「17」 宗教家・出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の思想を紹介した文章を載せます。
副島隆彦です。 出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう、1871=明治4年-1948)という宗教家がいて、大本教(おおもときょう)という宗教団体を、教祖の出口ナオと共に作って、
京都の綾部(あやべ)という地を本拠にして活動した。
大本教の名は知られているし、出口王仁三郎も知られている。
しかし、その思想を分かりやすく解説することは、いまだに困難である。

 大本教は、明治、大正、昭和に栄えた新興宗教の教団のひとつであり、特異な歴史を持っている。ここでは、1921(大正10年)の教団への弾圧と、1935年(昭和10年)の大弾圧を記しておくにとどめる。 宗教教団のありかたを、私は、最近深く考えるようになった。  副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

 「出口王仁三郎 三千世界大改造の真相」
中矢伸一・著  KKベストセラーズ刊
              1993年8月刊

 日本が世界の雛型(ひながた、相似形)であるということは、最近では多くの人が知るところとなっています。その地形が世界の縮図のようになっているだけでなく、日本で起こることがやがて規模を大きくして世界のどこかで起こると見られています。

 そのことを早くから明らかにしていたのが、神霊世界の大巨人と言われる出口王仁三郎でした。そして、当時は「世界の雛型である日本で起こることは、まず大本で起こる」と言われていたのです。神霊界からの導きでそのことを熟知していた出口王仁三郎は、世の立て替え・立て直しの模型(かた)づくりの意図を持って、官憲による2回に及ぶ大本の弾圧を誘発したと見られています。

 その1回目の弾圧が模型となって、日本は第二次世界大戦に破れ、原爆の投下という形で悲惨な終戦を迎えます。しかし、大本の2回目の弾圧が1回目とは比較にならないほど徹底的な破壊を伴う激しいものだったことからして、それが日本に移写された場合は、1回目をはるかに上回る悲惨な形になると見られているのです。

 そのことが、出口王仁三郎が「自分の死後にトドメの予言が降ろされる」と予告した日月神示によって、いま明らかにされています。

 それは、聖書にある「終末」や「アセンション(次元上昇)」とも相通じる中身となっており、今日の世界情勢や地球の状態から判断してますます現実味を帯びつつあります。世界の雛型の国に住む私たち日本人にとって、決して無関心ではおれない問題です。そういう観点から、少し長くなりますが、以下の抜粋にじっくり目を通していただきたいと思います。 (なわ・ふみひと)


 ●これから起こる日本の2度目の立て替え

  王仁三郎によれば、大本は「型」をするところであるが、この「型」にも2種類あるという。ひとつは、神霊界に起こったことが、その写しとして地上現界の大本の中に現象化することである。これは「模写(かた)」と表記される場合もある。今ひとつは、これから地上界に起こる立て替え・立て直しを、大本の内部において「型」として演出すること。これは「雛型(かた)」と表わされる。

こうした意味において、『大本神諭』には次のような神示が多く出されている。

(引用はじめ)

世界にある事変は、明治三十二年から大本の中に模写(かた)がして見せてあるぞよ。

大本の雛型(かた)は、神界の仕組みであるから世界中へ映るぞよ。

この綾部の大本は、世界に出来てくる事を前に実地の型をして見せてあるから、十分に気をつけておくがよいぞよ。

このような大もうな御用、真実の御用になりたら人民の中では出来んから、模型(かた)を命じて御用さすぞよ。

(引用終わり)

 これらはすべて神界で起こった立て替え・立て直しの仕組みが、現界では大本に反映し、大本で型として出されたことが世界に写っていくことを述べたものである。

 さらに、この移写の仕方には、三段の型と呼ばれるものがある。簡潔に言えば、神界で起こったことは、続いて幽界に反映し、そして地上現界に写る。立て替え・立て直しの経綸の場合、その“受け皿”的役割を担った大本に写ってくる。

 また、大本に起こった立て替え・立て直しの型は、まず日本に写る。その後に世界に移写していくというものだ。つまり、いずれの場合も三段階を経るということである。

 大本は、明治25年旧正月から昭和18年元旦の50年の間に、この「三段の型」を実演したのであった。明治25年から昭和18年までの50年間のうち、大本は2回にわたる「立て替え」を経験している。「第一次大本事件」と「第二次大本事件」である。

 大本にあったことが日本に移写するとすれば、日本においても「立て替え」が2回起こらなくてはならない。

 第1回目の立て替えである「第一次弾圧」は、日本においては大東亜戦争における敗戦という形で写ってきている。しかし、大本の場合もそうであったように、一度目のこの立て替えにおいて、すべてが壊されたわけではない。

 一度は無条件降伏に追い込まれ、体制改革を受け入れた日本であったが、その立ち直りは極めて迅速であった。日本人ビジネスマンは企業戦士などと呼ばれて世界中を駆けめぐり、世界第2位の経済大国になるまでに成長した。

 これは、大本が第一次弾圧の痛手を乗り越え、宣伝使の活躍によって世界の五大陸にまで支部を設立し、いわゆる「大本の黄金時代」を築いた時の“型”が、そのまま移写されたものではないか。とすれば、第二次弾圧の移写である日本の2度目の立て替えは、これから起こることになる。

 第二次弾圧というのは、規模においても、残虐さにおいても、第一次弾圧をはるかに上回るものであった。とすると、日本にこれから起こるであろう「第二次立て替え」は、大東亜戦争末期に現出した立て替えとは比べものにならないものになる。

 ともかくも、王仁三郎の言うように、大本は「型」を行なうところであった。そしてその「型」には、“善”の部分もあり、“悪”の部分もあった。

50年間に及ぶ大本の雛型神業は、けっして平坦なものではなかった。むしろ、いろいろな人間が集まり、つねに様々な思惑が渦を巻いていた。大本の内部でも多くの派閥が発生し、互いに反目し合うこともあった。

 大本内部でのゴタゴタは、初期のころから枚挙に暇のないほどある。特に、開祖存命中は、王仁三郎に対する風当たりは、大本内部においてかなり強かったようだ。しかし、大本とは雛型をするところである。そこには、善的な型も悪的な型も含まれる。
『大友神諭』には、次のように記されている。

(引用はじめ)

大本にありた事件は、大きなことも小さなことも、善いことも悪しきことも、皆世界に現れてくる。

大本は‥‥いつになりても善い“かがみ”と、悪い“かがみ”とが出来る大望な所である。

万古末代、善と悪との鏡を出して、善悪の見せしめを致す世界の大本となる尊いところである。

大本は善悪二つの世界の型を出すところ、他人に傷はつけられぬから、ナヲの血筋に悪の御役をさせるぞよ。

「ナヲの血筋に悪の御役をさせる」とある通り、大本内部を攪乱させる人物は、ナオの血統から出ている。長女の大槻米夫妻、それに三女の福島久夫妻がこれに当たるとされる。(中略)

(引用終わり)

王仁三郎は、昭和20年8月、広島に原爆が投下された直後、泉田瑞顕氏にこう語ったという。

(引用はじめ)

日の雨が降るというのは、この程度(広島原爆)のことではない。今は序の口で、本舞台はこれからじゃ。

(引用終わり)

 それに王仁三郎は、息を引き取る数日前、「わしの役はこれで終わりじゃ」とも言っている。王仁三郎は、50年に及んだ雛型経綸を遂行する役目を終えて昇天した。そして、今や大本で演じられた善悪の雛型が日本に拡大し、移写する段階に来ている。王仁三郎の放った予言は、これから成就するのである。

(引用はじめ)

三千世界の大峠はこれから来る

(引用おわり)

大本に見られるような、それまで抑圧されていた神々――それはいわば日本の国祖神ともいうべきものであるが――の復権の兆候は、すでに江戸末期より起こり始めている。黒住教、天理教、金光教といった各霊的磁場の発生がそれである。

 そしてこの動きは、明治25年旧正月に、出口ナオの肉体を機関として降ろされた“初発の神勅”につながってくる。

ナオに憑かった“艮の金神”は、その神勅の中でこう断言する。

(引用はじめ)

三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下泰平に世を治めて万古末代続く神国の世に致すぞよ。神の申したことは、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横幅ほども間違いはないぞよ。これが違うたら、神はこの世に居らんぞよ。

(引用終わり)

 しかし、ナオの存命中に、そのような大変革は起こらなかった。王仁三郎の存命中にも、とうとう起こらなかった。
  では、この“艮の金神”なる神の言葉は、まったくの戯言だったのだろうか。王仁三郎が放った数々の予言は、完全な妄想の産物だったのだろうか。

 その答えは、今さら言うべくもないが、そうではない。この言葉や予言が実現するのは、これからである。

 日本は現在、経済的には豊かになり、市場に物資はあふれ、国民は飢えることもなく平和に暮らしている。だが、今の世の中が、金・物主体、我れ善し、強い者勝ち主義の上に成り立ち、神をなきものにしている「体主霊従」の世であることには変わりはない。日本の国民は相変わらずエスタブリッシュメントたちに支配され、搾取されている。日本だけではない、世界中が同じ状況にある。とすれば、その世を立て替え・立て直し、「霊主体従」の神の世にするという予言は、これから成就すると見た方がよい。

 『大本神諭』『伊都能売神諭』、そして『日月神示』へ

  王仁三郎によれば、大本における「地の準備作業」の期間というのは、明治25年旧正月から昭和18年元旦までの、満50年間である。
  その準備神業の期間が終わったとされる翌年の、昭和19年6月10日、大本とは関わりのないところで、不思議なことが起こる。
  神道研究家の岡本天明は、神霊に導かれるかのように、この日、千葉県成田市台方にある麻賀多神社の境内末社、天之日津久神社に参拝していた。本来画家である彼は、このころ矢立と画仙紙を持ち歩く習慣があり、この日も例外ではなかったという。
  参拝を済ませ、社務所で休んでいると、突然、彼の右腕の血管が怒張し、見えざる力に司配されて制御がきかなくなった。たまらず、持っていた矢立を画仙紙に当てたところ、勝手に自分の右手が動き、スラスラと文字を書き始めた。これが『日月神示』の発祥である。
  以後、およそ16年間にわたり、この神示は断続的に書記されていく。
 『日月神示』は、内容をつぶさに比較検討すれば明らかだが、出口ナオの『大本神諭』、王仁三郎の『伊都能売神諭』の流れを汲むものである。
  本来、この神示は大本内部で出されるはずであったと言われる。しかし、戦前における厳しい言論の統制下にあり、しかもいずれ徹底的な弾圧を受ける大本では、本質的な部分を伝えることが難しかったので、大本とは別のところで降ろされたのである。
  したがって、『日月神示』は、黒住教の発生から、天理、金光、大本へと至る霊脈の流れを完全に受け継いでいる。しかも、「三千世界の立て替え・立て直し」という根本大改造を主宰する神の意志の、本質的部分が含まれているのがこの神示なのである。

  しかし、この神示が降り始めた当初の天明は、事の重大性に気づいていない。

  原文は、漢字、かな、記号が入り混じり、とても読めたシロモノではなかった。
  また、天明自身、もともと霊媒的な体質を持ち、過去にも様々な霊的な研鑽を積んできており、霊が憑かるということもそれまでに何度もあった。この当時は苦労に苦労を重ね、貧のどん底にまで落ちていたため、『日月神示』が出た時も、「自分のごとき者に憑かる霊だから、どうせ大したものではあるまい」と、放っておいたという。

(中略)

  岡本天明は、明治30年12月4日、岡山県に生まれた。若い頃から画家としての天分に目覚め、上京して苦学しながら、画業の研鑽に励んでいる。
  大正8年頃、天明は知り合いの子供によって、大本の本部に連れて行かれる。そこで色彩に関する講義を聞いて感銘を受け、大本に入信することとなった。(中略)
  大正10年の第一次大本事件により、天明も職を失うが、(出口)日出麿の誘いにより、創刊したばかりの『人類愛善新聞』の編集長に就任する。しかし、昭和10年に起こった第二次弾圧により、『人類愛善新聞』も手入れを受け、天明も再び失業し、路頭に迷うことになった。これを機に、天明は大本とも無関係になったというわけである。それまでは、大本とも深く関わっており、王仁三郎から直接、論稿の代筆を依頼されることもあった。(中略)
  その後、天明は鳩森八幡神社の代理神主を務めることになった。天明が成田の天之日津久神社に参拝に行ったのはこの頃のことである。

  後に天明は、矢野シンという協力者によって、自分に降りている神示が、経綸上極めて重要視されていた「日の出の神」からのものであると知らされるのである。(中略)
  そして数カ月後、天明は大本本部に赴き、この神示を調べて欲しいと差し出している。しかし、悲しいかな門前払い同様の扱いを受けてしまう。再度訪ねてみても、まったく相手にされず、その時は男泣きに泣いていたという。
  取り次ぎの者が、大本の外部に降りた神示などというものに理解を示すわけがない。王仁三郎がこれを見たとしたら、また違っていたであろうが‥‥。
  ここで、王仁三郎の遺した詠歌を明らかにしたい。今まで秘められていたこの詠歌に記された予言は、『日月神示』に示された内容と驚くほど酷似しているのである。

 王仁三郎の遺した『続・瑞能神歌』

  王仁三郎は、昇天前、『続・瑞能神歌』という題の予言を口述し、筆録させていた。
  泉田瑞顕氏は、筆録したこの神歌を大事に保管し、今までほとんど公開することもなかったが、この度、本書において発表することにした。
  王仁三郎が、この神歌をいつ口述したのかは、泉田氏も昇天された今、確認できない。ともかく、過激な予言内容により発禁処分を受けた『瑞能神歌』に続編があることさえ、あまり知られておらず、それだけでも価値があると思われる
 『瑞能神歌』に詠われた内容は、ほとんどが大東亜戦争による日本の敗戦――すなわち、日本の一度目の立て替えを予言したものであった。『続・瑞能神歌』は、これから起こる二度目の立て替えと、世界の立て替えを予言したものとみて間違いない。
  以下、ほぼ全文を掲載させていただくことにする(公開が許されていない箇所については、伏せ字とするか、削除させていただいた)。

  シベリア狐は死にたれど  醜(しこ)の曲霊は種々に
  妖雲呼んで東天は  北から攻め入る非道さよ
  オホーツク海や千島船  カラフト島をゆさぶりて
  雪割草の間より  暗雲低く仇鳥(あだどり)の
  舞い下り上る怖ろしさ
  北海道から三陸へ  なだれの如く押しよする
  ここを先どと連合の  戦の場や神の国
  華のお江戸は原爆や  水爆の音草もなき
  一茫千里大利根の  月の光もあわれぞかし
  残るは三千五百万  ○○○○○○の旗の下
  どっと攻め入る○○○○の  ○○○○沿いや人のなく
  非義非道の場所せまく  ○○○○○○○○○○
  あわれ崩るや○○○  血汐に赤き統一も
  ○○○○の殺戮も  ここに終りて神の子は
  再び原始にかへるぞかし
  大江の幽山に立籠めし  醜の邪霊の重なりて
  今は九尾の本姿  世界隅々またがりて
  組んずほぐれつのたうつる  姿は哀れ曲津神(まがつかみ)
  ○○○○○○○○○○
  物質界の曲津神  狂人の如く振舞いて
  世は様々の相克ぞ
  世の大本も散り失せて  月の輪台の影あわれ
  お蔭信心なしいたる  信徒も今ははなれ去り
  真実の三千五百万  残る教の幕開きは
  此の時からと高熊の  山の五十鈴や清水台
  国常立の大神の  岩戸開きはこのときぞ
  固き厳に手をかけて  振うて落す地獄道
  ノアとナオとの火水霊  現れ出でてゆさぶれば
  一天にわかに掻き曇り  矢を射る如く流星の
  地球に向いて落ち来たる  大地一度に震動し
  吼えば地軸の回転も  止るばかりの大音響
  物質浄土は忽ちに  地獄餓鬼修羅場と化す
  山は崩れて原野裂け  人はあわれに呑み込まる
  身の毛もよだつ凄まじさ  今明かに書き置くぞ
  三段いよいよ開く時  三千余年の昔より
  国の御祖の選まれし
    ――(中略)――
  神代乍らの祭政一致  開き始めて日の本の
    ――(中略)――
  ここに従ふ三五(あなない)の  人の心ぞ尊とけれ
  宇宙を拝し宣りませば  世界は輝きおのころの
  東天に向い伏し拝む  地上天国この秋ぞ

  一読しておわかりの通り、これは明らかに日本の大峠と世界の大峠を予言したものである。
  日本の立て替えについては、シベリア方面から外国の軍隊が、突然に攻め入ってくることが記されている。この外国軍は、「北」からやってくる。そして北海道、三陸を通り、なだれの如く押し寄せて、日本列島を占領する。
  さらに、首都東京には核攻撃もあることがハッキリと示されている。
  このような大動乱により、日本の人口は3500万人になるという。そして非道な殺戮が、ある一定期間続き、残された因縁の身魂は再び原始の生活に還るとある。
  続いて世界の立て替えが始まるが、この神歌によれば、空から流星が降ってくるのだという。
  これをきっかけに、地軸を揺るがす大激変が起こり、地球全土は修羅場と化す。そして、ありとあらゆる大掃除が行なわれた後、岩戸は開かれ、祭政一致の世となり、地上天国が顕現する、というのである。
  王仁三郎の遺した『続・瑞能神歌』に示された予言は、このように厳しく、悲惨なものとなっている。
  だが、『日月神示』に示された未来予言も、まさにこの『続・瑞能神歌』と共通する部分が多い。それらの予言の一部を見てみよう。

 同じことを二度繰り返す仕組み

  大本では、立て替えは2度あった。大正10年の第一次大本事件と、昭和10年の第二次大本事件の2回である。
  これが雛型として日本に移写して来るとすれば、日本の立て替えも2度あることになる。1度目は、大東亜戦争における敗戦という形で実現した。そして、2度目の立て替えは、これから起こる。
  日月神示には、日本の立て替えが2度あることが、戦争終結以前の昭和19年の頃より、明確に示されていた。
  それによれば、日本は戦争に負けても再び勢力を盛り返す。しかし、これは悪が再び栄えた形での復興であり、結局また同じことを繰り返すことになる。そして大本の雛型がそうであったように、破壊の程度は2度目の方がはるかに深刻なものになるという。

  同じこと二度繰り返す仕組みざぞ。このことよく腹に入れておいてくだされよ。

  出てきてからまた同じようなこと繰り返すぞ。今度は魂抜けているからグニャグニャぞ。グニャグニャ細工しか出来んぞ。それに迷うでないぞ。

  いま一度、悪栄えることあるぞ。心して取り違いないように致されよ。

  神の国、一度負けたようになって、しまいには勝ち、また負けたようになって勝つのざぞ。

  まだまだ俘虜(とりこ)になる者沢山あるなれど、今度の俘虜まだまだぞ。いずれ元にかえって来るから、元にかえってまた盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ。次に捕らえられる者出てくるのざぞ。次はひどいのざぞ。これも因縁ざぞ。

  今度捕らえられる人民沢山にあるが、今度こそはひどいのざぞ。牢獄で自殺する者も出来てくるぞ。女、子供の辛いことになるぞ。九分通りは一度出てくるぞ。それまでに一度盛り返すぞ。

  今の世は地獄の二段目ぞ。まだ一段下あるぞ。一度はそこまで下がるのぞ。今ひと苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ。地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めんところざから、悪魔と神ばかりの世になるのぞ。

  王仁三郎も、『続・瑞能神歌』の中で、大峠の段階として“三段の幕”が用意されていることを予言している。
  日本は、戦後の荒廃から立ち直り、見事に経済復興を成し遂げ、再び国力を盛り返した。しかしその一方で、日本人は、かつて美徳とされた多くのものを失った。精神的には、日本の歴史上、ここまで堕落した時代はないと言える。
  金・物主体の我れ善し主義は、老若男女の区別なく、子供に至るまで浸透し、国家の長たる政治家たちはその親玉のような存在である。
  今や日本の人民は、神示にある通り完全に“骨抜き”にされてしまった。現在の日本人は、国土を守ろう、国家を守ろう、家族や同胞を守ろうという意識さえない。神の道とは何か、真の日本精神とは何かなどということは、寸毫だに考えない。
  今、外国軍から強大な武力をもって攻め込まれれば、何の苦もなく日本は陥ちる。そして土地や財産はすべて略奪されるだろう。それが、夢物語ではなく、まもなく現実となって起こることが、神示によって警告されているのだ。

 世界が1つになって日本に攻めてくる

 『日月神示』には、日本の2度目の立て替えは、世界が1つになって日本潰しにかかることによって起こること、そしてその企みは、国民の知らぬ間に水面下で進み、アッという間に現出することがハッキリと示されている。

  大きアジアの国々や、島々八十(やそ)の人々と、手握り合い神国の、光輝く時来しと、みな喜びて三千年、神の御業(みわざ)の時来しと、思える時ぞ神国の、まこと危うき時なるぞ。夜半に嵐のどっと吹く、どうすることもなくなくに、手足縛られ縄付けて、神の御子らを連れ去られ、後には年寄り不具者のみ、女子供もひと時は、神の御子たる人々は、ことごと暗い臭い屋に、暮らさなならん時来るぞ。宮は潰され御文皆、火にかけられて灰となる。この世の終わり近付きぬ。この神示(ふで)心に入れ呉れと、申してあることわかる時、いよいよ間近になりたぞよ。

  またたきの間に天地引っ繰り返るような大騒動が出来るから、くどう気付けているのざ、さあという時になりてからでは間に合わんぞ、用意なされよ。

  一日のひのまにも天地引っ繰り返ると申してあろがな。ビックリ箱近づいたぞ。

  世界一度にキの国(日本)にかかりて来るから、一時は潰れたように、もうかなわんと言うところまでになるから、神はこの世におらんと臣民申すところまで、むごいことになるから、外国が勝ちたように見える時が来たら、神の世近付いたのぞ。

  メリカ(アメリカ)もキリス(イギリス)は更なり、ドイツもイタリーもオロシア(ロシア)も、外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。

  世界中総がかりで攻めてくるのざから、一度はあるにあられんことになるのぞ。大将ざからとて油断は出来ん。富士の山動くまではどんなこともこらえねばならんぞ。上辛いぞ。どんなことあっても死に急ぐでないぞ。

  神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近付いたぞ。八つの国一つになりて神の国に攻めて来るぞ。

  世界が一体になって攻めてくることは、このように『日月神示』の中にくどいほど出されてあるが、そうなった時、最初に火蓋を切るのは「北」であるようだ。
 『続・瑞能神歌』で王仁三郎は「北から攻め入る非道さよ」と予言した。
 『日月神示』にも、まるで同じことが示されているのだ。

  北から来るぞ。神は気(け)もない時から知らせておくから、よくこの神示、心にしめておれよ。

  北に気付けと、北がいよいよのギリギリざと申してくどう気付けてありたこと近うなりたぞ。

  嵐の中の捨て小舟ぞ、どこへ行くやら行かすやら、船頭さんにも判るまい、メリカ、キリスは花道で、味方と思うた国々も、一つになりて攻めて来る、梶も櫂さえ折れた舟、どうすることもなくなくに、苦しい時の神頼み、それでは神も手が出せぬ、腐りたものは腐らして、肥料になりと思えども、肥料にさえもならぬもの、沢山出来ておろうがな、北から攻めて来る時が、この世の終わり始めなり、天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終わりと思えかし、この世の終わりは神国の、始めと思え臣民よ、神々様にも知らすぞよ、神はいつでもかかれるぞ、人の用意を急ぐぞよ。

 地球規模の大激変と“みろくの世”の実現

  日本は世界の雛型であるが故に、地上世界の立て替えは、まず日本から起こり、それから世界へと拡大移写していくのが順序である。
  王仁三郎は、「日本は世界の床の間であるから、まず床の間から掃除を始めるのである」と語ったという。
  その世界の大掃除が始まる時期について、『霊界物語』にはこう書かれてある。

  天に王星顕はれ、地上の学者、智者の驚嘆する時こそ、天国政治の地上に移され、仁愛神政の世に近づいた時なので、これがいわゆる三千世界の立替、立直しの開始である。

  世界の立て替えに関する予言についても、『大本神諭』や『伊都能売神諭』よりも、その続編であり、完結編とされる『日月神示』の方がより詳しい。
  次は、『日月神示』に示された世界の大峠に関する予言のごく一部である。


  外国から攻めて来て、日本の国丸つぶれというところで、元の神の神力出して世を立てるから、臣民の心も同じぞ、江戸も昔のようになるぞ。

  元の世に返すというのは、たとえでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ。生の物食うて暮らさなならんし、臣民取り違いばかりしているぞ、何もかも一旦は天地へお引き上げぞ。

  立て壊し、立て直し、一度に成るぞ。立て直しの世直し早うなるかも知れんぞ。遅れるでないぞ。立て直し急ぐぞ。立て直しとは、元の世に、神の世に返すことざぞ。元の世と申しても泥の海ではないのざぞ。中々に大層なことであるのざぞ。

  地震、雷、火の雨降らして大洗濯するぞ。よほどシッカリせねば生きて行けんぞ。

  月は赤くなるぞ。日は黒くなるぞ。空は血の色となるぞ。流れも血ぢゃ。人民四ツん這いやら、逆立ちやら、ノタウチに、一時はなるのであるぞ。大地震、火の雨降らしての大洗濯であるから、一人逃れようとて、神でも逃れることは出来んぞ。天地まぜまぜとなるのぞ。ひっくり返るのぞ。

  三分の一の人民になると、早うから知らせてありたことの実地が始まっているのであるぞ。何もかも三分の一ぢゃ。大掃除して残った三分の一で、新しき御代の礎と致す仕組ぢゃ。三分むづかしいことになっているのを、天の神にお願い申して、一人でも多く助けたさの日夜の苦心であるぞ。堪忍の堪忍、我慢の我慢であるぞ。

  今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ。今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ。一度は仮死の状態にして、魂も肉体も、半分のところは入れ替えて、ミロクの世の人民として甦らす仕組、心得なされよ。神様でさえ、このこと判らん方あるぞ。大地も転位、天も転位するぞ。

  半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物質の肉体とならねばならん。今のやり方ではどうにもならなくなるぞ。今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ。灰になる肉体であってはならん。原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ。今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生まれつつあるのぞ。岩戸開きとはこのことであるぞ。少し位は人民つらいであろうなれど、勇んでやりて下されよ。

  大掃除はげしくなると、世界の人民皆、仮死の状態となるのぢゃ。掃除終わってから因縁のミタマのみを神がつまみあげて、息吹きかえしてミロクの世の人民と致すのぢゃ。

  神世のひみつと知らしてあるが、いよいよとなりたら地震、雷ばかりでないぞ。臣民アフンとして、これは何としたことぞと、口あいたままどうすることも出来んことになるのぞ。四ツん這いになりて着る物もなく、獣となりて這いまわる人と、空飛ぶような人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ。獣は獣の性来いよいよ出すのぞ。火と水の災難がどんなに恐ろしいか、今度は大なり小なり知らさなならんことになりたぞ。一時は天も地も一つにまぜまぜにするのざから、人一人も生きては居れんのざぞ。それが済んでから、身魂磨けた臣民ばかり、神が拾い上げてミロクの世の臣民とするのぞ。どこへ逃げても逃げ所ないと申してあろがな。高い所から水流れるように、時に従いて居れよ。いざという時には神が知らして一時は天界へ釣り上げる臣民もあるのざぞ。人間の戦や獣のケンカ位では何も出来んぞ。くどう気付けておくぞ。何よりも改心第一ぞ。

  このような地球的規模の大激変を通じて、地上界に存在するありとあらゆるものが大掃除を受ける。そして物質のすべてが質的な転換を起こし、次元的に高い波長の「半霊半物質」に昇華して再生し、ここに“ミロクの世”、すなわち地上天国が顕現することになる。
  それまでに十分な身魂磨きができておらず、この物質次元の急激な転換についてこれない人々は、結局淘汰されることになる。
 『日月神示』から推測されるのは、そのような厳しい立て替え・立て直しのプログラムである。

 ある日突然始まる日本の2度目の立て替え

  われわれは今、平和で豊かな社会の中にどっぷりと漬かっている。
  ただ日常の雑事にのみ追われ、国家のことだとか、世界のことだとか、人類のことを考え、その行く末を案じている人というのは、それほど多くはない。
  しかし、最近になって、ごく普通の人の中にも、日本人の傲慢で刹那的な生き方に疑問を抱き、経済的繁栄の代償として、何か大切なものを失ってしまったことに気がつく人が増え始めている。
  このままでは済まないのではないだろうか――というような、危機的な何かを感じ取る人もいるようだ。
  実際には、われわれ人類は大峠の坂を登りつつある。そして、ある日突然、日本の2度目の立て替えが始まる。
  この大峠を乗り切るには、身魂が磨けていなければダメだという。では、その身魂を磨くとは具体的にどういうことなのか。
  また、神示によれば、大難は小難に変えることができるという。では、どうすれば大難を小難に変え、悲惨極まる地獄絵図を見なくて済むのか。
  これらに対する解答は、すべて出口王仁三郎の唱えた主張や『伊都能売神諭』あるいは『日月神示』などのなかに盛り込まれていると言ってよい。

 無政府状態と生活基盤の崩壊

 『伊都能売神諭』は、来たるべき社会的大混乱を見通し、こう予告している。


  天が地となり、地が天となるぞよ。天災地妖が続いて起こるぞよ。目も鼻も口も開かぬようなことが出来るぞよ。餓鬼が段々と増えるぞよ。思わぬ国替を致す人民も沢山あるぞよ。段々人気(ひとけ)が悪くなるばかりであるぞよ。医者と坊主と葬式屋の豊年は続くぞよ。米は段々騰貴(あが)るばかりで、何程金銀出しても手に入らぬ事になるぞよ。用意が肝心であるぞよ。(大正7年12月25日)

  少しでも食物の用意を致さねば、後で地団駄踏んでも追いつかぬ事になるぞよ。四ツ足の餌の奪(と)り合いが始まりて来るぞよ。未と申とが腹を減らして惨たらしい酉合いが始まるぞよ。今までの世界の人民の苦しむ大戦争を喜んで、結構な事になりて金銀を積んで高ぶって居りた人民は気の毒ながら、真っ逆様に地獄のどん底に落ちて苦しむぞよ。(大正7年12月22日)

  また、『日月神示』には、さらに厳しいことが記されている。

  神は気(け)もない時から知らしておくから、よくこの神示、心にしめて居れよ。一日一握りの米に泣く時あるぞ。着る物も泣く事あるぞ。いくら買い溜めしても神のゆるさんもの一つも身にはつかんぞ。(昭和19年6月30日)

  政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時は無くなってしまうぞ。覚悟なされよ。(昭和20年6月12日)

  一握りの米に泣くことあると知らしてあろがな。米ばかりでないぞ。何もかも、臣民もなくまるところまで行かねばならんのぞ。臣民ばかりでないぞ。神々様さえ今度はなくなる方あるぞ。(昭和20年8月27日)

  日に日に厳しくなりて来ると申してありた事始まっているのであるぞ。まだまだ激しくなってどうしたらよいか判らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る所も着る物も住む家も食う物もなくなる世が迫って来ているのざぞ。(昭和19年12月12日)

  こうした神示は、いずれも終戦前に出されたものだが、日本の一度目の立て替えにあたる大東亜戦争による敗戦のことのみを指しているとも思えない。
  日本の二度目の立て替えでは、国家社会は無政府状態に陥り、国民は上から下まで、日常の生活基盤を失うことになるだろう。貨幣は何の価値もなさなくなり、衣・食・住は完全に欠乏する。
  特に食べ物に関しては、“一握りの米に泣く”ような、非常に厳しい状況となるようだ。飽食の時代に生きた日本人、中でも高度成長期以後に生まれた若い世代には、到底耐えきれない試練である。
  われわれは今、日の恵み、月の恵み、地の恵みに対する感謝を忘れ、天地から授かった食べ物を、“当たり前のもの”と思い、毎日飲み食い三昧に明け暮れている。
  そんな中、大食糧難が突如として起こる。その時に現出する社会的混乱は、まさに修羅場と呼ぶにふさわしいだろう。
  ところが、神示には、これもすべて“行”だとある。

  今度の行は世界の臣民皆、二度とない行であるから厳しいのぞ。この行出来る人と、よう我慢出来ない人とあるぞ。この行出来ねば灰にするより外ないのぞ。(昭和19年8月14日)

  今は神の力は何も出ては居らぬのざぞ。この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな。早く身魂みがいて下されよ。外国は○、神の国はゝと申してあるが、ゝは神ざ、○は臣民ぞ。○ばかりでも何も出来ぬ。ゝばかりでもこの世の事は成就せんのぞ。それで神かかれる様に早う大洗濯してくれと申しているのぞ。神急けるぞ。この御用大切ぞ。神憑かれる肉体沢山要るのぞ。今度の行は○を綺麗にする行ぞ。掃除出来た臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。(同上)

  われわれが、大峠を目の前に何をすべきかということは、ここに挙げた神示の中にすべて盛られていると言ってよい。
  つまり、これからは一人ひとりが本当の意味で神憑かれるような身魂にならなくてはいけないということだ。神(ゝ)が人の肉体(○)に憑かり、神人合一となることによって、初めてその人は救われ、世もまた立ち直るのである。
 「今度の行は○を綺麗にする行ぞ」とある。肉体を掃除することこそが、行であり、身魂磨きであるというわけである。

 ○にゝが宿った者のみが救われる

  さて、それでは“身魂磨き”の具体的な方法とは何か。どのようなことを実践すれば“肉体を掃除”することができるのか。
  これについては様々な説が取り沙汰されている。すべてに対して感謝と反省の気持ちを持つことだとか、朝夕の礼拝を欠かさぬようにすることだとか、いろいろなことを言う人がいる。そうしたことも無論大切なことと思われる。
  だが、神示や神諭によれば、最も重要かつ最優先すべき“身魂磨き”の方法とは、正しい食生活を実践することである。
  日々どんなものを食べ、血肉としているかによって、肉体を掃除することもでき、また逆に汚すことにもなり得る。正しい食べ物を正しく食べることの励行こそが、最も肝心の身魂磨きである。『日月神示』には、そうしたことが明確に示されている。

  食い物大切に、家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ。初めの行ざぞ。(昭和20年12月7日)

  正しき食べ物正しく食べよ。更に喜びふえて弥栄えるのぢゃ。自分の喜びを進め進めて天国へ入ることできるのぢゃ。悪い食べ物悪く食べるから悪くなるのぢゃ。(昭和27年1月30日)

  衣類も家も土地も、みな神から頂いたものでないぞ。あづけられているのであるぞ。人民に与えられているものは食べ物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。その食べ物節してこそ、ささげてこそ、運開けるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。心配無用。‥‥ツキモノがたらふく食べていることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。(昭和27年6月9日)

  泉田瑞顕氏は、その著書である『世の終りと神示の生活革命』(言霊社)の中で、大本の筆先に基づいた“身魂磨き”の方法として、まず「体霊」の浄化から始めるべきだと説いている。
  体霊とは、肉体を養い、守護する霊のことで、衣食住に対する欲望や、男女間の性欲などはみな体霊の働きであり、この体霊を浄化して正常化していくことが、身魂磨きの第一歩だと断言している。

  出口聖師(王仁三郎)は、この体霊のことを副守護神と申され、人間が肉体をもってこの世に生まれ出た時から付与されている正霊だと説明されている。ところが副守護神には後天的に憑依した邪霊がいる。
  この邪霊が人間本来の副守護神(体霊)の正しい働きをゆがめて、人間を体主霊従の動物的生活に陥れる元凶である。現代社会に生活している人間はほとんどこのような後天的憑依霊、すなわち邪霊に災いされて、天賦の霊性を発揮出来なくなっていると神様は申されている。
  そこで身魂磨きの第一歩は、この後天的憑依霊、俗に言う“つきもの”を改心さして、各自の肉体から追放することである。そのためにまず第一に必要なことは、食生活を改め、食生活を規制することだと申されている。
  日本人には日本人に適合した正しい食べ物があり、正しい食べ方がある。この原則を無視して、無茶苦茶なものを無茶苦茶に食っているから次第に血液が濁り汚れて動物化し、日本人に付与された天賦の霊性を発揮出来なくなっているのである。(中略)
  要するに、世の終りに対処する日本人の身魂磨きの方法は、神示に従って日本人に適した衣食住の生活をやることである。特に食生活を改めるということが最も重要である。

 人間に許された食べ物とは五穀野菜類のみ

  四ツ足を食ってはならん。共食いとなるぞ。草木から動物生まれると申してあろう。臣民の食べ物は、五穀野菜の類であるぞ。(昭和36年5月6日)

  牛のもの食べると牛のようになるぞ。猿は猿、虎は虎となるのざぞ。臣民の食べ物は、定まっているのざぞ。いよいよとなりて何でも食べねばならぬようになりたら、虎は虎となるぞ。獣と神とが分かれると申してあろがな。縁ある臣民に知らせておけよ。日本中に知らせておけよ。世界の臣民に知らせてやれよ。(昭和19年8月31日)

  日本には、五穀、海のもの、野のもの、山のもの、みな人民の食いて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ。日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食い物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ。今度は共食いとなるから、共食いならんから、今から心鍛えて食い物大切にせよ。(昭和21年11月17日)

  つまり、ここで示されているのは穀物菜食の実践である。
 “四ツ足”というのは、四本の足を持つ動物、すなわち牛や豚といった獣類を主に指す。“四ツ足”は人間の性に近い生き物であるから、これを食べることは“共食い”となる。よって、肉類を食べてはならんというのである。
  肉類とは、正確に言えば、すべての動物食がこれに該当すると見てよい。“五穀野菜の類”の中に、動物性食は含まれていない。
  肉を喰らえば、血液が汚れると同時に、霊性が下がる。結果、低級な波長と交流し、自らを地獄的な世界に堕としめることになる。

 王仁三郎も正しい食の実践を説いている

  穀物菜食が人間に適した食であることを説いた神示や神典類は、『日月神示』だけに限らず、他にもまだまだたくさんある。
  王仁三郎の直受した『伊都能売神諭』にも、“四ツ足”を食べることや、身につけることを禁ずる記述が出てくる。

  今の日本の人民は、皆外国人の真似を致して、牛馬の肉を食い、猪、鹿、犬猫、何でも構わず、四ツ足と見たら共食い致すようになり、たまたま謹みて四足獣(よつあし)を食わぬ人民があれば、時勢遅れの馬鹿と申して嘲笑(わら)うようになりて了うて、この神州清潔(きよらか)の国土(くに)も、神聖至浄(きよらか)の臣民も皆汚れて了うて、今日の国家の状態、神の住居を致すべき場所が、地の上には錐(きり)一本立つ場も無き所まで曇りて了うて居るぞよ。それで元の神政に致すについては、一旦世界の大掃除、大洗濯が始まるから、日本の人民なら一日も早く大洗濯のあるまでに身魂を清めておかぬと、ツゝポに落とされて苦しまねばならぬぞよ。(大正8年1月5日)

  世が段々下るに就て、皇極天皇(642~645年まで在位)の時代より日本の人民がそろそろ牛馬の肉を食うようになり、天賦天皇(673~686年まで在位)の時代には益々盛んになり、血穢れを扱うたり、牛馬を殺したり致す餌取(えと)りというものが出来て、‥‥今の日本の人民は上から下まで牛馬の肉を食い、毛や皮を頭の先から足の爪先まで着けるようになりて、日本中が皆○○のやり方になりて了うて居るから、日本の国は隅から隅まで汚れ切って、牛や羊の血を呑み、児(こ)には牛や羊の乳を吸わして、是れが文明の世じゃと得意がり、血も肉も霊魂までもさっぱり四ツ足に化(な)り切りて居るから‥‥神国の姿は遠くの昔から亡びて居るから、今度は艮の金神、この世のエンマが出て参り、世の大洗濯を致して、元の清らかな神国の神政に立て直して、松の代五六七(みろく)の代と致して天地総方の神々様や人民に御目にかけるぞよ。(同上)

  この神諭の中で“艮の金神”は、肉はおろか、牛乳をはじめとする乳製品さえ否定している。また、身につける物として、獣の皮を多く使用していることを厳しく批判している。
  今の世の中、コートやジャケット、靴、鞄、財布、バッグ、ベルト等々、ことごとく皮を使っている。だいたいブランドものといったらすべて革製品である。
  動物を殺し、その死骸の皮を剥いで作ったものを身につけることは、明らかに神意に背くだけでなく、その人の霊性をも堕とす。軽視しがちな点ではあるが、これも身魂磨きにおいては重要なところである。
  浅野和三郎は、大正7年3月1日の『神霊界』に、「身魂が磨けて霊性が上がって来れば、肉類など自然と食べる気がしなくなる」という意味のことを書いている。

  日本人も随分明治以降堕落し、外国系統の守護神に憑依せられ、肉食などを好むようになりましたが、一旦身魂を磨くが最後、牛肉などは到底口にすることが出来なくなるのは、大本研究者の常に実験する所であります。国常立尊は此の濁り切りたる守護神と人民との大掃除をなさるのであるから、実に大事業なのであります。

  また、王仁三郎自身も、大正9年2月号の『神霊界』で、次のような論稿を載せている。

  肉食のみを滋養物として、皇国固有の穀菜を度外する人間の性情は、日に月に惨酷性を帯び来たり、ついには生物一般に対する愛情を失い、利己主義となり、且つ獣欲ますます旺盛となる。不倫・不道徳の人非人(にんぴにん)となってしまうのである。虎や狼や獅子などの獰猛なるは、常に動物を常食とするからである。牛馬や象の如くに、体躯は巨大なりといえども極めて温順なるは、生物を食わず、草食または穀食の影響である。故に、肉食する人間の心情は、無慈悲にして、世人は死のうが倒れようが凍えておろうが、そんなことには毫末も介意しない、只々自分のみの都合を計り、食、色の欲のほか、天理も人道も忠孝の大義も弁知しないようになってしまうのである。
  こういう人間が日に月に殖えれば殖えるほど、世界は一方に不平・不満を抱くものができて、ついには種々喧(やかま)しき問題が一度に湧いてくるのである。今日の為政者たるものは宜しく下情(かじょう)に通ずるを以て急務とし、百般の施設はこれを骨子として具体化して進まねばならぬのである。
  ‥‥まず何よりも大本神諭に示させ給えるが如く、第一に肉食を廃し、身魂を浄めて神に接するの道を開くを以て、社会改良の第一義とせねばならぬのであります。

  当時の大本は、粗衣粗食を旨としていた。王仁三郎以下、幹部役員も皆、一汁一菜という簡素な食事を実践していたようだ。
  しかし教団としての規模が大きくなるにしたがい、こうした方針が徹底できなくなり、結局何でも食べるようになっている。天恩郷にある宿舎のゴミ箱には、魚の頭やら鶏の骨やら、エビの殻、刺身の具(つま)、腐った白米などが捨てられていたという。
  だが、王仁三郎は、こうした幹部たちの食事の乱れを、たしなめることもなかったようだ。
  肉食をすれば霊性が堕ち、邪霊からの悪しき波動を受けやすくなるのを、彼は十分心得ていたはずである。そこには、邪霊に操られた官憲の手により、大本を叩き潰してもらうという雛型を演出するための密意があったと見るべきなのだろうか。
  いずれにせよ、現代の日本のグルメ文化が、まさにそうした食の乱れた頃の大本の姿とよく似ていることだけは確かである。

 まず急務とされる食生活の改善

 “身魂磨き”という言葉は、あまりに抽象的であり、そのため様々な解釈が可能である。
  だが、一つ言えることは、どんな行法をしようが、どんなに素晴らしい信仰を持とうが、根本の食生活が改善されなければまったく意味がない、ということだ。
  むしろ行とは生活そのものであり、中でも正しい食生活の実践ができていれば、特別な身魂磨きの行などは必要ないのである。そのことが、『日月神示』に次のように示されている。

  神の国のお土踏み、神国の光いきして、神国から生まれる食べ物頂きて、神国の御仕事している臣民には、行は要らぬのざぞ。このことよく心得よ。(昭和19年10月19日)

  とは言え、日常の食事から動物性食を排除し、神示にあるような穀物菜食を実践することはなかなか困難である。その実行と継続には相当の意志の強さと、熱意が必要となってくる。
  また、通常人の場合は、食べる物のことまでとやかく言って欲しくないものだ。彼らは言う。好きな物を食ったり飲んだりして生きた方が、人生楽しいではないか――と。
  それはその通りである。しかし、神の道というものは、言葉を換えれば宇宙の絶対法則であり、秩序であるから、神とこの道に従わねばならない。
  肉食は明らかにこの道に反するのだ。道から外れた生き方を選択する人は、その見返りとしての不幸現象が起きる。
  いかなる善人であろうと、悪人であろうと、大宇宙(大神)の眼からは関係がない。絶対平等である。
  霊性が上がれば、必ず穀物菜食に自然と改まるものだ。それは穀物菜食を好む身魂のこまやかな波長が、高級な神霊の世界と交換交流するためである。だから、霊的(宗教的)指導者で、その人物がどの程度の霊性の身魂かを見分けるのは、至極簡単である。その人が平素何を食い、何を飲んでいるかを知ればいい。
  少しでも肉食をしていたら、その人は指導者の器ではない。酒、煙草も不可である。

 王仁三郎の言う「日本魂」に還れ!

  国常立尊は、王仁三郎の筆を通じ、次のように説いている。

  天地開闢の初めの世からの約束の時節が参りたから、愚図愚図致して居れんから、今の静まりて在る間に一日も早く身魂を磨いて居らんと、東の空から西の谷底へ天の火が降る事が出来致したら、俄(にわか)に栃麺棒を振ってアフンと致さなならぬようになるぞよ。それで一日も早く日本魂を磨けと申すのであるぞよ。

  このように前置きし、真の日本魂とはどういうものかを朗々と説いている。


  日本魂と申す物は、天地の先祖の神の精神と合わした心であるぞよ。至善至愛の大精神にして、何事にも心を配り行き届き、兇事に遭うとも大山の如く、ビクとも致さず、物質欲断ちて精神は最も安静な心であるぞよ。天を相手とし、凡人と争わず、天地万有山野海川を我の所有となし、春夏秋冬も昼も夜も暗も雨も風も雷も霜も雪も皆我が言霊の自由に為し得る魂であるぞよ。
 如何なる災禍に遭うも艱苦を嘗めるも意に介せず、幸運に向かうも油断せず、生死一如にして昼夜の往来する如く、世事一切を惟神(かんながら)の大道に任せ、好みもなく恨みも為さず、義を重んじて心裏常に安静なる魂が日本魂であるぞよ。
 常に心中長閑(のどか)にして、川水の流るるごとく、末に至るほど深くなりつつ自然に四海に達し、我意を起こさず、才智を頼らず、天の時に応じて神意に随って天下公共の為に活動し、万難を弛まず屈せず、無事にして善を行なうを日本魂と申すぞよ。

(中略)

 誠の日本魂のある人民は、其の意志(こころ)平素(つね)に内にのみ向い、自己(おのれ)の独り知る所を慎み、自己の力量才覚を人に知られん事を求めず、天地神明の道に従い交わり、神の代表となりて善言美辞を用い、光風霽月(せいげつ)の如き人格を具えて自然に光輝を放つ身魂であるぞよ。
 心神常に空虚にして一点の私心無ければ、常永(とこしえ)に胸中に神国あり、何事も優れ勝りたる行動を好み、善者を喜びて友となし、劣り汚れたるを憐れみ且つ恵む、富貴を欲せず羨まず、貧賤を厭わず侮らず、只々天下の為に至善を尽くすのみに焦心す、是の至心至情は日本魂の発動であるぞよ。
 天下修斎の大神業に参加するとも、決して慌てず騒がず、身魂常に洋々として大海の如く、天の空しうして鳥の飛ぶに任すが如く、海の広くして魚の踊るに従うが如き不動の神を常に養う、是れが神政成就の神業に奉仕する身魂の行動でなければならぬのであるぞよ。
 凡人の見て善事と為す事にても神の法に照らして悪しき事は是れを為さず、凡人の見て悪と為す事にても神の誠の道に照らして善き事は勇みて之を遂行すべし。天意に従い大業を為さんとするものは、一疋(ぴき)の虫と雖も妄りに之を傷害せず、至仁至愛にして万有を保護し、世の乱に乗じて望を興さぬ至粋至純の精神を保つ、是れが誠の日本魂であるぞよ。
 今度の二度目の天之岩戸開きの御用に立つ身魂は、是れ丈けの身魂の覚悟が無ければ到底終わりまで勤めると云う事は出来んから、毎度筆先で日本魂を磨いて下されと申して知らしてあるぞよ。(大正8年2月21日)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝
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