「41」 江戸中期(1730年代)の大阪の町人學者・富永仲基(とみながなかもと)についての大正期の碩学(せきがく)内藤湖南(ないとうこなん)による名講演の文を、優れた学統の継承として以下に転載します。副島隆彦。
副島隆彦です。今日は2007年5月7日です。

以下に載せるのは、私が、2006年の夏頃に、一所懸命になって調べた「本当のお釈迦さま(ゴータマ、ブッダ)の言葉、教えは何か」という課題に関連して、ネット上でみつけていた文章です。

 この大阪での大正14年(1925年)の講演記録は、大変、優れた内容です。世を経て、日本人に読み継がれてゆくべき名文です。 この講演を行った内藤湖南(ないとうこなん)という碩学を、私は、本当に尊敬しています。日本にも、これほどの優れた学者がいたのか、という感慨で一杯です。

新聞記者あがりから京都帝国大学教授にまでなった内藤湖南の転天才ぶりをそのうち私は論じます。

 ここでは、江戸中期(1730年代)の独特の町人思想家・冨永仲基(とみながなかもと)を、幕末に、本居宣長、平田篤胤が復興させて、幕末、勤皇思想(きんのうしそう)と尊王攘夷(そんのうじょうい)思想という、間違った興隆(一大センセーション)を外国からの侵略の危機に遭っていた日本国内に巻き起こした。

 その基(もと)の基(もと)になった思想だが、平田篤胤(ひらたあつたね)が、意図的に、冨永の思想をねじまげて、当時の世に広めて、一世を風靡(ふうび)したのである。

 全国の富農(名主、庄屋層)から豪商層から、武士層、そして大名たちまでが、平田が、冨永の大著「出定後語(しゅつじょうごご)」の内容を、改作した本で、激烈なアジテーションの本である「出定笑語(しゅつじょうしょうご)」が、日本国民の上層国民に、一気に広く広まった尊王攘夷思想の本当の火付け役立ったのである。

 このことの発見は、私、副島隆彦の業績と後世(こうせい)なるだろう。

 私は、以下の内藤湖南の文章から、それまでに形成されていた「平田の本が、本地垂迹(ほんじすいじゃく)をひっくり返して、神道を仏教の上に置くことにした、幕末イデオロギーの創出者だ」という説の、根拠のひとつを得た。

それが、大きくは、「大乗非佛説(だいじょうひぶつせつ)」である。すなわち、チベットや、中国経由で、日本にまで伝来した大乗仏教、大乗仏典は、あれらはお釈迦様(ゴータマ、ブッダ)その人の本当の言葉ではないし、教えではない、ということの確認だった。

それと、山崎闇斎(やまざきあんさい)や浅見ケイサイ、栗山セン峰らの、日本国学派の中の矯激な、日本神道崇拝思想は、あれらは、「王道神道(おうどうしんとう)」という系譜に属する思想であって、伊勢神宮の神主たちと同じ思想だ。彼らは、儒教を使って日本神道(随神、かんながら、神ながらの道)を解釈して神道と天子(天皇)を無闇(むやみ)と崇拝する理論を作った人たちだ。 それがのちの盲目的な日本軍国主義と、排外主義的な日本民族優越しそうになって、日本の上層国民と指導者層が、世界基準(ワールド・ヴァリューズ)でものごとを見る目を失って、それで、1945年の敗戦にまで至りついたのである。

この「王道思想からの日本神道、天皇の原理=予定調和説」を
私の先生の小室直樹氏は、自分の信念としているが、私は、それを強く批判する。それを排撃する段階に来たのだ、と昨年、2006年に到達した。

そして再度、再再度、優れた日本思想家の冨永仲基と内藤湖南 にまで、戻って、一切のねじれを修復して、この最も優れた日本の学問の伝統(学統、がくとう)に、私の思想と学問は連なるのだ、と重々しく宣言しなければならないのである。
この私の重要な学問選択、態度選択については、近いうちに書きます。

副島隆彦記


(転載貼り付け始め)


「大阪の町人學者 富永仲基(とみながなかもと)」

講演者 内藤湖南(ないとうこなん)

大阪毎日新聞社主催講演会講演
1925(大正14)年4月5日

 大阪毎日新聞が、一萬五千號のお祝で講演會を催されるといふことで、私にも出るやうにとのお話で出て參りました。

 但(ただ)しこの講演會は、時に毎日新聞の一萬五千號のお祝のやうにも聞え、大大阪(だいおおさか)のお祝のやうにも聞え、時としては大大阪文化史の講演といふ風に見えたこともあります。

 それについて一寸(ちょっと)お斷りして置きますが、私は大都市主義に反對です。それで一萬五千號のお祝に出て參りましたので、大大阪讚美のために出て參つたのではありませぬ。これだけはお斷りして置きます。(拍手) 今日は殊に大大阪について十分に讚美のお話がありませうから、一寸それだけ申上げて置きます。

     大天才富永仲基

 私のお話申上げますのは、「大阪の町人學者富永仲基」についてゞ、この長々しい題號(だいごう)は、毎日新聞の岩井君が選定して呉れたので、私は何も知りませぬ。併しこの事をお話したいといふことは私の注文です。

 これについては私が前にも或時(あるとき)に講演したことがあります。大阪に懷徳堂といふものがありまして、其處で大正十年に一度講演をしました。その時はまだ富永の著書について、私共見たいと思うて見付からぬものがありまして、殘念のことに思つたのでありますが、それが幸ひに昨年の春見付かりまして、私は非常に嬉しかつたので、早速これを貧乏の中から大奮發で出版しました。

 それは「翁(おきな)の文(ふみ)」といふ本であります。此處(ここ)に持つて參つて居りますから、後(あと)で御覽を願ひます。

 但し澤山お買ひ下さると云つても、もう本は澤山ありませぬ。それもお斷り申して置きます。私が出版した本はこれで、これは(原本を示す)昨年見付かつた本でございます。

 この富永仲基といふ人は、私のひどく崇拜して居る一人です。
大阪に關係のある人では、いろ/\な天才、えらい人がありませう。昨日お話のあつた筈(はず)の豐太閤、これも非常な天才、日本の天才でございました。それから文學者として近松門左衞門といふ人もありませう。併(しか)し眞に大阪で生れて、而も大阪の町人の家に生れて、さうして日本で第一流の天才と云つてよい人は富永仲基であると思ひます。

 此人(このひと)を隨分若い時から私は崇拜して居りまして、初めて此人の事について何かつまらないことを書きましたのが明治二十六年であります。今(いま)此處(ここ)にお出になつて私の話をお聽き下さる方で、明治二十六年にはまだ生れない方もあるかも知れませぬ、隨分古いことであります。その時分から敬服して居つた。

 それは彼の有名な「出定後語(しゆつぢやうごご、しゅつじょうごご)」といふ本を讀んで敬服したのであります。それはこの本でございます。

(書物を示す)これもどうぞ後で御覽下さい。
 それから段々いろ/\の人がこの事について書いたものも見ました。又それに就ていろ/\の事を調べまして、今日では此人の歿年は分りませぬけれども、大體(だいたい)何時頃(いつどろ)に生存して居つたといふことは分ります。

 さうして此人(このひと)の出所(しゅっしょ)も大分はつきり分るやうになりました。其處(そこ)に列べてあるのが富永家の墓の拓本であります。これは岩井君にお願ひして作つて戴きましたが、このいろ/\の墓は今日でも下寺町の西照寺にあります。

 その墓は私共が初めて見付けた譯ではありませぬ、前から知つてゐる人がありまして、私が初めて見ましたのが、隨分これも古い、明治三十七年であります。その年が丁度甲辰(こうしん)の年 ―― 日露戰爭の起つた年でありますから甲辰の年であります。

 この「出定後語」が出來ましたのが延享元年甲子の年で、丁度百六十年に當ります。それに大阪生れで有名な慈雲尊者(じうんそんじゃ)がなくなつてから百年に當つて居るので、私共二三の同志の者が、一つ富永の墓を弔つてやらうぢやないかといふことで、その西照寺で小さい會を致しまして、富永仲基と葛城慈雲、この二人を偲(しの)ぶために、その著書などを列べたことがあります。

 慈雲尊者は日本の梵學(ぼんがく)研究に大なる功績を遺し、又佛教にも一種の創見を有して居り、富永と行方(いきかた)は違ふが天才と云ふべき人で、私が聊(かす)かでも佛教に關する正しい知見をもつて居るのは此人の御蔭です。

 此時に初めて富永一家の墓を見ましたが、惜しいことには富永仲基本人の墓は已(すで)にありませぬ。祖父祖母の墓、兩親の墓はあります、兄の墓もあります、其外一族の墓もありますが、私共の見ました時はまだ元の墓地その儘の處にあつたのであります。近頃はどうやら少し横の方に片付けてしまつてあると聞いて居ります。片付けられてから後私は行つて見ませぬ。

 兎も角(ともかく)その本人の墓はありませぬけれども、一族の墓石はありまして、而もその母の墓の中に富永仲基のことがはつきり出て居りますので、それで確かなことが分るやうになりました。仲基の亡くなつた年ははつきり分りませぬが、何年頃から何年頃までの間といふこと位は、この母の墓碑によつて分るやうになつたのであります。

 さういふ風に幾らか此人の事について前から注意をして居りましたので、大正十年に懷徳堂(かいとくどう)で、その時丁度大阪の町人學者に關する講演をいろ/\の人が引續きやつたことがありまして、私もその一人として富永のことを引受けて話をしたことがあります。

 それからこの「翁の文」が、昨年見付かりまして、丁度その頃京都の龍谷大學の教員生徒達の間に史學會といふものが出來まして、そこで何か話をして呉れと頼まれて、その時少しばかりお話したのでありますが、斯ういふ一般の有識者のお集りの晴れの席でお話するのは今日が初めであります。

 それで此人は、大大阪ではありませぬ、昔からの大阪、その大阪が生んだ所の第一番の天才、學者もいろ/\大阪にありませうけれども、兎も角第一流の天才として數へることが出來る人だと思ひますので、この講演會で是非お話をして見たいと思つたのであります。

 懷徳堂の大阪町人學者に關する多數の講演の筆記は、實は今頃既に出版に相成(あいな)る筈でありましたが、その筆記の原稿が東京の本屋で震災の折に燒けてしまつたといふことで、その本が出來ませぬ。併し私のは實は燒けたのではありませぬ。私は懶惰者(らいだもの?)でその原稿を預かつて置いて訂正しなかつたため、私のは燒けなかつた。

 其後に私の話が土臺(どだい)になつて富永仲基の傳(でん)が出來て居ります。それは仲基の傳だけ一册に出來て居る譯ではありませぬ。この大阪の北の方に池田町といふ處があります。その池田町の篤志(とくし)な人々の仕事で、いろ/\の池田町から出た人々の著述等を出版して居ります。さうして「池田人物誌」といふものを出した、その中に富永仲基の傳記があります。

 實はか程(ほど)の人を大阪市が横取りされるといふことは勿論心外なことであるべき筈でありますが、横取りする十分な理由……裁判所に出たら負け公事(くじ)になるかどうかは知りませぬが、相應(そうおう)な縁故があるので、池田町の人が「池田人物誌」の中に富永の事を書きました。富永の弟に荒木蘭皐(あらき・・・)といふ人がありまして、その人が池田の荒木といふ家に養子に行つたのであります。

 それで兄弟共に、池田に居りました田中桐江といふ學者に從つて稽古をしたので、池田には隨分縁故があるのです。池田には又富永の作つた詩などが遺つて居ります。それから書も遺つて居ります。

 いろ/\大阪に遺つて居らぬものが池田に遺つて居る所からして、池田の人がひどくその荒木蘭皐の關係と共に富永贔負でありまして、それで「池田人物誌」の中に富永の事を併せて載せたのです。どちらかと申しますると、この將に大大阪にならんとして居る……現になつて居るか知れませぬが、それ程の大阪が、池田町にこの第一流の天才、大阪自身が造り上げた天才を横取りされる程不明であつたといふことは、或は良いみせしめになるかも知れませぬ。

 横取りされてもこれは餘(あま)り苦情が云へないかも知れませぬ。それは餘計な話でありますが、先づ此人をどういふ譯で私共が感心するかといふことから、單刀直入に申しませう。

       佛教の研究と其の學説――「出定後語」

 この富永仲基のどういふ點が偉いかといふと、今まで世間の人に知られてゐたのは即ち「出定後語」といふこの二卷の書の爲であります。これは何處か大阪の本屋に板木(はんぎ)が今でもあるだらうと思ひますが、この本にどういふことが書いてあるかと申しますと、佛教の研究です。

 佛教の研究といふのは、佛教を有難いものとして、近頃の人が禪學(ぜんがく)をやつて膽力(たんりょく)を練(ね)つたりするやうな研究ではありませぬ。佛教を批評的に研究した日本で最初の著述であります。

 而(しか)もそれ以上の著述が曾(かつ)て出來なかつた所の著述であります。その佛教の研究法といふものが非常にえらいものだと思ひます。この本が出來ましてから、佛教者の方でも大分騷ぎまして、隨分有名な人がそれに對抗する反駁を書いて居ります。

 京都のもと寺町にありました寺でありますが、了蓮寺といふ寺です、今はこの寺は引越して百萬遍(ひゃくまんべん)の内にあります。今の住職は私共懇意でありますが、その寺の無相文雄といふ百數十年前の人は、淨土宗の非常な學者であります。淨土宗の學者といふことの外に、漢字の音韻の學については大したもので、この方では、日本で最初に學術的に研究した人と云つてよい餘程えらい人であります。

 この坊さんが、富永の「出定後語」を攻撃した「非出定」といふものを書いた。これは版にならず寫本(しゃほん)で傳(つた)はつて居ります。これも前から搜して居つて、先年了蓮寺の今の住職に注意したので、今の住職の熱心で帝國圖書館で見付かりまして、今はその方の研究者には知られるやうになつて居ります。これは簡單な「出定後語」の批評であります。併し實は「出定後語」の研究に對しては餘程つまらない批評でありまして、採るに足りませぬ。

 その後に眞宗(しんしゅう)の慧海潮音(えかいちょうおん)といふ人がありまして、これは江戸の淺草で生れた坊さんであります。眞宗の坊さんとしては餘程不思議な人でありまして、眞宗でありながら戒律を守つて肉食妻帶もしなかつた坊さんで、有名な眞宗の學者でありますが、此人が又「出定後語」を反駁した本を作りました。中々難(むず)かしい名前の本であります、「掴裂邪網編」といふ、これも二卷ありまして、いろ/\反駁してあります。

 勿論多少富永の誤を訂すだけのことはありますが、併し富永の根本學説に觸れたやうなことはありませぬ。兎も角今日まで富永の著述といふものは、佛教研究の著述としては非常な立派なものです。

 これをなぜ坊さん達が攻撃したかと申しますると、此人は詰(つま)り日本で大乘非佛説(だいじょうひぶつせつ)――大乘が佛説でないといふ、釋迦の説いたものでないといふ説の第一の主張者であります。

 さういふことで坊さん達が躍起(やっき)となつて此人を攻撃したのであります。併し富永の研究は、大乘が佛説でないといつた所が、それは何も佛教に對し惡口を言ふために書いたのではない。佛教者に言はせると、佛法(ぶっせつ)を謗(そし)つて書いたやうに申しまして、非常に憤慨して居るのでありますが、實は(冨永仲基は)何も謗法(ほうぼう)の爲に書いたのではない。

 唯(た)だ佛教を歴史的に學術的に研究したいといふのであります。昔は何でも歴史的學術的に研究すると叱られた。これは日本に限りませぬ。西洋でも天文(てんもん)の研究で叱られた學者がある。

 何處でも初め學術的に研究した人は皆叱られて居ります。その研究の仕方が、どういふ點がえらいかといふと、大乘非佛説を唱へたといふことも、勿論えらくないことはありませぬが、私共はさういふ富永の研究の結果で出來た所の、その結論に感服するのではございませぬ。

 此人の考へた研究法に我々感服したのであります。日本人は一體論理的な研究法の組立(くみたて)といふことに、至つて粗雜であります。學者の中で非常な新しい思ひ付きがあつて、さうして新しいことを何か研究して産み出す人は相當にありますが、併し自分で論理的研究法の基礎を形作つて、その基礎が極めて正確であつて、それによつてその研究の方式を立てるといふことは、至つて日本人は乏しいのであります。

 それは仁齋(じんさい)でも徂徠(そらい)でも皆相當えらい人でありますが、日本人が學問を研究するに、論理的基礎の上に研究の方法を組立てるといふことをしたのは、富永仲基一人と言つても宜(よろ)しい位(くらい)であります。その點に我々非常に敬服するのであります。

 佛教(ぶっきょう)といふものは餘程(よほど)をかしなものであります。をかしいと云つても漠然たる話でありますが、凡(およ)そ今日の學術の根本思想として、空間に關する考へ、時間に關する考へといふものがなければ思想の根本が成立ちませぬ。

 ところがその點に於て佛教といふものは非常に自由であつて、自由といふよりは放漫であります。佛教では過去・現在・未來を三世と申しますが、指を彈く間に三世が起り、芥子粒(けしつぶ)の上に須彌山(しゅみせん)が現ずるといふ、時間も空間も滅茶々々(めちゃめちゃ)にして考へる、それが非常に得意な所であります。

 それは實際、哲學的の面白い考へもあるに違ひありませぬが、併(しか)しさういふもので全體成立つて居る思想は、思想として考へる時は何でもありませぬけれども、それを歴史的に考へる時には非常に困る。

 佛教全體がさういふ風に空間・時間を殆ど無視したやうな考へから成立つて居りますから、お釋迦さんの話を見ても、過去の事を書いてあるかと思ふと、現在の事、未來の事、一度にいろ/\の話が出て來まして、一體それは何億萬年前の話であるか、昨夜の話だか、今の現在の話だか、ちつとも分らないです。

 十萬億土(じゅうまんおくど)の西の方に阿彌陀如來(あみだにょらい)の淨土があると、さうかと思ふと十萬億土は極く近い其處(そこ)にあるといふ、とてもお話にならない。さういふ風に皆んな書いてあるから、歴史といふものを組立てることが出來ない。

 一體(いったい)印度人は歴史に非常に無關心であります。歴史といふ觀念を非常に粗末にして居ります。それでお釋迦樣が話したことも、釋迦の弟子の話か、その又弟子の弟子の話か、一體誰がどういふ話をしたんだか少しも分らない。

 經文(きょうもん)にあることは何も彼も皆んなお釋迦さんの話だといふ。一體今の佛典(ぶってん)は何千卷あるか、近頃は六千卷か七千卷もありませう。その中、印度の根本(こんぽん)に關するものがどれだけあるか知りませぬが、それが皆時間を無視したやうなもので、とんと始末が付かない。

 それをどうしてその間から歴史的關係を見付け出して、さうして佛教發達の歴史を考へるかといふことは非常に困難であります。昔からそれについてはいろ/\な方法を考へまして、例へば法華經、即ち天台宗などの考へでは、お釋迦さん一代の中にいろ/\な時期があつて、一番最初に當つて卑近な小乘教を説いて、それから段々時期を分けて深い教(おしえ)を説き、最後に法華經を説いた、それで法華經が一番尊いものであると、一代の事を五時とか八教とかに割當てゝ、それで以てあらゆる佛教の説の變つて居る所を片付けようといふ、それが一番永い間勢力があつた。

 併(しか)し富永は古來の傳統の説に囚(とら)はれないで、特別な方法を發見しました。

          一「加上(かじょう)」の原則

 特別な方法、それはどういふことかと申しますると、こゝに一つの原則を立てました。富永の「出定後語」の中にかういふ言葉があります。それは「加上」――加上の原則といふものを發見したのであります。

 加上の原則といふものは、元(もと)何か一つ初めがある、さうしてそれから次に出た人がその上の事を考へる。又その次に出た者がその上の事を考へる。段々前の説が詰らないとして、後の説、自分の考へたことを良いとするために、段々上に、上の方へ/\と考へて行く。

 それで詰(つま)らなかつた最初の説が元にあつて、それから段々そのえらい話は後から發展して行つたのであると、斯ういふことを考へた。

 それは「出定後語」の「教起前後(きょうきぜんご)」の章に書いてある。佛教の中の小乘教も大乘教も、――その大乘教の中にいろ/\な宗派がある、その宗派の起る前後といふものは、この加上の原則によつて起つて來たといふことを考へました。

 一體佛教といふものは、――印度に婆羅門教(ばらもんきょう)があつて、それが天を崇拜して居つた。その婆羅門教といふものが段々發達して、次第に天の上に天を加へて、後になると二十八天、三十三天と段々上へ/\と附加へて、自分の拜む天が尊い、今まで拜んで居る天はそれは間違つて居るといふことで、さうして大きく分ければ三界の諸天と申しまして、慾界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしょくかい)、さういふ風に三つに分けるのであります。

 大體それで二十八天、三十三天と段々上の方にえらい天が出來て積み上げられて行つた。餘り天が高く積み上げられ過ぎて、その上に天を積み上げても致方がないから、お釋迦さんはそれを引つくり返して、天でない佛(ほとけ)といふものにしてしまつた。

 つまりそれは天の上に加上した考へである。斯ういふことを考へまして、さうして最初お釋迦さんの考へたのは聲聞(・・・)の教、即ち後にいふ小乘教(しょうじょうきょう)であるが、その上に又その弟子達が段々世を經(ふ)るに從つて、段々上の方に考へて、何百年かの間にこの大乘佛説が發達して來たと、斯(こ)ういふ加上の原則を發見したのが富永の説であります。

 これは詰り思想の上から考へて行つたので、思想の上から歴史の前後を發見する方法を立てた。歴史の記録のない時代のことを歴史的に考へるには、これより確かな方法がない。どうせ理窟のつんだ完全なものは段々後から出て來るに違ひない。一番最初は一番簡單のものであつて、それから段々いろ/\に理窟を變へて、引つくり返し/\上の方に行くに違ひないから、佛教の如き時間空間を構はない記録に對しては、斯ういふ方法で考へる外に仕方がないのであります。

 併しさういふ富永の考へ方も、今日(こんにち)から顧(かえりみ)れば何でもないことでありますが、さういふことを發見する人といふものは中々あるものでない。それを富永が發見したのであります。これは非常に偉いことゝ思ひます。

 これは今日いろ/\な國の古代のことを研究するに非常な役に立つ原則だと思ひます。富永は支那(しな)のことも斯(こ)ういふ原則で研究しております。

 又日本のこともそれでやらうとしました。何も思想ばかりでない、事實(じじつ)に關する傳説でも、さういふ方法で研究が出來るのであります。但し此の加上の原則のえらいことは多くの人が皆氣が付きます。

  二「異部名字難必和會」の原則

 その外に多くの人が、富永の原則の尊いことに氣の付かないものがあります。それは「異部名字難必和會(いぶみょうじなんひつわかい)」といふ原則です。

 これはどうかすると今日歴史などを研究する人でも、この原則の尊いことを知らない人があります。これはどういふ事かと申しますると、要するに根本の事柄は一つであつても、いろ/\な學問の派が出來ますると、その派/\の傳へる所で、一つの話が皆んな違つて傳へられて來ると、それを元の一つに還すといふことは餘程困難である。

 根本は一つの話、それが三つにも四つにも變(かわ)つて來ると、どれが一體根本で、どれが變つて來たのか、どれが正しく、どれが誤つて居るかといふことを判斷するのは餘程困難であります。

 それで富永は異部名字(いぶみょうじ)必ずしも和會し難しと言うて居る。つまり學派により各部々々で別の傳へが出來て居るので、それを元の一つに還すことは出來にくいといふことを言ひ出したのであります。これは餘程偉いことだと思ひます。

 どうも歴史家といふものは、何か一つこゝに事件がある。それが何月何日の出來事だといふ説がある、又それと違つた説が出て來ると、それは何方(どれ)が本當で何方(どれ)が嘘であるか、二つの説、三つの説があると、どれか一つ本當で、あとの殘りは嘘だと、斯う極めたがるのである。

 どれもよい加減で、どれが本當か分らぬと諦めるといふことが、どうも歴史家といふものは出來にくいやうであります。どれか一つ確かなものと極めたいといふ考へがあります。ところが記録のある時代は、どうかするとそれを一つに極めることが出來ます。

 併し記録がない、話で傳はつて居ります時代のことは、どうしても極めにくいです。さういふ事は、いつそのこと思ひ切つて極めない方がよいんですが、それをどうも皆んな極めたがるのです。その極めにくいといふことを原則にしたといふことは、大變私はえらいと思ひます。

 これは支那の非常に古い時代に、斯ういふことを考へた説があります。支那の春秋公羊傳(しゅんじゅうこうようでん)の中に、所見異辭(しょけんいじ)、所聞異辭(しょぶんいじ)、所傳聞異辭(しょでんぶんいじ)とあつて、それを一つの歴史上の原則にしてあります。これも見る所、聞く所、傳聞(でんぶん)する所各(おのおの)違つて居るので、どうもどちらが事實と一つに極められないといふことであります。

 この傳説時代の事は、思ひ切つてさういふ風に極められぬと極める方がよいのであります。それを歴史家などは、傳説時代の事でも、どれか一つを事實として、その他は誤り又は僞にしたい。

それがため反つて事實を失ふことになる。佛教の如く傳説ばかりで出來て居るもの、即ち初めの間は記録がなくて、口から口へと唱へられて傳はつて、それから後に本に書かれたものは、同じ事に異つた傳來が多くて、一つに極められぬことが多い。

 例へばお釋迦さんが初めて出家(しゅっけ)してから、成道(じょうどう、悟りを開く)して、それから死ぬまでのことでも、十九で出家し、三十で成道し、八十一で死んだとも云ひ、二十五で出家して二十八か九で成道し、八十一で死んだといふ風に、いろ/\の説があつて、各の宗派によつて、この説を採るとか、かの傳へを採るとか一定しない。

 お釋迦樣の生れた年代でも、今から二千八九百年前といふ説もあり、二千三、四百年といふ説もありますが、各の宗旨によつて採る所がちがふ。尤(もっと)もお釋迦さんの死んだ年に關しても、富永が一番確からしい説を「出定後語」の中に出してあります。その點を今日富永の研究の偉いことゝして特別に認めて居る人もあります。兎も角大體この傳説時代の事は一つに極めるといふことが困難だと考へ出したのは、異部名字必ずしも和會し難しといふ原則であります。これ等も古代の事を研究するには大變よい考へだと思ひます。

 三「三物五類立言之紀(さんぶつごるいりつげんのき)」の論理

 それからその外に非常にえらいことを考へて居ります。「言有三物(げんゆうさんぶつ)」といふことを申しました。これが富永の論理の組立であります。それは言有人、言有世、言有類と申してあります。その言に類有りを五類に分けます。泛と磯と反と張と轉と斯ういふ五類に分けます。さうして之を總べて「三物五類立言の紀」と申し、これが富永の研究方法、論理の組立であります。

「言に人有り」といふのはどういふことかと申しますると、その言ひ傳へ、説といふやうなものは、人によつて異るといふことであります。それで同じ事でも、人によつて解釋も違ふ、言ひ傳へも違ふ、いろ/\の人によつて違つて來ることを云ふのであります。支那では之を一家言(いっかげん)と申しまして、皆人によつて言ひ傳へが違ふので、即ち異部名字と同じやうなことであります。

「言に世(よ)有り」といふ、これは時代によつて違ふことを申します。それは例へば佛教の飜譯(ほんやく、ひしゃく)です。佛教が支那に飜譯される時に、サンスクリツトの飜譯について、玄弉三藏(げんじょうざんぞう)などにサンスクリツトの何々といふ言葉は支那でどういふ意味だ、舊譯(きゅうやく)に何々と譯したがそれは誤りだと屡(しばしば)書いてあります。

 それで支那の佛教に、玄弉三藏の飜譯とその以前の飜譯とによつて舊譯新譯の區別がありまして、舊譯が不確かで間違で、新譯の方が確かであるといふが、これは單に意味ばかりでなく、そのサンスクリツトの音を支那の文字に當て嵌めるについても、例へば坊さんのことを舊譯では比丘(びく)と書いてありますが、新譯(しんしゃく)の方では芻(・・)としてある、それで芻といふのが正しくて、比丘といふ字を當てたのは誤りである、斯ういふやうに申します。

 が、富永は、その舊譯を皆誤りといふ譯にはいかない、印度といふ國は言葉の國である、言葉といふものは時代によつて段々違つて來る、發音も違つて來れば意味も違つて來る、その違つた時代に支那で之を飜譯したのである。支那で佛教を最初に飜譯した時と玄弉三藏の時とは、既に數百年も經て居りますから、その間に印度の元の言葉にも、音の變化もあれば意味の變化もある。それでさういふ風に時代によつて言葉が變つて來るのであるから、それを知らなければ研究の方法を誤るといふことを考へたのであります。

「言(げん)に類(るい)有り」といふのは、次の五類に分けてあります。第一「泛」と申しますのはどういふことかといふと、何か一つの、或物の名前とか考へとか、固有名詞であつたものが、それが後になると變化して普通名詞になる。

 最初の事實は何か一つの片寄つたもの、極まつたものについての名前であつたのが、それが段々に意味が擴(ひろ)がつて、それが普通の意味になり、名前になるといふことを「泛」といふのであります。

 「磯」といふことは、多分これは孟子の中に「以て磯(・・)すべからず」といふ言葉がありますから、それから來たと思ひます。言葉を激しく言ふ、強めて言ふ、意味を強めて言ふことであります。誇張するといふ程ではありませぬが、その爲に少し言葉の意味に變化が出來ます。

「反」といふのは、前からの説と反對に解釋するのであります。

「張」といふのは即ち誇張することでありまして、今までの意味を大袈裟に言ふことであります。富永が例を擧げて居りますが、例へば成佛(じょうぶつ)――佛教で成佛するといふことについて、あらゆる世の中の物を有情・非情の二つに分けまして、本來の説は有情のものが成佛すべきである。

 併し佛教が段々説を擴めて、山河草木悉皆成佛(さんがそうもくしっかいじょうぶつ)と、非情の物までも、意識のない鑛物とか草木までも成佛といふ風に説いて行くのが、それが「張」といふことであります。

「轉(てん)」といふのは、意味が轉(てん)ずる、前の「反」といふ程全く反對ではありませぬが、意味が轉化(てんか)するといふことであります。富永が例を擧げて居りますが、初めは一闡提を除いて皆佛性があると説いたが、後にはその一闡提さへも佛性があるといふ風に説が轉じて行つた。

 斯ういふ風に、言葉の意味は段々と轉化するものである。五類の働きによつて教義の發展が出來るのでありますから、五類といふことを知らなければ佛教の研究は出來ないと、斯ういふことを言つたのであります。

 四 其の他の學説

 それから之について富永がその外の事にも渉(はか)つて論じて居りますが、よく佛教家は印度の言葉即ち梵語(ぼんご)は多義である、意味が多い、それで印度の言葉は尊いのであると解釋するが、富永は何處の國の言葉も多義であるとして、大阪の俗語の例を擧げて例にして居ります。

 大阪で放蕩者のことを「たわけ」と、その頃言つたのでございます。近頃は「極道(ごくどう)」と言うて、餘り「たわけ」と言はない。放蕩者の「たわけ」といふことを、支那の文字の放蕩といふ意味だけでは、大阪の言葉「たわけ」の意味を十分盡(つく)し難い。大阪で「たわけ」といふ言葉は、放蕩といふ外にもつと多くの意味を含んで居る。何處の國の言葉でも、その國の言葉には特色があつて、それは多義を含んで居る、他の國の言葉で解釋すると多義を含んで居る、何もサンスクリツトだけ有難い結構(けっこう)な言葉であり、多義であるといふ譯ではないと申しました。

 これ等の考へ方によつていろ/\の事を推論して居ります。例へば斯ういふ風なことを考へた。佛教によく最初に「如是我聞(にょぜがもん)」と書いてある。佛教の從來の話で「如是我聞」といふのは、それはお釋迦さんの言うたことを、弟子の阿難(あなん、アーナンダ)といふ大變記憶(きおく)の好い人があつて、それがお釋迦さんに多年侍者(じしゃ)として隨從(ずいじゅう)して居りましたから、いろ/\の事を聞いて居つた。

 お釋迦さんが死んでから、始めてお釋迦さんの言うた事を編纂するといふ――勿論その時編纂すると云つても本に書くのではない、昔の編纂といふのは言葉の上の編纂でありまして、皆んな寄つて、誰もかういふ事を聞いた。某(なにがし)もかういふ事を聞いたと、皆んな聞いたことを話合つて見て、さうして皆んなの話を持ち寄りして、それを皆んなが確かに記憶して置く、昔の人の學問は記憶が主なることであります。

 その會合で話合をして、それを記憶したのが編纂であります。これを佛教の方では結集(けつじゅう)と申します。最初の結集の時に、阿難が一番記憶がよいので、その聞いて居つたことを話して見ろといふので寄つたところが、阿難が一番最初に如是我聞と言つた。

 外(ほか)の弟子達が、つい昨日までお釋迦さんから直接に聞いたが、今日は阿難の口を藉(か)りて、さうして如是我聞と聞かなければならないと悲しんだといふ、大變面白く小説的に傳へられてあります。それでお釋迦さんの言ふことを直接聞いた人が如是我聞だといふことにこれまで言うてあつた。

 ところが富永はそんなことはない、如是我聞といふのは、お釋迦さんが死んでから何百年かたつて、お釋迦さんが昔かういふことを言うたげな、昔こんな話があつたさうな、それで如是我聞といふので、直接聞いたものを如是我聞といふ筈はないと言つて居ります。中々皮肉な見方です。

 元來富永は、何でもさういふ風に皮肉な見方をする人です。

 但しさういふ皮肉な見方で學術的にうまく言つてあることがあります。佛教の方では經(きょう)・律(りつ)・論(ろん)を三藏(さんぞう)と申しまして、「經」といふのはお釋迦さんの直接説法されたもの、「論」といふのはお釋迦さんの説を弟子の菩薩達が之を説かれたもの、「律」といふのは、これはお釋迦さんの定められた戒律即ち「おきて」であります。

 ですから、道徳上の規定であります。その上にこの經律論を解釋する「釋(しゃく)」といふものがあつて、その説を傳へる人が更に解釋(かいしゃく)したのであるといふ、それでその出來た前後の關係を説明するが、富永はさうでないと申しました。

 お釋迦さんの當時から經も律も論もあつてちつとも差支(さしつかえ)ないのである。それは論の中にも偈頌(げこう)と長行(ちょうこう)とがある。偈(げ)といふのは、意味を大變簡單に約めて、詩とか歌といふ具合で韻文にまとめて書いたものです。

 長行といふのは、これは韻文の意味を細かく解釋して、さうしてそれを分り易く演べて書いたものであります。この偈頌と長行とは、論部にも毎(ことごと)に出てゐます。先づ短い四句偈・八句偈・十句偈があつて、その次に意味を演べて書いた長行があります。

 それで何のために偈頌を作つたかといふことについて、佛教の方では、その由來を八つの意味に説いてありますが、その中第五と第六とが眞の意味だと富永は申してゐます。第五は、この偈を韻文にして讀み易くしたのは、それは皆んなが韻文であることを望むからと、第六は韻文だと覺え易いからだ、さういふ二つの意味を言つて居るが、これが偈頌といふ韻文の出て來た所以である。

 昔の經典の言葉は、覺え易く、耳に入り易くするために皆偈頌で書いた、それを後に解釋するために長行が出來たのであると申しましたが、これだけは何人でも考へ得ることでありますが、富永はこれは支那でも日本でも同樣だといふことを考へた。

 支那でも詩經は勿論、書經の中にも韻文がある。易經・老子さういふ古い本には皆韻文がある。それは印度の偈頌と同じやうに、韻文といふものは、學問するものが望むからと、記憶し易いからである。

 日本でも古い語り傳へなどには、何か一種の音節があつて、その音節によつて覺える。例へば祝詞には皆一つの調子があつて、その調子によつて覺えよく出來て居ります。さういふことは原始時代に皆覺え易いために出來たものであつて、昔の本は皆さうである。さういふ風にして之を暗誦(あんしょう)して居つたのが、即ち偈頌の出來る所以、それから後に長行が出來たのであつて、印度でもさういふ順序で發達して居るに違ひないから、律でも經でも論でも、最初からあつたに違ひない。

 お釋迦さんの書いたものが經で、菩薩(ぼさつ)の書いたものが論だといふ區別は、それは後から勝手に區別したので、元來はさういふものでないといふことを言つて居ります。

 かくの如く、佛教を研究するのに、支那のこと日本のことも實際昔の原始時代のことを考へて、比較研究をしたといふことは、餘程歴史的研究にえらい頭をもつて居つたといふことが分るのであります。

  研究法と學説の價値

 大體(だいたい)富永の研究法といふものはそれだけでありますが、これだけあれば、如何なる古い時代の、時間も空間も不分明な記録でも、研究が出來るのであります。かういふ法則を發見したといふことは非常な偉いものでありまして、日本でも支那の事を研究した人があり、日本の事を研究した人もありますけれども、斯ういふ風にその自分の研究の方法に論理的基礎を置いた人がないのであります。

 それはこの富永が初めて置いたと言つて宜しいのであります。私はその點に於て、大阪が生み出したといふより日本が生み出した天才として、これは立派な第一流の人であると言つてよいと思ふのであります。

 私が曩(・・)に懷徳堂で斯ういふことを申しました時、日本で天才の學者といふものを五人擧げれば、必ず富永がその一人にはいるといふことを申しましたが、筆記する人が間違つて、五人を省いたその次の第一人が富永といふ風に筆記したと見えまして、私の手許に來た筆記がさうなつて居ります。それによつて書いた「池田人物誌」にもさういふ風に出て居りますが、それは間違ひで、私はもつと富永を偉く見て居るのであります。

 大阪には隨分(ずいぶん)澤山(たくさん)學者がありましたが、兎も角、學問を、今日の言葉で言へば科學的に組織立つた方法で考へたといふのは、此人より外にない。これは大阪ばかりでない、日本中にこの位の人はないのであります。その點が非常に偉いと思つて居るのであります。

 それから富永は、學問といふものに國民性があるといふことを考へたのであります。その當時に印度と支那と日本との國民性について斯う考へたのである。印度人の國民性を一言にして「幻」と批評し、支那人の國民性を「文」、日本人の國民性は「質」或は「絞」と、絞といふのは正直過ぎて狹苦しいのでありますが、兎も角一字で批評をしたのであります。

 僅(わず)か一字で大變よく批評してあると思ひます。印度人は何でも空想的なことを好みまして、前にも言うた通り、芥子粒の上に須彌山が現じたりするといふ風に、大變突飛な魔法使みたやうなことを考へる。それでお釋迦さんの所謂外道(げどう)、佛教の外の印度の各派宗教のやるのは幻であつて、佛教の方でやるのは神通(じんつう)である。

 幻と神通が違ふと申しますけれども、實は幻も神通も同じもので、手品使が印度人に近い手品に合ふやうな宗教を組立てたと、斯ういふことを言ひました。支那人は何でも文飾(ぶんしょく)を好む、言葉でも何でも飾る、飾らんと承知しないので、それで支那人の國民性は文であります。

 日本人は至つて簡單な正直な考へで、いろ/\幻みたやうな文みたやうな、目まぐるしいりくどい奴にぶつかると、日本人の頭では分らなくなつて、何か見當(けんとう)が付かないから、日本人は正直な眞つ直ぐな、手短かに言うた方が一番分りがよいので、それで日本人は質とか絞とかいふことになる。

 斯ういふ風に三通りの國民性があつて、各國民性によつてその國々の宗教を組立てるのであるから、外の國の宗教を自分の國に移すときには、自分の國に合ふやうに之を變形(へんけい)しないとうまく合はない。印度の幻術的な宗教、何かといふと十萬億土などといふ取留(とりと)めもない目まぐるしいことは、日本に應用することは出來ない。

 日本に應用するときには、もつと手短かな、手つ取り早くしなければ日本人には入らない。支那の文でも、非常な細かい、文飾が煩はしくては日本には行はれない。日本人にはそれをもつと簡單に手つ取り早くしなければならぬ、と斯ういふことを言つて居ります。これは尤も富永自身の發明ではないと言つて居ります。

 支那の隋に文中子(ぶんちゅうし)といふ人がありまして、佛教は西方の聖人の教へである、之を支那に行はんとすると泥(・・・)む、そこに拘泥(こうでい)することになつて來る、支那にはその儘(まま)行はれにくいと文中子が言つて居ります。それを富永が引いて居ります。

 それから富永は支那と日本との比較を考へて、兎も角各國民には國民性があるから、國民性によつて宗教といふものが成立つのであるといふことを考へました。此等は今日から觀ると非常な卓見と謂はなければならない。まだいろ/\のことがありますけれども、先づこれが「出定後語」の大體であります。

       支那學研究の原則と神道の批判――「説蔽」・「翁の文」

 その外に、富永仲基に「説蔽」といふ、これは儒教を攻撃したと言はれて居る本がありますが、その内容は今はよく分りませぬ。しかし「翁の文」といふ本が現はれて來て「説蔽」の中にどういふ事が書いてあるかといふことが幾分か分つて參りました。

 この「翁の文」といふのは、どういふ本で、どういふ事を書いてあるかと申しますると、これは「出定後語」より四五年前に書いたものでありますから、恐らく富永の二十代の著述かと思ひます。二十代で非常な頭をもつてゐたものと思はれます。この中に書いてあることは「説蔽」に書いてあると同じで、支那の學問研究の原則を與へたものであります。

 それは大體斯ういふ風に考へました。孔子の生れた當時、その當時は五覇(ごは)の盛んな時である。齊(せい)の桓公(かんこう)、晉(しん)の文公(ぶんこう)といふのは當時の覇者であります。その覇者の盛んな時であつて、孔子はその時一般の人々が覇を尊んで居つたので、その上に加上して、文武(ぶんぶ)といふことを言つて居ります、周(しゅう)の文王・武王といふことを言ひ出した。

 孔子の後に墨子(ぼくし)が起つて、墨子は文武の上に更に堯舜(ぎょうしゅん)のことを言ひ出した。その上に今度は楊朱(ようしゅ)が黄帝(こうてい)を言ひ出した。それから孟子に書いてある許行(きょこう)がその上に神農(しんのう)のことを言ひ出した。これが支那に於ける加上説である。

 思想の上からすれば、孟子に書いてある告子(こくし)が、性には善惡なしといふ説を唱へたのである。孟子は性善説を唱へた、荀子(じゅんし)は性惡説を唱へた、斯ういふ風なのは加上説であるといふ。

 然るにこれは加上によつて出來たといふことを知らずに、日本の伊藤仁齋(いとうじんさい)は孟子の説が正しいとし、徂徠などは孔子の道はすぐに先王の道にて、子思・孟子などは之に戻れりといふが、その説の起る由來を辨ぜずして末節に拘泥し是非の論をなすもので、説の起る由來を考へると、段々思想上の加上から來るのであつて、目的は皆同じである。

 皆新しい説新しい説を言ひ出すから、さういふことに拘(こだわ)つて來るのであると、斯ういふ風に考へました。今日「説蔽」といふ本はありませぬが、之によつて「説蔽」の大體は分るのであります。

「翁の文」には又日本の神道のことを批判してあります。日本の神道(しんとう)は、勿論富永の時代は本居・平田のまだ起らない前でありますから、近代の國學者の神道は未だない時で、その當時行はれて居つた神道によつて判斷したのであります。

 大體(だいたい)神道といふものは昔からあつたのではございませぬ。これは皆中古から起つたものである。

 先づ起つたのは兩部習合(りょうぶしゅうごう)――佛教と神道とを一つにしたものである。兩部習合説が先づ起つて、それから後に本迹縁起(ほんじゅつえんぎ)――本迹縁起と申しますのは、何の神の本地(ほんじ)は何佛で、何々神といふのは垂迹(すいじゃく)である、佛が本體で、神がそれから實際世に現はれて居る者と考へたのであります。

 それで兩部習合説の次に本地垂迹説が起り、その後になつてアベコベに、神を本地として佛を垂迹とした説も起つて來たのであります。それから今度は佛教・神道兩方を一緒にする説が行はれ、更に唯一宗源(ゆいいつしゅうげん)といふ、これは神道だけで解釋して行かうといふ風に加上したのであります。

 これらは中古の神道で、平安朝から鎌倉・足利時代までの間に出來た神道であります。その後、徳川時代に王道(おうどう)神道といふものが起つた。これは神道を儒教で解釋したといつてある。

 これは富永は明白に申しては居りませぬが、易(えき)で神道を解釋した伊勢の神主等、又はその後に起つた山崎闇齋(やまざきあんさい)が儒教で神道を解釋したことを指すのでありませうと思ひます。

 これは表に神道を説いたけれども、内面は儒教である。斯ういふ風に段々加上によつて神道も發達して來たのであつて、神道が古い時から傳へられたと云ひますけれども、實は古い事をその儘傳へて居るものでもなく、又古い事が良いからと云つて、今日の生活を昔の質樸(しつぼく)な生活、原始的生活に返して、今日の我々の生活に入れられるものでないと云つて居ります。

 「翁の文」の新學説

 この「翁の文」に特別なこの人の意見が現はれて居る所は、學説に時代があるといふことを説いて居る點(てん)であります。昔大變效能のあつた宗教なり禮儀なりも、今日では役に立たないものであるといふ、中々新しい考へであります。

 これは單に宗教・道徳に國民性が在るばかりでなしに、國民性の外に時代相があるといふことです。近頃時代錯誤といふことを申しますが、そんなことは富永が今から百八十年程前(1730年代、副島隆彦注記)に考へて居りました。

 それで今日の我々には今日に相當した「誠の道(まことのみち)」といふものがあるべき筈であると、斯ういふ事を考へましたので、それで神道・佛教・儒教この三つの外に誠の道といふものがなければならぬ、それが即ち今日實際に役に立つべき所の道徳であるべきであると、斯ういふことを冨永は言ひました。

 これが「翁の文」の大意であります。つまり國民性は時代によつて地方によつて變る、時代によつて學説が變つて來るから、時代によつて相當の學説があるといふことを考へて居ります。

 今まで富永の議論で知られて居ることは、先づそれだけと言つて宜しいのであります。極く簡單でありますけれども、それだけで隨分この人の卓見といふものが出て居ります。

 學問上の研究方法に論理的基礎を置いたといふことが既に日本人の頭としては非常にえらいことであります。その外に宗教・道徳に國民性の區別があり、時代相の區別があると、あらゆる點に注意して居ります。これが我々の非常に尊敬する所以であつて、恐らく日本が生み出した第一流の天才の一人であると言つても差支ないと思ふのであります。

 家系と其の攷學

 私はこの天才は大阪が生んだ人だといふことを簡單に附け加へたいと思ひます。其處(そこ)に出してございます拓本(たくほん)の中、一番最初が富永のお祖父さんお祖母さんの碑であつて、徳通といふのが仲基の親であります。この「翁の文」の序文などから考へますると、ヒヨツとするとこの人の先祖は播州(ばんしゅう)から出たのではないかと考へられます。

 播州といふ處は妙に大阪に於ける町人學者を多數出しまして、私がやはり嘗て懷徳堂で講演しました山片蟠桃(かたやまばんとう)といふ人も播州の出身であります。富永の先祖も播州から出たのではなからうかと思ふのであります。父からは既に大阪に住まつて、仲基は大阪に生れた生粹の大阪つ子に相違ないのであります。

 この人には兄弟がありまして、其處(そこ)にある毅齋居士(きさいこじ)といふのがその兄であります。それは腹違ひの兄弟で、母の碑文が其處にあります(陳列の拓本を指す)、それが仲基の生みの母でありまして、その仲基と兄毅齋との間にもう一人あつたが、その人の名前も分らず、はつきりしたことは分りませぬ。

 富永の生みの母は三人の男の子を生んで居りまして、皆學問が出來たやうです。二番目が池田に養子に行つた荒木蘭皐、三番目が眞重、通稱は何と云つたか分りませぬ。これも學問が出來て、此人の書いた漢文に荒木蘭皐の集の序文があります。

 仲基の親は實名は徳通、號は芳春といふ人で、相當の學者でありまして、即ち懷徳堂を起しました五同志の一人で、淀屋橋尼ヶ崎町と申しました今の北濱邊(きたはまへん)でありませう、其處で道明寺屋吉左衞門といふ醤油屋であつた。その家を繼いだのは仲基の兄毅齋であります。

 仲基は通稱(つうしょう)を何んと云つたかはつきり分りませぬが、近頃淡路の國から仲基の「翁の文」の寫本が出て參りました、それは富永と同時代の學者で仲野安雄(なかのやすお)といふ人が寫(うつ)して居つたもので、それに翁の文の著者は「道明寺屋三郎兵衞」と書いてありますから、それが通稱であらうと思ひます。

 それで若い時から聰明(そうめい)であつたに違ひなく、懷徳堂主の三宅石庵(みやけせきしつ)に就(つい)て學問を稽古(けいこ)した。その内、「説蔽」といふ儒教を攻撃した本を書いて、石庵から破門されたと言ひ傳へてあります。

 が、「池田人物誌」に西村天囚(にしむらてんいん)君の説を引いて、石庵の死んだ時富永は十五六であらうから、著述したにしても破門されるといふことはあるまいと書いてありますが、成程それが尤(もっと)もであらうと思ひます。

 この三宅石庵から破門されたと言ひ出したのは佛教者の言ひ傳へであつて、佛教者が富永の惡口を言ふために、いろ/\の事實を捏造して居ることがあるやうです。富永が佛典を讀んだのは、黄檗板(おうばくばん)の藏經(ぞうきょう)――今でも一切經(いっさいきょう)の版木がありますが、それは富永より六七十年前に鐵眼(てつげん)の作つた版木であります。

 その版木を校合(こうごう)するため富永が傭(やと)はれて居つて、それがために佛教を學んだのであらう、それから佛教の惡口の本を書いたから、大變佛教の恩に背いて居ると、慧海潮音といふ眞宗の坊さんが書いてゐます。之と同じ話で段々異部名字式に變つて來た話でございますが、矢張り淨土宗の坊さんが書いた「大日比三師講説集」といふ本がありまして、富永は佛教の惡口を言うたので到頭(とうとう)癩病(らいびょう)になつた。

 それから大變後悔して、坊さんを頼んで「出定後語」の版木を燒棄て、阿彌陀經千卷を書いて懺悔(かいご)したけれども何等(なんら)の驗しがなく、到頭癩病で死んだといふことが書いてあるのです。これは文化文政頃富永の惡口が盛んに行はれて、坊さんが富永に對し酷(ひど)く反感を持つた時分の言ひ傳へであります。

 石庵に破門されたといふのも、其時の言ひ傳へでありますから、どれだけ之に信用を置いてよいか餘程疑問であります。但し黄檗山(おうばくさん)で藏經(ぞうきょう)を見たといふ、これは事實だらうと思ひます。富永の作つた詩の中に、自分の家庭の面白くないことが書いてある。これは恐らく自分の母が兄に對して繼母(ままはは)である關係ではないかと想像されるのでありますが、しかしお母さんといふ人が非常な賢婦人であつたらしいのであります。

 お母さんの碑文といふものは、多分仲基の弟荒木蘭皐が書いたのでありませう。兎も角何か家庭に面白くない事情があつて、富永が一時自分から家を出て居つた、その間に黄檗に行つて居つたのかも知れませぬ。その時藏經を讀んだのだらうといふことは想像されるのであります。

 その外に多く佛教者から出た惡口は信用出來ませぬ。それから「出定後語」の版木を燒棄てたといふのは全く嘘でありまして、その後になつて平田篤胤(ひらたあつたね)がこの本を搜した時に、大阪の何處かの本屋の藏の隅から版木を漸(ようや)く見付けて刷り出したといふことを書いてありますから、版木を燒棄てたといふのは全く嘘であります。

 佛教者は妙に人の惡口を言ふ時には、口ぎたない言辭を用ふるものでありまして、たゞ無闇に聲を大きくして人を罵(ののし)るやうなことをする。これは甚だ感服仕(つかまつ)らぬのであります。

  獨創的識見

 この「出定後語」、「翁の文」のえらいことについて、私は色々の處で講演いたしたのでありますが、富永の書のえらいことは、最初は國學者の本居宣長(もとおりのりなが)によつて發見されて、「玉勝間(たまかつま)」に書かれたのであります。

 それを見た平田篤胤が、それから本を搜し出して、「出定笑語」といふ本を書きました。我々はそれを讀んでからこの本を知り、更に「出定後語」を讀んだ譯でありますが、その當時から富永が幾らか人々に注意されたものと見えまして、殆(ほとん)ど富永と同時代でありました湯淺常山(ゆあさじょうざん)が「文會雜記」といふ本に富永の本を批評しまして、佛教の事を一通り知るのには「四教儀集解標旨鈔」といふ本があつて、それを讀むと大體佛教の大意は知られるといふ、それで「出定後語」はこれから見出したといふやうなことを或人が言つたといふことを書いて居ります。

 私もこのことを若い時に見まして、「四教儀集解標旨鈔」を搜して見ましたところが、この「四教儀集解標旨鈔」といふ本の著者は仙臺に居つた梅國といふ坊さんであつて、大變博學な佛教學者でありますけれども、富永が之によつて佛教の事を見出したといふことは全く嘘であります。

 それは「四教儀集解標旨鈔」を碌に讀まず、「出定後語」も碌に讀まない人の批評であります。存外昔の人の批評といふものも注意しなければならぬものだと、三十年も前のことでありましたが考へたことがあります。

 つまり富永の佛教批評といふものは、全く自分の獨創的な見識、獨創的の天才から出たのであります。何か人に教へられた、人の著述によつて思ひ付いたといふやうな、そんな詰らないものではないのであります。

 「翁の文」なんぞも、猪飼敬所(いがいけいしょ)程(ほど)の學者も感服したと見えまして、之を讀んで大變えらいといふことを書いて居ります。それで私共長い間この本を搜して居つたところ、偶然昨年の春まで大阪外國語學校の教授をして居つた龜田次郎といふ文學士が發見しました。

 それを私が到頭版にするやうになつたのであります。この人の學説なり、その傳記なり、又私がそれに關係した由來をお話すると大體こんなことであります。長くばかりなりましたが、どうぞこの人が偉い天才であるといふことは、大阪が大大阪になりましても永く人々の記憶に留めて置きたいと思ひます。

 斯(こ)ういふ天才は、何も大阪が大大阪になるから出たといふ譯ではありませぬ。又過去の大阪がかゝる天才を出したから、將來大大阪になつたらもう一倍えらい天才が出るだらうといふ保證は決して致しませぬ。これで御免を蒙(こうむ)ります。(拍手)

(大正十四年=1925年=四月五日講演)

底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「先哲の學問」弘文堂
   1946(昭和21)年5月発行
初出:大阪毎日新聞社主催講演会講演
   1925(大正14)年4月5日
   「大阪文化史」に講演録所収
   1925(大正14)年8月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年1月10日公開
2006年1月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝
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