「7」 優れた中国学者の見解。この矢吹晋教授の分析は今の中国を見る目の基本だろう。
副島隆彦です。今日は、2006年2月14日です。
 以下の文は、8ヶ月ほどまえの文章です。やはり内容が優れているので、あとあとの、日中の動乱と紛争の時代になってから検証するために、ここに載せておこうと思いました。
副島隆彦記

(転載貼り付け始め)

「三権を掌握してもまだ万全ではない胡錦涛(こきんとう)
 体制」

横浜市立大学名誉教授 矢吹晋(やぶきすすむ)

(編集者のN君が送ってくれた。 2005.6.12 副島隆彦記)

(1) 今回のデモは2005年4月9日(第二土曜日)に北京で、16日(第三土曜日)に上海で起こったことで騒がれたが、最初のデモは3月末、深経済特区や日本の自動車産業が集中的に投資している広州であった。深経済特区は一人当たりGNPが1万ドル近い水準にあり、かなり豊かなところだ。どうしてこうした都市でデモを計画したか。

 (2) 3月21日に国連のコフィ・アナン事務総長が国連改革を推進するにあたり、「もちろん、新しい常任理事国のうち一つのポストは日本にいく」と発言したのをきっかけに、爆発的な署名運動が起こった。「9月に常任理事国入り問題が決着してしまったらおしまいだ、いまこそ立ち上がれ」という合図としてアナン発言を利用した。こうして5月10日には実に4000万を超える署名が集まった。

 中国の大手3大プロバイダー(新浪、捜狐、易網)も日本の常任理事国入り反対の署名をするサイトを設けた。私が注目しているのは、香港『大公報』もこの署名運動のサイトを設けたことであり、これは中央宣伝部が支持したことを意味すると解してよい。こうして一挙にムードが盛り上がった。

(3)  そもそも、日本の歴代首相の靖国参拝の歴史を振り返ると、1985年に中曽根康弘首相が参拝したが、翌86年8月15日には後藤田正晴官房長官の勧告に従い、胡耀邦(こようほう)総書記に手紙を書いて参拝しないと表明している。それ以来、96年に橋本龍太郎首相が一度参拝したのを除けば、森喜朗首相まで「中曽根書簡」を守ってきた。

 86年から00年まで15年間、11代の内閣にわたり中曽根誓約が守られてきたのである。現小泉首相は一転して参拝に踏み切り、中国や韓国がこれを非難するのを「内政干渉」だと反発しているが、問題は、それまでの11代の歴代首相の判断をどのように見るのかということだ。中国や韓国にしてみれば、それだけ長期にわたり、多くの首相が参拝してこなかったのだから既成事実と受け取り、これが日本としての中国や韓国に対する事実上の約束と受け取ったとしても自然なのではないか。

(4) 03年10月にインドネシアのバリでASEANプラス日中韓3カ国の国際会議があったが、そこで小泉首相と温家宝(おんかほう)首相が会談している。その際に、温家宝首相は会談が気まずい雰囲気にならないように、あえて靖国参拝の件は持ち出さなかった。ところが会談終了後、随行記者が小泉首相に「靖国に行くのか」と尋ねたら「行く」と答えた。

 そこまではまだ自分の立場を表明しただけなのだからまだ良いとして、一言口がすべった。小泉首相は「温家宝首相も理解してくれた」と誤報してしまった。これが中国にも伝わり、大騒ぎになった。これはとんでもない話だ。温家宝首相は就任して半年経っただけだったが、失脚しかねなかったとさえいえる。こうした随行記者たちはいつも小泉首相側の話だけを聞いており、中国の実情を全く理解していない。

 このような誤報がどれだけ重大な問題を引き起こすことになるかにまるで無頓着であり、ほとんど“政治音痴”というべきだ。この意味では、そうした“外交音痴”の小泉番記者たちが、よけいに日中関係をおかしくしているといえる。

(5)胡錦涛(こきんとう、フー・ジンタオ)が02年11月に共産党総書記に、03年3月に国家主席に就任し、そして04年9月には軍のトップである中央軍事委員会主席の地位を江沢民前から譲渡されたことで、党、国家、軍の三つの最高権力を手にした。しかし、それでも中共中央政治局常務委員会の9人のうち過半数を「上海閥」もしくは「江沢民派」が占めているため、胡錦涛としてはまだ権力基盤を固め切れていないと見てよい。

 政治局常務委員の中で胡錦涛とともに行動しているのは温家宝だけである。たとえば03年春のSARS(重症急性呼吸器症候群)禍の時に、実際に精力的に動き回ったのはこの2人と呉儀だけだけだったのは有名な話である。他の7人は何をしていたのかよく分からない。SARS騒動は権力構造が透けて見えるよい機会であった。

 ただ、04年秋に江沢民(こうたくみん、チャオ・ツーミン)が完全に引退したことで、流れが変わった。まず、江沢民自身が自らの腹心として用いてきた曾慶紅(そうけいこく)国家副主席が胡錦涛支持に回った――曾慶紅の20年にわたる秘書が汚職容疑で逮捕されており、曾慶紅自身が胡錦濤に“首根っこ”をつかまれている。

 胡錦涛に次いで党序列2位の呉邦国は、上海閥といわれながらも以前から中立気味の姿勢を示しており、胡錦涛支持と見てよい。今回、あまり注目されていないとはいえ、問題となるような行動を示したのは宣伝担当の李長春である。

 そもそも、今回の反日デモをめぐる政治権力争いは、07年に開催される党大会が視野に入っている。それまでに胡錦涛が権力を固めることができれば当然続投することになるが、それまでに揺さぶりをかけて続投できないということになれば誰が代わりに浮上するかというと、9人の常務委員の中で07年の党大会開催時に64歳と胡錦涛と並んで年齢的に最も若い李長春(りちょうしゅん)なのである。

 もし胡錦涛が続投してしまえば李長春は最高権力者になれないまま、2期10年間常務委員を務めただけで一緒に引退していくことになってしまう。このため、07年の第16回党大会開催までに胡錦涛を追い込むことができれば、李長春の“野望”が達成されることになるわけだ。

 (6) 04年9月に江沢民が中央軍事委員会主席の地位を断念するにあたり、その内幕としていろいろなことがいわれているが、そうした国家機密事項が外部に漏れ伝わってくるわけがない。巷間伝えられる俗説のほとんどはあまり根拠のないものだ。ただはっきりしていることは、04年8月下旬の小平(としょうへい、トン・シャオピン)の誕生日の前後に江沢民をはじめ党や軍の長老が皆集まった際に、長老全体の意思として江沢民に辞任を勧告したことだ。

 江沢民自身は07年までその地位にとどまり、“院政”を続けるつもりでいたようだが、それによる“二重権力状態”に対して長老たちが危機感を強め、いっせいに江沢民を非難したのである。誰が賛成したか、反対したかという次元の話ではないわけだ。

 また、江沢民と他の長老勢力との確執が表面化している際に、いうまでもなくその下の現役幹部組はどちらについた方が得策かを冷徹に判断して行動していたわけである。胡錦涛は当然のことながら江沢民辞任の立場で行動したが、いまや局面は胡錦濤政権が二期目も続くか、それとも一期限りで終わるかということであろう。

 胡錦涛が今権力を集中しつつあるが、それは江沢民の残党たちが左遷されることを意味する。そのため自己保身に走り、胡錦濤に対する面従腹背が目立つようになる。今回のデモは最初に広東で起こり、後に当局が取り締まりに消極的だったことで最もそれが激化したのが上海だったことも重要である。広東省と上海市の党委書記である張徳江と陳良宇はともに江沢民に近く、胡錦濤体制が固まらないことに自らの利益を感じているはずだ。そこからこの機会を利用して、自己の権力を維持するのを目的に、胡錦涛に揺さぶりをかけたものと見てよいのではないか。

 実はここに中国の悲劇がある。今回のデモは江沢民から胡錦涛への権力移行期に伴う権力闘争の過程だからこそ生じたものだ。胡錦涛は江沢民前政権の反日的な政策を改めて日中関係の打開を考えていた。江沢民は反日・愛国的教育を推進し、ナショナリズムに依拠して国内の統一と安定を図ってきた。たとえば98年に来日した際にも歴史問題を執拗に取り上げたことで、日本国民の間では“嫌中ムード”が強まったものだ。

 これに対し、胡錦涛や温家宝はより穏やかな対日姿勢を見せ、江沢民の反日路線を相対化しようと試みていた。ところが、日本側では胡錦濤の柔軟路線に対する呼応がまるでなく、逆に小泉首相の靖国連続参拝など反中国的な外交政策を採ったため、胡錦涛や温家宝の対日政策は中国国内では“弱腰”だと非難されるようになった。

 そうした権力の空白期に反日デモが起こったために積極的な誘導あるいは鎮圧ができなくなったのが中国の政治状況であろう。デモの仕掛け人側からすれば、いわば二重権力的な過渡期の間隙をついたことからあれだけ大規模なものになったわけだ。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝
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