「45」 鴨川ひかりの論文「ユダヤ人の歴史」の冒頭の部分です。これで3回分の掲載が終わります。副島隆彦記 2007.5.24
副島隆彦です。 今日は、2007年5月24日です。

 私は、昨日から今朝にかけて、今日のぼやきの広報ページの「846?」番として、「信仰と理性=合理(ラチオ、リーズン、強欲と拝金)は一致するという思想」を史上初めて作った神学者たち、を遂に見つけたぞ」論を書いて載せました。

そこで、引用された論文である「ユダヤ人の歴史」論文の冒頭の部分をようやく、ここに「45」番として載せます。

 この「ユダヤの歴史」論文は、鴨川ひかり君の労作であって、彼が、欧米世界で基本文献とされる「ユダヤ史」の諸本と、ブリタニカ百科事典の「ジュダイズム Judaism 、ユダヤ教=ユダや思想)の項目の記述から、集成して、自分の論文として粗く完成させていた論文であることが、鴨川君自身の、重掲への投稿文で、判明しました。

 彼に「ユダヤ人とユダヤ教の全歴史を網羅する論文を書きなさい」と指示を出してきたのは、私だったのです。私はそのことをコロッと忘れていました。

 副島隆彦記。2007.5.10 以下の後半部を、第二ぼやき「42」番 に載せた。
 さらに注記。2007.5.16 に、「43」番として、後半部の、さらにその前半分を載せた。 あと一回で終わる。

この最後の載せる部分が、「ユダヤ人の歴史」の冒頭である。
この「45」番としての掲載で、「ユダヤ人の歴史」は、完了する。  副島隆彦注記終わり。


「ユダヤ人の歴史」


「聖書のユダヤ人Biblical Judaism」(前20-4世紀)

1.族長時代

 「族長」とは聖書で登場するすべてのユダヤ人の祖アブラハムとその子イサク、孫のヤコブのことである。この「族長物語」は創世記12章から50章に描かれている。

 ここで簡単にユダヤ人たちの系図を述べておかなくてはならない。アブラハムはアダムの子孫ノアの三人の息子セム(黄色人種)、ハム(黒人主)、ヤペテ(白人種)のなかのセムの子孫である。これがユダヤ人のことをあらわす「セミティズ Semitism」という言葉の由来である。

 だから、「反ユダヤ主義」のことを「アンチ・セミティズムAnti- Semitism」という。

 アブラハムにはハガル、サラ、ケトラという三人の妻がいて、ハガルの子イシュマエルがアラブ人の祖といわれている。であるから、アブラハムは全アラブ人の祖でもある。イサクはサラの子供である。イサクはアブラハムの神への信仰の確かさを試すために生贄に捧げられた。

 ヤコブはイサクの次男であったが、兄エサウを出し抜いて長子としての祝福を受け、兄から狙われることになってユーフラテス川上流のハランに逃亡する。ここは祖父アブラハムがウルから移動したことのある街である。

 イスラエルとはヤコブが後に持つことになった名前である。兄との和解しようとした旅の途上、神と格闘し、勝利したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられた。エルとはヤーウェ信仰が導入される以前の信仰の対象の名前である。

 ヤコブはレア、その妹ラケル、レアの下女ジルバ、ラケルの下女ビルハという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。
レアの子-長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンラケルの子-ヨセフ、ベニヤミンジルバの子-ガド、アシェルビルハの子-ダン、ナフタリこの中でレビは祭司の家系であり土地も持たないので12氏族には数えられない。

 ヨセフ族というのはないためヨセフの二人の息子マナセとエフライムを加えて12氏族となる。このうちで後に南ユダ王国を形成したユダベニヤミン、それにレビをのこして残りの部族が「失われた12氏族」といわれる。

 さて、このひとびとの最初の行動を簡単に述べるとこうである。アブラハムはメソポタミアのユーフラテス川下流のカルデアの都市ウルの出身である。このカルデア人というのアラム人という説があり、後の前7世紀にカルデア王国を立てた民族であるらしい。これは新バビロニア王国と一般には呼ばれている。

 そこから父テラに連れられ上流のハランへと移動する。そこで始めてヤーウェがあらわれ、カナンの土地に行くように言われ、ハランから南下して初めてカナンの地シケムに入る。

 ところが、ここでは水不足と食糧危機に悩まされたために一族はエジプトまで行くが、最終的にはパレスティナのベエル・シェバに落ち着いた。

 いったんはエジプトに行ったはずなのに再びパレスティナに落ち着き、またさらにその後モーゼによる出エジプトにつながるのはなぜかというと、ヤコブの末の弟ヨセフが兄たちに嫌われてエジプトに売られたからである。

 ヨセフはいったんは奴隷の身となり投獄もされるのだが、夢がよく当たるという評判を聞きつけたファラオによって宰相に登用される。その後に兄たちである残りの11部族と再会を果たし、イスラエルの民族はナイル・デルタ地帯のゴシェンに定住を許される。

 しかし、ヨセフが死ぬと、ヨセフを知らぬファラオは増加するイスラエル人たちを毛嫌いし、奴隷として強制労働を科した。また新しく生まれた男子はすべてナイル川に捨ててしまうように言明した。ここに映画「十戒」の冒頭で、赤ん坊であったモーゼが川から救い上げられるシーンがつながるのだ。聖書のユダヤ人の物語の冒頭の道程を簡単に述べると以上のようになる。

 しかし、この聖書の物語を歴史的な民族移動として捉えると次のようになるようだ。このユダヤ人の祖先である族長たちとはアラム人のことである。それは申命記26章5から10節に「私の先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留した」という記述から、少なくとも彼らが古代メソポタミアに広がっていたアラム語族の一派であったという可能性が見えてくる。

 アラム人とはセム系の人々で、紀元前13世紀から8世紀の間にシリアを中心にして小王国を作った人々で、現在のシリアの主とダマスカスも彼らが作った古代都市である。彼らは西アジアの内陸貿易で活躍していたために、彼らの話すアラム語は国際共通語となっていたようである。映画「パッション」で使われているセリフもアラム語であるそうだ。

 このアラム人たちは紀元前19世紀から2派の移動群に分かれてメソポタミアの沃地に侵入した。

 第一波は、紀元前19,18世紀にメソポタミアとシリアに定住し、「カナン人」とか「アモリ人」と呼ばれた人々である。彼らはシュメール人を征服して紀元前1894年にハンムラビ大王とバベルの塔で有名なバビロン第一王朝を築いた。この移動群は、アブラハムと父テラのカルデアのウルからハランへの旅を反映している。

 第二派は、紀元前14,13世紀にかけてパレスティナにやってきたエドム人、モアブ人、アンモン人そしてイスラエル人である。これはアブラハムがハランからカナンに移動した聖書中の記事と一致する。

 このイスラエルの先祖たちは家畜を連れてカナンに移動してきた半遊牧集団で、アブラハム、イサク、ヤコブという名もそれぞれの集団の族長か集団、あるいは土地の名前に由来している。アブラハム集団はユダの地ヘブロン周辺、イサク集団は南方のベエル・シェバ、ヤコブはヨルダン側の東側中央と西側のエフライム山地で遊牧生活をしていたらしい。

 彼らはひどい干ばつに見舞われるとエジプトのナイル・デルタ地帯に移動することもあった。このことを指してアブラハムとヨセフのエジプトへの移動の記事があるとも考えられるという。
紀元前18~16世紀のエジプトはヒクソスに支配されていた時期であるが、「外国人の支配者」という意味を持つヒクソスはセム系の民族である。エジプト王の厚遇を受けて宰相となっていたヨセフの物語はこのことを反映しているのかもしれない。


2.出エジプト

3.士師の時代(部族連合時代)

 紀元前13世紀終わり、カナンに定着してから約200年の間イスラエルは12部族の連合体と言う形態を取っていた時代である。イスラエル達と同時期に移動してきた人々、すなわちペリシテ人(南西部ガザ地域)、エドム、モアブ、アンモン人(ヨルダン側東地域、今のヨルダン)達はまもなく王国に移行したのに対し、彼らがこうした形態を維持したのは、人間の支配者は世俗の人間ではなく、絶対的唯一の存在YHWH(ヤーウェ)だけだからであった。

 この部族連合体は自由な非政治的に結びついた宗教連合体であるという。宗教的結びつきは、中央聖所、宗教的法規、共通の祭儀、宗教的伝承によって確認されていたようである。

 最初の中央聖所はシケムに置かれた。その後、ベテル、ギルガル、シロなどの場所に移されていく。これは最終的にはダビデによってエルサレムとなる。

 この12部族の形成は、聖書においてヤコブの12人の息子達の内、レアの子として先に生まれたとされている6人の名前に当たる部族、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ラケルが先にカナンに定住し、その後に残る6部族(ヨセフ、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル)が加わったことで行われたようである。

 出エジプトの伝承とヤーウェ信仰は最後に移住してきたヨセフとベニヤミン持ち込んで、それまでのエル神と同一視されたことによって生まれたようである。

 最後に、エフライム族出身のヨシュアが中心になって、聖所シケムでこの12部族はヤーウェに仕えると言う契約を交わしたことによって部族連合が完成した。(シケム契約)

 この中央聖所で年三度の大祭、春の除酵祭、初夏の七週祭、仮庵祭が行われた。

 こうして12部族連合が出来た後、部族間紛争などの解決のために登場してきたのが士師である。士師とはヘブライ語でショーフェートといい、「裁く、シャファト」と言う言葉から来たものである。

 士師には2種類ある。一つ目は小士師である。こちらは公職であって、中央聖所でイスラエル法に基づいて、部族間の争いごとを調停していた本来の士師である。彼らは出身部族と在職年限が記されているだけである。士師記にはトラ、ヤイル、エフタ、イブツァン、エロン、アブドンの6人が述べられている。(エフタは大士師の役割もしている)

 重要なのは大士師の方である。こちらは外敵が侵入してきたときに臨時に立てられる「カリスマ的指導者」である。大士師にはオトニエル、エフド、デボラ、ギデオン、アビメレク、サムソンの6人がいる。

 彼らは、前12世紀の終わりごろ、イスラエルの周辺に住む諸部族との対決のときに登場した。まず最初のものはエフライム出身のデボラである。デボラだけ女士師である。イスラエル諸部族は都市部を避けて山地に定住していたのだが、勢力を増していくうちにカナンの都市国家と衝突するようになる。

 デボラは北部のナフタリ族、ゼブルン族を中心に軍隊を率いて、カナンの王に対して大勝利を収めた。

 次に、アラビアの遊牧民がらくだを使うようになったころ、これに乗ったミディアン族がパレスティナに攻め込んできた。これを撃退したのがマナセ族出身のギデオンである。

 その後、オトニエルがメソポタミアの王クシャン・リュシアタイムと、エフドがモアブ人と、エフタがアンモン人との戦いのときに現われ、最後に登場するのがサムソンである。

 サムソンはペリシテ人と戦った。このペリシテ人とは、紀元前13世紀に地中海の西の方から侵入してきた「海の民」の一つであり、ミケーネなどのエーゲ文明と同じルーツを持つと言われている。彼らは、イスラエルがカナンに入ってきたのと同じころ地中海側からパレスティナ南西部に侵入してきて、5つの都市国家を建設したのだが、前11世紀末、イスラエルを圧迫するようになった。

 このペリシテ人に対してサムソンは怪力と言うカリスマが与えられてペリシテ人を苦しめたのだが、ペリシテ人の遣わした美女デリラの誘惑によって怪力の秘密を暴かれ、的に捕らえられてしまう。

 このペリシテ人が「カリスマ的指導者」では部族連合の危機が乗り越えられないと言う限界であった。この一大事を受けて、強力な権力と軍隊によって指導する、「他の国々と同じような王」が求められるようになったのである。ここで、士師と部族連合の時代が終わる。


4.統一王国時代(The United Monarchy)

 前11世紀末、西の地中海沿岸に五つの都市国家(ガザ、アシュケロン、アシュトド、ガト、エクロン)を建設していたペリシテ人の圧迫を受け始めると、周辺の民族と同様な王が求められるようになった。外国の侵略に備えるという意味で、強力な王権と軍隊の整備が必要になったのである。

 この時代に活躍したのが初代預言者サムエルと、三人の王、サウル、ダビデ、ソロモンである。

 ペリシテ人とは、現在のパレスティナの語源となった民族で、イスラエルたちがヨルダン川の東からパレスティナに入ってきたときと同じく紀元前13世紀に、地中海側から南西部に定住してきた「海の民」である。ギリシャ系のミケーネ文明との関連性があるといわれている。

 まず登場してくるのがサムエルである。彼の歴史的定義は統一しておらず、サムエル記には大・小士師、先見者、預言者、祭司といった様々な記述がある。しかし、彼の役割で最も重要であったのは、サウルとダビデに油を注いで王にしたことである。そういった意味では、預言者としての役割が際立っているといえよう。

 サウルは当初預言者集団の中にあって、ペリシテを主とした外敵と戦うことを仕事としていた。彼は父親のロバを探して歩いているときにサムエルに出会い、油を注がれて「イスラエルの指導者」となる。ただしこのときの「指導者」という意味は、外的が責めてきたときに臨時に立てられる「カリスマ的指導者」、つまり「大士師」のことであったようだ。

 サウルの最初の手柄は、アンモン人に占領されたギレアドのヤペシュという町を解放したことである。この勝利の後、サウルは優秀な人間を召抱えては常備軍を整備していき、自分の権力を拡大して言った。

 このこれまでの「カリスマ的指導者」にはなかった世俗の権力を行使しようとする態度はサムエルに断罪されてしまう。それはヤーウェこそは唯一の支配者であるとするそれまでの部族連合の根本的理念をサムエルが代表していたからである。サウルはギルボア山の戦いでペリシテ人に惨敗し、自害する。


5.分裂王国時代(Divided Kingdom)

 ダビデの作った王国が分裂すると、王位継承制度の違いによって、2つの王国は政治的安定度に差をはらむこととなる。常にダビデの子孫を王につけることとなっていたユダ王国では、世襲制の原理がほぼ維持されることとなって、比較的安定した歴史を歩むこととなる。

 それに対して、北イスラエル王国は選任王制と世襲王制という二つの原理が絶えず葛藤し続けたため、不安定な王朝が連続して立てられていくこととなった。

 ユダは一度だけアタルヤというイスラエル王の娘が女王になって王朝が断絶したことがあるが、イスラエルはしっかりした王朝だけでも3回も交代しており、王19人中8人が暗殺されている。その中で三代以上王位が継承されたのは、オムリ王朝とイエフ王朝だけである。

 またこの大分裂と、北のアラム(シリア)と東のアッシリアの台頭といった国難を反映して、6人の預言者が登場する。先にイスラエルでエリヤ、エリシャ、アモス、ホセアの四人、ついでユダにおけるイザヤ、エレミヤ、エゼキエルが現れる。このことからこの時代は「預言者の時代」とも言われる。

「北イスラエルの歴史」

 ソロモンに謀反を起こしてエジプトのショシャンク王のもとに身を寄せていた部下のヤロベアムは、ソロモンが死ぬと、ユダと交渉していた北の十部族に担がれ、交渉決裂の結果イスラエル王となった。

 王は最初部族連合時代の聖所シケムに遷都したが、やがてその北にあるティルツァに落ち着いた。そのころはまだ十二部族の共通の聖所と考えられていたエルサレムに対抗するために、ダンとベテルを国家の聖所に定め、仔牛の像を作った。このことは、偶像崇拝として列王記で批判されている。

 ヤロベアムが死ぬと子のナタブはすぐにバシャによって暗殺される。この時代までは南のユダとの抗争が絶えず、つぎのエラはユダ王国の三代目アサとの戦争に明け暮れていた。このエラは戦車隊長ジムリに謀反を起こされるがそれも七日で終わる(ジムリの七日天下)。

 その後、短い内乱を制した先王朝の司令官オムリが王に就く。この王朝は権勢を誇り、四代、三十三年続く。彼はもともとは傭兵隊長であったらしい。

 オムリの功績として重要なのは、サマリアを都市として新たに建設したことである。ここは北イスラエルの実質的な中心地として、その後の歴史に重要な都市となる。

 だが、彼はイスラエル人でなかったためか、宗教的に寛容で、サマリアにカナンの神々を祭る神殿を建てさせてしまった。
さらに、海上交通に長けたフェニキア諸都市と外交関係を結び、息子のアハブをフェニキアの都市シドンの王の娘イザベルと結婚させてしまう。この女性が分裂王朝の中期に、少なからぬ影を落とすこととなる。

 ちなみに、フェニキアとはイスラエルよりも北の海岸地域、今のレバノンの地域に当たる。12部族のひとつアシェルはこの地域に定住早々、このフェニキアと一緒になって消えてしまったといわれる。

 このイザベルの父はエトバアル(「バアル神とともに」という意味)といい、フェニキアの神、バアル神(メルカルトともいう)の熱心な信者であった。それゆえイザベルは夫のアハブが王位につくと早速サマリアにバアルの祭壇を立てさせて、ヤーウェ信仰を一切禁止させてしまう。

 バアル神とは、ハエの王として有名なベールゼブブのことである。

 このヤーウェ信仰の初めての危機に際して登場してきたのが預言者エリヤなのである。エリヤは最初の預言者サムエル(士師でもある)に次ぐ、二番目の預言者である。

 エリアは、どちらの神がいけにえの上に火を降らすことができるかという対決で、バアルの預言者450人に勝利する。その後、自らの後継者として預言者エリシャを指名して、天に昇ったとされている。

 この神話から、天上からのメシア再来思想が生まれた。イエスもエリアの再来だといわれた。アハブの死後、アハズヤとヨラムが王位継承するが、短命に終わる。

 ヨラム治世のとき、エリシャは、同じくエリヤに指名されていた将軍イエフを任命しオムリ王朝を断絶させる(イエフ革命)。
しかしイエフはオムリ王朝最後のヨラムだけでなく、彼を見舞いに来ていたユダ王アハズヤまでも殺してしまった。このことによって、ユダの王朝がいったん途絶えてしまい、こともあろうに母親のアタルヤが女王の位についてしまう。

 なぜこのことが問題なのかというと、このアタルヤはアハブとイゼベルの娘であったため、南のユダ王朝にも一時バアル祭儀が広まってしまったからである。

 イエフはオムリ王家の者すべてと、バアルの預言者や妻子たちをみなことごとく殺して、自らの王朝を開いた。この王朝はイスラエル最後の王朝で、五代(イエフ、ヨアハズ、ヨアシュ、ヤロベアム2世、ゼカルヤ)百年続いて、イスラエルで最も長命で、最も反映した時期である。

 しかしこの時期、いずれイスラエルを滅ぼすこととなるアッシリアが勢力を増し始めてきた時期で、アッシリア王シャルマナサル3世のシリア・パレスティナ遠征の結果イエフは服従し、これ以後、実質的にイスラエルはアッシリアの属国となるにいたったのである。つまり、イスラエルの栄華は古代の大帝国アッシリアの庇護の下でのことに過ぎなかったのだ。

 イエフがシャルマナサルにひれ伏す様子は、アッシリアのニルムード宮殿から出土した「黒色オベリスク」にはっきりと描かれている。

 この平和と繁栄の時代はつぎのヤロベアム二世の時代に花開くが、このときに貧富の差が開いたために、次の預言者アモスを招来する事となる。

 アモスは本来はユダの人であったが、この貧富の差が神の定めたほうに背くことを指摘したために、イスラエルの聖所のあるベテルの祭司アマズヤに国外退去を命じられる。

 ヤロベアム2世のあと、子であるゼカルヤは6ヶ月の王位の後にシャルムに暗殺される。これでイスラエルは王朝が消滅し、以後五人の支配者(シャルム、メナヘム、ペカフヤ、ペカ、ホシェア)が出てくるが、暗殺の連続であり、唯一殺されなかったのがシャルムを暗殺したメナヘムだけである。メナヘム以外はみな3年以内の短命政権である。

 アッシリア王ティグラト・ピレセル三世はそれまでの属国を朝貢させる体制から、いっきに侵略へと足を踏み出した。ペカフヤを暗殺した将軍ペカはアラム(シリア)と反アッシリア同盟を結んだ。ユダにもこれを要請したのだが、ユダ王アハズはこれを拒絶したため、反アッシリア同盟とユダとの戦争が起こってしまう(シリア・エフライム戦争)。

 これに対してアハズはティグラト・ピレセルに朝貢することによって属国となり援軍を要請する。その結果アラムは占領され、イスラエルはサマリアのみになってしまう。

 ヤロベアムからこのころまでの期間に出現した預言者がホセアである。ホセアは暗殺による政情不安を反映した預言者であり、またアッシリアへの朝貢ゆえの異教の神々をサマリアの神殿にまつったイエフ王朝への警鐘でもあった。

 ペカを殺したイスラエル最後の王ホシェアは新アッシリア政策を採るが、ティグラト・ピレセルが死ぬとエジプトと結んでアッシリアへの朝貢を中止する。

 次のアッシリア王シャルマナサル五世はこれに怒りホシェアを捕らえイスラエル全土を占領した。首都サマリアは三年間の包囲を耐えたが、次のアッシリア王サルゴン二世によってついに陥落し、ここにイスラエル王国は滅亡する。(前723年)

 アッシリアの支配は残忍で過酷であったようで、支配した地域の人々を国外に追放して、その代わりに外国から新たに別の民族を殖民させるという政策を採っていた。

 イスラエルもこの例に漏れず、上層階級がアッシリアに移され(ニネベ捕囚)、首都サマリアには外国から民族が移住させられてきた。これによってイスラエル人の雑婚が進み、宗教的にも異教の影響によってヤーウェ信仰が本来のものから非常にあいまいなものになったといわれている。これによって以後、この地域の人々は「サマリア人(サマリタン)」として、南のユダ人から雑婚と異教信仰の疑いの目で見られて差別を受けることとなる。


「ユダ王国の歴史」

 ソロモンの継承者レハベアムからアビヤム、アサに至るまでユダとイスラエルの仲は険悪で戦争が絶えなかった。しかし、イスラエルがオムリ王朝となると敵対関係が終わり、強調・友好的な関係が続いた。

 この友好関係は、ユダ王5代目ヨラムが、イスラエルのアハブとイザベルの娘アタルヤと結婚したことで、両王家が姻戚関係になるほどであった。

 ところが、ユダで起こったイエフ革命によってオムリ王朝が断絶してしまった上に、このヨラムとアタルヤの子アハズヤまでもがこの革命で殺されてしまう。

 これによって母のアタルヤがユダの王位を強奪し、ダビデ王家の皆殺しを画策する。ユダにおけるダビデ王家の断絶はこのアタルヤによる6年間だけである。またアタルヤによってエルサレムの聖所にバアル神などの偶像が導入された。

 このあと神殿にかくまわれていた幼王ヨアシュが祭司たちに担がれて王位につくことで、ダビデ家が復興する。ヨアシュは偶像を根絶してヤーウェ信仰を元に戻した。

 次のアマツヤはイスラエル王に戦争を仕掛けるが、逆に捕らえられエルサレムの包囲という失策を招いてしまう。

 このヨアシュとアマツヤはともに暗殺されているが、この時期はちょうど北のイエフ王朝の時期にあたり、両国が少し不穏な時期に来ていたころである。

 次のウジヤ(アザルヤ)と摂政のヨタムの時期はユダがもっとも繁栄した時期で、北でもちょうどヤロベアム二世の最繁栄期に当たり、南北両王朝の最盛期であった。

 このウジヤ王の死んだ年からユダの繁栄にも翳りをさしてくる。この年アッシリアではティグラト・ピレセルが即位し、イスラエルを属国化してしまう。

 次のアハズ王は、イスラエルのペカの要請を断り、反アッシリア同盟に加わろうとしなかった。このためにアラムとイスラエルの軍事介入を招いてしまうが、こともあろうにアッシリアへの朝貢の道=属国への道を選んでしまう。

 このあと、ユダは反アッシリアと親アッシリアの王が交代することにより、国政が不安定になってゆく。ユダの没落とは、バビロニアによる捕囚が印象に強いが、実際にその終わりまで影響力を行使していたのはアッシリアなのである。

 アッシリアの属国になるということは当然その神も受け入れざるを得なくなってしまうということである。アッシリアの神とはアッシュールとイシュタル(女神アスタロト)などである。

 このアハズの行為を批判して登場したのが有名な預言者イザヤである。イザヤはこうした属国と異教信仰への道へと引きずりこまれることを見通していたために、ヤーウェにのみ頼って、アッシリアに援助を求めるなとアハブに要請したのである。

 次のヒゼキア王のとき、イスラエルを滅ぼしたサルゴン二世が死んで、セナケリブの世になると、アッシリア各地で反乱が起こった。これを機にヒゼキアは属国を脱し、偶像も排除するという行為に出て、当時勢力を増しつつあった新バビロニアとエジプトと関係を築き、南部パレスティナ同盟(エドム、モアブなど)の盟主となった。

 これにはペリシテも参加した。ペリシテというのはパレスティナの先住民族で、今のガザ地区に当たる南部の海岸地域の民族である。

 だがこれもセナケリブの反攻にあい、結局はその後二代(マナセ王、アモン王)に渡り再びアッシリアの属国に逆戻りしてしまう。そしてアッシリアの偶像を再びエルサレムに導入した。
この後、アモン王は「土地の民」といわれるアムハレツという地方の土地所有民によって暗殺されると、ユダ最後の偉大な王ヨシュアが彼らによって王位につけられる。

 ヨシュアは成人になると「宗教改革」を断行した。この時期のアッシリアは最後の王アッシュール・バニパルの治世であり、バビロニア、メディア、スキタイが勢力を持ち始め、アッシリアは衰退の一途をたどっていた。

 ヨシュアはこの機にエルサレムの神殿からアッシリアの偶像を取り除いて、朝貢も取りやめる。そして、修復中であった神殿の壁から「律法の書」が発見された。これは現在の申命記の中心部分だと考えられている。ヨシュアは、発見された「律法の書」に基づいて、エルサレム以外の地方の聖所を閉鎖させた。

 この後ヨシュアは、ダビデ王国の領土回復の野心に目覚め、サマリアやベテルに侵攻していくが、紀元前609年、エジプトのファラオ・ネコ2世に破れて死んでしまう。

 この最後の期間ユダはエジプトの属国になる。ネコはヨシュアの息子ヨアハズを退位させ、異母兄弟であるエホヤキム(ヨアキム)を即位させ、事実上の傀儡国家とした。エホヤキムは国民に重税をかけてネコに朝貢した。

 ところが、紀元前605年、ユーフラテス川上流のカルケミッシュの戦いで、ネコは新バビロニアのネブカドネザル2世にやぶれてしまったために、今度はユダ王国もバビロニアに朝貢しなければならなくなってしまった。

 エホヤキムが朝貢を拒否しようとすると、ネブカドネザルはただちにエルサレムを包囲した。この最中にエホヤキムが死ぬと、その子エホヤキンが王位についた。しかし、その3ヵ月後、彼はユダの上層階級や祭司、高官などとともにバビロニアに捕囚されてしまう。


6.捕囚時代(Exilic Period)

 バビロン捕囚は全部で三回行われたのだが、その人数に関してはエレミア記と列王記では異なっており、はっきりとはしていない。彼らは比較的自由に生活を出来ていたらしい。この捕囚期にはエゼキエルと第二イザヤという二人の予言者が活躍した。

 エゼキエルは第一回捕囚のときにバビロンに連れて行かれ、捕囚第五年の前593年に予言者としての召命を受けている。エゼキエルに下された啓示は「四つの顔を持つ四つの生き物と、どこにでもいくことの出来る四つの車輪とその上に座るヤーウェ」という姿で彼に巻き物を渡す」という非常に異常な体験として描かれている。そしてエルサレムで偶像崇拝が行われている夢を見て神からの「四つの裁き」を下された。これはその後に起こったエルサレムの滅亡(前587)を暗示していた。

 この後エゼキエルは指導的立場としてユダヤ人達に希望を与える予言を語るようになる。ここから現在に至るユダヤ人達のアイデンティティが生まれ、この後に現れるユダヤ教の基礎が作られていく。

 捕囚末期にイザヤ書の後半を作ったとされる人物が現れる。19世紀から便宜的に第二イザヤと呼ばれている。彼は捕囚の地で生まれた第二世代に当たる人のようである。エゼキエルが預言したのは「バビロン捕囚からの解放」であった。

 このころに現在のイランの地から勃興してきたのがペルシア帝国である。ペルシアはキュロス二世のときにメソポタミア、パレスティナ、シリア、小アジアまでを征服して、初の世界帝国の完成までバビロンとエジプトを残すところとなっていた。エゼキエルはこのキュロスを解放者としてだけでなく、メシアとまでみなした。

 そして実際、紀元前539年にキュロスはバビロンに入城して新バビロニアを滅ぼし、538年には勅令を発してエルサレムへの期間を許した。

 しかしこの第一回帰還はイザヤの望むようなものではなかったようで、彼はその後「主の僕の歌」によって、「主の僕」が人々の身代わりになって死んだという預言を行なっている。

 この「主の僕」が誰なのかは諸説が分かれていて誰なのかはっきりしない。これをイエスとする説もあるが、次のペルシャ時代にエルサレム帰還事業で活躍したシェシュバツァルかゼルバベルを指しているとも考えられている。


7.ペルシア時代(神殿回復時代)

 ペルシャは紀元前6世紀までメディアの支配にあったが、アケメネス家のキュロスがメディア王を倒して、552年に両王国の王として即位した(前559~530)。547年に小アジア、539年にはバビロニアを倒して領土を西アジア全域に広げていく。二代目のカンビュセス(前529~522)は525年にエジプトを支配し、史上はじめてオリエントを支配する世界帝国を作り上げた。

 この時期に離散ユダヤ人達の共同体がペルシアの支配領域に広がり、アジア、アフリカ、地中海沿岸にユダヤ人が居住していたことは確かである。

 ペルシア帝国は諸民族固有の宗教・文化・習慣に寛容であり、キュロスは紀元前538年に勅令によって、捕囚民達のエルサレムへの帰還を許し、神殿再建の費用までも支出した。ネブカドネザルに没収されていた神殿の器物も返却する。

 エルサレムへの帰還と神殿再建事業は全部で三回に及んでいる。

 第一回目はヨアキンの息子であるシェシュバツァルが帰還事業の指導者として任命されて、紀元前538年に行われた。しかしこの時は、土地の荒廃や干ばつのため神殿の再建事業がはかどらず、基礎工事の時点で頓挫してしまった。さらに、この当時のユダの地はサマリア州に含まれていたためにサマリア人からも妨害されてしまう。

 紀元前522年にダレイオス一世が即位すると、キュロスの勅令が有効であることが確認されて、ヨアキンの孫ゼルバベルが指導者として、520年に第2回目の帰還事業が行なわれる。
ゼルバベルは大祭司ヨシュアと協力して紀元前515年に第二神殿を完成させる。この神殿はヘロデによる大改修の後、ローマ軍に破壊されるまで存続した。この時の預言者ハガイとゼカリアもベルゼバブを支持した。

 このためゼルバベルは民族的英雄とみなされてユダヤの王につけようとする動きがあったため、政治的独立は認めようとしないペルシアによって失脚させられる。第二イザヤの「主の僕」はゼルバベルだという説もある。第三回目はネヘミヤによって行われた。

(副島隆彦注記。以下は、2007.5.16 にここの「43」番に繋(つな)がる。)

副島隆彦拝

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