に起きた「日露戦争」(1904年)を抜きにしては語れないと思っている。特に「日露戦争」直後に起きた「ハリマン事件」による日米関係の悪化(日米対立)は、その後の日本の運命を決定づけた、かなり重要な事件だったと感じている。(「ハリマン事件」については第4章で詳しく紹介します)。また「アヘン」という麻薬の存在(利権争い)も、「日中戦争」の実態(深層部分)を知る上で、見過ごすことの出来ない重要な要素だと思っている。

第1章:「アヘン戦争」と「開国維新」とユダヤ人1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)

『実録アヘン戦争』陳 舜臣著(中央公論新社)
まず、有名な「アヘン商人」といえば、中東出身のユダヤ人デビッド・サッスーンが挙げられる。彼は1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。

 
(左)インドのアヘン倉庫内の様子 (右)茶やアヘンを運んだ「東インド会社」の船
 
中東出身のユダヤ人 デビッド・サッスーン(1792~1864年)インドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘン密売で莫大な富を築く。「アヘン王」と呼ばれた。やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。
 
(左)清国と戦っているイギリスの商船。その頃の商船は大砲を持っていた。(右)アヘン戦争で、清国が敗北すると、ヨーロッパの国々は競ってアジアに進出した。清国はイギリス以外の外国の国々とも不平等な条約を結ぶことになってしまった。肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの流入は続いた。 学習漫画 『中国の歴史 〈9〉-アヘン戦争とゆれる中国』(集英社)は、子ども向けの本だが、アヘン戦争の実態を手っ取り早く知る上で、最適な本である。アヘン商人たちの腹黒い姿がしっかり描かれている。 ところで、鎖国時代における長崎・平戸のオランダ商館長は、すべてユダヤ系の人物だったと言われる。長崎にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)が作られていた。また、1853年7月8日に浦賀に来航して日本開国を迫ったペリー提督もユダヤ系だったという説がある。
   
1832年に「ジャーディン・マセソン商会」を中国の広州に設立したイギリス系ユダヤ商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソン

「ジャーディン・マセソン商会」のシンボルマーク この会社の設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。1841年に本社を香港に移転した。
   
(左)坂本龍馬 (中央)武器商人トーマス・グラバー (右)『大英帝国の〈死の商人〉』横井勝彦著(講談社)グラバーは、1859年に英国から上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。1908年、グラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に亡くなった。

 墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の観光名所になっている。 明治天皇(第122代天皇) 新時代の政治体制と法制をつくったフルべッキ、民法の基礎をつくったボアソナード、大日本帝国憲法の生みの親ロエスレル、陸軍を育てたジュブスケ、近代海軍を整えたデュグラス。また、外交の功績者デニソン、貨幣制度をつくったキンドル、銀行経営の道を開いたシャンド、殖産工業の推進者ワグネル、後の東大工学部を創設したダイエル、学校制度のモルディ、生物学の基礎をつくったモース、哲学・美術の父といわれたフェノロサ……

 ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、次のように語っている。 
 
(左)ハインツ・E・マウル。元ドイツ連邦軍空軍将校。(右)彼の著書『日本はなぜユダヤ人を迫害
しなかったのか』(芙蓉書房出版)「幕末には横浜にユダヤ・コミュニティーが結成され、世紀の変わり目には50家族がこれに属していた。その少し前、帝政ロシアによる迫害を逃れてきたロシア人が長崎にやってきた。このグループはまもなく解散し、700名あまりが東京・横浜や神戸に移住したといわれる。日本各地のユダヤ・コミュニティーは、第一次世界大戦後のパリ講和会議で設立されたユダヤ代表委員会の後継組織である『世界ユダヤ人会議』の傘下にあった。」「第二次世界大戦が終わるまで、普通の日本人の中にはユダヤ人とはキリスト教の一派だと思い込んでいる者が少なくなかった。 〈中略〉

 横浜外国人コミュニティーの会長で『ジャパン・エクスプレス』という英字紙を発行していたラファエル・ショイヤーがいるが、彼の後任は、同じユダヤ人のウィルフリード・フライシャーで、この新聞を『ジャパン・アドヴァタイザー』と改称し、これは1940年に発行禁止となるまで最も影響力のある英字紙だった。発禁後は『ジャパン・タイムズ』に吸収される。しかし、日本で最も著名なユダヤ人は、フライシャーの友人で後継者でもあったヤコブ・シフにちがいない。シフはかつてその影響力を駆使して日本にきわめて有利な状況を作り出すのに貢献した。そして、『金持ちで影響力に富む』という日本人一般のユダヤ人についてのイメージを体現する存在となったのである。」 「アメリカの対日制裁は不安と怒りを呼び、日本は攻撃的になる。 〈中略〉 

 当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払った。その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。

 日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられないと通告した。そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。 〈中略〉かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいた。彼らに比べると、何年も前に上海に移住したドイツ系、オーストリア系のユダヤ人や、その後到着した東欧系ユダヤ人は、遥かに厳しい運命にさらされることになる。」

 ※ 以上、『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)より
第2章:「日清戦争」で日本を援助したユダヤ人マーカス・サミュエル

●1894年に「日清戦争」が勃発すると、「シェル石油」の創業者であるイギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルは、日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。 
 
 イギリス系ユダヤ人のマーカス・サミュエル (1853~1927年)世界初の「タンカー王」であり
「シェル石油」の創業者である  そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、サミュエルは日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。

 日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。 サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。

 そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。この年1月に「日英同盟条約」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。(ちなみに、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)。

 明治期の外交官、政治家 林董(はやし ただす) 駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調印した。※ 「日英同盟」は、1902年1月30日に結ばれた日本とイギリスとの間の軍事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使とイギリスのアーサー・ラウズダウン外相により調印された。「日英同盟」は、戦前日本にとって最高の同盟関係だったといえる。この同盟関係を守りきれなかったことが戦前日本の犯した最大の失敗だろう。  サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。 その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。

第3章:「日露戦争」で日本を援助したユダヤ人ヤコブ・シフ 

「日清戦争」勝利後、日本は、帝国ロシア南下政策と中国の権益をめぐって「日露戦争」(1904年)を行なった。しかし、日本はわずか1億7000万円の予算しか持っていないので、戦費を海外から調達しなければならなかった。 

 高橋是清(たかはし これきよ)日銀副総裁。のちに蔵相、首相。「ダルマ首相」と呼ばれて親しまれた。当時の日銀副総裁の高橋是清(たかはし これきよ)が日本の公債の買い手を求めて絶望的な気持ちで欧米を駆け回っていたとき、ロンドンで日銀創立の功労者であったシャンドと出会った。そのときシャンドは、ユダヤ系投資銀行「クーン・ローブ商会」を率いるヤコブ・シフを高橋是清に紹介し、ヤコブ・シフは当時2億ドル(現在の1兆円)の公債の引き受けをした。

 その動機について、高橋是清は自伝の中で、「ヤコブ・シフは、帝政ロシアのもとで、ユダヤ人は差別を受け、国内を自由に旅行すら出来ず、圧制の極に達していた。そこで、日本に勝たせ、ロシヤの政治に一大変革を起こし、ユダヤ人がその圧制から救われることを期待していた」と述べている。(※ このヤコブ・シフと高橋是清の話は、司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』(文芸春秋)の第4巻でも紹介されているので、知っている方は多いだろう)。
 
   
(左)アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。日露戦争の時、日本を資金援助した。 (中央)「クーン・ローブ商会」(右)司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』(文芸春秋)。この本にヤコブ・シフが登場している。
 
●ロシアは歴史を通じて、反ユダヤ主義が最も盛んだった国である。

歴代の皇帝はロシア正教に改宗しようとしないユダヤ人を圧迫した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺(ポグロム)が進行した。
 

1903年~1906年の主なポグロム発生地。
 黒海北岸で集中的に起きている。19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行した。このロシアにおけるユダヤ迫害は 「ポグロム」と呼ばれ、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジームであった。


ポグロムで死んだ黒海北岸の都市オデッサのユダヤ人たち

●1905年、「日露戦争」で東洋の島国・日本が勝利すると、全世界のユダヤ人が狂喜した。
今日のイスラエルの国歌「ハ・ティクヴァ(希望)」の歌詞を書いたユダヤ詩人ナフタリ・インベルは、日本勝利の報せをきいて、明治天皇と日本国民を称える詩を発表した。有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の原作者であるユダヤ人文学者シャローム・アライヘムは、1905年にワルシャワで「日露戦争」に題材をとった喜劇を発表し、日本の勝利を称えた。 

 『屋根の上のバイオリン弾き』 このミュージカルは、帝政ロシア時代末期にウクライナで生活していたユダヤ人が、ポグロムに遭遇する物語である。この物語の原作者であるユダヤ人文学者は、「日露戦争」での日本の勝利に大喜びし、「日露戦争」に題材をとった喜劇を発表した。

●敬虔なユダヤ教徒であったヤコブ・シフは、後になって次のように述懐している。「私はロシアにおけるユダヤ人虐殺に、深く憤っていた。ロシア帝国に対して立ち上がった日本が、ロシアを罰する“神の杖”であるにちがいないと、考えた。」「日露戦争後(1906年)、私は日本政府の招待によって、初めて日本を訪れた。明治天皇は私に親しく感謝を述べられた。皇居では完璧に西洋流の、美味な料理が供されたが、食卓の飾りつけも、西洋式にきわめて洗練されたものだった。明治天皇は健啖(けんたん)で、ユーモアに溢れていられた。ご自分の治世が始まったころの愉快だった逸話について、自由闊達に話された。」

 日本政府は、「日露戦争」勝利の功績に報いるため、1906年にヤコブ・シフを日本に招待し、明治天皇が午餐会を催し、シフ夫妻を拝謁。サミュエルと同じ勲章「勲一等旭日大綬章」を与えている。
明治天皇が民間人である外国人に陪食を賜ったのは、シフが初めてだった。

 この明治天皇のユダヤ人への感謝の思いは、昭和天皇にも引き継がれていた。 外交評論家の加瀬英明氏は、次のように述べている。「もし、日本が日露戦争に敗れていたとしたら、日本はロシアによって支配されていたから、今日の日本はありえなかった。他界されてしまったが、私はイスラエルのモシェ・バルトゥール駐日大使と親しかった。大使は1966年から5年にわたって、東京に在勤された。  

 かつて、わが国はヤコブ・シフ氏に大変にお世話になりました。この恩を忘れることはありません』という、お言葉をいただいた。大使は陛下の思いがけないお言葉に、驚いた。ところが、ヤコブ・シフという人物について知識がなかった。そのために大使館に戻ってから、急いで調べた。昭和天皇は明治天皇を慕っていられたので、日本がヤコブ・シフとユダヤ人によって救われたことをよく知っていられ

●1989年、昭和天皇が崩御された。イスラエルのヘルツォーグ大統領は、「日本はナチスの友邦だったから参列するな」という国内の一部の反対を押し切って、大葬の礼に参列するために来日した。東京のユダヤ人協会の歓迎の宴に招かれたヘルツォーグ大統領は、こう挨拶したという。「先の大戦において、多くの国がドアを閉ざしていた頃、日本及び日本の管理地では数万のユダヤ人に避難場所が与えられました。我々は日本国民のこの行為を永遠に忘れません。ユダヤ人に対する日本の態度は、当時ヨーロッパで起きていた事とは全く対照的であり、ひときわ輝いていた。

●20世紀初頭のロシアには全世界のユダヤ人の半分に当たる約500万人が住んでいた(これはロシア総人口の4%に当たる)が、「日露戦争」が勃発すると、ロシア軍兵士として戦ったユダヤ人がいた。
ヘブライ大学の有名なユダヤ人教授ベン・アミー・シロニー博士は、「日露戦争に関与したユダヤ人」について次のように述べている。参考までに紹介しておきたい。
 
ヘブライ大学のベン・アミー・シロニー博士 大の親日家で、日本に関する本を多数出している。

ヘブライ大学で、毎年500人を超える学生たちに日本の歴史と文化を講義している。 「19世紀末、ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れていた。ポグロムは、ロシア政権の奨励と黙認により、押し進められていたのが現状だった。1894年に政権を握った皇帝ニコライ2世は、彼の政権を脅かすほどの民衆の不信感に直面していた。その打開策として、彼は民衆の怒りを『内の敵(ユダヤ人)』と『外の敵(日本人)』に向けようとした。」

「1904年、日露戦争が勃発すると、ヨーロッパのユダヤ資産家は、ユダヤ人を敵視していた帝政ロシアへの援助を拒否した。この資産家たちの中には、『シベリア鉄道』へ多額の援助をしたフランスのロスチャイルド卿も含まれていた。ロスチャイルド卿がロシアのために働いたのは、戦争で負傷したロシア人を援助する機関に寄付することにとどまった。ロシアに対する態度とは対照的に、他のユダヤ人資本家たちはみな日本を援助した。その中でも注目すべきは、ニューヨークの『クーン・ローブ商会』の経営者であるヤコブ・シフである。」

 「日露戦争は、ユダヤ人が兵士として、また様々な物語の生みの親として大いに関係した、近代における最初の大戦である。(それまで国を失ったユダヤ民族は、戦闘経験はなかった)ユダヤ人は『シベリア鉄道』の建設に携わり、戦闘態勢を整えた点でロシアに大きく貢献し、また自らロシア軍兵士として戦った。(日露戦争に動員されたユダヤ人は3万3000人で、これは満州におけるロシア軍の約6.6%、このうち約3000人が戦死した)  

 しかしその一方、戦争でロシアを負かすために日本に援助を送り、日本の勝利を喜んだのもユダヤ人であった。そして、戦時中に起きた革命の過程とその結末の中で随所に登場し、それと並行して同じ頃、ロシアからパレスチナへ移住するための重要な役割を担ったのも、またロシア系ユダヤ人であった。」

 「『シベリア鉄道』はロシアの軍事・経済の拡大に大きな弾みをつけ、日本との対立を早める要因となった。この鉄道は、国外から巨額の資金調達によってまかなわれたが、その中の一つがフランスの『ロスチャイルド銀行』である。

 ロシア政府の奨励により、ユダヤ人事業家は『シベリア鉄道』の沿線に居住した。東地域の開拓につとめ、ロシアの存在を強めるためである。中国の北東に位置する満州に、ロシアの町ハルビンが建設されたとき、ロシア政府は『シベリア鉄道』の中国部分と呼ばれる東清鉄道の地域と、その南部に当たる南満州鉄道の付近へ、在ヨーロッパユダヤ人の移住を促した。その場所に『ヨーロッパ人口』を増援するのが目的であった。1903年、ハルビンのユダヤ人コミュニティで、請負業や商業に携わったユダヤ人の数は500人を数えており、その地でもユダヤ人は町の発展に大いに貢献していた。」

 「日露戦争で負けたロシアは、ヤコブ・シフが日本を援助したことを許さなかった。1911年、ロシアの大蔵大臣はアメリカの報道機関に対して、次のように述べている。

 『ロシア政府は、あのユダヤ人シフが私たちにもたらしたことを決して許さず、また忘れることはないであろう……彼は一個人でありながら、日本のアメリカからの資金調達を可能にした。彼(ヤコブ・シフ)は、我々に立ち向かった最も危険な人物の一人である!』」 


第4章:「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本 ~ 「ハリマン事件」の実態

 ヤコブ・シフが日本を援助したのと同時に、戦後の満州経営について、日本政府とユダヤ財閥との間に秘密の取引きが行なわれていた。東郷平八郎率いる日本連合艦隊が当時、海軍力世界2位のロシアのバルチック艦隊を破って以来、延びきった戦線のための補給にも苦しくなっていたところ、アメリカの26代セオドア・ルーズベルト大統領の仲介で1905年8月10日、ポーツマスで講和会議が開かれた。

 そして、秘密取引きの内容を具体化するために、ポーツマスで日露の講和会議が開かれている最中、ロックフェラー家と関係の深いユダヤ系アメリカ人の鉄道王エドワード・ハリマンが、クーン・ローブ・グループの代表として来日したのである。南満州鉄道の日米共同経営についての話し合いが目的だった。
 
 ユダヤ系アメリカ人の鉄道王エドワード・ハリマン裸一貫からアメリカを横断する鉄道網を作り上げた。1905年8月、クーン・ローブ・グループの代表として来日。(満鉄の経営についての話し合いが目的)
「ポーツマス講和会議」では、ロシアの代表ウィッテの巧みな外交戦術により、日本の代表小村寿太郎は、赤子が手をひねられるように屈し、戦勝国でありながら日本は、領地をほとんど手に入れることが出来ず、賠償も権益も得るところわずかであった、交渉結果の知らせを聞いた国内では、「国賊小村」の声も上がっていた。
 
 
(左)小村寿太郎 (右)日露戦争後の「ポーツマス講和会議」 (1905年) ポーツマスの日露講和条約に不満を持つ人々は、1905年9月5日、東京の日比谷公園で大集会を開いた。群衆は集会を解散させようとする警官と衝突し、政府高官の家や新聞社、交番、電車を焼き打ちにしたので、日本政府は軍隊の力を借りてこれを鎮めた。

 焼き打ちの拡大 日露講和反対の大集会(約3万人) → 日比谷焼き打ち →→ 東京焼き打ち(東京が無政府状態) → 東京に戒厳令※ この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。戒厳令は11月29日まで続いた。 一方、ハリマンは、小村寿太郎が「ポーツマス講和会議」で留守中に、桂太郎首相と南満州鉄道の日米協同経営の予備協定を10月12日に結んだ。ハリマンは上機嫌のうちにサンフランシスコへ向かう船上の人となった。その後、10月15日に帰国した小村寿太郎は、桂内閣の予備協定の決定を聞くに及んで、烈火のごとくに怒った。

 「日本が2年間に渡る大戦で血を流し財を尽くして獲得した報償は、まことに貧弱である。講和条約を不満とする愛国の至誠が、暴動とさえなっている。その上また、この貧弱な戦果の半ば以上の価値がある満鉄をアメリカ人に売り渡してしまい、満州そのものを外国商業との自由競争の場に委ねてしまおうというのは、とうてい忍ぶことができない。」  

 桂内閣はこの要望を入れて10月23日、アメリカ側に予備協定の「破棄」を通告した。ハリマンがサンフランシスコに着いたときに、彼を待っていたのは「破棄」を通告する日本政府からの電報であった。今度はハリマンが烈火のごとくに怒り、ただちに翌年の8月に腹心のウィラード・ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権とアメリカ人の利権とを衝突させていったのである。 
 
(左)エドワード・ハリマン (右)小村寿太郎
 この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った。「日本は十年後に後悔することになるだろう!」 屈辱外交官として、いったんは政治生命を絶たれた小村寿太郎は、この事件後、「南満州鉄道を救った男」として名誉を回復した。しかし、歴史はハリマンの予告通りに動いていく。 それ以後、満鉄を中心として日本とアメリカの対立が深まり、その関係がこじれていった。そして1921年の「日英同盟」破棄以降、両者の対立は決定的なものとなり、やがて日本は英米との関係を断ち切り、ドイツとの協定にのめりこんでいったのだった。

 当時、セオドア・ルーズベルト大統領は、次のような言葉(書簡)を残している。「私は従来日本びいきであったが、ポーツマス会議開催以来、日本びいきでなくなった」

エピソード 『小村寿太郎と桂・ハリマン覚書』 (野澤道生氏の『日本史ノート』解説より)http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode12.html

◆桂・ハリマン覚書 (クリック20世紀より)http://www.c20.jp/1905/10kakus.html


第5章:太平洋をめぐる日米両国の覇権争いが激化
●アメリカは「日露戦争」(1904年)の数年前に、ハワイに海兵隊を奇襲上陸させて当時、独立国であった「ハワイ王国」を占領して滅ぼし、アメリカの領土としていた。当時ハワイでは、日本人が人口の半分(2万2000人)を占めていたので、女王は明治天皇に援助を依頼してきたが、当時の日本にはアメリカと戦う力はなく、みすみす事態を見過ごすしかなかった。

ハワイ王国最後の女王

 リリウオカラニ彼女は音楽を愛好したことでも知られ、ハワイ民謡として有名な
 「アロハ・オエ」は彼女の作である。※ カメハメハ大王を始祖として1795年に始まった
 「ハワイ王国」を、アメリカは武力で併合した(1898年)。宮殿に掲げられていた「ハワイ王国」の国旗は下げられ、アメリカ合衆国の国旗が揚げられた。ハワイ住民らはこのとき、悲しみの声をあげたという。 ちなみに、彼女の兄であるカラカウア前国王は、世界で初めて日本を訪れた外国の国家元首だった。彼はハワイ王国の安泰のため、明治天皇の甥に縁談を申し込んだことで知られている(1881年)。もし、この縁談が実現していたら、「ハワイ王国」はもっと長く存続していたかもしれない…。

 カラカウア前国王彼はアメリカのハワイへの進出を阻むため、同じような状況にあったアジア諸国と連合を組み、立ち向かうための構想を持っていた。そして、それを実現するためアジア諸国を回り、その一番最初の訪問国であり絶対同盟を組みたいと思っていた国が日本であった。(この構想は「大東亜共栄圏」構想の先駆的なプランだった)

 しかし、このプランは、維新まもなく国力増強優先の日本が取り組めるほど余裕がなかった事もあり、実現しなかった。 「ハワイ王国」滅亡後、ここにアメリカの大軍事基地が築かれ、「太平洋艦隊」の根拠地として発展した。それが「パールハーバー」である。そして、イギリスのシンガポール、ロシアのウラジオストクと呼応して、三大軍港が日本を三方から牽制するように取り囲む体制が次第に整っていくのである。この時代の世界といえば、「帝国主義」が全盛期だった。当時の世界は、「帝国か! 属国か!」に分かれる、まさに混乱の時代だった。
 
 ↑南北戦争から1912年までに、アメリカが獲得した主要な新領土およびその植民地中国の利権をめざして、アメリカは西へ西へとそのエネルギーを伸張させていたことが分かる膨張し拡大するアメリカは、
西へのフロンティアの開拓の夢と、その情熱的エネルギーが、ついに北米大陸を離れて海上へ溢れ出した姿として理解できる    

左からイギリスのヴィクトリア女王、ドイツのヴィルヘルム2世、ロシアのニコライ2世。ななめ後ろがフランスで、右端の武士が日本である。

 背後で両手をあげている男性は清の大臣で、「やめてくれ!」と悲鳴をあげている。開国維新後の日本にとって、最大の脅威はロシア帝国であった。ロシアは軍事力を傘に東アジア南下戦略を目指していた。日本にとって「日露戦争」は、国家予算の6倍以上の戦費をつぎ込み、継戦不可能というギリギリで掴んだ“薄氷の勝利”であった。その戦費の約40%を調達したのが、第3章で紹介したユダヤ人金融業者ヤコブ・シフだった。この男の助けがなければ日本は「日露戦争」に勝てなかった、と言っても過言ではなかった。

 アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ1847年、ドイツのフランクフルトで生まれる。1870年にアメリカに帰化した。シフ家の祖先は、ドイツのフランクフルトの旧ユダヤ人街区にある一軒の家をロスチャイルド家と共有して住んでいた。

 シフ(schiff)家の側には「船(schiff)」が、ロスチャイルド(Rothschild)家の側には「赤い盾(roter Schild)が描かれてあり、両家の姓は、そこに由来しているという。 ヤコブ・シフの「クーン・ローブ商会」とエドワード・ハリマンについて

●歴史研究家の田畑則重氏(東京大学新聞研究所修了)は、ヤコブ・シフの生涯(素顔)や日本支援の動機、そして叙勲のために招待された際の『シフ滞日記』を紹介した面白い本を出版した。本のタイトルは『日露戦争に投資した男 ~ユダヤ人銀行家の日記~』(新潮社)である。

『日露戦争に投資した男~ユダヤ人銀行家の日記~』田畑則重著(新潮社) 当時、彼はウォール街を代表する投資銀行家であり、ヨーロッパの一大金融帝国・ロスチャイルド家とも緊密な関係を持ち、またアメリカ大統領にも直言する立場にあった。」  

 「クーン・ローブ商会」の創業者エイブラハム・クーンは、1839年にアメリカに来て、他のドイツ系ユダヤ人同様、行商人から身を起こし、10年後、インディアナ州で衣類の卸売業を経営していた時に、遠縁のソロモン・ローブを呼び寄せた。ソロモンは、エイブラハムの妹と結婚し、すぐに共同経営者となった。クーンとローブがシンシナティに移って、総合小売業に転じると、南北戦争の軍用毛布需要が利益を生み、1867年、2人はニューヨークに移り、国債とのちには鉄道債券を取り扱う「クーン・ローブ商会」を設立した。

 クーンが早くに引退し、ローブの息子たちも金融界で働くことを嫌ったが、1875年にヤコブ・シフが加わった。この年、シフは「クーン・ローブ商会」の共同経営者ソロモン・ローブの娘テレーズと結婚した。

 「クーン・ローブ商会」1867年、ドイツ系ユダヤ人によってニューヨークに設立された。1885年、ソロモン・ローブの死去に伴い、シフが「クーン・ローブ商会」の代表となった。この正直で若き銀行家は、地味ながら評価される「クーン・ローブ商会」の名声を築き上げていったが、社名に自分の名を冠しようなどとは考えもしなかった。シフの時代のユダヤ人投資銀行家たちの結束は固く、血縁関係で結ばれた同族集団を形成していた。「クーン・ローブ商会」も例外ではなかった。

 ヤコブ・シフ 1885年、共同経営者のユダヤ人ソロモン・ローブの死去に伴い、シフは 「クーン・ローブ商会」の代表となった。シフの妻は、ソロモン・ローブの娘だった。20世紀に入る頃には、「クーン・ローブ商会」は、アメリカでは「モルガン商会」に次ぐ地位を占めるようになっていた。その原動力は、鉄道事業への投資だった。欧州資本と組んで、1875年以降、国の大動脈に投資しているうちに、鉄道会社の再編を通して、「クーン・ローブ商会」自体が鉄道の経営に参画するようになった。鉄道会社の再編と投資事業に先鞭をつけたのは、のちに日露戦争後の南満州鉄道買収をめぐって対立するJ・P・モルガンだったが、シフは数年遅れて追走することになる。

 シフと「クーン・ローブ商会」は、この過程でエドワード・ハリマンのパートナーとなった。アメリカの東部と北西部の鉄道を縄張りとした「モルガン商会」に対抗して、ハリマンと「クーン・ローブ商会」は、南西部の鉄道を支配する立場に立った。「モルガン財閥」に加え、鉄道界の大立者のジェームズ・ヒルおよびエドワード・ハリマンを巻き込んだノーザン・パシフィック鉄道の再編劇は、シフの名を一挙に全米にとどろかせることになった。

 アメリカの金融王J・P・モルガン  政治と距離を置いたJ・P・モルガンと違って、ヤコブ・シフはアメリカの政府部内に味方を増やす必要があった。日露戦争の直前、シフはロシアとルーマニアでのユダヤ人迫害に対してアメリカ政府が公式に抗議するよう嘆願していた。ビジネスマンとしては、ルーズベルトの反トラスト姿勢には同意しかねたが、ユダヤ人の指導者のひとりとしては、そんなことは言っていられなかった。ルーズベルトも、ユダヤ票を獲得するために、シフの意見に耳を傾けた。

 「全米ユダヤ人協会」会長も務めるシフという人物が、ユダヤ同胞に圧政を敷くロシアに打撃を与えたいと考え、日本を支援したことには疑いを入れない。しかし、フランクフルトからアメリカに来たドイツ系アメリカ人でありながらアメリカ金融界の頂点にたどり着いた男が、日本に肩入れすることにビジネス・チャンスを見出したとしても矛盾しない。 

 1999年にシフの伝記を書いたナオミ・コーエンによれば、1904年2月上旬、ニューヨークの五番街にあったシフ邸でユダヤ人指導者の会合が開かれた。シフは、「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているのだが、私が引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の見解を聞きたい」と語った。シフは日露開戦の情報を事前につかんでおり、公債引受の打診さえ受けていたのだ。

 この場の全員が一致して、シフが日本の公債を引き受けることに賛成した。当時、大統領のセオドア・ルーズベルトもアメリカの国内世論も日本支持に傾いており、シフが日本公債を引き受ける結果、ロシアに与える打撃に良心の呵責をおぼえる必要はなかった。(日露戦争後)そこに現れたのがアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンだった。彼には世界一周鉄道網の夢があり、南満州鉄道を1億円で買収し、シベリア鉄道経由でヨーロッパにいたるアジア大陸横断鉄道を構想したのだった。彼は「ポーツマス講和会議」が始まった8月10日に息子のアベレルとローランドを伴ってニューヨークを発ち、16日にサンフランシスコを出港、31日に横浜に着いた。

 事前に駐日公使グリスコムが動いて、日本政府は首相桂太郎はじめ、ハリマン提案に傾いており、閣議での反対者は逓信大臣大浦兼武(おおうらかねたけ)ただひとりだった。背景には、莫大な戦費と賠償金を得られなかったことによる財政難があった。元老井上馨などは、グリスコムに「この好機会を逸せしむるようでは愚の極である」とまで語った。財界も大御所の渋沢栄一が支持した。

 ユダヤ系アメリカ人の 鉄道王エドワード・ハリマン裸一貫からアメリカを横断する鉄道網を作り上げた。1905年8月、クーン・ローブ・グループの代表として来日。(満鉄の経営についての話し合いが目的 ハリマンは戦時公債500万ドルの引き受け手でもあったから、話はとんとん拍子に進み、10月12日には、南満州鉄道に関する日米シンジケートを組織する予備協定覚書を交換し、意気揚々と帰国の途についたハリマンだったが、太平洋上ですれ違ったのが「ポーツマス講和会議」の日本全権小村寿太郎だった。〈中略〉

 こうした背景があって、小村も強硬にハリマン案に抵抗、葬り去ることができたが、その結果、南満州鉄道が日本の独占経営となったことで、ルーズベルトのあとを襲ったタフト政権が期待した満州の門戸開放は実現されず、日米関係は悪化したまま、アジア太平洋戦争へと突入していく大きな端緒となった。

 1905年の「ハリマン構想」は挫折し、日本政府の恩を仇(あだ)で返すような態度にヤコブ・シフは激怒し、その怒りを高橋是清にまでぶつけた。しかし、シフはほかの取り引きで見せたように、決してあきらめなかった。 1909年春、ハリマンは再び動いた。3月、ルーズベルトに代わってウィリアム・タフトが大統領に就任すると、アメリカの対日政策は、反日に変わった。タフトは、ハリマンの娘婿ウィラード・ストレイトを東アジア部長に任命した。

 タフト政権の東アジア政策に中心的役割を果たしたのは国務次官のウィルソンとストレイトだった。ウィルソンは、満州の門戸開放を持続させるための唯一の方法は日本に対し、強圧をかけるほかないと確信していた。ストレイトは、旧来の政策では、満州でのアメリカの未来は暗く、アメリカ製品の市場拡大には満州に鉄道建設と資源開発の大規模投資をすることが必要だと主張した。ハリマンは自己の経済的目的のため南満州鉄道を支配しようとしたが、ストレイトの場合はさらに、国際戦略の見地から、アメリカ資本を満州へ投入する図を描いたのだった。
 
(左)第27代アメリカ大統領ウィリアム・タフト
(右)タフト政権の東アジア部長ウィラード・ストレイト

 タフトは、国務長官にノックスを選任した。1909年12月、ノックスは、満州における列強の鉄道権益を清国に返した上で列強の共同管理にするという南満州鉄道中立化を提案したが、戦後に協調に転じた日本とロシアの反対で成立しなかった。敗戦により目を東から西に転じたロシアと日本の協商体制が進むなかで1910年、アメリカは5000万ドルの借款を清国に与え、英独仏と4ヶ国借款団を組織、強力なドル外交で日本に対抗し、太平洋をめぐる日米両国の覇権争いが激しさを見せはじめる。

以上、『日露戦争に投資した男 ~ユダヤ人銀行家の日記~』(新潮社)より


第6章:「日露戦争」後にアメリカで広まった「黄禍論」

●「日露戦争」は、国際社会のほとんどが大国ロシアの勝利を予想していたにもかかわらず、アジアの小国・日本が勝利した戦争だった。 ※ 「奉天会戦」=1905年3月に行なわれた日露戦争最後で最大の陸上戦。 日本軍とロシア軍が奉天(現在の瀋陽)でぶつかり、激しい戦いの末、日本軍がロシア軍を破った。この「奉天会戦」に投入された兵力は、日本が約25万人、ロシアが約32万人だった。

 参加兵力だけでなく、戦闘期間も24日と戦史上かつてない規模で、日本軍だけで約7万人の死傷者を出した。この戦いで、日本は兵力と砲弾を使い果たし、戦争を続けていく力を失っていた。※ この「奉天会戦」はものすごい激戦で、あまりのすごさに発狂したロシア軍将校もいたほどだった。


ロシアの誇る「バルチック艦隊」に接近して正確な猛射を浴びせる「日本連合艦隊」

※ 「日本海海戦」=日露戦争の勝敗を決めた海戦で、1905年5月27日に行なわれ、次の日、日本艦隊の勝利に終わった。この「日本海海戦」に参加した38隻のバルチック艦隊のうち、19隻が撃沈され、5隻が日本軍に捕らえられた。ウラジオストクに逃げのびたロシアの軍艦は、わずか3隻だけだった。  日本の勝利は、帝国主義時代における有色人種の初勝利だったため、インドをはじめアジア中近東諸国の反植民地、独立運動に大きな影響を与えた。

●「黄禍論」(Yellow peril)は、アジア人を蔑視し、差別した考え方(人種差別の一種)であり、もともとは「日清戦争」後にヨーロッパ諸国に広まったもので、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が主な論者だった。1905年に「日露戦争」でロシアが敗れると、ヴィルヘルム2世は「黄禍論」を下地に、「白人優位の世界秩序構築」と、そのために日本をはじめとする「黄色人種国家の打倒」を訴えた。
 
 
(左)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(右)ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)の国旗 

 ヴィルヘルム2世の母親はイギリスのヴィクトリア女王の娘だった。そのため彼は生涯、イギリスには好意的だった。しかし、その旺盛な海軍力増強姿勢はイギリスの警戒心を刺激し、イギリスをフランス陣営に追いやることになった。ちなみに、彼の立派な口ひげ(端がピンとはね上がった口ひげ)は「カイザー(皇帝)ひげ」と呼ばれた。彼は科学技術の進歩に大きな関心を持ち、学術団体「カイザー・ヴィルヘルム協会」を設立して
科学者を援助したことでも知られる。 

 このドイツ皇帝は1908年、『ニューヨーク・タイムズ』とのインタビューでこう語っている。 「ロシアが白色人種の利害を代表して日本と戦ったことは、誰もが認めている。しかしロシアの戦い方はひどくまずいものであった。ドイツ軍なら日本軍を撃破していたであろう。ロシアが黄色人種に弱点をさらけだした今、今度はドイツが黄禍の拡大に歯止めをかける番になったのだ。我がドイツはアメリカと協力して中国を応援する取り決めを行なったが、これは日本の進出を抑え、極東における勢力均衡を保つためである。」 

 またこのドイツ皇帝は基本的に「親英主義者」だったが、イギリスと日本の同盟関係(日英同盟)を危険視しており、同年ベルリン駐在のアメリカ大使に対してこう言い放っている。 「ドイツは近い将来イギリスと戦火を交えることになるかもしれない。なぜならば、イギリスは白色人種の裏切り者だからであり、日本と結んだ同盟がなによりの証拠である。日本は中国に領土的野心を抱いているが、その後ろで糸を引いているのはイギリスである。」

※ 第一次世界大戦でドイツは敗れ、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命するが、亡命先においても彼は、ドイツ帝国の極東政策を弁護し、黄禍に対する警告を繰り返し発している。

「私はかねてより、白色人種は一致団結して黄色人種を叩かねばならないと主張していたのに、イギリスはそのように行動せず日本と同盟を結んだ。だがもしも日本が、『アジアをアジア人の手に』というスローガンを実現し、中国とインドを支配下に置くようなことになったなら、そのとき初めてイギリスは、ドイツとその艦隊に助けを求めることになるだろう。強大化する日本に対して、ロシア皇帝ニコライ2世は大きな不安を抱いていたが、私はこうした彼の不安を利用できるだけ利用しつくして、ドイツとヨーロッパ文化を守ろうと努めたのである。」

 『黄禍論とは何か』 ハインツ・ゴルヴィツァー著(草思社)帝国主義国家として空前の経済的繁栄を
謳歌していた欧米各国は、それまで劣等民族と信じて疑わなかった黄色人種の台頭に限りない不安を抱き、自らの「没落の予感」と結びついて、「黄禍論」はやがて政治的スローガンとなっていく。

 ところでアメリカは、日本が「日露戦争」に勝った直後に、日本を第一仮想敵国とした「オレンジ計画(対日侵攻戦略)」を作成した。(のちの日米戦争におけるアメリカ側シナリオは、すべてこの「オレンジ計画」によるものである。既に日米開戦の30年以上も前から、アメリカは日本を第一仮想敵国と考え、日本打倒のプランを練っていたのだ)。「黄禍論」はアメリカでも広がり、日本人労働者の就職妨害や排斥、学童の隔離教育、太平洋沿岸州議会のハワイからの転航移民禁止などとして具体化し、「排日気運」を激化させていったのである。(=「太平洋戦争」の遠因)
 
 『人種偏見 ─ 太平洋 戦争に見る日米摩擦の底流』 ジョン・ダワー著(TBSブリタニカ)あまり語られることのない「人種戦争」の真相。太平洋戦争における日米両国の憎悪の構造を分析し、「人種主義」の再生の危険性に警鐘を鳴らす。アメリカの対日圧迫政策についてこの時期の日米関係(摩擦)について、帝京大学教授の高山正之氏は次のように鋭く述べている。 

 「セオドア・ルーズベルトを多くの日本人は親日家だと信じている。ホワイトハウスに畳を入れて柔道をやったとか、『日露戦争』では継戦能力のない日本のために講和の労を取ってくれたとか。しかし彼の本音は全く違い、日本を叩き潰すことにあった。そのきっかけは1893年、米国のハワイ王朝乗っ取りだった。米戦艦ボストンがリリウオカラニ女王の宮殿に砲口を向け、彼女を退位させた直後、日本の巡洋艦『浪速』と『金剛』がホノルルに入り、米戦艦をはさむように錨を下ろした。

 米国の横暴を牽制したもので、米国はハワイの併合を断念、ハワイ共和国という体裁を取った。巡洋艦の艦長は東郷平八郎といい、彼は翌年もホノルルにやってきたが、同共和国の建国1周年を祝う礼砲要請を『その要を認めず』と断った。『錨泊中の他国の艦船も彼に倣(なら)いホノルル港はあたかもハワイ王朝の喪に服したようだった」と地元紙が報じている。」 


 「共和国は報復に日系移民の帰化を拒否した。東郷の行動を見た米海軍省次官ルーズベルトは1897年3月、友人に『できることなら今すぐにハワイを併合し、ニカラグア運河を完成させ、日本を凌ぐ軍艦を建造したい。私は日本の脅威をひしひしと感じている』と書き送っている。そのために彼は新聞王のハーストと組み、世論を焚きつけて翌98年に『米西戦争』を起こし、グアムとフィリピンを手に入れた。大統領に就任するとすぐパナマを独立させ、運河建設に取りかかった。

 脅威の日本人を米国から追い出す作業も始めた。その1つが、米国に併合を済ませたハワイの日系人の本土移住の禁止措置だ。ハーストの新聞も一役買って反日キャンペーンを展開する。『日本人は怠け者で売春や賭博にふける』とか『白人の知恵を盗む』とか『貯蓄して米社会に還元しない』とか思いつく悪口をすべて並べ立てた。結果、日系人の子弟は学校から締め出され、土地所有を禁じられ、市民権の取得も拒否された。」「しかし駐米大使の珍田捨己は米国人の善意を信じることから始めた。 〈中略〉

 『まず相手を信じ、反省する』──この珍田方式が以降、日本外交の基本姿勢となる。 そんな馬鹿をしているからロシアから一銭の賠償も取れない講和を押し付けるルーズベルトを本気で『恩人』と思ったりする。 ルーズベルトの思いは一つ。米国にとって脅威の日本が賠償獲得でより強力にならないようにすることだった。」 「彼を継いだウッドロー・ウィルソンは日本を弱体化するために国際社会からも締め出そうとした。 彼は第一次世界大戦の『パリ講和会議』で五大国委員会を解散し、日本を追い出して英米仏伊の四ヶ国委員会にして日本の発言力を弱め、彼の後を継いだハーディング大統領は『ワシントン会議』で日英同盟を破棄させ、日本を孤立に追い込んだ。 

 しかし当の日本は、ウィルソンはいい人で、この会議も海軍の軍縮会議だと今でも信じている。 〈中略〉 『相手国の善意』を信じた珍田外交が、日本を滅ぼしたことを忘れてはなるまい。」
 
 第28代アメリカ大統領 ウッドロー・ウィルソン 1919年、第一次世界大戦の戦後処理を行なうために開催された「パリ講和会議」で、日本は「人種差別撤廃」を強く提案した。人種平等の理想論には表向き反対できないので、投票の結果、過半数の賛成を得られた。ところが、議長のアメリカ大統領ウィルソンは、イギリスと組んで、このような重要な決定は、全員一致でなくてはならないと難癖をつけ、可決したはずの提案を否決してしまった。植民地を多く持つ白人列強に都合が悪いからであった。

 日本の提案の成功を心待ちにしていた、世界中の多くの植民地民族は、「否決」と聞いて、改めて白人の横暴を非難し、日本に同情した。この「パリ講和会議」において盛んに強調された「人権」「民族自決」という考え方自体がそもそも「白人」を対象としたものであり、有色人種は始めから埒外に置かれていた当時の状況を伝えるエピソードである。 

 千葉大学名誉教授の清水馨八郎氏は、次のように述べている。「日露戦争直前に結んだ『日英同盟』(1902年)は、戦争に実に有効に機能した。バルチック艦隊の長路の日本遠征では、途中のイギリス領関係の港での寄港を拒否、妨害され、食料補給、給水などに支障をきたした。これは、ロシア軍にとっては大変な痛手となった。 

 日露戦争後、日本を仮想敵国とする戦略を明確にしていたアメリカは、友邦のイギリスを日本から切り離しておかねばならないと考えた。そこで『ワシントン会議』を機に、『日英同盟』の廃案を両国に迫った。日本政府は反対したが、イギリスはすでにその使命が終わったとして、アメリカの提案に賛成した。その頃から、米英は協力して日本の勢力拡大を抑える反日の姿勢を明らかにしていったのである。」「アメリカの日本叩き、日本いじめ政策の第一弾が、1924年の『排日移民法』の制定である。元来移民歓迎を国是とする移民受け入れ大国が、日本移民だけを締め出したのである。さらに日本の在米資産を凍結する挙に出た。後に昭和天皇は後日談の中で、この『排日移民法』の制定が大東亜戦争の第一の遠因であると述懐されておられるほどである。」
 
 「ワシントン会議」 (1921年) 第一次世界大戦後の1921年、アメリカのハーディング大統領の提唱でワシントンで開かれた国際会議。この会議によって「日英同盟」が破棄され、東アジア太平洋地域での新たな国際秩序となる「ワシントン体制」が発足した。この会議により形成された体制は、ヨーロッパの「ヴェルサイユ体制」と並んで、第一次世界大戦後の国際秩序を確立することになった。この会議を主催し指導したアメリカは外交的勝利を収め、国際的指導者の地位についた。 この会議は国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議であった。


第7章:ヤコブ・シフと高橋是清の死

 「ハリマン事件」後、少しギクシャクする時期があったが、ヤコブ・シフと高橋是清の交友関係は続いた。ヤコブ・シフは終生、高橋是清と家族ぐるみで親しく交わった。高橋是清の長女のわき子を、ニューヨークの自宅で、3年間にわたって預かったほどだった。高橋是清は82歳の時(1936年)に「2・26事件」で青年将校達に射殺(暗殺)された。ヤコブ・シフはその16年前(1920年)に、73歳で没していた。この2人の死によって、日本とユダヤの関係は“新たなステージ”を迎えることになる……。

 金融の天才だったヤコブ・シフの死後、「クーン・ローブ商会」は支配力を次第に失い、1929年の世界大恐慌で打撃を受け、没落していくことになる。現在は同じドイツ・ユダヤ系の投資銀行「リーマン・ブラザーズ社」と合併している。この「リーマン・ブラザーズ社」はドイツからアメリカへ移民したユダヤ人のヘンリーとエマニュエルとマイヤーのリーマン3兄弟によって、1850年に設立された投資銀行である。日露戦争中に、ヤコブ・シフの呼びかけに応じて、日本の国債を購入している。

ヤコブ・シフの「クーン・ローブ商会」は、1977年に同じドイツ・ユダヤ系の投資銀行「リーマン・ブラザーズ社」と合併した。


第8章:「フグ(河豚)計画」──日ユ関係の回復を試みる

「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本は、独自の満州経営に乗り出し、あげくの果ては1931年の満州事変に至るドロ沼にはまりこんでいった。 
 
 満鉄超特急「あじあ」号は、1934年11月1日に運転を開始した。最高速度は時速120キロで、蒸気機関車として世界のトップレベルを誇った。この「あじあ」号を造りあげた日本の技術力は全世界の注目を浴びた。「あじあ」号の存在は、当時の日本人の“夢”の象徴だった。しかし、それは敗戦とともに露と消えた。 が、実はこの時代に、日ユ関係を回復する大きなチャンスがめぐってきていた。そして日本内部にも、このチャンスを生かすべきだろうとする意見があり、そこへ向けての活動が少なからずあったのである。

 安江仙弘(やすえ のりひろ)陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてくるという事件が起きた。日本政府は、アメリカからの工作機械やその他の輸入を全く受けられないため、日本の満州経営は大きな壁にぶつかっていた。そのために、欧米のユダヤ財閥資本と経営技術を必要としていた。そこで、ユダヤ資本との対立関係を回復する為に、この難民ユダヤ人達を保護し、満州にユダヤ人国家を作る計画があった。この計画は「フグ(河豚)計画」と呼ばれた。
 

 極東アジア地域へのユダヤ人の亡命 (~1945年) 1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた満州国の国旗である「五色旗」は黄、紅、青、白、黒で日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴している。一方イスラエルの旗は、1891年にシオニズム運動の運動旗としてユダヤ人ダビデ・ウルフゾーン(リトアニア出身)が考案したものである。 

 新興日産コンツェルンを率いていた鮎川義介(あいかわぎすけ)は、1934年に、外務省より『ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画について』という論文を発表した。彼は、ドイツ系ユダヤ人5万人を満州に受け入れ、最終的には100万人を移住させ、満州にユダヤ人国家を作ることで、アメリカの歓心を買い、対ソ連への防波堤にしようと考えていたのである。1936年、鮎川義介が関東軍の後援で渡満し、「満州重工業開発株式会社」を設立したことにより、「フグ計画」は国策レベルに浮上した。
 
(左)鮎川義介。大正・昭和期に活躍した実業家。「日産自動車」の実質的な創立者。満州重工業開発総裁。

(右)「フグ計画」の舞台となった町ハルビン(Harbin)は上の地図の右上に位置している。

 ユダヤ人との間に対話の場を設けて関係を強めることを考えた日本の軍部は、1937年から1939年にかけてハルビンで3回の「極東ユダヤ人大会」を開催した。第1回の会議には、陸軍の安江仙弘(やすえのりひろ)大佐や、関東軍情報部長の樋口季一郎、谷口副領事などが出席し、1000人近いユダヤ人が会議を傍聴した。直前に組織として結成された「極東ユダヤ人会議」の議長には、ユダヤ人アブラハム・カウフマン博士が選出され、極東の上席ラビにはアロン・モシェ・キセレフが選ばれた。
 
(左)ハルビンに作られたユダヤ教会堂 (右)満州のユダヤ人たち 

 満州のユダヤ人の活動の中心地は黒竜江省のハルビンであった。 この町には20世紀初頭から、ロシア系ユダヤ人を主とする小さなコミュニティーがあったが、日露戦争の影響と1905年のポグロムの結果、多数のユダヤ人が流入したため、1908年にはその規模は8000人以上に膨れ上がった。その後、ロシア革命とウクライナでの迫害を逃れて更に何千人もが満州に入ってきたので、ハルビンのユダヤ・コミュニティーも1920年には1万人を数え、満州国建国の頃は1万5000人にもなっていたのである。

 「ハルビン・ヘブライ協会」が設立され、ラビのアロン・モシェ・キセレフと アブラハム・カウフマン博士がその代表的存在だった。1937年12月26日にハルビンで開かれた第1回の「極東ユダヤ人大会」で、樋口季一郎(陸軍少将・のちに中将)は、次のように演説した。「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行き先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺に等しい行為と、断じなければならない。

 私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ!そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。」この樋口季一郎の演説が終わると、凄まじい歓声が起こり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口季一郎の前にひざまずいて号泣し始めたという。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、次々に握手を求めてきたという。
 
 
 樋口季一郎・陸軍中将 満州国のハルビン特務機関長だった時、2万人のユダヤ人を救出した。ハルビンで開かれた「極東ユダヤ人大会」では多数の作業計画が採択されたが、その基本理念を定めたのは樋口中将の基調演説だった。彼は、日本人は人種偏見を持っておらず、親ユダヤ的だと強調し、日本はユダヤ人と協力し経済的接触を保つことに関心があると述べたのである。

 
「極東ユダヤ人大会」で挨拶を述べるユダヤ人 アブラハム・カウフマン博士(議長) この「極東ユダヤ人大会」には、ハルビンのほか、奉天、大連、ハイラル、チチハル、天津、神戸など、極東各地のユダヤ人社会から代表が出席した。ちなみに、この「極東ユダヤ人大会」に参加したユダヤ人はアシュケナジー系ばかりであり、スファラディ系ユダヤ人は参加していない。

 この「極東ユダヤ人大会」の主要な結果は、カウフマン議長名でニューヨーク、ロンドン、パリのユダヤ人組織に打電され、数多くのメディアに通報された。しかし、メディアの反響は期待を遥かに下回るものだった。満州のユダヤ人たちは日本と協力する用意があったのに対して、「米国ユダヤ人会議」の議長スティーブン・ワイズ博士率いるアメリカのユダヤ人は反日的であった。ワイズ博士は、日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていたのである。 

 ハルビンの「極東ユダヤ人会議」の議長だったアブラハム・カウフマン博士は、アメリカのユダヤ人のスポークスマンに対して「日本をもっと好意的に見るように」と説得したが、ルーズベルト大統領の側近だったワイズ博士は日本を全く信用せず、ユダヤ人の満州移住構想(「フグ(河豚)計画」)には賛成しなかったのである。 

 スティーブン・ワイズ博士彼はアメリカのユダヤ指導者階級の 中心人物のみならず、全世界のユダヤ人の指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、必ず影のように彼がついていたと評され、その政策を左右する実力を持っていた。しかし彼は基本的に「反日主義者」で、日本との協力に消極的だった。この「フグ(河豚)計画」について、ユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤーは著書『The Fugu Plan(河豚計画)』の中で、次のように語っている。
 
(左)ラビ・マーヴィン・トケイヤー。1967年に来日、「日本ユダヤ教団」のラビとなる。

(右)彼の著書 『The Fugu Plan』 「1930年代、『フグ計画』は日本がまさに求めていたものを提供するはずだった。膨張を続ける日本の版図は、ロスチャイルドやバーナード・バルークやヤコブ・シフなどユダヤ財閥の資本と経営技術を必要としていた。資本と技術を持った人々を、日本が中国から獲得したばかりの植民地、満州国に定住させ、一日も早くソ連という北方の脅威との緩衝地帯にしなければならなかった。ユダヤ人を利用する代償として、日本はユダヤ人たちに夢を約束した。ヨーロッパの荒れ狂う迫害の嵐からユダヤ人を救い、安住の地を与えようというのである。

 ユダヤ人迫害は、キリスト教と密接な関係があるが、神道を国家信教とする日本には、ユダヤ人を排斥しなければならない理由はなかった。つまり、もし『フグ計画』が成功していれば、完全な両方得が成功するはずであった。」 この「フグ計画」の推進には、海軍の犬塚惟重大佐の「犬塚機関」の活動があった。 「犬塚機関」は、著名ユダヤ人と広い交際を持っていた田村光三(マサチューセッツ工科大出身の東洋製缶ニューヨーク出張所勤務)の協力を得た。
 
(左)犬塚惟重・海軍大佐 (右)田村光三


 上海市街の租界 (第二次大戦期まで)
 
 上海の共同租界、虹口(ホンキュー)地区の風景 (1937年)日本海軍が警備していた虹口(ホンキュー)地区(通称「日本租界」)は、「バンド」と言われるビルの立ち並ぶ上海の中心地区からガーデン・ブリッジを渡って北東へ行った場所にあった。日本の本願寺や商社・旅館、商店などが軒を並べた租界の中でもどちらかというと、庶民的雰囲気の漂う下町だった。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。 

 「犬塚機関」は、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人たちを必死になって助けようと動いた。そして、助けることによって日本の安泰を図ろうとしたのであった。1939年春のできごとであった。 しかし、1940年9月27日、「日独伊三国軍事同盟」が締結されるに及んで、アメリカのユダヤ人組織から「犬塚機関」と田村光三に対して、次のような通告が送られてきたのである。 

 「日本当局が、上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種的偏見を持たず、公平に扱かって下さっている事実はわれわれもよく知り、今回のクレジットでその恩に報い、われわれの同胞も苦難から救われると期待していましたが、われわれには、今回のアメリカ政府首脳および一般のアメリカ人の反日感情に逆行する工作をする力はない。非常に残念だが、われわれの敵ナチスと同盟した日本を頼りにするわけにはいかなくなってしまいました。」 
 
(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、チアノ伊外相がこれに署名した。 (右)三国軍事同盟祝賀会の様子。 この通告を受けとった東條英機(陸相)は、安江仙弘(大連特務機関長)を解任し、予備役に編入。そして、この年(1940年12月末)に予定されていた「第4回極東ユダヤ人大会」に対して中止命令を出したのであった。
 
安江仙弘(やすえ のりひろ)陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。安江大佐が、大連特務機関長の職を解かれ、予備役に編入されると、大連ユダヤ人社会は更迭された安江大佐のために1940年12月14日、大連のユダヤ人クラブで「送別会」を催して彼を慰労した。安江大佐は、予備役編入後も、ひきつづき大連にとどまってユダヤ人のために尽くした。

 こうして、安江仙弘大佐と在東京ユダヤ人キンダーマンによって、水面下で進められていたアメリカ政府との直接交渉は、実現を目前にして潰えてしまったのである。そして日本は、翌年12月8日に真珠湾を攻撃して日米戦争へ突入していったのである……。(※ 大連市の自宅で、日米開戦のニュースをラジオで聞いた安江大佐は、一言「しまった!」と叫んだという)。 

 20世紀前半の「日独関係」について、簡単に補足説明をしておきたい。第一次世界大戦のときは日本とドイツは「敵国」だった。日中戦争以前の数年間は、日独関係はそれほど良好ではなかったし、ドイツの元将軍たちは反日的で、彼らは上海付近の中国人の防衛陣地の建設に協力していた。この縦横に張りめぐらしたクリーク(溝)を利用した「ドイツ流陣地」の突破に日本陸軍は苦戦を強いられた。しかし、1936年に「日独防共協定」が結ばれ、1940年に「日独伊三国軍事同盟」が成立すると、日本とドイツの友好関係は緊密になったのである。
 
(左)アドルフ・ヒトラー (右)日本とドイツの青年団 〈神戸にて〉 

 ところで、ナチスと同盟を結んだ日本政府は、ヒトラーの反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか?この件に関しては、前出のハインツ・E・マウルが、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、次のように詳しく語っている。参考までに紹介しておきたい。
 
 
(左)ハインツ・E・マウル。元ドイツ連邦軍空軍将校。 (右)彼の著書『日本はなぜユダヤ人を迫害
しなかったのか』(芙蓉書房出版)

 「戦争中の日本では、反ユダヤ・キャンペーンが強化されたとはいっても、政府のユダヤ政策そのものは基本的に変わらなかった。 松岡外相は1940年12月31日に個人的に招いたユダヤ富豪のレフ・ジュグマンに日本のユダヤ政策を説明している。『ヒトラーとの同盟は自分が結んだものだが、彼の反ユダヤ政策を日本で実行する約束はしていない』というのである。それは松岡個人の意見ではなく、日本政府の態度である。かつ、それを世界に対して語らない理由はない。松岡は満鉄総裁時代に当時の『ユダヤ問題顧問』のアブラハム小辻(小辻節三博士)に、自分は防共協定は支持するが反ユダヤ主義には賛成しないと言っている。」

松岡洋右 1935年に満鉄総裁。1940年第2次近衛内閣外相で「日独伊三国軍事同盟」を締結し、
1941年には「日ソ中立条約」を締結。「私はドイツと同盟は結んだが、ユダヤ人を殺す約束まではしていない」としてユダヤ難民を保護した。 

 「1938年12月6日の五相会議の対ユダヤ人政策の決定は、政治指導部間の妥協の産物ではあったが、下された時期が良かった。これでユダヤ人の絶滅というナチスの目標に歯止めをかけたからである。日本のユダヤ人政策は明確な構想を欠いた複雑なものではあったが、人道・道義という面では汚染されておらず、おかげで日本は『ユダヤ人殺し』の汚名を負わずにすんだ。日本は投資が欲しくてユダヤ人を救ったわけではない。人種平等の原則によりユダヤ人を拒否しないという五相会議の決定は、政策の指針に政治的・倫理的マニフェストの性格を与えた。この決定は、不寛容、敵視、暴力とは無縁であり、人間を無差別に殺戮することを認めるものではなかったのだから。

 1938年12月6日に、近衛首相・有田八郎外相・板垣征四郎陸相・米内光政海相・池田成彬蔵相兼商工相による「五相会議」が開催され、ユダヤ人保護の『ユダヤ人対策要綱』が決定された。 「1939年の上海の入国制限は、軍の権威と自信を示そうとするものだった。政府のほうは自信がなく、時には無関心で、訓令も曖昧だったため、現地の担当者には行動の自由があった。満州やシナでは、はじめのころ、優越感や自信の欠如あるいは単なる手違いから、ユダヤ人を蔑視した取りあつかいも見られたが、後にはユダヤ人を援助し、支援し、さらには救済する方向に転じて、かつての過ちを補うことになった。」

 「欧州で戦争がはじまると、難民の流れは極東にむかう。難民の運命は日本の軍人、市民、税関や警察そして外交官の手中にあった。 上海の柴田領事は生命の危険をおかしてゲシュタポの計画をユダヤ人に漏らした。関東軍の東條英機参謀長は満州のユダヤ人を穏健に処遇するよう指令を発したし、アブラハム小辻(小辻節三博士)は外務大臣とのコネを利用して神戸のユダヤ人の状況改善をはかった。ぎりぎりの状況のなかでユダヤ人を救おうとした外交官もたくさんいた。日本船の船長は収容能力をこえてユダヤ難民を乗せたし、東京のドイツ大使館が日本在住のユダヤ人の解職を要求した際に、課長・局長クラスの役人はこれをはねつけた。」

※ 以上、『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)より


第9章:支那事変(日中戦争)と上海の「サッスーン財閥」

 1937年から始まった支那事変(日中戦争)は約8年にもおよんだ。当時貧しかった中国にあって、中国国民党・蒋介石軍は強大な軍事力を投入する日本軍とよく戦った。それは、蒋介石軍の兵器、装備、兵たん部が充実していたからであり、それら大部分の戦費が、ほぼすべてユダヤ財閥「サッスーン」から出されていたからである。(蒋介石夫人の宋美齢の一族・宋家(浙江財閥)もユダヤ資本と友好関係にあった)。
 
(左)蒋介石 (右)中国国民党旗「青天白日旗」  日本軍が上海のサッスーン一族の「キャセイ・マンション」や外国人クラブを接収すると、彼らは日本に対して猛然と対抗意識を燃やし始めた。「サッスーン家」は第1章で紹介したように、アヘン密売で莫大な富を築いた一族で、並みいるユダヤ財閥の中でも、ケタはずれの財産を保有する、屈指の財閥であった。

 (サッスーン家は、英ロスチャイルド家の東アジア代理人であった)。彼らは当時、上海を東洋進出への最大の本拠地と考えていた。だからこそ、莫大な資金をつぎこんで蒋介石軍を支え、日本を中国大陸から追い出そうとしたのである。「上海キング」と呼ばれていたビクター・サッスーンは、日本の「フグ計画」に協力するのを断固拒否し続けた。(※ ビクター・サッスーンはイギリス育ちで親英主義者であり、反日的であった)。「アヘン戦争」と上海のユダヤ人社会についての詳細は、別ファイル「アヘン戦争の舞台裏」をご覧下さい。
 
 ビクター・サッスーン(ユダヤ人)(1881~1961年)「上海キング」と呼ばれていた彼は極東で一、二を競うユダヤ人大富豪であり、上海のユダヤ人社会のリーダーだった。※ 「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、アヘン密売で莫大な富を築き、「アヘン王」と呼ばれた。

(左)中国の地図 (右)「サッスーン財閥」の拠点だった上海(Shanghai)上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果としてイギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。

 繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。※ 右上の写真は1930年頃の上海であるが、あたかも当時のアメリカのニューヨーク、イギリスのロンドンかと錯覚を覚える。これらのビル群は「サッスーン財閥」に代表されるユダヤ資本によって建てられたものである。支那事変の全期間を通じて、日本は「サッスーン」をはじめとした欧米のユダヤ財閥を向こうに回して戦争をしていた、といっても言い過ぎではなかった。

 歴史研究家ハインツ・E・マウルは、サッスーンについて次のように述べている。「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の計画(フグ計画)には関心がなく、それどころか1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。日本の中国大陸での冒険を終わらせるために、米英仏は日本を事実上ボイコットせよというのである。日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた。」
 
 
 この建物は「サッスーン財閥」の居城だった「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」である。頭頂部のピラミッドを思わせる塔が特徴であり、当時は「東洋一のビル」と称えられた。10階から上のペントハウスはサッスーンの住居である。1929年に建設された。

 上の家系図は広瀬隆氏が作成したものである(『赤い楯』より)。「サッスーン財閥」は、アヘン王デビッドド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン、次いでエドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。(「サッスーン家」は「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んでいる) サッスーン一族の繁栄の最盛期を具現化したビクター・サッスーンは、不動産投資に精を出し、破綻会社の不動産を買い叩き、借金の担保の不動産を差し押さえた。

 そして彼は、「グローヴナー・ハウス(現・錦江飯店中楼)」、 「メトロポール・ホテル(現・新城飯店)」、「キャセイ・マンション(現・錦江飯店北楼)」などを次々と建築した。中でも彼の自慢は、上の「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」で、サッスーン家の本拠とすべく建設したものであった。その後、貿易、運輸、各種軽工業などにも事業展開していったビクター・サッスーンの最盛期の資産は、上海全体の20分の1もあったと言われている。彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。

 
(左)上海のユダヤ教徒 (右)上海のユダヤ人学校の生徒たち 明治大学教授の阪東宏氏によれば、1939年2月にアメリカを訪問したビクター・サッスーンは、ニューヨークで記者会見を行ない、次のような趣旨の発言(反日発言)をしたという。 「日本軍による対中国作戦と中国側の焦土作戦の結果、中国大陸では来年大飢饉を免れないであろう。

 『日支事変』後の日本の中国経済開発事業は、アメリカ、イギリス、フランスの財政支援なしには不可能であろう。日本の戦略物資の70%を供給しているアメリカ、イギリス、フランスが対日輸出禁止を実施すれば、日本は中国大陸から退却せざるをえない。また、日華戦争の経費負担の増加のため、日本は中国よりも赤化する可能性がある。

 なお、アメリカ、イギリス、フランスの対中国投資は、今後も安全が保証されるであろう。」この反日発言に神経をとがらせた日本の外務省は、在ニューヨーク、上海の総領事館あてにサッスーンの言動を更に調査、報告するよう指示したが、意味のある調査結果は得られなかったという。 海軍の犬塚惟重(いぬづかこれしげ)大佐の「犬塚機関」は、サッスーン家が反日的姿勢を改め、日本に協力してくれることが何よりも重要だと考え、1939年夏、ビクター・サッスーンを上海の虹口地区(通称「日本租界」)に招いて会食を開いたりした。しかし努力むなしく空振りに終わった……。
 
犬塚惟重(いぬづか これしげ)・海軍大佐海軍の「ユダヤ問題専門家」で、上海を拠点にユダヤ問題の処理に当たった。戦後は「日ユ懇談会」の会長を務めた。


 1939年夏、「犬塚機関」の招待に応じて会食に出席したビクター・サッスーン(右から2人目)。右端は犬塚惟重大佐。 ところで、在米の「チャイナ・ロビー」、すなわち、戦前から戦中、戦後にかけて、ワシントンに「親中国」、つまり蒋介石を支援して「反日」という基軸で戦った一群の人たちがいたが、その中心人物は、ヘンリー・ルースというユダヤ人であった。

 ヘンリー・ルース  中国で生まれ育ったユダヤ人で、ラジオ・映画ニュースにも大きな影響力を持っていた彼は、1930年代から、親中反日の一大キャンペーンを張り、アメリカのアジア外交、特に対中国外交に大きな影響を及ぼした。 

 彼は雑誌『タイム』 『ライフ』 『フォーチュン』 『スポーツイラストレイティッド』をつくり、ことごとくアメリカの雑誌文化の原点を築き、「一代でアメリカの雑誌ジャーナリズムを築いた男」と評されていたユダヤ人である。中国山東省で生まれ育った彼は、大戦中、「チャイナ・ロビー」のボスとして、その資金源となって懸命に中国を支援した。蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴として絶賛し、蒋介石夫人の宋美齢をアメリカに呼んで一大ヒロインに祭り上げるなどして、親中反日のキャンペーンを大々的に展開し続けたのである。

 「チャイナ・ロビー」のボスであったヘンリー・ルースは、蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴として絶賛し、蒋介石夫人の宋美齢をアメリカに呼んで一大ヒロインに祭り上げるなどして、親中反日のキャンペーンを大々的に展開し続けた1936年に誕生した彼の雑誌『ライフ』は、フォト・ジャーナリズムを駆使した斬新な手法で、創刊とともに世界中のジャーナリズム界に衝撃を与えていたが、1937年に日中戦争が始まると、日本を悪玉にする有名な写真=「ガレキの中にたった一人ポツンと取り残された赤ん坊」(上海で撮影)を掲載し、この写真は何千回とコピーされ、欧米社会に「日本=悪」のイメージを定着させた。
 
 上は雑誌『ライフ』に掲載され、世界的に大反響を巻き起こした写真=「ガレキの中にたった一人ポツンと取り残された赤ん坊」である。この写真を見た世界中の人たちは、日本の虐殺を激しく非難した。日本の運命を決定した一枚である。しかし、この写真には下のような別物があり、すぐ横に保護者となりうる大人がいて別の子供もいた。

 わざわざ一人ぽっちの写真を撮って、反日感情を盛り上げたのである。また、彼の雑誌『タイム』は、蒋介石夫妻を1937年度の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選出し、徹底して親中・反日の世論を煽り、ほとんどの新聞・雑誌がそれに追随した。「この男(ヘンリー・ルース)によって、1930年代から『真珠湾』に向かうアメリカの世論は『反日・親中国』に変えられたといっても誇張ではない」といわれている。

 ※ ヘンリー・ルースが創業した「タイム・ライフ社」は、1989年に「ワーナー・ブラザーズ」を吸収合併し(「タイム・ワーナー」の誕生)、現在、世界最大の総合メディア企業になっている(売上高268億ドル、社員数7万人)。
 
 戦時中、アメリカの雑誌『タイム』の表紙を飾った蒋介石夫妻『タイム』は、ユダヤ人ヘンリー・ルースが
1923年に創刊したアメリカの週刊誌であり、世界初の「ニュース雑誌」としても知られている。この雑誌は、蒋介石夫妻を1937年度の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選出し、親中・反日の世論を煽った。
ちなみに、ルーズベルト大統領も強烈な「親中反日主義者」で、中国を溺愛し、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られているが、彼の母方の実家であるデラノ家は、サッスーン家と同じく中国へのアヘン貿易で財をなしたファミリーであった。また、ニューヨークのマンハッタン島の不動産を買い占めたアスター家も同様である。
 
 フランクリン・ルーズベルト大統領の祖父 ウォーレン・デラノ・ジュニア  全米最大のアヘン取り引き業者だった (中国へのアヘン貿易で巨利を築いた)ところで、1936年、中国で突然「貨幣改革」が断行され、蒋介石率いる南京政府発行の紙幣以外は中国の紙幣ではないと宣言されたが、この大改革も中国の「サッスーン家」などのユダヤ財閥によってもたらされたものであった。彼らは、この紙幣によって中国の統一をはかろうとしたのである。

 それはまた、この紙幣を使えない日本軍占領地のあることを、世界に訴えるということでもあった。(この一連の交渉にあたったのが、ポーランド系ユダヤ人で、イギリス政府の最高財政顧問として有名であったリース・ロス博士である)。

※ この「貨幣改革」によって、中国の銀は奔流のような勢いで海外に流出した。もっとも、中国政府は輸出銀に対して関税を課して、一挙に二重の利を得た。そして、中国での1円の銀は海外銀行に預けられ、ユダヤ系銀行はこれをロンドン、ニューヨークの市場に1円80銭で売り飛ばして莫大な利益をあげ、それを蒋介石一派と山分けにしたのである。

 イギリス政府は、中国に対して銀を預かる代わりに新紙幣に保証を与えたが、もし中国側がイギリスの意に反すれば、紙幣は紙切れになるしかなかった。「サッスーン財閥」は、この中国銀準備を担保にして、日本との戦争のための大量の武器を蒋介石政府に買わせた。(サッスーン財閥系列の「香港上海銀行(HSBC)」は、この銀回収を利用して、3億元の巨利を占めたといわれている)。
 
 1865年に、ロスチャイルド一族のメンバーであるイギリス系ユダヤ人のアーサー・サッスーン卿によって香港で創設され、1ヶ月後に上海で営業を開始した「香港上海銀行(HSBC)」。この銀行の設立当初の最大の業務は、アヘン貿易で儲けた資金を、安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。この銀行は、第二次世界大戦前、上海のバンド地区 を中国大陸の本拠としていたが、1949年の中国共産党政権成立後の1955年に、本社ビルを共産党政権に引き渡した。

 その後、中国各地の支店は次々に閉鎖された。しかし現在、この「香港上海銀行」は、英国ロンドンに本拠を置く世界最大級の銀行金融グループに成長している。ヨーロッパとアジア太平洋地域、アメリカを中心に世界76ヶ国に9500を超える支店網をもち、28万人の従業員が働き、ロンドン、香港、ニューヨーク、パリ、バミューダの証券取引所に上場している。時価総額規模では、アメリカの「シティグループ」、「バンク・オブ・アメリカ」に次ぎ世界第3位(ヨーロッパでは第1位)である。

 現在、香港の「中国銀行」及び「スタンダード・チャータード銀行」とともに香港ドルを発券している。「サッスーン財閥」は貨幣改革を第一弾として、さらに第二弾を計画した。それは上海を起点として、杭州、南昌、長沙、雲南を経てビルマ(パーモ)に達する約3000キロの「鉄道敷設計画」である。これを欧米のユダヤ資本が分担し、「サッスーン財閥」が現地で維持する、という大構想であった。このときの膨大な費用も、ユダヤ系銀行団を通してイギリス政府から供給されたものだった。

 華中~華南横断鉄道路線図  この鉄道計画が完成すれば、それは日本締め出しの策ともなる。華南、華中をかためた上で、華北から日本を駆逐するという手順となる。この鉄道が完成すれば、北部ビルマのパーモで、既成のビルマ鉄道に連結し、これによって東シナ海とインド洋を回るしかなかったものが、陸路、最短距離で接続する。そしてもちろん、当時ビルマは大英帝国の領土であり、上海は「サッスーン財閥」の牙城である。

 そして、この鉄道開通に続く開発が進めば、中国経済の中心は、一部、南昌(江南省)に移るものと観測された。この件に関して、極東とユダヤ人の歴史に詳しい研究家(古神道の関係者)は、次のように語っている。

(以下、彼の話を簡単にまとめておきたいが、内容が複雑なので興味のない方は読み飛ばして下さい)。 

 当時、日本の軍部は現地からの情報を分析してユダヤ人の流れに二派(有産階級と無産階級)があることに気付き、ユダヤ問題を担当することになった〈安江・犬塚〉両機関長は、ナチスのユダヤ政策とは違う解決方法を模索することになった。彼らは「様々な情報を収集しながら、ユダヤ人指導部とも会い、ヨーロッパから逃げてくるユダヤ難民の保護に当たり、極東ユダヤのイギリス依存を、日本依存に転向させるなどの工作に従事する」ことを決定した。日本海軍の犬塚大佐(犬塚機関)は、上海在住の英国籍ユダヤ指導者階級の難民救済委員会ならびに無国籍ロシア系アシュケナジー協会(3000人)と連絡をとり、上海におけるユダヤ難民を保護し、極東ユダヤ指導者を通じて“日米関係を打開する工作”に乗り出した。

 この動きに連動して、東京のユダヤ問題委員会(外・陸・海の三省)は「上海に〈ユダヤ地区〉を設置することは、現地機関において案を作成すべし」となり、その後、内務省出身の村井順(事務官)の支援が出る。それは彼の持論「上海自由港論」で、上海市街から約五十哩半径の独立自由港区域を設置することであって、これによってユダヤ難民は大量に受け入れられることになるはずであった。これを知った、フランス系ユダヤ商人からは〈仏印ルート〉で「ニッケル、アルミニウム」などの軍需物資の提供申込みがあった。そこへアメリカの強硬排日の宣言が行なわれ、ルーズベルト政権は強引に第二次世界大戦に参加しようとしてきたのである。

 つまり「上海自由港」が作られるなら、アメリカの支那大陸での市場喪失もさることながら、「日本がシンガポール、ジャワ、スマトラ、ボルネオの錫・ゴム・石油を占有する」であろうとの解釈から、アメリカはこれを失いたくなかったからで、ルーズベルト大統領はアメリカ系ユダヤ人の利権(約600万人の利権)保護のため「上海自由港論」を潰す工作に出たのである。さらに困ったことに、日本のユダヤ難民処遇問題に対するドイツ政府(ナチス)の邪魔もひどく、日本陸軍内部の「親独派中堅将校」(四天王中将を中心にする)の反撃に遭い「ユダヤ工作と対米工作」の両面作戦は絶望的となり、アメリカ系ユダヤ本部は「日独伊三国同盟」を知って、日本海軍のユダヤ難民の受け入れ案に不賛成の意を表明してきたのである。

 これがために上海ユダヤと米国ユダヤが対立することになり、頼れるのは日本だけとなったユダヤ難民は、「犬塚機関」を心から頼みにするのだが、日独伊軍事協定が結ばれるや、英米系租界(共同租界)でユダヤ難民を受け入れようとする工作が起きる。まさにユダヤ難民の奪い合いとなり、サッスーン財閥の“軍民離間工作”は功を奏した。

 つまりサッスーンはユダヤ人ではあっても、心は「英国人」であったから、英米共同の日本攻撃を支援したのである。1941年12月8日、日本の軍部がサッスーン財閥を接収したとき、そこで押収した資料に「英国大使館宛機密情報綴」があった。それはサッスーンの個人的軍事情報だった。つまり彼がイギリス王室直属のスパイ(キング・サービス)であったことを物語る。

 (日本との戦争で、自分の身の危険を感じたビクター・サッスーンは、財団の機構だけを残してアメリカに逃げ、その後バミューダ島で余生を送った)。更に日本軍が1942年2月6日に上海で入手した「重要極秘文書」によって、上海で活動していたアングロサクソン(英米)系政治結社は、アメリカの植民地政策を支援しており、宋子文、宋美齢、王正廷、顔慶恵らの中国国民党政府要人を利用して大仕事を繰り広げていたことも判明した。

 「上海シオニスト協会」(1903年に設立)の機関紙『イスラエルズ・メッセンジャー』の主筆だったユダヤ人N・B・エズラは、もともとは親日家で雑誌に講演に〈親日満〉の態度を示していたが、陰では神戸在住のユダヤ商人アンタッキーに、日本当局の動静を探らせ、情報の提供を依頼していた。彼の財閥「エズラ財閥」は、本業の土木建築業で満州開発に乗り込む予定であったが、

 エズラ本人は志半ばで倒れた。エズラの死亡後、「英国シオニスト協会」から上海に派遣されたユダヤ人メンデル・ブラウン博士が、『イスラエルズ・メッセンジャー』の主筆に就任した。この機関紙の論調は「日独伊三国同盟」成立以降、「親日」から「反日」に転じた。極東ユダヤの「満州開発計画」は中止になったが、中国大陸(中南部地域)の開発計画は存続した。この極東ユダヤの中国大陸開発計画とは「中南支横断鉄道」の建設と沿線の開発であった。

 この大計画の基礎調査は、国際連盟から派遣された「対中華技術合作調査委員会」の手に依ったもので、派遣されたポーランド系ユダヤ人リース・ロス博士の助手ハッス博士(ユダヤ人)は、「四川省の鉱山資源」「鉄道」「水利事業」「国幣改革と準備銀行」「米国銀行政策の支那に及ぼせる影響、ならびにロンドン市場への波及」などの調査資料を提供した。

 その上、ロンドンでのユダヤ会議の数ヶ月前にヒューゲッセン英国大使は、ビクター・サッスーンの秘書長D・S・イジケルを同道して、四川省をはじめ中国奥地を実地調査せしめた、その報告書に基づき「ロンドン・ユダヤ会議」を開き、12ヶ年計画で「中南支横断鉄道」を建設し、沿線の資源開発をするはずであった。 上海~杭州間は英国系ユダヤ資本で投資する

◎玉山~南昌間は中国建設銀行公司を通じたサッスーン財団で投資する 

◎南昌~長沙間は英国の団匪償還基金理事会が中国側の手を経て投資される

◎長沙~洛陽間はドイツ系ユダヤ財閥オット・ウォルフ会社が投資する

◎洛陽~雲南・ビルマまでの間はサッスーン財閥が投資する

◎その支線である重慶、成都、南京、桂林、仏領インド支那鉄道(ベトナム)に通ずる線は、ロスチャイルド財閥のフランス分家が投資するなお、この沿線にはアメリカ系ユダヤ資本が鉱山、水力電気、バス路線を開発投資するはずであった。

 だから、その頃に大慶油田と大陸棚油田の実測調査も、アメリカの専門技師が調査に入っていたのだが、「採油着手には時期尚早」という戦略で、その報告は秘められていたのである。英国は、これらの資源権益を担保として、2000万ポンドの対支経済開発のクレジットを設定し、蒋介石政権による“経済的全国制覇”を全面的にバックアップしたのである。

 とはいえ、それはサッスーン財閥の代弁であって、それに対する見返りは治外法権の温存、中国農工銀行の紙幣に「中央、中国、交通」の三銀行の“法定通貨”と同等の資格を与えることを蒋介石政権に承認させたのであった。これによって蒋介石政権は、中南支の全円を制覇し「ABCD(米・英・支・蘭)包囲陣」は完成し、国際的な反日戦線が生まれたのである。

 またこれによってサッスーン財閥は、その所有銀貨1600万元を「ナショナル・シティバンク」(ロックフェラー財団)に送金し、手持ちの銀貨を処分して、国民政府買い上げの6割回収率で640万ドルの利益をあげ、さらにこの金を上海に取り寄せて法幣発行債権を持つ中国農工銀行に投資し、蒋介石との合弁事業を創立したのである。

 アメリカのマネートラストは蒋介石政権に公債発行を保証し、その抵当として銀1200万元を、上海の「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク」(花旗銀行)に保管させ、その銀貨で蒋介石政権の有価証券を買収し、これをロンドンに売り出して巨利を占めた。また、蒋介石政権のパトロンである「浙江財閥」(蒋介石夫人の宋美齢の一族・宋家)などの官僚資本も1500万ドルの紙幣増発権を入手し、それが法定紙幣に交換されることによって“現金”に化し、これによって蒋介石は軍需物資を購入したのである。

 これに反して、大損をしたのは日本の諸銀行であった。銀を保有していた日本の銀行は、今までの一切の貨幣と共に6割率で交換され、1500万ドルの保有銀を死蔵したばかりか、莫大な損失をこうむったのである。


第10章:蒋介石(中国国民党)と毛沢東(中国共産党)

 「サッスーン財閥」が支配していた「香港上海銀行」の本拠地が日本軍によって踏みにじられると、日本を倒す新たな反撃のため、欧米のユダヤ資本と華僑の地下連合組織が強力な網の目を張りめぐらしていった。こうしたゲリラによるレジスタンスの構造が、今日の華僑財閥の母体になったのである。

 しかし、その後、欧米のユダヤ資本による中国大陸の利権支配はうまくいかなかった。中国国民党の失政によって、蒋介石は大陸を失い、台湾に逃げ込む始末となり、ユダヤ資本は断腸の思いで上海を明け渡さなければならなかった。「サッスーン財閥」の在中国資産は、あらかた中共(中国共産党)政権によって没収されてしまったのである。 

●ところで第二次世界大戦後に「朝鮮戦争」に参加したマッカーサーは、この極東ユーラシア大陸での戦略面での困難さを体験したとき、日本のかつての“アジア侵略”を顧みて、「日本のアジア侵略は“自衛”のための戦争であった」という見解を示している。

※↑1951年5月3日の米国上院の外交委員会で証言。

、毛沢東は数人のユダヤ人顧問団を持っていた。その中の一人は、1946年から1976年まで毛沢東の側近として密着していたシドニー・リッテンバーグ。 

 日露戦争後の「ポーツマス講和会議」 (1905年)
従来から満州に対して強い関心を持っていた米国の鉄道王ハリマンが、日露戦争直後、早速日本に南満州鉄道を合弁事業とするよう申し入れている。このハリマンは、またさらに日本政府が日露戦争での軍費のために行なった外国借款(しゃっかん)の返済に苦慮するであろうことを見越して、その買収を申し込んだりした。

 もちろん、満州を再び列強角逐(かくちく)の地にしたのでは、多大の犠牲を払って日露戦争を戦ったことが無意味となるため、日本政府は最終的にこれを拒否し、米国の介入意図は失敗に終わったのである。」 「明治42(1909)年には、ノックス国務長官が、満州における日露協調体制を壊すために、満州諸鉄道の中立化を提案している。

 この提案の狙いは、日露両国によって独占されていた満州における鉄道権益を喪失させ、米国も含めた国際管理に移行させようとしたものである。またそれが無理な場合には、清朝発祥の地である満州で日本が勢力を伸ばすことを好まない清国をたきつけて日本側に対抗しての米資本による満鉄併行線の建設を計画した。しかしながらいずれも、米国の主張より日本の立場を認めた列国の反対で失敗に終わったのである。その最初の結実が、1921年(大正11年)の『ワシントン会議』の招集であった。

 この『ワシントン会議』の狙いは、明らかに日露戦争及び第一次世界大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携のもとに否定してしまうことにあったと言ってよい。会議における決定事項に次のようなものがあったからである。

【1】日英同盟の廃棄
【2】日本海軍の軍備制限
【3】日本の満州における権益の存在を認めた石井=ランシング協定の破棄

 これらは米国と中国政府とがいわば反日同盟を結び、それが外交的勝利をおさめたということを意味する。米国の狙いは、『日本の中国における影響力の全てを、一度に排除することは不可能なことであり、一枝ずつ徐々に折り捨てていかなければならない』(後の米国務省顧問・ホーンベック)にあった。『ワシントン会議』は日米の『政治的決闘』の場であり、その勝利者となったのは米国であった。」

 「ワシントン会議」 (1921年)第一次世界大戦後の1921年、アメリカのハーディング大統領の提唱で
 ワシントンで開かれた国際会議。この会議によって「日英同盟」が破棄され、東アジア太平洋地域での新たな国際秩序となる「ワシントン体制」が発足した。この会議により形成された体制は、ヨーロッパの「ヴェルサイユ体制」と並んで、第一次世界大戦後の国際秩序を確立することになった。

 この会議を主催し指導したアメリカは外交的勝利を収め、国際的指導者の地位についた。国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議であった。「米国は、『ワシントン会議』において日英同盟を英国に圧力をかけて解体させ、次いで日本と条約を結んでいた中国の北京政府ではなく国民党政府を支援して、日支条約の否認、日本の満州権益の即時回収を叫ばせた。一方、ロシア革命によって成立したソ連に対しても、米国はイデオロギー的には不仲であったにもかかわらず、米ソ協調路線をとり、日本の満州権益をめぐる反日包囲網を組み入れていったのである。

 後に行なわれたABCD包囲網による経済圧迫こそが、わが国の大東亜戦争開戦決意の導火線とされているが、実は、以前から米国を中心として中国より日本を追放するための反日包囲網が順次形成されていたのである。昭和16(1941)年になると、大統領秘密命令で中国側に米空軍軍人を義勇軍(フライング・タイガース)という名目の下に大量の飛行機と共に投入した。この事実は、日本の真珠湾攻撃以前に、米軍が中国への武器援助を通して、支那事変に介入するのみならず、実質的に参戦していたことを如実に示しているのである。 〈中略〉 」
 
アメリカ義勇航空隊「フライング・タイガース」(ウォルト・ディズニーがデザインした)

 表向きは「義勇軍」だが、実質はアメリカのエリートパイロットがほとんどで、アメリカ政府肝いりのれっきとした陸軍の正規部隊であり、そのことは今日、アメリカ政府が認めている。「フライング・タイガース」は大戦を通じて、日本軍の航空機を296機撃墜し、1000人以上のパイロットを戦死させたとされる。(中国・蒋介石政権がアメリカに借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた)。

 この「フライング・タイガース」の歴史は、日本の真珠湾攻撃以前に、中国・蒋介石政権の工作によって、アメリカが対日戦争に踏み切っていたことを白日の下にさらす。「ここまで改めてまとめ直して見ると、米国が中国全土を含むアジアの制覇を目指し、その第1段階として日本の満州権益への介入を繰り返し試みた。

 その手段として重要視されたのが、満州諸鉄道中立化計画に代表される直接介入ではなく、第1に中国の反日ナショナリズムを育成し、これを代理者として日本とぶつからせる、第2に明治以来の日英同盟の廃棄を始めとする日本の国際的地位を保障していた様々な基盤を堀り崩す外交戦略の展開という間接介入の方法であった。米国がこの基本戦略をトータルな形で展開し始めたのは、実に第一次世界大戦からであった。

 そういう意味では、昭和史を理解するには、大正年間の『ワシントン会議』前夜からの日米関係から始めなければならない。まさに昭和天皇の御指摘になられたように、大東亜戦争の遠因は、この時代における米国の露骨な対日圧迫政策とこれに対する日本側の不信にある。昭和史とは、この確立された米国の極東政策を中心に対立を深めた日米関係が破局に向かって驀進(ばくしん)していった歴史であったと言うことができよう。

 すなわち、満州を国防上の生命線と考えた日本は、それを守るためには武力発動をも辞さない覚悟を世界に示した。ところが、米国は、日本を共産主義ソ連の南下からアジアを守る安定勢力としてではなく、アジアの侵略者と見る立場から中国側(蒋介石)への軍事援助と対日経済制裁という手段によって日本を屈服させようとしたのである。

中国戦線のアメリカ軍総司令官は語る 「米国は敵を間違えた」

 アメリカの孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米・開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、次のような日本を擁護する言葉を残している。「アメリカ国民の85%は、第二次世界大戦はもとより、いかなる外国における戦争に対しても米軍を派遣することに反対していたという現実にも関わらず、ルーズベルトは、欧州戦争の開始当初から、米国は同戦争に参戦すべきであると確信していた。この大戦は、結果として、30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして5000億ドルの出費を米国にもたらしたのである。〈中略〉

 日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行および海軍のための石油なしに存立できなかった。非常な平和愛好家である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したい、と繰り返し要望していた。彼は、戦争を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦および対独戦を行なうことを決意していたというだけの理由で、日本首相との話し合いを拒否した。

 駐日米国大使であったジョセフ・グルーは、日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたかを承知しており、かかる首脳会談の開催を強く要請した。しかしルーズベルトおよびその側近の介入主義者たちは、策謀とごまかしとトリックを用いて、全く不必要な戦争へ我々を巻き込んだのである。」
 
 
(左)ハミルトン・フィッシュ(ハーバード時代)
(右)彼の著書『日米・開戦の悲劇』(PHP文庫)… ハミルトン・フィッシュの略歴 …ハーバード大学を卒業し、第一次世界大戦に従軍の後、1919年、米国下院議員に選出され、1945年まで12回にわたり選出される(共和党員)。アメリカの孤立主義の指導的代表者であり、ルーズベルト大統領の外交政策を鋭く批判した。1991年没。

※ ハミルトン・フィッシュ自身は「孤立主義者」という言葉は、ルーズベルトがプロパガンダのために捏造した、不正確な表現で、本当は、自分は「不干渉主義者」だと言っている。ところで、第二次世界大戦の「中国戦線」のアメリカ軍総司令官で、蒋介石の軍事顧問を兼任したアルバート・ウェデマイヤー大将は、戦後に出した『回想録』の中で「米国は敵を間違えた」と述べている。
 
(左)アルバート・ウェデマイヤー大将 (右)彼の回想録『第二次大戦に勝者なし』(講談社) このアメリカのウェデマイヤー大将は、連合軍東南アジア副司令官、中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長を歴任して1951年退役。1989年没。 「ルーズベルトは中立の公約に背き、日独伊同盟を逆手に取り、大日本帝国に無理難題を強要して追い詰め、真珠湾の米艦隊をオトリにして米国を欧州戦争へ裏口から参加させた。 〈中略〉

 米英は戦閾には勝ったが、戦争目的において勝利者ではない。英国は広大な植民地を失って二流国に転落し、米国は莫大な戦死者を出しただけである。真の勝利者はソ連であり、戦争の混乱を利用して領土を拡大し、東欧を中心に衛星共産主義国を量産した。米国は敵を間違えたのだ。ドイツを倒したことで、ナチス・ドイツ以上に凶悪かつ好戦的なソ連の力を増大させ、その力は米国を苦しめている。また日本を倒したことで、中国全土を共産党の手に渡してしまった。やがて巨大な人口を抱える共産主義国家がアジアでも米国の新たな敵として立ちふさがるであろう。」

アメリカも第二次世界大戦の敗戦国 (勝者は毛沢東とスターリンだけ)

●『新・文化産業論』や『失敗の教訓』など数多くのベストセラーを世に出している日下公人氏(東京財団会長)は、日中戦争の実態について、著書『人間はなぜ戦争をするのか』(三笠書房)の中で、次のように鋭く述べている。
■■追加情報 4: ホロコーストに匹敵するスターリンの「国家犯罪」

●ソ連のヨシフ・スターリン(グルジア人)は、一応、有能なユダヤ人を将兵として重用してはいたものの、他方では虐殺や粛清の手をゆるめようとはしなかった。ユダヤ人であろうと非ユダヤ人であろうと、スターリンにとって自分を否定するものは誰もが敵となった。

 スターリンの粛清は1934年の党幹部の暗殺をきっかけに始まった。「狂犬は殺せ」のかけ声のもと党の幹部たちが次々に刑場へ消えていった。共に戦ってきた同志を次々に抹殺していった。スターリンは自らの偉大さをアピールし、正当化することが仕事となった。モスクワはいたるところ、スターリンの肖像画、彫像で覆われていった。自分の前に神があってはならなかった。

 宗教儀式は禁止された。ヨシフ・スターリン(グルジア人) 粛清はクレムリンからロシア全土に広められ、ユダヤ人、外国人、知識人たちが次々と「敵」の烙印を押されていった。全土に200もの「強制収容所(ラーゲリ)」が作られ、無差別に大勢の人間が逮捕され、理由もなく処刑された。助かったものには強制労動の生き地獄が待っていた。全土に監視と密告制度が、網の目のように張りめぐらされていった。知らないうちに人が消えていった。家庭の中でさえ密告が横行し、人々は疑心暗鬼になった。
 

 雪原に残る「強制収容所(ラーゲリ)」跡ロシア全土には200もの「強制収容所」が作られ、無差別に大勢の人間が逮捕され、理由もなく処刑された。スターリニズムによる死亡者数は1800万人ともいわれる。 ポーランドで生活していたユダヤ人メナヘム・ベギン(のちのイスラエル首相)は、1940年9月、リトアニアのビリニュースにいたところをソ連の秘密警察に逮捕され、ルキシキの牢獄から極北ペチョラの収容所へと辛苦の遍歴生活を送った。(1941年に独ソ開戦にともなって、その冬、ポーランド市民に特赦が発せられ、彼は釈放された)。

 彼が書いた『白夜のユダヤ人──イスラエル首相ベギンの手記』(新人物往来社)という本は、彼が「ラーゲリ」で体験したことを赤裸々につづった自伝的回想録である。興味のある方は一読を。
 
(左)メナヘム・ベギン。第6代イスラエル首相
(右)彼の手記『白夜のユダヤ人』(新人物往来社) 

 第二次世界大戦中、ソ連在住のユダヤ人のうちほとんどはシベリアに連行された。15%以下がドイツ軍の手に落ちた。赤軍中で、あるいは「強制収容所」で少なくとも100万ものユダヤ人が死亡した。最近の研究によって、スターリンもまたヒトラーと同じように、ユダヤ人問題の「最終的解決」を図ろうとしていたことが明るみに出ている。

 つまり、スターリンはユダヤ人たちの集団流刑の計画を立てていたのである。トルストイの子孫である作家ニコライ・トルストイは、その著『スターリン』の中で次のように述べている。「1953年には、各大学からユダヤ人の徹底的な追放が行なわれた。そしてとどのつまり、スターリンはユダヤ人問題の最終的解決を準備していたのであった。ロシアのユダヤ人は、すべて北カザフスタンの荒野に放逐されるはずであった。スターリンの死によって、初めてこのヒトラーばりの課題の完遂は妨げられたのである。」

(転貼り付け終わり)

副島隆彦拝
copyright(c) 2000-2009 SNSI (Soejima National Strategy Institute) All Rights Reserved.