希有の思想家であるアーサー・ケストラーの「宗教と科学をなぜ分けたのか論」の解説が、以下に、簡略にしてあります。このケストラー論を書いてネットに載せた人物も、なかなか優れた理解力だと思います。こういう人ほど、ネット隠者(いんじゃ)として、自分の姓名、素性を明らかにしない。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
第2部 アーサー・ケストラー
第3章 科学思想家としての評価
ケストラーの科学思想家としての活動は主に2つに分けることが出来る。それは即ち、「科学史家」としての時期、そして「科学思想家」としての時期である。
それではまず、「科学史家」としての活動であるが、科学史の著作には広く定評がある。この頃の著作の代表的なものは、宇宙観の科学史をテーマにした「夢遊病者たち("The Sleepwalkers",1959) スリープウォーカー 」であろう。この書の序文に、ケストラーがこの書を執筆するに当たっての問題意識として以下の様に書いている。
「第一に、科学と宗教は2本のより糸であるといいたい。
この2つは、ピタゴラス派兄弟団のなかでは、神秘主義と学 者を、不可分な一つのものにしていたが、時代とともに分裂や 結合を繰り返した。
もつれて結節を作ったりどこまでも平行して進むだけの関係 を続けたりしながら、最後には、今日見られるように、『信仰 と理性という〔階段のない〕二階屋』という礼儀正しくはある が、救われようのないものになってしまった。
今日では、科学の側でも宗教の側でも、それぞれを象徴する ドグマに化してしまい、両者が共通の源から霊感を得ていた事 実が見失われるにいたった。
過去における宇宙観進化の研究は、この観点からすると、こ ういう苦境から抜け出すための出発点がどのようなものとして 考えられなければならないかを、明らかにしてくれるとおもわ れる」
「わたしは、かなりの期間にわたって、発見の心理学的過程 に 関心をいだいてきた。発見は人間の想像力の極めて簡明 な現れである。
しかし真理は、誰かに見いだされ、その結果それが胸がは りさけるくらい明白になるまでは、ひとを逆に盲にしてお く」・・・・
「科学の進歩は、ふつう、上を指し示した一直線のきれい な合理的な歩みを進めてきたように考えられている。しかし 、実際には、それはジグザグ行進をしながら今日に及んだの で、時には政治思想の進化よりもひどい場面があった。
特に宇宙論史を見ると、それは誇張ではなく、集団的強迫 観念と統制的精神分裂症の気味があったといえなくはない。 実際、極めて重要な個別的発見の幾つかは、電子計算機的頭 脳を想像させるよりはむしろ、夢遊病者の行動を思わせるも のであった」
この様にしてケストラーは「革命的」と表されている科学者が如何に「革命」以前の科学の概念の枠組みに拘束されていたか、を原典を詳細に検証する事によって明らかにしている。
従来の科学史(かがくし)のように「革命的」科学者というものを理想化・英雄視せずに、具体的な生身の人間として捉え、彼らの科学的創造に迫ろうとしているのだ。
さらにケストラーは、ケプラーやコペルニクスを通じて、科学の発展には危機や推移の時期があって、しばしば発展の流れに劇的な変化が起こること、そして変化の後には概して新しい路線にそう安定化や過度の専門科に堕ちると指摘する。
トーマス・クーンの「科学革命の構造」ほどは展開され理論化されてはいないものの、ここに「パラダイム」の見解と同一のものを見ることが出来る。
なお、「夢遊病者たち」は「科学革命の構造」の参考文献の一つに数えられている。
こういった科学史の著作に関しては「素人」故の着眼点に高い評価が与えられている様だ。「今日の科学哲学の専門家には十代な過誤が見られるが、ケストラーはそうした過誤から免れているアマチュアの一人だ」と科学哲学者ファイヤアーベントは評価する。
人間の創造活動の源泉を究明するというこの書のもう一つのテーマは1968年に刊行された「創造活動の理論」へと受け継がれて行く。この頃が「科学思想家」への転換期であろう。
「創造活動の理論」の中では、人間が「突然に」何か新しいことをひらめくのは何故かということを論じている。例えば科学者は、ありふれた事実と一般的自然法則との結びつきを「突然に(直観的に)」発見する。時としてその「結びつき」は既存の理論や通念と矛盾もしくは相反したものとなる場合もある。
ケストラーはこの様な創造的変革または独創性に関する理論的説明として、「双連性(bisociation)」という概念を創出する。
双連性とは、ユーモア、思考、芸術および科学における独創的創造といった一見何も関係ないような様々なプロセスの根底にケストラーが見い出した構造である。
ケストラーは、その各々について一貫性を持っているが、伝統的には相互にそれぞれ退け合うとされてきた2つの準拠枠の中に1つの状況または概念を認め、この2つの準拠枠の対立を克服して新たな統合を達成するところに、新しさが生まれ、発見がおこなわれるのだと言う。
つまり、これまで全く関連の無かった2つの認識の枠組みが、新しい平面で融合して1つになること、これこそが創造活動の本質であると考えたのである。
このようなケストラーの「創造的変革」や「独創性」といった主張は、行動主義の基盤を否定する。
そして、行動主義批判はその依って立つところの還元主義批判へと繋がってゆく。「科学思想・科学方法論」の分野での最も充実した著作は「機械の中の幽霊」であろう。内容については本稿第1部第3章を中心に詳述したので省略する。この著作の中でに述べられているホロンの概念の根底にはあるのは有機体的世界観である。
ケストラーはこの視点から行動主義、新ダーウィニズム、そして還元主義(かんげんしゅぎ、reductionism リダクショニズム、全体を細かい要素にどんどん小さく分けて行くこと。副島隆彦九注記)を批判する。
このケストラーの主張は、1968年の「アルプバッハ・シンポジウム」に結実した。
これはケストラーの呼びかけでアルプバッハに集まった15人の著名な科学者たちが、還元主義に基づく「機械論的世界観」を論駁(ろんばく)し、人間行動に於ける人間価値を容れ得る新しい展望を持つ科学の総合をめざして論議し合ったものである。
この中には経済学者F.A.ハイエクも含まれる。
ケストラーのこの主張は科学の他の領域からの研究者の動向と相まって、還元主義的世界観に対する疑念を抱いた新しい科学の潮流の一つを作り上げたのだ。
しかしまだ、依然として正統科学は還元主義である。ケストラーはこれをユニークなユーモアで指摘する。「機械の中の幽霊(ゴースト・イン・ザ・シェル)」の巻末に付された「死馬に鞭うつなということについて」というエッセイがそれである。
それはこの様な内容だ。
「ある秘密結社が陰謀の網の目を幾重にもはりめぐらせてい る。その秘密結社とはSPCDHだ。SPCDHは
"The Society for the Prevention of Cruelty Dead
Horses" (「死馬への鞭うちを禁止する協会」)の頭文字 を取ったものである。
ケストラーによるとこの協会の活動内容は、学問研究の場に於いて、死馬を鞭うつような真似をやめ、古くからある良識を守るよう我々に促すというものである。
しかしそれは表向きのものであって、本当の狙いは、混乱した社会やモラルの低下をもたらすと我々が考えている「究極的原因」や理由などは、そのほとんどがもう既に消えて無くなっているか、適切な処置が講じられて除去されているのだと我々を言いくるめてしまうことにある。
この協会の連中の言うことには、その様なことをいまだくどくど論議するのは、死馬に鞭打つような野蛮な行為である。
ケストラーは「死馬に鞭打つな」という批判に対し、死馬は死んでいないどころかまだ元気でピンピンしていると反駁する。
「死馬」とはこの場合、明らかに「行動主義」である。
さてこのケストラーの「ホロン」概念であるが、ここで問題とすべきはその有効性であろう。こういった概念を導入することによりどの様な新境地が開かれるのであろうか。単なる現象記述(それはそれで意味があるだろうが)に留まってはいないだろうか。
単にINT傾向とSA傾向の2つの相反する傾向の両極性を説くだけでは森羅万象にもっともらしい説明を加えることが出来るだけではないのだろうか。
この批判に答えるためには、そもそもホロン概念がどの様な問題の解決を図って考え出されたかが重要である。それには「社会思想」としての評価を考えに入れるべきであろう。それは次章で述べることにする。
さらにケストラーの著作はESP(イー・エス・ピー、超能力) などの「神秘的」領域へと踏み込むことになる。
1972年刊行の「偶然の本質」のなかでケストラーは、最近の超心理学の発達を取り上げ、これが今世紀の素粒子物理学の発展とある面で奇妙に符合していることを指摘する。そして、この両者が相補って現代の新しい知的状況を作り出していると述べる。
普通「偶然の一致」として無視されてしまうことをユングの"Synchronisity"の概念を用いながらシステム論的に探ろうとしている。これは前世紀に確立した還元主義的な現代の主流科学が硬直し、偏狭になっており、如何に最先端の科学とズレてしまったのかを主張しようとしているのだ。この領域でのケストラーへの評価は賛否別れるところであろう。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
私は、昨日から今朝にかけて、今日のぼやきの広報ページの「846?」番として、「信仰と理性=合理(ラチオ、リーズン、強欲と拝金)は一致するという思想」を史上初めて作った神学者たち、を遂に見つけたぞ」論を書いて載せました。
そこで、引用された論文である「ユダヤ人の歴史」論文の冒頭の部分をようやく、ここに「45」番として載せます。
この「ユダヤの歴史」論文は、鴨川ひかり君の労作であって、彼が、欧米世界で基本文献とされる「ユダヤ史」の諸本と、ブリタニカ百科事典の「ジュダイズム Judaism 、ユダヤ教=ユダや思想)の項目の記述から、集成して、自分の論文として粗く完成させていた論文であることが、鴨川君自身の、重掲への投稿文で、判明しました。
彼に「ユダヤ人とユダヤ教の全歴史を網羅する論文を書きなさい」と指示を出してきたのは、私だったのです。私はそのことをコロッと忘れていました。
副島隆彦記。2007.5.10 以下の後半部を、第二ぼやき「42」番 に載せた。
さらに注記。2007.5.16 に、「43」番として、後半部の、さらにその前半分を載せた。 あと一回で終わる。
この最後の載せる部分が、「ユダヤ人の歴史」の冒頭である。
この「45」番としての掲載で、「ユダヤ人の歴史」は、完了する。 副島隆彦注記終わり。
「ユダヤ人の歴史」
「聖書のユダヤ人Biblical Judaism」(前20-4世紀)
1.族長時代
「族長」とは聖書で登場するすべてのユダヤ人の祖アブラハムとその子イサク、孫のヤコブのことである。この「族長物語」は創世記12章から50章に描かれている。
ここで簡単にユダヤ人たちの系図を述べておかなくてはならない。アブラハムはアダムの子孫ノアの三人の息子セム(黄色人種)、ハム(黒人主)、ヤペテ(白人種)のなかのセムの子孫である。これがユダヤ人のことをあらわす「セミティズ Semitism」という言葉の由来である。
だから、「反ユダヤ主義」のことを「アンチ・セミティズムAnti- Semitism」という。
アブラハムにはハガル、サラ、ケトラという三人の妻がいて、ハガルの子イシュマエルがアラブ人の祖といわれている。であるから、アブラハムは全アラブ人の祖でもある。イサクはサラの子供である。イサクはアブラハムの神への信仰の確かさを試すために生贄に捧げられた。
ヤコブはイサクの次男であったが、兄エサウを出し抜いて長子としての祝福を受け、兄から狙われることになってユーフラテス川上流のハランに逃亡する。ここは祖父アブラハムがウルから移動したことのある街である。
イスラエルとはヤコブが後に持つことになった名前である。兄との和解しようとした旅の途上、神と格闘し、勝利したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられた。エルとはヤーウェ信仰が導入される以前の信仰の対象の名前である。
ヤコブはレア、その妹ラケル、レアの下女ジルバ、ラケルの下女ビルハという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。
レアの子-長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンラケルの子-ヨセフ、ベニヤミンジルバの子-ガド、アシェルビルハの子-ダン、ナフタリこの中でレビは祭司の家系であり土地も持たないので12氏族には数えられない。
ヨセフ族というのはないためヨセフの二人の息子マナセとエフライムを加えて12氏族となる。このうちで後に南ユダ王国を形成したユダベニヤミン、それにレビをのこして残りの部族が「失われた12氏族」といわれる。
さて、このひとびとの最初の行動を簡単に述べるとこうである。アブラハムはメソポタミアのユーフラテス川下流のカルデアの都市ウルの出身である。このカルデア人というのアラム人という説があり、後の前7世紀にカルデア王国を立てた民族であるらしい。これは新バビロニア王国と一般には呼ばれている。
そこから父テラに連れられ上流のハランへと移動する。そこで始めてヤーウェがあらわれ、カナンの土地に行くように言われ、ハランから南下して初めてカナンの地シケムに入る。
ところが、ここでは水不足と食糧危機に悩まされたために一族はエジプトまで行くが、最終的にはパレスティナのベエル・シェバに落ち着いた。
いったんはエジプトに行ったはずなのに再びパレスティナに落ち着き、またさらにその後モーゼによる出エジプトにつながるのはなぜかというと、ヤコブの末の弟ヨセフが兄たちに嫌われてエジプトに売られたからである。
ヨセフはいったんは奴隷の身となり投獄もされるのだが、夢がよく当たるという評判を聞きつけたファラオによって宰相に登用される。その後に兄たちである残りの11部族と再会を果たし、イスラエルの民族はナイル・デルタ地帯のゴシェンに定住を許される。
しかし、ヨセフが死ぬと、ヨセフを知らぬファラオは増加するイスラエル人たちを毛嫌いし、奴隷として強制労働を科した。また新しく生まれた男子はすべてナイル川に捨ててしまうように言明した。ここに映画「十戒」の冒頭で、赤ん坊であったモーゼが川から救い上げられるシーンがつながるのだ。聖書のユダヤ人の物語の冒頭の道程を簡単に述べると以上のようになる。
しかし、この聖書の物語を歴史的な民族移動として捉えると次のようになるようだ。このユダヤ人の祖先である族長たちとはアラム人のことである。それは申命記26章5から10節に「私の先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留した」という記述から、少なくとも彼らが古代メソポタミアに広がっていたアラム語族の一派であったという可能性が見えてくる。
アラム人とはセム系の人々で、紀元前13世紀から8世紀の間にシリアを中心にして小王国を作った人々で、現在のシリアの主とダマスカスも彼らが作った古代都市である。彼らは西アジアの内陸貿易で活躍していたために、彼らの話すアラム語は国際共通語となっていたようである。映画「パッション」で使われているセリフもアラム語であるそうだ。
このアラム人たちは紀元前19世紀から2派の移動群に分かれてメソポタミアの沃地に侵入した。
第一波は、紀元前19,18世紀にメソポタミアとシリアに定住し、「カナン人」とか「アモリ人」と呼ばれた人々である。彼らはシュメール人を征服して紀元前1894年にハンムラビ大王とバベルの塔で有名なバビロン第一王朝を築いた。この移動群は、アブラハムと父テラのカルデアのウルからハランへの旅を反映している。
第二派は、紀元前14,13世紀にかけてパレスティナにやってきたエドム人、モアブ人、アンモン人そしてイスラエル人である。これはアブラハムがハランからカナンに移動した聖書中の記事と一致する。
このイスラエルの先祖たちは家畜を連れてカナンに移動してきた半遊牧集団で、アブラハム、イサク、ヤコブという名もそれぞれの集団の族長か集団、あるいは土地の名前に由来している。アブラハム集団はユダの地ヘブロン周辺、イサク集団は南方のベエル・シェバ、ヤコブはヨルダン側の東側中央と西側のエフライム山地で遊牧生活をしていたらしい。
彼らはひどい干ばつに見舞われるとエジプトのナイル・デルタ地帯に移動することもあった。このことを指してアブラハムとヨセフのエジプトへの移動の記事があるとも考えられるという。
紀元前18~16世紀のエジプトはヒクソスに支配されていた時期であるが、「外国人の支配者」という意味を持つヒクソスはセム系の民族である。エジプト王の厚遇を受けて宰相となっていたヨセフの物語はこのことを反映しているのかもしれない。
2.出エジプト
3.士師の時代(部族連合時代)
紀元前13世紀終わり、カナンに定着してから約200年の間イスラエルは12部族の連合体と言う形態を取っていた時代である。イスラエル達と同時期に移動してきた人々、すなわちペリシテ人(南西部ガザ地域)、エドム、モアブ、アンモン人(ヨルダン側東地域、今のヨルダン)達はまもなく王国に移行したのに対し、彼らがこうした形態を維持したのは、人間の支配者は世俗の人間ではなく、絶対的唯一の存在YHWH(ヤーウェ)だけだからであった。
この部族連合体は自由な非政治的に結びついた宗教連合体であるという。宗教的結びつきは、中央聖所、宗教的法規、共通の祭儀、宗教的伝承によって確認されていたようである。
最初の中央聖所はシケムに置かれた。その後、ベテル、ギルガル、シロなどの場所に移されていく。これは最終的にはダビデによってエルサレムとなる。
この12部族の形成は、聖書においてヤコブの12人の息子達の内、レアの子として先に生まれたとされている6人の名前に当たる部族、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ラケルが先にカナンに定住し、その後に残る6部族(ヨセフ、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル)が加わったことで行われたようである。
出エジプトの伝承とヤーウェ信仰は最後に移住してきたヨセフとベニヤミン持ち込んで、それまでのエル神と同一視されたことによって生まれたようである。
最後に、エフライム族出身のヨシュアが中心になって、聖所シケムでこの12部族はヤーウェに仕えると言う契約を交わしたことによって部族連合が完成した。(シケム契約)
この中央聖所で年三度の大祭、春の除酵祭、初夏の七週祭、仮庵祭が行われた。
こうして12部族連合が出来た後、部族間紛争などの解決のために登場してきたのが士師である。士師とはヘブライ語でショーフェートといい、「裁く、シャファト」と言う言葉から来たものである。
士師には2種類ある。一つ目は小士師である。こちらは公職であって、中央聖所でイスラエル法に基づいて、部族間の争いごとを調停していた本来の士師である。彼らは出身部族と在職年限が記されているだけである。士師記にはトラ、ヤイル、エフタ、イブツァン、エロン、アブドンの6人が述べられている。(エフタは大士師の役割もしている)
重要なのは大士師の方である。こちらは外敵が侵入してきたときに臨時に立てられる「カリスマ的指導者」である。大士師にはオトニエル、エフド、デボラ、ギデオン、アビメレク、サムソンの6人がいる。
彼らは、前12世紀の終わりごろ、イスラエルの周辺に住む諸部族との対決のときに登場した。まず最初のものはエフライム出身のデボラである。デボラだけ女士師である。イスラエル諸部族は都市部を避けて山地に定住していたのだが、勢力を増していくうちにカナンの都市国家と衝突するようになる。
デボラは北部のナフタリ族、ゼブルン族を中心に軍隊を率いて、カナンの王に対して大勝利を収めた。
次に、アラビアの遊牧民がらくだを使うようになったころ、これに乗ったミディアン族がパレスティナに攻め込んできた。これを撃退したのがマナセ族出身のギデオンである。
その後、オトニエルがメソポタミアの王クシャン・リュシアタイムと、エフドがモアブ人と、エフタがアンモン人との戦いのときに現われ、最後に登場するのがサムソンである。
サムソンはペリシテ人と戦った。このペリシテ人とは、紀元前13世紀に地中海の西の方から侵入してきた「海の民」の一つであり、ミケーネなどのエーゲ文明と同じルーツを持つと言われている。彼らは、イスラエルがカナンに入ってきたのと同じころ地中海側からパレスティナ南西部に侵入してきて、5つの都市国家を建設したのだが、前11世紀末、イスラエルを圧迫するようになった。
このペリシテ人に対してサムソンは怪力と言うカリスマが与えられてペリシテ人を苦しめたのだが、ペリシテ人の遣わした美女デリラの誘惑によって怪力の秘密を暴かれ、的に捕らえられてしまう。
このペリシテ人が「カリスマ的指導者」では部族連合の危機が乗り越えられないと言う限界であった。この一大事を受けて、強力な権力と軍隊によって指導する、「他の国々と同じような王」が求められるようになったのである。ここで、士師と部族連合の時代が終わる。
4.統一王国時代(The United Monarchy)
前11世紀末、西の地中海沿岸に五つの都市国家(ガザ、アシュケロン、アシュトド、ガト、エクロン)を建設していたペリシテ人の圧迫を受け始めると、周辺の民族と同様な王が求められるようになった。外国の侵略に備えるという意味で、強力な王権と軍隊の整備が必要になったのである。
この時代に活躍したのが初代預言者サムエルと、三人の王、サウル、ダビデ、ソロモンである。
ペリシテ人とは、現在のパレスティナの語源となった民族で、イスラエルたちがヨルダン川の東からパレスティナに入ってきたときと同じく紀元前13世紀に、地中海側から南西部に定住してきた「海の民」である。ギリシャ系のミケーネ文明との関連性があるといわれている。
まず登場してくるのがサムエルである。彼の歴史的定義は統一しておらず、サムエル記には大・小士師、先見者、預言者、祭司といった様々な記述がある。しかし、彼の役割で最も重要であったのは、サウルとダビデに油を注いで王にしたことである。そういった意味では、預言者としての役割が際立っているといえよう。
サウルは当初預言者集団の中にあって、ペリシテを主とした外敵と戦うことを仕事としていた。彼は父親のロバを探して歩いているときにサムエルに出会い、油を注がれて「イスラエルの指導者」となる。ただしこのときの「指導者」という意味は、外的が責めてきたときに臨時に立てられる「カリスマ的指導者」、つまり「大士師」のことであったようだ。
サウルの最初の手柄は、アンモン人に占領されたギレアドのヤペシュという町を解放したことである。この勝利の後、サウルは優秀な人間を召抱えては常備軍を整備していき、自分の権力を拡大して言った。
このこれまでの「カリスマ的指導者」にはなかった世俗の権力を行使しようとする態度はサムエルに断罪されてしまう。それはヤーウェこそは唯一の支配者であるとするそれまでの部族連合の根本的理念をサムエルが代表していたからである。サウルはギルボア山の戦いでペリシテ人に惨敗し、自害する。
5.分裂王国時代(Divided Kingdom)
ダビデの作った王国が分裂すると、王位継承制度の違いによって、2つの王国は政治的安定度に差をはらむこととなる。常にダビデの子孫を王につけることとなっていたユダ王国では、世襲制の原理がほぼ維持されることとなって、比較的安定した歴史を歩むこととなる。
それに対して、北イスラエル王国は選任王制と世襲王制という二つの原理が絶えず葛藤し続けたため、不安定な王朝が連続して立てられていくこととなった。
ユダは一度だけアタルヤというイスラエル王の娘が女王になって王朝が断絶したことがあるが、イスラエルはしっかりした王朝だけでも3回も交代しており、王19人中8人が暗殺されている。その中で三代以上王位が継承されたのは、オムリ王朝とイエフ王朝だけである。
またこの大分裂と、北のアラム(シリア)と東のアッシリアの台頭といった国難を反映して、6人の預言者が登場する。先にイスラエルでエリヤ、エリシャ、アモス、ホセアの四人、ついでユダにおけるイザヤ、エレミヤ、エゼキエルが現れる。このことからこの時代は「預言者の時代」とも言われる。
「北イスラエルの歴史」
ソロモンに謀反を起こしてエジプトのショシャンク王のもとに身を寄せていた部下のヤロベアムは、ソロモンが死ぬと、ユダと交渉していた北の十部族に担がれ、交渉決裂の結果イスラエル王となった。
王は最初部族連合時代の聖所シケムに遷都したが、やがてその北にあるティルツァに落ち着いた。そのころはまだ十二部族の共通の聖所と考えられていたエルサレムに対抗するために、ダンとベテルを国家の聖所に定め、仔牛の像を作った。このことは、偶像崇拝として列王記で批判されている。
ヤロベアムが死ぬと子のナタブはすぐにバシャによって暗殺される。この時代までは南のユダとの抗争が絶えず、つぎのエラはユダ王国の三代目アサとの戦争に明け暮れていた。このエラは戦車隊長ジムリに謀反を起こされるがそれも七日で終わる(ジムリの七日天下)。
その後、短い内乱を制した先王朝の司令官オムリが王に就く。この王朝は権勢を誇り、四代、三十三年続く。彼はもともとは傭兵隊長であったらしい。
オムリの功績として重要なのは、サマリアを都市として新たに建設したことである。ここは北イスラエルの実質的な中心地として、その後の歴史に重要な都市となる。
だが、彼はイスラエル人でなかったためか、宗教的に寛容で、サマリアにカナンの神々を祭る神殿を建てさせてしまった。
さらに、海上交通に長けたフェニキア諸都市と外交関係を結び、息子のアハブをフェニキアの都市シドンの王の娘イザベルと結婚させてしまう。この女性が分裂王朝の中期に、少なからぬ影を落とすこととなる。
ちなみに、フェニキアとはイスラエルよりも北の海岸地域、今のレバノンの地域に当たる。12部族のひとつアシェルはこの地域に定住早々、このフェニキアと一緒になって消えてしまったといわれる。
このイザベルの父はエトバアル(「バアル神とともに」という意味)といい、フェニキアの神、バアル神(メルカルトともいう)の熱心な信者であった。それゆえイザベルは夫のアハブが王位につくと早速サマリアにバアルの祭壇を立てさせて、ヤーウェ信仰を一切禁止させてしまう。
バアル神とは、ハエの王として有名なベールゼブブのことである。
このヤーウェ信仰の初めての危機に際して登場してきたのが預言者エリヤなのである。エリヤは最初の預言者サムエル(士師でもある)に次ぐ、二番目の預言者である。
エリアは、どちらの神がいけにえの上に火を降らすことができるかという対決で、バアルの預言者450人に勝利する。その後、自らの後継者として預言者エリシャを指名して、天に昇ったとされている。
この神話から、天上からのメシア再来思想が生まれた。イエスもエリアの再来だといわれた。アハブの死後、アハズヤとヨラムが王位継承するが、短命に終わる。
ヨラム治世のとき、エリシャは、同じくエリヤに指名されていた将軍イエフを任命しオムリ王朝を断絶させる(イエフ革命)。
しかしイエフはオムリ王朝最後のヨラムだけでなく、彼を見舞いに来ていたユダ王アハズヤまでも殺してしまった。このことによって、ユダの王朝がいったん途絶えてしまい、こともあろうに母親のアタルヤが女王の位についてしまう。
なぜこのことが問題なのかというと、このアタルヤはアハブとイゼベルの娘であったため、南のユダ王朝にも一時バアル祭儀が広まってしまったからである。
イエフはオムリ王家の者すべてと、バアルの預言者や妻子たちをみなことごとく殺して、自らの王朝を開いた。この王朝はイスラエル最後の王朝で、五代(イエフ、ヨアハズ、ヨアシュ、ヤロベアム2世、ゼカルヤ)百年続いて、イスラエルで最も長命で、最も反映した時期である。
しかしこの時期、いずれイスラエルを滅ぼすこととなるアッシリアが勢力を増し始めてきた時期で、アッシリア王シャルマナサル3世のシリア・パレスティナ遠征の結果イエフは服従し、これ以後、実質的にイスラエルはアッシリアの属国となるにいたったのである。つまり、イスラエルの栄華は古代の大帝国アッシリアの庇護の下でのことに過ぎなかったのだ。
イエフがシャルマナサルにひれ伏す様子は、アッシリアのニルムード宮殿から出土した「黒色オベリスク」にはっきりと描かれている。
この平和と繁栄の時代はつぎのヤロベアム二世の時代に花開くが、このときに貧富の差が開いたために、次の預言者アモスを招来する事となる。
アモスは本来はユダの人であったが、この貧富の差が神の定めたほうに背くことを指摘したために、イスラエルの聖所のあるベテルの祭司アマズヤに国外退去を命じられる。
ヤロベアム2世のあと、子であるゼカルヤは6ヶ月の王位の後にシャルムに暗殺される。これでイスラエルは王朝が消滅し、以後五人の支配者(シャルム、メナヘム、ペカフヤ、ペカ、ホシェア)が出てくるが、暗殺の連続であり、唯一殺されなかったのがシャルムを暗殺したメナヘムだけである。メナヘム以外はみな3年以内の短命政権である。
アッシリア王ティグラト・ピレセル三世はそれまでの属国を朝貢させる体制から、いっきに侵略へと足を踏み出した。ペカフヤを暗殺した将軍ペカはアラム(シリア)と反アッシリア同盟を結んだ。ユダにもこれを要請したのだが、ユダ王アハズはこれを拒絶したため、反アッシリア同盟とユダとの戦争が起こってしまう(シリア・エフライム戦争)。
これに対してアハズはティグラト・ピレセルに朝貢することによって属国となり援軍を要請する。その結果アラムは占領され、イスラエルはサマリアのみになってしまう。
ヤロベアムからこのころまでの期間に出現した預言者がホセアである。ホセアは暗殺による政情不安を反映した預言者であり、またアッシリアへの朝貢ゆえの異教の神々をサマリアの神殿にまつったイエフ王朝への警鐘でもあった。
ペカを殺したイスラエル最後の王ホシェアは新アッシリア政策を採るが、ティグラト・ピレセルが死ぬとエジプトと結んでアッシリアへの朝貢を中止する。
次のアッシリア王シャルマナサル五世はこれに怒りホシェアを捕らえイスラエル全土を占領した。首都サマリアは三年間の包囲を耐えたが、次のアッシリア王サルゴン二世によってついに陥落し、ここにイスラエル王国は滅亡する。(前723年)
アッシリアの支配は残忍で過酷であったようで、支配した地域の人々を国外に追放して、その代わりに外国から新たに別の民族を殖民させるという政策を採っていた。
イスラエルもこの例に漏れず、上層階級がアッシリアに移され(ニネベ捕囚)、首都サマリアには外国から民族が移住させられてきた。これによってイスラエル人の雑婚が進み、宗教的にも異教の影響によってヤーウェ信仰が本来のものから非常にあいまいなものになったといわれている。これによって以後、この地域の人々は「サマリア人(サマリタン)」として、南のユダ人から雑婚と異教信仰の疑いの目で見られて差別を受けることとなる。
「ユダ王国の歴史」
ソロモンの継承者レハベアムからアビヤム、アサに至るまでユダとイスラエルの仲は険悪で戦争が絶えなかった。しかし、イスラエルがオムリ王朝となると敵対関係が終わり、強調・友好的な関係が続いた。
この友好関係は、ユダ王5代目ヨラムが、イスラエルのアハブとイザベルの娘アタルヤと結婚したことで、両王家が姻戚関係になるほどであった。
ところが、ユダで起こったイエフ革命によってオムリ王朝が断絶してしまった上に、このヨラムとアタルヤの子アハズヤまでもがこの革命で殺されてしまう。
これによって母のアタルヤがユダの王位を強奪し、ダビデ王家の皆殺しを画策する。ユダにおけるダビデ王家の断絶はこのアタルヤによる6年間だけである。またアタルヤによってエルサレムの聖所にバアル神などの偶像が導入された。
このあと神殿にかくまわれていた幼王ヨアシュが祭司たちに担がれて王位につくことで、ダビデ家が復興する。ヨアシュは偶像を根絶してヤーウェ信仰を元に戻した。
次のアマツヤはイスラエル王に戦争を仕掛けるが、逆に捕らえられエルサレムの包囲という失策を招いてしまう。
このヨアシュとアマツヤはともに暗殺されているが、この時期はちょうど北のイエフ王朝の時期にあたり、両国が少し不穏な時期に来ていたころである。
次のウジヤ(アザルヤ)と摂政のヨタムの時期はユダがもっとも繁栄した時期で、北でもちょうどヤロベアム二世の最繁栄期に当たり、南北両王朝の最盛期であった。
このウジヤ王の死んだ年からユダの繁栄にも翳りをさしてくる。この年アッシリアではティグラト・ピレセルが即位し、イスラエルを属国化してしまう。
次のアハズ王は、イスラエルのペカの要請を断り、反アッシリア同盟に加わろうとしなかった。このためにアラムとイスラエルの軍事介入を招いてしまうが、こともあろうにアッシリアへの朝貢の道=属国への道を選んでしまう。
このあと、ユダは反アッシリアと親アッシリアの王が交代することにより、国政が不安定になってゆく。ユダの没落とは、バビロニアによる捕囚が印象に強いが、実際にその終わりまで影響力を行使していたのはアッシリアなのである。
アッシリアの属国になるということは当然その神も受け入れざるを得なくなってしまうということである。アッシリアの神とはアッシュールとイシュタル(女神アスタロト)などである。
このアハズの行為を批判して登場したのが有名な預言者イザヤである。イザヤはこうした属国と異教信仰への道へと引きずりこまれることを見通していたために、ヤーウェにのみ頼って、アッシリアに援助を求めるなとアハブに要請したのである。
次のヒゼキア王のとき、イスラエルを滅ぼしたサルゴン二世が死んで、セナケリブの世になると、アッシリア各地で反乱が起こった。これを機にヒゼキアは属国を脱し、偶像も排除するという行為に出て、当時勢力を増しつつあった新バビロニアとエジプトと関係を築き、南部パレスティナ同盟(エドム、モアブなど)の盟主となった。
これにはペリシテも参加した。ペリシテというのはパレスティナの先住民族で、今のガザ地区に当たる南部の海岸地域の民族である。
だがこれもセナケリブの反攻にあい、結局はその後二代(マナセ王、アモン王)に渡り再びアッシリアの属国に逆戻りしてしまう。そしてアッシリアの偶像を再びエルサレムに導入した。
この後、アモン王は「土地の民」といわれるアムハレツという地方の土地所有民によって暗殺されると、ユダ最後の偉大な王ヨシュアが彼らによって王位につけられる。
ヨシュアは成人になると「宗教改革」を断行した。この時期のアッシリアは最後の王アッシュール・バニパルの治世であり、バビロニア、メディア、スキタイが勢力を持ち始め、アッシリアは衰退の一途をたどっていた。
ヨシュアはこの機にエルサレムの神殿からアッシリアの偶像を取り除いて、朝貢も取りやめる。そして、修復中であった神殿の壁から「律法の書」が発見された。これは現在の申命記の中心部分だと考えられている。ヨシュアは、発見された「律法の書」に基づいて、エルサレム以外の地方の聖所を閉鎖させた。
この後ヨシュアは、ダビデ王国の領土回復の野心に目覚め、サマリアやベテルに侵攻していくが、紀元前609年、エジプトのファラオ・ネコ2世に破れて死んでしまう。
この最後の期間ユダはエジプトの属国になる。ネコはヨシュアの息子ヨアハズを退位させ、異母兄弟であるエホヤキム(ヨアキム)を即位させ、事実上の傀儡国家とした。エホヤキムは国民に重税をかけてネコに朝貢した。
ところが、紀元前605年、ユーフラテス川上流のカルケミッシュの戦いで、ネコは新バビロニアのネブカドネザル2世にやぶれてしまったために、今度はユダ王国もバビロニアに朝貢しなければならなくなってしまった。
エホヤキムが朝貢を拒否しようとすると、ネブカドネザルはただちにエルサレムを包囲した。この最中にエホヤキムが死ぬと、その子エホヤキンが王位についた。しかし、その3ヵ月後、彼はユダの上層階級や祭司、高官などとともにバビロニアに捕囚されてしまう。
6.捕囚時代(Exilic Period)
バビロン捕囚は全部で三回行われたのだが、その人数に関してはエレミア記と列王記では異なっており、はっきりとはしていない。彼らは比較的自由に生活を出来ていたらしい。この捕囚期にはエゼキエルと第二イザヤという二人の予言者が活躍した。
エゼキエルは第一回捕囚のときにバビロンに連れて行かれ、捕囚第五年の前593年に予言者としての召命を受けている。エゼキエルに下された啓示は「四つの顔を持つ四つの生き物と、どこにでもいくことの出来る四つの車輪とその上に座るヤーウェ」という姿で彼に巻き物を渡す」という非常に異常な体験として描かれている。そしてエルサレムで偶像崇拝が行われている夢を見て神からの「四つの裁き」を下された。これはその後に起こったエルサレムの滅亡(前587)を暗示していた。
この後エゼキエルは指導的立場としてユダヤ人達に希望を与える予言を語るようになる。ここから現在に至るユダヤ人達のアイデンティティが生まれ、この後に現れるユダヤ教の基礎が作られていく。
捕囚末期にイザヤ書の後半を作ったとされる人物が現れる。19世紀から便宜的に第二イザヤと呼ばれている。彼は捕囚の地で生まれた第二世代に当たる人のようである。エゼキエルが預言したのは「バビロン捕囚からの解放」であった。
このころに現在のイランの地から勃興してきたのがペルシア帝国である。ペルシアはキュロス二世のときにメソポタミア、パレスティナ、シリア、小アジアまでを征服して、初の世界帝国の完成までバビロンとエジプトを残すところとなっていた。エゼキエルはこのキュロスを解放者としてだけでなく、メシアとまでみなした。
そして実際、紀元前539年にキュロスはバビロンに入城して新バビロニアを滅ぼし、538年には勅令を発してエルサレムへの期間を許した。
しかしこの第一回帰還はイザヤの望むようなものではなかったようで、彼はその後「主の僕の歌」によって、「主の僕」が人々の身代わりになって死んだという預言を行なっている。
この「主の僕」が誰なのかは諸説が分かれていて誰なのかはっきりしない。これをイエスとする説もあるが、次のペルシャ時代にエルサレム帰還事業で活躍したシェシュバツァルかゼルバベルを指しているとも考えられている。
7.ペルシア時代(神殿回復時代)
ペルシャは紀元前6世紀までメディアの支配にあったが、アケメネス家のキュロスがメディア王を倒して、552年に両王国の王として即位した(前559~530)。547年に小アジア、539年にはバビロニアを倒して領土を西アジア全域に広げていく。二代目のカンビュセス(前529~522)は525年にエジプトを支配し、史上はじめてオリエントを支配する世界帝国を作り上げた。
この時期に離散ユダヤ人達の共同体がペルシアの支配領域に広がり、アジア、アフリカ、地中海沿岸にユダヤ人が居住していたことは確かである。
ペルシア帝国は諸民族固有の宗教・文化・習慣に寛容であり、キュロスは紀元前538年に勅令によって、捕囚民達のエルサレムへの帰還を許し、神殿再建の費用までも支出した。ネブカドネザルに没収されていた神殿の器物も返却する。
エルサレムへの帰還と神殿再建事業は全部で三回に及んでいる。
第一回目はヨアキンの息子であるシェシュバツァルが帰還事業の指導者として任命されて、紀元前538年に行われた。しかしこの時は、土地の荒廃や干ばつのため神殿の再建事業がはかどらず、基礎工事の時点で頓挫してしまった。さらに、この当時のユダの地はサマリア州に含まれていたためにサマリア人からも妨害されてしまう。
紀元前522年にダレイオス一世が即位すると、キュロスの勅令が有効であることが確認されて、ヨアキンの孫ゼルバベルが指導者として、520年に第2回目の帰還事業が行なわれる。
ゼルバベルは大祭司ヨシュアと協力して紀元前515年に第二神殿を完成させる。この神殿はヘロデによる大改修の後、ローマ軍に破壊されるまで存続した。この時の預言者ハガイとゼカリアもベルゼバブを支持した。
このためゼルバベルは民族的英雄とみなされてユダヤの王につけようとする動きがあったため、政治的独立は認めようとしないペルシアによって失脚させられる。第二イザヤの「主の僕」はゼルバベルだという説もある。第三回目はネヘミヤによって行われた。
(副島隆彦注記。以下は、2007.5.16 にここの「43」番に繋(つな)がる。)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
”最後の馬賊”と呼ばれて、その勇猛を今も語り継がれる
小日向白朗(こひなたはくろう)という人物がいる。彼は、日本軍の満州侵略に合わせて、その尖兵(せんぺい)となって暗躍した人物である。
自分だけは、1982年(昭和58年)まで無事に生き延びて81歳で日本で平安に死んだ。「日本人馬賊王」(二見書房刊)という自伝まで書き残している。 私は、こういう人間たちを絶対に尊敬しない。
本当は、彼は、中国人との合いの子(混血児)であり、日本軍の隠れ軍属として日本の特務機関の指令でずっと動いたのだ。そして、日本軍は、裏で中国共産党と繋(つな)がっていた。
さらにはこの「日本人馬賊」たちは、戦後は、アメリカ軍に雇われて、謀略人間として生きている。
以下の文章を冷静に読むと、この小日向白朗が、何度も中国軍に捕まりまがら、必ず助け出されているという奇妙な事実を知るはずだ。 こういう謀略人間たち、というのは、度(ど)し難(がた)い。
”阿片王”と呼ばれた上海特務機関の 里見甫(さとむはじめ)と同じような人間たちだ。 大きな歴史に翻弄された人間たち、と言えばそういうことになるが、彼らの陰(かげ)でどれほどの多くの人間たちが裏切られ、無惨に殺されていったことか。
満州の平原を駆けた「日本人の馬賊(ばぞく)たち」というのが、どういう人間たちであったかが、以下の書籍の集大成で概観できる。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
小日向白朗(こひなた はくろう)
1900(明治33).1.30~1982(昭和57).1.5
明治33年1月31日、新潟県に機屋の次男として生まれた。シベリア単騎横断で有名な福島(ふくしま)中尉にあこがれ、中国、チベットを調査しつつドイツを目指そうと17歳で中国に渡る。
中国では坂西利八郎(ばんざいりはちろう)大佐に気に入られ、中国語、射撃等の訓練に励んだ。20歳で軍事探偵としてチベットのウランバートルを目指す旅に出たが、内蒙古の巴林で楊青山麾下の馬賊(遊撃隊)に襲われ捕虜となる。
命と引き替えに馬賊の下働きとなるが、初陣で手柄を立て小頭目に取り立てられた。この頃、中国人の父を捜しに来た日中混血児「邵日祥(シャオリイシャン)」という偽名を使っていたが、その容貌の良さから小柄で色白の男前を意味する「小白臉(しゃおぱいれん)」と呼ばれたりした。天性の戦闘センスと、
中国の迷信を知らないゆえ死者の霊を恐れないことから、楊大攪把(たーらんぱ)の戦死後、住民達の推挙を受け遊撃隊の大攪把となる。
その後、多くの戦いを生き抜き、馬賊世界で強者として名を知られるようになるが、熱河省建平県城で官警に捉えられ処刑寸前を救出される。5ヶ月後、養生中に察哈爾省経棚県城で再び捉えられた。
再度救出されるが、その際に死亡した救出隊の遺体引き取りを巡って、知事と対立。遺体奪取を図り、県城を襲撃し知事以下警官達を処刑したため、さらに執拗な官警の追跡を受けることとなった。
追っ手と罪の意識から逃れようと、千山無量観に住む道教の大長老「葛月潭老師」の庇護下に入り、3年間道教の教えと武当派拳法など体術を修行した。「尚旭東(しゃんしゅいとん)」の名と破魔の銃
「小白竜(しょうぱいろん)」を授かり下山。小白竜は後に彼の通り名ともなる。下山後、天下の豪傑英雄と交わり、また凶悪な土匪「小菊花」を倒すなど、老師の教え「除暴安良」を実績して歩いた。
義兄弟「高文斌」と共に張作霖の奉天軍に入り、張宗昌将軍のもとで第2次奉直戦争等に参加。26歳で奉天軍の少将になるが、張作霖は河本大作の謀略で爆殺される。父を殺された後、抗日、親蒋介石を明確にした張学良と決別し、彼に対するクーデターを計画するが、情報が事前に漏れ、日本軍に拘束されて、昭和4年満州から追放される。(奉天城占領計画事件)
引き続く日本軍による満州への侵略と虐殺に耐えかね、抗日闘争に立ち上がった高文斌らを見かねて、昭和7年再び満州へ渡る。抗日を叫ぶ同志と祖国の板挟みになって苦しむが、当時まだ強大であった日本軍への武力抵抗の困難さを訴え、英国人人質解放を契機に軍と取り引きし、抗日馬賊組織を満州から北支へ撤退させる。
南京で蒋介石麾下のテロ組織「藍衣社」と闘争を繰り広げる一方、北支事変後、旧満州馬賊組織を親日義勇軍「興亜挺進軍」として組織する。
が、その規模の大きさと規律の良さが逆に北支に派遣されていた日本軍に不安を抱かせることとなり、興亜挺進軍は軍に裏切られ、虐殺された。我慢しかねた白郎は、興亜挺進軍部下に解散潜伏を命じた。
その後も当時「魔都(まと)」とよばれた上海で、日本軍の依頼を受けた対テロ工作に従事したが、昭和19年、軍に対し突然引退を表明して上海を去り、江蘇省に隠遁。
昭和20年日本の敗戦後、蒋介石率いる国民党軍につかまり、中国を裏切り日本に与したとして、「漢奸裁判」にかけられるが、自分は日本人だと主張して闘争。 主張が通り釈放された後、青幇の同志の手引きにより台湾経由で日本に帰国した。帰国後も政治的裏工作に従事したとの説もあるが、経済的にはあまり恵まれていなかったと言われている。
昭和57年1月5日、東京都小平市の自宅にて、芳子夫人に看取られて静かに息を引き取った。今は、高尾のやすらぎ霊園に眠っているとのこと。当時、中国東北地方では馬賊は完全に姿を消しており、最期の大物日本人馬賊であった白朗の81歳での死によって、馬賊の歴史も静かに幕を閉じた。
異国人でありながら、その国の民間軍事組織の中枢に存在し、侵略軍と現地軍の間に立って、両者の融和に務めた人物。こう書くと、アラビアのロレンスこと「T.E.ロレンス」を連想させるが、彼よりずっと深く馬賊組織や中国の任侠組織「青幇(ちんぱん)」に関わっていながら、なぜか常に日本側に立って行動
してるのが謎。
常にアラブの立場に立とうとして、祖国イギリスの不正に苦しみ、ついには自己を破壊してしまったロレンスと比べると、人間的深みに欠ける観は否めない。
白郎も彼なりに苦しんだんだろうけど、彼に従って死んでいった中国人部下達を思うと、興亜挺進軍の後も、日本軍に指揮下にあって活動し立ってのはさっぱり理解できない。当時の皇国教育を受けたものの限界と言えば、そうかも知れないけどね。いっそのこと、共産軍指揮下に入った方がすっきりすると思うのだが。
事実、彼の満州時代の同志や部下達の多くは、張学良の東北軍がそうであったように、八路軍に入り、朝鮮戦争では中共軍の東北部主力部隊として活躍してるそうです。
もっとも、朝鮮では相当死んでいる。これについては、「堀栄三」の項で紹介した「アメリカ海兵隊」に詳しい。
参考文献
(1)馬賊戦記 朽木寒三著 番町書房
馬賊の捕虜から、若き首領へ。美少女との悲恋を経験したかと思えば経棚県城襲撃時を指揮。官警に追われて道教寺院にかくまわれ、拳法の修行に励み、老師の命を受け社会に害をなす者を始末してまわる。日本軍と組んで裏切られたり、軍閥の軍人になったり、
日本軍と協力して特務工作を行ったりと「波瀾万丈」と言ってもまだ追いつかない日本人馬賊王の若き日を白郎本人の視点で描き、彼を一気に有名にした作品。珍しい写真も
多く、楽しい本。確かに白朗は度胸もあるし、腕も立つ。キャラクターも魅力的なのだが「結局、あんた中国まで来て何がしたかったの?」という感は無きにしも非ずです。
(2)馬賊戦記(上)(下) 朽木寒三著 徳間文庫
(1)の本の文庫版。こっちはまだ古本屋とかで手に入るが、写真がないのが難点。入手のしやすさでは、この本が一番だと思います。著者の朽木氏はこの本以外にも馬賊を主人公にした本(「天鬼将軍伝」や「馬賊と女将軍」など)を書いてます。上下巻で番町書房版の正続に相当します。なお、ペンネームは「口きかんぞ」からとのこと。
(3)馬賊 都築七郎著 新人物往来社
「馬賊戦記」では描かれていない、張宗昌麾下の少将時代以降の活躍が書いてある本。張学良暗殺未遂や「興亜挺進軍」の悲劇、南京、上海での特務工作指揮から漢奸(かんかん)裁判、台湾への脱出など、後半には興味深い記事も多い。しかし前半部は馬賊戦記からそのまま引用した箇所も多く、ちょっとまずいんじゃないって感じ。だもんで、両者の併読を進めます。日本帰国後の活動については、この本にも書いてないんだけど、何か資料が残ってないかなぁ。
(4)闘神-伊達順之助伝 胡桃沢耕史著 文芸春秋
日本人馬賊の首領として小日向白朗と並び称される事の多い人物。喧嘩で人を殺してしまい満州へ脱出。伊達藩主の血を引くこと、拳銃の名手だったことなどもあり、満州浪人の一人として親日自警団の将官などを務めた。だから、正確には狭義で言う馬賊ではない。
著者の胡桃沢氏は「飛んでる警視」などのポップな作品で有名だが、この作品ではいつもの軽い感じはなく、ちゃんとしたノンフィクションである。冷静に調べると、さほど大きな業績を残していない人物を、共感を込めて上手く書ききっている。
著者自身、若い頃出会った司馬遼太郎の知識量に打ちのめされながらも、「俺は世界中をこの目で見て回って、生活を実際に体験してやろう!」と決心し、海外辺境で多くの時間を過ごしてきた人物なので、順之助と波長があったのかも知れません。
(5)ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書 柴五郎著 石光真人編 中公新書
石光真清の所でも紹介した、初期日本陸軍において中国通っていた人物。彼が築こうとした中国との友好関係が、大陸進出を図る軍の若手によって無惨に破壊されてしまった例として、白郎の率いた「興亜挺進軍」の崩壊が引用されている。
自分たちの味方と信じていた軍により、隊長クラスの同志を惨殺され(生きたまま、井戸に投げ込み生き埋めにしてる)、部下を守るため部隊を解散する際に「今後、信じられるのは八路軍のみ!」と叫ばねばならなかった白朗の無念が胸を打つ。しかし、何でこんな目に遭っても、日本軍と組んでるんだ?自分は殺される可能性がないから良いけど、部下は良い迷惑だぞ。柴五郎氏については、ここへ。
(6)狼の星座 横山光輝著 講談社コミック
横山光輝が馬賊戦記の内容を元に描いた少年漫画。主人公の名前を『大日向健作』としてある他は、ほぼ馬賊戦記の通り。ネタとしては同氏の『隻眼の龍』や『兵馬地獄旅』の様な、青年向け作品として描いた方がずっと面白く仕上がったと思うが、「少年マガジン」連載ではそれも無理か・・。
まぁ横山氏は白朗に実際に会いに行って書いているため、あまり無茶が出来なかったこともある。忠実に原作を追っているので、これを読んだら『馬賊戦記』は読まなくて良いくらいです。
(7)目撃者が語る昭和史-第3巻満州事変 猪瀬直樹監修 平塚柾緒編集 新人物往来社
小日向白朗本人が奉天城占領計画事件の真相を語った『秘められた満州事変への導火線』や白郎と作家壇一男との対談『馬賊放談 狭い日本にゃ住みあきた』が掲載されている。
実は張作霖爆殺時点で、白朗と張学良とは十年来の阿片の飲み友達であったということは始めて知った。近親者の証言だから父が殺された後の学良の激変ぶりに説得力がある。
父を日本軍に殺されたことで、麻薬とも手を切り、接待抗日の決意を持って南京政府と手を組み、親日派の楊宇霆らを粛正した張学良の行為は、当事者として、まぁ正当つーか果断な態度だと
思うが、白朗はこれに対し『日本人として』激怒しており、十年以上中国で生活している彼の国際感覚の限界性を感じる。
まぁ、白朗達は『日本人』として海外に雄飛したいのであって、その国の人に立場になって考えるという思考システムを持ってないような気がしますね~。
(8)馬賊社会史 渡辺龍策著 秀英書房
馬賊を歴史的研究対象として認めさせた渡辺龍策教授による総合馬賊研究書。資料的価値の高い良い本だが、伝統的な中国人馬賊に関しては張作霖と馬占山位しか言及されておらず、正確には『日本人馬賊大辞典』と呼ぶべき内容。まぁ、日本人馬賊の歴史こそが当時記録せねばならなかった内容なので、それはそれでよし。帰国後の白朗からよく話を聞いている
だけあって、白朗に関しては、中国での阿片取引の元締めの頃の話や、帰国後69歳で結婚した話など、他では余り語られていない話もあり興味深い。
(9)馬賊頭目列伝 渡辺龍策著 講談社文庫
天鬼将軍(薄益三)、江崙波(逸見勇彦)、張宗援(伊達順之助)、尚旭東(小日向白朗)、鉄甲(根本豪)、小天竜(松本要之助)ら日本人馬賊と、馬賊出身から軍閥の大将にのし上がった張作霖、馬占山から成る8名の馬賊の記録。内容は(8)の本とかなり被ってます
が、こちらの方が読み物として楽しめるように書かれており、確かに読みやすい。まぁ、軽いと言えば軽いんだけどね。ちなみに表紙の人物は、天鬼将軍こと薄益三。
(10)続馬賊戦記 朽木寒三著 番町書房
長い間捜してた馬賊戦記の続編。奉天城襲撃事件、満州馬賊の北支への移動、天津での藍衣社との死闘、興亜挺進軍の悲劇、日本軍侵攻後の上海での対テロ工作、漢奸裁判、台湾への脱出までが語られる。興亜挺進軍に対する日本軍の扱いは想像より遙かに酷く、「何やってんだ、なんで黙ってみてるんだ、白朗!!」と叫びたくなる。
これ以降、子分がドンドン離れていき、上海では以前なら歯牙にもかけなかったような小物を右腕にしていたりして、その落剥ぶりが痛々しい。まぁ、自業自得だけど・・。さすがにエピソードの豊富さと状況の詳細さでは、他の本の追従を許さないね。
(11)上海の顔役達 沈寂著 林宏訳 徳間文庫
外国の共同租界であった魔都と呼ばれた頃の上海を、影で支配していた3人のボス達『黄金栄』『杜月笙』『張嘯林』の記録。主人公は杜月笙かな。
続馬賊戦記では3巨頭の一人『張嘯林』の殺害を白朗が命じたことになっているが、この本では、蒋介石のテロ組織『藍衣社』の陳黙が、張が日本軍に秘密を流すのを恐れて殺したことになっている。まぁ、こっちの意見のほうが一般的。文庫とは言え、当時の状況や歴史的背景が理解しやすい、良い本ですな。
(12)上海テロ工作76号 晴気慶胤著 毎日新聞社
日本軍占領下の上海において『藍衣社』に対抗する組織として結成された、テロ組織『ジェスフィールド76号』の正体を76号の生みの親の一人である日本人将校が記録した本。
「龍(RON)」上海編の元ネタ。(10)、(11)の本では、唾棄すべき漢奸、血も涙もない冷血漢と言われている丁黙邨、李士群らを好意的に見ている。特に李士群への評価は絶賛と言って良く、立場によって人の評価というものは大きく異なると言うことが良くわかる。
(13)日本人馬賊王 小日向白朗著 第二書房
白朗本人による馬賊時代の回想記。馬賊の捕虜になってから興亜挺身隊の崩壊までがメイン。
内容的には「馬賊戦記(小日向白朗と満州)」とかなり被っているが、有名なエピソード時の白朗の心の動きを知ることが出き、興味深い。特に目新しいエピソードはないが、無量観修業時代の拳法談話や女性との交流は他ではあまり語られておらず、珍しい。執筆(正確には口述)時に撮ったと思われる、和服姿のかなり裕福そうな写真が巻頭に掲載されている。
(14)馬賊-天鬼将軍伝 朽木寒三著 徳間書店
天鬼将軍伝とあるが、天鬼将軍(薄益三)ではなく、彼の片腕で白龍起とよばれた甥の「薄守次(うすきもりじ)」が主人公。死の直前、2年近くに渡って実際に守次氏に接した著者が、その「気取りとか、飾り気とか、格好つけなどがそもそも要らない」
人柄を愛情を込めて淡々と描く。この本の中では、やることなすこと全てが失敗に終わるのだが、不思議と悲壮な読後感はない。馬賊戦記に描かれた、着流し姿で白郎の前に現れるエピソードが創作だと言うことや、元々は天鬼(幽霊の意味)ではなく「天魁」だったこと、蒙古勤王軍の敗残の様子など、他の本では知ることの出来ないエピソードも多い。
もっとつまらない本と予想していたが、馬賊戦記と比べてもそれほど見劣りしない作品ですよ。
(15)馬賊 渡辺龍策著 中公新書
馬賊組織の誕生から終焉までを、それまで断片的にしか知られていなかった多くの日本人馬賊達からの聞き語り等を元に、初めて総合的にまとめた本。のちの馬賊史観に非常に大きな影響を与えた。初版が昭和39年なので、内容が古い感は否めないが、当時非常にインパクトの大きい本であったろうと感じることは出来る。
しかし、戦前、戦中にかけて中国での生活が長かったこともあってか、著者の「日本人による中国侵略」という視点が基本的に弱いことも事実。内容的には「馬賊社会史」「馬賊頭目列伝」と被ってるが、この本は古典だから、読んでおくべきなんでしょう。
(16)馬賊夕陽に立つ 渡辺龍策著 徳間書店
「最期の日本人馬賊死す」に白朗が昭和57年に小平の自宅で亡くなったことが記されている。
ここまで書くなら、亡くなった日も書いて欲しかった・・、というのが本音。戦後、日本で結婚した奥さんは白朗が大馬賊だったことなど全然知らず、最初きかされた時には「馬賊って馬泥棒のことでしょ」とビックリしたらしい。(^^;
題名には「馬賊」とあるが、いつもの馬賊本とは異なり、内容は著者による「我が青春の中国」。父の龍聖氏が袁世凱の学事顧問だったこともあり、袁世凱、西太后といった歴史的人物をも含む実見による人格描写と当時の雰囲気が程良いノスタルジーを持って描かれている。
城山三郎氏の「粗にして野だが卑ではない」に描かれた石田礼助氏率いる三井物産大連支店で働いたこともあり、当時の三井物産や満鉄で活躍した人物の記載が他の本では見られず、なかなかに楽しい。
(17)彷書月刊 2002年8月号 弘隆社
白黒さんに教えていただいた、特集記事と古本屋さんの目録からなる月刊誌。この号の特集は「馬賊の唄」。興亜挺身軍等で白郎の副官だった野中進一郎氏のご子息野中雄介氏の「小日向白朗と父・野中進一郎」が掲載されており、非常に喜ばしい。
続馬賊戦記以外ではあまり語られることのない進一郎氏の中国での活躍や、日本帰国後の白郎の動向など他では知ることが出きず、超~貴重。この分量ではまだまだ語り尽くせていない感も強いので、ぜひ「野中進一郎伝」を出版して貰いたいものです。興亜挺身隊の隊旗の写真も驚きですが、一般に「馬賊の写真」とだけ紹介されているものの多くが、進一郎氏の写真だったことにも驚きましたね。
(18)馬賊と女将軍-中島成子大陸戦記 朽木寒三著 徳間書店
赤十字の看護婦から中国人と国際結婚し、山下将軍らの信任を得て馬賊帰順組織を率いた中島成子の前半生記。
大部隊を率いる女馬賊の首領“李秀蘭”が投降後、成子のボディーガードとして常に傍に仕えている。成子が白朗の義娘である“徐春甫”を引き連れていたのは有名だが、だと
するとこの“李秀蘭”が“徐春甫”なのだろうか?彼女は白朗と別れた後“李少華”と結婚するが、中国の人が結婚して姓を変えるのも変だし、謎ですねぇ。ちなみに「蒼天の拳」の馬賊編の元ネタの一つでもあります。「蒼天の拳」の馬賊描写はめちゃくちゃだけど、まぁ、あれはあれで良し。
(19)馬賊一代 中島辰次郎著 番町書房
ハルピンの特学校を卒業直後に馬賊の捕虜となり、そのまま特に日本軍に連絡を取るでもなく、暴れまわってた人物。特務学校では3年半も訓練したようだが、語学以外に何を教えて何をやら
せたかったのかまったく意味不明。
彼が参加するのは白朗の語る自警団とは違い、本当に略奪 と誘拐が専門の無法集団。すべての馬賊が自警組織ではないこと や、その暴れっぷりと無法非道ぶりを経験者が語るという意味では貴重。
白朗の義兄弟で東北反満抗日義勇軍の第三軍長“高文斌”も登場。かなり太り気味の人物だったのも意外だったが、ずっと反日活動をやってたのではなく、開封特務機関長渡辺渡少将の懇請を受けて、鉄路警備軍の司令官として日本軍に協力していたのは、超ショック~。
(20)馬賊-天鬼将軍伝-続 朽木寒三著 徳間書店
前作同様、薄守次の回想の形を取って、満州馬賊を率いて参加したパプチャップ将軍の蒙古独立軍について描かれる。「せっかく調子良く進んでたのに、つまらない戦闘でパ将軍が戦死してしまった」ように書かれることすらある蒙古独立軍である。
が、実際は袁世凱の死により日本の参謀本部が手を引いてしまった為に、敵地の真ん中で抛っぽり出され、必死の思いで根拠地へ帰還しようとする様が内側から描かれており貴重。川島浪速とパ将軍、天鬼叔父との微妙な関係も他ではあまり見られない。
当然だが、途中で手を引かざるを得なかった川島への記載はちょっと辛口。今回もまた失敗の記録だが、飄々とした主人公の描写は結構好き。徳間文庫版だと下巻に相当する模様。
(21)王仁蒙古入記 出口王仁三郎著 あいぜん出版
世界中に現れた(現れるはずの)12人の救世主を統合し世界を一新する為と、日本人の新たな発展の地を確保すべく、蒙古にわたった出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)は、今は亡きパプチャップ将軍の義兄弟でもある「盧占魁(ろせんかい)」の帰依を受け、自らをダライラマと称し、蒙古独立軍の御輿に乗って、大クーロンを目指す。
「パインタラ事件」として世に知られ、一部(白朗含む)では嘲笑すら受けることのある謎の事件を当事者が記した本。合気道
の創始者「植芝盛平」も王仁のボディーガード兼従者として参加しているが相当下っ端扱い、しかも肩書きは「柔術家」。
(まぁ当時は合気道として一派立ててないから当然だが。)著者は上野公園(実在の新聞記者)となっているが、王仁の口述によるというのが公式見解。瞬く間に軍勢が集まる様と、駄目と感じたら一瞬で崩壊していく様子が良く分かり、馬賊軍の記録としても貴重か。
大本(おおもと)系のあいぜん書房が復刻してくれており、新刊で購入が可能。ありがたいことでござる。
(22)馬賊無頼-徳光武久と満州 島村喬著 番町書房
甘粕の項でも紹介した、日本人でありながら中国側に立って戦った馬賊団の首領。張学思(学良の実弟)直属の馬賊団及びアヘン生産、販売組織を指揮し、日本軍による熱河侵攻作戦時には、日本人を含む部下を率いて日本軍と戦闘を繰り広げ、多くの部下を失うこととなった。
戦後、ロシア兵へのテロ組織首領として禁固25年の刑で服役していたが、捕虜交換で中国へ。減刑か釈放かとの期待に反し、禁固40年(事実上の無期刑)とされ無順監獄に満州国の大物戦犯らとともに収容され、日本に帰ることは無かったという。白朗を見ていると「日本人意識」からできないところに歯がゆさを感じる。
が、この本の主人公のように思想的というより感覚的に中国側に立ち、日本軍と戦うことにあまり矛盾を感じていないかった人物と対峙してみると、これはこれで「おまえも結局何がやりたいんだ?」という感は無きにしも非ず。
本人も自覚しているが、日中友好の掛け橋というよりは、国民党直属のアヘン団のボスに過ぎない感もあり・・。とはいえ、その経験や視点が貴重な記録であることには変わり無い。表紙は胡散臭いが、かなり読める馬賊本です。
(23)灼熱-実録伊達順之助 伊達宗義著 蒼洋社
伊達順之助について氏の長男である宗義氏がまとめた著。近親者ならではの情報は思ったよりは少なかったが順之助と伊達家の関係と著者も一緒に逮捕されていた戦後の捕囚生活の描写は興味深い。
他の文献で描かれる大雑把な順之助のキャラクターのせいか、さほど興味の無かった人物だが、逮捕され押し込められた地下室においても「おれは中国を愛している。いろいろなことがあったがみな中国を思ってやったことだった。おれはこれまで、何回も死ぬ目にあい、それを乗り越えてきたが、今度は死ぬだろう。
おれが愛した中国によっておれは殺される。それでいいのだ。」と後悔も悲嘆もなく、天真爛漫さを保ったまま、自らの運命を受け入れる姿がイカス。
(24)RON-龍(30) 村上もとか著 小学館
今、馬賊物と言えば「RON」でしょう。というわけで、この巻は黄龍玉壁奪還を目的とした私兵団を結成するため、伊達順之助の紹介を受けた主人公「龍」が馬賊たちの聖地「千山」で修行に励むとこ。若々しい葛月潭老師とマニアックな太極拳の格闘シーンが印象的。ちょっとマニアックすぎる気もして皆ついてこれてるか、ちょっと心配。(でも良いシーン)久々に剣道の型が出てきて嬉かったりもします。(^^)
(25)キャノン機関 畠山清行著 徳間書店
馬賊一代の主人公、中島辰次郎(なかじまたつじろう)が戦前戦後にかけて日本、中国、GHQの下での腕利きの諜報謀略部員としての体験をつづった書。馬賊一代の特務学校から略奪馬賊時代までは、本書の冒頭1/4に過ぎず関東軍の腕利き特務、戦後は国民党と米軍の指令下にあり、米国情報部指導による「毛沢東暗殺計画(中島の仲間は中共軍に逮捕され死刑になっている)」。
謎の列車転覆事件である松戸事件などに関与した経緯が語られる。正直、情報部員としての記録の方が、行動目的が不明な馬賊時代よりはるかに面白く、貴重。馬賊研究で有名な渡辺龍策先生も戦後すぐは「中国国民政府国際問題北京研究所」という国民党配下の情報組織に中島氏と一緒に所属していたというのも興味深い。あまり見ないが、この本はお奨め。
(26)シナリオ 1966年1月 シナリオ作家協会編集
白朗の英国人少女誘拐救出事件をモデルにした山田信夫氏によるオリジナルシナリオ「馬賊」を掲載。日本軍により中国人の妻を殺され、日本を捨てた日本人馬賊“白狼山”こと中俊介が、関東軍の暴虐に対し、日本民間人殺害を含む徹底抗日で臨むべきか、協定を結んで匪賊掃討をやめさせるかに苦慮する姿が描かれる。
奉天城占領計画事件による大陸追放や国民党特務の暗躍など、かなり白朗に詳しい人が資料提供時に関与したと思われる。出来は決して悪くないと思うが、このまま映画にしちゃうとやっぱ薄っぺらな感は無きにしも非ず。
岡本喜八監督が予定されていたようだが、かなり理詰めのシナリオなのである種の破綻が魅力な岡本監督には向かなかったのかも。映画化はされて無いと思います。
(27)馬占山と満州-英雄・烈士となった元馬賊の生涯 陳志山訳 エイジ出版
馬賊上がりの軍閥として有名なのが張作霖とこの馬占山。日本軍からすると懲りずに、飄々と抵抗を続ける馬賊の親玉としてかかれることの多い馬占山に関しての中国側の正史。
馬賊云々よりも何度も追い詰められながらも抗日戦闘を続ける軍司令官としての馬占山将軍が描かれる。とはいえ、正直、正史すぎて苦悩等を含めた馬将軍のキャラクターが見えない面があってちょっと残念。
(28)馬占山将軍伝-東洋のナポレオン 立花丈平著 徳間書店
27)の正史とは異なり、あくまでも馬将軍のキャラクター描写に重点を置く形で書かれた馬将軍伝。呉俊陞の引き立てを受けていた馬が張作霖と共に呉を爆殺した日本軍に対して相容れざる思いを抱いていたこと、その馬ですら嫩江橋の戦い等をへて、黒龍
江省の自治と引き換えに、一時的とはいえ日本軍と手を結ぶにいたる経緯など興味深い。
個人的にはこちらの方が読みやすく楽しめた。軍閥に関していうと「北京無血開城」他で独特の男気を見せる傅作儀が気になってます。
(29)馬賊列伝-任侠と夢とロマン 都築七郎著 番町書房
「馬賊」や「実録・伊達順之助」で知られる都築氏最初期の馬賊もの。日露戦争時の東亜義軍を指揮し、馬賊の馮麟閣が軍閥として世に出るきっかけを作った辺見勇彦から始まり、彼が面倒を見た「天鬼」薄益三、「鉄甲」根本豪、小日向白朗など時系列に沿って日本人馬賊たちが紹介される。
執筆の勧めや資料提供を渡辺龍策(わたなべりゅうさく)氏から受けていることもあり、渡辺氏の一連の著作と重複する点も多いが、確度の低い情報が除かれており、脱線が少ないのがよい。稗史としてしっかり書こうとしている為、辺見勇彦や張作霖の履歴など歴史背景の把握はしやすいですね。その分キャラクターの面白さが減ってますが、それは「馬賊戦記」や「馬賊-天鬼将軍伝」など、朽木先生の著作でフォローすれば良いです。
張学良に見捨てられ、苦闘の後、日本軍の捕虜となって命を助けられた白朗の義兄弟“高文斌”が馬賊の終焉に思いをめぐらすラストは中々です。
(30)オレは馬賊だ 壇一雄著 同光社版
「夕日と拳銃」で伊達順之助を描いた壇一雄氏の短編集。白朗を主人公にした同名の漫画が少年マガジンに連載されていたようなので、その原作かと思ったが違った。
読み始めるとすぐに分かるが、主人公は白朗と一緒に奉天城襲撃を実行しようとした「鉄甲」こと根本豪。山地を拓いて麦や雑穀を作ってカツカツの生活を送っている晩年の彼が、馬賊に憧れて日本を飛び出し、九陽山配下の馬賊になるまでを語る。
一人称なので、感情移入がしやすく楽しく読めるが、めっちゃ中途半端なところでいきなり打ち切られてるのが悔しい。
(31)もうひとつの満州 澤地久枝著 文春文庫
満州国で勇名を馳せた共産匪(中国側からみれば共産系の抗日の英雄)である、東北人民革命軍第一軍司令「楊靖宇」の活動と満州国警官隊に追いつめられて死を迎えるまでを、満州からの引揚者である著者が郷愁を込めて描く。
分散して存在していた集落を拠点や補給地として存在し得た馬賊や匪賊(と呼ばれる集団や組織)が、満州国の押し進めた「集団部落(散見していた家屋を一カ所に集め、周囲を高い壁で囲った防衛力を持った集落)」と、追跡を容易にする警備道路の整備により、隠れ家と補給地を失い、衰退消滅していく過程がよくわかる。
自己の経験や立場から視点が中国側にも日本側にも立ちきれないのはわかるが、出会う場所が異なれば、そのキャラクターから考えてよい友人になったかもしれない楊司令と彼を討った岸谷隆一郎の対峙など、もっとタフに書きこめた素材が若干センチメントに流れてしまっているのは残念。
(32)岸谷隆一郎 岸谷隆一郎刊行会編 岸谷隆一郎刊行委員会(非売品)
「もう一つの満州」で揚司令を追いつめ、ついには打ち倒すことになった通化省の警備主任(警察長官)。中国側からは「楊司令を殺害した東洋鬼」と切り捨てられている。
が、なかなかどうして立派な興味深い人物。匪賊掃討の名を借りて、無故の住民を殺害して廻る関東軍から住民の生活と生命を守るべく、居住地と耕作地の移動といった非常に困難な経済問題を含む「集団部落」への移動を(住民の不満を知った上で)最前線に立って押し進めた。
また投降者を処罰するのではなく、自らの警察隊に組み込み治安の回復に尽力。後には熱河省の次官としても同様の成果を上げるとともに、治安回復後、治安紊乱の罪で捕らえられていた人達に恩赦を与えて一斉に釈放するなど、彼流の王道的政策を断行した。
彼の治世が現地の人にも評価されていた為、熱河省においては終戦時に日本人への報復襲撃等が他の地域と比べ少なかったともいわれる。
青森の鍛冶屋の息子が青春期の無頼(愚連隊の親玉をやってたらしい)を経て、己の能力を賭けるに値する「新しい国を作る」という夢を得て、住民の幸福を自らの幸いとする牧民官に成長し、多くの部下や住民(中国人含む)から慕われた。甘粕も一目置く、満州国の有能者であったが、敗戦の報を受けた。
満州国の死をみとるに忍びず、妻子と共に自らの命を絶ったことは、彼の能力が戦後の日本にとっても有益であったろうことを思うとその心情は理解できるものの、非常にもったいない。また、この人物が満州国の官吏であったというだけの理由で、否定され、忘却されてしまうのは、日本人として残念に思う。
(33)赤い夕日の満州で 秋永芳郎著 芸文社版
大正時代に青年期を送り、奉天の大和ホテルのボーイとなり、2年間の消息不明後、興安嶺(こうあんれい)のソロンで死体となって発見された友人を持つ著者が、戦後、白朗から馬賊談義を聞いたのを契機に記した馬賊小説。主人公を拓大生とおき「白朗と銀鳳が上手く行っていれば」という誰もが思う願望を軸に構成されている。
主人公が能天気、日本軍の描写が甘すぎとは思うが、著者の目的が亡くなった友人を含む当時の青年が抱いていた旺盛な雄飛精神の描写にあるのでそれはいいっこなし。(侵略思想ではないが、自らを客観する視点が欠けているのは事実としても)表紙の折り返し部に白朗の推薦文あり。
昭和40年当時、白朗は同士とともにアジア民族研究所を設立し、活動中だったとの事です。
(34)黒い落日-ある支那浪人の生涯 秋永芳郎著 東都書房
主人公、工藤鉄三郎(のち工藤忠)は、日露戦争時、鉄道爆破を目指したものの果たせず、スパイとしてロシア軍に銃殺された民間烈士、横川省三、沖禎介らとの親交から始まり、馬賊群に参謀として参画した支那浪人。革命党支援などを経て、元清朝高官升允(しょういん)との出会いから清朝復壁運動に注力、升允の死後、溥儀の信任を得て満州国への溥儀引き出しに成功。
満州国侍衛官長として、溥儀に仕えた。清朝復壁にかけ、育ちのせいもあり猜疑心の強い溥儀に信頼された人物として、描かれている。最初は特に思想は無いが、止むにやまれぬ思いで国を飛び出した、支那浪人に憧れる当時の若者の感じは良く出ている。厳密には馬賊ものではないが、かなり面白いです。
(35)大陸浪人 渡辺龍策著 徳間文庫
壮士、大陸浪人、支那浪人という切り口で、大陸雄飛にかけた時代の精神を、綿密な歴史記述と他の本ではあまり取り上げられない人物(金子雪斎、相生由太郎ら)のエピソードで伝える。渡辺先生の本も相当読み、重複も多かったので途中で挫折していた。
が、「黒い落日」で支那浪人という切り口に興味が出てきたので再読してみると、中々侮れない内容。玄洋社系の記述など、記述が専門的過ぎて多くの人が投げ出したくなると思うくらい、当時としてはかなり真面目で綿密。
「馬賊夕日に立つ」よりは100倍面白いです。袁口さま、進呈いただいた本ようやく読み終えました。ありがとうございました。
(36)馬賊王小白竜 父子二代-ある残留孤児の絶筆秘録 小日向明朗著 近藤昌三訳 朱烏社
白朗と白朗にとって二回目の結婚相手である張孟声の間に上海に生を受け、父の日本への帰還後は文化大革命の混乱の最中、日本人の子というだけで過酷な迫害を受け続けてきた著者が、日本への永住後、死病を得た床の中で記した父子二代の記録。
馬賊時代の記載は怪しいが上海時代から白朗が帰国するまでの
記録は、同じ時と場所で生活していたご母堂の話が主と思われるだけあって詳細かつ貴重。他著では全く語られることの無い白朗の結婚履歴や女性関係の情報や、小日向白朗二代目を継いだ田端良雄という人物がいたことも初めて知った。
母子共に周囲の迫害の中、白朗の日本渡航の経緯を秘し、中国に帰国する日をずっと待ち望んでいたことを思うと、ちょっと切ない。明朗氏は平成10年7月に日本に帰国され、平成15年に骨癌の為に亡くなられたが、開放政策の最中では会社経営者として経済的に満たされた生活を送っていた時期があったことを知る事が出来たのは嬉しかった。
(37)少年マガジン1969(昭和39)年51号 講談社
中薗栄助著、依光隆絵による「おれは馬賊だ-大陸の冒険王小日向白朗物語」 を掲載。少年マガジン掲載なので漫画とばかり思い込んでいたが、戦前からの講談社系少年誌の系譜を引くイラスト満載の小説。
全12回の11回目だが、楊頭目が死に白朗が頭目になった回であり思ったほど話は進んで無かった。まぁ少年誌で字も大きいしね。著者の中薗氏は元々純文学志向の人であったが、戦時中、独立闘争に尽力した中国人友人の死(憲兵隊に殺されたとされていた)を契機に、中国への愛惜を底に秘めた国際謀略ものへ手を染める様になって行ったと聞く。
イラストの依光氏は後に斎藤実氏の「太平洋漂流実験50日」も手がけている。雑誌としては看板漫画の「8マン」を筆頭に、漫画雑誌への移行が進んでいる時期。他の掲載作品の中では、ちばてつや氏の「紫電改のタカ」が現時点で読んでも飛びぬけた完成度の高さを誇る。
(38)匪賊-中国の民乱 川合貞吉著 新人物往来社
今更ではありますが、野中進一郎氏と共に「日本人馬賊王」の共著者の一人である川合貞吉氏による中国の歴代主要民衆蜂起事件の組織と背景について、匪賊や秘密結社といった視点から言及した著。
著者自身が当時の日本人の視点からすれば最新の匪賊というべき戦前の中国共産党に参加していたこともあり、今読んでも中々面白い所のある作品です。
(39)荒野に骨を曝す 杉森久英著 光文社
伝記作品で著名な著者による主として戦前、戦中に大陸で活躍した男達の列伝。人選は根拠があるような無いような感じではあるが、白朗もその中の一人として描かれる。白朗に直に会って話を聞いた事があるにもかかわらず、内容は「馬賊戦記」や「日本人馬賊王」からの引き写しのみでちょっと残念。
正直あえて読むまでの事は無いと思います。個人的には大杉栄の遺骨奪取事件に図らずも参加したことから、あれよあれよという間に大物国士に祭り上げられちゃう寺田稲次郎氏の話が面白かったです。
(40)支那馬賊物語 夏目一挙著 東京南光社
昭和11年発行の中学生以上を対象にした馬賊物語。とはいえ、著者は通訳か特務として大陸での活動経験もある人のようで、馬賊用語にはいちいち中国語読みのルビがふってあるなど、意外としっかりした内容の馬賊本。
内容は川合貞吉氏の「匪賊」に近い感じです。支那を旅行した際に実際に襲われたエピソードや匪賊に誘拐されたときの心得が大真面目に書いてあるのが、日中戦争が続いているのを実感として感じさせます。
(41)馬賊戦記-小日向白朗 蘇るヒーロー(上、下) 朽木寒三著 星雲社
あの名著「馬賊戦記」が、21世紀の世に新装改訂復刊!!新刊
により、書店やネットなど、古書に縁の少ない一般の方でも容易に手にとることが出来る様になったのは、実にありがたい。これまでの新装版と異なり、今回は朽木先生が始めて本文にも手を加えているとの事。
新たに大量の写真を追加されており、千山・無量観の葛月潭老師や白朗の夫人達の姿を知る事が出来るのも貴重。入手必須だ。
(42)阿片王-満洲の夜と霧 佐野眞一著 新潮社
ジャーナリスト出身ながら、その人脈と中国社会への精通、無欲にして大器量を持つことから、満洲産の阿片販売を取り仕切っていた怪人物「里見甫(さとみはじめ)」の生涯を描く、と銘打ちながら、殆どの人が興味ないであろう里見の縁者であった女性探しに脱線しちゃうある意味迷著。正
力松太郎を描いた「巨怪伝」が大傑作だった事も有り、もっと里見の戦中、戦後の活動について書き込んでくれると信じていた
だけに大ショック。貴重な情報も含むが散漫な感は否めない。
白朗は、趣味の無線技術に目をつけられ、奉天特務機関長土肥原賢二に脅迫同然に特務入りさせられた同じく三条出身の木原氏
の回想の中に登場。土肥原の配下として、白系ロシア人社会、ソ連極東軍の動向を探る特殊任務についていたとのこと。
(43)狼の星座 横山光輝著 講談社
「狼の星座」のオリジナル単行本版。巻頭の著者の言葉に“主人公建作を通して、語りつがれてきた馬賊のエピソードを盛り込み、馬賊の姿を浮き堀にしたいと思っています。」と記されており、馬賊戦記だけが元ネタではないことを示している。
ちなみに、少年マガジンの連載開始号は“天才バカボン“の週間連載最終号。少年マガジンという雑誌のカラーの移り変わりを感じさせる。雑誌での連載開始時には夕日の原野を背景に騎乗した建作のかっこいい見開きカラーがあるが、これが単行本には出てこないのはもったいないなぁ。
(44)「はいからさんが通る-花の東京大ロマン」 大和和紀著 講談社
かつて一世を風靡した大人気少女漫画。大正の世を背景に、明るく元気である意味けなげな主人公“紅緒”とその婚約者で美貌の伊集院陸軍少尉の波瀾万丈なロマンティックコメディ。
少尉の元部下の満州馬賊が登場すると知って入手。ちなみに、馬賊ネタの資料は作品中に示されるように、当時、少年マガジンで連載されていた「狼の星座」から。
「馬賊戦記」と「馬賊」位は読んでるかなぁ・・といった感じ。なっているなるほど人気があっただけあって、おっさんのおいらが読んでも漫画として十分おもしろい。他の漫画では成功した試しのない大正時代、しかもシベリア出兵が転機でラストが関東大震災という難しい設定と思うのだが、違和感を感じさせずに描ききってるのは凄いよなぁ。
(45)はいからさんが通る-「馬賊恋しや少尉どの38話」 日本アニメーション株式会社
アニメ「はいからさんが通る」の絵コンテ。シベリアでの少尉の死を信じることができない紅緒が、日本兵の馬賊が満州にいるとの噂を聞き込み、もしや少尉ではと思いこみ、取材と称して満州に乗り込む回。
実際は少尉ではなく元部下の鬼島軍曹だったわけだが、最初は正統派の自警団じゃない、奪う、犯す、殺すの三拍子揃った略奪馬賊だったが、後で喧嘩っ早いが義理堅い良い人になってたり、シベリアから満州までって凄い遠いんですけど、とかは言いっこ無し。かなり劇的に話が進む回で、漫画もだが、絵コンテで読んでも、十分に面白い。この鬼島軍曹のキャラクターが当時の女の子達のロマンティックな馬賊像に与えた影響って大かったんだろうなぁと、真面目に思う。
(46)緑の笛豆本第六集-馬賊 水曜荘主人著 緑の笛豆本の会
煙草の箱と同じくらいの大きさの豆本だが、他書からの引用ばかりという訳ではなく、著者自身が伊達順之助と会ったときのエピソードを記すなど、結構楽しめる本。プロの物書きの方ですので、ある程度安心して読めます。
(47)緑林 中野朝正著 対満支時局史編纂所
昭和13年発行、いきなり中国にやってきた白朗に訓練を施した後援者であり陸軍を代表する支那通坂西少将が題字を書いている事からもわかるように、日本人向けの馬賊啓蒙書。著者の中野氏は他にも馬賊関連の著作があるようだが、元自警団員というわけではなく、色々と情報を集めてまとめている模様。
個々のエピソードの記載が無く、アカデミックというか分類学的に記載してある為、正直読むのが辛いのは啓蒙書としてはどうかと思うが、1/3を馬賊の隠語事例に当てていたり、中共軍につい
て言及していたりしており、ロマンチックだが役に立たない他の馬賊書と一線を画そうとしている志は買おう。
(48)邊見勇彦馬賊奮闘史 邊見勇彦(江崙波)著 先進社
西南戦争薩軍の勇将、邊見十郎太を父に持つ勇彦は陸士の受験に失敗してプラプラしていたが、姉の恩師、下田歌子女史の激励を受けて一念発起し、中国に渡る。
出版社で代金回収係を勤めながら中国語と豊かな弁髪を身に付けた勇彦は、日露の開戦に際し、自ら志願して喬大人こと橋口勇馬中佐の指揮下に入り、田氏率いる義勇部隊(馬賊隊)の監督として、戦場に身を置くこととなる。
満州義軍らと並ぶ日露戦役時の第三馬賊部隊としての戦地での奮闘、終戦直前に起きた田氏義勇部隊の崩壊、後の軍閥“馮麟閣”の監督官としての交流など、貴重な情報が満載。厳密に言うと馬賊(=自警団員)では無く、日本軍の軍属ではあるが、後に白龍起こと薄守次らの面倒を見た日本人馬賊第一世代の奮闘を知る事が出来る。ちょっと編集者の手が入っているような気もしますが、文章のテンポも良くかなり面白い作品です。
(49)特集人物往来-日本の黒幕(昭和32年2月号) 人物往来社
雑誌「人物往来」の日本の黒幕特集した号で、小日向白朗の「秘められた満州事変の導火線」を掲載。張作霖の爆殺前後の情勢を記し、十年来の阿片飲み仲間である張学良が易幟を断行、楊宇霆らを暗殺した事に憤慨し、義兄弟同然の中であった学良に痛撃を加えるべく計画した“奉天城占領計画事件”の顛末を語る。
阿片と女に身を持ち崩していた学良が、阿片を絶つ苦しみを乗り越え、“国民党は敵ではあるが仇ではない。父の仇である日本軍とは決して倶に天を載かない」とまで告白しているにも関わらず、終始、日本人としての視点で行動する白朗。
この辺の行動が時代の限界とはいえ、いまいちしっくりこない所です。日本政府、関東軍、白朗共に、漢郷こと張学良を根性無しの青二才と見くびっていたという訳でしょうか。
学良の楊暗殺の背景に、楊等が張作霖爆殺に協力していたのではないかという疑惑があったのではないか、という指摘は面白いと思います。
・満日中戦争時代の父・野中進一郎:続馬賊戦記でも活躍する「野中進一郎」氏のページ。必読!
・日本人馬賊王~小日向白朗:「白朗研究会」佐藤海山氏の白朗オフィシャルページ。写真資料が凄いです!
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
ここの「42」番に引き続いて、鴨川ひかり君が、ネット上のどこかで見つけて持ってきた「ユダヤ人とは何か?」論文の前半部を載せます。それでも長文であるために、一番始めの部分は、まだ載せられませんでした。 副島隆彦記
(転載貼り付け始め)
「 ヘレニズム時代のユダヤ人 Hellenistic Judaism 」(前4-前2世紀)
1.ハスモニア家(これが本当の最初のユダヤ人王朝)(ギリシア時代 前332-後63)
紀元前332年、マケドニアのアレクサンダー大王によってパレスティナが征服されると、大祭司たちはユダヤの長としてみとめられ、ユダヤ人によるパレスティナの自治が許された。この時の祭司たちは最も理想的な祭司のあり方として「義人シモン(シメオン)」とよばれた。
おそらくは複数の祭司を指しているらしい。紀元前320年、大王の死によって、アレクサンダーが一代で築き上げた帝国が部下の司令官達によって複数の地に分割された。彼らをディアドコイという。
その中でもアンティオキアを中心としてシリアを征服したセレウコス朝と、エジプトを支配したプトレマイオス朝は、以後ローマ時代にいたるまで続くヘレニズム世界の最初の王朝(ザ・ヘレニスティック・キングダム)として覇を競った。
紀元前301年、プトレマイオス一世がシリアのセレウコス朝からパレスティナの支配権を勝ち取ると、ユダヤ人に文化・宗教的自由を与え、エジプトにおいてユダヤ人達は勢力を拡大し、文化的に繁栄していく。この時からアレキサンドリアにおいてユダヤ人達の人口が増大し、バビロニアと並ぶユダヤ人の古代の代表的な集住地域となる。
また、最初に書かれた聖書とも言える「70人訳聖書(セプトゥアギンタ)」が書かれたのもこのプトレマイオス王朝下においてである。シナゴーグの最初の考古学的証拠もここにあると言われる。
紀元前198年、セレウコス朝(シリアン・セレウシッド・ダイナスティ)によるパレスティナ支配が始まる。ここで重要なのは、アンティオコス・エピファネスが徹底的で露骨なヘレニズム化政策を推進したことである。
ユダヤ人迫害、神殿の冒涜、城壁破壊などを繰り返し行なったが、猛烈にユダヤ人の反感を買ったのがユダヤの神殿の祭壇にゼウスの像を飾ったことであった。ユダヤの神をオリュンポスの神々と同一視したことによって、ユダヤ人の独立運動に火が点いた。
ただし、もともと彼はユダヤ人達をよりリベラルに扱って、ユダヤ人自らの憲法、すなわちトーラーによる自治を与えていた。
この当時、ユダヤ人達の大祭司は、おそらくはエズラから続いていたとされるオニアッド(ツァドク家のことか?)家が世襲している。
この時の祭司オニアス三世は、こうしたヘレニズムの影響に反発していたが、紀元前174年、アンティオコス・エピファネスによって、オニアス三世の弟ヤソン(英語でジェイソン)に祭司職のすげ替えが行われ、さらに171年によりギリシア的なメネラオスに変えられてしまう。
このヤソンとメネラオスによって、パレスティナの急激なヘレニズム化が実施され、当時に支配階級に広まっていたギリシア化推進派=改革派に勢いが増した。
しかし、同時に支配階級の支持するメネラオス派と民衆が推すヤソンとの間に対立が生まれ、パレスティナに内乱が勃発してしまう。アンティオコスは、メネラオス派の要請を受けてこの内乱に当然のごとく干渉していくこととなる。
紀元前167年、ハスモン家の祭司マタティアスの反乱を機に、ユダヤ人達の歴史上初の大規模な暴動と独立運動が開始された。マタティアスの五人の息子、マカバイオス(「鍛冶屋」と言う意味)たちが中心になって起こしたものなので、「マカバイ(マカベア)の反乱」と言う。
この叛乱のすさまじさは「死海文書(デッド・シー・スクロールズ、巻き物)」に残されている。ユダヤ・キリスト教における殉教(martyr)はこの時に始まる。
また、この戦争でもうひとつ重要なのは、現代につながる律法重視のユダヤ教の基礎を作ったパリサイ派(ファリサイ派)がマカバイたちの反乱を支持したことである(英語版ブリタニカ参照)
兄弟の筆頭ジューダス・マカバイオスによって、ユダヤの神殿が解放されると、再び神殿に献納を行なうことが出来るようになった。紀元前165年のこの解放を記念して現在でも行われているユダヤの祭礼が「ハヌカ祭」である。
相次ぐ戦いの末、ジューダスが死ぬと、末の弟ヨナタンが大祭司となって、パレスティナ・ユダヤの事実上の支配者となる。
(152BC)次の、マカバイオス最後の生き残りシモンが、140年、自ら神殿内で大集会を執り行い、大祭司、君侯、軍の指導者としてみとめられた。 以後、オニアッド家がエズラの時代から代々次いできたこの地位はハスモン家の世襲となる。
ここに26年をかけて戦われたマカバイ戦争が終結し、586年のバビロン捕囚によるユダ王国の滅亡以来、事実上初めて政治的独立をユダヤ人達は獲得するのである。
ここで、重要なことは、このハスモン王朝こそ歴史上最初に現れたユダヤ人王国なのだと言うことである。ユダとイスラエルといった王国の話はあくまでも聖書の中での話である。
2.ギリシア化したハスモン家の分裂
このマカバイの兄弟の最後の生き残りシモンが暗殺された後、跡を継いだのが息子のヨハンネス・ヒュルカノス一世である。彼の治世の紀元前129年、ついにシリアのアンティオコスが戦死し、セレウコス朝が解体した。すると、ヒュルカノス一世は完全独立を主張して、領土拡大策を推進した。
この時代のユダヤ時の特徴である領土拡大策は、イドマヤ人(エドム人)などの周辺に住む民族にユダヤ教を強制し、サマリア人(北イスラエル崩壊後、その後も定住を続けた人々。独自のトーラーを持っていた)の神殿を破壊するなど、かなり荒っぽいものであった。有名なヘロデのアンティパテル家もこのときにヒュルカノスによって強制改宗された人たちである。
その結果、ハスモン家の王朝は、かつてのダヴィデの王国を凌駕する地域覇権国となってしまった。この広さは、ゴラン高原とヨルダン川東岸までに及ぶほどで、見ようによっては現在のイスラエル共和国の領土と占領地域よりも大きい。今のイスラエルでも、ヨルダン川西岸からはみ出ることはない。
ヒュルカノス一世の「業績」としてもうひとつ特筆すべきなのは、サドカイ派をサンヘドリンなどの地位に登用して、マカバイ戦争の功労者ともいえるパリサイ派を排除したことである。(英語版ブリタニカ参照)
パリサイ派とはハシディーム(敬虔主義者)の流れを汲み、大司祭制度と世俗権力(王)との分離を主張するもの達、つまり政教分離主義者(セパラティスト)のことである。彼らがタルムードを作ることとなる。
こうして、この二つの聖職者、学者階級の対立が王朝の終焉まで続くこととなった。
さて、ヒュルカノス一世が死ぬと(前104)、その後を長子のアリストブロス一世が継いだ。ここまではハスモニア家の正統であったが、これをすぐさま継いだアレクサンドロス・ヤンナイオスは弟であったため、ハスモン家は傍系の家系に移り、ハスモン家の内紛勃発の端緒となってしまう。
この内紛を利用して内政干渉の機をうかがっていたローマの意図を見破った妻のアレクサンドラ・サロメ女王は、サドカイ派を重用していたそれまでの方針を修正して、サンヘドリン内にパリサイ派を登用し、長子ヒュルカノス二世が大祭司職を継ぐという政教分離策がとられた。
しかし、前67年に女王がなくなると、ヒュルカノスの弟アリストブロス二世を担いだサドカイ派によって、王位継承権をめぐる内紛がおこりハスモン家の滅亡を招くこととなる。
ヒュルカノス二世にはイドマヤの大臣アンティパテルというものがいて、この男の息子がヘロデ大王である。(ヨハネやイエスの処刑に関わったヘロデは、ヘロデ大王の三男ヘロデ・アンテパスである。)このアンティパテルという男が策士であり、外国の力を借りて、自らが国をのっとっていくのである。
その外国というのが当時、共和国から帝国への変貌を遂げつつあったローマである。
ローマは第一回三頭政治(シーザー、ポンペイウス、クラッスス)といわれる時期にあたり、ユダヤに介入してきたのは当時シリア方面に覇権を確立していたポンペイウスであった。ポンペイウスは兄のヒュルカノスを大祭司としてローマに臣従させて、ユダヤの属国化への布石を打つ。大臣のアンティパテルもポンペイウスの後ろ盾を得ていたことにより自身の地位を固めることができた。アリストブロスはその子らとともにローマに送られた。
このころからシーザーが実力をつけはじめ、ポンペイウスとの戦いの果てにローマの最高権力者となる。この両者の戦いの合間にアンティパテルは抜け目なくカエサル支持に回り、カエサルによってユダヤの行政長官に任じられることになった。同時にヒュルカノス二世も大祭司として認められるが、ハスモン朝内にアンティパテル家の勢力が浸透していくことになる。
3.ローマによる支配開始(前63-後135)
歴史上正当なユダヤ王家、ハスモニア家は同じくパレスティナの周辺に住むエドム人の血を引くアンティパテル家にたくみにのっとられていく。(ダヴィデも実はエドム人の母から生まれている)この子供がヘロデ大王である。
ただし、これまでの流れも、ただのユダヤ国内の勢力争いというものではなく、覇権国ローマのお家事情に影響された、国際関係を抜きにしては語れない出来事なのである。
アンティパテルも毒殺されてしまうが、子供のヘロデはヒュルカノスの下にあって、アリストブロスの子アンティゴノス(つまりヒュルカノスの甥)の襲撃を撃退するなどして手柄を立てていく。このハスモン家の最後、アンティゴノスの行為がハスモン家の終焉とユダヤのローマ支配に引導を渡すことになる。
紀元前40年、アンティゴノスはパルティアの力を借りて侵入し、おじのヒュルカノスの位を奪うばかりか、二度と祭司職につけぬように両耳を切り落としてしまう。五体が健全であることが祭司規定のひとつであった。
パルティアによるユダヤ支配を許さないローマ元老院は、逃れてきたヘロデに支配者としての地位を与えてユダヤに侵攻し、エルサレムを占領した。アンティゴノスも首をはねられてしまう。
これで、ローマはヘロデを属州の長として立てることによって、ユダヤの間接統治に成功したことになる。これはハスモン家と歴史上最初のユダヤ独立国の終焉であった。
このハスモン家というのも、マカバイの最後シモン以降は怪しく、ヒュルカノス一世以降は貴族であり支配階級であるサドカイ派の登用によるギリシア化推進運動でしかない。これをヘレニスティック・ハスモディアンといって、律法遵守の旗印に反シリア闘争をしたマカバイオス=パリサイの方針とはそもそもまったく関係のない筋である。ヒュルカノスが血統によって王位を継承したということも、この短い国家の建国の理念に反するものである。
結局は、王家というものは血統が傍系にそれていくことによって内紛と外国からの介入を招き、没落していくものだということがこのハスモン朝の中に端的に示されているのである。
ハスモン家は、ヒュルカノス一世の子供アリストブロスまでは正統の血統といえるが、そのあとのヤンナイオスからがヒュルカノスの甥であり、傍系に移り、さらにヤンナイオスの甥アリストブロスの子が最後となった。つまり、傍系のさらに傍系にいたって消滅してしまうのである。
ヘロデはローマの傀儡で操り人形である。現在に至るまであらゆる方面から非常に評判が悪いが、壮麗な神殿を再建し、慈善事業などを起こした点で、統治者として非常に優れた才能を持っていた。
ハスモン家の血統を取り入れるためにヒュルカノスの孫マリアムネと結婚するが、結局はその母親ともども一族郎党を殺してしまう。また、パリサイ派を登用することによって、政教分離がいっそう進み、ユダヤ教の進歩に一石を投ずることとなった。
前4年になくなったあと、3人の息子たちにそれぞれの地方の支配を任すが、ユダヤを任せていた長子アケラオスの無能のために、民衆のローマへの反乱を許すこととなる。この反乱は、ユダヤの神殿にかかっていたローマのシンボルである鷲の斑を偶像として取り除こうとしたラビを処刑したことから始まった。
この反乱をうまく抑えることができなかったアケラオスは皇帝アウグストゥスによって追放されてしまう。この後有名なヘロデ・アンティパスが弟の妻と結婚をするなどという戒律違反を犯したり、ポンティウス・ピラトのような歴代のローマの行政長官が、ユダヤの民衆を挑発する行為を繰り返していく。
こうしたさまざまな事件を経て、ガリラヤのパリサイ派を中心にして、ズィーロット(ゼロタイ、熱心党)が結成されたりして、66年についにユダヤ人が完全に蜂起した。これが第一次ユダヤ戦争である。
このときのローマの将軍が後に皇帝になるウェスパシアヌスであり、その息子のティトスによってユダヤの反乱は鎮圧されてしまう。有名な戦いが70年の山岳地帯マサダの砦での包囲戦であり、ここにズィーロットのなかの最急進派であるスカリィ(短剣党員)が立てこもった。
また、このときのユダヤ側の司令官が後の史家ヨセフスである。彼のユダヤ戦記とユダヤ古代史は、聖書時代からこのときまでのユダヤの歴史を網羅している重要な資料である。
この戦いのとき、パリサイ派たちは積極的に戦いに参加することはなく、ラビのヨハナン・ベン・ザッカイはひそかにエルサレムを抜け出してローマの将軍に学院を設立する許可を願い出て、ヤブネ移った。ここが後にタルムード編纂とユダヤ学問の中心となる。
70年にエルサレムは包囲の末に落城、神殿は炎上して、ユダヤ国家は滅亡した。しかし、132年、5賢帝の3番目ハドリアヌスがエルサレムにローマの殖民都市を建設し、ユダヤ教の儀式を禁止しようとしたことがきっかけで、再びパレスティナのユダヤ人が反乱を起こした。(第2次ユダヤ戦争)
このときの指導者がバル・コフバと、彼を救世主メシアとみなしたラビ、アキバ・ベン・ヨーゼフである。この王国はたったの三年で終わりを告げ、エルサレムはユダヤ人の立ち入り禁止とされた。
こうして歴史上最初のユダヤ人王国は完全に終わりを告げ、次のラビのユダヤ時代へと移行していくことになる。
「 ラビ時代のユダヤ人Rabbinic Judaism 」
(2世紀-18世紀)
1.ソーフェリウムの時代
「書記」「教師」と言う意味で、前4世紀のエズラ時代の「大会堂」の長老達から、前3世紀、義人シメオン(シモン)まで。
2.ズーゴートの時代
ズーグは「対」と言う意味で、伝承によればサンヘドリンの正副議長のことであるらしい。ソーフェリウムの最後ソコーのアンチゴノスによって橋渡しされ、最初のズーゴートはヨセ・ベン・ヨハナンとヨセ・ベン・ヨエゼルである。
それぞれの側の三代目はシメオン・ベン・シャハタとイェフダ・ベン・タバイといい、ハスモン王国時代のサロメ・アレクサンドラによって登用されたパリサイ派である。この対は5対まで続き、最後の二人がシェンマイとヒルレルであった。
3.タンナイムの時代(135-200)
シャンマイとヒルレルの死後、第一次ユダヤ戦争が起こりユダヤ人の国家が滅びる。このとき徹底抗戦を主張するズィーロットに対して、パリサイ派の穏健派は神殿の保存とユダヤ教の慣習の維持に気を止めていた。
紀元70年、エルサレムがローマ軍に包囲されたときにエルサレムを脱出して、海岸地帯の都市ヤブネに学院を設立して弟子たちの教育を始めたのがヒルレルの高弟、ヨハナン・ベン・ザッカイである。ヨハナンはズーゴートとタンナイムの橋渡しに位置する人物であり、これをもってタンナイムの始まりだとされている。
タンナイムとは紀元10年から220年までの間、タルムードの基礎となったミシュナ編纂にかかわったラビたちで、「教師」という意味である。「テナー」=「繰り返す、教える」という意味に由来し、第6世代までに分かれている。ヨハナンからが始まりであるように、ズーゴートであるヒルレルの弟子の系譜である。
ヒルレルからユダ・ハ・ナシまで148名いたとされている。イエスもこのヒルレルの弟子でヒルレル派であった。つまり、パリサイ派の正統の系譜に属する人だったのである。
ユダヤ人国家が滅びた後すたれてしまったサンヘドリンの任務を引き継ぐ権威ある機関の設立が必要となった。これをうけてヨハナンはこのあとのタンナイム達の中心機関となるベド・ディンと呼ばれる導師評議会を組織する。これは元老院、議会、裁判所の役割を果たした。ここの長は実質的にはユダヤ人のトップであるのだが、タンナイムらが発展させていくアカデミーとの対立構造も生み出していく。
こうしてユダヤ人の存続基盤が出来ると、成文法と口承法が調べ上げられて、ヒルレル派とシェンマイ派の間で闘わされていたズーゴート達の長期論争に終止符が打たれた。ヒルレル派の主張が採用されることに決定したのである。
ヨハナンの業績として持ったも大切なものは、聖書の正典を確定する作業である。ヨハナンは伝承と雅歌を聖書に入れ、「五書、預言者、詩篇、知恵文学」を正典化し、今後聖書にはこれ以上は追加してはならないという布告を出す。ユダの12代国王アハズのころから続く正典化作業に終止符が打たれた。
ちなみに正典に対する外典とは「70人訳聖書、ヨセフス、黙示文学、パピルス・スクロール」である。これを受け継いだのが最大のラビといわれるアキバ・ベン・ヨーゼフである。アキバはハドリアヌス帝に対するユダヤ人最後の反乱の直前に出現した。彼の業績は、ミシュナ法典の編纂に着手し、ヨハナンの仕事を発展継続させたことである。
アキバは聖書のテキストのあるがままの内容だけではなく、文法から戒律と原則を導き出す推論法を編み出した。また、伝統と慣習を六つに分類してユダヤ教を学問として組織・体系化する。
しかし、このころのローマ皇帝ハドリアヌスのユダヤ教弾圧のため、第二次ユダヤ戦争が始まってしまう(紀元132年から135年)。
アキバはこの反乱の指導者、ズィーロットであるバル・コフバをメシアとしてたたえ、共に戦うのだが、三年にして鎮圧され、アキバもこの時に死ぬ。伝説に依ればローマ兵に何度も突き刺され、焼き殺されたと言われている。
紀元138年、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが即位すると、ユダヤ教弾圧が緩和されて、破壊されたヤブネの学院に代わり、パレスティナ北部ガリラヤ地方のウシャが新しく学問の中心となる。しかし、このころからパレスティナよりもバビロンの機関が栄えるようになって、聖書研究の中心地の移行が徐々に始まる。
この時期に活躍した学者はラビ・メイルという人である。かれは、このころ各地で行なわれていたアキバの編纂事業を受け継いだ人物であるが、アキバの方点編纂作業を事実上完成させたのはこのメイルである。ミシュナで権威者の名前が特定されていない場合はほぼメイルによるものであるといわれている。
紀元220年頃、このメイルの編集したテキストを使って、それまでの148名のタンナイムの見解と判定が六つのカテゴリーに分類され、ミシュナとして完成させたのが学頭の正統の継承者であるベド・ディンの長ユダ(イエフダ)・ハナシ(135~220)である。
ヤブネに始まり各地に散らばったアカデミーの学頭はヒルレルの孫ガマリエルから代々その子孫が受け継いでいた。ハナシもその子孫であるため「君主のハナシ」といわれた。ちなみにガマリエル一世はキリスト教を広めたパウロの師匠である。
(ガマリエル二世はヤブネの学院からヨハナン一党を追放している。)
彼はメイルのもとで訓練を受けただけでなく、学者の家系であったので、当代一流の人物と交流があり、皇帝マルクス・アウレリウスと交流があった。彼の家庭で話す言葉が土着のアラム語ではなく純粋なヘブライ語であったことも聖書解釈に決着をつける要因ともなった。
ミシュナの六つのカテゴリーとは「種子、饗宴、女性、損害、神聖なこと、斉戒」であり、農耕法や結婚、儀式などの規定をまとめたものである。
ミシュナはそれでもあくまで口承法であり、トーラーに代わるものとなることが恐れられて、記述が義務づけられることはなかった。
4.アモレイムの時代(3世紀-6世紀)
ミシュナが完成したので、その注釈であるゲマラの編纂が開始される。ミシュナとゲマラをあわせてタルムードという。このゲマラの編纂に関わったものをアモレイムといい「語るもの」という意味である。パレスティナとバビロニアで競争するような形で行われた。パレスティナのアモライムは5代4世紀末まで続き、バビロニアでは8代5世紀末まで続いた。
パレスティナではティベリアの学院を中心にして、カイザリアとハナシのいたセフォリスといった学園があり、ラビ・ヨハナン・ベン・ナッハバによって編纂が始められ、ミシュナ編纂の二世紀後、425年までに終了したといわれているが、最終編纂者の名前すら分かっていない(390年と言う説もある)。ローマ軍の包囲の最中に編纂されたと言う事情もあって統一性がないとされている。
したがってこのころにはすでにバビロニアへの頭脳流出が始まっており、425年、テオドシウス帝によってユダヤの全アカデミーが閉鎖された。
バビロンはネブカドネザルの補囚いらいユダヤ人社会の重要センターとして栄えていて、ミシュナ完成時には100万人を越えていた。ユダヤ人社会は実質的に自治が認められており、首長はレシ・ガルータ(補囚・離散の王子、エグザラーチexilerch)といいダビデから続く世襲統治者として王族に準じた扱いを受けていた。
しかし、バビロンのユダヤ人社会での真の権威はアカデミーと学者達にあった。現代に続くバビロニアのタルムードはバビロニアの南にあったスーラの学院(160~247年)と、ネハルデアの学院(259年以降はプンペディタの学院、10世紀まで)が2つの中心であった。
前者を設立したのはユダ・ハナシ弟子であったラブ・アッバ・アリカ、後者の学院長は同時代のサムエル・ベン・アバという人である。スーラの学院はバビロニアのほかの学院を圧倒した。
紀元226年、ペルシャがユダヤ社会に寛容であったアルケサス朝からゾロアスター教を信奉するササン朝になると、宗教的弾圧が始まり、ネハルデアの学院は259年に破壊されてしまう。その代わりにプンペディタとマホザに学院が作られ、スーラと並んでここでもゲマラ編纂の仕事が続けられたのである。
サムエルとアッバ・アリカの仕事を引き継いだのがスーラの院長ラブ・アシ(375~427年)であり、サムエル以降の膨大な口伝を編纂した。ラブ・アシがまとめた口伝をさらに文書化してとうとうゲマラを完成させたのが、スーラの新院長ラビナ・バル・フナ2世(在職474~499)である。500年頃までに完成したらしい。
それに若干の補足を加えた5世紀半ばから6世紀半ばにかけて活躍した筆写師たちをサボライム(「熟考する者、理論家」という意味)という。彼らは次のジェオニムへの橋渡し役とし位置づけられている。
こうしてゲマラの完成を見たわけだが、それはそのままパレスティナに対するバビロニアの学問的勝利であり、タルムードの完成を意味したのである。このバビロニア・タルムードはパレスティナ・タルムードの3倍の分量がある。現在一般に言うタルムードとはこのバビロニア・タルムードのことである。
タルムードの内容、ハラハーとハガタ
5.ジェオニム(ゲオニム、ガオン)の時代(640-1038)
六世紀と七世紀はササン朝ペルシャと東ローマ・ビザンチン帝国が戦争を繰り返していた。しかし、628年に平和条約が結ばれたときには双方共に疲弊していた。
この間隙を縫って登場し始めたのがアラビアの砂漠から興ったイスラム帝国である。
イスラム教徒の軍隊は周辺諸国とペルシア、ビザンチンと圧倒し、最初のイスラム王国ウマイヤ朝が建てられた。このウマイヤ朝による中東、北アフリカ、イベリア半島の占領によって、中世時代のユダヤ教の統一した特徴の環境的枠組みがもたらされたのである。
ウマイヤ朝のカリフのもとでユダヤ人は、人頭税と地代さえ払えば文句を言われず、イスラム教徒と同じ「経典の民」としてそれまでアルサシッド朝とササン朝で発展してきたのと同じ自治を認められることとなる。
捕囚地バビロニアでは、共同体首長「レシ・ガルータ」と、知的活動の長であるスーラなどの学院長、ガオン(複数形はゲオニム、ジェオニム)による二重構造体制が11世紀まで続いた。このガオンは首長達の権威を脅かすほどの存在で、世界中から弟子たちが集まり、タルムードの教えを継承・維持していったのである。
彼らガオン達の功績は、パレスティナのアモライム達の文学を含むパレスティナの慣用語法を置き換えることによって、バビロニア・タルムードを比類無きものにしたことである。これによって、このバビロンにて作成されたタルムードこそがタルムードだと言うことになり、バビロンの勝利が確定したのである。パレスティナのものはバビロニア・タルムードに従属したものと見なされている。
しかしこの時期はどうじにタルムードとガオンの権威を一切否定する運動が起こり始めた。彼らは聖書のみを生活における至上の権威としてみなし、書かれていない口伝律法であるタルムードは認めなかった。このはっきりと書かれた律法の言葉に厳しくこだわろうとする態度から「ブネイ・ミクラ(書の子供たち)」とか「カライ派(聖書朗読者達)」と呼ばれるようになった。
このカライ派の総帥はアナン・ベン・デヴィッドという人である。アナンはタルムードの権威主義に嫌悪感を抱いていた実力者達から反世襲統治者として祭り上げられて、世襲統治者達との対立を招き、紛争へと発展したが、反逆行為とみなしたカリフによって投獄されてしまう。
カライ派の思想も、聖書の律法のみしか認めないために、食物規定などのさまざまな細かい規定から解放されるという反面、それぞれの社会で勝手に規則を作ってしまうため、小集団の群れに陥るというそれ自体の特性による欠点を持っていた。つねに運動の空中分解の可能性をはらんでいたのである。
それでもカライ派の運動はシリア、エジプト、南東ヨーロッパに広がり、一時はユダヤ教の主流になる勢いに達した。このカライ派と徹底的に戦ったのが、ガオン中のガオンと言われるサアディア・ベン・ヨーゼフ(892~941)である。スーラの学院長に任命された彼は、ラビによるユダヤ思想、つまりタルムードに対するカライ派(カライト、スクリプチュアリスト)からの攻撃に対して徹底的に論陣を張り、かれら聖書の原典のみを拠り所とする一派を一掃した。
11世紀以降カライ派は、その個人主義により組織化が妨げられ、人口が減少しつつけ、キリスト教の宗教改革のときに一時注目されたことを除いて、ユダヤ人社会で影響を及ぼす力がなくなった。
サアディアはまた、ユダヤ=イスラム文化(ジュデオ=イスラム・カルチュア)のパイオニアである。彼はエジプトの生まれであったため、イスラムトタルムードの両方に関する造詣が深く、アラビア語ができた。だからサアディアによる聖書のアラビア語訳と注釈によって、10世紀以降のスペイン・アンダルシアにおけるセファラディム・ユダヤ人たちの文化が花開き、一般大衆への聖書理解が行きわたったのである。
さらに、ギリシャ哲学とトーラーを融合し、真理に到達する手段として「信仰(啓示)と理性」が両立するものであるということを初めて唱えたことが偉大である。といってもこれはプトレマイオス時代のフィロの影響であろう。しかし、サアディアの思想が後代のモーゼス・マイモニデスに多大な影響を与えたのである。
この同世代のイスラム哲学者アヴェエロスにも影響を与え、後のマグヌス・アルベルトゥス、トマス・アクィナスによるキリスト教スコラ哲学の源流であるということも言うまでもない。
ユダヤ教のマイモニデス、イスラム教のアヴェエロス、キリスト教のアクィナスなどはいたるところでその治世と業績を称えられているが、実はそれらの本当の始まりはこのサアディアなのである。
このサアディアの死後バビロンはトルコの侵入を受けて学問的環境と世襲統治体制が崩壊し、ユダヤ人社会と学問の中心はスペインに移った。スーラの学院も閉鎖された。
このスペインで15世紀にユダヤ人とムーア人が追放されたときに、アラビア語がスペインで通じなくなり、著作が手に入らなくなってしまったために、後にカイロのゲニザ(シナゴーグの倉庫)で著作の一部が発見されるまでサアディアの思想は忘れ去られてしまう。
エンサイクロペディア・ブリタニカの「ジュウダイズム」の項で、人物が見出しとなっているのはサアディアだけである。マイモニデスでさえ見出しになっていない。
6.中世ヨーロッパ時代(950-1750)
「セファラディムの発達」
スペイン・イベリア半島にユダヤ人は少なくともカルタゴ時代には住んでいたといわれる。カルタゴというのはフェニキア人の植民都市であり、ローマがわからの呼び名がハンニバル達の登場したポエニ戦争のあのポエニ=フェニキアである。フェニキア人というのは聖書の時代以前から地中海交易で知られた海の民であり、12氏族のうちフェニキア人の地域に定住したアシェルなどは、フェニキア人と一緒になって消えてしまったといわれている。
いずれにしろユダヤ人達は捕囚時代にはすでにエジプトからギリシャにいたる地中海東側に多数が定住していたし、最初の離散(ディアスポラ)以降ローマ時代以前には既に地中海一帯に広がっていたことは確かであろう。
イベリア半島はローマ、スエービー、アラン、バンダル西ゴートなどの所属が相次いで侵入した経緯を持つことから、混血が進み独自の人種形成が進んでいった。
中世の扉を開く最初の変化は、589年西ゴート王リカルド一世がカトリックを受け入れたことである。これによってそれまで大方平穏に暮らしていたユダヤ社会は迫害を受け始める。
しかしそれも紀元711年アラブのムスリム達の軍勢による侵入によってひとまず終了する。そして、前ウマイヤ朝の王族であったアブドゥル・ラフマーンが755年コルドバで後ウマイヤ朝を開き、イベリア半島のイスラム王国時代が始まった。
10世紀、アブドゥル・ラフマーン三世はカリフとして正式にイスラム王国の王となった。彼は学問芸術を保護したため、コルドバはバビロンが衰退した後のユダヤ人の学問の中心となる。
ここからスペインユダヤ人達は宮廷の高官となっていき、学問文芸の黄金時代を謳歌していくことになる。これがセファラディム(セファラディーは単数形)である。セファラディーとはスペインのことである。主にスペイン南部、アンダルシア地方で活躍した。
ユダヤ人達は(おそらくはエジプトなどから移住した人達であろう)、ギリシア語の著作を多数アラビア語に翻訳し、アラビアの数学、天文学や文学をヨーロッパへ紹介して、アラブとキリスト教徒との橋渡し役となった。
この時宮廷で最も重んじられた人物がハスダイ・イブン・シャプルートである。彼は宮廷医、通訳、税関長であったが実質的な外交担当者であり、神聖ローマ帝国やビザンチン帝国にも知られるほどの名声があった。
バビロンのスーラの学院が閉鎖された後、支援を求めた学者達がスペインにやってくる。彼らのタルムードの知識に驚いたハスダイはかれらに金を出し、コルドバに学院を開いて彼らを招聘した。この学院に各地から学者とタルムードが集まって、ユダヤ人の社会緒学問が繁栄していく。
このハスダイに関してもう一つ特筆しなくてはならないことは、東方のカスピ海と黒海周辺にあったと言われるユダヤ教王国カザール王国の王レオンと書簡を交換していたということである。
カザール王国はトルコ系遊牧民を起源に持つ人々が建てた国であるといわれている。彼らは当時キリスト教国のビザンチンとイスラム教国の間に挟まれていたため、苦肉の策として双方の信仰に通じるユダヤ教を国教としていた。
紀元70年のユダヤ戦争以降王国を失っていたユダヤ人としてハスダイは、ユダヤ教国家が存在していたことに無上の喜びと憧れを抱いていたことがこの書簡から見て取れる。ただし彼らはタルムードの存在を知らず、ただトーラーのみを深厚の拠り所としていたらしい。
この類似性からカライ派の一派ではないかとも取りざたされた。カザール王国に関しては、現代のユダヤ人の素性を見る上で非常に重要な位置を占めているので後に詳しく述べる。
11世紀初めになると後ウマイヤ朝が没落し始め、内乱と宮廷闘争が始まり、コルドバがベルベル人によって荒らされてしまう。これによってイスラムによるスペインの統一が失われて、中心が北アフリカに移ってしまう。
このベルベル人の支配する次のイベリアユダヤ文化の中心地グラナダの宮廷に仕え、外務大臣であったのがサムエル・イブン・ナグデラ(993~1055)という人である。
サムエルはバビロンのゲオニムや北アフリカの学者達と連絡を取り合って、たくさんのレスポンサを残している。これは世界各地に散らばるユダヤ人達が、日常生活で生じる諸問題に対する回答書である。各地の学者達はこうしてユダヤ人の諸問題をタルムードに照らし合わせて戒律上の解釈をし、運用していったのである。サムエルのレスポンサは現存している。
この11,12世紀にサムエルがユダヤ人文芸家と学者を保護したことで、この時代はユダヤ文学の黄金時代となった。その中で有名な詩人にソロモン・イブン・ガビロルとユダ・ハレビがいる。
11世紀末、1085年、ヨーロッパ中から集まったキリスト教との軍勢がカスティリア王国の旗を立てて総攻撃を開始し、西ゴートの首都であったトレドからイスラム教とを一掃しようとしたが、逆にベルベル人のアルモラビデス族の反抗にあって半東南部一帯が制圧される。
12世紀にはこの王国のもとでユダヤ人社会は経済的に安定し、学問の活動が活発になるが、12世紀末のアルモハデス王国になるとユダヤ教の迫害が起こり、カスティリアに難民が流れ込んだ。そして13世紀と14世紀初期にはアルフォンソ九世のような寛容で有能な統治者がカスティリャには続いたため、学問の中心がカスティリャのトレドに移っていく。
このころ(12世紀末)に活動していたのがツデラのベンヤミンで、ラビでありながら13年に渡ってヨーロッパとアジアを旅してまわり、その回想録が旅行記として編集されて後世に残った。
そしてこの12世紀末に出てくるもう一人の重要人物がモーゼス・ベン・マイモンつまりモーゼス・マイモニデス(1135~1204)である。マイモニデスはコルドバで生まれたのだが、アルモハデスの襲撃を受けたために、若いころは父親と共に各地を流浪しなければならなかった。
最終的に彼はエジプトに落ち着き、有名なアイユーブ朝の始祖サラディン(サラーフ・ウッディーン)の大臣アルファデ-ルによって宮廷医として迎えられる。ここで非常に名声を博したようで獅子王リチャード二世からも宮廷医として迎え入れたいという要請があったようだ。
マイモニデスの神学上の業績は二冊のタルムードの解説と一冊の哲学書である。まずミシュナの解説書である「シラージ」。これは流浪の旅の間にまとめられたもので、ミシュナに対する解説に自分の見解を付け加えている。この中で、ユダヤ教の信仰を十三ヶ条にまとめている。
2冊目は「ミシュネ・トラー」といい聖書とタルムードの律法の法典を編纂したもので、十四冊に及んでいる。迷宮に似たタルムードの枝葉末節を整理して、タルムードを非常にわかりやすくしたものだといわれている。この中にアリストテレスの論理学を導入した。
しかしそのわかりやすさと論理の導入によって、保守勢力から「ミシュネ・トラー」がタルムードに取って代わられることを恐れられ、後の反マイモン派運動のきっかけともなった。
三番目の著作は「モレー・ネブヒム」といい、「途方に暮れた人のための指針」という意味である。これはユダヤ教の哲学的解釈を施した書物で、最も重要な著作である。このなかでマイモニデスはサアディアが発展させた前提、信仰と理性(=合理、理由、疑問、問答)は相容れないものではないという考えを継承したり論を展開した。
「律法は完全無欠なものであるゆえ、どれも合理的に解釈することが出来る」という仮説を証明するために、聖書の徹底的な合理的解釈を進めた。そして「信仰と理性は同等に真理へ導き、神は理解し崇拝しなければならない。宗教は感情的現象であるのみならず、心の奥底にある迷いに対する答え」という、後のスコラ学の源流である思想を生み出す。
この意見に対して13,14世紀に「神秘主義」がうまれ、モーゼス・ベン・ナフマン(ナフマニデス、1194~1270)とハスダイ・クレスカス(1340~1410)が「信仰と理性の一致」に対して批判を加えていく。
ナフマニデスは神秘主義者であり、マイモニデスのことを評価しながらも、「象を針の目から無理矢理通そうとしている」といって弁証法的に聖書を解釈したり、細かすぎることにこだわることを認めなかった。神の意志は人間の貧弱な心では理解できないし、信仰上の真理や奇跡を合理的に説明したり理解することは出来ない。ただ啓示された律法をそのまま受け入れ信じていくことだと、信仰のみを拠り所とする宗教観を示した。
クレスカスは神に近づけるのは理性によってではなく、愛によってであるとして、初めてアリストテレスの論理学を批判した。
この二人のマイモニデス批判が当時生まれつつあった「カバリスト運動」に大きな影響を与えていった。
(ナフマニデスとクレスカスの間がカバリスト、レオンの「ゾハル」がはいるかどうか?レオンは13世紀の人1250~1304)
こうしてこの14世紀いっぱいで10世紀から続いたスペインでのユダヤ人の活動の黄金時代が終わるのである。
(副島隆彦記。先週、2007.5.10に、この論文の全体のうちの後半部を、先に第二ぼやき「42」 に載せた。そして今日、前半部のうちの、うしろの部分を「43」として載せた。あと一回で終わります。)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
「ユダヤ人とは何か?」を大きく理解しようとして、以下の載せる文章は、優れています。以下の文章は、今から2年ぐらい前に「重たい掲示板」に、鴨川光君が、載せたものです。
それを、わざと、私は、今日、その後半部から先に載せます。
ユーロッパ中世の13世紀ぐらいからの、ユーロッパ・ユダヤ人たちのことからずっと、説明してあるので、分かり易いです。
そうしないと、例の、旧約聖書の「アブラハムのイサクの・・・」と、始まる前半部から、再度、読み始めることは、私にとってもきついことです。ですから、私の判断で、故意に、後半部の「スファラディー(セファラディウム)・ジューの没落と離散(りさん、ディアスポラ)」から載せます。
前半部は、後日載せます。以下の後半部から先に読むと、「ユダヤ人の歴史」がよく分かります。
この論文の出典を、私は知りません。鴨川君が知っているでしょう。私、副島隆彦にとっては、鳥生(とりう、バード)君が、発表した「セソストリス王の話」を使った、私がこれから発表する、「人類の古代文明と古代世界帝国の発生は実は同じだ」論 という、私にとっては、重要な「副島隆彦の世界史の全体像」論にとって必要不可欠なものです。
以下の論文は、私の理解と学問成果にとって、ユダヤ人の歴史を「世界史の中に正確に、冷酷に混ぜる(組み込む)」ための基本の知識となるものです。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
「ユダヤ人の歴史」 ・・・・・著
の後半部 から
「セファラディーの没落と離散」
ユダヤ社会に対する圧迫は、14世紀の間に徐々に高まってくるが、1391年のある出来事によって、ユダヤ人のキリスト教への大規模改宗を引き起こすこととなる。この年の聖灰水曜日に、教会の高僧フェランド・マルチネスという人がセビリアで暴動を扇動し、暴徒がユダヤ人を襲撃する。
強制改宗に従わなかった者数千人が死んだといわれる。この暴動はスペイン南部のアンダルシア地方からコルドバから北部カスティリャのトレド、そしてアラゴンへと広がりスペイン全土を覆った。
この「改宗かさもなくば死か」という厳しい選択を迫られたユダヤ人達はユダヤ人社会が丸ごと改宗するということが起こった。
しかしこの多数の改宗者達が改宗によって就くことの出来るようになった新しい地位を利用して、これまで就くことの出来なかった職業分野へ進出していった。それは大学や国政の重要ポスト、教会での高い地位などであったため、貴族達への接近も可能となっていく。
この新キリスト教と達は富を蓄え、宮廷の高位高官や要職を独占しているとみなされて、一般大衆から妬まれ始める。キリスト教徒からはもちろんのこと同じユダヤ人からもマラーノ(豚)と呼ばれた。
マラーノ達に対する憎悪は15世紀中頃から高まり始め、トレドやコルドバでマラーノが虐殺されるという事件も起こる。つまり、改宗ユダヤ人達は、改宗したからといってその安全が保障されたわけではない。
1479年アラゴンのフェルナンド、カスティリャのイザベラが共同統治者となり、スペイン王国が成立する。二人はイベリア半島からイスラム教徒を一掃し、キリスト教国家を作り上げようとしていた。
二人は1480年スペインに異端審問所開設し、ドミニコ修道会士を審問の監督責任者となる。この審問所はローマ法王らかの許可がなかなか下りなかった。それは裁判を世俗の機関として王権の下に置くことがためらわれたからである。これは裁判権が世俗のものとなったことを表している。
これ以降ドミニコ修道会は「主の犬(ドニミ・ケイニス)」と呼ばれるほどイスラム教徒やマラーノを見つけ出して、公開火刑(アウトダフェ)を行なっていった。
異端審問は南部アンダルシア地方にかぎられていたが、1483年アラゴン・カスティリャの支配地全土にに広げられ、執行者としてトルケマーダが大審問官に任命される。トルケマーダはマラーノも疑いのある人物で、改宗ユダヤ人にありがちな徹底さと執拗さでユダヤ人を追い回していった。
1492年イスラム・ムーア人最後の拠点グラナダ(アンダルシア地方)が落ちると、それまで撤回と延期が繰り返されていたユダヤ人のアンダルシア地方からの一掃が現実のものとなった。
これはトルケマーダが国王に執拗に迫っていた政策であったが、ユダヤ人の追放でスペイン経済が駄目になることを知っていた国王がためらっていたのである。
しかしグラナダの陥落とユダヤ人財産の没収を行なうことで国王の心が揺れ動いた。1491年に教皇インノケンティウス八世に許可を求めたが、教皇でさえ非人道的な行いであるとして許可を出さなかった。しかし、トルケマーダによって、教皇の許可なく教皇に進められたのである。つまり、スペインのディアスポラはマラーノによって強行されたものであるといえるかもしれない。
1492年3月31日グラナダのアルハンブラ宮殿から布告が出され、四ヶ月以内の国外退去命令が言い渡された。
「難民の移住先」
難民の移住先は主に次の通りである。オトマン・トルコ、ナポリ、ベネチア、アフリカ、ナバーラ、ポルトガル、オランダ。
移民はまずナバーラ、アフリカ、ポルトガルに向かったようである。ナバーラは王が異端審問に抵抗していたので、宗教的に寛容であるということが予想された。
しかし、同じイベリア半島にあるこの国ではフェルディナントの影響力が広がっていたために、宗教選択を迫られ、大多数がマラーノとなったようである。イベリア半島対岸の北アフリカでスルタンは上陸を許したが、生き残ったのはごくわずかであったらしい。生き残ったものは北アフリカで立派な社会を作ることが出来た。
ポルトガルではお金の額次第で滞在を許されたが、1495年に即位したマヌエル一世はユダヤ人に対して人間的に対処していた。しかし、マヌエルの結婚相手はフェルナンドとイザベルの娘で、結婚条件がポルトガルからユダヤ人とムーア人を追放することだった。そのため、1496年に法令が出されて、一年以内の国外退去が命じられた。
それでもマヌエルはユダヤ人を手放す経済的損失を考え、出国を妨害するための条件を出したり、ユダヤ人を全員自分の奴隷と宣言したりした。そして、ユダヤ人に改宗を迫り、強制的に洗礼を施したりした。これは苛烈を極めるものであったらしいが、ユダヤ人を守るための人道的な安全保障であったのだろう。
このころポルトガルに1391年の最初の迫害で逃れていた名門宮廷ユダヤ人がいる。元はカスティリャの大富豪であったのだが、難を逃れてきたエンリケ航海王の時代の開かれたポルトガルで出納長になっていたアブラバネル家である。
出世頭のイサーク・アブラバネルは聖書注解者でもあり、ポルトガルの財務大臣に上り詰めていたが、ある公爵らの隠謀に連座したためにポルトガルを追われてトレドに逃れた。ここでフェルナンドとイザベラの出納長なる。1492年の完全追放のときはトルケマーダの布告撤回させようとし、王もイサークを手元においておきたかったが、失敗いしてナポリに移住する。ここで、再び啓明王といわれるフェルディナント一世の財務大臣になる。
しかし、しかし、この後ナポリはフランス・スペイン軍の侵攻を受けて異端審問が始まってしまう。他のイタリア諸国でも1516年ベネチアで初めてゲットーが導入される。教皇領・ローマにも洪水の起こるテベレ河畔の一画にゲットーが作られた。
オトマン・トルコは1453年にコンスタンチノープルを攻略して小アジアから北アフリカにいたる大帝国となったイスラム国家である。トルコの支配地はそもそも古代からユダヤ人が住んでいた地域であり、人頭税にしか興味のなかったスルタンは伝統的にユダヤ人に寛容であった。だからこのディアスポラでも最も多くのユダヤ人が移住した地域となった。この地にセファラディム風の高い生活様式を持ち込んで、イスラム社会に貢献し、学問も栄えることとなった。
その中でも有名なユダヤ人がヨセフ・ナシである。もともとはポルトガルのマラーノの出身で、16世紀にポルトガルを追われて、アントワープで銀行業を行なっていた。しかし、カトリックを捨ててコンスタンチノープルに移住しスレイマン二世の宮廷顧問となり重用された人物である。
そして、オランダである。プロテスタント国であるオランダはすでに16世紀に独立していたが、フェリペ二世治下のスペインの侵攻をたびたび受けていた。ここに、マラーノの異端審問が激しくなっていたセファラディムたちが1593年い初めて上陸した。初めはカトリックと誤解されて、襲撃されたが、マラーノであるということを説明すると定住を認められ、ユダヤ人としての生活が可能となった。
裕福なセファラディム達はスペインで禁じられていた事業を展開し、資産と人脈を生かして活躍し始める。こうして、アムステルダムはオランダのエルサレムといわれるようになり、多数のユダヤ人達がスペインから移住するようになった。
この後東インド会社と西インド会社がスペインの通商を打破して、ポルトガルのアジア・アメリカ通商ルートをそのまま引き継いでオランダが世界帝国になっていく。
このオランダの活躍によってユダヤ人は再びイギリスに入国を認められるようになる。1650年、アムステルダムのラビ、マナセー・ベン・イスラエルはイングランドにいるのマラーノと協力してクロムウェルに再入国許可の嘆願書を出す。これが認められて、1657年、公の宗教活動を禁ずるという一定の条件拘束下での入国が認められた。1290年以来約600年ぶりのことである。
(フランスも三十年戦争の後にアルザスを併合した結果、そこの住民であったユダヤ人が入ったが、ユダヤ人が本当に市民権などを認められるのは近代に入ってからである。イタリア、スペインでもまったく同じことであった。)
「アシュケナージの発達」
ドイツのユダヤ人社会はライン側沿いに発達した。このラインラントの都市とは、南はストラスブールなどの現在はフランス側に入っている地域から、ドイツ側のシュパイアー、ヴォルムス、マインツ、ボン、ケルンといった古代ローマの植民都市である。ライン川支流のマイン側にはフランクフルトがあり、河口地域はオランダである。
こうした都市はすべてローマ軍団の基地、要塞、植民地から発達した都市である。ケルンとはコロニーという意味である。ヨセフスの「ユダヤ戦記」によれば、ユダヤ人は70年のユダヤ戦争のころにはローマ帝国中に広がっていたという。70年の戦争のときも多くの女性と子供がローマ帝国全土に奴隷として売られていったらしい。
ヴォルムスの伝説によれば、エルサレムの包囲戦で戦功を立てた兵士が褒美としてユダヤ人の娘をヴォルムスへ連れ帰り、彼女たちに産ませた子供を彼女たちの希望どうりユダヤ人として育てたのだという。
記述資料によって裏付けられる最古のユダヤ人団体(ゲマインデ)はケルンに存在した。321年にコンスタンチヌス帝が参事会員宛てに送った勅令の中で、ユダヤ人をケルンに住まわせることを書き送っている。彼らは奴隷だけではなく、商人、職人、農民であったらしい。
いずれにせよこの時期にユダヤ人は既にラインラントに住んでいたらしい。八世紀、現在のフランスとドイツにカロリング朝(8~10世紀)が興り、ローマ時代の自治制度が再び敷かれると、イタリアからフランスとラインラントにユダヤ商人とラビ達が移ってきた。これによって、ユダヤ人共同体に新しい活力がもたらされることとなった。
カール大帝(在位768~814)は「経典の民」という理由でユダヤ人とユダヤ教を保護した。これは父親のピピン(パパン)がイスラム教徒との戦争のときにユダヤ人から武器供与があったことも関係しているのだろう。以降ディアスポラネットワークを利用した東西貿易に長けた保護され、「商人」と同義語であったという。
カール大帝のとき、イザアクというユダヤ人が通商交渉役としてバグダッドのカリフ、ハールーン・アッラシードのところまで派遣されている。彼はコルドバで後ウマイヤ朝を開いた人物であるから、このころからセファラディム系ユダヤ人とのつながりを示唆するものである。
こうして11世紀になると、このフランスとドイツにまたがるライン河諸都市(ストラスブール、シュパイアー、ヴォルムス、マインツなど)では大きなユダヤ人社会がすでに成立しており、平和な時代が続いていた。ここでこの時期タルムード研究が進み、ゲルショムとラシという重要な学者が出てくる。
ゲルショム・ベン・ユダ(960~1040)はマインツで活動し、寛容なユダヤ教の解釈を施した。それはキリスト教へ強制的に改宗されたものに対する厳しい掟を緩和したことである。キリスト教からユダヤ教へ戻った人々に対してもユダヤ人社会が受け入れることを勧告した。彼もまたタルムードの複雑な中味を解釈し、ヨーロッパの神学界における最高権威としてみとめられた。
彼の没年と同じ年に生まれたのがソロモン・ベン・イサーク(1040~1105)である。ヘブライ語の頭文字を取って通称ラシと呼ばれている。
彼はフランスのトロワで人生の大半を聖書の注解ですごした。彼の注解はユダヤ史上どの注解者よりも一般化に成功したもので、ラシの研究がなければタルムードはアクセス不能の文献になっていたという。注解の多くはヘブライ語を使ったフランス語で書かれている。さらに彼の聖書研究はタルムードの一部に組み込まれることとなり、現在でもそれが読まれている。(ページの右側がラシの注解)
ラシの仕事は義理の息子達によって引き継がれた。彼らをトサフィストという。ラシの研究は、後のルターの宗教改革に間接的に寄与していくこととなる。
しかし、11世紀末、1096年に第一次十字軍が始まる。ウィリアム・ザ・カーペンターに率いられた一団はその年の四月にライン川を北上し始め、フランス側流域を通過した後、ロレーヌ、メッツ(メス)でユダヤ人の殺害を始めた。ライン川沿いの古くからユダヤ人居住地がある都市は南からシュパイアー、ヴォルムス、マインツである。
五月、十字軍はシュパイヤーに入るが、キリスト教の司教の保護によって大きな被害は起きなかった。その後暴徒となった十字軍はヴォルムスに入り、司教館を襲ってそこにかくまわれていたユダヤ人達を殺戮した。最後にマインツに入るとそこで1300名のユダヤ人を殺害したといわれている。この集団はその後方向をプラハへ向け、その後ハンガリーに向かったとされている。
12,13世紀は、十字軍に引き続いて、ユダヤ人にとって好ましからざる騒然とした世の中となる。(12世紀は、第二回、三回の十字軍以外わからない。)
13世紀になると、インノケンティウス三世が登場する。かれは、ローマ教皇庁を最高権威として位置づけ、王や領主、皇帝の上に立つ権力を振るった。ユダヤ人に対しては、1205年、寛容なカスティリャのアルフォンソ王に宮廷でユダヤ人を重用しないようにと圧力をかけたり、自由なユダヤ人社会のあった南フランスのプロヴァンスに対しても、シトー修道会のシモン・ド・モンフォールに命じて異端征伐をやらせた。
しかし、インノケンティウスの行為で一番重要なのは、1215年の第四ラテラノ公会議での決定である。十字軍に参加した兵士達がユダヤ人から借りた謝金の金利を免除することや、ユダヤ人にトンガリ帽子や星印などの識別用の記章を義務づけたことである。これによってキリスト教徒に対するユダヤ人の影響を極力排除しようとした。
ユダヤ人に対する正式な国外への完全追放は、この世紀イングランドで初めて行われたのである。イングランドのユダヤ人達は1066年のノルマン・コンクウェストの時にウィリアム一世が連れてきたという。ここでもユダヤ人はその資本を必要とされて重要な地位を占めていた。しかし、1200年代にはイングランドとイタリアの金融業者の勢いが高まっていた。
13世紀の大半がその在位期間であったヘンリー三世(1216~72)はユダヤ人財産の三分の一を税として没収し、その一方でドミニコ会修道士達を使って、ユダヤ人が「儀式殺人」の行為に及んでいると煽り立てた。
「儀式殺人」とは要するに「子供殺し」である。ユダヤ人がキリスト教徒の子供を誘拐してきて、「過越祭」などの儀式にその生き血を使用するといったものである。この中傷もイングランドではじめて起こった。
こうした迫害が加えられた後、1272年、エドワード一世が即位して、1275年に「ユダヤ教法」を制定し、ユダヤ人の唯一の生活手段であった金貸し業を全面的に禁止する。最後に1290年、ユダヤ人達に数ヶ月の猶予だけを残して国外退去を命じた「ユダヤ人追放令」が出され、ユダヤ人達はフランスやフランドル(フランダース、ベルギー)へ追い出される。
次の14世紀はフランスからの全面追放である。フランスでは1242(44年?)年にルイ九世よってタルムードの焚書などが起こり、その後200年にわたってたびたび焚書事件が起こっている。ただこのタルムード焚書という行為は元々はキリスト教に改宗したユダヤ人ニコラス・ドニンによって行なわれたものである。
1306年にユダヤ人達は国王フィリップ四世によって財産を没収されて国外退去を命じられるが、この時点では多額のお金を払えば再入国を許されている。
完全追放は1394年9月17日に追放令がシャルル六世によって出され、近代にいたるまでユダヤ人が存在しないとされる国となる。(このユダヤ人達がどこへいったのか不明である。おそらくスペイン、ラインラント、ナポリか?)
こうして、フランス、イギリスではユダヤ人がいなくなるのだが、ドイツではユダヤ人の全面的追放は行われなかった。その理由は次の経緯からである。
14世紀中期、ヨーロッパ全土で黒死病つまりペストが流行する。ヨーロッパ人口の4分の1だとか3分の1といわれるほどの死者を出す猛威を振るったようである。この時にペストをばら撒いたのはユダヤ人であるという噂、デマが広まる。噂はユダヤ人が井戸に毒を入れたといったものまであった。こうした噂が広まったために、ドイツ・オーストリア各地でユダヤ人の虐殺、迫害が起こり、ユダヤ人社会が破壊されてしまう。
ドイツではこの時期ユダヤ人がキリストの体を表すパンを盗んだり臼などで砕いたりするという「聖体冒涜」を行なっているという噂が広まり、ユダヤ人が虐殺されるということもあった。
十字軍と黒死病などに端を発するユダヤ人迫害はドイツのユダヤ人に、後世大きな影響を与える重大な結果をもたらすことになる。
カール四世は1356年「金印勅書」を発令し、選帝侯たちに支配地のユダヤ人の所有権を認めることとなる。ただし、13世紀前半に既に、フリ-ドリッヒ二世(啓明王)は、全ドイツのユダヤ人が直接ドイツの国庫(カイザリッヘ・カンマー)に属することを主張しているし、そもそもドイツ皇帝も早くからユダヤ人を「自分個人の財産(アイゲントゥーム)」「国庫の下僕(カンマークネヒト)」と呼んで、保護の代償にさまざまな納税義務を負わせていた。
14世紀にすでに、十字軍の結果、神聖ローマ皇帝は多額の金銭的見返りと引き換えにユダヤ人を保護し始めていた。これが習慣化してユダヤ人の隷属状態が始まるのだが、ユダヤ人を「王の動産(セルビ・カメラ)」として実質的にユダヤ人の安全を保障したのである。
しかし実際は、ユダヤ人に対する徴税権を担保にして選帝侯や皇帝選挙の鍵を握るものに借金をし、借金のかたに徴税権を債権者に譲渡していた。カール四世の勅書は、借金の清算と引き換えに、黒死病に由来する迫害からのユダヤ人の安全保障を諸侯に負わせたのだということになる。これによって、14世紀に皇帝の権力が揺らぎ出し、ユダヤ人の支配権は諸侯や領主の手に移っていったのだ。
こうして15世紀後半にもなるとドイツではユダヤ人を市の一定の地区に強制的に住まわせることが行われ、ゲットーが設けられていくこととなる。ゲットーという言葉の由来は諸説あるようで、ヘブライ語の「隔離」という意味の単語がゲットghetというからだとするものや、一番振るいベニスのゲットーが鋳造所(イタリア語でゲットというらしい)の側にあったからだという説などがある。
ヨーロッパにはローマ、ベニス、プラハなどに有名なゲットーがあったといわれているが、最も典型的なのが1432年に建設が計画されたフランクフルトのものであった。それまでは通商上有利な市の繁華街に住んでいたユダヤ人は、市の中心部から離れた旧シュタウフェン王朝時代の城壁の外側に作られたゲットーに移されるのを相当嫌がり、強制移住が実施されるまで長い期間がかかったようである。
強制移住が実施されたのは1460年で、16世紀にはフランクフルト・アム・マイン(マイン河畔にあるフランクフルト)評議会の条例「ユーデン・シュタッティカイト(容認できるユダヤ人の居住法)」が施行され、ゲットーの時代が始まる。しかし、ドイツではユダヤ人が一定の規制の下に定住できるという事実には変わりなく、16世紀以降ゲットーの人口は急増していった。
そして皮肉なことに、このゲットーがユダヤ人の現代にいたる経済的な地位の基盤を作ることになる。
このユダヤ人達が金融行を営むと同時に、15世紀末からの大航海時代と重商主義の流れに乗ってヨーロッパからオスマントルコに散らばっていたユダヤネットワークを活かして広域商取引に乗り出した。これが19世紀から現在に至る国際金融システムの端緒なのである。
16世紀南ドイツ、アウグスブルグのフッガー家がローマ教皇や諸侯に対して宮廷貸し付けを開始したが、これが宮廷ユダヤ人(ホフユーデン)を生み出すことになる。この宮廷ユダヤ人はゲットーとのつながりを密接に持ち、あるいはそこに実際に居住しつつ、宮廷の財務大臣の役割を果たした人々である。ヴェルナー・ゾンバルトは1911年に出版された「ユダヤ人と経済生活」において、資本主義への道はゲットーから始まるという仮説を述べたが、それはゲットーには彼ら宮廷ユダヤ人がいたからである。
宮廷ユダヤ人は17世紀、三十年戦争で活躍し、彼らの宮廷での役どころは、戦費と軍需物資の調達、国家財政の顧問と資金提供、そして貨幣の鋳造であった。
ユダヤ人がなぜ資本主義を作れたか、それは数百年を経て作られていったタルムードの律法に鍵がある。タルムードも聖書も共に高利貸しを禁じているし、タルムードは高利貸しを人殺しにまでたとえているという。
しかしそれも同じユダヤ人までであって、律法に縛られていない異教徒すなわちキリスト教徒に対してはそうした禁止がなくなる。律法を守るとはそうした二分法的な割り切り方なのである。明記、規定されていないものにまでは律法の範囲は及ばない。
金貸しの仕事とは債権の回収である。債権さえ回収できれば誰からでもいい。しかし、中世までの債務はそれを負った個人本人のものであって、第三者に売ることは出来ないということになっていた。少なくともこうした債券売買はこのころまでは奇怪で邪悪な方法と思われていたのである。
しかし、そのような信用と流通証券に基づいた商取引をユダヤ人が作ることが出来たのは、タルムードが、非個人的な信用制度を認めつつ、負債は支払いを要求するものに支払われなければならないと規定していたからであるという。つまり債権を保持するものは誰であってもよく、債権の売り買いが出来るということなのである。
当然その債権は回収が保障されている相手に対するものが最もいい。それは国の主権者(ソーヴリィンティ)つまり、王、領主、司教そして皇帝である。彼らは徴税権を持っているから、領民がいる限り無限にお金を支払えるからである。さらにその徴税権を担保に取れば、自らが税金を徴収、あるいはそれを売り買いすることが出来るのである。土地所有を禁じられたために土地に縛られていないだけ、そうした割り切った行いが可能である。最悪の場合債権を放棄して、あるいは売って逃げればいいだけなのである。
神聖ローマ皇帝の場合「金印勅令」によってその権利(この場合領内のユダヤ人に対する徴税権)を諸侯に売り渡してしまっている。次に諸侯はその徴税権を誰に売るのであろうか?次はユダヤ人に対する徴税権をユダヤ人に売るしかないのである。つまり、税金の免除、優遇である。ユダヤ人はこれを利用してこの債権を他の事業で運用すればいいのである。この状況が1618年にドイツを中心として始まった三十年戦争の後から始まっていったのである。
「宮廷ユダヤ人列伝」
三十年戦争以降神聖ローマ帝国内の200にのぼる主要な大公国、公国、領主領のほとんどが宮廷ユダヤ人を抱えていた。以下はその宮廷ユダヤ人列伝である。宮廷ユダヤ人とはドイツ、オーストリア、ボヘミア諸宮廷でのユダヤ人、ホフユーデンのことである。スペインなどにいたアブラバネルらはこの流れにいる人々ではないセファラディムなので除外している。
ロスハイムのヨスル(1476~1554) -カトリック的な王シャルル五世の宮廷ユダヤ人。ヤーコブ・パッセヴィ(1580~1634)-実質的な最初の宮廷ユダヤ人。三十年戦争時のハプスブルグ家の宮廷ユダヤ人。カトリック側に立ったヴァレンシュタインが、皇帝フェルディナンド二世に用意した傭兵部隊の財源を提供した。フォン・トロイエンベルクという貴族の称号を受けた。
ザムエル・オッペンハイマー(1635~1703) -神聖ローマ皇帝への軍事力補給者 サムソン・ヴェルトゥハイマー(1658~1724) -オーストリアの財務官。戦費調達者。ハンガリー・モラヴィアの主席ラビ。
ベーレント・レーマン(1661~1730) -ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人 ヨーセフ・ジュース・オッペンハイマー(1698~1738) -ヴュルテンブルグのカール一世(カール・アレクサンドル)の大蔵大臣。貴族の特権を奪って憎しみを買い、絞首刑となる。
レーブ・ジンツァイム(?~1744?) -マインツ宮廷のユダヤ人。イスラエル・ヤコブソン(1768~1828) -ブラウンシュヴァイクの宮廷ユダヤ人、宗教改革者
ヴォルフ・ブライデンバッハ(1751~1829) -ヘッセン選帝侯の仲買人(factor to the Elector of Hesse) アーロン・エリアス・ゼーリッヒマン -バイエルン王国の筆頭宮廷ユダヤ人。国王の税収入を担保にとって国王に貸しつける。
マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド- 1555年アウグスブルグの宗教和議、17世紀からM・A・ロスチャイルド(18世紀後半に活躍、1740年生まれ)まで(ここにアーサー・ケストラーを持ってきて対照させるかな?)
「近代のユダヤ人 Modern Judaism」
バール・シェムトブ、ビルナのガオン・エリア、モーゼス・メンデルスゾーン 三十年戦争、ハスカラ運動、啓蒙主義、改革派と正統派、フランス革命、ロスチャイルド シオニズム、アメリカのユダヤ人
(別枠)アメリカのユダヤ移民 5回にわたるユダヤ系移民(1.セファラディー 2.ドイツ系ユダヤ人 3.アシュケナージ 4.ナチス難民 5.戦後の移民)
「カザール王国とアシュケナージ」 アーサー・ケストラー
トルコ系遊牧民とされるカザール人の独立王国。カザール人がユダヤ教に改宗し、後に東ヨーロッパに移住するまで。アシュケナージはこの人々である。ドイツのユダヤ人はアシュケナージとはまったく別の人々である。
アーサー・ケストラー「ユダヤ第十三氏族」を詳述する。これによれば、カザール人はノアの子セムの子孫ではなく、ヤペテの子孫である。ヤペテは白人種の祖先とされる。(さらにヤペテの子孫トガルマだという)
「ユダヤ・コネクション」リリアンソール
バルフォア宣言に始まるパレスティナ問題とシオニズム運動
注)資料
歴史資料
1.聖書の正典の中での歴史資料
「救済史」(モーゼ五書-創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、あるいはこれにヨシュア記を足して六書)
-歴史的な記録を残すという鮮明な意図はなかったので、五書をそのまま資料にしてただちに歴史を再構成するということは困難。5つのテーマ「族長への約束」「エジプトからの導き出し」「荒野の導き」「シナイでの啓示」「約束の土地取得」
「ダビデ台頭史」(サムエル記上16・14からサムエル記下5・25) 「ダビデ王位継承史」(サムエル記下9から20章、列王記上1から2章)
-この2つは紀元前5世紀のヘロドトスよりも500年古い
「申命記的歴史」(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)
-捕囚時代の一歴史化によってまとめられたという説。イスラエルのカナン侵入からイスラエル王国滅亡までの歴史。年代記ではなく、因果関係によって記述されている。
「歴代史家の歴史作品」(歴代誌、エズラ記、ネヘミヤ記)
-申命記的歴史作品を主要な資料として扱った、祭司的な立場から編集されたもの。歴史資料としての価値は申命記よりも低い。捕囚後の時代の資料は独自の資料を使っている。
2.聖書外典での歴史資料
「マカバイ記上下」
-前2世紀のマカバイの戦い記。
「ユダヤ古代史」「ユダヤ戦記」(ヨセフス作)
-紀元前1世紀から、紀元73年のエルサレム陥落までの歴史情報としてはかなり正確なものとされている。
歴史以外の資料
1.正典-「五書、預言者、詩篇、知恵文学」
三度にわたる編纂作業 1.ユダ王国12代アハズ王のとき。
2.ユダ王国16代ヨシュア王の時。神殿から五書が見つかる。
3.捕囚期の書記エズラによる編纂。4.タンナイム、ヨハナン・ベン・ザッカイによって正典化される
2.外典-「70人訳聖書(セプトゥアギンタ)、ヨセフス、黙示文学、パピルス・スクロール」
3.その他-「アマルナ文書」「象牙文書(エレファンティネ・スクロール)」、さまざまな碑文-シャルマナサルにひれ伏すイエフ、モアブ王メシャの碑文(アハブに対するメシャの勝利)など
「忍の聖書研究解読室」http://elbaal.hp.infoseek.co.jp/index.html#contents
UBIKというサイトhttp://www.tamano.or.jp/usr/ubik/ubik/index.htm
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
以下に載せるのは、私が、2006年の夏頃に、一所懸命になって調べた「本当のお釈迦さま(ゴータマ、ブッダ)の言葉、教えは何か」という課題に関連して、ネット上でみつけていた文章です。
この大阪での大正14年(1925年)の講演記録は、大変、優れた内容です。世を経て、日本人に読み継がれてゆくべき名文です。 この講演を行った内藤湖南(ないとうこなん)という碩学を、私は、本当に尊敬しています。日本にも、これほどの優れた学者がいたのか、という感慨で一杯です。
新聞記者あがりから京都帝国大学教授にまでなった内藤湖南の転天才ぶりをそのうち私は論じます。
ここでは、江戸中期(1730年代)の独特の町人思想家・冨永仲基(とみながなかもと)を、幕末に、本居宣長、平田篤胤が復興させて、幕末、勤皇思想(きんのうしそう)と尊王攘夷(そんのうじょうい)思想という、間違った興隆(一大センセーション)を外国からの侵略の危機に遭っていた日本国内に巻き起こした。
その基(もと)の基(もと)になった思想だが、平田篤胤(ひらたあつたね)が、意図的に、冨永の思想をねじまげて、当時の世に広めて、一世を風靡(ふうび)したのである。
全国の富農(名主、庄屋層)から豪商層から、武士層、そして大名たちまでが、平田が、冨永の大著「出定後語(しゅつじょうごご)」の内容を、改作した本で、激烈なアジテーションの本である「出定笑語(しゅつじょうしょうご)」が、日本国民の上層国民に、一気に広く広まった尊王攘夷思想の本当の火付け役立ったのである。
このことの発見は、私、副島隆彦の業績と後世(こうせい)なるだろう。
私は、以下の内藤湖南の文章から、それまでに形成されていた「平田の本が、本地垂迹(ほんじすいじゃく)をひっくり返して、神道を仏教の上に置くことにした、幕末イデオロギーの創出者だ」という説の、根拠のひとつを得た。
それが、大きくは、「大乗非佛説(だいじょうひぶつせつ)」である。すなわち、チベットや、中国経由で、日本にまで伝来した大乗仏教、大乗仏典は、あれらはお釈迦様(ゴータマ、ブッダ)その人の本当の言葉ではないし、教えではない、ということの確認だった。
それと、山崎闇斎(やまざきあんさい)や浅見ケイサイ、栗山セン峰らの、日本国学派の中の矯激な、日本神道崇拝思想は、あれらは、「王道神道(おうどうしんとう)」という系譜に属する思想であって、伊勢神宮の神主たちと同じ思想だ。彼らは、儒教を使って日本神道(随神、かんながら、神ながらの道)を解釈して神道と天子(天皇)を無闇(むやみ)と崇拝する理論を作った人たちだ。 それがのちの盲目的な日本軍国主義と、排外主義的な日本民族優越しそうになって、日本の上層国民と指導者層が、世界基準(ワールド・ヴァリューズ)でものごとを見る目を失って、それで、1945年の敗戦にまで至りついたのである。
この「王道思想からの日本神道、天皇の原理=予定調和説」を
私の先生の小室直樹氏は、自分の信念としているが、私は、それを強く批判する。それを排撃する段階に来たのだ、と昨年、2006年に到達した。
そして再度、再再度、優れた日本思想家の冨永仲基と内藤湖南 にまで、戻って、一切のねじれを修復して、この最も優れた日本の学問の伝統(学統、がくとう)に、私の思想と学問は連なるのだ、と重々しく宣言しなければならないのである。
この私の重要な学問選択、態度選択については、近いうちに書きます。
副島隆彦記
(転載貼り付け始め)
「大阪の町人學者 富永仲基(とみながなかもと)」
講演者 内藤湖南(ないとうこなん)
大阪毎日新聞社主催講演会講演
1925(大正14)年4月5日
大阪毎日新聞が、一萬五千號のお祝で講演會を催されるといふことで、私にも出るやうにとのお話で出て參りました。
但(ただ)しこの講演會は、時に毎日新聞の一萬五千號のお祝のやうにも聞え、大大阪(だいおおさか)のお祝のやうにも聞え、時としては大大阪文化史の講演といふ風に見えたこともあります。
それについて一寸(ちょっと)お斷りして置きますが、私は大都市主義に反對です。それで一萬五千號のお祝に出て參りましたので、大大阪讚美のために出て參つたのではありませぬ。これだけはお斷りして置きます。(拍手) 今日は殊に大大阪について十分に讚美のお話がありませうから、一寸それだけ申上げて置きます。
大天才富永仲基
私のお話申上げますのは、「大阪の町人學者富永仲基」についてゞ、この長々しい題號(だいごう)は、毎日新聞の岩井君が選定して呉れたので、私は何も知りませぬ。併しこの事をお話したいといふことは私の注文です。
これについては私が前にも或時(あるとき)に講演したことがあります。大阪に懷徳堂といふものがありまして、其處で大正十年に一度講演をしました。その時はまだ富永の著書について、私共見たいと思うて見付からぬものがありまして、殘念のことに思つたのでありますが、それが幸ひに昨年の春見付かりまして、私は非常に嬉しかつたので、早速これを貧乏の中から大奮發で出版しました。
それは「翁(おきな)の文(ふみ)」といふ本であります。此處(ここ)に持つて參つて居りますから、後(あと)で御覽を願ひます。
但し澤山お買ひ下さると云つても、もう本は澤山ありませぬ。それもお斷り申して置きます。私が出版した本はこれで、これは(原本を示す)昨年見付かつた本でございます。
この富永仲基といふ人は、私のひどく崇拜して居る一人です。
大阪に關係のある人では、いろ/\な天才、えらい人がありませう。昨日お話のあつた筈(はず)の豐太閤、これも非常な天才、日本の天才でございました。それから文學者として近松門左衞門といふ人もありませう。併(しか)し眞に大阪で生れて、而も大阪の町人の家に生れて、さうして日本で第一流の天才と云つてよい人は富永仲基であると思ひます。
此人(このひと)を隨分若い時から私は崇拜して居りまして、初めて此人の事について何かつまらないことを書きましたのが明治二十六年であります。今(いま)此處(ここ)にお出になつて私の話をお聽き下さる方で、明治二十六年にはまだ生れない方もあるかも知れませぬ、隨分古いことであります。その時分から敬服して居つた。
それは彼の有名な「出定後語(しゆつぢやうごご、しゅつじょうごご)」といふ本を讀んで敬服したのであります。それはこの本でございます。
(書物を示す)これもどうぞ後で御覽下さい。
それから段々いろ/\の人がこの事について書いたものも見ました。又それに就ていろ/\の事を調べまして、今日では此人の歿年は分りませぬけれども、大體(だいたい)何時頃(いつどろ)に生存して居つたといふことは分ります。
さうして此人(このひと)の出所(しゅっしょ)も大分はつきり分るやうになりました。其處(そこ)に列べてあるのが富永家の墓の拓本であります。これは岩井君にお願ひして作つて戴きましたが、このいろ/\の墓は今日でも下寺町の西照寺にあります。
その墓は私共が初めて見付けた譯ではありませぬ、前から知つてゐる人がありまして、私が初めて見ましたのが、隨分これも古い、明治三十七年であります。その年が丁度甲辰(こうしん)の年 ―― 日露戰爭の起つた年でありますから甲辰の年であります。
この「出定後語」が出來ましたのが延享元年甲子の年で、丁度百六十年に當ります。それに大阪生れで有名な慈雲尊者(じうんそんじゃ)がなくなつてから百年に當つて居るので、私共二三の同志の者が、一つ富永の墓を弔つてやらうぢやないかといふことで、その西照寺で小さい會を致しまして、富永仲基と葛城慈雲、この二人を偲(しの)ぶために、その著書などを列べたことがあります。
慈雲尊者は日本の梵學(ぼんがく)研究に大なる功績を遺し、又佛教にも一種の創見を有して居り、富永と行方(いきかた)は違ふが天才と云ふべき人で、私が聊(かす)かでも佛教に關する正しい知見をもつて居るのは此人の御蔭です。
此時に初めて富永一家の墓を見ましたが、惜しいことには富永仲基本人の墓は已(すで)にありませぬ。祖父祖母の墓、兩親の墓はあります、兄の墓もあります、其外一族の墓もありますが、私共の見ました時はまだ元の墓地その儘の處にあつたのであります。近頃はどうやら少し横の方に片付けてしまつてあると聞いて居ります。片付けられてから後私は行つて見ませぬ。
兎も角(ともかく)その本人の墓はありませぬけれども、一族の墓石はありまして、而もその母の墓の中に富永仲基のことがはつきり出て居りますので、それで確かなことが分るやうになりました。仲基の亡くなつた年ははつきり分りませぬが、何年頃から何年頃までの間といふこと位は、この母の墓碑によつて分るやうになつたのであります。
さういふ風に幾らか此人の事について前から注意をして居りましたので、大正十年に懷徳堂(かいとくどう)で、その時丁度大阪の町人學者に關する講演をいろ/\の人が引續きやつたことがありまして、私もその一人として富永のことを引受けて話をしたことがあります。
それからこの「翁の文」が、昨年見付かりまして、丁度その頃京都の龍谷大學の教員生徒達の間に史學會といふものが出來まして、そこで何か話をして呉れと頼まれて、その時少しばかりお話したのでありますが、斯ういふ一般の有識者のお集りの晴れの席でお話するのは今日が初めであります。
それで此人は、大大阪ではありませぬ、昔からの大阪、その大阪が生んだ所の第一番の天才、學者もいろ/\大阪にありませうけれども、兎も角第一流の天才として數へることが出來る人だと思ひますので、この講演會で是非お話をして見たいと思つたのであります。
懷徳堂の大阪町人學者に關する多數の講演の筆記は、實は今頃既に出版に相成(あいな)る筈でありましたが、その筆記の原稿が東京の本屋で震災の折に燒けてしまつたといふことで、その本が出來ませぬ。併し私のは實は燒けたのではありませぬ。私は懶惰者(らいだもの?)でその原稿を預かつて置いて訂正しなかつたため、私のは燒けなかつた。
其後に私の話が土臺(どだい)になつて富永仲基の傳(でん)が出來て居ります。それは仲基の傳だけ一册に出來て居る譯ではありませぬ。この大阪の北の方に池田町といふ處があります。その池田町の篤志(とくし)な人々の仕事で、いろ/\の池田町から出た人々の著述等を出版して居ります。さうして「池田人物誌」といふものを出した、その中に富永仲基の傳記があります。
實はか程(ほど)の人を大阪市が横取りされるといふことは勿論心外なことであるべき筈でありますが、横取りする十分な理由……裁判所に出たら負け公事(くじ)になるかどうかは知りませぬが、相應(そうおう)な縁故があるので、池田町の人が「池田人物誌」の中に富永の事を書きました。富永の弟に荒木蘭皐(あらき・・・)といふ人がありまして、その人が池田の荒木といふ家に養子に行つたのであります。
それで兄弟共に、池田に居りました田中桐江といふ學者に從つて稽古をしたので、池田には隨分縁故があるのです。池田には又富永の作つた詩などが遺つて居ります。それから書も遺つて居ります。
いろ/\大阪に遺つて居らぬものが池田に遺つて居る所からして、池田の人がひどくその荒木蘭皐の關係と共に富永贔負でありまして、それで「池田人物誌」の中に富永の事を併せて載せたのです。どちらかと申しますると、この將に大大阪にならんとして居る……現になつて居るか知れませぬが、それ程の大阪が、池田町にこの第一流の天才、大阪自身が造り上げた天才を横取りされる程不明であつたといふことは、或は良いみせしめになるかも知れませぬ。
横取りされてもこれは餘(あま)り苦情が云へないかも知れませぬ。それは餘計な話でありますが、先づ此人をどういふ譯で私共が感心するかといふことから、單刀直入に申しませう。
佛教の研究と其の學説――「出定後語」
この富永仲基のどういふ點が偉いかといふと、今まで世間の人に知られてゐたのは即ち「出定後語」といふこの二卷の書の爲であります。これは何處か大阪の本屋に板木(はんぎ)が今でもあるだらうと思ひますが、この本にどういふことが書いてあるかと申しますと、佛教の研究です。
佛教の研究といふのは、佛教を有難いものとして、近頃の人が禪學(ぜんがく)をやつて膽力(たんりょく)を練(ね)つたりするやうな研究ではありませぬ。佛教を批評的に研究した日本で最初の著述であります。
而(しか)もそれ以上の著述が曾(かつ)て出來なかつた所の著述であります。その佛教の研究法といふものが非常にえらいものだと思ひます。この本が出來ましてから、佛教者の方でも大分騷ぎまして、隨分有名な人がそれに對抗する反駁を書いて居ります。
京都のもと寺町にありました寺でありますが、了蓮寺といふ寺です、今はこの寺は引越して百萬遍(ひゃくまんべん)の内にあります。今の住職は私共懇意でありますが、その寺の無相文雄といふ百數十年前の人は、淨土宗の非常な學者であります。淨土宗の學者といふことの外に、漢字の音韻の學については大したもので、この方では、日本で最初に學術的に研究した人と云つてよい餘程えらい人であります。
この坊さんが、富永の「出定後語」を攻撃した「非出定」といふものを書いた。これは版にならず寫本(しゃほん)で傳(つた)はつて居ります。これも前から搜して居つて、先年了蓮寺の今の住職に注意したので、今の住職の熱心で帝國圖書館で見付かりまして、今はその方の研究者には知られるやうになつて居ります。これは簡單な「出定後語」の批評であります。併し實は「出定後語」の研究に對しては餘程つまらない批評でありまして、採るに足りませぬ。
その後に眞宗(しんしゅう)の慧海潮音(えかいちょうおん)といふ人がありまして、これは江戸の淺草で生れた坊さんであります。眞宗の坊さんとしては餘程不思議な人でありまして、眞宗でありながら戒律を守つて肉食妻帶もしなかつた坊さんで、有名な眞宗の學者でありますが、此人が又「出定後語」を反駁した本を作りました。中々難(むず)かしい名前の本であります、「掴裂邪網編」といふ、これも二卷ありまして、いろ/\反駁してあります。
勿論多少富永の誤を訂すだけのことはありますが、併し富永の根本學説に觸れたやうなことはありませぬ。兎も角今日まで富永の著述といふものは、佛教研究の著述としては非常な立派なものです。
これをなぜ坊さん達が攻撃したかと申しますると、此人は詰(つま)り日本で大乘非佛説(だいじょうひぶつせつ)――大乘が佛説でないといふ、釋迦の説いたものでないといふ説の第一の主張者であります。
さういふことで坊さん達が躍起(やっき)となつて此人を攻撃したのであります。併し富永の研究は、大乘が佛説でないといつた所が、それは何も佛教に對し惡口を言ふために書いたのではない。佛教者に言はせると、佛法(ぶっせつ)を謗(そし)つて書いたやうに申しまして、非常に憤慨して居るのでありますが、實は(冨永仲基は)何も謗法(ほうぼう)の爲に書いたのではない。
唯(た)だ佛教を歴史的に學術的に研究したいといふのであります。昔は何でも歴史的學術的に研究すると叱られた。これは日本に限りませぬ。西洋でも天文(てんもん)の研究で叱られた學者がある。
何處でも初め學術的に研究した人は皆叱られて居ります。その研究の仕方が、どういふ點がえらいかといふと、大乘非佛説を唱へたといふことも、勿論えらくないことはありませぬが、私共はさういふ富永の研究の結果で出來た所の、その結論に感服するのではございませぬ。
此人の考へた研究法に我々感服したのであります。日本人は一體論理的な研究法の組立(くみたて)といふことに、至つて粗雜であります。學者の中で非常な新しい思ひ付きがあつて、さうして新しいことを何か研究して産み出す人は相當にありますが、併し自分で論理的研究法の基礎を形作つて、その基礎が極めて正確であつて、それによつてその研究の方式を立てるといふことは、至つて日本人は乏しいのであります。
それは仁齋(じんさい)でも徂徠(そらい)でも皆相當えらい人でありますが、日本人が學問を研究するに、論理的基礎の上に研究の方法を組立てるといふことをしたのは、富永仲基一人と言つても宜(よろ)しい位(くらい)であります。その點に我々非常に敬服するのであります。
佛教(ぶっきょう)といふものは餘程(よほど)をかしなものであります。をかしいと云つても漠然たる話でありますが、凡(およ)そ今日の學術の根本思想として、空間に關する考へ、時間に關する考へといふものがなければ思想の根本が成立ちませぬ。
ところがその點に於て佛教といふものは非常に自由であつて、自由といふよりは放漫であります。佛教では過去・現在・未來を三世と申しますが、指を彈く間に三世が起り、芥子粒(けしつぶ)の上に須彌山(しゅみせん)が現ずるといふ、時間も空間も滅茶々々(めちゃめちゃ)にして考へる、それが非常に得意な所であります。
それは實際、哲學的の面白い考へもあるに違ひありませぬが、併(しか)しさういふもので全體成立つて居る思想は、思想として考へる時は何でもありませぬけれども、それを歴史的に考へる時には非常に困る。
佛教全體がさういふ風に空間・時間を殆ど無視したやうな考へから成立つて居りますから、お釋迦さんの話を見ても、過去の事を書いてあるかと思ふと、現在の事、未來の事、一度にいろ/\の話が出て來まして、一體それは何億萬年前の話であるか、昨夜の話だか、今の現在の話だか、ちつとも分らないです。
十萬億土(じゅうまんおくど)の西の方に阿彌陀如來(あみだにょらい)の淨土があると、さうかと思ふと十萬億土は極く近い其處(そこ)にあるといふ、とてもお話にならない。さういふ風に皆んな書いてあるから、歴史といふものを組立てることが出來ない。
一體(いったい)印度人は歴史に非常に無關心であります。歴史といふ觀念を非常に粗末にして居ります。それでお釋迦樣が話したことも、釋迦の弟子の話か、その又弟子の弟子の話か、一體誰がどういふ話をしたんだか少しも分らない。
經文(きょうもん)にあることは何も彼も皆んなお釋迦さんの話だといふ。一體今の佛典(ぶってん)は何千卷あるか、近頃は六千卷か七千卷もありませう。その中、印度の根本(こんぽん)に關するものがどれだけあるか知りませぬが、それが皆時間を無視したやうなもので、とんと始末が付かない。
それをどうしてその間から歴史的關係を見付け出して、さうして佛教發達の歴史を考へるかといふことは非常に困難であります。昔からそれについてはいろ/\な方法を考へまして、例へば法華經、即ち天台宗などの考へでは、お釋迦さん一代の中にいろ/\な時期があつて、一番最初に當つて卑近な小乘教を説いて、それから段々時期を分けて深い教(おしえ)を説き、最後に法華經を説いた、それで法華經が一番尊いものであると、一代の事を五時とか八教とかに割當てゝ、それで以てあらゆる佛教の説の變つて居る所を片付けようといふ、それが一番永い間勢力があつた。
併(しか)し富永は古來の傳統の説に囚(とら)はれないで、特別な方法を發見しました。
一「加上(かじょう)」の原則
特別な方法、それはどういふことかと申しますると、こゝに一つの原則を立てました。富永の「出定後語」の中にかういふ言葉があります。それは「加上」――加上の原則といふものを發見したのであります。
加上の原則といふものは、元(もと)何か一つ初めがある、さうしてそれから次に出た人がその上の事を考へる。又その次に出た者がその上の事を考へる。段々前の説が詰らないとして、後の説、自分の考へたことを良いとするために、段々上に、上の方へ/\と考へて行く。
それで詰(つま)らなかつた最初の説が元にあつて、それから段々そのえらい話は後から發展して行つたのであると、斯ういふことを考へた。
それは「出定後語」の「教起前後(きょうきぜんご)」の章に書いてある。佛教の中の小乘教も大乘教も、――その大乘教の中にいろ/\な宗派がある、その宗派の起る前後といふものは、この加上の原則によつて起つて來たといふことを考へました。
一體佛教といふものは、――印度に婆羅門教(ばらもんきょう)があつて、それが天を崇拜して居つた。その婆羅門教といふものが段々發達して、次第に天の上に天を加へて、後になると二十八天、三十三天と段々上へ/\と附加へて、自分の拜む天が尊い、今まで拜んで居る天はそれは間違つて居るといふことで、さうして大きく分ければ三界の諸天と申しまして、慾界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしょくかい)、さういふ風に三つに分けるのであります。
大體それで二十八天、三十三天と段々上の方にえらい天が出來て積み上げられて行つた。餘り天が高く積み上げられ過ぎて、その上に天を積み上げても致方がないから、お釋迦さんはそれを引つくり返して、天でない佛(ほとけ)といふものにしてしまつた。
つまりそれは天の上に加上した考へである。斯ういふことを考へまして、さうして最初お釋迦さんの考へたのは聲聞(・・・)の教、即ち後にいふ小乘教(しょうじょうきょう)であるが、その上に又その弟子達が段々世を經(ふ)るに從つて、段々上の方に考へて、何百年かの間にこの大乘佛説が發達して來たと、斯(こ)ういふ加上の原則を發見したのが富永の説であります。
これは詰り思想の上から考へて行つたので、思想の上から歴史の前後を發見する方法を立てた。歴史の記録のない時代のことを歴史的に考へるには、これより確かな方法がない。どうせ理窟のつんだ完全なものは段々後から出て來るに違ひない。一番最初は一番簡單のものであつて、それから段々いろ/\に理窟を變へて、引つくり返し/\上の方に行くに違ひないから、佛教の如き時間空間を構はない記録に對しては、斯ういふ方法で考へる外に仕方がないのであります。
併しさういふ富永の考へ方も、今日(こんにち)から顧(かえりみ)れば何でもないことでありますが、さういふことを發見する人といふものは中々あるものでない。それを富永が發見したのであります。これは非常に偉いことゝ思ひます。
これは今日いろ/\な國の古代のことを研究するに非常な役に立つ原則だと思ひます。富永は支那(しな)のことも斯(こ)ういふ原則で研究しております。
又日本のこともそれでやらうとしました。何も思想ばかりでない、事實(じじつ)に關する傳説でも、さういふ方法で研究が出來るのであります。但し此の加上の原則のえらいことは多くの人が皆氣が付きます。
二「異部名字難必和會」の原則
その外に多くの人が、富永の原則の尊いことに氣の付かないものがあります。それは「異部名字難必和會(いぶみょうじなんひつわかい)」といふ原則です。
これはどうかすると今日歴史などを研究する人でも、この原則の尊いことを知らない人があります。これはどういふ事かと申しますると、要するに根本の事柄は一つであつても、いろ/\な學問の派が出來ますると、その派/\の傳へる所で、一つの話が皆んな違つて傳へられて來ると、それを元の一つに還すといふことは餘程困難である。
根本は一つの話、それが三つにも四つにも變(かわ)つて來ると、どれが一體根本で、どれが變つて來たのか、どれが正しく、どれが誤つて居るかといふことを判斷するのは餘程困難であります。
それで富永は異部名字(いぶみょうじ)必ずしも和會し難しと言うて居る。つまり學派により各部々々で別の傳へが出來て居るので、それを元の一つに還すことは出來にくいといふことを言ひ出したのであります。これは餘程偉いことだと思ひます。
どうも歴史家といふものは、何か一つこゝに事件がある。それが何月何日の出來事だといふ説がある、又それと違つた説が出て來ると、それは何方(どれ)が本當で何方(どれ)が嘘であるか、二つの説、三つの説があると、どれか一つ本當で、あとの殘りは嘘だと、斯う極めたがるのである。
どれもよい加減で、どれが本當か分らぬと諦めるといふことが、どうも歴史家といふものは出來にくいやうであります。どれか一つ確かなものと極めたいといふ考へがあります。ところが記録のある時代は、どうかするとそれを一つに極めることが出來ます。
併し記録がない、話で傳はつて居ります時代のことは、どうしても極めにくいです。さういふ事は、いつそのこと思ひ切つて極めない方がよいんですが、それをどうも皆んな極めたがるのです。その極めにくいといふことを原則にしたといふことは、大變私はえらいと思ひます。
これは支那の非常に古い時代に、斯ういふことを考へた説があります。支那の春秋公羊傳(しゅんじゅうこうようでん)の中に、所見異辭(しょけんいじ)、所聞異辭(しょぶんいじ)、所傳聞異辭(しょでんぶんいじ)とあつて、それを一つの歴史上の原則にしてあります。これも見る所、聞く所、傳聞(でんぶん)する所各(おのおの)違つて居るので、どうもどちらが事實と一つに極められないといふことであります。
この傳説時代の事は、思ひ切つてさういふ風に極められぬと極める方がよいのであります。それを歴史家などは、傳説時代の事でも、どれか一つを事實として、その他は誤り又は僞にしたい。
それがため反つて事實を失ふことになる。佛教の如く傳説ばかりで出來て居るもの、即ち初めの間は記録がなくて、口から口へと唱へられて傳はつて、それから後に本に書かれたものは、同じ事に異つた傳來が多くて、一つに極められぬことが多い。
例へばお釋迦さんが初めて出家(しゅっけ)してから、成道(じょうどう、悟りを開く)して、それから死ぬまでのことでも、十九で出家し、三十で成道し、八十一で死んだとも云ひ、二十五で出家して二十八か九で成道し、八十一で死んだといふ風に、いろ/\の説があつて、各の宗派によつて、この説を採るとか、かの傳へを採るとか一定しない。
お釋迦樣の生れた年代でも、今から二千八九百年前といふ説もあり、二千三、四百年といふ説もありますが、各の宗旨によつて採る所がちがふ。尤(もっと)もお釋迦さんの死んだ年に關しても、富永が一番確からしい説を「出定後語」の中に出してあります。その點を今日富永の研究の偉いことゝして特別に認めて居る人もあります。兎も角大體この傳説時代の事は一つに極めるといふことが困難だと考へ出したのは、異部名字必ずしも和會し難しといふ原則であります。これ等も古代の事を研究するには大變よい考へだと思ひます。
三「三物五類立言之紀(さんぶつごるいりつげんのき)」の論理
それからその外に非常にえらいことを考へて居ります。「言有三物(げんゆうさんぶつ)」といふことを申しました。これが富永の論理の組立であります。それは言有人、言有世、言有類と申してあります。その言に類有りを五類に分けます。泛と磯と反と張と轉と斯ういふ五類に分けます。さうして之を總べて「三物五類立言の紀」と申し、これが富永の研究方法、論理の組立であります。
「言に人有り」といふのはどういふことかと申しますると、その言ひ傳へ、説といふやうなものは、人によつて異るといふことであります。それで同じ事でも、人によつて解釋も違ふ、言ひ傳へも違ふ、いろ/\の人によつて違つて來ることを云ふのであります。支那では之を一家言(いっかげん)と申しまして、皆人によつて言ひ傳へが違ふので、即ち異部名字と同じやうなことであります。
「言に世(よ)有り」といふ、これは時代によつて違ふことを申します。それは例へば佛教の飜譯(ほんやく、ひしゃく)です。佛教が支那に飜譯される時に、サンスクリツトの飜譯について、玄弉三藏(げんじょうざんぞう)などにサンスクリツトの何々といふ言葉は支那でどういふ意味だ、舊譯(きゅうやく)に何々と譯したがそれは誤りだと屡(しばしば)書いてあります。
それで支那の佛教に、玄弉三藏の飜譯とその以前の飜譯とによつて舊譯新譯の區別がありまして、舊譯が不確かで間違で、新譯の方が確かであるといふが、これは單に意味ばかりでなく、そのサンスクリツトの音を支那の文字に當て嵌めるについても、例へば坊さんのことを舊譯では比丘(びく)と書いてありますが、新譯(しんしゃく)の方では芻(・・)としてある、それで芻といふのが正しくて、比丘といふ字を當てたのは誤りである、斯ういふやうに申します。
が、富永は、その舊譯を皆誤りといふ譯にはいかない、印度といふ國は言葉の國である、言葉といふものは時代によつて段々違つて來る、發音も違つて來れば意味も違つて來る、その違つた時代に支那で之を飜譯したのである。支那で佛教を最初に飜譯した時と玄弉三藏の時とは、既に數百年も經て居りますから、その間に印度の元の言葉にも、音の變化もあれば意味の變化もある。それでさういふ風に時代によつて言葉が變つて來るのであるから、それを知らなければ研究の方法を誤るといふことを考へたのであります。
「言(げん)に類(るい)有り」といふのは、次の五類に分けてあります。第一「泛」と申しますのはどういふことかといふと、何か一つの、或物の名前とか考へとか、固有名詞であつたものが、それが後になると變化して普通名詞になる。
最初の事實は何か一つの片寄つたもの、極まつたものについての名前であつたのが、それが段々に意味が擴(ひろ)がつて、それが普通の意味になり、名前になるといふことを「泛」といふのであります。
「磯」といふことは、多分これは孟子の中に「以て磯(・・)すべからず」といふ言葉がありますから、それから來たと思ひます。言葉を激しく言ふ、強めて言ふ、意味を強めて言ふことであります。誇張するといふ程ではありませぬが、その爲に少し言葉の意味に變化が出來ます。
「反」といふのは、前からの説と反對に解釋するのであります。
「張」といふのは即ち誇張することでありまして、今までの意味を大袈裟に言ふことであります。富永が例を擧げて居りますが、例へば成佛(じょうぶつ)――佛教で成佛するといふことについて、あらゆる世の中の物を有情・非情の二つに分けまして、本來の説は有情のものが成佛すべきである。
併し佛教が段々説を擴めて、山河草木悉皆成佛(さんがそうもくしっかいじょうぶつ)と、非情の物までも、意識のない鑛物とか草木までも成佛といふ風に説いて行くのが、それが「張」といふことであります。
「轉(てん)」といふのは、意味が轉(てん)ずる、前の「反」といふ程全く反對ではありませぬが、意味が轉化(てんか)するといふことであります。富永が例を擧げて居りますが、初めは一闡提を除いて皆佛性があると説いたが、後にはその一闡提さへも佛性があるといふ風に説が轉じて行つた。
斯ういふ風に、言葉の意味は段々と轉化するものである。五類の働きによつて教義の發展が出來るのでありますから、五類といふことを知らなければ佛教の研究は出來ないと、斯ういふことを言つたのであります。
四 其の他の學説
それから之について富永がその外の事にも渉(はか)つて論じて居りますが、よく佛教家は印度の言葉即ち梵語(ぼんご)は多義である、意味が多い、それで印度の言葉は尊いのであると解釋するが、富永は何處の國の言葉も多義であるとして、大阪の俗語の例を擧げて例にして居ります。
大阪で放蕩者のことを「たわけ」と、その頃言つたのでございます。近頃は「極道(ごくどう)」と言うて、餘り「たわけ」と言はない。放蕩者の「たわけ」といふことを、支那の文字の放蕩といふ意味だけでは、大阪の言葉「たわけ」の意味を十分盡(つく)し難い。大阪で「たわけ」といふ言葉は、放蕩といふ外にもつと多くの意味を含んで居る。何處の國の言葉でも、その國の言葉には特色があつて、それは多義を含んで居る、他の國の言葉で解釋すると多義を含んで居る、何もサンスクリツトだけ有難い結構(けっこう)な言葉であり、多義であるといふ譯ではないと申しました。
これ等の考へ方によつていろ/\の事を推論して居ります。例へば斯ういふ風なことを考へた。佛教によく最初に「如是我聞(にょぜがもん)」と書いてある。佛教の從來の話で「如是我聞」といふのは、それはお釋迦さんの言うたことを、弟子の阿難(あなん、アーナンダ)といふ大變記憶(きおく)の好い人があつて、それがお釋迦さんに多年侍者(じしゃ)として隨從(ずいじゅう)して居りましたから、いろ/\の事を聞いて居つた。
お釋迦さんが死んでから、始めてお釋迦さんの言うた事を編纂するといふ――勿論その時編纂すると云つても本に書くのではない、昔の編纂といふのは言葉の上の編纂でありまして、皆んな寄つて、誰もかういふ事を聞いた。某(なにがし)もかういふ事を聞いたと、皆んな聞いたことを話合つて見て、さうして皆んなの話を持ち寄りして、それを皆んなが確かに記憶して置く、昔の人の學問は記憶が主なることであります。
その會合で話合をして、それを記憶したのが編纂であります。これを佛教の方では結集(けつじゅう)と申します。最初の結集の時に、阿難が一番記憶がよいので、その聞いて居つたことを話して見ろといふので寄つたところが、阿難が一番最初に如是我聞と言つた。
外(ほか)の弟子達が、つい昨日までお釋迦さんから直接に聞いたが、今日は阿難の口を藉(か)りて、さうして如是我聞と聞かなければならないと悲しんだといふ、大變面白く小説的に傳へられてあります。それでお釋迦さんの言ふことを直接聞いた人が如是我聞だといふことにこれまで言うてあつた。
ところが富永はそんなことはない、如是我聞といふのは、お釋迦さんが死んでから何百年かたつて、お釋迦さんが昔かういふことを言うたげな、昔こんな話があつたさうな、それで如是我聞といふので、直接聞いたものを如是我聞といふ筈はないと言つて居ります。中々皮肉な見方です。
元來富永は、何でもさういふ風に皮肉な見方をする人です。
但しさういふ皮肉な見方で學術的にうまく言つてあることがあります。佛教の方では經(きょう)・律(りつ)・論(ろん)を三藏(さんぞう)と申しまして、「經」といふのはお釋迦さんの直接説法されたもの、「論」といふのはお釋迦さんの説を弟子の菩薩達が之を説かれたもの、「律」といふのは、これはお釋迦さんの定められた戒律即ち「おきて」であります。
ですから、道徳上の規定であります。その上にこの經律論を解釋する「釋(しゃく)」といふものがあつて、その説を傳へる人が更に解釋(かいしゃく)したのであるといふ、それでその出來た前後の關係を説明するが、富永はさうでないと申しました。
お釋迦さんの當時から經も律も論もあつてちつとも差支(さしつかえ)ないのである。それは論の中にも偈頌(げこう)と長行(ちょうこう)とがある。偈(げ)といふのは、意味を大變簡單に約めて、詩とか歌といふ具合で韻文にまとめて書いたものです。
長行といふのは、これは韻文の意味を細かく解釋して、さうしてそれを分り易く演べて書いたものであります。この偈頌と長行とは、論部にも毎(ことごと)に出てゐます。先づ短い四句偈・八句偈・十句偈があつて、その次に意味を演べて書いた長行があります。
それで何のために偈頌を作つたかといふことについて、佛教の方では、その由來を八つの意味に説いてありますが、その中第五と第六とが眞の意味だと富永は申してゐます。第五は、この偈を韻文にして讀み易くしたのは、それは皆んなが韻文であることを望むからと、第六は韻文だと覺え易いからだ、さういふ二つの意味を言つて居るが、これが偈頌といふ韻文の出て來た所以である。
昔の經典の言葉は、覺え易く、耳に入り易くするために皆偈頌で書いた、それを後に解釋するために長行が出來たのであると申しましたが、これだけは何人でも考へ得ることでありますが、富永はこれは支那でも日本でも同樣だといふことを考へた。
支那でも詩經は勿論、書經の中にも韻文がある。易經・老子さういふ古い本には皆韻文がある。それは印度の偈頌と同じやうに、韻文といふものは、學問するものが望むからと、記憶し易いからである。
日本でも古い語り傳へなどには、何か一種の音節があつて、その音節によつて覺える。例へば祝詞には皆一つの調子があつて、その調子によつて覺えよく出來て居ります。さういふことは原始時代に皆覺え易いために出來たものであつて、昔の本は皆さうである。さういふ風にして之を暗誦(あんしょう)して居つたのが、即ち偈頌の出來る所以、それから後に長行が出來たのであつて、印度でもさういふ順序で發達して居るに違ひないから、律でも經でも論でも、最初からあつたに違ひない。
お釋迦さんの書いたものが經で、菩薩(ぼさつ)の書いたものが論だといふ區別は、それは後から勝手に區別したので、元來はさういふものでないといふことを言つて居ります。
かくの如く、佛教を研究するのに、支那のこと日本のことも實際昔の原始時代のことを考へて、比較研究をしたといふことは、餘程歴史的研究にえらい頭をもつて居つたといふことが分るのであります。
研究法と學説の價値
大體(だいたい)富永の研究法といふものはそれだけでありますが、これだけあれば、如何なる古い時代の、時間も空間も不分明な記録でも、研究が出來るのであります。かういふ法則を發見したといふことは非常な偉いものでありまして、日本でも支那の事を研究した人があり、日本の事を研究した人もありますけれども、斯ういふ風にその自分の研究の方法に論理的基礎を置いた人がないのであります。
それはこの富永が初めて置いたと言つて宜しいのであります。私はその點に於て、大阪が生み出したといふより日本が生み出した天才として、これは立派な第一流の人であると言つてよいと思ふのであります。
私が曩(・・)に懷徳堂で斯ういふことを申しました時、日本で天才の學者といふものを五人擧げれば、必ず富永がその一人にはいるといふことを申しましたが、筆記する人が間違つて、五人を省いたその次の第一人が富永といふ風に筆記したと見えまして、私の手許に來た筆記がさうなつて居ります。それによつて書いた「池田人物誌」にもさういふ風に出て居りますが、それは間違ひで、私はもつと富永を偉く見て居るのであります。
大阪には隨分(ずいぶん)澤山(たくさん)學者がありましたが、兎も角、學問を、今日の言葉で言へば科學的に組織立つた方法で考へたといふのは、此人より外にない。これは大阪ばかりでない、日本中にこの位の人はないのであります。その點が非常に偉いと思つて居るのであります。
それから富永は、學問といふものに國民性があるといふことを考へたのであります。その當時に印度と支那と日本との國民性について斯う考へたのである。印度人の國民性を一言にして「幻」と批評し、支那人の國民性を「文」、日本人の國民性は「質」或は「絞」と、絞といふのは正直過ぎて狹苦しいのでありますが、兎も角一字で批評をしたのであります。
僅(わず)か一字で大變よく批評してあると思ひます。印度人は何でも空想的なことを好みまして、前にも言うた通り、芥子粒の上に須彌山が現じたりするといふ風に、大變突飛な魔法使みたやうなことを考へる。それでお釋迦さんの所謂外道(げどう)、佛教の外の印度の各派宗教のやるのは幻であつて、佛教の方でやるのは神通(じんつう)である。
幻と神通が違ふと申しますけれども、實は幻も神通も同じもので、手品使が印度人に近い手品に合ふやうな宗教を組立てたと、斯ういふことを言ひました。支那人は何でも文飾(ぶんしょく)を好む、言葉でも何でも飾る、飾らんと承知しないので、それで支那人の國民性は文であります。
日本人は至つて簡單な正直な考へで、いろ/\幻みたやうな文みたやうな、目まぐるしいりくどい奴にぶつかると、日本人の頭では分らなくなつて、何か見當(けんとう)が付かないから、日本人は正直な眞つ直ぐな、手短かに言うた方が一番分りがよいので、それで日本人は質とか絞とかいふことになる。
斯ういふ風に三通りの國民性があつて、各國民性によつてその國々の宗教を組立てるのであるから、外の國の宗教を自分の國に移すときには、自分の國に合ふやうに之を變形(へんけい)しないとうまく合はない。印度の幻術的な宗教、何かといふと十萬億土などといふ取留(とりと)めもない目まぐるしいことは、日本に應用することは出來ない。
日本に應用するときには、もつと手短かな、手つ取り早くしなければ日本人には入らない。支那の文でも、非常な細かい、文飾が煩はしくては日本には行はれない。日本人にはそれをもつと簡單に手つ取り早くしなければならぬ、と斯ういふことを言つて居ります。これは尤も富永自身の發明ではないと言つて居ります。
支那の隋に文中子(ぶんちゅうし)といふ人がありまして、佛教は西方の聖人の教へである、之を支那に行はんとすると泥(・・・)む、そこに拘泥(こうでい)することになつて來る、支那にはその儘(まま)行はれにくいと文中子が言つて居ります。それを富永が引いて居ります。
それから富永は支那と日本との比較を考へて、兎も角各國民には國民性があるから、國民性によつて宗教といふものが成立つのであるといふことを考へました。此等は今日から觀ると非常な卓見と謂はなければならない。まだいろ/\のことがありますけれども、先づこれが「出定後語」の大體であります。
支那學研究の原則と神道の批判――「説蔽」・「翁の文」
その外に、富永仲基に「説蔽」といふ、これは儒教を攻撃したと言はれて居る本がありますが、その内容は今はよく分りませぬ。しかし「翁の文」といふ本が現はれて來て「説蔽」の中にどういふ事が書いてあるかといふことが幾分か分つて參りました。
この「翁の文」といふのは、どういふ本で、どういふ事を書いてあるかと申しますると、これは「出定後語」より四五年前に書いたものでありますから、恐らく富永の二十代の著述かと思ひます。二十代で非常な頭をもつてゐたものと思はれます。この中に書いてあることは「説蔽」に書いてあると同じで、支那の學問研究の原則を與へたものであります。
それは大體斯ういふ風に考へました。孔子の生れた當時、その當時は五覇(ごは)の盛んな時である。齊(せい)の桓公(かんこう)、晉(しん)の文公(ぶんこう)といふのは當時の覇者であります。その覇者の盛んな時であつて、孔子はその時一般の人々が覇を尊んで居つたので、その上に加上して、文武(ぶんぶ)といふことを言つて居ります、周(しゅう)の文王・武王といふことを言ひ出した。
孔子の後に墨子(ぼくし)が起つて、墨子は文武の上に更に堯舜(ぎょうしゅん)のことを言ひ出した。その上に今度は楊朱(ようしゅ)が黄帝(こうてい)を言ひ出した。それから孟子に書いてある許行(きょこう)がその上に神農(しんのう)のことを言ひ出した。これが支那に於ける加上説である。
思想の上からすれば、孟子に書いてある告子(こくし)が、性には善惡なしといふ説を唱へたのである。孟子は性善説を唱へた、荀子(じゅんし)は性惡説を唱へた、斯ういふ風なのは加上説であるといふ。
然るにこれは加上によつて出來たといふことを知らずに、日本の伊藤仁齋(いとうじんさい)は孟子の説が正しいとし、徂徠などは孔子の道はすぐに先王の道にて、子思・孟子などは之に戻れりといふが、その説の起る由來を辨ぜずして末節に拘泥し是非の論をなすもので、説の起る由來を考へると、段々思想上の加上から來るのであつて、目的は皆同じである。
皆新しい説新しい説を言ひ出すから、さういふことに拘(こだわ)つて來るのであると、斯ういふ風に考へました。今日「説蔽」といふ本はありませぬが、之によつて「説蔽」の大體は分るのであります。
「翁の文」には又日本の神道のことを批判してあります。日本の神道(しんとう)は、勿論富永の時代は本居・平田のまだ起らない前でありますから、近代の國學者の神道は未だない時で、その當時行はれて居つた神道によつて判斷したのであります。
大體(だいたい)神道といふものは昔からあつたのではございませぬ。これは皆中古から起つたものである。
先づ起つたのは兩部習合(りょうぶしゅうごう)――佛教と神道とを一つにしたものである。兩部習合説が先づ起つて、それから後に本迹縁起(ほんじゅつえんぎ)――本迹縁起と申しますのは、何の神の本地(ほんじ)は何佛で、何々神といふのは垂迹(すいじゃく)である、佛が本體で、神がそれから實際世に現はれて居る者と考へたのであります。
それで兩部習合説の次に本地垂迹説が起り、その後になつてアベコベに、神を本地として佛を垂迹とした説も起つて來たのであります。それから今度は佛教・神道兩方を一緒にする説が行はれ、更に唯一宗源(ゆいいつしゅうげん)といふ、これは神道だけで解釋して行かうといふ風に加上したのであります。
これらは中古の神道で、平安朝から鎌倉・足利時代までの間に出來た神道であります。その後、徳川時代に王道(おうどう)神道といふものが起つた。これは神道を儒教で解釋したといつてある。
これは富永は明白に申しては居りませぬが、易(えき)で神道を解釋した伊勢の神主等、又はその後に起つた山崎闇齋(やまざきあんさい)が儒教で神道を解釋したことを指すのでありませうと思ひます。
これは表に神道を説いたけれども、内面は儒教である。斯ういふ風に段々加上によつて神道も發達して來たのであつて、神道が古い時から傳へられたと云ひますけれども、實は古い事をその儘傳へて居るものでもなく、又古い事が良いからと云つて、今日の生活を昔の質樸(しつぼく)な生活、原始的生活に返して、今日の我々の生活に入れられるものでないと云つて居ります。
「翁の文」の新學説
この「翁の文」に特別なこの人の意見が現はれて居る所は、學説に時代があるといふことを説いて居る點(てん)であります。昔大變效能のあつた宗教なり禮儀なりも、今日では役に立たないものであるといふ、中々新しい考へであります。
これは單に宗教・道徳に國民性が在るばかりでなしに、國民性の外に時代相があるといふことです。近頃時代錯誤といふことを申しますが、そんなことは富永が今から百八十年程前(1730年代、副島隆彦注記)に考へて居りました。
それで今日の我々には今日に相當した「誠の道(まことのみち)」といふものがあるべき筈であると、斯ういふ事を考へましたので、それで神道・佛教・儒教この三つの外に誠の道といふものがなければならぬ、それが即ち今日實際に役に立つべき所の道徳であるべきであると、斯ういふことを冨永は言ひました。
これが「翁の文」の大意であります。つまり國民性は時代によつて地方によつて變る、時代によつて學説が變つて來るから、時代によつて相當の學説があるといふことを考へて居ります。
今まで富永の議論で知られて居ることは、先づそれだけと言つて宜しいのであります。極く簡單でありますけれども、それだけで隨分この人の卓見といふものが出て居ります。
學問上の研究方法に論理的基礎を置いたといふことが既に日本人の頭としては非常にえらいことであります。その外に宗教・道徳に國民性の區別があり、時代相の區別があると、あらゆる點に注意して居ります。これが我々の非常に尊敬する所以であつて、恐らく日本が生み出した第一流の天才の一人であると言つても差支ないと思ふのであります。
家系と其の攷學
私はこの天才は大阪が生んだ人だといふことを簡單に附け加へたいと思ひます。其處(そこ)に出してございます拓本(たくほん)の中、一番最初が富永のお祖父さんお祖母さんの碑であつて、徳通といふのが仲基の親であります。この「翁の文」の序文などから考へますると、ヒヨツとするとこの人の先祖は播州(ばんしゅう)から出たのではないかと考へられます。
播州といふ處は妙に大阪に於ける町人學者を多數出しまして、私がやはり嘗て懷徳堂で講演しました山片蟠桃(かたやまばんとう)といふ人も播州の出身であります。富永の先祖も播州から出たのではなからうかと思ふのであります。父からは既に大阪に住まつて、仲基は大阪に生れた生粹の大阪つ子に相違ないのであります。
この人には兄弟がありまして、其處(そこ)にある毅齋居士(きさいこじ)といふのがその兄であります。それは腹違ひの兄弟で、母の碑文が其處にあります(陳列の拓本を指す)、それが仲基の生みの母でありまして、その仲基と兄毅齋との間にもう一人あつたが、その人の名前も分らず、はつきりしたことは分りませぬ。
富永の生みの母は三人の男の子を生んで居りまして、皆學問が出來たやうです。二番目が池田に養子に行つた荒木蘭皐、三番目が眞重、通稱は何と云つたか分りませぬ。これも學問が出來て、此人の書いた漢文に荒木蘭皐の集の序文があります。
仲基の親は實名は徳通、號は芳春といふ人で、相當の學者でありまして、即ち懷徳堂を起しました五同志の一人で、淀屋橋尼ヶ崎町と申しました今の北濱邊(きたはまへん)でありませう、其處で道明寺屋吉左衞門といふ醤油屋であつた。その家を繼いだのは仲基の兄毅齋であります。
仲基は通稱(つうしょう)を何んと云つたかはつきり分りませぬが、近頃淡路の國から仲基の「翁の文」の寫本が出て參りました、それは富永と同時代の學者で仲野安雄(なかのやすお)といふ人が寫(うつ)して居つたもので、それに翁の文の著者は「道明寺屋三郎兵衞」と書いてありますから、それが通稱であらうと思ひます。
それで若い時から聰明(そうめい)であつたに違ひなく、懷徳堂主の三宅石庵(みやけせきしつ)に就(つい)て學問を稽古(けいこ)した。その内、「説蔽」といふ儒教を攻撃した本を書いて、石庵から破門されたと言ひ傳へてあります。
が、「池田人物誌」に西村天囚(にしむらてんいん)君の説を引いて、石庵の死んだ時富永は十五六であらうから、著述したにしても破門されるといふことはあるまいと書いてありますが、成程それが尤(もっと)もであらうと思ひます。
この三宅石庵から破門されたと言ひ出したのは佛教者の言ひ傳へであつて、佛教者が富永の惡口を言ふために、いろ/\の事實を捏造して居ることがあるやうです。富永が佛典を讀んだのは、黄檗板(おうばくばん)の藏經(ぞうきょう)――今でも一切經(いっさいきょう)の版木がありますが、それは富永より六七十年前に鐵眼(てつげん)の作つた版木であります。
その版木を校合(こうごう)するため富永が傭(やと)はれて居つて、それがために佛教を學んだのであらう、それから佛教の惡口の本を書いたから、大變佛教の恩に背いて居ると、慧海潮音といふ眞宗の坊さんが書いてゐます。之と同じ話で段々異部名字式に變つて來た話でございますが、矢張り淨土宗の坊さんが書いた「大日比三師講説集」といふ本がありまして、富永は佛教の惡口を言うたので到頭(とうとう)癩病(らいびょう)になつた。
それから大變後悔して、坊さんを頼んで「出定後語」の版木を燒棄て、阿彌陀經千卷を書いて懺悔(かいご)したけれども何等(なんら)の驗しがなく、到頭癩病で死んだといふことが書いてあるのです。これは文化文政頃富永の惡口が盛んに行はれて、坊さんが富永に對し酷(ひど)く反感を持つた時分の言ひ傳へであります。
石庵に破門されたといふのも、其時の言ひ傳へでありますから、どれだけ之に信用を置いてよいか餘程疑問であります。但し黄檗山(おうばくさん)で藏經(ぞうきょう)を見たといふ、これは事實だらうと思ひます。富永の作つた詩の中に、自分の家庭の面白くないことが書いてある。これは恐らく自分の母が兄に對して繼母(ままはは)である關係ではないかと想像されるのでありますが、しかしお母さんといふ人が非常な賢婦人であつたらしいのであります。
お母さんの碑文といふものは、多分仲基の弟荒木蘭皐が書いたのでありませう。兎も角何か家庭に面白くない事情があつて、富永が一時自分から家を出て居つた、その間に黄檗に行つて居つたのかも知れませぬ。その時藏經を讀んだのだらうといふことは想像されるのであります。
その外に多く佛教者から出た惡口は信用出來ませぬ。それから「出定後語」の版木を燒棄てたといふのは全く嘘でありまして、その後になつて平田篤胤(ひらたあつたね)がこの本を搜した時に、大阪の何處かの本屋の藏の隅から版木を漸(ようや)く見付けて刷り出したといふことを書いてありますから、版木を燒棄てたといふのは全く嘘であります。
佛教者は妙に人の惡口を言ふ時には、口ぎたない言辭を用ふるものでありまして、たゞ無闇に聲を大きくして人を罵(ののし)るやうなことをする。これは甚だ感服仕(つかまつ)らぬのであります。
獨創的識見
この「出定後語」、「翁の文」のえらいことについて、私は色々の處で講演いたしたのでありますが、富永の書のえらいことは、最初は國學者の本居宣長(もとおりのりなが)によつて發見されて、「玉勝間(たまかつま)」に書かれたのであります。
それを見た平田篤胤が、それから本を搜し出して、「出定笑語」といふ本を書きました。我々はそれを讀んでからこの本を知り、更に「出定後語」を讀んだ譯でありますが、その當時から富永が幾らか人々に注意されたものと見えまして、殆(ほとん)ど富永と同時代でありました湯淺常山(ゆあさじょうざん)が「文會雜記」といふ本に富永の本を批評しまして、佛教の事を一通り知るのには「四教儀集解標旨鈔」といふ本があつて、それを讀むと大體佛教の大意は知られるといふ、それで「出定後語」はこれから見出したといふやうなことを或人が言つたといふことを書いて居ります。
私もこのことを若い時に見まして、「四教儀集解標旨鈔」を搜して見ましたところが、この「四教儀集解標旨鈔」といふ本の著者は仙臺に居つた梅國といふ坊さんであつて、大變博學な佛教學者でありますけれども、富永が之によつて佛教の事を見出したといふことは全く嘘であります。
それは「四教儀集解標旨鈔」を碌に讀まず、「出定後語」も碌に讀まない人の批評であります。存外昔の人の批評といふものも注意しなければならぬものだと、三十年も前のことでありましたが考へたことがあります。
つまり富永の佛教批評といふものは、全く自分の獨創的な見識、獨創的の天才から出たのであります。何か人に教へられた、人の著述によつて思ひ付いたといふやうな、そんな詰らないものではないのであります。
「翁の文」なんぞも、猪飼敬所(いがいけいしょ)程(ほど)の學者も感服したと見えまして、之を讀んで大變えらいといふことを書いて居ります。それで私共長い間この本を搜して居つたところ、偶然昨年の春まで大阪外國語學校の教授をして居つた龜田次郎といふ文學士が發見しました。
それを私が到頭版にするやうになつたのであります。この人の學説なり、その傳記なり、又私がそれに關係した由來をお話すると大體こんなことであります。長くばかりなりましたが、どうぞこの人が偉い天才であるといふことは、大阪が大大阪になりましても永く人々の記憶に留めて置きたいと思ひます。
斯(こ)ういふ天才は、何も大阪が大大阪になるから出たといふ譯ではありませぬ。又過去の大阪がかゝる天才を出したから、將來大大阪になつたらもう一倍えらい天才が出るだらうといふ保證は決して致しませぬ。これで御免を蒙(こうむ)ります。(拍手)
(大正十四年=1925年=四月五日講演)
底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日発行
1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「先哲の學問」弘文堂
1946(昭和21)年5月発行
初出:大阪毎日新聞社主催講演会講演
1925(大正14)年4月5日
「大阪文化史」に講演録所収
1925(大正14)年8月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年1月10日公開
2006年1月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
しかし、書いている人物は、台湾の、その中でも、CIAに操(あやつ)られたミニ政党であった、台湾団結連盟 略して、
「台連(たいれん)」という、つい最近、小選挙区制導入で、台湾で滅んでしまった、反中国の勢力と、べったりくっついて、そこから資金とかももらって、書いている人の文だ。
ところが、安倍晋三首相以下の日本の保守派の主流が、親中国に大きく舵(かじ)を切っているので、それで、つい最近まで、「今こそ、アメリカと同盟して中国を攻めよ」みたいなことを書いていたのに、急に、コロリと態度を変えて、こういう、冷静な中国分析の文を書いている。こんなに人間は、コロコロと態度を変えられるものかね、の見本の文章だ。
この文の中には、自分たちの国内言論が、一気に少数派に転落したことの焦(あせ)りがよく見て取れる、実に良い文章である。
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
週刊「木曜コラム」
2007.04.12
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中国格差社会の行方
先の全国人民代表大会で、胡錦濤政権は「調和社会」の構築を目標に掲げた。しかし中国社会は格差拡大を続け、民衆の不満は農村部から都市部へ移りつつある。
「調和社会」の政策は中央と農村部の格差、貧富の格差
是正を眼目としたものだ。胡主席の思いとは別に、格差問題は想像以上の危機的状況にある。
香港系雑誌によると、現在中国各地では1日約300件、年間12万件(06年)近い抗議行動や暴動が起こっているという。今までとの大きな違いは、都市部での暴動が急伸していることだ。例えば専門学校生が卒業資格をめぐり1万人規模のデモを起こした。
地域の官僚による不正や腐敗、病院・学校などの制度の仕組みやシステムの不公平に、民衆の不満は限界に達しつつあるとの声が聞かれる。
中国の青年たちには、行き場のない怒りと不満をインターネット世論にぶつけたいという思いが顕著だ。中国人のネット利用者は1億2千万人以上とみられる。ネット勢力は、中国共産党政権を左右する恐ろしい存在に成長した。今後このネット勢力と都市部での抗議運動が連動することで、大規模な暴動が呼び起こされるとの見方もある。胡政権には、腐敗した地方権力に対する監視制度の構築と透明な仕組みが欠かせない。
遠い「調和社会」
中国共産党が最も恐れる相手とは誰あろう、「人民」そのものである。中国は数千年の歴史の中で、一握りの権力者のために人民を奴隷状態に閉じこめてきた。中国人民は現代の奴隷そのものだ、という意見も真実味を帯びてくる。かつてのアジア諸国は欧米列強による植民地奴隷になっていたが、チベットやウイグルでは今も中国の植民地政策と奴隷制度による犠牲が脈々と続いているのは紛れもない事実だ。
今、中国各地で人民奴隷による共産党政権への抗議行動と暴動が深刻な事態を招いている。胡政権は、都市部には雇用創出や社会保障整備を検討している。今後は世界と共存する限り、奴隷制度の中国も「自由と民主、人権と法治」を受け入れざるを得まい。
共産主義国家・中国が資本主義を受け入れることで、いつまでも威嚇や恫喝の政治を続けることには限界が見えている。中国の格差社会も、そのうち調整されながら「米国・日本型」の格差社会に変わっていくとの見方がある。とはいえ日米台型の「民主化」が中国の体制崩壊をもたらすことも懸念されよう。
広がる都市労働者の貧困
これまで中国の格差問題を論じるときは、都市と農村の比較対比が問題視されてきた。しかし今日では、都市部住民の所得格差が一気に拡大しているのが現実だ。主要都市では、農村から流入してきた、流民と呼ばれる合計2億人の貧困労働者が街に溢れている。
彼らは故郷に戻れず、出稼ぎ労働者として建設現場や肉体労働、家政婦や飲食産業などに従事し、月給数百元という人が多い。家政婦や皿洗いの時給相場が100円前後である一方、1日で10万円以上稼ぐ同時通訳者もいる。
彼ら低所得者層はやるせない虚脱感に苛まれている。こうした不安心理が昂じて精神的な錯乱状態に陥り、社会報復行動の芽が育っていくのだ。中国は貧困層の問題を解決しない限り、今や暴動の拡大と治安悪化は避けられまい。この問題を放置すれば、更なる社会不安が拡大しよう。
農村腐敗の元凶
では、中国各地における農民や労働者の実情はどうか。先鋭化する暴動について、各紙があらゆる衝突・事件の公式発表を伝えている。弊誌では紙面の都合上実際の事例は省くものの、村民と公安の衝突に、中国当局が直接事態の収拾に乗り出すケースが多くなった。
各地で相次ぐ衝突の要因は、急増する土地の強制収用や環境問題にあるようだ。土地収用では補償金の算定をめぐって農業収入と補償額の格差が争点となり、地方当局による「腐敗の温床」が農民を苦しめている。
ましてや環境汚染は深刻で、土地はやせ細り飲料水も汚染されて飲めないのに、地方当局は改善策を講じておらず、それどころか業者と癒着して私腹を肥やすことしか考えていないのである。これでは農民の怒りと不満がいつ暴発してもおかしくないだろう。
米専門家の見た中国
中国各地での抗議や紛争、貧困層の暴動の根源的な問題について、ブッシュ政権下の国務省上級顧問であるジェームズ・キース氏は、大国中国の陰に「貧しい中国」が存在するとして、公聴会で以下のように証言している (産経新聞07.2.15)。
① 全人口13億人のうち8割が貧しい地方に住み、その中の5億人は所得1日1ドル以下の「貧困」階層である。
② 内陸部は都市部に比べ、保険や教育、社会福祉、土地侵食、水質悪化、大気汚染、森林破壊など各方面で決定的な劣等条件にある。
③ 地方の住民も法律で保障された権利に目覚め、当局による一方的な土地収奪、違法徴税、賃金不払いなどへの抗議を頻繁に表明するようになった。当局が治安を乱したとけなす「抗議行動」は04年に7万4千件、05年には8万7千件に達した、④45歳から65歳までの国民のうち80%は保険や年金などの社会福祉受容がなく、地方当局の腐敗の広がりは社会全体の倫理的価値観を侵食している。
党中央の暴動対策
胡政権はこうした貧困層や格差社会の問題に警鐘を鳴らした。農村の余剰労働力を都市に移動する、農民の収入を向上させるなどの、当初の「調和社会」建設目標に苦心の跡が見られる。これは貧困層の暴動を食い止めるための手段に他ならない。
中国政府は乱開発に歯止めをかけるため、昨年から規制を再編し、不動産取引に対する監視を強化して汚職幹部を摘発している。また農民の負担を軽くするため農業税の全廃、農民の義務教育の学費免除などの手を打ち、新たな国内治安戦略を採用した。
急拡大した抗議行動や暴動に対しても、治安当局は新たな戦略を構築している。今後はできる限り武力は使わない、徹底弾圧はしない、少数民族に関する暴動は限定弾圧、全ての非難は地方の党組織に絞り中央に向けない、などである。しかし今のところは中央まで波及しないものの、地方統治が弱まれば暴動は拡大するとの見方もある。
格差社会が生んだ成金
筆者は先日、日本の各業界を代表する11名の方々と、六本木のステーキハウス「モンシェルトントン」で食事会を開催した。この店は鉄板焼き店として人気が高く、客の半数近くが外国人である。個室は欧米風の装飾がなされており、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。
筆者がこの店を選んだ理由は、最近は良質の神戸牛がなかなか手に入らないからである。当日は支配人が用意してくれたが、なぜ入手が困難かと聞いたところ、日本国内の倍近い価格で中国人富裕層が丸ごと買いあさっているからだという。フルーツの産地でも、1個3千円のりんごが中国では飛ぶように売れるらしい。
中国では、富裕層の若者たちが最高級のブランド物を身につけている。1泊10万円以上もするスイートルームのクリスマス宿泊パッケージも予約で満杯だという。彼らは新興成金であり、新中国の顔中国のエネルギーである。つまり見方を変えれば、強烈な競争原理の中から浮上してきた成金たちが経済活性化の原動力となっているのは確かだ。
格差社会解決の鍵は日本か
東京オリンピックや大阪万博があったのも日本の高度成長期であった。中国も2008年の北京オリンピックと2010年の上海万博で、経済発展のピークを迎えている。しかし日本との大きな違いは、中国企業が利益率や技術力、高付加価値商品などよりも、売上拡大や従業員数など目に見える表層面ばかりに目を奪われる段階にあることだ。
中国経済の難点は、急増するエネルギーと環境問題ではないか。日本は省エネ技術と環境技術の向上で危機を乗り切った。まもなく中国も、この2つの問題で頭打ちになり、成長鈍化に直面することになろう。
中国は急速な経済成長を遂げ、経済大国と言われているが、金融システムや企業統治の脆弱性、エネルギー、インフラ整備など、成長・持続の壁となる問題が解決されていない。実際の難題を現実的に処理することこそ政治的芸術だと思えてならない。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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アーサー・ケストラー略歴
アーサー・ケストラーは、1905年9月5日、父親をハンガリー系のユダヤ人、母親をオーストリア人としてハンガリーのブダペストに生まれた。
当時、父親は独英人共同経営の織物会社でハンガリー支店長として勤めており、ケストラーの幼年期、一家は裕福な生活を営んでいた。
しかし、第一次世界大戦のためこの事業は破綻をきたし、1919年一家はウィーンに移住。さらにオーストリアのインフレーションにたたられ、一家は残り少ない全ての資産を失う。
ケストラーは苦しくなった生活のため、21歳の時に家を離れて独立。苦学しながら、数学・工学を中心に教えていたウィーンの高等実科高校を経てウィーン工科大学で4年間自然科学を学んだ。大学を出たが良い就職口が見つからず、ユダヤ人でもありシオニズムに関心を持っていたケストラーは、ここで中東へ移民として旅立つこととなる。
パレスチナで農業に従事したり、アラビアで建築家の助手をつとめたり、ハイファーでレモネード売りをしていた。こういった仕事を続けているうちにカイロでドイツ語とアラビア語の週刊誌編集をしたのがきっかけとなり1926年、戦前のヨーロッパ最大の新聞雑誌社であったウルシュタイン社の中東特派員として採用され、中東地方の記事を送り続ける。
1929年にはパリ支局の特派員となったが、この頃ノーベル賞を受賞したドゥ・ブローイをインタビューして書いた科学記事がたまたま本社首脳部の目にとまり、1930年9月からはベルリン本社の科学欄編集者としてドイツへ移ることとなる。
当時のドイツの政治的・社会的混迷や不安をその背景に、マルクス・エンゲルスの著作を読破の上、これこそ明日に生きる光明であると確信して1931年12月、ドイツ共産党に入党する。彼のここでの仕事は、ウルシュタイン社で見聞きした政治的情報を党に伝えることであった。
入党後間もなく、入党したことがウルシュタイン社に発覚した事により解雇され、フリーの記者となる。退社した彼は共産党員であるという事を隠す必要もなく、「細胞(セル、さいぼう)」としての生活を送ることとなる。上流地区であるノイ・ウエステントの部屋を引き払い、急進的思想を持つ貧しい芸術家が大勢住んでいて「赤い集落」として知られるボネル・プラッツの安アパートへ移り住む。
この「細胞」はおよそ20名ほどのメンバーによって構成されており、週に1~2回定の会合を開いていた。この細胞も他の細胞と同様に「三角構成(トライアングル)」、即ち、ポール・ライター(政治委員)、オルグ・ライター(組織委員)、アジト・プロプ(情報宣伝委員)によって指導されていた。ケストラーはこの細胞に参加して間もなく、アジト・プロプの仕事が課せられ、パンフレットやポスターの作成を行っている。
1932年には、国際革命作家連盟の招聘を受けて、ロシア入りし、その紀行を書くこととなった。当時のソ連の現実によって、党への信仰はかなり動揺したが、1938年の早春までは共産党に籍を置いている。
1936年スペイン市民戦争が勃発すると、これは国際義勇軍の編成される前であったが、スペイン共和国軍に参加しようとした。しかし周囲の説得・協力もあって、イギリスの「ニュース・クロニコル」紙の特別通信員として、当時フランコ軍本部のあったセビリャ入りした。
ケストラーはここで見聞きしたことを「ニュース・クロニコル」紙上で発表する。このことによりフランコ軍側から敵意の目で見られることになる。
6カ月後、ケストラーは再び共和国側の従軍記者としてスペインに入国するも、マラーガででフランコ軍側によって逮捕され死刑宣告を受ける。セビリャで4カ月間の獄中生活を送っていたところで、イギリス外務省の干渉によって救われた。このときの経験を著作「スペインの遺書」に書き記している。
このスペイン戦争への参加を通じて、ファシズムの暴虐もさることながら、現実の共産主義も決して理想として考えていたものではなく同じように残酷であるという、大きな幻滅を感じたようである。
ちょうどこの頃彼の義兄と二人の親友がG.P.U.により不当に逮捕された知り、離党。この友人の妻の証言を素材としてスターリニズム批判した政治小説「真昼の暗黒」を1940年に刊行。コミュニズムが進歩的文化人の間で神聖視されていた当時、広く批判を受ける。
その後も引き続き1941年には「地上の屑("Scum of the Earth")」、「ヨギと人民委員会(The Yogi and the Commissar)」などの政治小説を発表したが、1948年英国へ移住した頃から専ら科学思想に関する著作へと転向している。政治的イデオロギーに絶望したのか、政治分野に関する主張を執筆しない旨宣言したのである。そして、科学や文化の将来に希望を託して人文科学や自然科学に関する著作を執筆することとなったのではないだろうか。
1959年には評価の高い宇宙観の科学史、「夢遊病者たち(The Sleepwalkers)」を刊行。彼の興味は、科学と芸術と倫理を共通に支える基盤は何かという問題から、こうした領域での創造活動の行為へと関心が注がれている。
このテーマは1968年「創造活動の理論」に結実する。ここでは「双連性(bisociation)」という概念を用いて、それまで全く関連のなかった二つの認識を枠組みが、新しい平面で融合して一つになることが創造活動の本質であると考え、この視点から創造行為の構造の理論的解明を図っている。
さらに彼の興味は科学思想や科学方法論へと移ってゆく。この方面での代表作は1967年の「機械の中の幽霊」であろう。この題名はイギリスの哲学者ギルバート・ライルの「『心』は身体という機械の中に潜む幽霊のようなものだ」という言葉にちなんだものである。ケストラーはライルの考えを批判して、反語的にこういったタイトルを付けたのであろう。
ケストラーがこの著作の中で提唱した「ホロン」の概念は、現代の有数の生物学者や神経学者の一部の賛同を得て、アルプバッハでのシンポジウムへと結実した。
また、1972年には「偶然の本質(The roots of Coincidence)」を刊行。ここでは最近の超心理学の発展が取り上げられており、これが今世紀の素粒子物理学の発展とある面で奇妙に符合していることに着目する。この両者が相補って現代の新しい知的状況を作り出していることを指摘する。
そして、一般に「偶然の一致」として片づけられているものをユングの「同期性(Synchronicity)」の概念を用いながら、システム論的に考察を加えている。
1983年、パーキンソン病と白血病を苦に、夫人とともに鎮静・睡眠薬であるバルビツール剤を大量に服用して自殺。それに先だって1982年にケストラーが書いた手記は次の通りである。
「関係者各位
この手記の目的は、私が何人に知らせることも、力を借りることもなく、薬物を大量に服用して意図的に自殺するものであることを一転の疑いもなく明らかにすることにあります。薬物は合法的に入手し、かなりの長期にわたって保存していてものです。
自殺は賭けで、その結果が賭博師にわかるのは失敗した場合に限られ、成功の場合はわかりません。万一この試みに失敗して、肉体的精神的損傷をともなった状態で生き延びることとなり、何をされても自分の自由にならず、自分の意志を伝えることができなくなっては困りますので、生き返らせることなく自宅で死なせていただき、人工的手段によって生存を続けさせることもないようお願い致します。
自ら生命を絶つ理由は単純かつやむをえないものです。即ちパーキンソン病と徐々に死をもたらす白血病です。白血病のことは、心配をかけないために親しい友人にも秘していました。肉体は過去数年にわたって着実に衰弱を続けた結果、今では苦痛な段階に達し、複雑な進行を見せるに至りましたので、自ら必要な手段を取ることが不可能になる前に、自分の救済を試みることが望ましくなったのです。
友人の皆さんには安らかな気持ちで友情と別れて行くこと、時間、空間、物質の制約の彼方に、また人間の理解を絶する世界での、肉体を失った後の後生の生活にわずかな希望をいだきながら去って行くのだということを、お伝えします。この「広大な感情」によって、私は幾つもの危機を切り抜けてきましたが、この手記を書いている今も、それは同じです。
それでもこの最後の手段を取るに際して辛いのは、生き残る幾人かの友、中でも妻シンシアに苦しみを与えざるを得ないということです。生涯の最後の時期に、私がそれ以前には味わったことのない比較的平和で幸せな生活を送ることが出来たのは、シンシアのお陰でした。これは私にとって初めての幸福でした」
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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