「30」 続けて「分かりやすい日本仏教史」の第2回と第3回を転載します。副島隆彦
副島隆彦です。 「29」番に続けて、この「30」で、第2回と第3回を転載します。

(転載貼り付け始め)


わかりやすい日本仏教史②
 平安時代の仏教

[大法輪誌平成十八年一月号カルチャー講座掲載]


 今回は、天皇親政による律令制がしだいに衰退し、藤原氏系の貴族が政治の実権を握る時代が続いた後、院政を経て武士階級の台頭を迎える平安時代の仏教を見てまいりましょう。

● 日本仏教の二大巨人①ー最・ 桓武天皇(在位七八一-八〇六)は即位後都を長岡に遷し、さらに七九四年平安京に遷都して人心の一新とともに、仏教界の刷新を図ります。

 後に天台宗を開宗する最澄(七六六-八二二)は、近江に生まれ受戒の後、世俗化した奈良の官寺をさけて比叡山に草庵を結びました。この参籠行の間に、宮廷の仏事に奉仕する「内供奉十禅師」に任ぜられ一流の宗教者として公認されるようになります。

 そして八〇四年入唐し、九ヶ月半ほどの間に天台山の行満に天台、越州の順暁からは密教を伝授されるなど多くの高僧から教えを受け、さらに多くの典籍を入手して帰朝。
 桓武帝から熱烈な歓迎を受け、翌八〇六年には、円(天台の教え)密(密教)禅(禅の行法)戒(戒律)の四つを兼学する一大仏教センターとして[天台宗]を立宗します。

 最澄は、様々なこの世の中の表れである現象をそのまま真実の姿であると捉えました。そのため、さとりと迷いの世界の同一性を強調し、さとりについてもその機根を問うよりはすべての人にさとりを開く能力があるとして、無差別平等の思想を説きました。こうした最澄の思想は法相宗との論争にも発展しましたが、後の日本仏教は最澄的な立場が主流となり、日本仏教を性格づけることになるのでした。

 さらに最澄は、南都仏教が支配する東大寺戒壇での四分律(二五〇戒)に基づく受戒を小乗戒と否定、僧侶も大乗菩薩であるべきとの信念から、本来在家者のための戒を説く「梵網経(十重四十八軽戒)」を大乗戒として出家者に受戒させる大乗戒壇を設けることを上奏。こうして最澄の死後八二八年、それまでの三戒壇に加え、他国からは認められないもう一つの国立戒壇が比叡山に成立しました。このことはその後、最澄の意に反して戒律軽視の傾向を助長することになるのでした。

● 日本仏教の二大巨人②ー空海
 最澄が入唐した第十二次遣唐使第一船に乗っていた空海(七七三-八三五)は、讃岐に生まれ、後に都にのぼり大学に学ぶものの仏道に志し、四国で虚空藏求聞持法を修すなど山林での苦修練行に加え、詩文や語学、書道の才に卓越していたことも幸いし留学僧として入唐を果たします。

 空海は、時の世界都市長安でインド僧般若三蔵や牟尼室利三蔵らに梵語を習い、正統な真言密教の継承者であった青龍寺の恵果阿闍梨に遇い、密教の大法を悉く相伝され、経論、曼荼羅図、密教法具などを授かりました。在唐二年ほどで帰朝した後、これら密教の典籍や絵図など二一六部四六一巻を記録した「御請来目録」を朝廷に奉り、密教思想の体系化に着手します。

 最澄は、自らの密教を補完するために度々経典類の借覧を空海に申し入れています。嵯峨天皇(在位八一〇-八二三)が即位すると、空海の文人としての才と密教の祈祷が宮廷や貴族に受け入れられ重用されました。そして八一二年高雄山寺にて、最澄の依頼により最澄とその門弟泰範、円澄らに金剛界、胎藏界の結縁灌頂を授けています。

 空海は宇宙的スケールのもとに南都仏教や天台の教えをも含む総てを包摂する密教的思想体系を作り上げ、その実践法表現法をも兼ね備えた真言教学を大成。

 空海は、八一二年[真言宗]を開宗し、この広大な実践的思想体系を体現する道場として、八一六年高野山が下賜され、八二二年には東大寺に真言院を建て、翌年には京都東寺を賜っています。さらに正月に宮中で行われる最勝王経を読誦する法会に真言密教による「御七日御修法」を併せ行う勅許を得て、南都諸大寺ばかりか宮中での修法も密教化することに成功していきました。
    (高野山根本大塔)

● 密教化する南都仏教
 南都の諸大寺は、九世紀半ば頃より律令制の崩壊から経済的援助を貴族に求めざるを得ず、彼らの要望する密教の修法を行うために真言密教を兼学する必要に迫られます。
 そしてそのために官寺ではそれまでの上座・寺主・都維那といった三綱組織を廃して、貴族の子弟が迎え入れられる貴族化密教化を余儀なくされました。

 最も勢力のあった法相宗では、新興勢力であった天台の最澄と、一切の衆生に仏になる可能性(仏性)を認めるか否かという論争を行った会津の徳一や大乗戒壇に反対した護命らをはじめ多くの優秀な学僧を輩出し、藤原氏の氏寺であった興福寺を中心として栄えました。
 律宗では、東大寺戒壇で受戒した僧が唐招提寺で一年から五年戒律を学ぶ規則があり隆盛を誇りますが、比叡山に大乗戒壇が出来た頃からこの風習は廃れ衰微しました。

● 天台宗の発展
 天台宗では、円仁(七九四-八六四)が入唐して五台山や空海が修学した長安の青龍寺で密教を学び帰朝。天台の教えと密教は理論的には同等であるが実践に於いては密教が勝れているとして、天台宗も密教化していきました。

 また円仁(えんにん)は、比叡山に実践法として中国天台山の「四種三昧」の行法を取り入れ、中でも常行三昧に五台山の五会念仏の節と作法を採用し、その後弟子らによって不断念仏法となり日本浄土教の起源となります。

 また有名な回峰行(かいほうぎょう)(一定期間比叡山の西塔東塔横川の三塔を巡る行)は、円仁の弟子相応が創始し、さらに彼の努力により最澄と円仁に伝教、慈覚の両大師号を賜りました。

 その後天台宗も貴族の子弟が登山して生活が貴族化したり、有力流派の反目があり、十世紀後半頃からは僧兵が跋扈する時代を迎えます。

 そうした穏やかならぬ世情の中、円仁が伝えた五台山の念仏がしだいに僧から文人貴族に広まり、東国で争乱があり治安が悪化して人心が動揺すると、空也(九〇三-九七二)が京で念仏勧進を行い熱狂的信者を集め、また源信(九四二-一〇一七)は「往生要集」を著し、地獄や極楽を説いて六道輪廻の観念を人々に浸透させ、弥陀の相好や浄土の荘厳を観ずる念仏を説きました。

● 真言宗のその後
 空海の第一弟子実恵(じつけい)の系統に益信が出て東寺の興隆に努め、宇多(うた)天皇の帰依を受けます。天皇は出家受戒の後譲位されて、九〇一年灌頂(かんじょう)を受け仁和寺に入り、御室と称して平安仏教の一大中心となりました。宇多天皇は、歴代天皇の内三分の一以上もの天皇が退位後仏門に入る法皇の先駆けでした。

 その後観賢(かんらん 八五三-九二五)が出て、東寺を中心とした真言宗の統一を実現し、空海の忌日に御影供を創始して大師信仰を起こし、また空海に弘法大師の諡号を賜ります。

 高野山は九九四年、火災による伽藍全焼のあと藤原道長ら貴族の外護のもとに復興。その後登山した覚鑁(一〇九五-一一四三)は、鳥羽上皇の庇護のもと真言天台の両密教の諸法流を受法して、それらを大成した一法流を開きました。金剛峯寺座主にも任ぜられましたが、常住僧らの反感を買い衆徒七百人と共に紀伊根来に退去、そこで新義真言宗を開基します。

 その頃既に大寺の所領内に設けた別所で生活し念仏する集団があり、そうした浄土教に深い関心を持った覚鑁は、密教の大日如来と阿弥陀如来は一体平等であるとして、密教の立場から密教と弥陀信仰の融合を計りました。

 念仏を唱えながら、我が身が弥陀に入りそのまま大日となる、と観想して仏との一体感を味わう覚鑁の秘密念仏は、後に高野聖と呼ばれる行者に引き継がれていくのでした。

● 神仏の習合
 奈良時代からすでに正式に受戒せず山野を巡り修行する遊行僧の活動が盛んでした。こうした遊行僧の働きかけもあり、律令制の基になっていた神社で神の仏教帰依が進み、各地に神宮寺を誕生させていました。後にはこれら神宮寺の多くが宮中で信仰された真言密教の教えのもとに編成されていきます。

 これに呼応するように元々仏寺であった寺院でも特定の神社を勧請したり、寺域を本来治めていた神を守護神として奉祀。

 そして、遊行僧が神域である山に入り仏を礼拝することは同時に神をも礼することになり、山を神として崇める日本古来の山岳信仰との融合を起こします。平安中期頃には、本来のあり方(本地)である仏が人々のもとに仮の姿(垂迹)として現れたのが神であるという本地垂迹説が形成され、神仏習合という独特な日本仏教を醸成していきます。

 また、山岳信仰と密教が結合して山林抖?を行とする修験道が形成され、金峰山や醍醐寺を開創した真言宗の聖宝や熊野行幸の先達をつとめた天台宗の増誉らによって修験者が組織づけられていきました。

● 仏教の儀礼と信仰
 皇室における祭祀が整えられたのは平安前期のことでした。天皇の忌日に読経する「国忌」、正月八日から七日間玉体安穏、鎮護国家、五穀豊穣を祈る「後七日御修法」、天下泰平、疫病退散などのため般若心経を書写して祈願する「勅封心経会」「彼岸会」「盂蘭盆会」などが宮中の仏教儀礼として明治初年まで行われます。

 こうした鎮護国家を祈る国家仏教としてだけでなく、この時代の仏教はしだいに個人の宗教として受け入れられていきました。特に、人々が要望する悪霊の調伏、病気平癒などのために祈祷法や儀礼を備え、そこに音楽や絵画など文化的側面も加味した天台真言の両密教は当時の貴族、文化人にとっても魅力溢れるものであったようです。

 また平安中期以降には仏事法会の重点がこうした現世利益や追善供養から参会者に対する唱導説法に移行し、さかんに釈迦講、法華八講など講会と呼ばれる様々な説経の会が催されます。この祈祷から聞法への流れは貴族から一般庶民にも広がり仏教の教えがより身近なものになりました。

 そうして、既に仏教の伝来と共に伝えられていた輪廻思想が、この時代には死後閻魔王の裁きを受け地獄に堕ちる恐怖として次第に民衆にも浸透。特に平安末期から台頭してくる武士階級において自らの行いの罪悪感から、地獄に堕ちるべき身の衆生に代わって生前の功徳を閻魔王に説いて救済してくれる地蔵菩薩の信仰が盛んになります。そして、今日でもよく目にする道端の草堂などに地蔵を祀る風習が起こるのもこの時代のことでした。

● 末法の世の到来
 釈迦入滅後二千年に始まるという末法の世は、我が国では一〇五二年(永承七年)にあたるとされました。
 この説は「三時説」といい、仏滅後千年を教えと修行とさとりが備わった正法の世、次の千年が像法の世でさとりが無く、その後一万年は教えのみで修行もさとりも無い末法の世が来るというものです。これは本来仏教僧団内での自戒の意義を担うものであったようですが、日本ではしだいに斜陽する貴族階級の一大関心事となっていきます。

 十一世紀中頃、極楽往生を願って道長が法成寺を、子の頼道が宇治の平等院を建立するなど多くの貴族が競って華麗な浄土系寺院諸堂を建設します。この頃すでに、彼ら貴族政治に陰りが見え始め、地方武士勢力が台頭、また疫病の流行や天変地異が頻発して治安が乱れ、さらには僧兵の横行などから、正に末法の世の到来を予感させていました。

 そして、末法ではお釈迦様を教主とする信仰は無効との疑念が生まれ、念仏を主とする弥陀信仰が盛んになる中で、仏舎利との結縁を求める舎利会や五十六億七千万年後に下生して法を説くとされる弥勒仏に救いを求める埋経(金泥による写経を地中に埋納し経塚を建てる)、また西国三十三カ所など霊験あらたかな霊場に参じて直接救済を求める霊験所巡拝なども盛んに行われたのでした。

 平安時代は、総じて密教を中心として宮廷貴族から一般庶民にも仏教が伝わり、心の安穏を神をも包摂した仏教に求める国民性が形成されていく時代でありました。



わかりやすい日本仏教史③
 鎌倉時代の仏教

[大法輪誌平成十八年二月号カルチャー講座掲載]


 朝廷や貴族が政権を握っていた時代から武士階級による権力掌握へと国家制度の大きな変革に加え、天災飢饉外患に悩まされた鎌倉時代、仏教がどのように展開したのかを見てまいりましょう。

● 鎌倉仏教を担う遁世僧(とんせいそう)
 平安末期、南都の諸大寺や天台真言の大寺院は、皇室御領や摂関家領を遙かにしのぎ、各地にたくさんの荘園を所有します。有力寺院は皇族貴族の受け入れ先となり、生活は華美なものとなりました。

 そのため真摯に仏道を究めて、時代に応じた教えを布教し救済活動をするには官僧からの離脱に踏み切るほかありませんでした。これから述べる鎌倉仏教の担い手たち(一遍を除く)は何れも官僧の世界から遁世した上人や聖と呼ばれる僧たちです。

● 法然浄土教の民衆救済
 その先駆けをなすのは、僧兵が跋扈し騒動の絶えなかった比叡山から、十八歳の時黒谷別所に移った法然房源空(一一三三ー一二一二)でした。

 法然はその数年後、奈良京都に遊学して各宗の奥義を学び、一一七五年四三歳の時、もっぱら弥陀の名号「南無阿弥陀仏」を称える称名念仏だけで極楽往生するとした専修念仏の立場を確立し、[浄土宗]を開きます。当時京の町は飢饉や大火が続いて疫病が蔓延し、末法そのものの様相でした。

 法然は、阿弥陀仏が前世でたてた「心から弥陀を信じ十回でも念仏すれば極楽往生させよう」との一願を弥陀の分け隔てのない大慈悲ととらえました。そして、我が身を徹底して内省し、救われる資格のない罪深い醜い心を持つ者であっても、心で念仏し口で名号を唱えたならば、その弥陀の本願によって救われるのだと説いたのでした。

 関白九条兼実らの帰依を受け、平安後期から流布された末法思想の影響や既に各地にあった念仏集団が法然の教えを支持して、瞬く間に東国武士など地方にも教えが広まったと言われます。しかしその間、諸行を兼修する延暦寺や興福寺などから弾圧を受け、弟子らのあらぬ嫌疑から専修念仏停止の宣旨が下り、法然も土佐に流罪となりました。

● 非僧非俗の念仏者 親鸞と一遍
 この時の法難で越後に流された親鸞(一一七三ー一二六二)は、まだ多くの門弟の一人で無名の存在でした。もともと比叡山の常行堂で不断念仏行に励んでいた親鸞は、二九歳の時下山。六角堂に参籠後、聖徳太子の夢告により洛東吉水の法然の下に参じ、その数年後法難に遭遇します。

 後に許された親鸞は常陸に移り、熱心に農民や武士らに伝道。六十過ぎに京に戻ってから九十歳で死ぬまでは「教行信証」などの著作に取り組みます。

 親鸞は、自ら罪深き身であることに慚愧して厳しく自己を省みるとき、そこに自力による作善はあり得ず、何のはからいも捨てて弥陀自身による諸善が逆に衆生に回向されることを信じることにより浄土に往生するとした絶対他力の教えを説き、[浄土真宗]を名乗ります。

 親鸞は、非僧非俗を主張し公然と妻帯したことでも有名ですが、そのことは今日に至る日本仏教の戒律軽視、さらには無戒化を招く元になったと言われています。

 親鸞にやや遅れて登場してくる一遍(一二三九ー一二八九)は、親鸞以上に他力の信に徹底し、阿弥陀仏がさとりを得たとき既に一切の衆生が往生することが決定されていたとして、信ずる心の有無に関わらず六字の名号の功力によって往生すると説きました。

 そして、人々が弥陀と結縁するためには「南無阿弥陀仏」と書かれた算を配ればよいと確信し、山野に野宿を重ねて全国を遊行。時に鐘や鼓で調子を取り踊りはねながらの念仏・踊念仏が一般民衆に広まり、各地方武士層に支持されます。時衆と名乗りその時その場所の衆まりを重んじる僧俗の遊行回国の念仏衆として、後に[時宗]を形成しました。

● 南都仏教の復興
 南都仏教界では、末法思想が蔓延し浄土教が広まる中で、仏教本来の姿を取り戻すべく戒律の復興運動が盛んになります。
 法相宗の貞慶(一一五五ー一二一三)は、法然の浄土教に対して最も厳しく異を唱えた一人でした。貞慶は平安末期に実範が企てた戒律復興を引き継ぎ、戒・定・慧という仏教の基本を損なう法然の念仏は仏教を滅ぼすと訴え、「興福寺奏上」を起草、弾劾します。

 貞慶は戒と唯識を学び笠置山に隠遁して、なお法相宗を興隆します。そして、お釈迦様を本師と仰ぎ、弥勒念仏を修して弥勒信仰を広めました。

 華厳宗では、一一八〇年平重衡によって焼かれた東大寺大仏殿の勧進職に任ぜられた重源が、伊勢神宮で「大般若経」を転読祈願して全国を巡り、後白河法皇や源頼朝を含む貴賤の喜捨を受け、大仏殿を再建します。

 その後、栂尾山に住した明恵房高弁(一一七三ー一二三二)が「摧邪輪」を著し、仏教本来の姿勢であるさとりを求める心・菩提心を不要とする法然の念仏を烈しく批判しました。

 明恵は華厳の他、真言密教や臨済禅を学び、座禅に立脚した実践的華厳学を樹立。後鳥羽上皇や建礼門院に戒を授け、後鳥羽上皇と幕府方で争われた承久の乱(一二二一)では敗残兵をかくまうものの、逆に執権北条泰時の帰依も受けました。インド巡礼を計画するなどお釈迦様を慕い、今日も行われる仏生会や涅槃会を創始したことでも有名です。

 その後東大寺戒壇院に住した凝然(一二四〇ー一三二一)が出て、声明、音律、国学、神書に通じ、鎌倉時代の華厳学を大成。さらに律宗を教理的に大乗仏教と位置づけた「律宗綱要」や、今日も読まれる仏教概論「八宗綱要」など多くの著作を残します。

 律宗では、貞慶に学んだ覚盛が正式な具足戒を授ける戒師のないことを嘆き、一二三六年自ら仏前に誓願して戒を受ける自誓受戒を東大寺大仏殿にて行い、唐招提寺に住して戒律の復興に努めました。

● 西大寺流律僧の社会貢献

 覚盛とともにこのとき自誓受戒した睿尊(一二〇一ー一二九〇)は、はじめ高野山で密教を学び、その後荒れ果てた奈良西大寺を復興して戒律の教えを民衆に広めました。乞食や囚人遊女に至るまで戒を授け救済活動をなし、橋や港湾の整備、造寺造塔にも多くの業績を残しています。
                   (奈良西大寺金堂)

 睿尊は後嵯峨、後深草、亀山など五帝の戒師になり興正菩薩の号を賜ります。生涯に具足戒を授けた者千三百余人、菩薩戒を授けた者は九万六千余人に上るといいます。

 睿尊の弟子忍性(一二一七ー一三〇三)は、鎌倉に極楽寺を開き、悲田院、療病院を作って乞食や病人(ハンセン病患者)を養い慈善救済活動に尽力。道や橋を造り井戸を掘るなど土木事業もなし、忍性菩薩と尊称されたのでした。

 蒙古襲来(一二七四・一二八一)にあたり睿尊は盛んに異国降伏の祈祷を行い、鎮護国家寺院として国分寺の役割が見直されると、そこに西大寺流の律僧が進出して特に西国の多くの国分寺を再興しました。

● 禅宗の形成 栄西と道元

 我が国への禅の初伝は飛鳥時代と一般に言われています。が、一宗派として座禅を重視する宗派が確立するのは栄西(一一四一ー一二一五)が二度入宋して臨済禅を学び、即心是仏の禅を宣揚してからのことです。

 栄西は比叡山で天台の教理を学び、入宋して密教を修得し、その後再び入宋して臨済宗黄竜派の禅を学び、一一九一年帰朝。九州博多で禅を布教し[臨済宗]を開基します。その後将軍頼家の帰依を受けて、京都に建仁寺を建立。

 栄西は禅の実践によってのみ王法も仏法も栄えるとして、自らも厳しい持戒禅定の生活を送りました。栄西は「喫茶養生記」を著して日本にお茶の風習を普及させたことでもよく知られています。

 栄西滅後三十年にして来朝した中国僧蘭渓道隆は鎌倉の建長寺開山となり臨済系の純粋禅を伝え、ついで来朝した無学祖元は円覚寺を創立し、折しも蒙古来襲にあたり、北条時宗を激励し般若力を念じて勝利に導き、終生鎌倉武士の教化に励んだということです。

 一方、道元(一二〇〇ー一二五三)は、比叡山で天台を学んだあと入宋して天童山の如浄より曹洞禅を授かり、一二二七年に帰国。京都の南に位置する深草安養院などで座禅第一主義を唱えて禅堂を開き、[曹洞宗]を開基します。そして、「正法眼蔵」を著し、後に越前に移り大仏寺(後の永平寺)を開山。

 人は本来仏であるとした天台の教えに基づき、座禅は仏になるためではなく、仏としての修行・座禅であるとして、日常の行ないすべてを禅と捉え、出家を重視してただひたすらに坐る「只管打坐」を主唱しました。

●日蓮の法華経帰依

 平安後期に台頭した地方武士層を中心に、法華経を所持し読誦書写する法華経信仰者を背景として鎌倉中期に日蓮が登場してまいります。

 日蓮(一二二二ー一二八二)は、安房清澄寺に入り密教や浄土教を学んだ後、比叡山など各地を遍歴、一二五三年法華経への絶対帰依を宣言します。そして[法華(日蓮)宗]を開き、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始めます。

 念仏者を非難して専修法華の立場から、鎌倉で布教。その頃鎌倉は飢饉や疫病に見舞われていました。そこで「立正安国論」を著して幕府に献じ、念仏、禅、密教を禁じて法華経を唯一の正法と認めない限り災害が続き、他国の侵入を受けるなどと予言。伊豆に流罪となります。

 日蓮は、人の心の中には仏から地獄までのあらゆる性質が備わっており、法華経を中心とする本尊とその心との合一は、末法の凡夫にとってすべての生き物の成仏を可能にする教えの真髄が込められた「題目」を唱えることによってのみかなえられると説きました。

 ことごとく他宗派を非難して弾圧され続けた日蓮ではありましたが、地方武士や女性に信者が多く、彼らには家族や主従の道徳を説き報恩を強調したと言われています。

●真言宗の歩み

 以上述べてきたように、この時代に新しい宗派を起こしたのは、天台宗の本山・比叡山で修学した遁世僧たちでした。

 一方真言宗では、頼朝が鎌倉に幕府を開くと、源家の氏神を祀る鶴岡八幡宮の社僧別当職に真言僧が補任されたのをはじめ、僧坊が各地にでき、学僧衆も鎌倉に集まります。

 そして、頼朝の一族及び北条氏は霊峰高野山を崇敬して、頼朝
は勧学会を開き、北条時宗は勧学院を建立。密教経典の注釈書や空海の著作「声字実相義」「般若心経秘鍵」などを教材に教学の進歩を促しました。
   (高野山奥の院)

 高野山では、そうした学僧らとは別に諸国を巡り弘法大師信仰と高野山納骨を勧めた遊行者集団高野聖が平安末期の大火後特に大きな勢力を持つようになります。歌人として有名な西行もその一人で、高野山で真言宗を兼修する念仏行に励み、諸国を遍歴して勧進などに従事したのでした。

 また、入宋して戒を修めた俊?によって再興された京都泉涌寺は、承久の乱の後即位し崩御した四条天皇の葬儀を他の寺院が幕府の目をはばかり断ったとき敢えて引き受け、その後皇室の菩提所となりました。明治初年まで歴代天皇、皇族の葬儀を行い墓所が設けられ、位牌が祀られています。

 鎌倉時代は政治社会の変革とともに、寺社の門前町にも定期市や座が開かれ、商業経済が発達しました。仏教も時代の様相に応じた平易な新しい教えが興って救いを求める民衆に広く浸透した反面、その影響により日本仏教が輪廻からの解脱を求める仏教本来の姿勢から逸脱していく一過程となりました。

 また、これまで死穢をきらう国家行事に参加する義務のある官僧が出来なかった葬儀に遁世僧は積極的に関わり、今日に見る僧侶が葬送に関与する習慣が始まるのもこの時代のことでした。
(「分かりやすい日本仏教史」第2回から第3回までを転載終了)

副島隆彦拝
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