「136」 ユダヤ問題のまじめな優れた歴史文で、ネット上にあったもの。作者不詳。 2010.9.11
副島隆彦です。 今日は、2010年9月11日です。 続けて載せます。
以下は、ネット上になった歴史の文で、作者不詳ですが、なかなか優れた内容です。おかしな”陰謀論者たち”の、頭のおかしな馬鹿な連中が書く、無根拠の文とは、違います。以下の文で、優に本一冊の中身です。この内容が本になったのかも不明です。相当の書き手だと思います。覆面を被(かぶ)ったったまま生きたい人なのでしょう。その意思は尊重されるべきです。この人が書いたであろう文のうち、私が採集して保存しておいた分だけ、取り敢えずここに載せます。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
作成 1998.3 「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台
序章
はじめに
第1章
「アヘン戦争」と
「開国維新」とユダヤ人
第2章
「日清戦争」で日本を援助した
ユダヤ人マーカス・サミュエル
第3章
「日露戦争」で日本を援助した
ユダヤ人ヤコブ・シフ
第4章
「日露戦争」でユダヤ資本から
「恩」を受けながら、
満州の共同経営の約束を破った日本
~ 「ハリマン事件」の実態 ~
第5章
太平洋をめぐる
日米両国の覇権争いが激化
第6章
「日露戦争」後に
アメリカで広まった「黄禍論」
第7章
ヤコブ・シフと高橋是清の死
第8章
「フグ(河豚)計画」
~ 日ユ関係の回復を試みる ~
第9章
支那事変(日中戦争)と
上海の「サッスーン財閥」
第10章
蒋介石(中国国民党)と
毛沢東(中国共産党)
●「日中戦争(支那事変)」勃発の背景(遠因)は、人によって様々な意見(見方)があると思うが、当館は20世紀初頭に起きた「日露戦争」(1904年)を抜きにしては語れないと思っている。特に「日露戦争」直後に起きた「ハリマン事件」による日米関係の悪化(日米対立)は、その後の日本の運命を決定づけた、かなり重要な事件だったと感じている。(「ハリマン事件」については第4章で詳しく紹介します)。また「アヘン」という麻薬の存在(利権争い)も、「日中戦争」の実態(深層部分)を知る上で、見過ごすことの出来ない重要な要素だと思っている。
第1章:「アヘン戦争」と「開国維新」とユダヤ人1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)
『実録アヘン戦争』陳 舜臣著(中央公論新社)
まず、有名な「アヘン商人」といえば、中東出身のユダヤ人デビッド・サッスーンが挙げられる。彼は1832年にインドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。(※ デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。
(左)インドのアヘン倉庫内の様子 (右)茶やアヘンを運んだ「東インド会社」の船
中東出身のユダヤ人 デビッド・サッスーン(1792~1864年)インドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘン密売で莫大な富を築く。「アヘン王」と呼ばれた。やがて、清国がアヘン輸入禁止令を出したことに端を発した「アヘン戦争」(1840年)が勃発。敗れた清国は、南京条約により上海など5港の開港と香港の割譲、さらに賠償金2億1000万両を支払わされ、イギリスをはじめ列国の中国侵略の足がかりをつくることになる。
(左)清国と戦っているイギリスの商船。その頃の商船は大砲を持っていた。(右)アヘン戦争で、清国が敗北すると、ヨーロッパの国々は競ってアジアに進出した。清国はイギリス以外の外国の国々とも不平等な条約を結ぶことになってしまった。肝心のアヘンについては条約では一切触れられることなく、依然としてアヘンの流入は続いた。 学習漫画 『中国の歴史 〈9〉-アヘン戦争とゆれる中国』(集英社)は、子ども向けの本だが、アヘン戦争の実態を手っ取り早く知る上で、最適な本である。アヘン商人たちの腹黒い姿がしっかり描かれている。 ところで、鎖国時代における長崎・平戸のオランダ商館長は、すべてユダヤ系の人物だったと言われる。長崎にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)が作られていた。また、1853年7月8日に浦賀に来航して日本開国を迫ったペリー提督もユダヤ系だったという説がある。
1832年に「ジャーディン・マセソン商会」を中国の広州に設立したイギリス系ユダヤ商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソン
「ジャーディン・マセソン商会」のシンボルマーク この会社の設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。1841年に本社を香港に移転した。
(左)坂本龍馬 (中央)武器商人トーマス・グラバー (右)『大英帝国の〈死の商人〉』横井勝彦著(講談社)グラバーは、1859年に英国から上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。その後、開港後まもない長崎に移り、2年後に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立。1908年、グラバーは「勲二等旭日重光章」という勲章を明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に亡くなった。
墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の観光名所になっている。 明治天皇(第122代天皇) 新時代の政治体制と法制をつくったフルべッキ、民法の基礎をつくったボアソナード、大日本帝国憲法の生みの親ロエスレル、陸軍を育てたジュブスケ、近代海軍を整えたデュグラス。また、外交の功績者デニソン、貨幣制度をつくったキンドル、銀行経営の道を開いたシャンド、殖産工業の推進者ワグネル、後の東大工学部を創設したダイエル、学校制度のモルディ、生物学の基礎をつくったモース、哲学・美術の父といわれたフェノロサ……
ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、次のように語っている。
(左)ハインツ・E・マウル。元ドイツ連邦軍空軍将校。(右)彼の著書『日本はなぜユダヤ人を迫害
しなかったのか』(芙蓉書房出版)「幕末には横浜にユダヤ・コミュニティーが結成され、世紀の変わり目には50家族がこれに属していた。その少し前、帝政ロシアによる迫害を逃れてきたロシア人が長崎にやってきた。このグループはまもなく解散し、700名あまりが東京・横浜や神戸に移住したといわれる。日本各地のユダヤ・コミュニティーは、第一次世界大戦後のパリ講和会議で設立されたユダヤ代表委員会の後継組織である『世界ユダヤ人会議』の傘下にあった。」「第二次世界大戦が終わるまで、普通の日本人の中にはユダヤ人とはキリスト教の一派だと思い込んでいる者が少なくなかった。 〈中略〉
横浜外国人コミュニティーの会長で『ジャパン・エクスプレス』という英字紙を発行していたラファエル・ショイヤーがいるが、彼の後任は、同じユダヤ人のウィルフリード・フライシャーで、この新聞を『ジャパン・アドヴァタイザー』と改称し、これは1940年に発行禁止となるまで最も影響力のある英字紙だった。発禁後は『ジャパン・タイムズ』に吸収される。しかし、日本で最も著名なユダヤ人は、フライシャーの友人で後継者でもあったヤコブ・シフにちがいない。シフはかつてその影響力を駆使して日本にきわめて有利な状況を作り出すのに貢献した。そして、『金持ちで影響力に富む』という日本人一般のユダヤ人についてのイメージを体現する存在となったのである。」 「アメリカの対日制裁は不安と怒りを呼び、日本は攻撃的になる。 〈中略〉
当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払った。その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。
日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられないと通告した。そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。 〈中略〉かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいた。彼らに比べると、何年も前に上海に移住したドイツ系、オーストリア系のユダヤ人や、その後到着した東欧系ユダヤ人は、遥かに厳しい運命にさらされることになる。」
※ 以上、『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)より
第2章:「日清戦争」で日本を援助したユダヤ人マーカス・サミュエル
●1894年に「日清戦争」が勃発すると、「シェル石油」の創業者であるイギリスのユダヤ人マーカス・サミュエルは、日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。
イギリス系ユダヤ人のマーカス・サミュエル (1853~1927年)世界初の「タンカー王」であり
「シェル石油」の創業者である そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、サミュエルは日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。
日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。 サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。
そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。彼は就任式に、日本の林董(はやし ただす)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。この年1月に「日英同盟条約」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。(ちなみに、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)。
明治期の外交官、政治家 林董(はやし ただす) 駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調印した。※ 「日英同盟」は、1902年1月30日に結ばれた日本とイギリスとの間の軍事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使とイギリスのアーサー・ラウズダウン外相により調印された。「日英同盟」は、戦前日本にとって最高の同盟関係だったといえる。この同盟関係を守りきれなかったことが戦前日本の犯した最大の失敗だろう。 サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。 その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようになったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。
第3章:「日露戦争」で日本を援助したユダヤ人ヤコブ・シフ
「日清戦争」勝利後、日本は、帝国ロシア南下政策と中国の権益をめぐって「日露戦争」(1904年)を行なった。しかし、日本はわずか1億7000万円の予算しか持っていないので、戦費を海外から調達しなければならなかった。
高橋是清(たかはし これきよ)日銀副総裁。のちに蔵相、首相。「ダルマ首相」と呼ばれて親しまれた。当時の日銀副総裁の高橋是清(たかはし これきよ)が日本の公債の買い手を求めて絶望的な気持ちで欧米を駆け回っていたとき、ロンドンで日銀創立の功労者であったシャンドと出会った。そのときシャンドは、ユダヤ系投資銀行「クーン・ローブ商会」を率いるヤコブ・シフを高橋是清に紹介し、ヤコブ・シフは当時2億ドル(現在の1兆円)の公債の引き受けをした。
その動機について、高橋是清は自伝の中で、「ヤコブ・シフは、帝政ロシアのもとで、ユダヤ人は差別を受け、国内を自由に旅行すら出来ず、圧制の極に達していた。そこで、日本に勝たせ、ロシヤの政治に一大変革を起こし、ユダヤ人がその圧制から救われることを期待していた」と述べている。(※ このヤコブ・シフと高橋是清の話は、司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』(文芸春秋)の第4巻でも紹介されているので、知っている方は多いだろう)。
(左)アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。日露戦争の時、日本を資金援助した。 (中央)「クーン・ローブ商会」(右)司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』(文芸春秋)。この本にヤコブ・シフが登場している。
●ロシアは歴史を通じて、反ユダヤ主義が最も盛んだった国である。
歴代の皇帝はロシア正教に改宗しようとしないユダヤ人を圧迫した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺(ポグロム)が進行した。
1903年~1906年の主なポグロム発生地。
黒海北岸で集中的に起きている。19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行した。このロシアにおけるユダヤ迫害は 「ポグロム」と呼ばれ、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジームであった。
ポグロムで死んだ黒海北岸の都市オデッサのユダヤ人たち
●1905年、「日露戦争」で東洋の島国・日本が勝利すると、全世界のユダヤ人が狂喜した。
今日のイスラエルの国歌「ハ・ティクヴァ(希望)」の歌詞を書いたユダヤ詩人ナフタリ・インベルは、日本勝利の報せをきいて、明治天皇と日本国民を称える詩を発表した。有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』の原作者であるユダヤ人文学者シャローム・アライヘムは、1905年にワルシャワで「日露戦争」に題材をとった喜劇を発表し、日本の勝利を称えた。
『屋根の上のバイオリン弾き』 このミュージカルは、帝政ロシア時代末期にウクライナで生活していたユダヤ人が、ポグロムに遭遇する物語である。この物語の原作者であるユダヤ人文学者は、「日露戦争」での日本の勝利に大喜びし、「日露戦争」に題材をとった喜劇を発表した。
●敬虔なユダヤ教徒であったヤコブ・シフは、後になって次のように述懐している。「私はロシアにおけるユダヤ人虐殺に、深く憤っていた。ロシア帝国に対して立ち上がった日本が、ロシアを罰する“神の杖”であるにちがいないと、考えた。」「日露戦争後(1906年)、私は日本政府の招待によって、初めて日本を訪れた。明治天皇は私に親しく感謝を述べられた。皇居では完璧に西洋流の、美味な料理が供されたが、食卓の飾りつけも、西洋式にきわめて洗練されたものだった。明治天皇は健啖(けんたん)で、ユーモアに溢れていられた。ご自分の治世が始まったころの愉快だった逸話について、自由闊達に話された。」
日本政府は、「日露戦争」勝利の功績に報いるため、1906年にヤコブ・シフを日本に招待し、明治天皇が午餐会を催し、シフ夫妻を拝謁。サミュエルと同じ勲章「勲一等旭日大綬章」を与えている。
明治天皇が民間人である外国人に陪食を賜ったのは、シフが初めてだった。
この明治天皇のユダヤ人への感謝の思いは、昭和天皇にも引き継がれていた。 外交評論家の加瀬英明氏は、次のように述べている。「もし、日本が日露戦争に敗れていたとしたら、日本はロシアによって支配されていたから、今日の日本はありえなかった。他界されてしまったが、私はイスラエルのモシェ・バルトゥール駐日大使と親しかった。大使は1966年から5年にわたって、東京に在勤された。
かつて、わが国はヤコブ・シフ氏に大変にお世話になりました。この恩を忘れることはありません』という、お言葉をいただいた。大使は陛下の思いがけないお言葉に、驚いた。ところが、ヤコブ・シフという人物について知識がなかった。そのために大使館に戻ってから、急いで調べた。昭和天皇は明治天皇を慕っていられたので、日本がヤコブ・シフとユダヤ人によって救われたことをよく知っていられ
●1989年、昭和天皇が崩御された。イスラエルのヘルツォーグ大統領は、「日本はナチスの友邦だったから参列するな」という国内の一部の反対を押し切って、大葬の礼に参列するために来日した。東京のユダヤ人協会の歓迎の宴に招かれたヘルツォーグ大統領は、こう挨拶したという。「先の大戦において、多くの国がドアを閉ざしていた頃、日本及び日本の管理地では数万のユダヤ人に避難場所が与えられました。我々は日本国民のこの行為を永遠に忘れません。ユダヤ人に対する日本の態度は、当時ヨーロッパで起きていた事とは全く対照的であり、ひときわ輝いていた。
●20世紀初頭のロシアには全世界のユダヤ人の半分に当たる約500万人が住んでいた(これはロシア総人口の4%に当たる)が、「日露戦争」が勃発すると、ロシア軍兵士として戦ったユダヤ人がいた。
ヘブライ大学の有名なユダヤ人教授ベン・アミー・シロニー博士は、「日露戦争に関与したユダヤ人」について次のように述べている。参考までに紹介しておきたい。
ヘブライ大学のベン・アミー・シロニー博士 大の親日家で、日本に関する本を多数出している。
ヘブライ大学で、毎年500人を超える学生たちに日本の歴史と文化を講義している。 「19世紀末、ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れていた。ポグロムは、ロシア政権の奨励と黙認により、押し進められていたのが現状だった。1894年に政権を握った皇帝ニコライ2世は、彼の政権を脅かすほどの民衆の不信感に直面していた。その打開策として、彼は民衆の怒りを『内の敵(ユダヤ人)』と『外の敵(日本人)』に向けようとした。」
「1904年、日露戦争が勃発すると、ヨーロッパのユダヤ資産家は、ユダヤ人を敵視していた帝政ロシアへの援助を拒否した。この資産家たちの中には、『シベリア鉄道』へ多額の援助をしたフランスのロスチャイルド卿も含まれていた。ロスチャイルド卿がロシアのために働いたのは、戦争で負傷したロシア人を援助する機関に寄付することにとどまった。ロシアに対する態度とは対照的に、他のユダヤ人資本家たちはみな日本を援助した。その中でも注目すべきは、ニューヨークの『クーン・ローブ商会』の経営者であるヤコブ・シフである。」
「日露戦争は、ユダヤ人が兵士として、また様々な物語の生みの親として大いに関係した、近代における最初の大戦である。(それまで国を失ったユダヤ民族は、戦闘経験はなかった)ユダヤ人は『シベリア鉄道』の建設に携わり、戦闘態勢を整えた点でロシアに大きく貢献し、また自らロシア軍兵士として戦った。(日露戦争に動員されたユダヤ人は3万3000人で、これは満州におけるロシア軍の約6.6%、このうち約3000人が戦死した)
しかしその一方、戦争でロシアを負かすために日本に援助を送り、日本の勝利を喜んだのもユダヤ人であった。そして、戦時中に起きた革命の過程とその結末の中で随所に登場し、それと並行して同じ頃、ロシアからパレスチナへ移住するための重要な役割を担ったのも、またロシア系ユダヤ人であった。」
「『シベリア鉄道』はロシアの軍事・経済の拡大に大きな弾みをつけ、日本との対立を早める要因となった。この鉄道は、国外から巨額の資金調達によってまかなわれたが、その中の一つがフランスの『ロスチャイルド銀行』である。
ロシア政府の奨励により、ユダヤ人事業家は『シベリア鉄道』の沿線に居住した。東地域の開拓につとめ、ロシアの存在を強めるためである。中国の北東に位置する満州に、ロシアの町ハルビンが建設されたとき、ロシア政府は『シベリア鉄道』の中国部分と呼ばれる東清鉄道の地域と、その南部に当たる南満州鉄道の付近へ、在ヨーロッパユダヤ人の移住を促した。その場所に『ヨーロッパ人口』を増援するのが目的であった。1903年、ハルビンのユダヤ人コミュニティで、請負業や商業に携わったユダヤ人の数は500人を数えており、その地でもユダヤ人は町の発展に大いに貢献していた。」
「日露戦争で負けたロシアは、ヤコブ・シフが日本を援助したことを許さなかった。1911年、ロシアの大蔵大臣はアメリカの報道機関に対して、次のように述べている。
『ロシア政府は、あのユダヤ人シフが私たちにもたらしたことを決して許さず、また忘れることはないであろう……彼は一個人でありながら、日本のアメリカからの資金調達を可能にした。彼(ヤコブ・シフ)は、我々に立ち向かった最も危険な人物の一人である!』」
第4章:「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本 ~ 「ハリマン事件」の実態
ヤコブ・シフが日本を援助したのと同時に、戦後の満州経営について、日本政府とユダヤ財閥との間に秘密の取引きが行なわれていた。東郷平八郎率いる日本連合艦隊が当時、海軍力世界2位のロシアのバルチック艦隊を破って以来、延びきった戦線のための補給にも苦しくなっていたところ、アメリカの26代セオドア・ルーズベルト大統領の仲介で1905年8月10日、ポーツマスで講和会議が開かれた。
そして、秘密取引きの内容を具体化するために、ポーツマスで日露の講和会議が開かれている最中、ロックフェラー家と関係の深いユダヤ系アメリカ人の鉄道王エドワード・ハリマンが、クーン・ローブ・グループの代表として来日したのである。南満州鉄道の日米共同経営についての話し合いが目的だった。
ユダヤ系アメリカ人の鉄道王エドワード・ハリマン裸一貫からアメリカを横断する鉄道網を作り上げた。1905年8月、クーン・ローブ・グループの代表として来日。(満鉄の経営についての話し合いが目的)
「ポーツマス講和会議」では、ロシアの代表ウィッテの巧みな外交戦術により、日本の代表小村寿太郎は、赤子が手をひねられるように屈し、戦勝国でありながら日本は、領地をほとんど手に入れることが出来ず、賠償も権益も得るところわずかであった、交渉結果の知らせを聞いた国内では、「国賊小村」の声も上がっていた。
(左)小村寿太郎 (右)日露戦争後の「ポーツマス講和会議」 (1905年) ポーツマスの日露講和条約に不満を持つ人々は、1905年9月5日、東京の日比谷公園で大集会を開いた。群衆は集会を解散させようとする警官と衝突し、政府高官の家や新聞社、交番、電車を焼き打ちにしたので、日本政府は軍隊の力を借りてこれを鎮めた。
焼き打ちの拡大 日露講和反対の大集会(約3万人) → 日比谷焼き打ち →→ 東京焼き打ち(東京が無政府状態) → 東京に戒厳令※ この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。戒厳令は11月29日まで続いた。 一方、ハリマンは、小村寿太郎が「ポーツマス講和会議」で留守中に、桂太郎首相と南満州鉄道の日米協同経営の予備協定を10月12日に結んだ。ハリマンは上機嫌のうちにサンフランシスコへ向かう船上の人となった。その後、10月15日に帰国した小村寿太郎は、桂内閣の予備協定の決定を聞くに及んで、烈火のごとくに怒った。
「日本が2年間に渡る大戦で血を流し財を尽くして獲得した報償は、まことに貧弱である。講和条約を不満とする愛国の至誠が、暴動とさえなっている。その上また、この貧弱な戦果の半ば以上の価値がある満鉄をアメリカ人に売り渡してしまい、満州そのものを外国商業との自由競争の場に委ねてしまおうというのは、とうてい忍ぶことができない。」
桂内閣はこの要望を入れて10月23日、アメリカ側に予備協定の「破棄」を通告した。ハリマンがサンフランシスコに着いたときに、彼を待っていたのは「破棄」を通告する日本政府からの電報であった。今度はハリマンが烈火のごとくに怒り、ただちに翌年の8月に腹心のウィラード・ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権とアメリカ人の利権とを衝突させていったのである。
(左)エドワード・ハリマン (右)小村寿太郎
この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った。「日本は十年後に後悔することになるだろう!」 屈辱外交官として、いったんは政治生命を絶たれた小村寿太郎は、この事件後、「南満州鉄道を救った男」として名誉を回復した。しかし、歴史はハリマンの予告通りに動いていく。 それ以後、満鉄を中心として日本とアメリカの対立が深まり、その関係がこじれていった。そして1921年の「日英同盟」破棄以降、両者の対立は決定的なものとなり、やがて日本は英米との関係を断ち切り、ドイツとの協定にのめりこんでいったのだった。
当時、セオドア・ルーズベルト大統領は、次のような言葉(書簡)を残している。「私は従来日本びいきであったが、ポーツマス会議開催以来、日本びいきでなくなった」
エピソード 『小村寿太郎と桂・ハリマン覚書』 (野澤道生氏の『日本史ノート』解説より)
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode12.html◆桂・ハリマン覚書 (クリック20世紀より)
http://www.c20.jp/1905/10kakus.html第5章:太平洋をめぐる日米両国の覇権争いが激化
●アメリカは「日露戦争」(1904年)の数年前に、ハワイに海兵隊を奇襲上陸させて当時、独立国であった「ハワイ王国」を占領して滅ぼし、アメリカの領土としていた。当時ハワイでは、日本人が人口の半分(2万2000人)を占めていたので、女王は明治天皇に援助を依頼してきたが、当時の日本にはアメリカと戦う力はなく、みすみす事態を見過ごすしかなかった。
ハワイ王国最後の女王
リリウオカラニ彼女は音楽を愛好したことでも知られ、ハワイ民謡として有名な
「アロハ・オエ」は彼女の作である。※ カメハメハ大王を始祖として1795年に始まった
「ハワイ王国」を、アメリカは武力で併合した(1898年)。宮殿に掲げられていた「ハワイ王国」の国旗は下げられ、アメリカ合衆国の国旗が揚げられた。ハワイ住民らはこのとき、悲しみの声をあげたという。 ちなみに、彼女の兄であるカラカウア前国王は、世界で初めて日本を訪れた外国の国家元首だった。彼はハワイ王国の安泰のため、明治天皇の甥に縁談を申し込んだことで知られている(1881年)。もし、この縁談が実現していたら、「ハワイ王国」はもっと長く存続していたかもしれない…。
カラカウア前国王彼はアメリカのハワイへの進出を阻むため、同じような状況にあったアジア諸国と連合を組み、立ち向かうための構想を持っていた。そして、それを実現するためアジア諸国を回り、その一番最初の訪問国であり絶対同盟を組みたいと思っていた国が日本であった。(この構想は「大東亜共栄圏」構想の先駆的なプランだった)
しかし、このプランは、維新まもなく国力増強優先の日本が取り組めるほど余裕がなかった事もあり、実現しなかった。 「ハワイ王国」滅亡後、ここにアメリカの大軍事基地が築かれ、「太平洋艦隊」の根拠地として発展した。それが「パールハーバー」である。そして、イギリスのシンガポール、ロシアのウラジオストクと呼応して、三大軍港が日本を三方から牽制するように取り囲む体制が次第に整っていくのである。この時代の世界といえば、「帝国主義」が全盛期だった。当時の世界は、「帝国か! 属国か!」に分かれる、まさに混乱の時代だった。
↑南北戦争から1912年までに、アメリカが獲得した主要な新領土およびその植民地中国の利権をめざして、アメリカは西へ西へとそのエネルギーを伸張させていたことが分かる膨張し拡大するアメリカは、
西へのフロンティアの開拓の夢と、その情熱的エネルギーが、ついに北米大陸を離れて海上へ溢れ出した姿として理解できる
左からイギリスのヴィクトリア女王、ドイツのヴィルヘルム2世、ロシアのニコライ2世。ななめ後ろがフランスで、右端の武士が日本である。
背後で両手をあげている男性は清の大臣で、「やめてくれ!」と悲鳴をあげている。開国維新後の日本にとって、最大の脅威はロシア帝国であった。ロシアは軍事力を傘に東アジア南下戦略を目指していた。日本にとって「日露戦争」は、国家予算の6倍以上の戦費をつぎ込み、継戦不可能というギリギリで掴んだ“薄氷の勝利”であった。その戦費の約40%を調達したのが、第3章で紹介したユダヤ人金融業者ヤコブ・シフだった。この男の助けがなければ日本は「日露戦争」に勝てなかった、と言っても過言ではなかった。
アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ1847年、ドイツのフランクフルトで生まれる。1870年にアメリカに帰化した。シフ家の祖先は、ドイツのフランクフルトの旧ユダヤ人街区にある一軒の家をロスチャイルド家と共有して住んでいた。
シフ(schiff)家の側には「船(schiff)」が、ロスチャイルド(Rothschild)家の側には「赤い盾(roter Schild)が描かれてあり、両家の姓は、そこに由来しているという。 ヤコブ・シフの「クーン・ローブ商会」とエドワード・ハリマンについて
●歴史研究家の田畑則重氏(東京大学新聞研究所修了)は、ヤコブ・シフの生涯(素顔)や日本支援の動機、そして叙勲のために招待された際の『シフ滞日記』を紹介した面白い本を出版した。本のタイトルは『日露戦争に投資した男 ~ユダヤ人銀行家の日記~』(新潮社)である。
『日露戦争に投資した男~ユダヤ人銀行家の日記~』田畑則重著(新潮社) 当時、彼はウォール街を代表する投資銀行家であり、ヨーロッパの一大金融帝国・ロスチャイルド家とも緊密な関係を持ち、またアメリカ大統領にも直言する立場にあった。」
「クーン・ローブ商会」の創業者エイブラハム・クーンは、1839年にアメリカに来て、他のドイツ系ユダヤ人同様、行商人から身を起こし、10年後、インディアナ州で衣類の卸売業を経営していた時に、遠縁のソロモン・ローブを呼び寄せた。ソロモンは、エイブラハムの妹と結婚し、すぐに共同経営者となった。クーンとローブがシンシナティに移って、総合小売業に転じると、南北戦争の軍用毛布需要が利益を生み、1867年、2人はニューヨークに移り、国債とのちには鉄道債券を取り扱う「クーン・ローブ商会」を設立した。
クーンが早くに引退し、ローブの息子たちも金融界で働くことを嫌ったが、1875年にヤコブ・シフが加わった。この年、シフは「クーン・ローブ商会」の共同経営者ソロモン・ローブの娘テレーズと結婚した。
「クーン・ローブ商会」1867年、ドイツ系ユダヤ人によってニューヨークに設立された。1885年、ソロモン・ローブの死去に伴い、シフが「クーン・ローブ商会」の代表となった。この正直で若き銀行家は、地味ながら評価される「クーン・ローブ商会」の名声を築き上げていったが、社名に自分の名を冠しようなどとは考えもしなかった。シフの時代のユダヤ人投資銀行家たちの結束は固く、血縁関係で結ばれた同族集団を形成していた。「クーン・ローブ商会」も例外ではなかった。
ヤコブ・シフ 1885年、共同経営者のユダヤ人ソロモン・ローブの死去に伴い、シフは 「クーン・ローブ商会」の代表となった。シフの妻は、ソロモン・ローブの娘だった。20世紀に入る頃には、「クーン・ローブ商会」は、アメリカでは「モルガン商会」に次ぐ地位を占めるようになっていた。その原動力は、鉄道事業への投資だった。欧州資本と組んで、1875年以降、国の大動脈に投資しているうちに、鉄道会社の再編を通して、「クーン・ローブ商会」自体が鉄道の経営に参画するようになった。鉄道会社の再編と投資事業に先鞭をつけたのは、のちに日露戦争後の南満州鉄道買収をめぐって対立するJ・P・モルガンだったが、シフは数年遅れて追走することになる。
シフと「クーン・ローブ商会」は、この過程でエドワード・ハリマンのパートナーとなった。アメリカの東部と北西部の鉄道を縄張りとした「モルガン商会」に対抗して、ハリマンと「クーン・ローブ商会」は、南西部の鉄道を支配する立場に立った。「モルガン財閥」に加え、鉄道界の大立者のジェームズ・ヒルおよびエドワード・ハリマンを巻き込んだノーザン・パシフィック鉄道の再編劇は、シフの名を一挙に全米にとどろかせることになった。
アメリカの金融王J・P・モルガン 政治と距離を置いたJ・P・モルガンと違って、ヤコブ・シフはアメリカの政府部内に味方を増やす必要があった。日露戦争の直前、シフはロシアとルーマニアでのユダヤ人迫害に対してアメリカ政府が公式に抗議するよう嘆願していた。ビジネスマンとしては、ルーズベルトの反トラスト姿勢には同意しかねたが、ユダヤ人の指導者のひとりとしては、そんなことは言っていられなかった。ルーズベルトも、ユダヤ票を獲得するために、シフの意見に耳を傾けた。
「全米ユダヤ人協会」会長も務めるシフという人物が、ユダヤ同胞に圧政を敷くロシアに打撃を与えたいと考え、日本を支援したことには疑いを入れない。しかし、フランクフルトからアメリカに来たドイツ系アメリカ人でありながらアメリカ金融界の頂点にたどり着いた男が、日本に肩入れすることにビジネス・チャンスを見出したとしても矛盾しない。
1999年にシフの伝記を書いたナオミ・コーエンによれば、1904年2月上旬、ニューヨークの五番街にあったシフ邸でユダヤ人指導者の会合が開かれた。シフは、「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているのだが、私が引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の見解を聞きたい」と語った。シフは日露開戦の情報を事前につかんでおり、公債引受の打診さえ受けていたのだ。
この場の全員が一致して、シフが日本の公債を引き受けることに賛成した。当時、大統領のセオドア・ルーズベルトもアメリカの国内世論も日本支持に傾いており、シフが日本公債を引き受ける結果、ロシアに与える打撃に良心の呵責をおぼえる必要はなかった。(日露戦争後)そこに現れたのがアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンだった。彼には世界一周鉄道網の夢があり、南満州鉄道を1億円で買収し、シベリア鉄道経由でヨーロッパにいたるアジア大陸横断鉄道を構想したのだった。彼は「ポーツマス講和会議」が始まった8月10日に息子のアベレルとローランドを伴ってニューヨークを発ち、16日にサンフランシスコを出港、31日に横浜に着いた。
事前に駐日公使グリスコムが動いて、日本政府は首相桂太郎はじめ、ハリマン提案に傾いており、閣議での反対者は逓信大臣大浦兼武(おおうらかねたけ)ただひとりだった。背景には、莫大な戦費と賠償金を得られなかったことによる財政難があった。元老井上馨などは、グリスコムに「この好機会を逸せしむるようでは愚の極である」とまで語った。財界も大御所の渋沢栄一が支持した。
ユダヤ系アメリカ人の 鉄道王エドワード・ハリマン裸一貫からアメリカを横断する鉄道網を作り上げた。1905年8月、クーン・ローブ・グループの代表として来日。(満鉄の経営についての話し合いが目的 ハリマンは戦時公債500万ドルの引き受け手でもあったから、話はとんとん拍子に進み、10月12日には、南満州鉄道に関する日米シンジケートを組織する予備協定覚書を交換し、意気揚々と帰国の途についたハリマンだったが、太平洋上ですれ違ったのが「ポーツマス講和会議」の日本全権小村寿太郎だった。〈中略〉
こうした背景があって、小村も強硬にハリマン案に抵抗、葬り去ることができたが、その結果、南満州鉄道が日本の独占経営となったことで、ルーズベルトのあとを襲ったタフト政権が期待した満州の門戸開放は実現されず、日米関係は悪化したまま、アジア太平洋戦争へと突入していく大きな端緒となった。
1905年の「ハリマン構想」は挫折し、日本政府の恩を仇(あだ)で返すような態度にヤコブ・シフは激怒し、その怒りを高橋是清にまでぶつけた。しかし、シフはほかの取り引きで見せたように、決してあきらめなかった。 1909年春、ハリマンは再び動いた。3月、ルーズベルトに代わってウィリアム・タフトが大統領に就任すると、アメリカの対日政策は、反日に変わった。タフトは、ハリマンの娘婿ウィラード・ストレイトを東アジア部長に任命した。
タフト政権の東アジア政策に中心的役割を果たしたのは国務次官のウィルソンとストレイトだった。ウィルソンは、満州の門戸開放を持続させるための唯一の方法は日本に対し、強圧をかけるほかないと確信していた。ストレイトは、旧来の政策では、満州でのアメリカの未来は暗く、アメリカ製品の市場拡大には満州に鉄道建設と資源開発の大規模投資をすることが必要だと主張した。ハリマンは自己の経済的目的のため南満州鉄道を支配しようとしたが、ストレイトの場合はさらに、国際戦略の見地から、アメリカ資本を満州へ投入する図を描いたのだった。
(左)第27代アメリカ大統領ウィリアム・タフト
(右)タフト政権の東アジア部長ウィラード・ストレイト
タフトは、国務長官にノックスを選任した。1909年12月、ノックスは、満州における列強の鉄道権益を清国に返した上で列強の共同管理にするという南満州鉄道中立化を提案したが、戦後に協調に転じた日本とロシアの反対で成立しなかった。敗戦により目を東から西に転じたロシアと日本の協商体制が進むなかで1910年、アメリカは5000万ドルの借款を清国に与え、英独仏と4ヶ国借款団を組織、強力なドル外交で日本に対抗し、太平洋をめぐる日米両国の覇権争いが激しさを見せはじめる。
以上、『日露戦争に投資した男 ~ユダヤ人銀行家の日記~』(新潮社)より
第6章:「日露戦争」後にアメリカで広まった「黄禍論」
●「日露戦争」は、国際社会のほとんどが大国ロシアの勝利を予想していたにもかかわらず、アジアの小国・日本が勝利した戦争だった。 ※ 「奉天会戦」=1905年3月に行なわれた日露戦争最後で最大の陸上戦。 日本軍とロシア軍が奉天(現在の瀋陽)でぶつかり、激しい戦いの末、日本軍がロシア軍を破った。この「奉天会戦」に投入された兵力は、日本が約25万人、ロシアが約32万人だった。
参加兵力だけでなく、戦闘期間も24日と戦史上かつてない規模で、日本軍だけで約7万人の死傷者を出した。この戦いで、日本は兵力と砲弾を使い果たし、戦争を続けていく力を失っていた。※ この「奉天会戦」はものすごい激戦で、あまりのすごさに発狂したロシア軍将校もいたほどだった。
ロシアの誇る「バルチック艦隊」に接近して正確な猛射を浴びせる「日本連合艦隊」
※ 「日本海海戦」=日露戦争の勝敗を決めた海戦で、1905年5月27日に行なわれ、次の日、日本艦隊の勝利に終わった。この「日本海海戦」に参加した38隻のバルチック艦隊のうち、19隻が撃沈され、5隻が日本軍に捕らえられた。ウラジオストクに逃げのびたロシアの軍艦は、わずか3隻だけだった。 日本の勝利は、帝国主義時代における有色人種の初勝利だったため、インドをはじめアジア中近東諸国の反植民地、独立運動に大きな影響を与えた。
●「黄禍論」(Yellow peril)は、アジア人を蔑視し、差別した考え方(人種差別の一種)であり、もともとは「日清戦争」後にヨーロッパ諸国に広まったもので、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が主な論者だった。1905年に「日露戦争」でロシアが敗れると、ヴィルヘルム2世は「黄禍論」を下地に、「白人優位の世界秩序構築」と、そのために日本をはじめとする「黄色人種国家の打倒」を訴えた。
(左)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(右)ドイツ帝国(いわゆる「第二帝国」)の国旗
ヴィルヘルム2世の母親はイギリスのヴィクトリア女王の娘だった。そのため彼は生涯、イギリスには好意的だった。しかし、その旺盛な海軍力増強姿勢はイギリスの警戒心を刺激し、イギリスをフランス陣営に追いやることになった。ちなみに、彼の立派な口ひげ(端がピンとはね上がった口ひげ)は「カイザー(皇帝)ひげ」と呼ばれた。彼は科学技術の進歩に大きな関心を持ち、学術団体「カイザー・ヴィルヘルム協会」を設立して
科学者を援助したことでも知られる。
このドイツ皇帝は1908年、『ニューヨーク・タイムズ』とのインタビューでこう語っている。 「ロシアが白色人種の利害を代表して日本と戦ったことは、誰もが認めている。しかしロシアの戦い方はひどくまずいものであった。ドイツ軍なら日本軍を撃破していたであろう。ロシアが黄色人種に弱点をさらけだした今、今度はドイツが黄禍の拡大に歯止めをかける番になったのだ。我がドイツはアメリカと協力して中国を応援する取り決めを行なったが、これは日本の進出を抑え、極東における勢力均衡を保つためである。」
またこのドイツ皇帝は基本的に「親英主義者」だったが、イギリスと日本の同盟関係(日英同盟)を危険視しており、同年ベルリン駐在のアメリカ大使に対してこう言い放っている。 「ドイツは近い将来イギリスと戦火を交えることになるかもしれない。なぜならば、イギリスは白色人種の裏切り者だからであり、日本と結んだ同盟がなによりの証拠である。日本は中国に領土的野心を抱いているが、その後ろで糸を引いているのはイギリスである。」
※ 第一次世界大戦でドイツは敗れ、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命するが、亡命先においても彼は、ドイツ帝国の極東政策を弁護し、黄禍に対する警告を繰り返し発している。
「私はかねてより、白色人種は一致団結して黄色人種を叩かねばならないと主張していたのに、イギリスはそのように行動せず日本と同盟を結んだ。だがもしも日本が、『アジアをアジア人の手に』というスローガンを実現し、中国とインドを支配下に置くようなことになったなら、そのとき初めてイギリスは、ドイツとその艦隊に助けを求めることになるだろう。強大化する日本に対して、ロシア皇帝ニコライ2世は大きな不安を抱いていたが、私はこうした彼の不安を利用できるだけ利用しつくして、ドイツとヨーロッパ文化を守ろうと努めたのである。」
『黄禍論とは何か』 ハインツ・ゴルヴィツァー著(草思社)帝国主義国家として空前の経済的繁栄を
謳歌していた欧米各国は、それまで劣等民族と信じて疑わなかった黄色人種の台頭に限りない不安を抱き、自らの「没落の予感」と結びついて、「黄禍論」はやがて政治的スローガンとなっていく。
ところでアメリカは、日本が「日露戦争」に勝った直後に、日本を第一仮想敵国とした「オレンジ計画(対日侵攻戦略)」を作成した。(のちの日米戦争におけるアメリカ側シナリオは、すべてこの「オレンジ計画」によるものである。既に日米開戦の30年以上も前から、アメリカは日本を第一仮想敵国と考え、日本打倒のプランを練っていたのだ)。「黄禍論」はアメリカでも広がり、日本人労働者の就職妨害や排斥、学童の隔離教育、太平洋沿岸州議会のハワイからの転航移民禁止などとして具体化し、「排日気運」を激化させていったのである。(=「太平洋戦争」の遠因)
『人種偏見 ─ 太平洋 戦争に見る日米摩擦の底流』 ジョン・ダワー著(TBSブリタニカ)あまり語られることのない「人種戦争」の真相。太平洋戦争における日米両国の憎悪の構造を分析し、「人種主義」の再生の危険性に警鐘を鳴らす。アメリカの対日圧迫政策についてこの時期の日米関係(摩擦)について、帝京大学教授の高山正之氏は次のように鋭く述べている。
「セオドア・ルーズベルトを多くの日本人は親日家だと信じている。ホワイトハウスに畳を入れて柔道をやったとか、『日露戦争』では継戦能力のない日本のために講和の労を取ってくれたとか。しかし彼の本音は全く違い、日本を叩き潰すことにあった。そのきっかけは1893年、米国のハワイ王朝乗っ取りだった。米戦艦ボストンがリリウオカラニ女王の宮殿に砲口を向け、彼女を退位させた直後、日本の巡洋艦『浪速』と『金剛』がホノルルに入り、米戦艦をはさむように錨を下ろした。
米国の横暴を牽制したもので、米国はハワイの併合を断念、ハワイ共和国という体裁を取った。巡洋艦の艦長は東郷平八郎といい、彼は翌年もホノルルにやってきたが、同共和国の建国1周年を祝う礼砲要請を『その要を認めず』と断った。『錨泊中の他国の艦船も彼に倣(なら)いホノルル港はあたかもハワイ王朝の喪に服したようだった」と地元紙が報じている。」
「共和国は報復に日系移民の帰化を拒否した。東郷の行動を見た米海軍省次官ルーズベルトは1897年3月、友人に『できることなら今すぐにハワイを併合し、ニカラグア運河を完成させ、日本を凌ぐ軍艦を建造したい。私は日本の脅威をひしひしと感じている』と書き送っている。そのために彼は新聞王のハーストと組み、世論を焚きつけて翌98年に『米西戦争』を起こし、グアムとフィリピンを手に入れた。大統領に就任するとすぐパナマを独立させ、運河建設に取りかかった。
脅威の日本人を米国から追い出す作業も始めた。その1つが、米国に併合を済ませたハワイの日系人の本土移住の禁止措置だ。ハーストの新聞も一役買って反日キャンペーンを展開する。『日本人は怠け者で売春や賭博にふける』とか『白人の知恵を盗む』とか『貯蓄して米社会に還元しない』とか思いつく悪口をすべて並べ立てた。結果、日系人の子弟は学校から締め出され、土地所有を禁じられ、市民権の取得も拒否された。」「しかし駐米大使の珍田捨己は米国人の善意を信じることから始めた。 〈中略〉
『まず相手を信じ、反省する』──この珍田方式が以降、日本外交の基本姿勢となる。 そんな馬鹿をしているからロシアから一銭の賠償も取れない講和を押し付けるルーズベルトを本気で『恩人』と思ったりする。 ルーズベルトの思いは一つ。米国にとって脅威の日本が賠償獲得でより強力にならないようにすることだった。」 「彼を継いだウッドロー・ウィルソンは日本を弱体化するために国際社会からも締め出そうとした。 彼は第一次世界大戦の『パリ講和会議』で五大国委員会を解散し、日本を追い出して英米仏伊の四ヶ国委員会にして日本の発言力を弱め、彼の後を継いだハーディング大統領は『ワシントン会議』で日英同盟を破棄させ、日本を孤立に追い込んだ。
しかし当の日本は、ウィルソンはいい人で、この会議も海軍の軍縮会議だと今でも信じている。 〈中略〉 『相手国の善意』を信じた珍田外交が、日本を滅ぼしたことを忘れてはなるまい。」
第28代アメリカ大統領 ウッドロー・ウィルソン 1919年、第一次世界大戦の戦後処理を行なうために開催された「パリ講和会議」で、日本は「人種差別撤廃」を強く提案した。人種平等の理想論には表向き反対できないので、投票の結果、過半数の賛成を得られた。ところが、議長のアメリカ大統領ウィルソンは、イギリスと組んで、このような重要な決定は、全員一致でなくてはならないと難癖をつけ、可決したはずの提案を否決してしまった。植民地を多く持つ白人列強に都合が悪いからであった。
日本の提案の成功を心待ちにしていた、世界中の多くの植民地民族は、「否決」と聞いて、改めて白人の横暴を非難し、日本に同情した。この「パリ講和会議」において盛んに強調された「人権」「民族自決」という考え方自体がそもそも「白人」を対象としたものであり、有色人種は始めから埒外に置かれていた当時の状況を伝えるエピソードである。
千葉大学名誉教授の清水馨八郎氏は、次のように述べている。「日露戦争直前に結んだ『日英同盟』(1902年)は、戦争に実に有効に機能した。バルチック艦隊の長路の日本遠征では、途中のイギリス領関係の港での寄港を拒否、妨害され、食料補給、給水などに支障をきたした。これは、ロシア軍にとっては大変な痛手となった。
日露戦争後、日本を仮想敵国とする戦略を明確にしていたアメリカは、友邦のイギリスを日本から切り離しておかねばならないと考えた。そこで『ワシントン会議』を機に、『日英同盟』の廃案を両国に迫った。日本政府は反対したが、イギリスはすでにその使命が終わったとして、アメリカの提案に賛成した。その頃から、米英は協力して日本の勢力拡大を抑える反日の姿勢を明らかにしていったのである。」「アメリカの日本叩き、日本いじめ政策の第一弾が、1924年の『排日移民法』の制定である。元来移民歓迎を国是とする移民受け入れ大国が、日本移民だけを締め出したのである。さらに日本の在米資産を凍結する挙に出た。後に昭和天皇は後日談の中で、この『排日移民法』の制定が大東亜戦争の第一の遠因であると述懐されておられるほどである。」
「ワシントン会議」 (1921年) 第一次世界大戦後の1921年、アメリカのハーディング大統領の提唱でワシントンで開かれた国際会議。この会議によって「日英同盟」が破棄され、東アジア太平洋地域での新たな国際秩序となる「ワシントン体制」が発足した。この会議により形成された体制は、ヨーロッパの「ヴェルサイユ体制」と並んで、第一次世界大戦後の国際秩序を確立することになった。この会議を主催し指導したアメリカは外交的勝利を収め、国際的指導者の地位についた。 この会議は国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議であった。
第7章:ヤコブ・シフと高橋是清の死
「ハリマン事件」後、少しギクシャクする時期があったが、ヤコブ・シフと高橋是清の交友関係は続いた。ヤコブ・シフは終生、高橋是清と家族ぐるみで親しく交わった。高橋是清の長女のわき子を、ニューヨークの自宅で、3年間にわたって預かったほどだった。高橋是清は82歳の時(1936年)に「2・26事件」で青年将校達に射殺(暗殺)された。ヤコブ・シフはその16年前(1920年)に、73歳で没していた。この2人の死によって、日本とユダヤの関係は“新たなステージ”を迎えることになる……。
金融の天才だったヤコブ・シフの死後、「クーン・ローブ商会」は支配力を次第に失い、1929年の世界大恐慌で打撃を受け、没落していくことになる。現在は同じドイツ・ユダヤ系の投資銀行「リーマン・ブラザーズ社」と合併している。この「リーマン・ブラザーズ社」はドイツからアメリカへ移民したユダヤ人のヘンリーとエマニュエルとマイヤーのリーマン3兄弟によって、1850年に設立された投資銀行である。日露戦争中に、ヤコブ・シフの呼びかけに応じて、日本の国債を購入している。
ヤコブ・シフの「クーン・ローブ商会」は、1977年に同じドイツ・ユダヤ系の投資銀行「リーマン・ブラザーズ社」と合併した。
第8章:「フグ(河豚)計画」──日ユ関係の回復を試みる
「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本は、独自の満州経営に乗り出し、あげくの果ては1931年の満州事変に至るドロ沼にはまりこんでいった。
満鉄超特急「あじあ」号は、1934年11月1日に運転を開始した。最高速度は時速120キロで、蒸気機関車として世界のトップレベルを誇った。この「あじあ」号を造りあげた日本の技術力は全世界の注目を浴びた。「あじあ」号の存在は、当時の日本人の“夢”の象徴だった。しかし、それは敗戦とともに露と消えた。 が、実はこの時代に、日ユ関係を回復する大きなチャンスがめぐってきていた。そして日本内部にも、このチャンスを生かすべきだろうとする意見があり、そこへ向けての活動が少なからずあったのである。
安江仙弘(やすえ のりひろ)陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてくるという事件が起きた。日本政府は、アメリカからの工作機械やその他の輸入を全く受けられないため、日本の満州経営は大きな壁にぶつかっていた。そのために、欧米のユダヤ財閥資本と経営技術を必要としていた。そこで、ユダヤ資本との対立関係を回復する為に、この難民ユダヤ人達を保護し、満州にユダヤ人国家を作る計画があった。この計画は「フグ(河豚)計画」と呼ばれた。
極東アジア地域へのユダヤ人の亡命 (~1945年) 1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた満州国の国旗である「五色旗」は黄、紅、青、白、黒で日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴している。一方イスラエルの旗は、1891年にシオニズム運動の運動旗としてユダヤ人ダビデ・ウルフゾーン(リトアニア出身)が考案したものである。
新興日産コンツェルンを率いていた鮎川義介(あいかわぎすけ)は、1934年に、外務省より『ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画について』という論文を発表した。彼は、ドイツ系ユダヤ人5万人を満州に受け入れ、最終的には100万人を移住させ、満州にユダヤ人国家を作ることで、アメリカの歓心を買い、対ソ連への防波堤にしようと考えていたのである。1936年、鮎川義介が関東軍の後援で渡満し、「満州重工業開発株式会社」を設立したことにより、「フグ計画」は国策レベルに浮上した。
(左)鮎川義介。大正・昭和期に活躍した実業家。「日産自動車」の実質的な創立者。満州重工業開発総裁。
(右)「フグ計画」の舞台となった町ハルビン(Harbin)は上の地図の右上に位置している。
ユダヤ人との間に対話の場を設けて関係を強めることを考えた日本の軍部は、1937年から1939年にかけてハルビンで3回の「極東ユダヤ人大会」を開催した。第1回の会議には、陸軍の安江仙弘(やすえのりひろ)大佐や、関東軍情報部長の樋口季一郎、谷口副領事などが出席し、1000人近いユダヤ人が会議を傍聴した。直前に組織として結成された「極東ユダヤ人会議」の議長には、ユダヤ人アブラハム・カウフマン博士が選出され、極東の上席ラビにはアロン・モシェ・キセレフが選ばれた。
(左)ハルビンに作られたユダヤ教会堂 (右)満州のユダヤ人たち
満州のユダヤ人の活動の中心地は黒竜江省のハルビンであった。 この町には20世紀初頭から、ロシア系ユダヤ人を主とする小さなコミュニティーがあったが、日露戦争の影響と1905年のポグロムの結果、多数のユダヤ人が流入したため、1908年にはその規模は8000人以上に膨れ上がった。その後、ロシア革命とウクライナでの迫害を逃れて更に何千人もが満州に入ってきたので、ハルビンのユダヤ・コミュニティーも1920年には1万人を数え、満州国建国の頃は1万5000人にもなっていたのである。
「ハルビン・ヘブライ協会」が設立され、ラビのアロン・モシェ・キセレフと アブラハム・カウフマン博士がその代表的存在だった。1937年12月26日にハルビンで開かれた第1回の「極東ユダヤ人大会」で、樋口季一郎(陸軍少将・のちに中将)は、次のように演説した。「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行き先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺に等しい行為と、断じなければならない。
私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ!そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。」この樋口季一郎の演説が終わると、凄まじい歓声が起こり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口季一郎の前にひざまずいて号泣し始めたという。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、次々に握手を求めてきたという。
樋口季一郎・陸軍中将 満州国のハルビン特務機関長だった時、2万人のユダヤ人を救出した。ハルビンで開かれた「極東ユダヤ人大会」では多数の作業計画が採択されたが、その基本理念を定めたのは樋口中将の基調演説だった。彼は、日本人は人種偏見を持っておらず、親ユダヤ的だと強調し、日本はユダヤ人と協力し経済的接触を保つことに関心があると述べたのである。
「極東ユダヤ人大会」で挨拶を述べるユダヤ人 アブラハム・カウフマン博士(議長) この「極東ユダヤ人大会」には、ハルビンのほか、奉天、大連、ハイラル、チチハル、天津、神戸など、極東各地のユダヤ人社会から代表が出席した。ちなみに、この「極東ユダヤ人大会」に参加したユダヤ人はアシュケナジー系ばかりであり、スファラディ系ユダヤ人は参加していない。
この「極東ユダヤ人大会」の主要な結果は、カウフマン議長名でニューヨーク、ロンドン、パリのユダヤ人組織に打電され、数多くのメディアに通報された。しかし、メディアの反響は期待を遥かに下回るものだった。満州のユダヤ人たちは日本と協力する用意があったのに対して、「米国ユダヤ人会議」の議長スティーブン・ワイズ博士率いるアメリカのユダヤ人は反日的であった。ワイズ博士は、日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていたのである。
ハルビンの「極東ユダヤ人会議」の議長だったアブラハム・カウフマン博士は、アメリカのユダヤ人のスポークスマンに対して「日本をもっと好意的に見るように」と説得したが、ルーズベルト大統領の側近だったワイズ博士は日本を全く信用せず、ユダヤ人の満州移住構想(「フグ(河豚)計画」)には賛成しなかったのである。
スティーブン・ワイズ博士彼はアメリカのユダヤ指導者階級の 中心人物のみならず、全世界のユダヤ人の指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、必ず影のように彼がついていたと評され、その政策を左右する実力を持っていた。しかし彼は基本的に「反日主義者」で、日本との協力に消極的だった。この「フグ(河豚)計画」について、ユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤーは著書『The Fugu Plan(河豚計画)』の中で、次のように語っている。
(左)ラビ・マーヴィン・トケイヤー。1967年に来日、「日本ユダヤ教団」のラビとなる。
(右)彼の著書 『The Fugu Plan』 「1930年代、『フグ計画』は日本がまさに求めていたものを提供するはずだった。膨張を続ける日本の版図は、ロスチャイルドやバーナード・バルークやヤコブ・シフなどユダヤ財閥の資本と経営技術を必要としていた。資本と技術を持った人々を、日本が中国から獲得したばかりの植民地、満州国に定住させ、一日も早くソ連という北方の脅威との緩衝地帯にしなければならなかった。ユダヤ人を利用する代償として、日本はユダヤ人たちに夢を約束した。ヨーロッパの荒れ狂う迫害の嵐からユダヤ人を救い、安住の地を与えようというのである。
ユダヤ人迫害は、キリスト教と密接な関係があるが、神道を国家信教とする日本には、ユダヤ人を排斥しなければならない理由はなかった。つまり、もし『フグ計画』が成功していれば、完全な両方得が成功するはずであった。」 この「フグ計画」の推進には、海軍の犬塚惟重大佐の「犬塚機関」の活動があった。 「犬塚機関」は、著名ユダヤ人と広い交際を持っていた田村光三(マサチューセッツ工科大出身の東洋製缶ニューヨーク出張所勤務)の協力を得た。
(左)犬塚惟重・海軍大佐 (右)田村光三
上海市街の租界 (第二次大戦期まで)
上海の共同租界、虹口(ホンキュー)地区の風景 (1937年)日本海軍が警備していた虹口(ホンキュー)地区(通称「日本租界」)は、「バンド」と言われるビルの立ち並ぶ上海の中心地区からガーデン・ブリッジを渡って北東へ行った場所にあった。日本の本願寺や商社・旅館、商店などが軒を並べた租界の中でもどちらかというと、庶民的雰囲気の漂う下町だった。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。
「犬塚機関」は、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人たちを必死になって助けようと動いた。そして、助けることによって日本の安泰を図ろうとしたのであった。1939年春のできごとであった。 しかし、1940年9月27日、「日独伊三国軍事同盟」が締結されるに及んで、アメリカのユダヤ人組織から「犬塚機関」と田村光三に対して、次のような通告が送られてきたのである。
「日本当局が、上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種的偏見を持たず、公平に扱かって下さっている事実はわれわれもよく知り、今回のクレジットでその恩に報い、われわれの同胞も苦難から救われると期待していましたが、われわれには、今回のアメリカ政府首脳および一般のアメリカ人の反日感情に逆行する工作をする力はない。非常に残念だが、われわれの敵ナチスと同盟した日本を頼りにするわけにはいかなくなってしまいました。」
(左)1940年9月、「日独伊三国軍事同盟」がベルリンで結ばれた。日本代表は松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、チアノ伊外相がこれに署名した。 (右)三国軍事同盟祝賀会の様子。 この通告を受けとった東條英機(陸相)は、安江仙弘(大連特務機関長)を解任し、予備役に編入。そして、この年(1940年12月末)に予定されていた「第4回極東ユダヤ人大会」に対して中止命令を出したのであった。
安江仙弘(やすえ のりひろ)陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。安江大佐が、大連特務機関長の職を解かれ、予備役に編入されると、大連ユダヤ人社会は更迭された安江大佐のために1940年12月14日、大連のユダヤ人クラブで「送別会」を催して彼を慰労した。安江大佐は、予備役編入後も、ひきつづき大連にとどまってユダヤ人のために尽くした。
こうして、安江仙弘大佐と在東京ユダヤ人キンダーマンによって、水面下で進められていたアメリカ政府との直接交渉は、実現を目前にして潰えてしまったのである。そして日本は、翌年12月8日に真珠湾を攻撃して日米戦争へ突入していったのである……。(※ 大連市の自宅で、日米開戦のニュースをラジオで聞いた安江大佐は、一言「しまった!」と叫んだという)。
20世紀前半の「日独関係」について、簡単に補足説明をしておきたい。第一次世界大戦のときは日本とドイツは「敵国」だった。日中戦争以前の数年間は、日独関係はそれほど良好ではなかったし、ドイツの元将軍たちは反日的で、彼らは上海付近の中国人の防衛陣地の建設に協力していた。この縦横に張りめぐらしたクリーク(溝)を利用した「ドイツ流陣地」の突破に日本陸軍は苦戦を強いられた。しかし、1936年に「日独防共協定」が結ばれ、1940年に「日独伊三国軍事同盟」が成立すると、日本とドイツの友好関係は緊密になったのである。
(左)アドルフ・ヒトラー (右)日本とドイツの青年団 〈神戸にて〉
ところで、ナチスと同盟を結んだ日本政府は、ヒトラーの反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか?この件に関しては、前出のハインツ・E・マウルが、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、次のように詳しく語っている。参考までに紹介しておきたい。
(左)ハインツ・E・マウル。元ドイツ連邦軍空軍将校。 (右)彼の著書『日本はなぜユダヤ人を迫害
しなかったのか』(芙蓉書房出版)
「戦争中の日本では、反ユダヤ・キャンペーンが強化されたとはいっても、政府のユダヤ政策そのものは基本的に変わらなかった。 松岡外相は1940年12月31日に個人的に招いたユダヤ富豪のレフ・ジュグマンに日本のユダヤ政策を説明している。『ヒトラーとの同盟は自分が結んだものだが、彼の反ユダヤ政策を日本で実行する約束はしていない』というのである。それは松岡個人の意見ではなく、日本政府の態度である。かつ、それを世界に対して語らない理由はない。松岡は満鉄総裁時代に当時の『ユダヤ問題顧問』のアブラハム小辻(小辻節三博士)に、自分は防共協定は支持するが反ユダヤ主義には賛成しないと言っている。」
松岡洋右 1935年に満鉄総裁。1940年第2次近衛内閣外相で「日独伊三国軍事同盟」を締結し、
1941年には「日ソ中立条約」を締結。「私はドイツと同盟は結んだが、ユダヤ人を殺す約束まではしていない」としてユダヤ難民を保護した。
「1938年12月6日の五相会議の対ユダヤ人政策の決定は、政治指導部間の妥協の産物ではあったが、下された時期が良かった。これでユダヤ人の絶滅というナチスの目標に歯止めをかけたからである。日本のユダヤ人政策は明確な構想を欠いた複雑なものではあったが、人道・道義という面では汚染されておらず、おかげで日本は『ユダヤ人殺し』の汚名を負わずにすんだ。日本は投資が欲しくてユダヤ人を救ったわけではない。人種平等の原則によりユダヤ人を拒否しないという五相会議の決定は、政策の指針に政治的・倫理的マニフェストの性格を与えた。この決定は、不寛容、敵視、暴力とは無縁であり、人間を無差別に殺戮することを認めるものではなかったのだから。
1938年12月6日に、近衛首相・有田八郎外相・板垣征四郎陸相・米内光政海相・池田成彬蔵相兼商工相による「五相会議」が開催され、ユダヤ人保護の『ユダヤ人対策要綱』が決定された。 「1939年の上海の入国制限は、軍の権威と自信を示そうとするものだった。政府のほうは自信がなく、時には無関心で、訓令も曖昧だったため、現地の担当者には行動の自由があった。満州やシナでは、はじめのころ、優越感や自信の欠如あるいは単なる手違いから、ユダヤ人を蔑視した取りあつかいも見られたが、後にはユダヤ人を援助し、支援し、さらには救済する方向に転じて、かつての過ちを補うことになった。」
「欧州で戦争がはじまると、難民の流れは極東にむかう。難民の運命は日本の軍人、市民、税関や警察そして外交官の手中にあった。 上海の柴田領事は生命の危険をおかしてゲシュタポの計画をユダヤ人に漏らした。関東軍の東條英機参謀長は満州のユダヤ人を穏健に処遇するよう指令を発したし、アブラハム小辻(小辻節三博士)は外務大臣とのコネを利用して神戸のユダヤ人の状況改善をはかった。ぎりぎりの状況のなかでユダヤ人を救おうとした外交官もたくさんいた。日本船の船長は収容能力をこえてユダヤ難民を乗せたし、東京のドイツ大使館が日本在住のユダヤ人の解職を要求した際に、課長・局長クラスの役人はこれをはねつけた。」
※ 以上、『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)より
第9章:支那事変(日中戦争)と上海の「サッスーン財閥」
1937年から始まった支那事変(日中戦争)は約8年にもおよんだ。当時貧しかった中国にあって、中国国民党・蒋介石軍は強大な軍事力を投入する日本軍とよく戦った。それは、蒋介石軍の兵器、装備、兵たん部が充実していたからであり、それら大部分の戦費が、ほぼすべてユダヤ財閥「サッスーン」から出されていたからである。(蒋介石夫人の宋美齢の一族・宋家(浙江財閥)もユダヤ資本と友好関係にあった)。
(左)蒋介石 (右)中国国民党旗「青天白日旗」 日本軍が上海のサッスーン一族の「キャセイ・マンション」や外国人クラブを接収すると、彼らは日本に対して猛然と対抗意識を燃やし始めた。「サッスーン家」は第1章で紹介したように、アヘン密売で莫大な富を築いた一族で、並みいるユダヤ財閥の中でも、ケタはずれの財産を保有する、屈指の財閥であった。
(サッスーン家は、英ロスチャイルド家の東アジア代理人であった)。彼らは当時、上海を東洋進出への最大の本拠地と考えていた。だからこそ、莫大な資金をつぎこんで蒋介石軍を支え、日本を中国大陸から追い出そうとしたのである。「上海キング」と呼ばれていたビクター・サッスーンは、日本の「フグ計画」に協力するのを断固拒否し続けた。(※ ビクター・サッスーンはイギリス育ちで親英主義者であり、反日的であった)。「アヘン戦争」と上海のユダヤ人社会についての詳細は、別ファイル「アヘン戦争の舞台裏」をご覧下さい。
ビクター・サッスーン(ユダヤ人)(1881~1961年)「上海キング」と呼ばれていた彼は極東で一、二を競うユダヤ人大富豪であり、上海のユダヤ人社会のリーダーだった。※ 「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、アヘン密売で莫大な富を築き、「アヘン王」と呼ばれた。
(左)中国の地図 (右)「サッスーン財閥」の拠点だった上海(Shanghai)上海は元は寂しい漁村だったが、「アヘン戦争」の結果としてイギリスの対外通商港となり、一挙に中国最大の都市に成長した。
繁栄をきわめ、「魔都」とか「東洋のニューヨーク」と呼ばれた。※ 右上の写真は1930年頃の上海であるが、あたかも当時のアメリカのニューヨーク、イギリスのロンドンかと錯覚を覚える。これらのビル群は「サッスーン財閥」に代表されるユダヤ資本によって建てられたものである。支那事変の全期間を通じて、日本は「サッスーン」をはじめとした欧米のユダヤ財閥を向こうに回して戦争をしていた、といっても言い過ぎではなかった。
歴史研究家ハインツ・E・マウルは、サッスーンについて次のように述べている。「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の計画(フグ計画)には関心がなく、それどころか1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。日本の中国大陸での冒険を終わらせるために、米英仏は日本を事実上ボイコットせよというのである。日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた。」
この建物は「サッスーン財閥」の居城だった「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」である。頭頂部のピラミッドを思わせる塔が特徴であり、当時は「東洋一のビル」と称えられた。10階から上のペントハウスはサッスーンの住居である。1929年に建設された。
上の家系図は広瀬隆氏が作成したものである(『赤い楯』より)。「サッスーン財閥」は、アヘン王デビッドド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン、次いでエドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。(「サッスーン家」は「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んでいる) サッスーン一族の繁栄の最盛期を具現化したビクター・サッスーンは、不動産投資に精を出し、破綻会社の不動産を買い叩き、借金の担保の不動産を差し押さえた。
そして彼は、「グローヴナー・ハウス(現・錦江飯店中楼)」、 「メトロポール・ホテル(現・新城飯店)」、「キャセイ・マンション(現・錦江飯店北楼)」などを次々と建築した。中でも彼の自慢は、上の「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」で、サッスーン家の本拠とすべく建設したものであった。その後、貿易、運輸、各種軽工業などにも事業展開していったビクター・サッスーンの最盛期の資産は、上海全体の20分の1もあったと言われている。彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。
(左)上海のユダヤ教徒 (右)上海のユダヤ人学校の生徒たち 明治大学教授の阪東宏氏によれば、1939年2月にアメリカを訪問したビクター・サッスーンは、ニューヨークで記者会見を行ない、次のような趣旨の発言(反日発言)をしたという。 「日本軍による対中国作戦と中国側の焦土作戦の結果、中国大陸では来年大飢饉を免れないであろう。
『日支事変』後の日本の中国経済開発事業は、アメリカ、イギリス、フランスの財政支援なしには不可能であろう。日本の戦略物資の70%を供給しているアメリカ、イギリス、フランスが対日輸出禁止を実施すれば、日本は中国大陸から退却せざるをえない。また、日華戦争の経費負担の増加のため、日本は中国よりも赤化する可能性がある。
なお、アメリカ、イギリス、フランスの対中国投資は、今後も安全が保証されるであろう。」この反日発言に神経をとがらせた日本の外務省は、在ニューヨーク、上海の総領事館あてにサッスーンの言動を更に調査、報告するよう指示したが、意味のある調査結果は得られなかったという。 海軍の犬塚惟重(いぬづかこれしげ)大佐の「犬塚機関」は、サッスーン家が反日的姿勢を改め、日本に協力してくれることが何よりも重要だと考え、1939年夏、ビクター・サッスーンを上海の虹口地区(通称「日本租界」)に招いて会食を開いたりした。しかし努力むなしく空振りに終わった……。
犬塚惟重(いぬづか これしげ)・海軍大佐海軍の「ユダヤ問題専門家」で、上海を拠点にユダヤ問題の処理に当たった。戦後は「日ユ懇談会」の会長を務めた。
1939年夏、「犬塚機関」の招待に応じて会食に出席したビクター・サッスーン(右から2人目)。右端は犬塚惟重大佐。 ところで、在米の「チャイナ・ロビー」、すなわち、戦前から戦中、戦後にかけて、ワシントンに「親中国」、つまり蒋介石を支援して「反日」という基軸で戦った一群の人たちがいたが、その中心人物は、ヘンリー・ルースというユダヤ人であった。
ヘンリー・ルース 中国で生まれ育ったユダヤ人で、ラジオ・映画ニュースにも大きな影響力を持っていた彼は、1930年代から、親中反日の一大キャンペーンを張り、アメリカのアジア外交、特に対中国外交に大きな影響を及ぼした。
彼は雑誌『タイム』 『ライフ』 『フォーチュン』 『スポーツイラストレイティッド』をつくり、ことごとくアメリカの雑誌文化の原点を築き、「一代でアメリカの雑誌ジャーナリズムを築いた男」と評されていたユダヤ人である。中国山東省で生まれ育った彼は、大戦中、「チャイナ・ロビー」のボスとして、その資金源となって懸命に中国を支援した。蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴として絶賛し、蒋介石夫人の宋美齢をアメリカに呼んで一大ヒロインに祭り上げるなどして、親中反日のキャンペーンを大々的に展開し続けたのである。
「チャイナ・ロビー」のボスであったヘンリー・ルースは、蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴として絶賛し、蒋介石夫人の宋美齢をアメリカに呼んで一大ヒロインに祭り上げるなどして、親中反日のキャンペーンを大々的に展開し続けた1936年に誕生した彼の雑誌『ライフ』は、フォト・ジャーナリズムを駆使した斬新な手法で、創刊とともに世界中のジャーナリズム界に衝撃を与えていたが、1937年に日中戦争が始まると、日本を悪玉にする有名な写真=「ガレキの中にたった一人ポツンと取り残された赤ん坊」(上海で撮影)を掲載し、この写真は何千回とコピーされ、欧米社会に「日本=悪」のイメージを定着させた。
上は雑誌『ライフ』に掲載され、世界的に大反響を巻き起こした写真=「ガレキの中にたった一人ポツンと取り残された赤ん坊」である。この写真を見た世界中の人たちは、日本の虐殺を激しく非難した。日本の運命を決定した一枚である。しかし、この写真には下のような別物があり、すぐ横に保護者となりうる大人がいて別の子供もいた。
わざわざ一人ぽっちの写真を撮って、反日感情を盛り上げたのである。また、彼の雑誌『タイム』は、蒋介石夫妻を1937年度の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選出し、徹底して親中・反日の世論を煽り、ほとんどの新聞・雑誌がそれに追随した。「この男(ヘンリー・ルース)によって、1930年代から『真珠湾』に向かうアメリカの世論は『反日・親中国』に変えられたといっても誇張ではない」といわれている。
※ ヘンリー・ルースが創業した「タイム・ライフ社」は、1989年に「ワーナー・ブラザーズ」を吸収合併し(「タイム・ワーナー」の誕生)、現在、世界最大の総合メディア企業になっている(売上高268億ドル、社員数7万人)。
戦時中、アメリカの雑誌『タイム』の表紙を飾った蒋介石夫妻『タイム』は、ユダヤ人ヘンリー・ルースが
1923年に創刊したアメリカの週刊誌であり、世界初の「ニュース雑誌」としても知られている。この雑誌は、蒋介石夫妻を1937年度の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選出し、親中・反日の世論を煽った。
ちなみに、ルーズベルト大統領も強烈な「親中反日主義者」で、中国を溺愛し、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られているが、彼の母方の実家であるデラノ家は、サッスーン家と同じく中国へのアヘン貿易で財をなしたファミリーであった。また、ニューヨークのマンハッタン島の不動産を買い占めたアスター家も同様である。
フランクリン・ルーズベルト大統領の祖父 ウォーレン・デラノ・ジュニア 全米最大のアヘン取り引き業者だった (中国へのアヘン貿易で巨利を築いた)ところで、1936年、中国で突然「貨幣改革」が断行され、蒋介石率いる南京政府発行の紙幣以外は中国の紙幣ではないと宣言されたが、この大改革も中国の「サッスーン家」などのユダヤ財閥によってもたらされたものであった。彼らは、この紙幣によって中国の統一をはかろうとしたのである。
それはまた、この紙幣を使えない日本軍占領地のあることを、世界に訴えるということでもあった。(この一連の交渉にあたったのが、ポーランド系ユダヤ人で、イギリス政府の最高財政顧問として有名であったリース・ロス博士である)。
※ この「貨幣改革」によって、中国の銀は奔流のような勢いで海外に流出した。もっとも、中国政府は輸出銀に対して関税を課して、一挙に二重の利を得た。そして、中国での1円の銀は海外銀行に預けられ、ユダヤ系銀行はこれをロンドン、ニューヨークの市場に1円80銭で売り飛ばして莫大な利益をあげ、それを蒋介石一派と山分けにしたのである。
イギリス政府は、中国に対して銀を預かる代わりに新紙幣に保証を与えたが、もし中国側がイギリスの意に反すれば、紙幣は紙切れになるしかなかった。「サッスーン財閥」は、この中国銀準備を担保にして、日本との戦争のための大量の武器を蒋介石政府に買わせた。(サッスーン財閥系列の「香港上海銀行(HSBC)」は、この銀回収を利用して、3億元の巨利を占めたといわれている)。
1865年に、ロスチャイルド一族のメンバーであるイギリス系ユダヤ人のアーサー・サッスーン卿によって香港で創設され、1ヶ月後に上海で営業を開始した「香港上海銀行(HSBC)」。この銀行の設立当初の最大の業務は、アヘン貿易で儲けた資金を、安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。この銀行は、第二次世界大戦前、上海のバンド地区 を中国大陸の本拠としていたが、1949年の中国共産党政権成立後の1955年に、本社ビルを共産党政権に引き渡した。
その後、中国各地の支店は次々に閉鎖された。しかし現在、この「香港上海銀行」は、英国ロンドンに本拠を置く世界最大級の銀行金融グループに成長している。ヨーロッパとアジア太平洋地域、アメリカを中心に世界76ヶ国に9500を超える支店網をもち、28万人の従業員が働き、ロンドン、香港、ニューヨーク、パリ、バミューダの証券取引所に上場している。時価総額規模では、アメリカの「シティグループ」、「バンク・オブ・アメリカ」に次ぎ世界第3位(ヨーロッパでは第1位)である。
現在、香港の「中国銀行」及び「スタンダード・チャータード銀行」とともに香港ドルを発券している。「サッスーン財閥」は貨幣改革を第一弾として、さらに第二弾を計画した。それは上海を起点として、杭州、南昌、長沙、雲南を経てビルマ(パーモ)に達する約3000キロの「鉄道敷設計画」である。これを欧米のユダヤ資本が分担し、「サッスーン財閥」が現地で維持する、という大構想であった。このときの膨大な費用も、ユダヤ系銀行団を通してイギリス政府から供給されたものだった。
華中~華南横断鉄道路線図 この鉄道計画が完成すれば、それは日本締め出しの策ともなる。華南、華中をかためた上で、華北から日本を駆逐するという手順となる。この鉄道が完成すれば、北部ビルマのパーモで、既成のビルマ鉄道に連結し、これによって東シナ海とインド洋を回るしかなかったものが、陸路、最短距離で接続する。そしてもちろん、当時ビルマは大英帝国の領土であり、上海は「サッスーン財閥」の牙城である。
そして、この鉄道開通に続く開発が進めば、中国経済の中心は、一部、南昌(江南省)に移るものと観測された。この件に関して、極東とユダヤ人の歴史に詳しい研究家(古神道の関係者)は、次のように語っている。
(以下、彼の話を簡単にまとめておきたいが、内容が複雑なので興味のない方は読み飛ばして下さい)。
当時、日本の軍部は現地からの情報を分析してユダヤ人の流れに二派(有産階級と無産階級)があることに気付き、ユダヤ問題を担当することになった〈安江・犬塚〉両機関長は、ナチスのユダヤ政策とは違う解決方法を模索することになった。彼らは「様々な情報を収集しながら、ユダヤ人指導部とも会い、ヨーロッパから逃げてくるユダヤ難民の保護に当たり、極東ユダヤのイギリス依存を、日本依存に転向させるなどの工作に従事する」ことを決定した。日本海軍の犬塚大佐(犬塚機関)は、上海在住の英国籍ユダヤ指導者階級の難民救済委員会ならびに無国籍ロシア系アシュケナジー協会(3000人)と連絡をとり、上海におけるユダヤ難民を保護し、極東ユダヤ指導者を通じて“日米関係を打開する工作”に乗り出した。
この動きに連動して、東京のユダヤ問題委員会(外・陸・海の三省)は「上海に〈ユダヤ地区〉を設置することは、現地機関において案を作成すべし」となり、その後、内務省出身の村井順(事務官)の支援が出る。それは彼の持論「上海自由港論」で、上海市街から約五十哩半径の独立自由港区域を設置することであって、これによってユダヤ難民は大量に受け入れられることになるはずであった。これを知った、フランス系ユダヤ商人からは〈仏印ルート〉で「ニッケル、アルミニウム」などの軍需物資の提供申込みがあった。そこへアメリカの強硬排日の宣言が行なわれ、ルーズベルト政権は強引に第二次世界大戦に参加しようとしてきたのである。
つまり「上海自由港」が作られるなら、アメリカの支那大陸での市場喪失もさることながら、「日本がシンガポール、ジャワ、スマトラ、ボルネオの錫・ゴム・石油を占有する」であろうとの解釈から、アメリカはこれを失いたくなかったからで、ルーズベルト大統領はアメリカ系ユダヤ人の利権(約600万人の利権)保護のため「上海自由港論」を潰す工作に出たのである。さらに困ったことに、日本のユダヤ難民処遇問題に対するドイツ政府(ナチス)の邪魔もひどく、日本陸軍内部の「親独派中堅将校」(四天王中将を中心にする)の反撃に遭い「ユダヤ工作と対米工作」の両面作戦は絶望的となり、アメリカ系ユダヤ本部は「日独伊三国同盟」を知って、日本海軍のユダヤ難民の受け入れ案に不賛成の意を表明してきたのである。
これがために上海ユダヤと米国ユダヤが対立することになり、頼れるのは日本だけとなったユダヤ難民は、「犬塚機関」を心から頼みにするのだが、日独伊軍事協定が結ばれるや、英米系租界(共同租界)でユダヤ難民を受け入れようとする工作が起きる。まさにユダヤ難民の奪い合いとなり、サッスーン財閥の“軍民離間工作”は功を奏した。
つまりサッスーンはユダヤ人ではあっても、心は「英国人」であったから、英米共同の日本攻撃を支援したのである。1941年12月8日、日本の軍部がサッスーン財閥を接収したとき、そこで押収した資料に「英国大使館宛機密情報綴」があった。それはサッスーンの個人的軍事情報だった。つまり彼がイギリス王室直属のスパイ(キング・サービス)であったことを物語る。
(日本との戦争で、自分の身の危険を感じたビクター・サッスーンは、財団の機構だけを残してアメリカに逃げ、その後バミューダ島で余生を送った)。更に日本軍が1942年2月6日に上海で入手した「重要極秘文書」によって、上海で活動していたアングロサクソン(英米)系政治結社は、アメリカの植民地政策を支援しており、宋子文、宋美齢、王正廷、顔慶恵らの中国国民党政府要人を利用して大仕事を繰り広げていたことも判明した。
「上海シオニスト協会」(1903年に設立)の機関紙『イスラエルズ・メッセンジャー』の主筆だったユダヤ人N・B・エズラは、もともとは親日家で雑誌に講演に〈親日満〉の態度を示していたが、陰では神戸在住のユダヤ商人アンタッキーに、日本当局の動静を探らせ、情報の提供を依頼していた。彼の財閥「エズラ財閥」は、本業の土木建築業で満州開発に乗り込む予定であったが、
エズラ本人は志半ばで倒れた。エズラの死亡後、「英国シオニスト協会」から上海に派遣されたユダヤ人メンデル・ブラウン博士が、『イスラエルズ・メッセンジャー』の主筆に就任した。この機関紙の論調は「日独伊三国同盟」成立以降、「親日」から「反日」に転じた。極東ユダヤの「満州開発計画」は中止になったが、中国大陸(中南部地域)の開発計画は存続した。この極東ユダヤの中国大陸開発計画とは「中南支横断鉄道」の建設と沿線の開発であった。
この大計画の基礎調査は、国際連盟から派遣された「対中華技術合作調査委員会」の手に依ったもので、派遣されたポーランド系ユダヤ人リース・ロス博士の助手ハッス博士(ユダヤ人)は、「四川省の鉱山資源」「鉄道」「水利事業」「国幣改革と準備銀行」「米国銀行政策の支那に及ぼせる影響、ならびにロンドン市場への波及」などの調査資料を提供した。
その上、ロンドンでのユダヤ会議の数ヶ月前にヒューゲッセン英国大使は、ビクター・サッスーンの秘書長D・S・イジケルを同道して、四川省をはじめ中国奥地を実地調査せしめた、その報告書に基づき「ロンドン・ユダヤ会議」を開き、12ヶ年計画で「中南支横断鉄道」を建設し、沿線の資源開発をするはずであった。 上海~杭州間は英国系ユダヤ資本で投資する
◎玉山~南昌間は中国建設銀行公司を通じたサッスーン財団で投資する
◎南昌~長沙間は英国の団匪償還基金理事会が中国側の手を経て投資される
◎長沙~洛陽間はドイツ系ユダヤ財閥オット・ウォルフ会社が投資する
◎洛陽~雲南・ビルマまでの間はサッスーン財閥が投資する
◎その支線である重慶、成都、南京、桂林、仏領インド支那鉄道(ベトナム)に通ずる線は、ロスチャイルド財閥のフランス分家が投資するなお、この沿線にはアメリカ系ユダヤ資本が鉱山、水力電気、バス路線を開発投資するはずであった。
だから、その頃に大慶油田と大陸棚油田の実測調査も、アメリカの専門技師が調査に入っていたのだが、「採油着手には時期尚早」という戦略で、その報告は秘められていたのである。英国は、これらの資源権益を担保として、2000万ポンドの対支経済開発のクレジットを設定し、蒋介石政権による“経済的全国制覇”を全面的にバックアップしたのである。
とはいえ、それはサッスーン財閥の代弁であって、それに対する見返りは治外法権の温存、中国農工銀行の紙幣に「中央、中国、交通」の三銀行の“法定通貨”と同等の資格を与えることを蒋介石政権に承認させたのであった。これによって蒋介石政権は、中南支の全円を制覇し「ABCD(米・英・支・蘭)包囲陣」は完成し、国際的な反日戦線が生まれたのである。
またこれによってサッスーン財閥は、その所有銀貨1600万元を「ナショナル・シティバンク」(ロックフェラー財団)に送金し、手持ちの銀貨を処分して、国民政府買い上げの6割回収率で640万ドルの利益をあげ、さらにこの金を上海に取り寄せて法幣発行債権を持つ中国農工銀行に投資し、蒋介石との合弁事業を創立したのである。
アメリカのマネートラストは蒋介石政権に公債発行を保証し、その抵当として銀1200万元を、上海の「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク」(花旗銀行)に保管させ、その銀貨で蒋介石政権の有価証券を買収し、これをロンドンに売り出して巨利を占めた。また、蒋介石政権のパトロンである「浙江財閥」(蒋介石夫人の宋美齢の一族・宋家)などの官僚資本も1500万ドルの紙幣増発権を入手し、それが法定紙幣に交換されることによって“現金”に化し、これによって蒋介石は軍需物資を購入したのである。
これに反して、大損をしたのは日本の諸銀行であった。銀を保有していた日本の銀行は、今までの一切の貨幣と共に6割率で交換され、1500万ドルの保有銀を死蔵したばかりか、莫大な損失をこうむったのである。
第10章:蒋介石(中国国民党)と毛沢東(中国共産党)
「サッスーン財閥」が支配していた「香港上海銀行」の本拠地が日本軍によって踏みにじられると、日本を倒す新たな反撃のため、欧米のユダヤ資本と華僑の地下連合組織が強力な網の目を張りめぐらしていった。こうしたゲリラによるレジスタンスの構造が、今日の華僑財閥の母体になったのである。
しかし、その後、欧米のユダヤ資本による中国大陸の利権支配はうまくいかなかった。中国国民党の失政によって、蒋介石は大陸を失い、台湾に逃げ込む始末となり、ユダヤ資本は断腸の思いで上海を明け渡さなければならなかった。「サッスーン財閥」の在中国資産は、あらかた中共(中国共産党)政権によって没収されてしまったのである。
●ところで第二次世界大戦後に「朝鮮戦争」に参加したマッカーサーは、この極東ユーラシア大陸での戦略面での困難さを体験したとき、日本のかつての“アジア侵略”を顧みて、「日本のアジア侵略は“自衛”のための戦争であった」という見解を示している。
※↑1951年5月3日の米国上院の外交委員会で証言。
、毛沢東は数人のユダヤ人顧問団を持っていた。その中の一人は、1946年から1976年まで毛沢東の側近として密着していたシドニー・リッテンバーグ。
日露戦争後の「ポーツマス講和会議」 (1905年)
従来から満州に対して強い関心を持っていた米国の鉄道王ハリマンが、日露戦争直後、早速日本に南満州鉄道を合弁事業とするよう申し入れている。このハリマンは、またさらに日本政府が日露戦争での軍費のために行なった外国借款(しゃっかん)の返済に苦慮するであろうことを見越して、その買収を申し込んだりした。
もちろん、満州を再び列強角逐(かくちく)の地にしたのでは、多大の犠牲を払って日露戦争を戦ったことが無意味となるため、日本政府は最終的にこれを拒否し、米国の介入意図は失敗に終わったのである。」 「明治42(1909)年には、ノックス国務長官が、満州における日露協調体制を壊すために、満州諸鉄道の中立化を提案している。
この提案の狙いは、日露両国によって独占されていた満州における鉄道権益を喪失させ、米国も含めた国際管理に移行させようとしたものである。またそれが無理な場合には、清朝発祥の地である満州で日本が勢力を伸ばすことを好まない清国をたきつけて日本側に対抗しての米資本による満鉄併行線の建設を計画した。しかしながらいずれも、米国の主張より日本の立場を認めた列国の反対で失敗に終わったのである。その最初の結実が、1921年(大正11年)の『ワシントン会議』の招集であった。
この『ワシントン会議』の狙いは、明らかに日露戦争及び第一次世界大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携のもとに否定してしまうことにあったと言ってよい。会議における決定事項に次のようなものがあったからである。
【1】日英同盟の廃棄
【2】日本海軍の軍備制限
【3】日本の満州における権益の存在を認めた石井=ランシング協定の破棄
これらは米国と中国政府とがいわば反日同盟を結び、それが外交的勝利をおさめたということを意味する。米国の狙いは、『日本の中国における影響力の全てを、一度に排除することは不可能なことであり、一枝ずつ徐々に折り捨てていかなければならない』(後の米国務省顧問・ホーンベック)にあった。『ワシントン会議』は日米の『政治的決闘』の場であり、その勝利者となったのは米国であった。」
「ワシントン会議」 (1921年)第一次世界大戦後の1921年、アメリカのハーディング大統領の提唱で
ワシントンで開かれた国際会議。この会議によって「日英同盟」が破棄され、東アジア太平洋地域での新たな国際秩序となる「ワシントン体制」が発足した。この会議により形成された体制は、ヨーロッパの「ヴェルサイユ体制」と並んで、第一次世界大戦後の国際秩序を確立することになった。
この会議を主催し指導したアメリカは外交的勝利を収め、国際的指導者の地位についた。国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議であった。「米国は、『ワシントン会議』において日英同盟を英国に圧力をかけて解体させ、次いで日本と条約を結んでいた中国の北京政府ではなく国民党政府を支援して、日支条約の否認、日本の満州権益の即時回収を叫ばせた。一方、ロシア革命によって成立したソ連に対しても、米国はイデオロギー的には不仲であったにもかかわらず、米ソ協調路線をとり、日本の満州権益をめぐる反日包囲網を組み入れていったのである。
後に行なわれたABCD包囲網による経済圧迫こそが、わが国の大東亜戦争開戦決意の導火線とされているが、実は、以前から米国を中心として中国より日本を追放するための反日包囲網が順次形成されていたのである。昭和16(1941)年になると、大統領秘密命令で中国側に米空軍軍人を義勇軍(フライング・タイガース)という名目の下に大量の飛行機と共に投入した。この事実は、日本の真珠湾攻撃以前に、米軍が中国への武器援助を通して、支那事変に介入するのみならず、実質的に参戦していたことを如実に示しているのである。 〈中略〉 」
アメリカ義勇航空隊「フライング・タイガース」(ウォルト・ディズニーがデザインした)
表向きは「義勇軍」だが、実質はアメリカのエリートパイロットがほとんどで、アメリカ政府肝いりのれっきとした陸軍の正規部隊であり、そのことは今日、アメリカ政府が認めている。「フライング・タイガース」は大戦を通じて、日本軍の航空機を296機撃墜し、1000人以上のパイロットを戦死させたとされる。(中国・蒋介石政権がアメリカに借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた)。
この「フライング・タイガース」の歴史は、日本の真珠湾攻撃以前に、中国・蒋介石政権の工作によって、アメリカが対日戦争に踏み切っていたことを白日の下にさらす。「ここまで改めてまとめ直して見ると、米国が中国全土を含むアジアの制覇を目指し、その第1段階として日本の満州権益への介入を繰り返し試みた。
その手段として重要視されたのが、満州諸鉄道中立化計画に代表される直接介入ではなく、第1に中国の反日ナショナリズムを育成し、これを代理者として日本とぶつからせる、第2に明治以来の日英同盟の廃棄を始めとする日本の国際的地位を保障していた様々な基盤を堀り崩す外交戦略の展開という間接介入の方法であった。米国がこの基本戦略をトータルな形で展開し始めたのは、実に第一次世界大戦からであった。
そういう意味では、昭和史を理解するには、大正年間の『ワシントン会議』前夜からの日米関係から始めなければならない。まさに昭和天皇の御指摘になられたように、大東亜戦争の遠因は、この時代における米国の露骨な対日圧迫政策とこれに対する日本側の不信にある。昭和史とは、この確立された米国の極東政策を中心に対立を深めた日米関係が破局に向かって驀進(ばくしん)していった歴史であったと言うことができよう。
すなわち、満州を国防上の生命線と考えた日本は、それを守るためには武力発動をも辞さない覚悟を世界に示した。ところが、米国は、日本を共産主義ソ連の南下からアジアを守る安定勢力としてではなく、アジアの侵略者と見る立場から中国側(蒋介石)への軍事援助と対日経済制裁という手段によって日本を屈服させようとしたのである。
中国戦線のアメリカ軍総司令官は語る 「米国は敵を間違えた」
アメリカの孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米・開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、次のような日本を擁護する言葉を残している。「アメリカ国民の85%は、第二次世界大戦はもとより、いかなる外国における戦争に対しても米軍を派遣することに反対していたという現実にも関わらず、ルーズベルトは、欧州戦争の開始当初から、米国は同戦争に参戦すべきであると確信していた。この大戦は、結果として、30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして5000億ドルの出費を米国にもたらしたのである。〈中略〉
日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行および海軍のための石油なしに存立できなかった。非常な平和愛好家である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したい、と繰り返し要望していた。彼は、戦争を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦および対独戦を行なうことを決意していたというだけの理由で、日本首相との話し合いを拒否した。
駐日米国大使であったジョセフ・グルーは、日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたかを承知しており、かかる首脳会談の開催を強く要請した。しかしルーズベルトおよびその側近の介入主義者たちは、策謀とごまかしとトリックを用いて、全く不必要な戦争へ我々を巻き込んだのである。」
(左)ハミルトン・フィッシュ(ハーバード時代)
(右)彼の著書『日米・開戦の悲劇』(PHP文庫)… ハミルトン・フィッシュの略歴 …ハーバード大学を卒業し、第一次世界大戦に従軍の後、1919年、米国下院議員に選出され、1945年まで12回にわたり選出される(共和党員)。アメリカの孤立主義の指導的代表者であり、ルーズベルト大統領の外交政策を鋭く批判した。1991年没。
※ ハミルトン・フィッシュ自身は「孤立主義者」という言葉は、ルーズベルトがプロパガンダのために捏造した、不正確な表現で、本当は、自分は「不干渉主義者」だと言っている。ところで、第二次世界大戦の「中国戦線」のアメリカ軍総司令官で、蒋介石の軍事顧問を兼任したアルバート・ウェデマイヤー大将は、戦後に出した『回想録』の中で「米国は敵を間違えた」と述べている。
(左)アルバート・ウェデマイヤー大将 (右)彼の回想録『第二次大戦に勝者なし』(講談社) このアメリカのウェデマイヤー大将は、連合軍東南アジア副司令官、中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長を歴任して1951年退役。1989年没。 「ルーズベルトは中立の公約に背き、日独伊同盟を逆手に取り、大日本帝国に無理難題を強要して追い詰め、真珠湾の米艦隊をオトリにして米国を欧州戦争へ裏口から参加させた。 〈中略〉
米英は戦閾には勝ったが、戦争目的において勝利者ではない。英国は広大な植民地を失って二流国に転落し、米国は莫大な戦死者を出しただけである。真の勝利者はソ連であり、戦争の混乱を利用して領土を拡大し、東欧を中心に衛星共産主義国を量産した。米国は敵を間違えたのだ。ドイツを倒したことで、ナチス・ドイツ以上に凶悪かつ好戦的なソ連の力を増大させ、その力は米国を苦しめている。また日本を倒したことで、中国全土を共産党の手に渡してしまった。やがて巨大な人口を抱える共産主義国家がアジアでも米国の新たな敵として立ちふさがるであろう。」
アメリカも第二次世界大戦の敗戦国 (勝者は毛沢東とスターリンだけ)
●『新・文化産業論』や『失敗の教訓』など数多くのベストセラーを世に出している日下公人氏(東京財団会長)は、日中戦争の実態について、著書『人間はなぜ戦争をするのか』(三笠書房)の中で、次のように鋭く述べている。
■■追加情報 4: ホロコーストに匹敵するスターリンの「国家犯罪」
●ソ連のヨシフ・スターリン(グルジア人)は、一応、有能なユダヤ人を将兵として重用してはいたものの、他方では虐殺や粛清の手をゆるめようとはしなかった。ユダヤ人であろうと非ユダヤ人であろうと、スターリンにとって自分を否定するものは誰もが敵となった。
スターリンの粛清は1934年の党幹部の暗殺をきっかけに始まった。「狂犬は殺せ」のかけ声のもと党の幹部たちが次々に刑場へ消えていった。共に戦ってきた同志を次々に抹殺していった。スターリンは自らの偉大さをアピールし、正当化することが仕事となった。モスクワはいたるところ、スターリンの肖像画、彫像で覆われていった。自分の前に神があってはならなかった。
宗教儀式は禁止された。ヨシフ・スターリン(グルジア人) 粛清はクレムリンからロシア全土に広められ、ユダヤ人、外国人、知識人たちが次々と「敵」の烙印を押されていった。全土に200もの「強制収容所(ラーゲリ)」が作られ、無差別に大勢の人間が逮捕され、理由もなく処刑された。助かったものには強制労動の生き地獄が待っていた。全土に監視と密告制度が、網の目のように張りめぐらされていった。知らないうちに人が消えていった。家庭の中でさえ密告が横行し、人々は疑心暗鬼になった。
雪原に残る「強制収容所(ラーゲリ)」跡ロシア全土には200もの「強制収容所」が作られ、無差別に大勢の人間が逮捕され、理由もなく処刑された。スターリニズムによる死亡者数は1800万人ともいわれる。 ポーランドで生活していたユダヤ人メナヘム・ベギン(のちのイスラエル首相)は、1940年9月、リトアニアのビリニュースにいたところをソ連の秘密警察に逮捕され、ルキシキの牢獄から極北ペチョラの収容所へと辛苦の遍歴生活を送った。(1941年に独ソ開戦にともなって、その冬、ポーランド市民に特赦が発せられ、彼は釈放された)。
彼が書いた『白夜のユダヤ人──イスラエル首相ベギンの手記』(新人物往来社)という本は、彼が「ラーゲリ」で体験したことを赤裸々につづった自伝的回想録である。興味のある方は一読を。
(左)メナヘム・ベギン。第6代イスラエル首相
(右)彼の手記『白夜のユダヤ人』(新人物往来社)
第二次世界大戦中、ソ連在住のユダヤ人のうちほとんどはシベリアに連行された。15%以下がドイツ軍の手に落ちた。赤軍中で、あるいは「強制収容所」で少なくとも100万ものユダヤ人が死亡した。最近の研究によって、スターリンもまたヒトラーと同じように、ユダヤ人問題の「最終的解決」を図ろうとしていたことが明るみに出ている。
つまり、スターリンはユダヤ人たちの集団流刑の計画を立てていたのである。トルストイの子孫である作家ニコライ・トルストイは、その著『スターリン』の中で次のように述べている。「1953年には、各大学からユダヤ人の徹底的な追放が行なわれた。そしてとどのつまり、スターリンはユダヤ人問題の最終的解決を準備していたのであった。ロシアのユダヤ人は、すべて北カザフスタンの荒野に放逐されるはずであった。スターリンの死によって、初めてこのヒトラーばりの課題の完遂は妨げられたのである。」
(転貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
「135」 渡邊善美(わたなべよしみ)の造反、離党劇の頃(2008年末から翌1月ごろ)の記事のまとめ。2010.9.11
副島隆彦です。今日は、2010年9月11日です。 続けて載せます。
自民党を割って出ようとして、「新党ひとり」と揶揄(やゆ)された渡邊善美(わたなげよしみ)氏の、今の みんなの党(英文名 Your Party)での活躍を考えると、たった、2年弱なのに隔世の感がある。 自民党という政党は瓦解を始めていたことが分かる。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
● (副島隆彦注記。この頃から、渡辺善美の造反劇は、始まっていた。副島隆彦注記終わり)
「「離党してから言え」 綿貫氏、渡辺元行革相を一喝 」
下野新聞 2008年12月3日
「今にも離党するような過激なことを言っているが、離党してから言え」。 国民新党の綿貫民輔代表は3日の記者会見で、麻生政権批判のボルテージを上げている渡辺喜美元行政改革担当相を一喝、自民党離党の「先輩」として心得 を説いた。
同席した亀井静香代表代行は「面白いことを言えばテレビや新聞が取り上げ、選挙にプラスだと思っている」と批判。綿貫氏は「離党がどんなことか、われわれが一番知っている。口だけなら誰でも言える」と迫力不足を皮肉った。 一方で亀井氏は「党の中でおかしな連中と口げんかしなくて済む」と離党・新党結成を勧め、最後には「やってくれりゃ国民新党がかわいがってやる」とすごみを利かせた。
●「<2次補正予算>与党だけでも13日に衆院通過を…古賀誠氏」
2009年1月11日毎日新聞
自民党の古賀誠選対委員長は11日、地元・福岡県柳川、筑後両市での会合であいさつした。08年度第2次補正予算案と関連法案について「野党のどんな抵抗があっても、自民、公明の与党だけでも、13日にきっちり成立させることが大事ではないか」と述べ、与党単独でも、13日の衆院通過を断行すべきだとの考えを示した。
2次補正に盛り込まれた定額給付金について古賀氏は「自民党には、支持が5%、10%でも必要なことはやりぬく責任感と使命感が必要だ」と強調した。給付金を批判する自民党の渡辺喜美元行政改革担当相を念頭に「後ろから鉄砲玉を撃ち、『聞き入れなければ(離党を)考える』と言うが、考える前に出て行け」と批判した。【田所柳子】
●「自民:政界再編論者に手詰まり感 遠のく衆院選、造反なく 」
毎日新聞 2009年1月11日
麻生太郎首相に批判的な自民党の加藤紘一元幹事長、山崎拓前副総裁、中川秀直元幹事長ら「政界再編論者」に手詰まり感が漂っている。
首相は年頭に、春ごろの09年度予算成立までは衆院解散・総選挙をしないことを明言。 定額給付金が焦点になった08年度第2次補正予算案の衆院採決で自民党に造反の動きはなく、離党が確実視される渡辺喜美元行革担当相への同調者も出ない見通しで、「攻め手」を欠いているためだ。
加藤氏は10日、山形県鶴岡市での後援会会合で、定額給付金について「自民党議員は強い賛成ではなく、公明党に近々選挙でお世話になるから賛成する」と指摘しながらも、 「自分も含めて自民党からそんなに造反する人は出ないだろう」と語った。「選挙区が不安定な人の行動は限界が出てくる」と政界再編の難しさも暗に認めた。
定額給付金の撤回を主張していた山崎氏は今年になって容認に転じた。6日夜には、首相が出席して開かれた九州選出国会議員の会合で、「新年になったので心機一転、首相を先頭に頑張っていきたい」とあいさつし、2次補正への協力を約束した。
加藤、山崎両氏は党内で学者を交えて再編に向けた構想をまとめる考えだが、「反麻生」の機運が盛り上がらない中、突出しないよう水面下での活動にとどめる方向だ。
次期衆院選直後の政界再編を視野に入れていた中川秀直(なかがわひでなお)氏は、4日の新年会で、「一昨年の参院選敗北に伴う謹慎期間も、昨年の大みそかで終了させていただく」と語り、 改めて意欲を示した。だが、麻生内閣の支持率急落で民主党の結束は強まっており、自民党の「独り負け」の可能性も浮上している。 中川氏に近い議員は、「決断の時期を先送りせざるを得ないのではないか」と漏らす。
再編論者の方向性には違いもある。加藤、中川両氏は一時、協力を模索したが、山崎氏は「財政再建か経済優先かという議論で新党を作っては、あまりにもお粗末だ」と述べ、 中川氏とは一線を画している。
●「公明党の賀詞交歓会 選挙協力をアピール 福岡市 自民現職3人平身低頭 」
西日本新聞 2009年1月10日
公明党福岡総支部の新春賀詞交歓会が、9日、福岡市内のホテルであり、来賓として出席した自民党衆院議員3人が「次期衆院選での自公協力」を相次いでアピールした。衆院選比例代表をめぐり、自民党の古賀誠選対委員長(衆院福岡8区)が公明党との選挙協力見直しに言及したが、小選挙区で厳しい戦いを迫られる自民現職は「固い組織票」に簡単には背を向けられないようだ。
「自民党と公明党は異体同心的な関係。小選挙区は自民党を応援していただき、比例は公明党でいきたい」。 自民党の山崎拓前副総裁(同2区)はこう強調し、「やめた方がいい」と昨年は批判していた定額給付金も「(給付金を盛り込んだ)本年度第2次補正予算案の1日も早い成立を願う」と軌道修正した。
太田誠一元農相(同3区)は、出席予定だった衆院委員会に代理を立ててまで参加。「『公明党の会合に行かなかったら私の政治生命は終わりだ』と言って、代わってもらった。もはや自公合体してやった方がいいくらいの気持ちでいる」と公明党を持ち上げた。
原田義昭氏(同5区)も「私も太田先生と同じ気持ち。 この場にいなければ政治生命はない」と支持を呼び掛けた。 古賀発言以来、公明党や同党支持者の中には、「自民不信」がくすぶるだけに、 3人とも平身低頭で「公明頼み」の姿勢を徹底。 麻生渡知事があいさつで「まるで自民党の総決起集会のようだ」と話すと、会場からは苦笑が漏れていた。
● 「渡辺氏の主張に理解=中川秀直氏」
時事通信 2009年1月9日
自民党の中川秀直元幹事長は9日、渡辺喜美元行政改革担当相が、国家公務員OBが天下りを繰り返す「渡り」の全面禁止などを求めたことについて「民間人になった人まで政府が再就職あっせんをやるのは、誰が見ても妥当性はない。その点では渡辺氏の言うことも正しい」と一定の理解を示した。都内で記者団に語った。
渡辺氏が離党も辞さない構えであることについては、「政治家は有権者の負託に応えるため、それぞれ信念、信条を持って行動していくもので、渡辺氏はそういう信念で行動していると理解している」と述べた。(了)
● 2008年1月9日
週刊誌 週刊朝日 2009年1月23日号(来週号)
⇒本誌恒例企画:衆議院選挙300選挙区完全当落予測-最新候補予定を網羅(監修:森田実&野上忠興)
▼渡辺喜美「離党」で状況は一変!
▼町村信孝・中川昭一・武部勤の北海道トリオは崖っぷち!
▼新潟、福島は自民党全滅も
▼石原兄弟、兄・伸晃は○、弟・宏高は×
▼<静岡7区>片山さつきは城内実に完敗!
▼森喜朗も正月からどぶ板の必死
▼小沢一郎は結局、地元・岩手から出馬へ
▼「エリ」福田衣里子の「クマ」久間章生退治に超高齢化の壁
▼意外と善戦する山崎拓 ほか
⇒怒りの密着ルポ:新聞が書かない「年越し派遣村」の真実
⇒怒りと後悔の激白:<規制緩和の旗振り役>中谷巌氏が懺悔する「「改革」が日本を不幸にした
■アメリカ留学経験者「小泉純一郎」の"アメリカかぶれ"が間違いの始まり。新自由主義の正体は、欧米エリートによる大衆搾取のツールだった!
http://publications.asahi.com/syukan/nakazuri/image/20090123.jpg ●「麻生内閣 給付金で不一致!甘利行革相が「申請しない」 」
報知新聞、読売新聞 2009年1月10日
麻生太郎首相(68)が方針を二転三転させた末に受け取るかどうかの明言を避けている定額給付金を巡り、 9日、閣内でも足並みの乱れが露呈した。閣僚17人のうち11人が受け取る意向を表明したが、甘利明行政改革担当相(59)は辞退の意思を見せ、5人は態度を明らかにしなかった。思わぬ“閣内不一致”に自民党の細田博之幹事長(64)は甘利氏を批判。定額給付金を含む第2次補正予算案の採決(13日)を控え、「麻生丸」の迷走は続く。
細田幹事長は都内で開かれた公明党会合で、甘利氏を念頭に批判。「『辞退する』と格好つけるようなことを言う人もいる。閣僚ももらって地元で景気振興に使おうという公明党側の提案に一も二もなく賛成だ」と強調した。
定額給付金を含む第2次補正予算案成立に向け全力を挙げるべきタイミングでの、閣僚間の不一致。受け取る意向をすでに表明している河村建夫官房長官(66)は、受け取るかどうか「個人の判断」としたものの、迷走を続ける首相の求心力低下を裏付ける形になった。
麻生首相は昨年12月6日、長崎県での演説会で高額所得者の受給を「さもしい」とし、同15日の参院決算委でも「1億円も収入がある人はもらわないのが普通。人間の矜持(きょうじ)の問題」と答弁していた。しかし年明け早々、政府・与党内から自発的辞退を否定する声が上がり、メンツは丸つぶれ。今月6日に突然「その時になって判断する」とトーンダウンしていた。
9日の衆院予算委でも、民主党の枝野幸男氏から給付金を受け取るかを迫られ「(第2次補正)予算案も通っていない段階で 『たられば』の話に答えようがない」と苦しい答弁に終始。首相周辺は「『さもしい』とまで言ったのはやはりまずかった。あれがなければ『景気対策のために受け取る』と軌道修正できたのに」と 悔やんでいる。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20090110-OHT1T00068.htm ●「 「自民細田幹事長「100年に1度やめよう」 」
共同通信 2009年1月10日
自民党の細田博之幹事長は9日、都内の会合であいさつし、経済情勢の悪化に関し
「『100年に1度』という表現はやめようではないか」と強調した。 過度に不況を強調すれば消費者心理を冷え込ませ、景気回復を遅らせると懸念した発言。 「100年に1度の経済危機」は麻生太郎首相の決まり文句だけに、首相に苦言を呈した格好だ。
●「落選危機!森喜朗まで地元で居酒屋回り 」
日刊ゲンダイ 2009年1月8日 掲載
「あれでも政界の大物なんだから、ジタバタせずに、もっとどっしり構えてもらわないと、逆効果になる」地元選挙区の関係者がこう嘆くほど、森喜朗元首相(71=石川2区)が落選危機にうろたえている。毎週どころか、週に何度も地元入り。若者が大勢いる小松市内の居酒屋を訪れ、テーブルを回って写真撮影にも応じる。街頭には、数メートルおきにポスターを張った看板を立てる念の入れようだ。
「地元の催しにはこまめに出席し、年明けには断酒も宣言。危機感は相当なものです。14年度に予定される北陸新幹線の開業を、1年でも2年でも早めると強調するなど、自らの政治力をアピールしています」(地元関係者)
対抗馬は33歳の田中美絵子(たなかみえこ)氏。民主党の河村たかし議員の秘書を務めていた美人候補だ。「もともと知名度はゼロだったが、解散・総選挙が延び延びになっていることが幸いし、顔が売れ始めている。自民党調査でも数ポイント差まで追い込んでいます。
07年参院選岡山選挙区の“姫の虎退治”のように、大手マスコミも注目する選挙区になれば、地元は盛り上がり、元首相が嫌う無党派層も寝ていられなくなる。田中の伸びしろは大きいです」(選挙事情通) 2月に実施される2つの市長選も、森にとっては悩みの種だ。小松市長選、能美市長選ともに保守分裂の公算が大きく、シコリが残れば、足元はグラグラである。
息子で県議の祐喜(ひろみ)氏は、2人区で2位当選 (07年石川県議選) と人気がない。森ファミリーが政界から消える日は近いか――。
●(副島隆彦注記。古賀誠 選対委員長が、猪口邦子を、無理やりにでも、栃木3区の自民党公認にして、離党(除名)する渡辺善美と戦わせて、落選させる計画だ。なるほどなあ。いいごみ捨ての仕方だ。副島隆彦注記おわり)
「渡辺氏離党確実 “刺客”は猪口氏か 」
スポニチ 2009年1月7日
衆院は6日、08年度第2次補正予算案に関する代表質問が行われ、与野党論戦が本格化した。
そんな中、5日に自民党に提出した政策要求が受け入れられず、 離党することが確実となった渡辺喜美元行政改革担当相への“刺客”がクローズアップされている。 党関係者は「負けるにしてもある程度、票が見込める候補」としており、 小泉チルドレンの猪口邦子衆院議員(比例東京)の名前が浮上している。
渡辺氏はこの日、本会議前にテレビ出演。離党のタイミングについて 「政策要求への回答を見た上で最終判断する」との考えを示した。 永田町では渡辺氏の離党は既成事実として語られており、反麻生の動きが高まった昨年12月、自民党の細田博之幹事長が離党者には刺客を送るとけん制していたことから、栃木3区の“刺客問題”がにわかにクローズアップされている。
渡辺氏は父の美智雄元自民党副総裁の地盤を引き継ぎ、05年9月の総選挙では
民主党新人候補に約5万7000票差のダブルスコアで圧勝。党内外で「勝てる候補者はいない」とまで言われており、追い風が吹く民主党も候補者を擁立できないのが実情とされる。しかし、自民党関係者は「渡辺氏支持派もいる県連と党本部の意見は割れるだろうが、 党はメンツにかけても対立候補者を立て不戦敗は避けようとする」と指摘する。
理想の候補者は、無党派層からの支持を受けやすい著名人。しかし、負けるリスクを背負ってまで立つ可能性は低いことから、テレビでも活躍し知名度の高い猪口氏の名前が浮上。 前回は比例単独で次期総選挙でも比例単独にこだわっており、党からの選挙区打診を「断った経緯がある」(別の党関係者)が、古賀誠選対委員長は、そんな“わがまま”を認めない方針を示しているほか、後ろ盾となるはずの小泉純一郎元首相は引退を表明。 党方針に逆らい続けるのは難しいという見方が大勢だ。
●「次期衆院選は麻生政権で=中曽根氏」
時事通信 2008年12月26日
中曽根康弘元首相は、2008年12月26日午後、TBSの番組収録で、次期衆院選について
「麻生太郎首相に代えて誰にするのか。次の候補者がまだ熟していない。 首相を代えて解散するという態勢には持っていけない」と述べ、麻生政権下で解散・総選挙に臨むべきだとの考えを強調した。
中曽根氏は「予算案の審議中に自民党内でそういう(首相交代の)動きを起こすことはできない。国民の反感が強くなる」と指摘。
●「野中広務氏「麻生総理は資質もないのに必死に権力にしがみついている」 」
TBSニュース 2008年12月27日
野中広務元官房長官は、TBSの番組「時事放談」の収録で、支持率の低下が止まらない麻生総理について、資質もないのに権力にしがみついていると厳しく批判しました。「支持率がどんなに下がろうが、必死に権力にしがみつく。 資質がないのに、そういう嫌な面を国民が見せられ、どん底に国民が落ちていく。 そこに警告を発する政治家がいないのは非常に悲しいこと」(野中広務 元官房長官)
また、野中氏は「大不況の中、政治は緊張感もないまま年末をむかえてしまった」と指摘して、政治は、責任と緊張感をもってさらなる対策を講じるべきだ、と強調しました。(27日11:10)
●「渡辺氏の造反「論外で無責任」=中川財務相」
時事通信 2008年12月26日
中川昭一財務・金融相は26日の閣議後の記者会見で、自民党の渡辺喜美元行政改革担当相が
民主党提出の衆院解散要求決議案に賛成したことについて、「論外だ。日本がこういう金融、経
済情勢にある時に、閣僚まで経験された方が政治を混乱させるようなことをするのは全く無責任だ」
と厳しく批判した。 中川氏は「自民党の中にいながら、ああいうことを正々堂々とやるのは、わたしの理解を超える」 とも述べた。
●「執行部に結束求める=自民9府県連」
時事通信 2008年12月26日
自民党福岡県連など9府県連が、渡辺喜美元行政改革担当相ら党内の一部議員による政界再編
をにらんだ動きを問題視し、執行部に結束を求める文書を提出していることが分かった。
同党関係者が26日、明らかにした。「反麻生」グループの動向次第では、今後も増える可能性
がある。
文書は麻生太郎首相の地元、福岡県連を筆頭に、秋田、茨城、山梨、京都、大阪、兵庫、和歌山、
熊本の各府県連が相次いで提出。 幹事長室によると、内訳は渡辺氏らへの抗議文が4県連、結束強化を呼び掛けた緊急要望や意見書 が5府県連という。
●「自民党 都道府県連会議を開催 渡辺元行革相の処分で不満」
時事通信 2008年12月26日
自民党の各都道府県連で、民主党提出の衆院解散要求決議案に賛成した渡辺喜美元行政改革担当相への処分の甘さに対する不満が強まっている。 26日、東京都内のホテルで開かれた同党の全国幹事長・政調会長会議に出席した地方幹部から、麻生太郎首相(自民党総裁)に政権基盤が揺らいでいることへの自覚を促す声が続出した。
09年衆院選を前に、渡辺氏ら中堅・若手による政界再編にらみの動きを容認すれば、自民党惨敗の導火線になるとの危機感が地方に強まっている表れだ。
全国幹事長・政調会長会議の年末開催は異例。
麻生首相は「08年度2次補正予算案と09年度予算案の成立に勝る景気対策はない。 (世界で)最も早く不況から脱出したい」と景気対策優先をアピール。細田博之幹事長も会議冒頭のあいさつで「一致結束して難局を乗り越え、次期衆院選で堂々たる勝利を収めたい」と強調した。 自民党の地方自民党、都道府県連では渡辺喜美の人気は最低。
●「新政治勢力結集を示唆する手紙 渡辺元行革相 」
産経新聞 2008年12月25日
自民党の渡辺喜美元行革担当相が地元衆院栃木3区の後援会関係者に出した手紙で「これからは何が起きるかわかりません」などと離党や新政治勢力結集に動くことがあり得ると示唆していたことが24日、分かった。
手紙は22日発送で「政治生命を賭して、混迷する政治に一石を投じたい。『ひとりぼっちになっちゃう』と心配されるのは分かります。 自民党の器の中だけで考えるとそう見えるかもしれませんが、積極果敢に行動すべき時です」と24日の造反を示唆していた。
さらに、「国会の内外を問わず、志を同じくする仲間を作り、この国を変える国民運動を地道に起こしたい。全国の首長や議員、 政治家を目指す人々、産業界や消費者の皆さんに呼びかけたい」と訴えた。
麻生太郎首相については「政権末期症状を呈したのは首相が党利党略で衆院解散を先送りしたから。 『景気対策のため』との言い訳を国民は信じない」と指摘。首相の経済対策を「100年に一度の非常時プランか。答えは否。各省縄張り平時モード政策を膨らませただけ。3年後の消費税増税を決めても、行政改革や天下り規制は骨抜きだらけです」と切り捨てた。
●「 独立行政法人、財団法人などへの天下りが過去最多の590人 」
産経新聞 2008年 12月25日
政府は25日、昨年8月から1年間で退職した課長級以上の国家公務員1423人の再就職状況を公表した。
許認可などで中央官庁との結び付きが強い独立行政法人や公益法人(財団、社団)、特殊法人、認可法人に再就職したのは590人(前年比67人増)で、平成14年の公表開始以来、最多となった。
退職者に占める割合でも、最も低かった前年の40・7%から微増して41・4%となり、いまだ続く「天下り」の実態が浮き彫りになった。 退職者で再就職が確認できたのは全体の87%の1239人で、前年よりも130人増えた。独立行政法人には、財務、国土交通両省などから計77人が再就職(前年比10人増)。財団法人には329人(同46人増)が再就職し、退職官僚の最大の受け皿となった。
独法や公益、特殊、認可法人への再就職を省庁別にみると、国交省の214人がトップで、厚生労働省(90人)、経済産業省 (64人)、農水省(46人)が続いた。 国家公務員の再就職に関しては、政府が31日付で、再就職業務を一元的に管理する「官民人材交流センター」と、再就職を監視、 承認する「再就職等監視委員会」を内閣府に設立する。設立から3年以内には、各省庁が個別に行ってきた天下り斡旋(あつせん)を全面禁止する。
この期間中は監視委員会が承認した場合のみ、各省庁による斡旋を認める移行措置を設けている。ただ、委員長含め委員5人の就任は、 野党が国会同意人事で承認せずに空席のままで、政府は当面、本来承認の権限を持つ麻生太郎首相自らが斡旋を承認することを閣議決定している。
●「2次補正採決で「自民から造反も」…渡辺元行革相が指摘 」
読売新聞 2008年12月25日
自民党の渡辺喜美・元行政改革相は、25日午前、テレビ朝日の番組で、来年の通常国会に提出される2008年度第2次補正予算案について、 「(2次補正の柱である)定額給付金は評判が悪い」と述べた。 また、採決では自民党から造反する議員が出る可能性を指摘した。
その後、都内で記者団に対し、麻生首相と距離を置く自民党の中川秀直・元幹事長との連携について、「基本方針が同じだったらあり得る」 と述べ、前向きな姿勢を見せた。地方の改革志向の首長と連携し、政策目標を掲げて衆院選前にも国民運動を起こしていきたいとの考えも示した。 渡辺氏は、24日の衆院本会議で民主党提出の衆院解散要求決議案に賛成し、戒告処分を受けた。
● 「渡辺元行革担当相、「政界再編は必至だ」 」
産経新聞 2008年12月25日
自民党の渡辺喜美元行政改革担当相は25日午前、民放テレビ番組で、「政界再編は必至だ。選挙の前に旗を立てることが大事だ」と述べ、政界再編を想定し、次期衆院選前に独自の政策理念を提示する考えを明らかにした。さらに「自民党や国会の垣根を越えて、地方の首長、議員などいろいろなレベルの人たちと連携する国民運動が大事だ」との考えを示した。
24日の衆院本会議で民主党が提出した衆院解散要求決議案に賛成した自身の動きが、自民党内で拡大する可能性については、「広がる。すでに予兆はある」と語った。渡辺氏は番組後、記者団に政界再編に向けた政策理念に関し、「『官僚主導から政治主導へ』『中央集権から地方分権へ』ということだ」 と述べた。また、麻生太郎首相と距離を置く自民党の中川秀直元幹事長との連携について「基本方針が同じならあり得る」と語った。
●「渡辺元行革相:衆院選前に新たな政治勢力結集…TV発言 」
毎日新聞 2008年12月25日
民主党提出の衆院解散要求決議案に賛成した渡辺喜美元行革担当相は25日午前、民放番組に相次いで出演し、「政界再編は必至。選挙の前に旗を立てるのが大事だ」と述べ、次期衆院選前に新たな政治勢力の結集を目指す考えを示した。
渡辺氏はすでに政権公約作りを始めており、記者団に「そんなに時間はかけていられない」と語った。 渡辺氏は番組で、08年度第2次補正予算案に関連し、「定額給付金は評判が悪い。国会で修正があっていい」と指摘し、来年の通常国会で定額給付金に反対する民主党に同調する可能性を示唆した。
さらに「自民党の小さな垣根を越えて首長や経済界、いろいろなレベルの人たちと連携していく」と強調。公務員制度改革で足並みをそろえた中川秀直元幹事長との連携についても番組後、記者団に「基本方針が同じならあり得る」と述べた。
● 「「離党した人、みな不幸に」=中川氏外し町村派幹部が会合-自民党 」
時事通信 2008年12月24日
自民党町村派の中川秀直元幹事長を除く同派主要幹部が24日夜、都内の料理屋で会談した。
民主党提出の衆院解散要求決議案に賛成した渡辺喜美元行政改革担当相や、政界再編に向けた動きを活発化させる中川氏らの動きを念頭に「これまでも党から出て行った人はみな不幸にな
った。若手議員の運命を迷わせてはいけない」との認識で一致した。
会合には森喜朗、安倍晋三両元首相や町村信孝前官房長官のほか、細田博之幹事長らも出席した。 しかし、中川氏は呼ばれておらず、同氏と他の幹部の溝の深さが露呈した形となった。
●「公務員改革:再就職等監視委が空席 首相自ら天下り承認--閣議決定 - 」
毎日新聞 2008年12月20日
国家公務員の再就職を監視、承認するための「再就職等監視委員会」委員長らの人事が、野党の反対により国会で同意を得られなかったことを受け、政府は19日、当面は首相が再就職を承認することを閣議で決定した。監視委は委員空席のまま31日に設置する。
07年成立の改正国家公務員法は、公務員の再就職業務を一元化させる「官民人材交流センター」と監視委を08年中に設置すると規定。 3年間の移行措置として、監視委から承認を受けた場合に限り、各省のあっせんが可能とした。しかし、「ねじれ国会」の影響で監視委の委員人事が承認されず、首相自ら天下りあっせんを承認する異例の事態となった。
25日に公布される政令は、許認可権にかかわる「利害企業」への再就職禁止などの基準を定めており、首相もこの基準に従う方針。 実質的には天下りにある程度の規制がかかるものの、民主党はセンターと監視委を「天下りの制度化」と強く批判している。河村建夫官房長官は19日の記者会見で「異例の事態ではあるが、法律事項を実効させるためにはこの方法をとらざるを得ない」と説明。
「できるだけ早く委員の任命をお願いしたい」と語った。 一方、民主党の鳩山由紀夫幹事長は「『天下りをなくせ』という国民の声を自ら否定するかのように、首相があっせんを承認する。法の規定に沿わない『官僚内閣』そのものだ」と批判した。
●「川元幹事長の孤立化画策? 「生活安心保障勉強会」を旗揚げに町村派“包囲網”」
産経新聞 2008年12月11日
反麻生勢力のリーダー的な存在である自民党の中川秀直元幹事長が11日、 新たな議員連盟「生活安心保障勉強会」を旗揚げした。麻生太郎首相と距離を置く小池百合子元防衛相や渡辺喜美元行革担当相らがずらりと並んだが、首相に近い安倍晋三元首相や菅義偉選対副委員長らも出席し、「反麻生」的な言動に目を光らせる奇妙な展開に…
町村派では「中川包囲網」がジワジワ進んでおり、会合は逆に中川氏の孤立化を浮き立たせる結果となった。安倍、町村、森の3氏が共闘態勢をとったことで、中川氏は窮地に追い込まれた。このまま反麻生で突っ走れば、町村派を追われかねないからだ。
中川氏は5日の議連発足を11日に延期。安倍、菅両氏らに自ら電話し、議連への加入を求めた。反主流色を薄めようと考えたようだが、安倍氏らはこれを逆手に取り議連の骨抜きに動いた。
裏では森氏が町村派若手を「麻生さんが大変なときにバカな行動をするな!中川を総裁にする気か!」と電話で恫喝した。この企ては奏功し、議連は純粋な勉強会と化した。議連終了後、安倍氏は勝ち誇ったように語った。 「政局がらみの議連では全くない。中川さんが参加しているから、そういう
うわさになってしまうのでしょうが、そういう思惑で参加した人はいません…」。
●「後ろから鉄砲玉撃つな」 “反麻生”の動き叱責 」
産経新聞 2008年12月11日
古賀派会長の古賀誠選対委員長は派閥総会でマイクを握ると、塩崎恭久元官房長官の方に向き直り、すごんでみせた。 塩崎氏は渡辺喜美元行革担当相らと「速やかな政策実現を求める有志議員の会」を結成し、麻生太郎首相に批判的な姿勢をとってきた。
谷垣禎一元財務相も「古賀氏の言う通りだ。団結していきたい」と応じた。同派議員からも「ガタガタしていては『自民党弱し』という雰囲気が出てくる。意見を自由に言うのはいいが時期がある」と批判の声が続いた。
青くなった塩崎氏は総会後、古賀氏に面会を求め、「政策提言をやっている。説明不足だった」と釈明した。 また、伊吹派総会でも伊吹文明元幹事長が、「ああだ、こうだと家の中のことを外で言いふらして、自分だけいい子になろうというのは政治家として感心しない」と痛烈に批判した。 津島派総会では津島雄二元厚相が 「日ごろ結束していること、心を合わせていることが大事だ」と派内の結束を呼びかけた。
● 『速やかな政策実現を求める有志議員の会』
現在、政界漂流中の哀れな24人の政治家
赤澤亮正 大塚高司 小野寺五典 加藤勝信 上川陽子 後藤茂之
塩崎恭久 新藤義孝 菅原一秀 寺田稔 西村明宏 西村康稔
萩生田光一 平井たくや 福岡資麿 水野賢一 茂木敏充 山内康一
山際大志郎 渡辺喜美 世耕弘成 田村耕太郎 古川俊治 丸川珠代
● 自民党派閥別勢力予想(宮川予想@文春 2009年 1/15号)
現有勢力 衆院小選挙区 総選挙後
__ 合計_参院_衆院__現有→予測__衆参計
町村 089 27 62 50→21 48+比例
津島 069 23 46 32→10 33+比例
古賀 061 10 51 43→19 29+比例
山崎 041 03 38 31→13 16+比例
伊吹 028 06 22 12→05 11+比例
麻生 020 04 16 13→07 11+比例
高村 016 02 14 12→04 06+比例
二階 015 02 13 06→01 03+比例
無閥 049 06 43 29→13 19+比例
------------------------------------------------
合計 388 083 305 228→93 176+53
------------------------------------------------
(新人の小選挙区当選予測3人を除く)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
「134」 雑誌原稿 「米国 ”ねずみ講経済” の 破綻」 2009年2月執筆 を載せます。 2010.9.11
副島隆彦です。 今日は、2010年9月11日です。 続けて載せます。この評論文は、2009年2月に書いたものです。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
「米国 ”ねずみ講経済(ポンツィー・スキーム・エコニミー)”の 破綻」
副島隆彦 2009年 2月 9日 校正済み
● オバマは既に包囲されている?
今年(2009年)1月20日にバラク・オバマ政権が発足した。「米国独立宣言のような気迫」を示したオバマの就任演説は好評を博し、政権の出発は米国民の70%弱の高支持率だった。ところが、暗雲がすぐに立って、次々と任命したばかりの長官たちの辞任が相次いでいる。
商務長官になる予定だったビル・リチャードソン・ニューメキシコ州知事は、就任前から地元の金銭スキャンダルで降りた。ビル・リチャードソンといえば、ヒスパニック(メキシコ系)の代表であり、これで政界内でのヒスパニック勢力への牽制が行われた。
また、就任直後には、オバマにとってもうひとりの片腕であると目されていたトム・ダシェル厚生長官(前民主党上院院内総務)が辞任した。ダシェルは本気でオバマ政権を支えようとした大物政治家だ。それから女性の司法長官(アトーネィ・ジェネラル)も辞任した【?:司法長官はエリック・ホルダーでは?その前段階での話?】。
激しい大統領選挙を戦った相手なのに“何故か“国務長官に就任してしまった、ヒラリー・ロダム・クリントンによる、オバマ包囲網が出来つつある。オバマは政権発足からすぐに包囲網に遭っている。今や米国の新政権はヒラリー派(あるいは、さらにそれを背後から動かすニューヨークの金融財界人たち)によって、金融・経済政策の実質は奪い取られたと言っても過言ではない・・・。
●米国は米国人が最も嫌う国家統制に向かう
昨年(2008年)の9月15日に米証券(投資銀行)大手のリーマン・ブラザーズが破綻して以来、世界的に金融危機(ファイナンシャル・クライシス)が広がり、実体経済(タンジブル・エコニミー)にまで危機感は高まった。
米国だけでなく日本の大企業の減益から赤字転落の決算の報告が年明けから相次いでいる。トヨタもソニーもパナソニックまでも減益(経常黒字維持)どころか、ようやく営業利益を算出できる状態である。日立は7,000億円の赤字決算となった。この「米国発、金融恐慌の前段階」というべき世界危機は今も続いており、ちょっとやそっとのことでは収まりそうもない。何とか今年を耐えれば来年には景気回復するのではないか、というのは根拠の無い楽観論であろう。
米政府は昨年10月に、緊急に最大7,000億ドル(70兆円)の公的資金を使って不良資産(バッド・アセット)を買い上げることを骨子とする金融安定化法案(金融救済法案、TARP、タープ)を策定した。リーマン・ブラザーズの破綻に続いて、昨秋から大銀行と大証券会社(投資銀行)が次々と危機的な状況に陥るなかで、米政府はそれまでの「企業の市場原理重視」「自由競争型」の方針を大転換して、国家による干渉政策である、民間金融部門の「国家による救済」(government take-over ガヴァメント・テイクオーヴァー)をやりだした。
つまり既に「国有化」され始めているというのが真実である。しかし、実態から言えば、この銀行国有化は、社会主義国家化であり、米国人たちはこれを非常に嫌う。さらにこれが進むと、かつて米国で1回だけ行ったことがある「連邦化」(federalization、フェデラライゼーション)にまで至る。ここまで来ると明らかに国家非常事態での共産主義国家である。完全なる金融統制体制(controlled economy、コントロールド・エコノミー)であり、独裁政治体制である。米国、そしてそれに追随する日本は、この恐ろしい金融統制体制に向かいつつある、とするのが私、副島隆彦の考えだ。
●日本も米国同様、国家統制に向かう(仮)
その端的な証拠が、今や「銀行でのATMでの送金が10万円しかできない」という法規制と、「金融商品でさえない、ただの商品でも、200万円の物品には、お店で購入者の住所氏名を書かせる」という規制である。たとえば、金地金は、絶対に金融商品ではない。だから、2007年に新設された金融商品取引法(金商法、以下略)の対象ではない。金塊は、鉱物資源なのであって、決して金融商品ではない。
金の地金(延べ板)は、たとえば「ヒノキの木を30本買う」のと同じで、ただの商取引なのだ。だからいちいち政府にそのような売買を届けるとか名前を書くとかをする必要は無いのである。ところが、官僚たちによる、資産家や経営者層のお金(資金、資産)の動きを監視下に置こうとする金融統制体制(コントロールド・エコノミー)に、日本も米国も計画的に移行しつつある。だから恐ろしいのだ。私たちは必死で、自分の財産や金融資産を、国家と官僚たちからの奪い取り攻撃から何としても守らなければならない。
農林中金を始めとして、日本でもこれからまだまだ破綻の危機に陥るであろう大銀行に対する政府資金の投入(公的資金の投入、資本注入、税金投入)は「政府による直接支配」(direct governmental control、ダイレクト・ガヴァメンタル・コントロール)を意味し、これぞまさしく共産主義体制 (communism 、コミュニズム)そのものと言っても過言ではない。
●「救済」という言葉の背後にあるもの(仮)
オバマ政権になっても大銀行の「国有化(公的資金の投入)」はまだ「国家による救済(government take-over ガヴァメント・テイクオーヴァー)」と優しく表現している。しかしその実質は、「政府による(支払いの)保証(government mandate 、ガヴァメント・マンデイト)」宣言に他ならない。
2008年7月13日に当時のヘンリー・ポールソン財務長官が、世界に向けて公表した、530兆円の負債(返済できない債券)を抱えて実質的には破綻しているファニーメイとフレディマックという政府系の二大住宅公社の機関債には、「暗黙の政府保証があるから債券の購入者は安心だ」とされていた。しかし昨年10月3日に、米連邦議会で金融救済法として通過したのは、7,000億ドル(70兆円)の金融安定化法案(ファイナンシャル・スタビライゼイション・アクト、別名は金融救済法、ベイルアウト・ビル)がやっとのことだった。
とても530兆円(5兆ドル)もの巨額の救済資金は、米国政府といえども出すことは出来なかった。この時は、“下院議員たちの叛乱”を押さえ込んで何とか7,000億ドル(70兆円)の法律を可決した。これで不安視されていた「政府の保証」策が適用されて、政府保証は「暗黙」ではなくなり、「名実ともに」返済(償還)が政府保証されたことになった。これで両公社の機関債や保証しているRMBS(アール・エム・ビー・エス:住宅ローン債券担保証券)の世界的な“取り付け騒ぎ”が一旦は収まった。
これで日本や中国、サウジアラビア、それから欧州の大口債権者たちも一応は納得した。ところが実態は、既にこの両住宅公社は破綻しているのであり、実際には債務額は5兆2,000億ドル(530兆円)にも及ぶ。この機関債(エージェンシー・ボンド)や米国政府に支払い保証されていることになったと「表面上は考えられている」RMBSは、満足に返済されることはないと見るべきだ。
ポールソン財務長官(当時)によって、外国が買った分として公表されたのは160兆円だった。日本勢はそのうちの23兆円分を引き受けている(購入している)。しかし本当は40兆円以上だと思われる。中国とサウジアラビアも同じく40兆円ほどある。英国では10兆円程度を保有していたことが明らかになった。これは同国の規模から考えるとかなり巨額なものである。このニュースに英国国内は騒然となり、ゴードン・ブラウン政権が崩壊しかかった。
●「焼け石に水」の米国金融安定化策(仮)
ブッシュ前政権は政権末期の機能停止(レイムダック)の最中でも、大規模な景気対策を打ち出した。さらに銀行が保有する不良債務の買い取りや、両住宅公社及び金融機関の救済にかなりの公的資金投入策を発動した。 即座に破綻した大銀行数行に25兆円の投入決定した。この時点で米国の財政赤字は既にかなり膨張している。
米国では会計年度が7月末で終わる。そして8月1日に次年度に入る。だからこの時の半年間の金融危機(信用崩壊)を何とか乗り切っても、次の2009年4月(年度後半)以降になると、米国債に対する信用の失墜という形で危機が再燃する。そのように運命付けられているのである。
それゆえにオバマ政権は、次々と襲い掛かってくる金融不安に対して、矢継ぎ早に緊急対策を打ち出さなければならない状況下にある。米国が現在抱えていると思われる巨額の不良債務の規模は、連邦政府だけでもおよそ20兆ドル(2,000兆円)くらいは存在すると考えるのが自然だろう。
したがって前回の金融安定化法で決まった7,000億ドル(70兆円)では「焼け石に水」で全く不足しており、これでは全く話にならない。少なくともこの10倍、700兆円の金融救援資金が必要となるだろう。このようにして今後、際限なく政府部門の不良債務が膨れ上がっていくことになる。それはこれから数年間は続くものと見なければ済まないだろう。そして往き着く果ては“米ドルの大暴落”であり、それはまさしく“ドル覇権の崩壊”であると言う結論に至る。
● 誘爆連鎖していくデリバティブ(仮)
2007年8月17日に起きた、低所得者層向けの住宅ローンであるサブプライム・ローンの焦げ付きに端を発した金融危機に関して、その予兆は危機が起こる前の3~4月頃からはっきりとあった。
サブプライム・ローンを証券化したRMBS(住宅ローン債券担保証券)に、さらにそれを含むCDO(コラテラライズド・デット・オブリゲーション:被担保不良債権証券)の償還の危機に波及した。この金融危機は、米国内だけでもさらに連鎖して行く。
次には、消費者ローン(クレジット・ローン)、自動車ローン、奨学金ローンに飛び火する。そしてその次に、RMBSの3倍の残高を持つというCMBS(コマーシャル・モーゲッジド・バックド・セキュリティーズ:商業用ビルのローンを証券化した商品)という他の信用市場にも波及し、次々と焦げ付きは拡がりつつある。
さらに、これぞ“金融核爆弾“と呼ぶにふさわしいデリバティブ(金融派生商品)であるCDS(クレジット・デリバティブ・スワップ、担保不良債権証券:企業の破綻リスクを売買する証券化商品)の焦げ付きも懸念されている。CDSの残高は、なんと最大時で、7,200兆円(60兆ドル)もあったとされ、2009年2月時点でも5,000兆円あるとされている。この金融核爆弾が破裂すると、本当に世界の金融の帝都ニューヨークは崩壊するだろう。
さらに、再び、一度騒がれたモノライン(金融保証業務専門会社)4社という、身の丈に合わない信用保証をしていたノンバンク大手(日本で言えば、日本信販やジャックスくらいの規模)の破綻危機が再燃するだろう。この4社は、自社が高い格付けを永遠に維持できる保証など何処にも無いのに、分不相応にも米地方債(ミュニシパル・ボンド:カリフォルニア州債やニューヨーク市債など)を保証している。
実はこの点について、日本でも、官民合わせてこれらの米地方債を山ほど買っており、米国債(財務省証券)だけならまだしも、カリフォルニア州債やNY市債などの米地方債をかなりの額で買い込んでいることは以外と知られていない。この事実とその購入残高が日本国内で大きく露見したら騒ぎはもっと大きくなるだろう。
● 公的年金基金の深い闇(仮)
そして最後に、公的年金と健康保険などを運用している非営利法人(中間法人、日本のNPOやNGOと呼ばれるものの本来の姿)の危機につながるだろう。世界最大の年金資金運用団体であるCalPERS (カルパース、カリフォルニア州職員退職年金基金)の運用が危機的な状態に陥っているようである。その他の州の退職金基金も同様である。それまで派手に、最も尖鋭に金融市場で資金の運用をしてきた団体である。それは日本の農林中金と同じように参加組合員の年金や共済掛け金を運用してきた緒団体である。それがここに来て一挙に裏目に出ている。
10兆円の外債を抱えて、やがて破綻すると思われる農林中金が、日本政府の全面支援で公的資金の投入で救済される日は近いと思われるが、カルパースの苦境は、まさしく日本の農林中金の苦境とよく似ている。
非営利年金運用法人であるカルパースは、米国の株式や債券の暴落に伴う損害だけではなく、通貨先物でも大きな損を出したと噂されている。つまりデリバティブでも相当にやられている模様である。その負債額(未償還元本)は2兆ドル(180兆円)ほどにも及ぶだろう。故に、このカルパースのような、非営利(利を求めず、営業もしないと見なされている)法人(non-profit organization)にも早晩、危機が波及していくのである。
日本でも同じく、米国に引き摺られるよう、各種の年金運用団体や共済団体の資金運用が急速に悪化している。おそらく米国は私たちの想像以上に悪い状態にあるだろう。よって、最後にはこの非営利の資金運用部門が大破綻するだろう。まさしく“年金崩壊”である。このような課程で経済危機は、最後には必ず、富裕層ではない、これまでコツコツと零細な年金を掛け続けて来た一般国民に“しわ寄せ”がいくものであり、これ以上のものはない。
●今そこにある“もうひとつの金融危機”(仮)
この非営利法人を巡る経済危機の途中で、実は、もうひとつの大きな金融危機が起こるのではないかと危惧している。それは『米国内で安定した収入を持つ堅実かつ優良な顧客層向け』だと考えられている『健全な住宅ローン』、プライム・ローンで起きるではないだろうか。
景気のさらなる悪化によって引き起こされるプライム・ローン利用者の失業や投資の失敗などで、資金繰りの逆回転が発生。これにより利用者が過重なローンの返済能力を失い大量の焦げ付きが起きる可能性がでてきた。
米国の住宅ローン残高は14兆ドル(1,500兆円)と言われており、この数字は米国のGDP(一年間の国内総生産)にほぼ等しい。この14兆ドルの約8割を占める『健全な住宅ローン』であるプライム・ローンの借り入れ層が米国の恐慌入りと共に、次々と債務不履行(デフォールト、個人破産)に陥ってゆくことが強く危惧される。
そうなると大多数の米国民が住宅ローンとその他のローンを支払えなくなり、家や自動車を失うことになりかねない。特に「モーゲッジ・エクイティ・ローン」という、年収10万ドル以上の上層サラリーマン層が投資用も含めて保有してきた数軒の住宅や、コンドミニアム(投資用のアパート)を担保に極限まで借り入れた住宅ローンが、住宅価格の下落(現在、全米平均でピーク時から20~30%の下落である)によって、逆回転を始めている。
そして銀行からの担保価値割れを理由とする厳しい返済要求(貸し渋り・貸し剥がし)が次第に強まっている。企業の倒産やリストラ(レイオフ、失業)による住宅ローンの不払いが大量に起きて、このプライム・ローン危機までに至りつくと、これは、まさしく米国の国民レベルでの「下からの金融恐慌突入」である。
このような住宅ローンによる個人破産のシナリオは、世界史的な基準でみると、単に金融制度の問題であることを超えてしまっている。実際問題として、ローンの支払いが滞って家を失うことになるはずの多くの米国国民は、居直ってしまうだろう。すなわち、ここで「借りたお金は返す」という当然の流れが遮断されるのである。
● 米国「緊急金融統制」への道程(仮)
おそらくこの時に米国政府は、国内での通貨の単位を変えるだろう。その前に、激しい物価の値上がりであるハイパーインフレーションが、米国内を襲っていることだろう。だから、ここで従来の100ドルを1ドルにする、という「通貨単位の変更」をするのではないか。即ちデノミネーションである。
現在、米国における政府部門の不良債権残高は、単年度ではなく累積で、GDP(米国は現在14兆ドル:日本円で約1,300兆円に相当)の3倍から4倍の規模にまで膨れ上がっている。よって、概算で4,000~5,000兆円の政府不良債権を抱えている事になる。
この政府部門の不良債務の内訳は、政府財政赤字、特に累積の長期の政府負債分と、50州と大都市の地方政府の債務分である。この概算で40兆ドル(4,000兆円)の累積の負債を償却(Wright off、ライト・オフ)して、金融システムを健全化するには、さらに膨大な財政負担を伴うことになる。このために米国のような対外的にも累積債務国(大借金国家)では「緊急の新ドル切り替え」を実施して、“徳政令”に踏み切る以外に問題の解決はあり得ない。
ドル暴落と同時かあるいは前後して、この新ドル紙幣への切り替えと「預金封鎖」が一挙に断行されるだろう。すなわちこれが、緊急の金融統制体制への移行である。ちなみに日本の累積の公的債務残高は、1,300~1,400兆円である。これも1,000兆円弱の中央政府の債務分と400兆円の47都道府県および大都市の債務である400兆円を合わせたものである。
さらに、米国内での財政赤字(不良債務残高)と内容で重なるのだが、米国の対外的な負債(つまり外国からの借金)で、米国内に外国から流入している債務性の資金が総計で4,000兆円ぐらいはあるだろうといわれている。これは前述した米政府部門の債務総額とほぼピタリと見合っている。そして、このうち日本からの借金は実に600兆円である。
数年後を待たずに米国で実施されるであろう、《緊急の新ドル切り替え、および国内でのデノミネーションの導入》の際には、まさしくこれが「緊急金融統制」であるが故に、各種の産業統制令や生活物資への統制(配給制など)が緊急立法の形で一気に発動されるだろう。そして、これには必ず預金封鎖(預金の引き出し制限)を伴うことになる。一般の米国人は預金などあまりしていないから打撃は少ない。それでも資産家層や富裕層にとっては大きな打撃となる。
今回、7,000億ドル(70兆円)を投じる米国の金融安定化法案で、銀行が破綻した際に政府が保証する預金払い戻しの額(ペイオフ)は、それまでの「10万ドル(1,000万円)」から「25万ドル(2,500万円)」に値上げされた。それでも、米国国民の通常感覚からすれば、銀行預金を政府が保証してくれるという制度はピンと来ない。
歴史的にみて、米国人は銀行に預けた金に対してクールである。例えばある米国の銀行が銀行強盗に遭って破綻したとすると、その銀行の預金者は「預金が3分の1でも戻ってくれば“御の字”だ」と考える。これが米国人の共通感覚(コモンセンス)である。
実際に昨年7月に取り付け騒ぎを起こして破綻したインディマックという中堅の住宅専門銀行(地銀レベル)では、預金者の預金は約3分の1しか連邦預金保険公社(FDIC、エフ・ディー・アイ・シー)から償還されなかったのである。
● ポンツィー・スキーム・エコノミー・イズ・デッド
米国で自動車の売り上げが目立って落ち込んでいる事態が直面する経済危機に追い討ちをかけた。昨年末にトヨタでさえも北米の販売台数が2割減となった。自動車を購入するとき、米国人はほとんど自動車ローンを組む。現金で車を買う人はほとんどいない。現在、米国では信用収縮(クレジット・クランチ)による貸し渋りが起きている。そのため、企業だけでなく個人に対してもクレジット・ライン(与信枠)が厳しく見直されて続けている。
だから多くの人が新たな自動車ローンを組めなくなった。このことが自動車の販売不振の大きな要因であり、金融危機の影響はこのような形で、実体経済(tangible economy 、タンジブル・エコノミー)の各面にまでどんどん波及してきている。
そもそも、これまで米国経済が2007年7-9月期まで好景気を維持していたのは、個人消費が好調だったことによるところが大きい。それは居住物件の資産価格が高騰していたので、「資産効果」で、それを担保にして住宅ローンをさらに借り増しをして、さらに一軒の別の家や投資用のアパートを買ったからであり、株式投資などで儲かった金で消費にも資金を回していたからに他ならない。米国はすでに巨大な「借金国家」であり、世界中
から資金を流入させて使い散らかし、何と、その借金した資金から配当や利子を支払っていたのである。まさに“ネズミ講”そのものである。
ネズミ講のことを、英語ではポンツィー・スキーム(Ponzi scheme)と言う。イタリア移民であるポンツィーなる人物が郵便切手への投資から始めて広め、それが刑事事件になってはじけるのは日本と同じ構図である。“米国ネズミ講経済 (Ponzi scheme economy、ポンツィー・スキーム・エコノミー)”で、諸外国から投資の形で集めた資金を使い散らして米国民は湯水のように費消した。
集めた資金を実のある各種の産業に投資して、運用して真の価値を創造して利益を産み出し、そこから金利や配当を払っていたら問題は無かった。そうではなく、米国がやっていたのは、諸外国から借りたカネからさえも手数料を徴収しつつ、実需と実体のある産業への投資を怠り、もっぱら自分たち金融業界内部でのマネーゲームに狂奔して、手数料と利益を自分たちだけで内部で抜き合い、しかもそれを複雑に証券化(セキィリタイゼーション)して金融証券化商品(デリバティブズ)に仕立てた。
それらの次々に複雑に仕組まれて、作られた金融証券化商品は、さらに転売に転売を重ねて、さらなる手数料の抜き合いが行われていたのである。投資した諸外国に対しては、運用している資金から金利や配当を払いつつ、また新たな資金を国外から呼び込むことを繰り返してきたのだが、それがここにきて、ついにこの米国の巨大な“ネズミ講経済”は崩壊したのである。ここに至る過程は必然であり、自明の理であり、私はここに至る道筋をこれまでずっと何冊もの本に書いてきた。
米国は第二次世界大戦直後(1945年)には圧倒的な経済大国だった。戦場となり爆弾が雨あられと降って焼け野が原になった諸外国を尻目に、世界GDPの実に70%を占めていた。名実とも世界帝国(世界覇権国、hegemonic state ヘジェモニック・ステイト)であった。ところが、その後の30年で製造業では日本や西ドイツに抜かれ、対外的には貿易赤字(トレイド・デフィシット)を積み上げてきた。
それを補うため、米国は金融業を興隆させ、外国の資金を呼び込み、あるいは各国の貿易黒字から生まれる資金を米国内に滞留させることで、「資本収支(国際収支)」では圧倒的な黒字国家となっていた。それを背景にして政治的な世界覇権(ワールド・ヘジェモニー)を維持してきたのである。
米国は、金融業では得意の金融工学(financial engineering 、ファイナシャル・エンジニアリング)を開発し、1980年代末から、貿易赤字と財政赤字という二つの実体経済(リアル・ウエルス・エコニミー)面での不都合を補ってきた。
“金融工学を駆使して相当の利益を出していた”といいながら、本当はどうもそうではなく、実際には単に金融法人どうしで、談合にも似た取引を繰り返して、手数料を取り合いし、予め自分たちで“お手盛りで”決めた「予想収益率」と、それを生み出すための「想定元本」を巨額に積み上げた。その代表が、前述した“金融核爆弾”CDS(担保不良債権証券)の想定元本残高の5,000兆円である。
しかしてその実体は、信用乗数効果(マルチプリフィケーション・イフェクト)によって、資産と負債の両方を巨額に膨らませて続けただけに過ぎない。正常そうに見せかけた各種の債券市場を作って、詐欺まがいの取引を大量に無限に繰り返した。その実際は、多くの人が見ている衆人環視での、国民に開かれた、公開・公共の市場などというようなものではなくて、もっぱら銀行・証券・保険会社どうしの相対取引で、同じ投資対象を何回も取引していた。転売と購入を繰り返せばその資産価格は高騰するに決まっている。それこそ“倍々ゲーム”で相場を吊り上げていった。
● 取引残高総額8京円の“泡”(仮)
しかし、いつかバブルは崩壊し大天井を打って急反落していくものであり、これを天罰とも、神の采配(さいはい)ともいう。このバブルで最も外側の膨らんだ部分は「米国におけるデリバティブ商品の取引残高総額8京円」と呼ばれている。8京とは、8,000兆円の10倍である。このことをもっと分かりやすく説明しよう。
例えば、私たちが「死亡時に6,000万円を受け取ることができる生命保険に加入している」とする。それに対して掛け金として、毎月4万円ぐらいずつを10年間払い続ければ。その総支払額は500万円近い水準になる。30年かけ続ければ1,500万円の支払い総額である。70歳の満期までに死亡しなければ保険金を受け取ることはできず、支払った分の大半は掛け捨てなので戻ってこない。
デリバティブの原型もここにある。デリバティブ(金融派生商品)の本質は保険商品なのである。その中身に博打(ギャンブル、カジノ)の仕組みが必ず仕組まれている。
バブルが世界規模で大崩壊した今、実際に処理しなければならないのは、名目上の各デリバティブ商品の残高における「総額の10分の1程度」ではないだろうか。それ故に今回、米国の金融市場は、8京の一割の8,000兆円を何としても返済しなければ済まないだろう。少なくともその半分の4,000兆円を、償還、返済、負担しなければ、今回の世界的な金融危機(米国発世界恐慌)の峠を越すことは無いだろう。
だから「真水(まみず)」の実損で、米国が自分の身を斬られる思いで処理しなければいけない、血が吹き出しそうになる(更に金融機関がバタバタと破綻する)金額は、8京円(800兆ドル)の5%の4,000兆円(40兆ドル)だろう。これが私のはじき出した一番大きな数字での概算である。
例えば、「9.15リーマンショック」の翌日に救済されたAIGのケースが参考になる。AIGグループは、2008年9月16日に実質破綻したことで米政府が救済に乗り出し、850億ドル(約9兆円)で株式の大半を奪い取って半ば国有化した。世界最大の総合保険会社(マルチライン)であるAIGグループにおける日本の子会社のひとつであるAIGエジソン生命では、日本の自衛隊や消防庁や教員の年金運用の生命保険が取り扱われていることが漏れ伝わっていた。
これらの公務員系の年金や保険の運用も、何と外資系の団体信用生命が担っていたのである。このように、日本の年金資金の運用や、保険の再保険(アンダーテイキング)を米国の保険会社に任せっぱなしにして、日本国内の年金や保険の運用資金を海外に流出させていたのか。それとも国内で何割かは、超低利の日本国債などで着実に資金運用をしてきたのか。それが目下の大きな焦点になっている。
もし後者であれば、資金は日本国内に存在していることになるので安心だが、さらにその上の運用団体が “米国ネズミ講”方式にひっかかって、米国債での投資運用となっていたらどうだろう。考えるだけで思わず身震いしたくなる事態である。
日本国債と米国債以外の、前述した米住宅公社債や、MMF(マネー・マネージメント・ファンド)など元本保証のない債券によって、これらの日本の年金や保険資金が運用されていたとしたら、それはもう一大事である。これらの公的な資金運用団体の内部関係者は、今頃血相を変えてその責任の擦り付け合いをやっているのではないだろうか。
● “金融核爆弾”の破壊力(仮)
通常戦争が始まると、敵国性資産を資産凍結(アセット・フリーズ)することで資産が国外に流出しないようにする。これは、外交上のレシプロシティ(相互性)と言って同じことを相手国もする。これと同じことで、政府は、自国内にある資金が一気に海外に送金されることを阻止しようとする。政府は「保全命令」を出して国内資産が消失しないようにする。
9月15日にリーマンが破綻した際に、日本ではリーマンの日本国内における子会社群の法人に対して、日本の金融庁は、僅か2時間後にはそれらを差し押さえた。本当は裁判所の命令が必要なのだが、その手続きの開始まで1週間を要するという。そんなに待っては居られないということで金融庁の行政命令でやってしまった。
保険会社は掛け金のうち、加入者への保険金の支払いに回す部分については別建てできちんと積み上げておかなくてはならない。保険会社のほかにも証券会社であってもこうした分別管理が徹底的に義務付けられている。
しかし、今回のリーマンの破綻については、元々が紙切れだった奇怪な証券化商品で資金の多くを運用していたので、その分については分別管理していても意味がなかっただろう。リーマンやAIGに踏み込んだ金融庁の係官たちも、帳簿の山を見て何がなんだか分からなかったはずである。それ以外の日本国内の不動産等は実質“差し押さえた”ようである。
銀行でなく一般の事業法人でも、他社に融資をした場合、融資額の2割程度の引当金を積まなければいけないことになっている。これは法律で規制するなどという以前であって、商業道徳として「古くから堅実でまともな商人(経営者)」ならば実践してきたリール(自然の法則)である。
ところが、ここに引当金を積み立てたくなくて、全部の資金を貸し付け(融資)に回してしまいたい“まともではない銀行”がいたとする。彼らとしては有り金全てを融資したいばかりに“リスク分散”を名目にして、それらの貸付債権をさらに債券に仕立てて売り払って(転売)しまった。そして万が一、融資先が倒産した場合には、さらに証券購入した第三者から元利で返してもらうというような複雑な取引を作った。この取引がこの文章で何度も登場してきた“金融核爆弾”、CDSと呼ばれるものだ。
この金融証券化商品(デリバティブ)は、企業の「貸倒引当金」を担保にして原資にし、それを基に保険商品を組み立てたものだ。言ってみれば、ある企業の心臓そのものの売り買いを第三者の他社どうしでする、「企業の生命の他人保険化」とでもいうべきものである。
これらの特殊な仕組み債の債券の売り手としては、ある会社(対象企業)が倒産してしまえば代わりに、企業倒産の保険額における全額の支払い義務を負わなければならなくなる。そのために連鎖倒産に陥る危険が高まり、このことが最も怖い。
金融工学を駆使したデリバティブ商品は、突き詰めれば全て保険商品のようなものである。このような仕組みを考案し、本来融資先の破綻リスクに備えた引当金の部分を債券に組み立てて、リスクをどんどん他社に転嫁していった。
ニューヨークの金融法人たちは、ここまでおかしなことをやったのである。そして、その債券化した他社の生命を、金融法人だけで互いに盛んに売買した。実際には、リーマン・ブラザーズとAIGグループ、シティグループや日本の農林中金、三菱UFJ銀行などの間で、このCDS取引が行われていたという。
そしてその多くは相対取引ではあっても、その“大元”の部分は、全てシカゴ・マーカンタイル取引所(CME、レオ・メラネッド名誉会長)のデリバティブ市場で取引されていたはずである。バブルの崩壊が進んで、このあと仕組み債の機能不全状態がさらに進行していけば、やがてCMEでの取引自体も全般的に強制的に「解け合い」をさせられるだろう。そうなることで、米国金融市場全体の機能停止状態、取引所の停止、そして行き着く先は崩壊ということになっていくのだろう。
● かくして“神の采配”はおりる・・・
市場が崩壊するその時、それらのクレジット・デリバティブにおける仕組み債の「証券」だけが“紙屑”になる。だからこれまでに何回も手数料だけが抜かれてきた、これまでの取引全部が“リワインド(逆回転)”してゆく。
この全プロセスがすべて元に戻っていくはずだ。それまで資産価格の高騰から富裕化していた人たちは、積み上げてきた利益(資産)を持ち逃げすることなどは絶対にできないはずである。日本の法律学でも、契約の「解約」と「解除」とは異なるものだ。
「解約」とは「契約を打ち切る新たな契約」であり、これまで行われてきた取引については有効であるとする。これに対して「解除」では、日本では民法545条で、「解除権を行使したら、原状回復すること」と定められており、契約自体を最初からなかったことにする。つまり、それまでのすべての取引も無効にするということであり、「解約」よりもずっと強い概念である。
それだけに契約が「解除」される場合には、その原因のところに詐欺や脅迫、恐喝やその他“契約原因(約因、コンシダレーション)に瑕疵(かし:キズの意)があった”とする問題になる。以上のように、契約解除であれば原状回復義務が生じるので懲罰を伴うことが多い。
したがって、これから米国で起こるであろう事態は、それらの積み上げた巨額の8京円(800兆ドル)にも及ぶ金融取引であるが故に、いくら、大手金融機関が集まって必死の談合で、「解け合い」「解かし合い」による契約解消を画策するとしても、すべてが単なる解約(契約の合意による終了)ではとても済まない。
そのために、必然的に関係当事者は、これまで積み上げた利益を失うだけでなく、「倍返し」に似た懲罰的な返済義務が生まれる。だからやはり巨額の損失を表に出さざるを得ないという因果応報の段階になりつつある。それはまさしく「金融大破綻国米国の処分案」の発動となるだろう。“米国を処分する America dissolved ”のは、被害を受けた世界中の他の国々である。
● バブルが崩壊すると、その開始地点を 下回るところまで下がる。
人類の歴史から考えて、バブルが崩壊過程に向かえば、最初にそれが始まった地点にまで資産価格は下回っていく。このことはまさしく“歴史の必然”である。また、相場はオーバーシュート(行き過ぎ)するものであり、それ故にバブルのスタート地点(価格)よりもさらに下回らないと大底は打たないものだ。
その証拠に、1920年代における米国のバブルも、1980年代後半におこった日本のそれも、それぞれバブルのスタート地点を下回る水準となる1930年代、1990年代になるまで、相場は大底を打たなかったではないか。
1929年に、NY証券取引所で386.1ドルだったダウ平均株価は、その2年10ヶ月後には40.6ドルまで下落した。1989年12月、東京証券取引所で38,916円だった日経平均株価は、2003年4月に実に5分の1となる7,603円まで下落した。
現在の米国のバブルは、ビル・クリントン政権下でロバート・ルービン前NEC(国家経済委員会)委員長が、1995年1月に財務長官に就任し、「強いドル」を標榜してドル高政策を推し進めて、NYでの株高政策を推進した時から始まっている。その時のダウ平均株価は、おおよそ3,800ドルだった。だからNYの株価の下落がオーバーシュートするとすれば、アメリカ発金融恐慌入りにおける「バブル崩壊の最終局面」では、やはり株価自体が3,000ドル台にまで落ちるだろう。さらには3,000ドル割れまで下がる可能性があるのである。この数字は、以前から欧州の悲観派の間では囁かれていたことなのである。
過剰な強欲は身の破滅を招くもの。腹八分目に医者要らず。欲をかくものは、必ず天罰が落ちる。人生では何事もほどほどを心得ることが大切である。(了)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
「133」 ズビグニュー・ブレジンスキーという世界戦略家 の 経歴の情報を集めたもの。2010.9.11
副島隆彦です。今日は、2010年9月11日です。 続けて載せます。 ズビグニュー・ブレジンスキーという、極めて優秀な頭脳をした、ポーランド系の世界戦略家のことを調べていた時の情報文。たいした内容ではないが、ここに載せておく。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
● 2009/01/09(金)
デイヴィッドに勝ったジェイが、ブレジンスキーを利用している。 FEMAを創設したのもブレジンスキー 。
● カーター政権時の国家安全保障担当大統領補佐官。
『孤独な帝国アメリカ』『ブレジンスキーの世界はこう動く』
『大いなる失敗』『ひよわな花・日本』
「テクネトロニック・エージ―21世紀の国際政治」 (1972年)
ビグネフ・ブレジンスキー (著) 直井 武夫 (翻訳)
● ブレジンスキーは、「日本はアメリカの家来」(a vassal state 、ヴァサール・ステイト)とは言ってない。 de facto protectorateと言った。
de facto protectorate 「事実上の保護国」 →保護国 → vassal → 家来 となったようだ。
● ブレジンスキーの父親は、ポーランド第二共和国独立運動の闘士。 ポーランド共和国独立後は外交官。 ワイマールドイツ→フランス→ナチスドイツ→スターリンのソ連→カナダに赴任して、 ポーランド総領事としてカナダにいた。このときにナチスドイツとソ連がポーランドを侵略したために帰国できなくなった 。
戦争直前ナチスドイツに赴任していた。 このとき、すでに強制収容所に入れられていたユダヤ人を救い出そうと奔走した。 このことで、戦後にイスラエルから「正義の異教徒」(杉原千畝が死後に贈られたアレ)の賞を贈られている。
戦後は、ケベック州文部省に勤務しながら在カナダポーランド人協会の会長を長年務めた。 さらに世界ポーランド人協会を設立した名士中の名士だ。 1990年に93歳の天寿を全うした。 この父ありてこの息子あり
背景としてはポーランドの小シュラフタの家系に生まれ、父親はエリート外交官でナチス・ドイツ時代のドイツ、スターリン大粛清時代のソ連に赴任、一家で赴任したためズビグニェフ少年は歴史の貴重な目撃者でもある
父親の赴任でカナダに移った直後にドイツがポーランドに侵攻したので帰国できなくなって、アメリカに移りそのまま永住 。全体主義を憎む強烈な正義感・現実主義・マキャベリズムの共存はこの少年時代の体験からロシアの独裁者プーチンが内心最も怖れる人。
● 世界市民主義者
ポーランド史を知ってるとすぐわかるんだが、「ジェチポスポリタ」の思想とはまさにこれ
ポーランド王国の基本はコスモポリタニズムであり民族主義ではない
2006/05/19(金)
(以下は、ブレジンスキーの「(ユーロ・アジアの)グランド・チェスボード」の要約文 だ。副島隆彦註記)
ユーラシアというきわめて広大で、形の変わったチェス盤が、
「ゲーム」の場になっている。西部の勢力圏が拡大して中央部が
しだいに引き寄せられていき、南部を単独で支配する国が登場する
ことなく、東部が連合してアメリカ軍を近隣の基地から追放すること
がなければ、アメリカは優位を保っているといえる。しかし、中央部が
西部の勢力圏拡大を拒絶して独立独歩の統一をした勢力となり、南部を
支配するようになるか、東部の主要国と同盟関係を結んだ場合、
ユーラシア大陸でのアメリカの優位は、劇的に縮小する。東部の2つの
主要国がなんらかの形で連合した場合にも、同じことがいえる。
もうひとつ、西部の同盟国が西端周辺部の基地からアメリカ軍を追放
すれば、ユーラシアのチェス盤で戦われるゲームから、アメリカは自動的に
追い出される。もっともそうなれば、西端の地域はいずれ、中央部に位置する
復活した大国に従属することになるだろう。
現在の世界情勢を考えるなら、ユーラシアの新しい政治地図には、地政戦略上、
重要な参加者が少なくとも5カ国あり、要衝が少なくとも5カ国ある。
フランス、ドイツ、ロシア、中国、インドの5カ国が主要で活発な参加者であり、
イギリス、日本、インドネシアはたしかにきわめて重要な国であるが、参加者
としての資格を備えていない。ウクライナ、アゼルバイジャン、韓国、トルコ、
イランは決定的に重要な要衝の位置を占めており、このうちトルコとイランは
ある程度まで、地政戦略ゲームへの参加者であるとも言える。
この点で、韓国へのアメリカ軍の駐留を維持することがきわめて重要である。
韓国からアメリカ軍が撤退すれば、日本はもっと自立した防衛体制を構築しなければ
ならなくなるので、日米の防衛協力が現状を維持できるとは考えにくい。しかし、
南北朝鮮の再統一の動きが起きれば、アメリカ軍が韓国に駐留する根拠が脅かされる
だろう。統一が実現すれば、アメリカ軍の軍事的保護をいつまでも受ける方針を
選択しない可能性もある。中国が朝鮮半島の再統一にむけて影響力を行使した場合、
アメリカ軍の撤退がその対価になる可能性がある。要するに、アメリカの対中国政策
は、日米韓の安全保障関係に直接の影響を与える。
● 2008/11/08(土)
2008年9月20日、土曜の夜。 パキスタンの首都イスラマバードの都心部、
大統領官邸のすぐ近くの米国系高級ホテル(マリオット・ホテル)に、
推定爆薬六百キログラムを積んだトラックが突入し、大爆発が生じて
ガス管に引火し、六階建ての高級ホテルは全焼した。死傷者約三百名。
この事件は何を意味するか? その深層を知るためには、次の本が必読である。
(1)ブレジンスキー著「セカンド・チャンス」(邦訳あり)
ブレジンスキーによれば、一九八九年、ベルリンの壁の崩壊後、米国は世界唯一のスーパーパワー、世界の支配者たるべき第一のチャンスをみすみす逃した。その責任は、ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(息子)の三人の大統領にある。この三人の大統領は、第一のチャンスを捉えることに失敗した。二〇〇九年一月から始まる米国の次の大統領は、第二のチャンスを捉えなければならない。
第二のチャンスを捉える。 米英が、ロシアを滅亡させ、ロシアを占領し、ロシアの領土を・・・・そこで最高の戦略家たるブレジンスキーに任務を・・・・ブレジンスキーは、この戦略を実行させるべき次期米国大統領候補として、バラク・オバマを選んだのである。
ブレジンスキー戦略によれば、米英NATOがロシアを滅亡させるためには、ロシアをロシアから見て、西部戦線、南部戦線、東部戦線と、三つの方向から包囲すべし、と成る。しかる後、決定的戦略的攻撃方面は中共とロシアを分裂させることだ。つまり、SCO(上海協力機構)を解体して、中共をロシアと敵対させるのである。このために、中共を包囲 して締め付けるべしと。 かくして、パキスタンの不安定化とパキスタンの解体が目標に上る。
● 2008/11/08(土)
W・G・タープレイの新著「オバマ ― ポストモダン・クーデター」(二〇〇八年六月刊)
の序章「オバマ ― 二〇〇八年、CIA権力によるクーデター」。これは、七十四頁と、長大な章である。本書の約四分の一を占める。以下にその要点を列挙する。
(1)米英世界金融寡頭権力体制(オリガルキー)、または、英(ブリテン)米世界
帝国体制は、今、深刻な瓦解の危機にさらされて居る。
(2)ブッシュ=チェイニー=ネオコン一味の路線は、完全な失敗に終わった。
(3)彼らは、新しい戦略、新しいアジェンダ、新しい作戦計画を採用した。
(4)この新しい戦略を立てたのは、ブレジンスキーである。
(5)ブレジンスキー戦略の概要は、以下の如し。
[a]アメリカにファシズム国家体制を構築する。
[b]ここで、ファシズム国家とは、第一次世界大戦後、イタリーと、ドイツに樹立
された様な、草の根からの大衆の熱狂的エネルギーの動員を不可欠とする。
[c]ブレジンスキーは、この様な意味でのファシズム体制を米国に確立する為の
前提として、そのカリスマ的リーダー、オバマを二十五年かかって育成した。
[d]ちなみに、オバマの妻、ミシェル・バラク(黒人)は、本格的なファシスト
イデオローグとして育成された。
[e]ブレジンスキーは、勝負に出た!!
[f]米国をファシスト化して、米国をトータルウォー、米国の全力を、
ロシア打倒のための世界戦争に動員する、そのアジェンダに向けて。
[g]今回の米大統領選挙は、クーデターであって、通常の大統領選挙ではない。
[h]ブレジンスキー戦略の主要打撃方向は、ロシアである。ロシアの解体、占領である。
[i]ロシア打倒のための主要戦略は、中共をしてロシアのシベリア領(その石油、天然
ガス資源)を占領せしめることである。
プーチンのロシアはこの手の内を先刻お見通しである。 もちろん、ブレジンスキーも、プーチンが手の内を承知して居ることを知っている。
● 2008/11/09(日)
W・G・タープレイ曰く。 オバマ現象を理解するためには、「ファシズム」を 理解しなければならない、と。ファシズムは、次の如く定義される。
(1)ファシズムの最初は、ムッソリーニに率いられたイタリーのファシズム運動である。
(2)ファシズムは、支配階級が逃げ場のない、絶望的な危機に追い詰め られた時にのみ、登場する。
(3)そのような情勢下で、金融銀行寡頭権力国家体制は、左翼的外被を着けた、草の根からの急進的大衆運動を動員する。
(4)そのために、彼らは、カリスマ的指導者を見付けなければならない。
(5)そして、このカリスマ的指導者は、若くなければならない。
(6)このカリスマ的指導者は、大衆を魅了する雄弁家でなければならない。
(7)この指導者は、疎外に対する戦争 War on alienation を宣戦布告する。 疎外と、疎外を生み出す、すべてのものに対する挑戦とその克服を。
(8)彼は、団結と希望。一体性の回復を約束する。
(9)ファシズムは、疎外され分断された大衆を強大な大衆運動に結集する。
(10)議会と党派政治システムは、破産を宣告され、従って、消滅させられる。
(11)ファシストのカリスマ化された指導者は、大衆に犠牲と献身を要求する。
(12)ファシスト運動に必要な莫大な活動資金は、秘密のうちに、国際金融寡頭権力によって、供給される。
と言った具合である。
●(副島隆彦注記。以下の文を誰が書いたのか分からないが、甘い。ブレジンスキーはオバマを大統領にするべきだと、デイヴィッドに推薦したのは、事実だ。しかし、オバマは当選した途端に、力を奪われた。デイヴィッドの側近たち(ポール・ボルカーや、ロバート・ルービンら)に、完全に押さえ込まれた。ブレジンスキーの子飼いの(元々民主党人材の)ロバート・ゲイツ国防長官は、予定通り、民主党政権になっても横滑りで、留任した。
が、今はもうしゅんとしている。ジョー・バイデン副大統領とふたりで、苦虫を噛み潰したような顔をして、後ろに立っている。 オバマは、妻のミッシェルと二人で、しょぼんとしている。「逆らうと、殺すぞ」と、言われている感じだ。生(なま)の政治と言うのはそういうものだ。 副島隆彦注記終わり 以下の文は、誰が知らないが、甘ちゃんの文だ。)
2008年12月2日までに、オバマ次期大統領は、新政権の主要閣僚を決定した。 その中の、最も注目すべき人事は、国防長官にゲーツが留任したことである。つまり、ブッシュ共和党政権の国防長官ゲーツが、オバマ民主党政権の国防長官に留任したのである。
W・G・タープレイは、ゲーツが、カーター民主党政権期に、ブレジンスキー大統領補佐官の部下となり、その時から現在まで三十余年に亘って、ブレジンスキーチームの忠実な一員であり続けている、と述べている。 つまりゲーツは、この三十年来、ブレジンスキー戦略の軍事面を推進する実行役である。
三極委員会(TC)──ブレジンスキーがブッシュ政権のネオコン派を追い落とすことに成功した時、ブッシュ政権内ネオコン派の中枢ラムズフェルド 国防長官を追放して、ゲーツをその後任とさせた。これは、単純な「人事」ではない。 民主党内の大統領候補決定に於いて、オバマが優位に立ったことが明らかになった。
二〇〇八年六月、ブレジンスキー/オバマ陣営は、十一月四日の大統領選挙の結果が明らかになる以前に、事実上、米国の国家権力の中枢を、 プリンシパル・コミッティー、という形で掌握した。そしてこのプリンシパル・コミッティーのメンバーは、ゲーツ国防長官、ライス国務長官、ポールソン
財務長官、マレン米軍統参議長、その他である。
つまり、ブレジンスキー=オバマ派は、二〇〇八年六月以降、米国の軍事 力を指揮下に置いたのである。ブレジンスキー=オバマ政権はまもなく、ブッシュ政権からオバマ次期政権に権力を移行するための組織を、正式に確立するであろう。
その主力は、約三千人といわれる政治任命人事の決定である。このことの意味は、米国政府各省庁の中の政策決定権を有する高官の選定である。この人事決定に於いて、ブッシュ現政権期のネオコン派を完全に一掃して、要所に彼の一派を配置するであろう。
● (副島隆彦注記。以下の文は、ネット上に会ったものに、今、私が、かなり手を入れて、私の気に入るように改作した。副島隆彦注記終わり)
1979年(第1次アフガン戦争)から、ソ連はアフガニスタンに侵略(軍事侵攻)した。そして軍事占領してコントロール下においた。 首都カブールの、ソ連の傀儡(かいらい)政権のアフ ガン政権に対抗するために、ブレジンスキーガ、今日「イスラム原理主義のテロリスト」と呼ばれている、アルカイーダ(基地とか、出撃拠点と言う意味)の部隊を養成し、資金提供し始めた。だから、この構想を編み出したのは、ブレジンスキーであると彼自身が公然と認めている。
ブレジンスキー戦略は、ソ連がカブール政権を守るために、どうしてもアフガニスタンに侵攻するようにそそのかしたことだ。アメリカのライバルである超大国のお「ソ連に、”ベトナム(の二の舞)”をお見舞いしてやること」だった。 この計画によって、1979年から1989年の10年間のアフガニスタンのソ連占領期を通じて、百万人のアフガン人の生命が犠牲となった。がブレジンスキーは、そういうことは一向に気にしない。
ブレジンスキーが発案・構想して、育てた「(イスラム世界の)自由の戦士」たちは、ムジャヒディン(イスラム戦士)として知られるようになり、 後にタリバン、アルカイーダといわれるものになった。これが黒人だからリベラル派の大統領ということになっているオバマの背後にいて彼を育てた男である。
70年代のカーター大統領は、こと外交政策に関しては、実は、補佐官のブレジンスキーの了解なくしては、 何もできなかったことは周知の通りである。カーターを大統領に「選んだ」のも、デイヴィッド・ロックフェラーであり、ブレジンスキーである。カーターと馬があったのは、「人権外交」「正義の実現の外交」だ。この二人は、本気だったようだ。 ブレジンスキーが、「米欧日三極委員会」(トライラテラル・コミッション)のアイデアを創出して、デイヴィッドに受け容れられたのであるから、彼は、三極委員会の共同設立者である。
三極委員会と、フォード基金のような前線組織を含むブレジンスキーの広いネットワークは、、次にオバマを選んだ。 状況は同じである。あれこれの方針はブレジンスキーが立てる。オバマはそれ発表するだけである。ブレジンスキーが、ロシアと中国を巻き込む大きな世界戦争を仕掛けたがっていることを考えれば、これはかなり危険な兆候である。
こうして、オバマの政策は、ブレジンスキーの著作からのアイデアで出来ているだろう。ブレジンスキーの 本から引用されている。これらの文は、オバマが大統領選に出馬表明する前に書かれたものだ。
● 「社会の見直しが必要である。それは、利己的なものでなく、より高尚な目的に奉仕
するという考え方を重視した、計画的な市民教育によって実現されるであろう。この
ような対策が緊急に必要であるとすでに指摘している人もいるが、この方向性に
沿った具体策として、中心となるのは、すべての若者を対象に強制的に国のサー
ビスに従事させる期間を設けることであろう。それには議会で承認される国内外の
慈善活動も含まれるであろう」
どこかで聞いたことがあるような。
ブレジンスキーの目的は、世界政府をつくり、世界中央銀行、世界通貨、世界軍を創設し、地球規模のコンピュータと衛星システムに接続されたマイクロチップ埋め込み
人間によって支えられた地球規模の独裁体制を築くことにある。
ブレジンスキーは 1970年に『二つの時代の間に:情報ネットワーク技術時代の米国の役割 Between Two Ages: America’s Role in the Technetronic Era』という本を書いた。その中で、
彼と彼のご主人たちが押し付けようとしている地球社会の計画について述べている。
「情報ネットワーク技術時代では次第に社会の管理は強化されていくことになる。 伝統的な価値にとらわれないエリートによって支配される社会になるだろう。 やがて全ての市民には絶え間ない監視が行き届くようになり、市民の個人情報の大半は常に最新状態の完全なデータとして保たれることになるだろう。こうした データは、政府によって瞬時に検索される状態となる」
同じ本であるが、四十年近くも前にこんなことも書いている。
「現在、我々はまたしても超国家的なエリートの出現を目の当たりにしている…
…その結束は国境を越える……やがて、発展した諸国の社会的エリート達の
多くは、外見も中身も極めて国際主義、地球主義者になることであろう…民族
国家は次第に主権を明け渡しつつある……今後一層の進展にはより多くの
米国の犠牲が求められる。今日の比較的良好な米国の地位に対して必然的
にリスクをもたらすことになるが、より懸命な努力によって、新しい世界の
金融構造が形成されなければならない」
●(副島隆彦注記。以下の文は、はずれだろう。)
>ブレジンスキーの目的は、世界政府をつくり、世界中央銀行、世界通貨、世界軍を
>創設し、地球規模のコンピュータと衛星システムに接続されたマイクロチップ埋め込み
>人間によって支えられた地球規模の独裁体制を築くことにある。
それはない。 彼の目的は、アメリカや自由世界の力を利用してロシアを弱体化することによる、愛する祖国ポーランドの安全保障。 その最大の手段は、民族主義を排してコスモポリタニズムを広めること
これは15世紀のクラクフ大学学長パウルス・ウラディーミリがコンスタンツ公会議で提唱した、祖国ポーランドの 偉大で崇高な理念であり、ヨーロッパ初の民主憲法を制定したポーランド国家の基幹である「ジェチポスポリタ」の理念である。 ブレジンスキーはそれ以上のことは考えていない。
● 2009/01/05(月)
グルンヴァルドではハンザ同盟やプロイセン連合といったドイツ人の商工民(ブルジョワ)や、 チュートン騎士修道会に属さないドイツ人の僧侶は、みんなポーランド王国を支持した。
その半世紀後に、プロイセン連合は正式にポーランド王国 (ヤゲロー王朝?)に加盟する。たとえば、コペルニクスは、ハンザ同盟&プロイセン連合の都市である トルン で生まれた。東方ドイツ語が母語のコペルニクスは、ポーランド人であり、ポーランドのクラクフ大学でポーランド人としての教育を受けているのはそのためだ。
あの地方では、チュートン騎士団に属さないドイツ人は、みんなポーランド王国がよかったと思っている。理由は、ポーランドが、20世紀のアメリカのように自由で豊かで寛容な国だったからだ。 ポーランド人は、ポーランドの各地方の部族だけでなく、そのほかにドイツ人、リトアニア人、ルーシ人、チェック人、 スコットランド人、オランダ人、デーン人など、多くの民族が混血している。
ポーランドとドイツが民族的に分断していった端緒は、ポーランド消滅後 しばらくして、ナポレオン戦争にケーニヒスベルクが巻き込まれて、当地のドイツ人の商工民(ブルジョワ)に民族意識が高まってからだ。フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」の演説と本が、そのことを象徴している。
チュートン騎士団は、”邪悪な全体主義者の暴力集団”である。このチュートン騎士団やナチス、そして共産主義者と戦うのは、 諸民族の救世主であるポーランド が負った崇高な使命である、と考える。 ブレジンスキーはその伝統的な「正義のために戦うポーランド人」の典型だ。
彼はやっぱり ”ジェチポスポリタ(正義の国家) の シュラフタ 」 だ 。 「タデウシュの子供たち」の一人だ。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
「132」 農林中金 という 罪深い農協の親玉銀行が、やがて確実に破綻・消滅してゆくことの新聞資料。 2010.9.11
副島隆彦です。 今日は2010年9月11日です。
続けてどんどん載せます。農林彫金という、罪深い、農協JAという、実際には、農業、百姓などやってもいない、本当の農民たちの上に胡座(あぐら)をかいている、本当に罪深い 地主団体は、 54兆円の自己資産( JA農協全部では、154兆円ぐらい)のうちの、おそらく20兆円を、外債投資、すなわち、デリヴァティブ に投資して、そして、これらの金融詐欺商品は、やがて、NYで、すべて吹き飛びますから(おそらく2012年までに)、一円も返って来ないでしょうから、すなわち、農林中金は、消えてなくなるのです。 私は、ずっと、冷酷にそのように自分の諸本で書き続けました。副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
●「農林中金:3000億円増資へ グループで自力調達…「公的資金は不要」の立場を強調 」
日経新聞 2008年10月28日
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20081028AT2C2703227102008.html 農林中央金庫は27日、年内にも3000億円規模で資本を増強する方針を固めた。
下部組織である全国の信用農業協同組合連合会(信連)から永久劣後ローンによって
調達し、自己資本を厚くする。
国際的な金融市場の混乱の影響で、農中は保有株式や債券などの価格下落に
見舞われている。農林系金融機関が連携して自力増資することで財務の健全性を
高める。
政府が国会に提出している金融機能強化法改正案で、農中は公的資金の注入対象の1つ。「万が一の事態にも備えた政府の方針は歓迎する」(農中)としながらも、自力で資金調達できるため「現時点で公的資金は不要」(首脳)との立場を強調している。
● 日経新聞 2008年10月28日
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20081028AT2C2703227102008.html 農林中央金庫は27日、年内にも3000億円規模で資本を増強する方針を固めた。
下部組織である全国の信用農業協同組合連合会(信連)から永久劣後ローンによって
調達し、自己資本を厚くする。
国際的な金融市場の混乱の影響で、農中は保有株式や債券などの価格下落に
見舞われている。農林系金融機関が連携して自力増資することで財務の健全性を
高める。 政府が国会に提出している金融機能強化法改正案で、農中は公的資金の
注入対象の1つ。
「万が一の事態にも備えた政府の方針は歓迎する」(農中)としながらも、自力で資金調達できるため「現時点で公的資金は不要」(首脳)との立場を強調している。
●「経済政策、今国会に提出する金融機能強化法改正案、農林中金も注入対象 申請期限2012年3月」
日経新聞2008年10月21日
地域金融機関への公的資金の予防注入を可能にするため、政府が今国会に提出する金融機能強化法改正案の全容が20日、明らかになった。信用金庫、信用組合、労働金庫の上部機関に加え、農林中央金庫を一括注入の対象として明記。その上で農協・漁協などの個別金融機関に資本を割り振れるようにする。申請期限は2012年3月末までとする。
改正案は信用金庫など協同組織金融機関による貸し渋りを防ぐため、上部機関に国が予備的に資本注入できる枠組みを新設する。対象は信金中央金庫、全国信用協同組合連合会、労働金庫連合会、農林中金の4機関。
● (副島隆彦注記。2008年12月12日に、 金融機能強化法 が、可決した。これで農林中金を救済(=公的資金投入)することが決まったに等しい。副島隆彦注記終わり。)
農林中金は、農協そのものだ。 日本中の百姓が預けたカネを運用している。それがどれくらいの規模かというと、総資産61兆855億円と公表されている。
りそなホールディングスが、39兆円、住友信託銀行が20兆、日本で一番大きな銀行である三菱UFJフィナンシャルが194兆円。だから、農林中金の61兆円というのは大銀行レベルである。これらの資金は、ほとんどが農家(百姓)が預けた資金だ。
問題はその運用先である。普通の銀行は客からカネを預かって客にカネを貸す。たとえば194兆円の総資産を持つ三菱は、中小企業に43兆円を貸している。これは、総資産の22.4パーセントに当たる。
他の銀行も、りそなが56.0パーセントである。どの大銀行も、少なくとも20~34パーセントを中小企業に貸し付けている。この銀行からの貸付資金で、日本経済がまわっている。
ところが不景気で、銀行からの資金の借り手が少ない。正確に書けば、借り手が少ないのではなくて、銀行から融資(資金の貸付)を受けることが出来る条件を満たす企業が少ない。 銀行からすれば、安全な(安心して貸せる)融資先が増えないので、集めたカネをなんとか運用しなければならない。だから、銀行の決算帳簿上は有価証券という勘定科目になる、日本国内や外国で発行(起債)される債券(証券化商品)を大量に買った。それで銀行は自分の手持ちの資金を運用した。
ここでいう有価証券とは、米国債や日本国債や、その他もろもろである。中央三井トラスト・ホールディングスが36.3パーセントと多いんだが、他の銀行はだいたい20パーセント前後だ。
ところが、農林中金は有価証券が59.3パーセントと異常に多いわけだ。逆に、中小企業向けの貸し付けは1.3パーセントの7685億円しかない。まぁ、百姓も中小企業には変わりはないので、
百姓は預けるだけで借りないという事になります。誰だよ、百姓は借金まみれで大変だ、とか言ってるヤツは。
もっとも、そんなに農業が儲かるのか?というと、そんな事はないです。百姓が預けるカネというのは、兼業で稼いだサラリーとか、土地を貸して得たカネとかです。今の「農家」というのは、「農業」ではなくて、「不動産管理業」になっているわけだ。大都市近郊はもちろん、静岡県でもほとんどの農家がソレです。
まぁ、戦前までは小作だったのが、農地解放で土地を手に入れ、その土地が高度成長で高く売れたり貸したりと、なんだか詐欺みたいなんだが、マッカーサーが決めた事なので仕方ないんだが、コレって、役人の高給と並んで今の社会の不公平の象徴になっているわけで、もう一度、百姓から土地をとりあげて再分配する仕組みでも考えたらどうかと思うんだが、連中は土地には物凄い執着心を発揮するので難しいですね。
● 「農林中金 5800億円の資産カサ上げ」
日刊ゲンダイ2008年12月9日
http://news.www.infoseek.co.jp/gendainet/society/story/12gendainet02039482/ 時価会計緩和を活用
「公的資金は不要」と言い続ける「ノーチュウ」の“ヤセ我慢”はいつまで続くか。国
内最大の機関投資家「農林中金」が公表した08年9月中間期決算の内容は予想以上に
ヒドかった。保有する証券化商品関連の含み損が1兆5737億円に達し、経常利益は
前年同期比9割減の205億円となった。
農林中金は早速、当初予定していた3000億円規模の増資計画を見直し、1兆円の
資本増強を行うと発表。財務体質の健全性をアピールするのに躍起だが、これで本当に
大丈夫なのか。
「実は今回の決算には“カラクリ”があります。有価証券の評価基準で、農林中金は今
中間期から認められた『時価会計の緩和』を適用。それによって、有価証券の評価額は
市場価格よりも5759億円高くなった。違法ではないが、帳簿価格の“カサ上げ”で
す」(経済ジャーナリスト)
時価会計の一部緩和は、米欧が相次ぎ運用や基準を見直したことに伴う対応で、国内
でもメガバンクや地銀などで適用が相次いでいる。だが、その“改善額”は「三菱UF
Jフィナンシャル・グループ」で約1200億円、「三井住友」で約1480億円。農
林中金の額は突出しているのだ。
金融庁の佐藤隆文長官は3日に都内で開いた会議で、「企業の財政状態を公正、正確
に示し、損失が発生すれば迅速かつ正確に開示すべき」と強調した。行き過ぎた時価会
計の停止や緩和を求める声に懸念を示した格好だ。その流れに逆行したかのような今回
の決算。
当の農林中金は「有価証券の評価は、会計ルールにのっとったもの。これを『カサ上げ』というなら、ルールって一体何なのかということになる」(広報部)と反論する。 それにしても決算書で「経営者の合理的な見積もりに基づいて……」と、4行の追加情報を記しただけで、6000億円近くの「改善」って……。やっぱり何かヘンじゃないか。
●「農林中金が「2兆円覚悟」で増資大号令」
2009年1月号 (12月初に発売だろう。副島隆彦注記) FACTA(ファクタ)誌
中間決算発表では「外国証券投資の含み損1兆円超」だったが、この含み損がやはり実質2兆を超えているようだ。
「大変ご心配をかけてお詫びする。リスク管理に不十分なところはなかったか、反省すべきところは反省したい。反省点をひとことで言えば時価(による)ブレ。公正な価格と市場価格の乖離が想定を超えた。百年に一度の出来事とはいえ、今後はそのシナリオも備えたい」
11月27日、農林中央金庫は日銀記者クラブで2008年度9月中間決算 を発表、会見に臨んだ上野博史(うえのひろし)理事長は、 驚くほど神妙だった。 農林水産省事務次官時代は鼻っ柱が強く、「ちびっ子ギャング」と呼ばれて農水大臣はおろか、財務大臣に何を言われようともビクともしなかったが。
●「外資のカモ・農林中金…1兆円増資でも足りない実態-増え続ける投資残高」
産経新聞 2008年11月27日
http://www.zakzak.co.jp/top/200811/t2008112742_all.html 1兆数千億円の巨額資本増強に踏み切る農林中央金庫。ただ、金融界では「この程度の増資では
足りないのではないか。国会で審議中の金融機能強化法改正案の活用も必要になるだろう」(金融幹部) との声がもっぱらだ。麻生政権が大きく揺らぐなか、「自民党の支持基盤の1つ」(野党)とされる農林中金 は正念場を迎えている。
農林中金のサブプライム住宅ローン関連を含めた証券化商品への投資残高は9月末時点で、6兆
8230億円。驚いたことに、金融危機で市場が混乱するなか、3月末と比べて7823億円も増えているのだ。
これとは別に、2つの米住宅金融会社、連邦住宅抵当金庫(ファニーメイ)と連邦住宅貸付抵当公社 (フレディマック)の住宅ローンを担保にした証券の保有残高が3兆4568億円ある。
前述の証券化商品と合わせ、実に10兆2798億円もいわくつき商品に投資しているわけだ。 米証券大手リーマン・ブラザーズが9月中旬に破綻する1週間前に、米政府はファニーメイとフレディマック に公的資金を注入する方針を発表。その後も追加支援策を打ち出し、当面の破綻を回避しているが、 農林中金はいつ破裂するか分からない“時限爆弾”を抱えていることになる。
「農林中金は約3兆円の自己資本に対し、損失が発生する恐れがある証券化商品を約10兆円も抱えている。これは、自己資本を吹き飛ばすのに十分な規模だ。“導火線”に火がつく前に、公的資金を予防的に資本注入できるようにしておこうというのが、国会で審議されている金融機能強化法改正案の狙いだ」と金融関係者は指摘する。
【金融】金融機能強化法で改めて問う、農林中央金庫の意義 (民主党参議院議員・藤末健三)[08/10/29]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1225340140/l50 【金融】農林中金、来年3月期の経常利益予想を下方修正…3500億円→1000億円に [08/11/06]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1225982458/l50 【金融】農林中金:1兆数千億円増資へ 国内企業で過去最大規模…海外投資の損失が膨らみ [08/11/26]
●「農林中金が09年3月期の経常利益予想を下方修正」
2008年11月6日 東京、ロイター
農林中央金庫は2008年11月6日、2009年3月業績予想(単体)を下方修正し、経常利益を従来予想の3500億円から1000億円に引き下げると発表した。前年実績は3527億円だった。米国発の金融市場の混乱で保有する有価証券に損失の発生が見込まれるため。
2008年9月中間決算は、経常利益が200億円程度(前年同期は1506億円)の見込みで、証券化商品の大幅な下落で、有価証券の損失は1013億円になるという。損失の内訳は証券化商品で810億円、株式関連で202億円。中間決算は11月27日に公表の予定。
同時に、農中は2008年9月末の証券化商品の証券化投資のエクスポージャーを開示し、債務担保証券(CDO)、住宅ローン担保証券(RMBS)、資産担保証券(ABS)などを含め、合計で6兆8230億円になると発表した。3月末から7823億円増加している。
また、これとは別に、米国の政府系住宅金融機関(GSE)関連の債券への投資残高は9月末で3兆4568億円。3月末から2兆1758億円減少した。農中は、金融市場の混乱に対応するため、資本増強を予定している。
● 「危機感ゼロ 農林中金トップのゴルフと料亭」
週刊新潮 2008年12月25日号 (2008/12/17発売)
http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/ http://www.shinchosha.co.jp/magazines/nakaduri/446/ AIG幹部の泊りがけゴルフ旅行と、ビッグ3全米自動車メーカーの自家用ジェットと・・・全国末端のJA単協職員は涙目になって無謀な農林中金増資資金の勧誘に日夜駆けずりまわっているときに。
● 「7代目農林中金理事長 上野博史 (「平成の米騒動」時の食糧庁長官)」
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumu/1213620861/858 http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumu/1224155314/888 http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumu/1224155314/281 農協による自殺促進
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/agri/997819747/ ● 「 農林中金の波紋広がる 」
2008年12月16日
福岡データマックス社
http://www.data-max.co.jp/2008/12/post_3880.html の記事 によると、証券化商品への投資による損失で、系統下部組織に 1兆円超の資本増強を
要請している農林中金の余波で、新規就農者への支援融資に待ったがかかっている。ある30代男性は自己資金を用意した上で今年の春から新規就農の相談を農協と進めてきたが、突然に就農支援での資金貸付ができなくなった旨を農協から伝えられたという。
"本来金融業務"に支障が生じるようなスクイーズ(信用収縮) が発生すると、逆に、農林中金段階で、含み損を損きりし、実現損としてから、その差分を最低限、資本増強に求めるべきだ。
以前、ブログ記事「JAバンク(農協)は、ライファイゼン原則に回帰すべし」
http://www.sasayama.or.jp/wordpress/?p=806 で、系統金融は、その原点に返るべしと主張した。
● ネット上にあった無署名の文
「農林中金 積極運用の罠 」
農協 貯金82兆円 (農家など)
↓
預け金 56.3兆円 都道府県段階の信連
↓
預け金 29.5兆円
↓
こうして集めたおカネを
預金 38.8兆円
農林債 4.8兆円
その他 14.3兆円
資本金など純資産 3.2兆円
こう「運用」していた
貸出金 9.7兆円
金銭信託 7.9兆円
有価証券 36.2兆円 ★
その他 7.1兆円
日本国債 8兆8022億円
外国債券 13兆9234億円
このうち ファニーメイ、フレディマック などの 米エージェンシー、モーゲージ債 3兆4568億円 その他 11兆2581億円 を購入している
このうち 資産担保証券(ABS) 2兆8805億円 住宅ローン担保証券(RMBS) 7554億円
商業用モーゲージ担保証券(CMBS) 6701億円 債務担保証券(CDO) 2兆4416億円 計10兆円余
● 「農中の理事長は、次官までで5億円、退職後で5億円。合計10億円也」
農林水産省解体廃止「工程表」。 1940年体制の残滓でしかない 「農林水産省」体制はまるごと整理解体廃止処分するしかない。
● 「 ジャパンタイムズのなかの気になる一行 」
投稿者:笹山登生 投稿日:2008/12/20(Sat) 20:01
ジャパンタイムズのこの記事
「Institutions wary of FSA meddling under bank recapitalization law」
http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nb20081218a3.html は、法改正なった日本の金融機能強化法についての記事だが、その最後に、こんな気になる一行が---
"If Norinchukin Bank, the de facto central bank for agricultural cooperatives, applies for public funds, it will be required to use them only for financial businesses."
「もし、事実上の農業協同組合向け中央銀行である農林中金が、この公的資金注入の適用をうけるとなると、 これは、ただ農林中金のこれまでのフィナンシャル・ビジネスのために、これら、公的資金を使うということになるだろう。
たしかに、そのとおりなのだろう。 昨年8月のサプライム問題発生以後も、ナンピンまがいの巨額投資を続けた農林中金のフィナンシャル・ビジネスのために公的資金が使われるとなると、このような異論も、世論に増えてくるのだろう。 英字新聞だけは本当のことを書く。
● 農林中金には傘下に全国の農協と漁協が有る。農協や漁協は協同組合なので農協が潰れたら農家が責任を持って負債を返済する義務を負っている。だから、恐慌に突入して、農協の資産価値がどん底になって破綻すると、農協の組合員たちは責任を分担しなければならない。 それらから集めた資金の運用機関(エイジェンシー、機関投資家)であり上部団体である農林中金は、もはや潰す(破綻させる)しか無い。
では、その潰し方をどうするか。上野博史・現農林中金理事長が、1996年に住専破たん処理・信連救済で、日本政府(大蔵省)に、6450億円の国庫資金を救済投入させしたのときの、農水次官であり、今も農水官僚の“ドン“だが、当時から農業関係者の英雄だった。そして、今、”農水省のドン”上野の評価は、地に堕ちた。
● 北海道信連の中間決算、自己資本比率6.84%へ降下 。内部留保ゼロ 。破綻懸念先
農林水産省金融調整課 、金融庁監督局総務課協同組織金融室(農水省の出向先)
●「全役員の報酬削減へ=増資は最大1.5兆円-農林中金 」
日経新聞 2008年12月26日
● さすがに破綻したら、借金清算の財政赤字で日本と日本人そのものも酷い目に遭う。
組織を改良して再編してくれ。 頼むから実害が大きすぎるから破綻させないでくれ。後は官僚たちを始めとした慎重な関係者の調整をして、何とかしてくれ。
● 岡島正明 鶴岡俊彦 上野博史
鶴岡の死亡原因(急性肺炎)も怪しくなってきた
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=松岡利勝 ウルグアイラウンド 6兆
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=九頭竜川 土地改良事業 談合
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=水土里ネット 野中広務
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=野中広務 非合法活動
松岡大臣の自殺には疑問がある、と週刊誌が取り上げている。死因が何であれ、裏には相当な「闇」があると想像できるが、インターネットで農水省関連を引くだけでも浮かび上がってくるものがある。
全国に張り巡らされた緑資源機構のネットを見ると、小泉首相が断行した郵政改革の構図を髣髴とさせるからである。「緑資源機構」を検索するだけで相当な情報が手に入るが、先日、たまたまスカパーチャンネルを見ていたところ、野中ひろむ氏とあるジャーナリストの対談が放映されていて、その中で野中氏が「全国“ミドリ”ネット」という組織があると語っていた。
野中氏は、“ミドリ”とは「水・土・里」だと解説したが、その「全国水土里ネット連合会」の会長を「私が務めている」と野中氏自身が語っていた。それで、農水省関連HPに示されている「ミドリネット」の本部が、「砂防会館○号室」となっていたわけが理解できた。
農水省、厚労省・社保庁の一連の「騒動」の裏には、政党を巻き込んだ巨大な「闇」が広がっているのではないか?この強大な「機構」と戦う組織が、法務省、警察庁だけで大丈夫なのだろうか?と聊か気になる。
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070612 ● 農林中金が、2008年末を期限にして、傘下のJAや信連に強制して、1兆数千億円の増資 (資本増強)した。 しかし、これでも農林中金の経営危機を解決することではない。 2008年9月末決算(公表済み)時点で、開けた損失金の穴は2兆円だ。 そのあとももっと保有する外国債券の価格は下がっている。最後は紙切れになる外国債券がたくさん出てくるだろう。 農林中金は、現在時点で、外債投資で一体何兆円損失を出しているのか。 責任者(経営陣)や担当者に、背任行為や重過失が有ったはずだ。
検察庁は、徹底的に調査して摘発すべきだ。しかし、そういう犯罪調査はしない。農林中金の幹部たちは、農水省の幹部たちの天下りだから、日本の検察は、自分たち自身が、法務省官僚の片割れだから、この天下り元農水官僚たちを刑事立件できないし、しない。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
「131」 毒舌家のポール・クルーグマンMIT教授が、「日本に謝罪しなければ」と、ペロリと白状したの記念碑となる2009年4月13日の事件の記事を集めたもの。2010。9.11
副島隆彦です。今日は、2010年9月11日です。次も、もう一年半前の記事です。続けてどんどん 載せます。私の4台目のPCが、壊れる前に。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
● 「 「日本に謝罪」…かつて対日批判急先鋒の米ノーベル賞教授」
2009年4月14日 読売新聞 ニューヨーク、山本正実
「私たちは、日本に謝らなければならない」――。 2008年のノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン米プリンストン大教授は13日、外国人記者団との質疑応答で、1990~2000年代のデフレ不況に対する日本政府や日本銀行の対応の遅さを批判したことを謝罪した。
教授は、「日本は対応が遅く、根本的な解決を避けていると、西欧の識者は批判してきたが、似たような境遇に直面すると、私たちも同じ政策をとっている」 と指摘。 「(3月で8・5%と)上昇する米失業率を見ると、失われた10年を経験した日本より悪化している」 と述べ、経済危機を克服するのは予想以上に難しいとの見方を示した。
クルーグマン教授は 90年代後半、日銀にインフレ目標を設け、徹底的な金融緩和を促す論陣を張るなど、日本批判の急先鋒(せんぽう)だった。 また、景気回復の見通しについては、「(景気判定では)今年9月に景気後退が終わっても不思議ではない。しかし、失業率は来年いっぱい上昇し続け、回復は実感されないだろう」 とし、極めて緩やかな回復になるとの見方を示した。
「1930年代の大恐慌では、景気の落ち込みには、何度か休止期間があった」とも述べ、回復に向かったとしても、一時的なものにとどまる可能性を指摘した。
● 「米経済は日本の「失われた10年」と似た境遇 クルーグマン教授」
日経新聞 2009年4月14日 ニューヨーク、山下茂行
昨年のノーベル経済学賞を受賞したプリンストン大学のポール・クルーグマン教授は13日、ニューヨーク市内で講演し、米景気について 「1930年代の大恐慌以来の厳しさ」との認識を示した。日本の失われた10年と 「似たような境遇に直面している」との見方も表明し、米経済の深刻さを強調した。
同時に このほど緩和が決まった時価会計については 「金融機関の損失処理には時間を稼ぐことが必要」 として一定の評価を与えた。日本では不良債権の実態把握が遅れたことが長期の経済停滞を招いた一因とされ、米国の時価会計の緩和も金融危機の全体像の把握を遅らせるとの見方があるが、クルーグマン教授は当面の危機回避のために容認する姿勢を示した。
● ( 副島隆彦注記。以下は、池田信夫 という 馬鹿 の文 らしい )
「 クルーグマン、日本に謝罪する 」
2009/04/15 23:13
クルーグマンの政治とのかかわりは、1982年にレーガン政権のスタッフになったことから始まる。そのころは、いわゆるレーガノミックスにそって自由貿易を推進していたのだが、クリントン政権では大統領経済諮問委員会の委員長候補とされ、本人もあからさまに「ポストに興味がある」と語ったが、結局ポストにはつけなかった。この戦略的貿易政策は、そのとき猟官運動のために書いたもので、国際経済学の常識である自由貿易を否定する理論だ。
ところがポストが得られないことを知ると、クルーグマンは1994年に「競争力という危険な幻想」という論文を発表して、自由貿易主義者に変身する。その後は、エンロンの顧問をつとめて笑いものになったり、ブッシュ政権を罵倒するコラムを毎週書いて、Economist誌に「片手落ちの経済学者」と皮肉られたりした。
要するに、その時その時で理屈を変えて世の中に媚びてきたわけで、昨年のHurwiczとは逆の、経済学者の卑しい部分を代表する人物だ。経済学がいかに都合よく結論にあわせて「理論」を編み出せるかを示すには、いいサンプルだろう。彼は学問的に新しいことをやったわけではないが、ジャーナリストとしては一流だから、代表作はNYタイムズのコラムだろう。(引用)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/781e960ab853e3bad264344658000004● Jキャストニュース と言うサイト から
「 ノーベル賞米経済学者 かつての対日批判を謝罪 」
2009/4/15
ノーベル賞経済学者のポール・クルーグマン米プリンストン大教授は2009年4月13日、外国人記者団に対し、日本政府や日本銀行がバブル崩壊後のデフレ不況に対応するのが遅れたと批判したことを謝罪した。
クルーグマン教授は、「日本は対応が遅く、根本的な解決を避けていると、西欧の識者は批判してきた。しかし、似たような境遇に直面すると、私たちも同じ政策をとっている。上昇する米失業率を見ると、失われた10年を経験した日本より悪化している」と反省の弁を述べた。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
「130」 愛国者・中川昭一が、ローマG7で、2009年2月14日に酩酊事件の謀略に遭い、やがて非業の死を遂げた事件の関係のメディア資料。2010.9.11
副島隆彦です。 今日は、2010年9月11日です。 この第2ぼやき に 何も載せないで、半年が経ちました。私は、通常、4台のPCを使って、ネットにつないで作業をします。そのうちに1台が、非常に動きがのろくなって、もうすぐ使えなくなるでしょう。
それで、急いで、このPCに保存してたった、私が集めた情報文を、この「第2ぼやき」に載せようと思いました。 思い立ってからでも、2週間が立ちました。何でも急いでやらないと、私、副島隆彦というマシーン もそのうち、機能障害を起こして、頭に次第にボケ症状が起きて、使えなくなるでしょう。 急いでやります。 それが、のちのち、世の中の為(ため)になると信じているからです。
日本の愛国政治家・中川昭一は、非業の死をとげました。彼の魂が、きっと、いつの日か、日本国民の総意で、慰められる日が、きっと来るでしょう。私には、そういうことが分かります。
副島隆彦拝
(転載貼りつけ始め)
●(副島隆彦注記始め。 以下が、のちのち重要な、毎日新聞の18日の記事である。記事の末尾の 「毎日新聞の記者は、中川氏との会合には、いずれも出席しなかった」の一文が光っている。毎日新聞は、中川昭一つぶしの謀略・策動に加わっていないことを書いている。偉い。)
「中川財務相 G7昼食会抜け出し、同行記者とワイン」
2009年2月18日 2時38分配信 毎日新聞
「薬の飲み過ぎ。酒の影響ではない」--。ローマG7での「もうろう会見」で17日引責辞任した中川昭一財務・金融担当相は、最後まで原因はカゼや腰痛など薬の併用だったと強調した。しかし、G7閉幕後の内外記者会見の直前、同行の記者らと会食してワインを口にしていた事実も判明するなど、疑惑は深まるばかりだ。
中川氏はG7出席のため13日昼、羽田発の特別便に搭乗。同行筋によると、機内のファーストクラスの席でカゼ薬などを多めに飲んだ上、酒も飲んだという。約13時間のフライトを経て同日夕(現地時間)にローマに到着。 直後のガイトナー米財務長官との初の日米財務相会談やG7夕食会は無難にこなした。
その後、中川氏は男性新聞記者など「親しいひとたち」(中川氏)とサンドイッチをつまみながら、ジントニック3~4杯を飲んだ。その際、睡眠薬を服用したという。深酒のためなのか、睡眠薬のせいなのか。同行筋によると、翌14日午前8時15分からイタリア経済・財務省で始まったG7会合の際には、体調がひどく悪い様子だったという。G7昼食会でもワインが出たが、中川氏は「口はつけたが、ゴックンはしていない」と説明している。
ただ、中川氏は午後1時50分まで予定されていた昼食会を1時ごろに途中退席し、宿泊先の高級ホテル「ウェスティン・エクチェルシオール」に戻った。
予想外の行動に財務省同行筋は対応に追われたが、中川氏はホテルの1階のイタリアレストラン「ドニー」に移動、財務省の玉木林太郎国際局長や日本から取材で同行した女性記者、イタリア人通訳など数人で会食した。
レストランの支配人によると、中川氏らは午後2時ごろから、ビッフェ形式のサラダとパスタとともに赤のグラスワインを注文。中川氏はここでの飲酒について「本当に口をつけた程度」と話す。
中川氏は、女性記者らとの会食について「たまたまそこにいて、話を聞かれたから」と説明したが、中川氏は昨年9月の財務相就任以降、G7などの海外出張では同行の女性記者を集めて飲食を行うことが恒例化していた。今回のG7でも、中川氏と麻布高校の同期で、東大法学部の同窓でもある玉木局長が一部の女性記者を招いたという。
「約30分ほど」(レストランの支配人)だった飲食後に中川氏は午後2時50分から約15分、同ホテル内でロシアのクドリン財務相と日露財務相会談に臨んだ。この際、麻生太郎首相を「麻生大臣」と言い間違えるなど、言動に不安定さもみられた。
その後、部屋に戻り30分ほど財務省幹部らと打ち合わせをした。中川氏は「打ち合わせは仕事であり、酒を飲むことはない」としている。だが、午後3時45分からの内外記者会見の前にはすでにろれつが回らない状態だった。
政府・与党からも「あんな状態の中川氏になぜ会見させたのか」と財務省の対応を疑問視する声も出ているが、「G7という世界が注目する会合であり、すでに会見の時間も設定されていた。欠席させればよかったというのは後知恵で、とうていできる状態ではなかった」(幹部)と財務省は説明している。
毎日新聞の記者は、中川氏との会合には、いずれも出席しなかった。
● ネット上に有る 越前谷知子(えちぜんやともこ) 関係の URL 一覧表
読売新聞経済部 越前谷知子
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1234971558/読売新聞経済部 越前谷知子2
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1235114210/読売新聞が自社サイトから「越前谷知子」記者の情報を削除
http://topic.nifty.com/topic_detail/index/general/politics/211992越前谷知子記者抹消計画
http://slashdot.jp/~LARTH/journal/467936中川元大臣の今回の事件。はじまりは某巨大掲示板にされたこんな書き込み
>中川大臣に慰労会と称して酒を大量に飲ませ泥酔会見をロイターに予告した
「会見は面白いことになるわよ」
<<< マスゴミによる中川潰しの証拠隠滅まとめ・コピペ拡散推奨 >>>
2/14、中川元財務・金融担当相はG7昼食会を1時ごろに途中退席し、財務省の玉木林太郎国際局長や日本から取材で同行した女性記者など数人で会食
↓画像キャプチャ
http://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00018.pngここでの「日本から取材で同行した女性記者」とは、読売新聞・編集局経済部の記者である「越前谷 知子」氏である。この件がネットで暴露されてから、読売新聞は自社サイトから越前谷氏の情報を削除している。
●削除前画像キャプチャ
http://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00010.png●削除後画像キャプチャ
http://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00012.png学生向け就職情報サイト「LET'S」に掲載された越前谷氏のインタビュー。
●削除前画像キャプチャ
http://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00013.pnghttp://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00014.pnghttp://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00015.png同時期、時事通信においては、いったん配信した記事から、IMFのストロスカーン専務理事による
日本と中川氏に対する「過去に例のない最大の貢献」という評価コメントを削除している。
●削除前画像キャプチャ
http://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00016.png●削除後画像キャプチャ
http://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00017.png●読売新聞記者 越前谷 知子氏経歴
1年目(1996年4月)宇都宮支局。宇都宮中央署などを担当。
6年目(2001年7月)東京本社地方部。地方版のレイアウトを担当。
7年目(2002年5月)経済部。夕刊経済面などを担当する「エコノMIX」や、経済産業省を担当。
8年目(2003年6月)第一子出産のため、産休、育児休暇を取得。
10年目(2005年4月)職場復帰。育児短時間勤務制度を使い、エコノMIXで夕刊経済面など担当。
11年目(2006年8月)流通クラブ担当。
現在(2008年9月)5月に日銀クラブへ。銀行担当。
PRIVATE TIME
趣味は溺愛中の息子(5歳児)。平日会える時間が少ない分、土日はたっぷり一緒に。
遊園地に動物園、プールではしゃぐ息子の姿を見ると、こちらも気分がリフレッシュ!
最近は庭でバーベキューが定番です。
越前谷 知子氏はこんな顔
http://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00010.pnghttp://www3.uploader.jp/user/60008/images/60008_uljp00013.png越前谷知子さんは、玉木林太郎(財務省国際局局長)の愛人だというネタがあがっています。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2009/02/post_a219.html・読売新聞記者・越前谷知子、中川大臣を合コンに呼び出してお酒の席へ(公式晩餐会出席予定だったのに)
↓
・越前谷知子、中川をグデングデンに飲ませて、泥酔状態にさせた(もしくは別の何かを盛った可能性も)
↓
・「記者会見おもしろいことになるわ」とAP・ロイターに通報 ・主に外国人記者によるブログで海外に広まった
当の読売新聞は
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090220-OYT1T00305.htm 読売新聞東京本社広報部の話「衆院予算委員会で取り上げられた14日の昼食に本紙記者が同席していたことは既に本紙で報じた通りです。G7取材の一環であり、記者は昼食の間、携帯電話に、原稿の問い合わせなどを受けて数回にわたり席を外したため、中川氏がワインを飲んだところは見ていません。中川氏はろれつが回らない様子ではありませんでした。記者自身はグラスに口をつけていません。前日の13日夜も他社の記者とともに中川氏と軽食をとりながら取材しました」
●(激震・麻生政権 だと? 激震なのは、読売新聞よ、おまえのところだろ。
犯罪を実行したのだぞ。その女記者は。副島隆彦注記)
「中川氏会見の経緯、財務省が説明」
激震・麻生政権
2009年2月20日09時52分 読売新聞
財務省の玉木林太郎国際局長は19日の衆院予算委員会で、中川昭一前財務・金融相が、ローマでの先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後にろれつの回らない記者会見を行った当時の経緯を説明した。
玉木氏は、G7前日の13日夜、中川氏の要望により、読売新聞など4社の同行記者(男性2人、女性2人)との懇談が行われたことを明らかにした。そのうえで、「記者の所属公表の是非について確認をお願いしているが、2人は『公表を控えてほしい』。1人からは回答が届いていない。1人は読売新聞」と説明した。
また、翌14日には、中川氏が政務秘書官、玉木氏ら財務省職員3人、通訳、中川氏の知人とレストランで昼食を取り、その直前に取材に来た読売新聞の同行記者も同席させたことを認めた。昼食の時間は35分~40分程度で、中川氏がワインを注文したが、「口をつけた程度の飲み方しかしていない」と述べた。
玉木氏によると、中川氏の体調不良に気づいたのは、昼食後に行われた日露財務相会談の席上で、会談後、中川氏は30分程度休息を取った。その後、中川氏が「もうやろう」と言って記者会見場に向かったが、「すたすたと階段を下りた」足取りなどから、記者会見での事態は「予測していなかった」という。
これに対し、質問に立った民主党の川内博史氏は、財務省職員の補佐にも問題があったと追及。篠原尚之財務官は「大臣の仕事を補佐する身として、必ずしも十分でなかった」と述べた。
読売新聞東京本社広報部の話 「衆院予算委員会で取り上げられた14日の昼食に本紙記者が同席していたことは既に本紙で報じた通りです。G7取材の一環であり、記者は昼食の間、携帯電話に、原稿の問い合わせなどを受けて数回にわたり席を外したため、中川氏がワインを飲んだところは見ていません。中川氏はろれつが回らない様子ではありませんでした。記者自身はグラスに口をつけていません。前日の13日夜も他社の記者とともに中川氏と軽食をとりながら取材しました」
● アルル君のブログの 2009年2月18日から (副島隆彦注記。でかした、アルル君。流石である。 )
・・・・・・なお、「2ch」では、中川に酒を飲ませた女性記者の名前が既に取りざたされている。毎日新聞ががんばっているようだ。
2009/02/18 中川財務相と飲酒の読売記者、紹介ページから消える
http://zarutoro.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-939d.html▽中川蔵相が当日会見前に酒席を供にした女性記者。
読売新聞:越前屋知子
日テレ :原聡子
ブルームバーグ:下土井京子
● 「中川辞任、財務省の“謀略”説も…情報流出が早すぎる 」
産経新聞(ZAKZAK) 2009年2月18日
扱いにくい大臣として有名
中川騒動は米紙ウォールストリート・ジャーナルが1面で報じたほか、英各紙も写真付きで大きく報じた(共同)
中川昭一前財務・金融相の辞任騒動をめぐり、永田町ではさまざまな情報が飛びかい、謀略説すら出始めている。14日にローマで開かれたG7(主要7カ国財務相・中央銀行総裁会議)後の記者会見で、中川氏がろれつが回らない醜態をさらした背景や経緯に関する情報流出が詳細かつ早過ぎるのだ。「麻生内閣を見限った霞が関、特に財務省周辺が動いたのでは」(自民党筋)という見方が出ている。
18日の毎日新聞朝刊の「検証ローマの2日」という記事は痛烈だった。中川氏が14日のG7昼食会を途中で抜け出し、ホテル内のレストランで財務省局長と同行した女性記者、イタリア人通訳ら数人と会食したと指摘。
この席で、≪ビュッフェ形式のサラダとパスタとともに赤のグラスワインを注文≫≪昨年9月の財務相就任以降、G7などの海外出張では同行の女性記者を集めて飲食を行うことが恒例化していた≫と報じた。
中川氏は夕刊フジなどの取材に「ワインは口に含んだだけ」と証言しているが、気になるのは一連の情報が流れた経緯だ。
「泥酔疑惑」が問題化したのは15日午後だが、翌16日には「G7昼食会後、問題の記者会見までに正式日程にない会食があった」との情報が流れ、17日午前には「新聞社と民放のEさんとHさんという美人記者が同席していた」「会食をセットした財務省局長は中川氏のお気に入り。ワインのソムリエの資格を持っている」という個別情報まで広まった。
中川氏は16日夜まで大臣留任に意欲を燃やしていたが、17日午前に委員会出席をキャンセルして病院に。同日昼、財務省内で記者会見して来年度予算案と関連法案の衆院通過後の辞任を表明したが、野党の徹底抗戦の姿勢を受けて同日夕に辞任した。
この水面下で、前出のような情報戦があったのは間違いない。自民党中堅は「情報流出が詳細かつ早過ぎる。同席した女性記者からというより、霞が関関係者、特に財務省周辺から漏れたのではないか。中川氏は『扱いにくい大臣』として有名で官僚らに敬遠されているうえ、内閣支持率の低下から『麻生内閣は長くない』と見限ったのでは」と語る。
中川氏には酒にまつわる数々の失敗がある。それだけに、かつて中川氏が大臣を務めた経産省の幹部も「そもそも、あんな状態で中川氏に記者会見させたことは財務省にも問題がある。日銀総裁だけに任せる方法もあったのではないか」と、同省の危機管理のあり方に大きな疑問を投げかけた。自民党支配の終焉とともに、永田町と霞が関の固い絆も綻びつつあるのか。
● ネット上にある下品な文。
・・・・中川昭一はアメリカに嫌われていた。 アメリカに対し堂々と「てめぇの不始末のケリはてめぇで着けろ」と言い放ち、「今まで散々自由市場主義を押し付けてきたくせに、いざとなったらバイアメリカンでは困る」と 苦言を呈した。
「日本は属国」くらいに思っていた米国側からすれば、腹に据えかねる相手だ。おまけに狙っていた日本の外貨準備100兆円の一部を勝手にIMFに融資してしまった。さて、その融資の調印式での中川昭一の不可解な行動である。最大の疑問点は「なぜ周りは止めなかったのか」であろうと思う。
同行していたのが判明しているのは、読売新聞記者で"アンチ麻生の急先鋒 "越前谷知子氏。
そして、財務省の玉木林太郎局長。玉木氏の経歴を見るとこう書かれている。「駐米公使を経て06年国際局次長」
● ところが、イギリス首相官邸のHPにはこう書いてある。
ttp://www.number10.gov.uk/Page18332
Question:
The Japanese Finance Minister, Mr Shoichi Nakagawa, has resigned yesterday because he was apparently drunk at the G7 meeting. What do you make of his miserable behaviour and what do you make of the miserable Japanese economy now?
Prime Minister:
Well I am looking forward to meeting the Japanese Prime Minister and whoever is the Finance Minister when it comes to the G20 meeting. We will be meeting all the time, I don’t think there will be time off for many of the events that you are talking about that happened in Rome.
Your Finance Minister has actually been very ambitious in some of the things he has
recommended, as has your Prime Minister to the world community and I do look forward to working with Japan, particularly its proposals to strengthen the international financial system.
I don’t think there will be time off for many of the events that you are talking about that happened in Rome. はまあいいとして、 Your Finance Minister has actually been very ambitious in some of the things he has recommended は中川を誉めている。麻生も誉めている。
●「「麻生降ろし」自民党内で公然と、中川財務相辞任から一夜」
読売新聞 2009年2月18日
中川昭一前財務・金融相の辞任から一夜明けた18日、自民党では「麻生降ろし」が公然と語られ始めた。後藤田正純衆院議員は同日午前、党本部で記者団に、「首相には危機管理能力、信頼、誠実さがすでになくなっている」と語り、首相退陣を要求した。夜には、棚橋泰文・元科学技術相や世耕弘成参院議員、平将明衆院議員ら中堅・若手議員約10人が都内で開いた会合で、「麻生首相は交代すべきだ」などの意見が相次いだ。篠田陽介衆院議員は会合後、「今の体たらくに、ストレスがたまって爆発しそうだ」と記者団に不満をぶちまけた。(略)
◆中川秀氏攻勢 反麻生の急先鋒(せんぽう)である中川秀直・元幹事長は、月内にも議員連盟を発足させる予定だ。テーマは「政治の信頼と責任」という。「反麻生」の受け皿を狙っていると見られる。 中川氏は18日、都内で自民党町村派の議員と会い、「もう麻生さんじゃ厳しい。麻生さんは引きずり下ろそうとしても辞めない性格だが、5月には党内から動きが出るかもしれない」と語ったという。
● 「麻生首相では選挙にならない」
毎日新聞 2009年2月19日
自民:森・青木・山崎3氏 読売新聞・渡辺恒雄氏、日本テレビ・氏家斉一郎氏らが会談。 自民党の森喜朗元首相と青木幹雄前参院議員会長、山崎拓前副総裁は18日夜、東京都内で会談した。今後の麻生太郎首相の政権運営や国会対策などをめぐり、意見交換したものとみられる。会談には渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長兼主筆と氏家斉一郎日本テレビ放送網取締役会議長が同席した。
●「自民の森・青木氏ら会談「麻生首相では選挙にならない」
朝日新聞 2009年2月19日
自民党の森元首相と山崎拓元幹事長、青木幹雄前参院議員会長らが18日夜、東京都内の日本料理店で会談した。出席者によると、中川昭一財務相の辞任を受けて「麻生首相の下では選挙にはならない」など、複数の出席者が次期衆院選は厳しいとの認識を示したという。会合には、渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長らも同席した。
● 「「対等な日米関係を」小沢氏、クリントン長官に強調
読売新聞 2009年2月17日23時44分
クリントン米国務長官と談笑する民主党の小沢代表(17日午後9時9分、都内のホテルで)=代表撮影
民主党の小沢代表は17日のクリントン米国務長官との会談で、「対等な日米関係」を目指す考えを強調した。 北朝鮮の核廃絶は難しいとの見方を示すと、長官も当面は、核の削減を目指す考えを示すなど、アジア情勢でも活発な意見交換をしたが、アフガニスタン政策など、見解が対立する課題には言及しなかった。
長官は冒頭、「日米同盟をさらに強固にするために努力していこう」と訴えた。小沢氏は「全面的に同意する」とした上で、「同盟は一方が一方に従う従属の関係ではいけない」と持論を展開。在日米軍再編については「世界戦略を話し合い、合意を得た上で個別の問題に対応することが大事だ」と指摘。「今までの日本政府はきちんと主張をしないことが問題だった。日本人がたとえ困難な役割でも責任を果たす覚悟がなかったからではないか」とも語った。
また、「中国の民主化をいかにソフトランディング(軟着陸)させるかが最大のテーマだ」と述べたのに対し、長官は「日米中のトライアングル(三角形)が大事だ」と応じた。
小沢氏はオバマ政権のアフガン政策に批判的だが、会談では触れなかった。党内には「具体的な外交政策は政権を取ってから検討すればよい」との声もあり、衆院選前に踏み込まない方が得策と判断したようだ。
長官は小沢氏の地方出張に配慮し、午後9時過ぎから都内のホテルで会談する異例の日程を受け入れた。会談で小沢氏は「配慮に感謝している。次の衆院選で勝たなければ長官には再び会えないので、(日程調整の経緯は)理解して欲しい」と述べた。会談は約30分で、民主党からは菅代表代行、鳩山幹事長らが同席した。
●(副島隆彦注記。以下の時事通信の記事は、2月18日ごろに、さらにその下に載せた記事に書き換えられた。おかしな事態である。)
「IMF拠出で署名=過去最大の1000億ドル-中川財務相」
時事通信 2009年2月14日
中川昭一財務・金融相と国際通貨基金(IMF)のストロスカーン専務理事は13日、日本政府がIMFに最大1000億ドル(約9兆円)を拠出する取り決めに正式に署名した。IMFの資金基盤を強化し、金融危機を受けた加盟国への資金提供などを後押しする。
日本政府は昨年11月の主要20カ国・地域(G20)金融サミット(首脳会合)で、麻生太郎首相が提案の目玉として表明していた。
加盟国支援が必要になった場合、要請を受けた日本が約100兆円の外貨準備からIMFに貸し付ける形で拠出する。加盟国による資金提供としては過去最大で、ストロスカーン専務理事は「人類の歴史上、最大の貢献だ」と謝意を表明。財務相は「有効活用を期待したい」と述べた。
●「IMF拠出で署名=過去最大の1000億ドル-中川財務相」
ローマ 2009年2月13日 時事通信
中川昭一財務・金融相と国際通貨基金(IMF)のストロスカーン専務理事は13日、日本政府がIMFに最大1000億ドル(約9兆円)を拠出する取り決めに正式に署名した。
IMFの資金基盤を強化し、金融危機を受けた加盟国への資金提供などを後押しする。日本政府は昨年11月の主要20カ国・地域(G20)金融サミット(首脳会合)で、麻生太郎首相が提案の目玉として表明していた。
【読売/検証】中川氏はG7後の記者会見前に昼食を取った。その席に読売新聞記者も同席してたが中川氏が飲酒している所は確認していない★2
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1234964127/-100 越前屋、おぬしもワルだのう。読売グループとブルームバーグです。
この三人が結託(あるいは騙されて)して、財務官僚の篠原尚之財務官と連合しているだろう。財務官ポストは、榊原英資、行天豊雄などのように後に外資系顧問に天下りする場合もある。
(貼り付け開始)
財務省国際局長「出入り禁止」 虚偽答弁として民主
民主党は18日、中川昭一前財務相がもうろうとした状態で記者会見した問題に絡み、財務省の玉木林太郎国際局長が参院財政金融委員会理事会で虚偽の答弁をしたとして、財務省に対し、納得できる説明がない限り、玉木氏を同委員会と党財務金融部門会議に「出入り禁止」にすると通告した。
玉木氏はローマの先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)に出席した中川氏に同行。財政金融委の民主党理事によると、玉木氏は17日の理事会で、G7閉幕後にホテルで行った打ち合わせの様子を「同席していたが、中川氏が飲酒したかどうかは見ていない」と説明した。 しかし、別の同席者などから「玉木氏が中川氏に酒をついでおり、見ていないとは考えられない」と複数の証言が寄せられ、玉木氏が虚偽答弁をしたと判断したという
2009年02月18日水曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2009/02/2009021801000813.htm(貼り付け終わり)
追加、サイバッチだから、本当かどうか微妙ですが、イタリアの「ワインの会」に出席したのは、その玉木の愛人だったそうな。
(貼り付け開始)
14日、G7後の記者会見で醜態をさらした中川昭一財務大臣ですが、会見1時間半前に、宿泊先ホテルの「ウェスティン・エクチェルシオール」内のイタリアレストラン「ドニー」で財務省の玉木林太郎国際局長らとワインを痛飲。玉木が連れてきた女性は玉木の愛人だったそうです。なんか、女性記者が同席という話がちらほらと出始めていますが、朝日も毎日も「他紙の記者」と書いていますよ。「他紙」でそこですかぁ?
【サイバッチ!】中川財務相、会食相手は「愛人記者」1214[02/18//09]から
● 月刊FACTA 2・19 「日本テレビ「罪深き老害」経営 」
民放界のドン、82歳の氏家(うじいえ)議長を囲む役員の平均年齢は74歳。常軌を逸した公私混同が罷り通っている。 昨年(2008年)12月、氏家議長は自ら名誉会長を務める石原伸晃衆院議員の資金集めパーティーで怪気炎を上げた。
「石原伸晃を総理大臣にするために、後援会名誉会長を引き受けた。伸晃君を盛り立てる一点でやる。 みなさんは同志だ。公私混同はしないつもりだ。ただし、今回、混同するかもしれませんよ。(選挙が)危ないから」
石原氏は元日テレの政治部記者。 氏家議長は「何が悪い」と開き直るだろうが、筆者には常軌を逸した公私混同としか思えない。公共の電波を使用するテレビ会社の首脳が、政治家の後援会の名誉会長を務め、総理大臣にするために応援せよと発破をかける。さらに自ら「公私混同するかもしれませんよ」と放言するとは、世の中を舐めていないか。
月刊FACTA 2・19
日本テレビ「罪深き老害」経営 ② ナベツネと並ぶ政界の黒幕
放送局のトップは社会的良識があってしかるべきだ。もしNHK会長なら、即座にクビだろう。いかに民放の倫理観がゆるくとも、そのトップが「元社員を総理にする」と公言すればさまざまな影響が及ぶ。政治的な中立は報道のイロハだが、日テレでは通用しないのだろう。その政治的偏向を疑わざるを得ない。
しかし氏家議長はどこ吹く風だ。石原氏は2007年12月に山崎派入りしたが、山崎拓・自民党元副総裁は「日テレの氏家議長のご指名でお迎えした」と発言している。そのお墨付きがいかに有難いものか。選挙結果を左右する民放キー局のパワーは絶大なのである。
政界の黒幕といえば読売の渡邉会長が有名だが、「氏家さんはフィクサーの役回りをナベツネさん(渡邉会長)と競い合ってきた」と日テレ元役員は批判する。氏家議長は東京・汐留の日テレタワー最上階のゲストルームに自民党長老らを呼びつけ、「ナベツネとともに政界鞍馬天狗を気取っている」というのだ。
日テレタワーには2系統のエレベーターがあり、その一方が、氏家議長が陣取る高層階に直通する。 森喜朗氏(71)、青木幹雄氏(74)、山崎拓氏(72)ら自民党長老が人目を避けるように、この直通エレベーターに乗り込み、氏家、ナベツネ両氏の待つゲストルームで密談に及ぶ。
ある自民党議員は「あのゲストルームで安倍後継は福田に決まった」「読売が仕掛けた大連立の発火点にもなった」と断言する。渡邉会長が新聞界のドンなら、氏家議長は民放界のドン。 両氏は読売の「同期の桜」で刎頸の友である。その指南を仰ごうと、有力議員が集まるのも無理はない。しかし、マスメディアのトップには節度が必要だ。それが完全に欠落しているのが両氏である。
● (副島隆彦注記始め。 ネット上にある書き込み。アメリカの手先の公安警察関係者の書き込みだろう。副島隆彦注記終わり)
中川昭一(ROMAで泥酔)大臣のお酒にまつわる武勇列伝:
①天皇皇后両陛下主催の宮中晩餐会で、酩酊、泥酔の上、宮様に対して
大声を出した。実際は大声を上げながら宮様に向かって行った→強制退場、理由は不明。
②選挙開票日に酩酊。泥酔し勝負達磨の目玉を入れる際べったりと墨を付け過ぎてしまい両目とも豪快な号泣、涙目にし達磨を(周囲を)激しく困惑させる。
③自民党内の会合で泥酔、注意した同僚議員と口論→大喧嘩→強制退場。
④国会質疑中に脱糞疑惑。小便だけだ!と本人の弁。
⑤泥酔してラーメン屋の看板に落書する。怒った店主がひらがなからカタカナに書き換えた。酔った中川氏が後日現れ再度落書き。理由不明。
⑥北朝鮮拉致被害者の会合に、激しい二日酔いで現れ、突然大声を出して被害者に絡む。理由不明。ノーネクタイ。
⑦ベロベロに泥酔した上、頭にネクタイを巻き付けた格好で新橋駅付近で踊り、職質を受ける。大声も出していた。
⑧ 自宅周辺の路上で大声を出す。歌も大きな声で歌っていた。
⑨自宅周辺の公園のベンチで朝まで寝ていた。散歩中の、自分の飼い犬に発見される→救出劇、目撃者あり。大声はなし。
⑩自宅近所のバス停に向かって、大声で怒鳴り散らしながら、絡んでいた。目撃者の話しでは非常に興奮した様子で激しく怒っていたとの事。
⑪ イタリアG7の公式会見で酩酊、泥酔していたにもかかわらず嘘の証言。
● (副島隆彦注記。ネット上にある「二・一七事件」という中川昭一失脚事件を扱った真迫小説。)
(2009年2月14日のローマ)G7の会場で、各国要人と会談前、中川財務大臣はいつもの様に自分の使命を再確認した。 「保護主義(引用者注。アメリカ政府が導入しようとしている「バイ・アメリカン」政策のこと)は良くない。日本の為にも、そして世界の為にも、このG7会議で断固としてアメリカの要求には応じてはならないし、米国債を掴まされる訳にもいかない…」
中川は常日頃から思っていたことがあった。正直者が馬鹿をみる様な、そんな世の中は変えなければならない。 証券会社、保険会社、銀行、そして政治家達…彼らは説明責任を果たすべきである。経済危機で多大な被害を受ける弱者がいる一方で、原因を作った者達は贅沢三昧している。この様な状態が続くのは後の人達にも大きな損失だ。
先進7カ国で構成されるG7の中で日本の立ち位置というのは極めて特殊といえる。
EURO(ユーロ通貨)の様な大きな経済圏に入っている訳でもないし、アメリカとの主要貿易国とはいえ、カナダ程密接ではない。日本は孤立していた。ひとつ言えることは日本の今回のG7での大きな使命は保護主義へのけん制であり、それは世界、とりわけアジア各国の国々の代表としての使命であった。
G7の会場への扉が開いた。各国の財務大臣、中央銀行総裁がゆっくりと自分の席に向かう。席に掛けると日銀総裁の白川が口を開いた。「今日は荒れそうですねぇ…」 各国要人が席に着く。会議が始まった。
各国大臣、総裁が資料を読みあさりながら小声で囁く様に話して、時々他国に対して発言する。中川は近年のGDPや為替、失業率、各株価インデックス、金利に関連するデータ、インフレ率、各国の国債に関する資料、 各国の財政収支と貿易収支、工業生産や農業に関する資料、各国銀行自己資本比率に関する資料、消費者物価指数、果てにはCDS指数まで一通り目を通した。隣の白川にも横目で気を配りながら、何度となく見てきたデータを見てやはり状況は確実に悪くなっていると感じた。
アメリカ「我々はこれからますます紙幣の発行量を増やすつもりだ、しかし基軸通貨としてのドルは 不滅なので 問題は無いでしょう。これから我が国は工業化を進めていく為、バイアメリカンを検討している」
フランス「EUROはこれから為替変動の幅を抑えていかなければならない。もはや西ヨーロッパ各国の不満は爆発寸前だ。 もしアメリカが保護主義に走るのであれば、我々も追従していかざるを得ない」
イギリス「すでにわが国の失業者は200万人を超えている! 我々も工業化を進めていきたいが、こうも需要の落ち込みが激しいとなると…」
アメリカ「経済がブロック化していくのはある程度はやむを得ないのかもしれない」
ドイツ 「しかし、バイアメリカンなどをされてしまうと我々も厳しいし、途上国をはじめ必ず反対勢力が力をつけてくる」
中川「保護主義はするべきでは無い。アメリカにとっても一時しのぎの対策にしかならないのは目にみえている」
アメリカ「ではどうしろと? まだ騙し騙し貿易赤字を垂れ流せと? 中川大臣、今我々の財政も国債もどの様な状態にあるか知らない訳ではなかろう」
中川「堅調なアメリカ経済は世界経済の要だ。支える意思はある。」
アメリカ「以前、為替介入で生き延びてきた外需頼みの日本の成長路線はとりあえず諦めて頂く必要がある。今回は我々も必死なのだ」
中川「ええ、それは理解しています」
アメリカ「日本はまだいいが、我々は、新興国の製品を輸入していく程の体力は無い。それほど内需の落ち込みと失業率の増加は深刻だ。」
イタリア「しかしもう破産寸前の国もありますが…」
アメリカ「仕方があるまい。いざとなったらIMFだ。資金を増やしておく必要があるな…誰か」
中川「私どもが1000億ドル出資いたします」
カナダ「しかし大丈夫なのか? 日本のGDPは火の車ではないか」
中川「出資できるときにしておくのが定石ですよ。IMFの場合は将来、出資した資金は返ってきますしね」
形式ばった会議が終わり、写真を撮り終えたとき、中川大臣の肩に手が乗った。
アメリカ「中川君、あとで私の部屋に来てくれないか?」
アメリカ「一体どういうことかね?君はIMF以前に我々の国債を買い支える義務がある訳だが」
中川「そちらが保護貿易に移る姿勢を崩さない限りは検討しないつもりです」
アメリカ「何を生意気な…君はかつてのミスター福田と同じ間違いを犯すつもりかな?」
中川「・・・・・・」
アメリカ「まあいい。今日はもっと大事な話をする為に君を呼んだのだ。本当だったら、竹中元大臣のはずだったのだ。彼だったら話が早かったのだが」
アメリカの両横に黒いスーツ姿の男が座る。
アメリカ「彼らはね、投資会社Mの会長と保険会社Aの役員だ」
中川「・・・」
アメリカ「一体どういうことかね? 君は小泉元総理の発言(アメリカとの約束)を(引き継ぐことは)考えられない、と。あれはどういうことかね?」
中川「言葉の通りです」
アメリカ「まさか自分のしていることは理解しているよな? 日本の郵貯と簡保は我々にとって大事な資金だ」
保険会社役員「我々はすでに日本の市場に新しい商品投入準備も整っている」
投資会社会長「正直、最後の望みだ。頼むから邪魔しないでくれ」
長い言い争いが始まった。十分程過ぎただろうか…アメリカは恐るべきことを口にした。
アメリカ「ご存じの通り小泉元総理をロシアに向かわせる訳だが…」
中川「! まさか…アメリカの…」
アメリカ「フフフ。彼はうまく・・・・ヤッてくれるはずだ」
中川「そんなことさせるとでも? 今すぐ麻生総理に連絡します。彼もロシアに行きますから」
アメリカ「無駄な足掻きだが、念の為言っておく。今、言ったことはトップシークレットだ。 変な気を起こさないことだ、君のお父さんの様になりたくなかったらな…」
中川「なん…だと…」
アメリカ「では、失礼」
ポンと肩を叩き、アメリカは出て行った。中川は立ちつくした。涙が溢れているのが自分でも分った。帰り際にアメリカが一言叫んだ。「日本のメディアが君の見方すると思うなよ!」
中川は考えた。いったいどうするのがベストなのか? 麻生総理に電話を掛ける。その姿は国の為に死んでいった特攻隊と重なるものがあった。 中川は自分の政治人生より小泉とアメリカの暴走を食い止めることを選んだ。そして彼はヒラリークリントン来日の元、第二の福田になることを決めた。しかし僅かながらタイムラグがある、どうすれば自分は自分の意思ではないかの様に辞任できるか。マスコミを逆手に利用する方法は無いのか…
中川は酒に手を伸ばした。普段常用する精神剤を多めに飲む。 これが(この後、彼が帰国してから日本国内で)起きた「二一七事件」である。
(転載貼りつけ終わり)
副島隆彦拝
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