「33」 インド独立の指導者(ネタジ)、チャンドラ・ボースは口封じで殺されたのである。有末精三(ありすえせいぞう)陸軍中将は敗戦前から、すでにアメリカのスパイだったのである。副島隆彦
副島隆彦です。 今日は、2007年2月21日です。

 私は、どうしても、ここの「建設中の第2ぼやき」に、書いておきたいことがあった。 このことを書いて公表すべきかと
三日間、考えたが、やはり、書いておく。 チャンドラ・ボースと、インド独立運動の英雄たちの霊に報いるためにである。

 有末精三(ありすえせいぞう)という陸軍中将にまでなった軍人がいた。

 彼が、チャンドラ・ボースが、台北(たいぺい)から、東京に飛行機で撤退する時に、飛行機を計画的に事故を起こさせて、離陸したばかりの飛行機を爆破して、そして、ボースを死なせて
いる。いや、殺したのだ。

 ボースは、敗戦につぐ敗戦の日本軍と日本政府を、見限って、
今度は、ソビエト・ロシアを頼って、ソビエトに、向かおうとしていた。そして、ボースは、イギリスからのインド独立運動を、インド民族の悲願を達成し、継続させようと、彼は、意気揚々(いきようよう)としていたのです。

 有末精三中将は、すでに、このとき、アメリカがわと内通していた。そして、日本とドイツが、敗戦したあとの、戦後世界体制がどのようになるかを、冷酷に、教えられていた。 米内光正(よないみつまさ)海軍大臣の海軍だけでなく、陸軍の情報部の中にも、フィリピンのマニラの師団本部を中心に、すでにアメリカのスパイになって動いていた軍人たちがいたのである。

「チャンドラ・ボースの役割は、終わった。ボースを消せ」 これ以上、この男を、自由に動かさせるな。戦後世界体制にとっての障害要因である。 そのように、アメリカとイギリスは考えた。いや、ロックフェラー一族は考えた。

 副島隆彦が、見抜く、真実は、以下のとおりに、証拠の文章を並べて証明される。私、副島隆彦には、鬼神(きしん)が乗り移っているのである。一切の真実を表に出そうとする、副島隆彦を甘く見るな。

 のちに、戦後になって、チャンドラ・ボースの実兄たちが、独立後の民族の指導者(ただし、今でも非公式)となった、チャンドラ・ボースの死を、台湾まで、調査にやってきて、そして実兄のスレス・ボースは、「私の兄は、死んではいない」 と言い張った。不思議な言葉だ。

 真実は、おそらく、「私の兄は、殺されたのだ。日本軍に、口封じで殺されたのだ。 事故ではない」と、この実兄は喚(わめ)いたはずなのだ。 以下の証言の中の、チャンドラ・ボースの間近(まじか)にいた、世話係(連絡将校、リエゾン・オフィサー)でもあった、特務機関員だった将校の表現では「それで、周囲が困惑した」 となっている。ここでは、こういう不可思議な表現に変更されている。

 副島隆彦は、本当のことを書く。今の日本の言論界の情勢に、差しさわりがあろうが無かろうが、そんなことは、構わない。私には、多くの英霊の御霊(みたま)が、乗り移っているのである。 私こそは、「欧米列強の植民地として隷属していたアジア諸民族の、解放、独立 のために日本人の聖戦 」 を、今こそ、誰よりも、強力に、頑強に唱える人間だからだ。

 日本民族主義を名乗り、愛国者を名乗った、その実、アメリカの手先どもが、腰砕けになった、今こそ、私たちのような本物の人間たちが、歴史の舞台にせり上がってゆく。

 この「建設中で、まだ工事中の第2ぼやき」にだからこそ、こっそり(でもないか)と走り書きで、書いておきます。私が斃(たお)れたら、私の屍を乗り越えて、私が掲げた灯(トーチ)と拾い上げて、また真実の灯をともし続けてください。

 有末は、以下の「経歴」 にあるとおり、1941年からは、北支(ほくし)方面軍参謀副長 であり、インパール作戦の際は、光(ひかり)機関という陸軍特務機関の幹部である。

 そして、戦後は、なんと、「有末機関ありすえきかん)」という有名な世界反共スパイ戦争のためのCIA(元は、OSS)の附属機関となって、長く暗躍している。

 もう、そろそろばれることはあるまい、誰にも露見すまい、もう誰も大きな真実を見抜く者はおるまいと、たかをくくって、いいかと思って、1987年に、『終戦秘史有末機関長の手記』(芙蓉書房出版刊) を書いている。犯罪者は、犯行現場に、運命にひきづられるようにして戻ってくるものなのだ。

 さて、そこでだ。ここで佐藤勝(さとうまさる)氏の文章が出てくる。 なぜ私が、急に有末精三に注目したか。
 それは、「国家の罠(わな)」「国策捜査(こくさくそうさ)」で、今をときめく、本当は世の中の表には出てきていけない、現代の日本外務省の情報将校である佐藤勝(さとうまさる)氏が、外務省の欧亜局長だった東郷茂徳(しげのり)のお孫さんの失脚劇で、政治家の鈴木宗雄(すずきむねお)氏と共に、「日本外交におけるロシア派」として、「中国を挟み撃ちにするための人材」として育てられたはずなのだが、ひょんなことから、・・・で表に出てきてしまった。イスラエルのロシア研究学者の博士との付き合いをアメリカの情報機関に暴かれた。

 その佐藤勝氏が、有末精三氏を、今度の例の、「アメリカの日本改造計画」(イースト・プレス刊、関岡英之と編集部編) で、褒(ほ)めちぎっている。この本には、私もインタヴューで出ている。この本から引用する。

(引用はじめ)

 「日本がポツダム宣言を受諾したとき、参謀本部第一部の連中は、みんな逃げてしまったんです。そのとき、参謀本部第二部の長は、有末精三という人でした。・・・・・・・有末は、まず先遣隊(せんけんたい)をマニラに送ります。

 マニラからの情報で、マッカーサーは厚木空港(神奈川県)に降りるつもりだと判明する。それを知って有末は、アメリカ側が日本の内情を正確に把握していると悟るんです。・・・・・

・・そこで、(有末は)厚木の将校宿舎の水洗トイレが壊れて汚れているというのです。修理するんです。宿舎をきれいにしておいて、アメリカの先遣隊が降り立つ日には、都内のホテルからビールやサンドイッチ調達して、給仕たちをスタンバイさせておくわけです。・・・・・・   (P46)

佐藤  アメリカは次第に有末の能力に対して脅威を感じるようになりました。日本に警察予備隊(現在の自衛隊)をつくらせたときに、アメリカは情報部門を認めませんでしたが、有末と彼の部下たちには莫大(ばくだい)な資金を渡して「有末機関」という組織を作らせ、反共活動に特化させたんです。・・・
(P48)

「アメリカの日本改造計画」(イースト・プレス刊)

(引用終わり)


副島隆彦です。 有末精三という軍人は、敗戦後、慟哭(どうこく)しながら、自分の同僚だった将軍たちの罪状を米軍と占領政府の検察官に、洗いざらいずべてしゃべった、“裏切り者”田中隆吉(たなかりゅうきち)中将たちとは違って、ケロリとして、特殊で、特別な待遇を受けている。

 マッカーサーが、厚木から横浜まで、凱旋行進をしたときに、ずっと沿道に、日本人を並べ、うちひしがれで、やせ衰えた、生き残り日本人の老人、女、子供たちに、アメリカ国旗の小旗を準備して、振らせたのは、この有末精三と、このあと政治家になった橋本龍伍(はしもとりょうご、橋本龍太郎の父親)であった。

 副島隆彦の眼力にかかったら、大きな真実が、露見する。 有末精三が、チェンドラ・ボースを、東京の終戦処理のための最高人材たち(大蔵省なら、渡邊武、わたなべたけし)らと計画して、葬ったのだ。

 以下の証言の類を、じっくり読めば、すべての謎が、解けるのである。 有末だけは、なぜか、チャンドラ・ボースと書かずに、「ポース」と書いている。

(転載貼り付けはじめ)

  昭和三十五年五月七日 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行『ネタージ(民族の指導者、という意味)』 から


「 スバス・チャンドラ・ポース先生」

元陸軍中将 有末 精三(ありすえせいぞう)

 私が日本陸軍大本営第二部長として着任したのは、一九四二年七月であった。

 その頃の戦勢ではドイツ軍と日本軍が、印度洋(いんどよう) で握手しようというような意気込みで、したがってインド革命解放の志土スバス・チャンドラ・ポース氏を、是非(ぜひ) 東亜(とうあ) に迎えたい希望が切実であった。

 同氏は当時ドイツにおられた。 私は一九四三年二月シンガポールに行き、ラス・ビハリー・ボース先生(インド独立の志士で日本に亡命後もこの運動に生涯を棒げられた)に逢い、是非とも、スバス・チャンドラ・ポース先生を迎えたいというインド人全部と、さらに目本軍関係者(光機関)の希望をまとめて帰京した。

 その後ドイソ側や海軍側とも交渉してようやくそれが実現、同年初夏の候、はるばるドイッの潜水艦でアフリカ沖を回って、インド洋で日本の潜水艦に乗り移って東京にこられた。

 その時私は、初めて先生の馨咳(せいがい)に接した。その上品な温容、そして烈烈たる気塊、初対面ですっかりその人格に敬服してしまった。当時の参謀総長杉山(すぎやま)元師や首相東条(とうじょう)大将等も、たしかに先生に逢われてからの感想は、私のそれと似かよったものが多かったとうけたまわりました。

 その時に私の印象に残っていることが二つある。
第一に、この日の戦争の勝敗についての感想を聞いた。もちろん日本側が勝つとの判断であったが、その理由は日本に人が多いということ、つまりマンパワー、人の質と量に非常な期待をかけておられたことである。

 その説明に「人」が総てを決定する要素であり、さすが革命、民族独立運動に一生を棒げておられる先生の信念の程を察して、言い知れぬ感激に打たれた。

 第二は、その祈、ラス・ビハリ・ボース氏と杉山元師、田辺(たなべ)参謀次長と私の五人が星ケ丘茶寮(ほしがおかさりょう) での会食の時の印象である。

 もともとラス・ビハリ・ボース先生は相当の年長者であり、ことに日本におけるインド独立運動の先覚者であり、そのうえこの度の光機関関係のインド側の代表者でもあった。その上にスバス・チャンドラ・ポース先生を迎えるので、我々関係者の間に、このお二人の間がいかがかと密かに心配していたのだった。

 したがって、この会席の席次等も十分留意して、円卓にしつらえた程であった。しかるにお二人ともよく打ち解けて、お互いに肩のこらない相互の尊敬で、いかにも和やかに、しかも紳士的なよい会食で終った。

 終ってから立ち上がるとき、スバス・チャンドラ・ボース先生はビハリ・ボース先生の手をとって立ち上がらせ、その上きわめて自然にその外套を着せて上げられた。この光景を見て、私は本当に同志として大望を抱き、共に闘われる御兄弟のように感じ、その好い印象は今もってわすれることができない。

 思えば一九四五年夏、スバス・チャンドラ・ボース先生は、雄図(ゆうと)半ばにして台湾上空での飛行機事散で亡くなられた。しかもその時はインド独立どころか、友邦日本が敗戦の憂き目に呻吟(しんぎん)しておったので、さぞや無念にこの世を去られたことであったろう。

 あれから十五年、その問に祖国インドは独立を勝ち得、友邦日本も漸次(ぜんじ)復興の途を辿っている。先生の霊もいささか慰められるのではないかと思われる。

(昭和三十五年五月七日 スバス・チャンドラ。ボース・アカデミー発行『ネタージ』より)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。次に、有末精三の軍人としての経歴を簡単に示しておく。

(転載貼り付け始め)


有末精三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア』(Wikipedia)

有末精三(ありすえせいぞう、1895年5月22日 - 1992年2月14日)は、 旧日本陸軍軍人(陸軍中将)である。弟の有末次は陸軍中将、有末四郎は陸軍軍医大尉。妻は村田信乃陸軍中将の娘。北海道出身。

 二・二六事件以後の軍内部でのいわば下克上の風潮が強まる中、参謀本部軍務課長時代に、阿部内閣の実質的成立者であったといわれる。 また終戦に際し、GHQとの交渉に携わり占領政策の円滑化を図る。

経歴
• 陸軍士官学校29期恩賜の軍刀拝受
• 陸軍大学校36期恩賜の軍刀拝受
• 1941年(昭和16年)3月 北支方面軍参謀副長
• 1941年(昭和16年)10月 少将
• 1942年(昭和17年)8月 参謀本部第2部長
• 1945年(昭和20年)3月 中将
• 1945年(昭和20年)8月 対連合軍陸軍連絡委員長
• 1987年、『終戦秘史有末機関長の手記』芙蓉書房出版          ISBN 4829500093

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。ここから、先は、チャンドラ・ボースを慕(し)って、その死後も、彼の思い出と、霊を祀(まつ)り続けている、篤実(とくじつ)の、身近に接した人々の文である。しかし、ひとりは、有末の部下だった、特務機関員の陸軍将校である。

 ダイエーの社長で、本当に偉かった、あの中内功(なかうちいさお)は、インパール作戦の、白骨(はっこつ)街道を命からがら、折り重なる日本兵たちの死骸と、骨の上を踏みしだきながら、逃げ延びて、本当に少数だけ生き延びた、下級の日本兵のひとりである。

 私、副島隆彦には、あそこで、大きく幾重にも騙(だま)されて、無念に死んでいった、日本兵、すなわち日本民衆の霊が乗り移っている。 だから、彼らの魂が、私にこうして、真実を書かせる。

 当時、「援蒋(えんしょう、蒋介石支援)ルート」切断のための、昭和天皇の最後の必死の聖断で開始された、インパール作戦の時期だ。日本軍は、ビルマ各都市から、さらには今のバングラデッシュの都市にまで、攻め込み、チャンドラ・ボーズの率いたインド国民軍(INA)と共に、大英インド帝国にまで、攻め込んで、イギリス軍と正面から、今にも激突しそうになっていた。

インド国民は、イギリスの殖民地支配から解放されることを渇望していた。チャンドラ・ボースは、インド民衆の希望の星だった。しかし、カンジーは、自分がかわいがったボーズを、甘い考えだと、冷静に世界規模(世界歴史規模)の頭脳で考えていた。

 チャンドラ・ボースを、シンガポールで設立した、仮のインド政府の大統領(首班)とする、インド国民軍(INA)の約2万人の兵隊が、東南アジア各国から、集まり、義勇兵として組織されていた。そして、アンダマン諸島と、セイロン島までは日本海軍が、制海権を握っていたので、進軍した。

 あの憎き、支配者イギリス軍とインド民衆の、いきり立つ、民族独立の、地の叫びに、ボースは、応えようとしていた。 チャンドラ・ボースは、カルカッタ市長になり、インド国民議会の議長になり、ガンジーのそばに居て、ガンジーには決して、逆らったことは無く、後継者としての地位を得ていた独立運動の英雄だった。

 ガンジーは、武力による独立運動は、しなかった。だから偉い。絶対的に偉い。しかし、当時のインド民衆は、イギリスの酷薄(ごくはく)な植民地支配にいきりたっていた。

(転載貼り付け始め)

平成7年8月18日

「 ネタジ (チャンドラ・ボースへの、今でもインドで使われている指導者という尊称。副島隆彦注記) の50年祭にあたって」

はじめに

     ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー      事務長 林 正夫(はやしまさお)

1995年8月18日
 指導者という意味の「ネタジ」と尊称されたインド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースに関する本は数多く出版されている。

 しかしその大部分は、ボースがインド独立に向って活躍した輝かしい時代を扱い、終戦直後に台北の松山空港で起きた悲しむべき飛行機しこにより悲惨な最後を遂げてからのことは述べられていない。臨終のことを書いた文章に、ボースがカレーライスを食べた等、とんでもないことがかかれていることもあった。

 事故後、台湾の日本軍司令部から東京の参謀本部へ、そしてインド独立連盟のラマ・ムルティ氏たちに手渡された遺骨は、敗戦直後の複雑な世相に恐れをなしたため、お寺からも収容を拒否されたが、杉並の蓮光寺の先代住職望月教栄(もちづきすうえい)師に命懸けで預かっていただいたまま、今日に至っている。

 日本と共に戦い、しかも戦局が破綻する最後まで、その固い信念を変えることなく、われわれと行動を共にしたネタジの遺骨はいまだに祖国に還えることなく50年が経過したのである。

 昭和31年に、インド国民軍(INA)の第一師団長だったシャ・ヌワーズ・カーン氏を団長に、アンダマン・ニコバルの司政官を務めたマリク氏、ネタジの実兄スレス・ボース氏を委員とする第一死因調査団が来日した。

 調査団はわざわざ台湾に飛び、さらに事故当時治療の指揮をとった吉見胤義(よしみたねよし)軍医以下、必死になって看護にあたった人たちにも会い、真相の解明に努力下した結果、スバス・チャンドラ・ボースの死を認めたのであった。特に団長は「帰国したら飛行機か巡洋艦でご遺骨をお迎えに来ます」といって、関係者を喜ばせたのである。

 しかしこの調査団を羽田空港に見送りに行ったその日、岩畔豪雄(いわくろひでお)氏と私に向い、実兄のスレス氏が、急に 「ネタジは死んでいない」 と言い出したのには唖然とするほかはなかった。怒ったシャ・ヌワーズ・カーン団長とマリク氏は我々に別れを告げ、先に階段を降りていったが、スレス氏は飛行機の出発時間ぎりぎりまで、ひとり残り「死んでいない」と言い張っていた。

 こうした実兄の発言は肉親の情や複雑なインド国内事情を反映したものなのだろう。その後、第二、第三の調査団が派遣されてきたが、結局結論の出ないままであり、ネタジのご遺骨返還の吉報を待つ我々の来たいは薄れていったのである。

 偉大なネタジを知る同士が相い集まりスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーが結集されてからも 40数年賀すぎさっている。創立以来、アカデミーでは遺骨変換を願って日印両国に手を尽くしてきた。特に第二代会長江守喜久子(えもりきくこ)女史は、熱意と真心からわざわざインドに渡る努力のされたが目的を達成することができなかった。

 第三代の会長片倉衷(かたくらあい)氏も同様に努力されていたが、平成3年に逝去された。94歳の高齢であった。他のメンバーもほとんど高齢者ばかりである。蓮光寺とアカデミーのかたい絆により、毎年ボースの誕生日会と命日に慰霊祭を行ってきた。

 世の中の移り変わりと共にチャンドラ・ボースの名前を知らない人が多く、「中村屋のボース」と言われた同姓のラス・ベハリ・ボースと混同されている方も少なくない。 ネタジの死後15年にあたり、たまたま江守喜久子女史の次女松島和子(まつしまかずこ) さんから、母堂のご遺志を継ぎボースの永代供養をという申し出をいただき、蓮光寺の住職望月康史 師のご了解を得て、平成2年境内にネタジの胸像が建立された。

 さらに松島さんのご厚意により永代供養を行うにあたり、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースを知らない人々に、インド独立にかけたネタジの生涯を紹介するとともに、多くはアカデミーに参集したネタジに関わった日本人の記録を 「ネタジと日本人」と題して残すことができた。

 その後五年を経て、蓮光寺に寄贈した本も慰霊祭に参加した多くの人々に渡りなくなったので、ネタジの50回忌を終るにあたり、再び松島さんから「改訂増補版」を新たに差作成して蓮光寺に寄贈したいとの有難い申し出があり、戦後50年の記念として新たな編集企画をインド国民軍の指導将校であった縁で村田克巳(むらたかつみ)氏に依嘱して作製することにした。

 ネタジの霊の安らかならんことを祈り、日本とインド両国の友好のきずなとなれば幸いである。

 平成7年8月18日
 ネタジの50年祭にあたって
 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー
                         事務長 林 正夫

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。ここからが、「光(ひかり)機関」という 日本陸軍ビルマ派遣軍の将校だった北部邦雄(ほくぶ、あるいは、きたべ、 くにお)の証言である。

(転載貼り付け始め)

「 ポースさんに対する思い出」

      元陸軍大佐・光機関ビルマ支郡長
      北部 邦雄 (きたべくにお)

 ボース氏がドイツから潜行して、初めてラングーンにこられたその日、飛行場から私の宿舎に午後一時やって来られて、初めてお会いしました。

 当峙私の機関にはたくさんのインド人が協力していたが、ボースさんは「そのインド人はただ今から全部私の指揮下に入れるから承知してもらいたい」と一言われた。

 私はそこで「もちろん結構ですが、ポースさんは今来られたばかりで、まだインド側の組織や機構は何も出来ていないから、そういうものが整備するに従って、逐次インド側に渡すことにしましょう」 と言うと、ボースさんは 「否(いや)、ただちに渡してもらいたい」 と言われる。

 私は「そんなことをすると一時私の方でやっている情報の蒐集(しゅうしゅう) その他の仕事がある期間ストップするから困る」 というようなことで、午後一時頃から夕食もせず、七、八時問も話をしたが、お互いに自説を主張して結論を得なかったが、ボースさんの熱心なことと、自説を固守する意思の鞏固なことには感心をした。

 午後九時頃になって、「タ食を共にしたいと思うが何を食べますか」と聞くと、「すき焼きをご馳走になりたい」 と言われた。ポースさんはインド教徒であるから牛肉は禁物の筈であるのにと、心中(しんちゅう)吃驚(きっきょう)したのであったが、これはボースさんがインド人に、インド独立のためには宗教を超越してインド教徒や回教徒が一致団結する必要があることを、実行において示しておられるのだと感心をさせられた。

 ボースさんがインド人を集めて反英とインド独立を説かれる会場にしばしば同行した。ボースさんはインド人に向って「力のある人問は力を、金のある人間は金を、知識のある人は知力を出して英国と戦え」と、実に名調子の熱弁であった。

 わずか二、三十分にして全聴衆に催眠術にでもかかったような感動を与え、あるインド夫人のごときは、自分の身につけていた指輪、ネックレス、イヤリングという風に、全部の宝石類を机の上に置いていった。全く数十分の演説で、人を裸にするようなこんな名演説家は見たことがない。

(昭和三十五年五月七日 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー登行『ネタージ』より)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。以上の、陸軍特務機関将校の証言に、真実が透けて見える。先ほどの、林正夫氏と、以下のご婦人らは、本当にチャンドラ・ボースの霊を守り続けていた人たちだろう。

(転載貼り付け始め)

「アカデミーと再度の訪印に際して」

               1960年4月18日
               江守喜久子(えもりきくこ)

 不思議なご縁と申しましょうか、一介の主婦である私が「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」の副会長に推されて発足3年目を迎えて、再度インドを訪れることになりました。

 私とインドとのつながりは、偶然といえば偶然、戦時中、明治神宮の鳥居のそばで、通りすがりの兵隊さんにお茶を接待したことがあります。このことは新聞にも度々出ましたが、当時、日本に身を寄せていた親日派の印度留学生たちと知り合ったのも、お茶の接待がきっかけでした。

 彼等は何(いづ)れも印度の独立と祖国愛に燃えていたのですが、日本の敗戦とともにその夢も崩れ、連合軍の日本占領によって罪もないこれらの留学生たちが銃殺刑に処せられるという噂が広がりました。

  私は驚いて、早速官庁に奔走し、嘆願運動を続け、印度留学生を家近くのアパートに収容してお世話をすることにしたのです。

 45名の異国の青少年(16歳から23歳)(副島隆彦注記。インド独立後に、インド政府の枢要の人材として、日本が、属国の指導者たちとして育てようとして選抜して、東京に集めていたインド青年たち。帰国して、インドでも取り調べられたのちに、民族独立運動は正義の運動だから日本政府の意思に従ったことは不問に付された。副島隆彦注記終わり ) のお世話をするということは、食糧事情の困難な折とて、並大抵のことではありませんでした。

終戦となった日より、11月3日、彼等を印度に帰還させるまで、当時の苦しい社会情勢を考えると、よくもそれに耐えられたとわれながら驚くばかりです。民族を超えての人間愛というか、とにかく、この若人たちを救わなければならないという、一途の信念であったという気もいたします。

 ボースさんの御遺骨が密かに東京のサハイ さんのお宅に運び込まれ、人知れず、ささやかな供養が営まれたのもそのころです。当時の情勢から私は供養に加わることは遠慮すべきであると思い、蔭(かげ)から先生の冥福(めいふく)を祈りました。ところが供養が終わってから、留学生たちは口々に 「おばさん、ネタージは僕たちの希望と光でした。どうかネタージの供養をつづけてやって下さい。お願いです」というのです。

 印度の若い知識層は、ネタージ に対してどのような共感と尊敬を寄せていたか、この若き情熱には、切々と胸に迫るものがありました。以来、この印度の偉大な志士、ネタージの気高い魂の眠る蓮光寺への墓参と供養は、今日までつづけさせていただいております。

 一昨年(1958年)の10月のこと、ネール首相の来日の時、留学生のダーサン という方と、ネタージの甥のアミヤナ・ボースさんが来られて、
 「印度にはサラト・ボース・アカデミィという会があります。日本にもこれと同じ会が発足して、日印間の文化的結びつきができれば、こんな喜ばしいことはないのだが・・・」という懇請の意味の言葉がありました。

 そこで私は、故人と特に関係の深かった渋沢敬三(しぶさわけいぞう)先生、大島浩(おおしまひろし)先生、河辺正三(かわべしょうぞう)先生、岩畔豪雄(いわくろひでお)先生方と御相談し、早速御同意を得て、ネタージの誕生日に当たる1月23日に「ネタージを偲(しの)ぶ会」 を催す運びとなったのであります。

 50数名の方々とその席上での相談の結果、全員賛成、ここに「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」の発足を見るに至りました。

 この会はネタージに縁故の深い方々の集まりで、ネタージの高潔な人格を通して、日印間の文化的、精神的な交流を来かめることを目的にしたものであります。

 ささやかな会合で、まだ事業らしい事業もしていませんが、ネタージの御遺骨を国家管理に移すこと、身命を抛って祖国の独立のためにつくされたボース先生を思うとき、1日も早く先生があんなに愛された祖国の土に、御遺骨を埋めて差し上げたいと切に思わずにはいられません。

 それから、8月18日の御命日には法事を営むこと、1月23日の誕生日に「ネタージを偲ぶ会」を催すこと、ネタージに関する資料を集めることなどに微力を尽くしています。

 昨年、私はマミアナ・ボース氏の御招待を受け、会議出席後かつての留学生たちを訪問して、1カ月ばかり印度の各地を旅行しました。初めて接するカルカッタ、ボンベイ、ニューデリー、アジャンタ、タシマハール、プナの士官学校など一人旅の私を心から迎えてくれました。わけても若いころからの憧れであったアジャンタへの旅が、こうしたいきさつから実現しようとは想像もできないことでした。

 何年かぶりで出逢ったかつての留学生たちは私を歓迎ぜめにして、涙の出るような感激でした。

 特に印象が深かったのは、先生が起居されていた部屋が、印度独立のため旅立たれた、その日のままの姿で残っていることでした。きちんと整頓されたベッドにも書棚にも、また平素の通り置かれてある靴、スリッパにも、先生在りし日の香りが染み込んでいるようで、薄暗い部屋ではありましたが、先生の生前の静かで清らかな日常が偲ばれて、一世の英傑の末路と思い合わせて一抹の哀愁を覚えるのでした。この建物は今では、図書館、資料室などに利用されて、先生の遺徳を偲ぶよすがとなっています。

 印度旅行中に、サトラ・ボース・アデミィからネタージ会館設立援助について懇請がありました。先生はカルカッタに住まわれるようになったときから、この土地を国民的な霊場として、公的な慈善事業に利用することを祈願しておられたようです。

 独立運動のため、潜行万里の苦難の旅につかれたのも、このカルカッタからです。先生にとってゆかりのある土地に、ネタージ会館が建立されることはまことに意義の深いことと思います。

 現在この建物のある土地は、ボース氏の兄上の所有でありますが、会館建設のために提供されることになっております。この会館から生ずる収入は、ネタージ・バーワン霊場の維持、サラト・ボース学院、アザド・ヒンド病院車サービス、ネタージ研究所の諸経費にあてるため、寄付することになっています。

 複雑な印度政情とはいえ、かつては同盟国の指導者であられ、高潔なる人格者であった先生を崇拝するあまり、私は4月19日、日本を出発して、再度印度、セイロンへ旅立ちます。

 この旅行の目的は、もちろんインド政府に先生の御遺骨を速やかにお迎えしてほしいと懇願(こんがん)するためです。またネタージ会館設立の寄付金についても特に相談してきたいと思っています。セイロンの留学生やかつての45人のあの人たちの幾人かと逢うのも、私の心に秘めたよろこびの一つでありますが・・・。出発に前夜4月18日しるす。
(1960年5月7日 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行「ネタジ」掲載)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 私は、この他にも、チャンドラ・ボースの生涯の文章をたくさん読んだ。それらを、ここに並べることは今日はしない。 ここは、あくまで「建設中の第2ぼやき」 である。そのうちもっとたくさんここに書き加えます。チャンドラ・ボースがどれぐらい偉かったかを、書かなければ。

それでも、私、副島隆彦は、ガンジーのようになる。絶対に軽挙妄動(けいきょもうどう)はしない。敵どもの術中にはまることはしない。そのように深く警戒しています。

 それでも、インド独立の悲願のために命をささげたインド人の志士たちの魂と、それに助力しようとして、清新で無垢(むく)は日本国民の魂を尊いものだと私は思います。 この真実の発掘の文章を読む人は、どうか、今の私の胸中も察してください。
副島隆彦拝

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