「50」 かつて私の弟子であった奥田君が書いた「正義論」が見つかりましたので、ここに載せます。
副島隆彦です。かつて私の弟子で、大阪に住む奥田君が書いた、「正義論」を載せます。

 この論文は、アリストテレスの系統の冷酷な「分配的正義」の正義(ジャスティス)に、傾いていて、リバータリアン思想の影響をうけた、「法と経済学派」の考えに近いです。 それとは大きく対立する「永遠の正義、人間を大切にする思想としての正義論」の説明はなされていません。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)


【今日のぼやき】論文『正義(justice)とは何か―副島隆彦の正義論を読み解く―』


「547」 論文『正義(justice)とは何か―副島隆彦の正義論を読み解く―』。これは『日本の近代(a modern)への対策と副島隆彦の思想』の続編でもあります。 奥田勝典 記 2004.4.3

論文『正義(justice)とは何か―副島隆彦の正義論を読み解く―』 奥田勝典 記

 『正義論』とはジョン・ロールズが書いた有名な本だが、現在この本は絶版になっている。出版社に電話で聞いてみたが、重版の予定はないようだ。

 私は洋書を25ドルで買ったが、日本では定価が6,500円で、ネット・オークションで16000円の高価格で売られているのを最近見た。あまりこんなことは書きたくないのだが、大阪私立中央図書館という大阪最大級の図書館にもこの本はないのだ。そのこと自体が、日本人の政治思想における水準の低さを物語っている。

 政治哲学史家のレオ・シュトラウスの弟子たち(disciples)と噂される思想家集団のネオ・コン派が、ブッシュ政権を操っているという現実を目の当たりにすると、日本の今の状態に憂慮しないわけにはいかない。

 実は、私には、何故このロールズの『正義論』で、所得や富を再分配することが正義(justice)かどうか議論しているのかがわからなかった。そもそも正義(justice)とは何なのかがわからなかったからだ。

 OXFORD英英辞典にはjustice(正義)とは the fair treatment of people(人々を公正に扱うこと)と書いているが、何が fairness (公正)の基準となるのかが疑問だった。しかし、ようやく、正義(justice)とはそもそも何なのか、ということを理解することが出来たので、その理解できたことを書こうと思う。

まず、副島隆彦著ぼやき「539」より転載する。


(転載はじめ)

 女神ユスティティアは右に天びん棒を持っていて、左手に剣(つるぎ)持っているのである。これは、パワー、つまり、暴力、軍事力、支配力を意味しているということだ。相手を剣の力で押さえつけるわけである。

(副島隆彦著ぼやき「539」)

(転載おわり)


奥田勝典です。この正義とは力である、ということはすぐ理解できた。以下の本を読んでいたからだ。

Natural Right and History By LEO STRAUSS p133より引用します。

(引用はじめ)

 Justice and coercion are not mutually exclusive; in fact, it is not altogether wrong to describe justice as a kind of benevolent coercion. Justice and virtue in general are necessarily a kind of power. To say that power as such is evel or corrupting would therefore amount to saying that virtue is evil or corrupting.

(Natural Right and History By LEO STRAUSS p133)

(引用おわり)

レオ・シュトラウス著『自然権と歴史』p149より

(引用はじめ)

  正義と強制は相互排除的なものではない。事実、正義を一種の善意ある強制とのべたとしても、あながち間違っているとは限らない。正義徳一般は、必然的に一種の力である。力そのものが悪いとか腐敗をもたらすと言うのは、したがって、徳は悪いとか腐敗をもたらすと言うのと同じことになろう。

(レオ・シュトラウス著『自然権と歴史』p149)

(引用おわり)

奥田勝典です。このように、レオ・シュトラウスは、正義・徳一般は必然的に一種の力である(Justice and virtue in general are necessarily a kind of power.)と言っている。言い換えれば、力がないと正義は実現されないということであるが、これはもっともなことだと思う。爆撃機に民間人が空爆されているときに、いくら正義が踏みにじられていると念仏のように叫んでも、何も効果がないのと同じことだ。

 私は、このレオ・シュトラウスの簡潔な定義を、先生である副島隆彦に見ていただくだけのつもりで、メモとして書いた。ここで終わるはずだった。しかし、なにげなく洋書のレオ・シュトラウスの『自然権と歴史』の1枚目のページをめくった時、私は心の中で、ああっ、と声をあげた。頭の中を稲妻が走った。そしてそのときに、正義とはそもそも何なのかがわかった。その後、私は、思いつくかぎりの反論を考えたが、ほんの数十秒後に間違いないと確信した。

 では、何を基準に人に判決を下すのか?何を基準にfairness(公平、公正)だというのか?

 そこには、1953年の初版の表紙が記念に収められていた。その旧版にあたる表紙には、Natural right and history というタイトルと、作者名By LEO STRAUSSと書かれている間に、正義のもう1つの側面を表す「天びん」の絵が大きく描かれていたのだ。そして、これが正義の基準とは何であるのかを物語っているのだ、と気付いた。

 つまりこの絵で、レオ・シュトラウスは、Natural Right(自然権)が正義判断の基準であり、ドイツの人定法は正義判断の基準などにはなりえない、と暗に批判しているのだ。だから、人定法、自然法、自然権、人権それぞれの思想対決とは、私の思想こそが正義の基準となるのだ、と言っているのである。

 誤解を恐れずに、この思想対決を単純化して書くと、人定法派は人が決めた法が正義の基準なのだ、自然法派は神の法が正義の基準なのだ、自然権派は神より与えられた所有権が正義の基準なのだ、人権派は神の望む万人の幸福が正義の基準なのだ、と言っているのである。

 だから、私たちが思想を語るときそれは正義の基準を語っているのだ、と言ってよい。そしてそれを正義論というのだ。この思想対決については、副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』第4章に詳しい。

これで、今まで読んでもさっぱりわからなかった、『ノートン現代思想事典』に書かれていたことも理解できた。

The Norton Dictionary of Modern Thoughtより

(引用はじめ)

justice.

 said by many writers to be the first of social virtues, justice has been the subject of intense argument in the last two decades.Recent discussion has centred on the work of John Rawls, Robert Nozick and Friedrich von Hayek. John Rawls’s A theory of Justice (1971) argued that recent political theory had been too utilitarian (see UTILITARIANISM), too unconcerned with individual rights; by asking the question

‘What rules would mankind contract to obey if they were to establish a social order in conditions where none of them could take advantage of their fellows ? ’

 he hoped to arrive at an account of justice which any dispassionate reader would accept. Rawls’s view is that justice demands ‘maximum equal liberty’ and a distribution of economic benefits which makes the least-favoured person as well off as possible ―the so-called ‘maximin’ conception of justice, which concentrates on maximizing the minimum benefit.

 This view has been attacked both by Robert Nozick and F. A. von Hayek. In their view, justice is not a matter of how benefits are distributed, but a matter of protecting individual rights to resources.

 Hayek has argued that ‘social justice’ is a chimera, and that appeals to social justice imply that some authority or other, notably the STATE, has the right and the duty to distribute goods and opportunities as it sees fit. But this is incompatible with individual liberty, which requires that we should be able to use what is ours as we choose.

 Similarly Nozick denies that there is such a thing as ‘DISTRIBUTIVE JUSTICE’. The concept implies an agency entitled to achieve it, but when we look closely, we can see that everything worth distributing already belongs to some owner or other.

 All the rights over goods and opportunities that there are, are in the hands of single individuals. The state cannot lay hands on any of these things without violating those individual rights.Goods and opportunities are justly distributed when they are in the hands of their rightful owners. Any egalitarian (see EGALITARIANISM) claim for further redistribution is a reflection of the ‘politics of envy’, not of justice.

(The Norton Dictionary of Modern Thought)


(拙訳)

  正義とは、多くの書き手によって社会道徳的美点の第1の物であると言われ、正義はこの二十年間激しい論争の主題でありつづけてきた。

 近年におけるやり取りは、ジョン・ロールズ、ロバート・ノージック、そしてフりードリヒ・フォン・ハイエクの研究が中心になっている。ジョン・ロールズの『正義論(1971)』では、最近の政治理論は功利主義的になり過ぎ、個人の権利について無関心すぎると、以下の疑問を投げかけることによって述べる。

 「もしも、彼らのうちの誰も、彼らの仲間を利用出来ないような状態において社会秩序を確立しようとするならば、一体どのような従うべき規則を決めようとするのだろうか?」

 彼は、どんなに冷ややかな読者でも受け入れるであろう、正義についての個人的な体験にもとづくような話にする事を望んだのである。ロールズの見解は、正義は「最大限の平等な自由」と、最も恵まれない人びとが出来るだけ不自由しないような経済的利益の分配―最小の利益を最大化しようとするという、いわゆるマキシミン(奥田注:マキシマム・ミニモラムから由来する)という正義の概念―を要求する、というものである。

  この見解は、ロバート・ノージックとF.A.フォン・ハイエクの両方から攻撃されてきた。彼らの見解では、正義とは、どのように利益が分配されるかの問題などではなく、財産における個人の権利を守る事、という問題なのである。

 ハイエクは、「社会的正義」はキメラ(奇怪な幻想)であり、「社会的正義」への訴えは、何らかの権威、特に国家が、適正とみなすやり方で財や機会を分配する権利と義務を持つということを暗に意味することになるのだと主張する。しかし、これは、個人の自由とは矛盾する。そして、個人の自由は、私たちが、私たちの選択する私たちの物を使うことができるべきである、と要求するのだ。

 同じようにノージックも「分配的正義」などというものがありえるということを否定した。この考えは、政府が「分配的正義」を達成する権利を与えられている事を暗に意味しているのだ。しかし、注意深く見てみるならば、我々は分配するに値する全てのものが、既にある所有者に属している事を見ることが出来る。そこに存在する財や機会についての全ての権利は、個人個人の手の中に在るものなのである。

 国家は、それらの個人の権利を侵害することなしには、どのような物も手に入れる事は出来ないのだ。財や機会は、それらが正当な権利を持っている所有者の手の中にあるときにこそ正しく分配されている。それより先の再分配へのあらゆる平等主義者の主張は、「ねたみの政治的手段」の反映であり、正義などではないのである。

(引用おわり)


奥田勝典です。このように、自分の思想こそが正義の基準であるのだと主張しているのがわかると、簡単に理解できる。つまり思想対決とは正義論になるのだ。ちなみに、この『ノートン現代思想事典』での思想対決は、ハイエクとノージック対ロールズの対決なのだが、ハイエクはクラシカル・リベラル(古典的自由主義)であるし、ノージックの思想は独創的だが、これは人定法派と人権派の対決と言ってよい。

 それでは、何故、ここでの正義論が、所有権は絶対だとか、財を再配分するべきだ、などのお金の議論に終始するのだろうか?

 これを簡潔に説明すると、国家や社会というものが既に現実としてある今では、自然状態から社会契約をするということは、必然的に所有権を守る為の政府が必要なので(たとえ最小国家であったとしても)、お金の負担をどうするのかという議論になってゆくのだ、と言える。

 そして、ここで、ロールズは、恵まれない人びとがへのお金の再分配が正義の基準だと言っているのであり、ハイエクとノージックは所有権を守ることが正義の基準だと言っている。だから、どこまでが所有権なのかの議論が、正義論の論争となっている。近代以降の正義論とは、所有権の定義での争いなのだ。

 所有権の定義での争いにおける自然権派と人権派の対立は、The Declaration of Independence the Thirteen Colonies in Congress(アメリカ合衆国独立宣言)からの解釈と言ってよい。

(引用はじめ)

  We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty, and the pursuit of Happiness.

 我々は、自明の真理として、万人が平等に創造され、創造主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求が含まれていることを信ずる。

 The Declaration of Independence the Thirteen Colonies in Congress(アメリカ合衆国独立宣言)

(引用おわり)

奥田勝典です。「創造主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され」というところが、ロックの自然権という思想であり、神から与えられた所有は絶対なのだ、という正義の基準となる。そして、「幸福の追求が含まれている」という部分の解釈が人権派の思想につながる。ここが、解釈として対立するのである。

 だからアメリカでは、共和党が政権の時には共和党の思想にもとづいた正義の基準を政策で主張し、民主党が政権の時には民主党の思想に基づいた正義の基準を政策で実現しようとするのだ。つまり、お金持ちを優遇するのか貧乏人に福祉をするのかという、小さな政府か大きな政府かというのが議論の対象になる。司法においても同じことで、最高裁長官が共和党か民主党どちらになるかで正義の基準が変わるから大きな興味の対象となる。

 さらに、ハイエクとノージックは、所有権における「天賦」というロックの自然権の形而上学的な残滓を認めない人定法派なので、アメリカ合衆国独立宣言に基づく自然権派や人権派と対立する。所有権での大きな争いは、『ノートン現代思想事典』に書かれているようにここになる。

 ちなみに、自然権派や人権派は神を認めているので、大きくは自然法派に属す。だから、法思想においては人定法派と自然法派が一番大きな対立軸である。つまり、神を信じるのか信じないのかの問題だ。

 ここで、今後混乱しないように書くと、哲学事典などで正義を考えるときは、まず正義そのものについて考えるわけだから、力だとか公正なのだ分配なのだという定義から始まる。そのあとによく正義論(何が正義の基準かの思想対決)について書かれるのだが混同してはならない。この2つは分けて考えなければならない。ここを見誤るとまるでわからなくなる。

 また、この『ノートン現代思想事典』には、現代の思想を扱っているので、justice(正義)とはそもそも何かとは書いていない。reason(理性)、experience(経験)ものっていない。それは基礎的な哲学事典でやってくれということなのだろう。

 そして、それぞれの基準にもとづいて、正義の女神、ユスティティア(Justitia)のごとく正義判断をする。天秤で公正に利益配分し、力の象徴である剣で強制執行をする。正義に力が必要だということは、多くの人が認めるものだ。それがないと正義は機能しない。しかし、公正な利益配分という問題は、これからも論争の問題となるのだろう。ちなみに、justiceという語は、ラテン語ではそのまま彼女の名のjustitiaである。

 これまで分配的正義(distributive justice)について述べてきたが、これを別の角度から説明する。

副島隆彦著 ぼやき「539」より。

(転載はじめ)

 正と不正の問題というのは、簡潔に言えば、俗世間(世俗社会 セキュラリティ)においては、「利益の分配」と言うことに行き着く。ある人が、正しい人であって、ある人が悪の人であると言うことは無いのである。ある人の行動がすべて善であり、ある人の行動がすべて悪であるということもない。だから、争いごとやもめ事においても、結局、どこかで線引きがあって、それぞれの言い分のや主張に妥当性があるなどと言うことは、大人であればみんな知っている。そうすると、結局は、「利益の配分」ということになる。

(副島隆彦著ぼやき「539」)

(転載おわり)

奥田勝典です。上記の正義についての説明を矯正的正義(corrective justice)というが、これは人間の不正を均等化するという意味である。アリストテレスは、正義を分配的正義(distributive justice)と矯正的正義(corrective justice)の2つに分けている。どちらにせよ、近代以降においては、最後は「利益の配分」に行き着くのだ。

 また、近代以降において、天秤で公正に利益配分するということは、レイシオ思想という好き嫌いなどの価値判断を含まない、比例配分のような冷酷な「お金の計算の思想」のことであると言える。これを別の言葉で言い換えるならば、啓蒙主義以降の合理主義(rationalism)と言い換えれる。これをさらにわかりやすく言うと、近代とは、結局、全てをお金に還元してしまうということなのだ、と言える。

 正義も結局はお金の話なのだ。残念ながらそうなのだ。だから、私は、レイシオ思想を思い切って、「お金の計算の思想」と定義したのだ。大きくは、ここに全てを落とし込むことが出来る。もちろん、比例配分という意味を忘れてはならない。詳しくは、以前私が、「副島隆彦の学問道場」の「今日のぼやき」に書いた、『近代(a modern)への日本の対策と副島隆彦の思想』という論文を読んでいただければ幸いである。

 ここまで書いたことを大きくまとめると、正義そのものは何かと言えば、剣(力)と天秤(公正、均衡)のことであるのだ。その天秤(公正、均衡)の基準を論ずることが正義論である。

 先ほどの『ノートン現代思想事典』の正義の項目のところに、人権派のロールズが功利主義を批判しているが、本文に功利主義についての説明がなかったので説明しておく。この功利主義を理解することは、正義論を理解することにおいては重要である。

 副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』第4章p227 から引用する。

(引用はじめ)

  功利主義(ユーティリテリアニズム)とは、「人間は快楽・幸福を求め、苦痛を避けようと行動する生き物である」という原理であり、この大原理の下に、人間社会は「最大多数の最大幸福」の原理に従って成り立っているとした。

 「功利主義」は、現在も生きている人類史上の大思想のひとつであり、ソシアル・サイエンスの土台である。ベンサムの立場からは、したがって、「法は人間が定めるのであり、何が正しくて(justice正義)、何が善(goodnessグッドネス)であり、何が公平(fairnessフェアネス)であるかは、全てこの地上の現実の人間たちがよくよく議論して決めることであって、予め神や自然の摂理が決めるのではない」となる。

 このベンサムの功利主義思想を、法思想分野に限ったとき、まさしく「リーガル・ポジティヴィズム」となるのである。

(副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』第4章p227)

(引用おわり)

奥田勝典です。私は、ガチガチに論理的に考えると、アメリカ合衆国独立宣言に書かれているようなロックの思想は、それ自体が矛盾しているのだと思う。ロックの自然権は実証できない。何故なら、神の存在が実証できないからである。それらは明白な(positive)ものではないのだ。

 これでは、神学者のトマス・アクィナスが言ったように、信仰と理性は矛盾しないのだと主張しているのと一緒だ。だからこの概念はそれ自体で存在しようとするのなら矛盾し、現実的ではない。また、権利は法から導き出されるものなのに、不可侵の諸権利が最初に自然に存在し、そこから法がもたらされるというのは順序が逆である。

 さらに、副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』p231から引用する。

(引用はじめ)

  リーガル・ポジティヴィズム「法人定主義」の牙城は、歴史的に、ドイツの法学者・法律家たちなのである。彼らは「天」とか「神」とか「自然」が、「人間にこれこれこのように教えた」という言い方を好まない。

 ドイツの哲学者や法学者は昔から、徹頭徹尾ガチガチの理屈言屋であるから、英米人と違ってどこまでも理屈(論理)で押し通そうとする。するとやはり、彼らは「法人定主義」にならざるを得ない。アメリカ人、イギリス人よりもずっとガチガチの論理的な思考をするドイツ人特有の性質にしたがって、ドイツ人特有の性質にしたがって、ドイツの法学者・法哲学者たちは歴史的に、この「法人定主義」(=「法実証主義」派)に属するのだ。

(副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』p231)

(引用おわり)

奥田勝典です。そして、権利も功利から導きだす(人定法という立場では同じであるが、ノージックはこれとは違う)。J.S.ミル著『功利主義論』(世界の名著49)p517より引用します。

(引用はじめ)

  そこで、権利を持つということを私なりに考えると、それを所有したときに社会が保護しなければならないものを持つのである。どうして社会が保護しなければならないのかと尋ねる反対者がいれば、私は、一般的功利という理由を挙げる他ない。

(J.S.ミル著『功利主義論』(世界の名著49)p517)

(引用おわり)

奥田勝典です。そして、この引用部分にある法人定主義(≒ベンサマイト・リバータリアン)の思想がそのまま、私の考える「アメリカのグローバリストに対決をするため」の正義の基準であり、また正義の基準の議論、つまり正義論になります。

 またこれが、日本の近代(a modern)への対策であり、副島隆彦の正義論でもあります。そして、この正義論は『日本の近代(a modern)への対策と副島隆彦の思想』という前述した私の論文に繋がるのである。

 ここで、誤解しないでいただきたいのは、私は、語りえない目に見えないものを信じている人を否定しているのではない。むしろ、私は、沈黙しているだけであって、そういった美しいものを心から愛している。

 「論理実証主義」と呼ばれる学派の創始者であり、20世紀最大の哲学者であるヴィトゲンシュタインが言うように、「およそ語りうることは、明晰に語られうる。そして、言及することができないことについては、沈黙しなければならない」のである。しかし、私も彼と同様に、語りえない美しいものを否定をしたわけでは決してない。ただ、私は、レイシオ思想を持つアメリカ帝国のグローバリストと戦うつもりの愛国者は、レイシオ思想を持たないとその戦いに勝てないと言っているだけだ。

 また、私は、グローバリストとの戦いに勝つには、少なくとも愛国者にとって、このベンサマイト・リバータリアンという思想が必要だと思うから書いているのであって、日本国民全部がこのような思想を持つべきであると言っているのではない。あくまでも、私は、常に「日本の近代(a modern)への対応」として考えています。愛する日本国が生き延びる為に。

 副島隆彦が日本で最も優れた学者である理由の1つがここにある。副島隆彦はベンサマイト・リバータリアンであるので、頭脳戦でグローバリストと互角に戦えるのだ。この副島隆彦の正義論は誤解を受けることもあるだろう。あるいはその思想を好き嫌いで判断するのだろう。しかし、これは日本国を守るための、命運を賭けた戦いなのだ。

 副島隆彦著『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』p26より引用する。

(引用はじめ)

  ベトナム戦争では8万から9万人の米兵が死んだが、アメリカは米兵1人に対してベトナム人100人が死ぬべきであると計算した。今回もアフガニスタンで、米兵1人に対して1000人ぐらいのアフガニスタン兵が死ねばいいというレイシオ=比例配分になっているのだと思う。ここには、倫理道徳的、あるいはヒューマニスティックな価値判断は一切関与しないのである。

(副島隆彦著『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』p26)

(引用おわり)

奥田勝典です。このように、人命さえもレイシオ思想で考えるグローバリストを嫌いだと思うのは、人間として当然の心理だと思う。しかし、だからこそ彼らは支配者なのだ。国民のたった2パーセントに過ぎない支配者たち。彼らユダヤ人はレイシオ思想を持つ。そして、アメリカの「最大多数の最大幸福」も考える。

 つまり、彼ら支配者はベンサマイト・リバータリアンなのだ。それらをけしからんと考えるのもいいだろう。別に間違った考え方ではない、否、むしろ正しいと言って良い。しかし、そのままでは、日本もアメリカ帝国の属国としてこき使われるままだろう。だからロッキアンの白人は、いくら偉そうに驕り高ぶって、彼らマイノリティーを差別をしても、結局はユダヤ人に洗脳されてこき使われているのだ。

 ヴィトゲンシュタイン、ハイエクそしてノージックもユダヤ人であり、もちろんロックフェラーやロスチャイルドもユダヤ人である。やはり近代資本主義はユダヤ人が創ったのだ。レオ・シュトラウスやネオ・コン派もユダヤ人だが、前述したようにベンサマイト・リバータリアンではない。これは、彼らが上から操られているということを示しているのだ、と私は考えている。今の私にはこれ以上何も言えない。

 先ほど、「人定法という立場では同じであるが、ノージックはこれとは違う」と書いたが、これについて少し説明しなければならない。私が、法人定主義≒ベンサマイト・リバータリアンとして、イクオール(=)にしなかった理由は、法人定主義であるノージックはベンサマイトではないからだ。

 彼の思想は独特であり、ユートピアという思想を持ち、市場から離れて暮らすという考えも否定しない。つまり、功利主義の「最大多数の最大幸福」という考えを持たない。だから、ハイエクの経済的自由主義の標語でもある、レッセ・フェールという思想とも少し違う。ノージックの思想では勝手にコミュニティーを作って、自給自足の非効率な生活も否定されないのだ。

 だから、細かく言えば法人定主義=ベンサマイト・リバータリアンとはならない。しかし、法人定主義≒ベンサマイト・リバータリアンとは言えるし、大きくは、法人定主義=ベンサマイト・リバータリアンと言ってよい。

 それでは、次に、副島隆彦が重要視した、何故、正義の女神ユスティティアは目隠しをするのかという問題だが、私は、公正に配分する為に偏見をなくす為だと思っていた。しかし、副島隆彦はこう書いている。

副島隆彦著ぼやき「539」より転載する。

(転載はじめ)

  裁判官である女神ユスティティアが、争いごとが終わった後に目隠しをはずして、その事実を認めます、という思想なのではないだろうか。(中略)

 ハッキリ言ってしまえば、裁判官と言う人種は、その時々の国家体制や、権力者におもねるような人たちである、ということである。自分たちのようなただの爺さんになった秀才が、政治体制を巡る正しい間違いの判断などできない。だから、局、彼らは目隠しして現実を認めます、というのが本当のところであろう。

(副島隆彦著ぼやき「539」)

(転載おわり)

奥田勝典です。この洞察は、三権分立がなかった頃の話なので権力におもねることになっていたであろうし、近代以降でも実際はそうなりがちなので説得力がある。この考えの方が、より現実を鋭く見抜いているのではないだろうか。

 この目隠しの説は、これまで歴史家により色々な解釈がなされてきて、例えば、偏見をなくす為に目隠しを取ろう、といったような考えもあるようだ。

 ここまで正義(justice)考えて、OXFORD英英辞典に書かれていたことが、こういうことだったのかとやっとわかった。justiceの項目を引用する。

(引用はじめ)

 justice   ①the fair treatment of poople: ②the quality of being fair or reasonable: ③the leagal system used to punish people who have committed crimes:

(OXFORD英英辞典)

(引用おわり)

奥田勝典です。我々に平等な権利と正義を、と言ったときは①だ。アメリカの戦争の大儀における正義は欺瞞だ、といった場合は②である。正義は一種の力だ、などというときは③だ。これを女神ユスティティアに当てはめると、偏見をなくし人々を公正に扱う為の目隠しが①で、天秤が表すfairness(公正)やbalance(均衡)は②であり、剣が表す力が③になる。そして、①の目隠しには諸説があり、②が近代以降の中心的な議論であり、③は割と多くの人が認めているものだ。

 このように、正義(justice)という抽象語には、何と3つの意味があったのだ。これを世界基準では使い分けていたのであり、それが日本人は理解できていなかったのである。

これまで書いたことをまとめる。

 正義(justice)とは、人を公正に扱うこと、公正、力の3つの意味があり、順番に、神話における正義の女神ユスティティアの目隠し、天秤、剣が象徴する。そして、近代以降では、財の分配が正義の基準の論争となり(レイシオ思想)、その判断が公正なのが正義だとされる。

以上である。私は、これで、正義という1つの言葉がようやくわかったと実感する。しかし、私は、やっと、justice(正義)というたった1つの抽象語を理解したにすぎないのだ。

 最後になるが、私がこの論文で述べていることは、細かい点にわたってまで私の独創であると主張するつもりはない。私の思考に多くの刺激を与えてくれたのは、私の先生である副島隆彦の著作であり、これに多くを負っている。

 私がこの論文で成し遂げたいことは、いつも励ましてくださる副島隆彦先生に恩返しをすることであり、また、深く愛する日本のために恩返しをすることである。この論文が、少しでもそれを為しえたなら、それで私は満足だ。

 今、私の目の前に、手垢や赤線でボロボロになった『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』がある。いつものように。

2004年3月10日記 3月27日加筆修正

(引用文献)

副島隆彦著ぼやき「539」(http://soejima.to/boyaki/diary.cgi)
副島隆彦著『覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』
副島隆彦著『世界覇権国アメリカの衰退が始まる』
副島隆彦編『英語で思想を読む』
レオ・シュトラウス著『自然権と歴史』
J.S.ミル著『功利主義論』(世界の名著49)
ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
アメリカ合衆国独立宣言
OXFORD英英辞典
Natural Right and History By LEO STRAUSS(paperback edition)
The Declaration of Independence the Thirteen Colonies in Congress
The Norton Dictionary of Modern Thought(2nd rev. ed.)

(参考文献)

副島隆彦全著作
ジョン・ロールズ著『正義論』
ロバート・ノージック著『アナーキー・国家・ユートピア』

2004/04/03(Sat)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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