私は、先日、インド、ネパールの旅から帰ってきましたが、旅の間もずっと、「数学者のロバチェチェフスキーが発見した、上記の理論」を考えていました。そのことを詳しく説明している小室直樹先生の本と、もう一冊「天皇の原理」(文藝春秋、1993年)の中の仏教の記述を考えていました。それで、インドまでいって仏陀(ぶっだ、ゴータマ・シッダルダ)その人の足跡をたどったのです。 勉強になりました。
以下に載せるのは、私たちの「会員専用掲示板」に、横山君が投稿してくれた優れた文の中の、小室直樹著『超常識の方法』の中の、「数学とは何か」を論究した部分です。この文は、ものすごく重要です。私は、これまでに何十度も読み直して、今もあれこれ考えています。
ですから、横山君が、デジタル文章にして、会員専用掲示板に載せてくれていましたので、ここに再録します。
横山君のほかにも、会員の坂井君と長津君と、茂木君と、高野君らが、私の11月4日講演に触発されて、優れた数学論を書いてくれています。ですから、会員専用掲示板の昨年の11月、12月ごろに載っている数学論の数々も「過去ログ」から検索して、どうぞお読みください。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
(小室直樹『超常識の方法』[1] pp.161-167 より引用開始)
「非ユークリッド幾何学――否定からの出発」
題4章
科学における「仮定」の意味――近代科学の方法論を決定し た 大発見
(2) 近代科学の基本となった発想法――なぜすべては仮説にすぎないのか
<公理の概念を根底から変えた非ユークリッド幾何学>
近代数学の濫觴〔らんしよう〕がギリシャ時代にあったというのは前述したが、ギリシャ数学と近代数学との根本的違いは、公理をどう考えるかにある。
すなわち、ギリシャ数学では、公理は自明なものと考えられていたのに対し、近代数学においては、「公理は仮説だ」と考えられるようになったのである。
このように、ロパチェフスキーの数学という学問における功績は、非ユークリッド幾何学の体系を作ったこともさることながら、公理は仮説であるということを見いだしたことにこそある、と言ってよい。
公理が仮説だとすれば、ある一つの公理系〔アクシオム・システム〕(公理のあつまり)を置けば、その公理系に従って一つの数学が出来上がるし、また別な公理系を置けば、別な数学が出来上がるということになる。
先ほどの平行線の公理で言えば、平行線の公理を仮定すればユークリッド幾何学が出来上がり、一直線外の一点を通ってその直線に平行な直線は一本とは限らないという仮説を置けば、非ユークリッド幾何学が出来上がるということなのである。
ただし、平行線の公理と、平行線は一本とは限らないという公理とは、互いに相矛盾するのだから、もちろん、両方を一度に仮定するというわけにはいかない。
つまり、いくつかの命題が公理になり得るためには資格が二つある。一つは互いに矛盾しないという「無矛盾性」であり、もう一つは、ある公理は他の公理からは絶対に導かれないという「独立性」である。言い換えれば、「無矛盾性」と「独立性」があって初めて〝公理〟と見なされるのであり、そこから一つの数学が生まれ得る。
こうした考え方から発して、幾何学に限らず、代数においても解析学においても、すべて公理主義の体系〔システム〕がとられることとなり、現代のようなきわめて洗練された形の数学としてまとめあげられたのだ。
そして、さらに重要なのは、他の学問においても、数学をお手本として公理主義的な方法を採るようになったということである。
たとえば、物理学の場合でいえば、ニュートン力学の第二法則、第三法則が、いわばユークリッドの公理に当たる。また、現代に至ってアインシュタインの相対性理論が出てくるのだが、これはニュートンの公理よりももっと一般的な公理を立てて、ニュートン力学をその部分的ケースとして含むように作りあげたものなのである。
ところで、ここで改めて、方法論的にいって公理主義的な考え方が、どういう意味で重要なのかと考えてみると、公理主義のおかげで、学問とはすべて仮説であるという考え方が徹底したことが挙げられる。
公理主義の考えが出現する以前においては、実体主義的に、〝そこに真理がある〟というのが大前提であって、それを発見することが学問であった。
たとえば、数学の場合でも、神様か誰かが、そこいらに産み落としておいてくれた真理を発見するのが、数学者の務めであった。
ところが、現代では、数学とは数学者が作るものであると考えられている。つまり、数学者が、まず私はこれこれの公理を要請します、とやって、そうするとこれこれしかじかの定理が証明されます、とやるわけだ。
つまり、ギリシャの昔と現代では、方法論的な意味では、一八○度の大転回が行なわれたと言わねばなるまい。
こうした方法論は、他の自然科学や社会科学においてもまったく同じことで、科学は、科学者が仮説を要請するところから始まる、とされるようになった。
この仮説とは、方法論的には公理と同じものであるから、そこから論理的に導き出された科学的知識とは、実体的、絶対的なものではない。あくまで科学者が要請した仮説のうえに成り立つ、仮の知識でしかないわけである。
<なぜ、科学だけは無限の進歩が可能なのか>
では、数学とほかの科学に方法論的な違いがないのかというと、そうではなく、大きく違う点が一つある。それは、数学では公理を実証する必要がないのに対して、ほかの科学のほうは、仮説を実証してみて、その仮説に現実的妥当性があるかどうかを検証することが、まず必要になってくるのである。
たとえば、数学の場合でいえぱ〝一直線外の一点を通ってそれに平行な直線は無限にたくさんある〟という公理をある学者が要請した場合に、「じゃあ、お前、それをグラフに描いてみろ! 何だ描けないじゃないか、じゃあインチキだ」などという議論は成り立たない。数学の公理は要請すればそれでおしまいで、実証する必要はないのである。
だが、数学以外の科学の仮説のほうは、いくら論理的に筋が通っていたとしても、実証してみて駄目だったら、仮説として認められない。
たとえば、ニュートン力学を例に採っても、ニュートン力学の第二法則、第三法則から「エネルギーの法則」とか「落体の法則」とかが引き出せるわけだが、引き出しただけでは十分ではなく、本当にそうなるのかを必ず実験してみなくてはいけない。実験してみて正しいことがわかって初めて、仮説として認められることになるわけだ。
では、こうした科学的知識とはまったく正反対なものに何があるのかといえば、その代表は神学的知識だろう。神学的知識とは、本来、神の言ったものなのだから、絶対的なものであり、その現実的妥当性を実証するなどとは、とんでもない涜神〔とくしん〕行為だということになる。
哲学的知識というのも、科学哲学などという言葉もあるが、大部分は科学的ではない知識だといえる。さらにまた、常識とか迷信的知識、道徳律などといったものも、とうてい科学的とはいえない。
それでは、科学的知識と、それ以外の知識との根本的な違いは何か。それは、科学的知識に限っては、公理主義によって出現したものなのだから、その知識がどんな仮定によって出てきたものかがわかることである。
さらに言えぱ、仮説が違えぱ別のことが成り立つということである。また、科学においては、実証をしなければならないから、どこまでが科学で研究されており、どこから先はまだ未知なのかという境界がはっきりしている。つまり、知識に対して、それが生まれた条件、そして、その限界が明らかにされているわけである。
それから、科学的知識だけに見られる第二の特徴には、その探求において分業が可能であり、違った人間同士でも協力できることがある。何しろ、どこまでがわかっていて、どこから先がわからないかがはっきりしているのだから、当然、複数の協力ができる。したがって、知識の積み重ねができるのだから、無限の進歩も不可能ではない。
まとめると、科学においては、わかっているかいないかの境界がはっきりしており、しかも方法が確定しているから、分業ができる。分業ができれば、皆の協力によって積み重ねができ、積み重ねができるから進歩もできる。
この点は、科学的知識だけが持っている特性であり、他の知識はそういう特性を持つ場合も、持たない場合もある。つまり、進歩する場合も退歩する場合もあり得るわけである。
宗教的知識を例に採ると、キリスト教の場合には、キリストが最高で、あとはだんだん退化してきたのかもしれないし、儒教の場合だって、孔子が最高で、あとは退化しているのかもしれない。
常識にしても同様で、常識人の手本のような父親が死んだ時に、息子がその父親の常識を継承できるかといえば、そんなことはあり得ない。哲学や芸術における知識についても然〔しか〕り。
人間が係わりあっているいろいろな分野について、宗教はどうだ、芸術はどうだ、哲学はどうだ、道徳はどうだ、という具合に見ていくと、現代社会において、昔に比べてかえって退歩している面がたくさん見つかるのではなかろうか。
しかし、科学的知識だけに関しては、進歩のスピードに速い遅いはあるにしても、また、一時的に立ち止まったことがあったにしても、けっして退歩することだけはなく、着実に進歩を続けてきたのである。
<科学の本質は〝研究方法〟にこそある>
さて、こうして考えると、科学であるかないかのけじめは、研究対象にあるのではなく、方法にあるということがわかるはずである。
最初に、まず一つの仮説を立てる。そして、その仮説を実証する。実証してみて、もちろん完全に証明される場合もあるわけだが、大抵は、いやそうじゃない、もっといい仮説がありそうだということになって、また、よりよい仮説を立て直す。また、それを実証する、またよりよい仮説を立てる。そんなチェーンがどこまでも続くことになり、これが、つまり科学の方法であり、この方法で研究するなら、たとえ研究対象が何であっても、科学といえるのである。
(小室直樹『超常識の方法』[1] pp.161-167 から引用終了)
小室直樹.超常識の方法 頭のゴミが取れる数学発想の使い方 祥伝社 1981/09.216p (ISBN 4396101937)
『超常識の方法』は,2005年4月に『数学を使わない数学の講義』として改題改訂され,ワック出版から出版されている。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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(転載貼り付け始め)
竹中平蔵「仮面の野望」 (前編?))
筆者 佐々木・・・
(まえがき)
彼は小学生の頃から強烈な競争意識を奥底に秘めていた。
日本開発銀行勤務時代に営業失格の烙印を押されるが、不意に歩み出した研究者生活のなかで、彼は人脈を広げ、アメリカ留学、大蔵省出向を経て学者としての地歩を築いていく。
しかし・高い評価を得た処女作には剰窃疑惑が持ち上がっていた!
「日本のインテレクチュアルズ(知識人)が試される」
四年半前、小泉純一郎首相から経済財政担当大臣に任命された竹中平蔵は、就任時の記者会見でそう語っていた。日本の知識人の代表として政権に参加したのだという自負が、そう言わしめたのだろう。
まるで急峻な山を踏破するように、竹中は一気に政権中枢へと昇りつめていった。一九九八年に小渕恵三(おぶちけいぞう)政権で経済戦略会議のメンバーに選ばれたのを皮切りに、森喜朗(もりよしろう)政権ではIT戦略会議のメンバーとして政策ブレーンをつとめ、小泉政権発足とともに大臣に就任した。
政権入りしたときの竹中の物言いをそのまま受け入れるのならば、日本の知識人の代表として政治とかかわったこと、つまり竹中が権力中枢に入り込んだことは、ようやく日本の政治が知識人を受け入れて近代化、知性化されたということになるのだろう。果たしてそのような理解は正しいのだろうか。
竹中は「サプライサイダー」とみられている。
供給側を重視する経済学者、生産者側、企業サイドの活性化を重要視する立場である。竹中の経済観はそのまま小泉構造改革の思想になっているといってもいい。「小さな政府」と「競争社会」。竹中の思想はどこから出てきたのか。
それは日本の社会を導く思想と呼べるものなのだろうか。これまでに竹中は膨大な量の文章を書いてきたが、自身の歩んできた道を綴ったものは驚くほど少ない。小泉構造改革がほんとうのところいったいどのような思想に基づいているのかを知るためには、竹中の思想のよって立つところを理解しなければならない。
それはとりもなおきず竹中平蔵という人物そのものを理解することである。
私は、竹中が歩んだ五十四年の軌跡をたどってみることにした。(中略)
露骨な競争意識
小中学校時代、毎日のように顔をあわせていた親友の森本道夫が、竹中の行動に戸惑いを覚えるようになったのは、小学校六年生のころだったという。ときおり、激しいライバル心を抱いているような素振りを見せるようになったのである。もっともそれは学業に限ってのことだった。少し言いにくそうに森本は話した。
「ぼくのほうはそんな意識はぜんぜんなかったですけどね。中学校でも学年があがるにしたがって、平蔵が(成績のことを)聞いてくるようになったんです。ぼくはそういうのはちょっとあ
れやったから……」
中学校三年生のときだった。森本は業者が実施する有料のテストを受けて県内の成績上位者に入った。森本や竹中が通う西和中学校から受験した生徒のなかでは一番成績がよかった。
「ぼくも受けたらよかったな」
竹中は森本から成績結果を聞くと、そういった。テストを受けていれば自分が一番になっていた、とでも言いたげな物言いである。森本は内心むっとすると同時になにか割り切れない気持
ちもした。親友の竹中とは二人でいっしょにがんばっているとおもっていたからである。
「あれっ、いっしょにがんばったらええやんかとおもっていたからね。平蔵だって勉強はよくできたし、ぼくに競争心をもつのはちがうだろうと。そういうのは勘弁してくれ、と。そういう
ことで、ぼくのほうから平蔵と少し距離を置くようになったんです」
おもいあたるきっかけがひとつあった。知能指数(IQ)テストである。ふつう結果は本人にしかわからないはずなのだが、小学校六年生のときの森本の結果は一部の保護者の知るところとなった。先生が、学年で一番IQが高かったのが森本であることを保護者会でついもらしてしまったのだ。
森本はそのことを母親から聞いて知ったのだが、竹中が露骨な競争心を示すようになったのはこの一件以降である。森本にはそれ以外の理由がおもい浮かばなかった。
(中略)
吉田和男(よしだかずお)現京大教授は、竹中の研究者としての骨格はアメリカでつくられたのではないかとの感想をもっていた。「どのような時期にアメリカにいたかですよね。これは竹中さんに限りませんけど、日本の経済学者はどの時期にアメリカにいったかで決まるところがある。竹中さんがいった時期は、純粋なケインジアンにはお年寄りが多く、若い人はそういう立場に異論を唱えていた。やはり経済学者は一番勉強をしていた時期に影響を受けるから」
吉田の言葉は七〇年代から八〇年代にかけて起こった、アメリカ経済学界の地殻変動といってもいいような大きな変化を前提にしている。七〇年代のアメリカ経済学界は、いわば戦国時代の様相を呈していた。
厳しい批判を受けたのが、それまで主流だったケインズ経済学だった。インフレーションが加速し、さらにインフレ、不況、高失業率が同時に起こるスタグフレーションが生じるなか、政府が有効需要を管理することで失業やインフレを是正する、という考え方を否定するグループが経済学界のなかに台頭してきた。
低金利がインフレを招いたとする「マネタリスト」は金利政策ではなく、貨幣を安定的に供給することが重要だと説いた。人々の将来予想を織り込んだ経済学を標梼した「合理的期待形成学派(ごうりてききたいけいせいがくは)」は、人々が合理的に将来を予想すればケインズ的政策は効果がないと主張した。
反ケインズの潮流のなかで、需要側ではなく供給側を重視した政策を唱えるグループも出てきた。「サプライサイドの経済学」である。レーガン大統領の掲げる「小さな政府」路線を理論面から支える主役はサプライサイダーたちだった。
古い経済学の再登場
極端な減税政策を柱に据え、「小さな政府」路線をレーガン大統領が突き進んだ背景には、国家衰退への危機感を抱く指導者層に、六〇年代以降の福祉政策拡大に不満をつのらせる中間層が呼応するという、大きな政治的流れがあった。
六一年に大統領に就任したケネディはケインズ政策を採用した。ケネディ暗殺後に副大統領から大統領に就任したジョンソンは「偉大なる社会」政策で福祉施策を拡大する一方、泥沼化するベトナム戦争に本格介入していく。結果として、六〇年代後半からインフレーションが進むとともに失業問題が深刻化し、アメリカ経済はスタグフレーションに陥った。
こうしたなかで、政府が財政金融政策を行って経済をコントロールするという考え方そのものが批判にさらされるようになった。とりわけ攻撃の対象になったのは福祉政策である。そして、ケインズの登場で否定されたはずの古い経済学、つまり市場機構の活用を重要視する自由放任の経済思想を下敷きにした経済学が、装いを新たに再び登場してきた。
これが先述した反ケインズ経済学の動きだ。つまり、経済学界の動きと連動しながら現実の政治潮流はつくられていくのである。これら「新しい」経済学を掲げる経済学者やジャーナリストたちは、「専門家」の立場からレーガノミックスの正当性を保証する役割を担うことになる。
●流行のエイベルに飛びつく
竹中は初めてのアメリカ滞在で、政治=レーガノミックス、経済学=反ケインジアンの流行、の両面から影響を受けることになる。
設備投資の研究をしていた竹中が行き着いたのは当時ハーバード大学の新進気鋭の経済学者だったアンドリュー・エイベルだった。エイベルは「合理的期待形成」の考えを設備投資の研究に導入して注目されていた。
「合理的期待形成」というのは経済活動を行う人々の将来に対する見通しのことなのだが、経済学のなかでは独特の意味をもつ。
まず、人は「合理的な経済人」であるという前提を置く。自らの行動が市場にどのような影響を与えるかを予測し、そのうえで現在の行動を決める。各人が経済の構造について完全な知識をもち、市場価格がどのような確率分布をするのかまで計算できるという前提に立っている。
もちろんそのような「人」は実在しないが、この前提を置くと整然とした理論を構築できる。合理的期待形成のこのような考え方を受け入れると、結果として、政府が介入しないで市場機横にすべてを委ねておけば、もっとも効率的な資源配分が達成されるという結論が導き出されてくる。
ところで、なぜエイベルが注目されていたかというと、当時のアメリカ経済の最大の問題が生産性の低迷だったからだ。「生産性のパズル」と呼ばれ、根本的にアメリカは活力を失ってしまったのではないか、という危機感の温床となっていた。生産性の低迷を解消するという大義名分を掲げて登場してきたのが、サプライサイド経済学である。
生産者側の供給能力を強化する点に焦点を絞ると、設備投資の活性化というテーマが浮上する。レーガノミックスの減税政策のねらいのひとつも設備投資の振興にあった。エイベルはそうした設備投資をめぐる専門家の議論の中心にいたのである。
この時期、アメリカの経済学界では毎月「合理的期待形成」の考えに基づいた論文が量産されていた。こうした流行のなかで設億投資研究の「最先端」を探れば、自ずからエイベルに突き当たる状況にあったわけだ。
エイベルを機縁にして、竹中は共同研究のパートナーに鈴木和志(すずきかずし)を得る。
竹中の二年先輩にあたる開銀の研究者だ。同じ時期に客員研究員としてペンシルバニア大学に在籍していた。のちに詳しく述べるが、鈴木は竹中が経済研究者として世に出るために欠かせない人物だった。
二人は留学前にいっしょに論文を仕上げた仲だった。鈴木が竹中にエイベルの話をすると、竹中は会ったことがあるという。それならいっしょに勉強しようということになり、二人は連れ立ってハーバード大学のエイベルのもとを訪れた。
開銀では研究員として留学した場合は一年間で帰国するのが原則だったが、竹中は人事部にかけあって期間を延長してもらい、ハーバードからペンシルバニア大学に移って、鈴木といっしょにエイベルの投資理論の研究をした。
●アメリカ留学の成果
小川一夫(おがわかずお)現大阪大学教授はこのころ、ペンシルバニア大学の博士課程に在籍しており、竹中や鈴木とは大学内で会うと話をする間柄だった。大学の大型計算機の前に座って作業をする二人をしばしば見かけたという。
「鈴木さんと竹中さんは、日本からデータを取り寄せて、アメリカで計算していました。計量経済学ではそんなにむずかしい作業ではないですけど、最初に日本に適用したからてこずったとはおもいます。計量とかデータのハンドリングは鈴木さんのほうがやっていたとおもいます。竹中さんはその結果から何がいえるのか考えるのが得意なんです」
鈴木と竹中は本格的なエイベル研究に入る前、日本の新聞でエイベルを紹介している。日本経済新聞の八二年二月二日付「経済教室」である。当時開銀にいたエコノミストが事情を説明する。
「開銀に連絡してきたのは鈴木さんでした。ほかの人が先に紹介してしまったら困るから、とにかく早く発表したい。そう鈴木さんがいってきたので、研究員たちが協力して日経新聞にかけあい、掲載が実現したのです」
その後、鈴木と竹中はエイベルの研究論文を八二年七月、設備投資研究所が発行する『経済経営研究』で発表した。「税制と設備投資-調整費用・合理的期待形成を含む投資関数による推定」という論文だ。
ペンシルバニア大学にいた小川によると、当初二人はアメリカの定評ある学術専門誌に論文を掲載したいという希望をもっていたという。アメリカには、論文が掲載されると業績としてカウントされる権威ある学術専門誌がある。できればそうした専門誌に発表したかったのだろう。
しかし二人の研究はすでにアメリカでは知られているエイベルの理論に基づいているので、結局、二人はあきらめたという。アメリカではエイベル自身が論文を発表して評価を得ているわけだから紹介する意味はない。
だが日本では事情は異なる。エイベル型投資関数に関する論文は、設備投資を研究する研究者に注目されたという。「この論文が、竹中さんたちのアメリカでの研究の成果ということになるでしょう」と小川は評した。こいつらか、学者のための学問を持ち込んじまった犯人は・・・エイベルですかそうですか
日本に合うかっての・・・つーか、合うように作り変えたいの?
吉田は竹中といろいろな議論をしたというが、竹中の処女作には吉田のほかに指導教授的な役割を果たした人物がいた。竹中がペンシルバニア大学で知り合った経済学者の小川一夫である。小川はペンシルバニア大学で博士号を取得して帰国し、当時は神戸大学に在籍していた。竹中は月に一、二度の頻度で東京から神戸まで出向き、論文の手直しなどを手伝ってもらっていた。小川が説明した。
「開銀(かいぎん)にいたときに書いたものをまとめて本にしたいということでした。その本で学位を獲りたいということだったのだろうとおもいます。竹中さんは大学院に行っていなかったから博士号を獲りたかったのだとおもいますよ」
小川に送られてくる論文はワープロ書きではなく、竹中が手書きで書いたものだった。おそらく忙しい仕事のあいまを縫って書き継いでいたのだろう。本を完成させる作業のなかで竹中ほ研究者としての自信を得たのではないか、と小川はいう。竹中が小川にこういったからだ。
「設備投資の状況をみながら景気の判断ができるようになったよ」 じつは、竹中の著作が刊行されたとき、開銀の研究関係者たちは一様に驚いた。というのも、開銀時代の論文がベースになっていたにもかかわらず、竹中が開銀側に出版の話を事前にはいっさい明かさなかったからだ。そして、竹中の著書が引き起こしたある事件が瞬く間に設備投資研究所内に波紋を広げた。
●問題の処女作
事件の一部始終を知ることになった経済学者がいた。宇沢弘文(うざわこうぶん、ひろふみ)である。宇沢は日本を代表する経済学者である。
スタンフォード大学、シカゴ大学などに在籍して数々の研究業績を挙げ、若くして世界にその名を知られるようになった。宇沢が主宰するワークショップにほのちにノーベル経済学賞を受賞するジョセフ・スティグリッツなど、気鋭の若手学者がアメリカ全土から参集したという。
アメリカから帰国した後、宇沢は東京大学で教鞭をとるかたわら、設備投資研究所の顧問として開銀の研究者たちを指導していたのだった。竹中の処女作出版をめぐる事件の顛末を聞くため、私は東京・渋谷区の閑静な住宅街にある宇沢の自宅を訪ねた。
「ぼくは初代の所長だった下村治(しもむらおさむ)さんとよく話をしたんですけれども、設備投資研究所はリベラルな雰囲気をつくってやっていこうということで運営していたんです。竹中君の一件はそれを傷つけちゃったようなところがあってね。それまではリベラルな雰囲気でみんなでいっしょにやっていたんだけれども……ものすごいダメージを与えるんですよ、ああいうことは」
じつのところ、事件の顛末を詳しく聞くことはかなわなかった。宇沢が私にきっぱりとこういったからである。
「わざわざきていただいて悪いんだけれども、彼の一件についてはもう話もしたくない、というのがぼくの率直な気持ちです」
なにが起きたのか。当時の関係者の話から浮かび上がってきた事実を記してみたい。
竹中の処女作『研究開発と設備投資の経済学1経済活力を支えるメカニズム』が東洋経済新報社から出版されたのは八四年七月だった。宇沢のもとにも竹中から献本が届けられた。
「竹中君がこんな本を送ってくれたよ」
設備投資研究所で、宇沢はそういって鈴木和志に本を見せた。鈴木との共同研究が入っていたからだ。ところが鈴木は本を見て驚いたような顔をしている。不審におもって宇沢がたずねると、鈴木には献本はなく、竹中の出版を鈴木はまったく知らなかった。鈴木が激しいショックを受けたことは傍目にもわかった。宇沢や同僚たちのいる前で泣き出してしまったのである。
じつは、竹中は本を出版するかなり以前に鈴木のもとを訪れていた。共同研究の成果を竹中の名前で発表することの承諾を求めたのである。鈴木は拒否した。
「二人で研究したのだから、発表するなら二人の名前で発表してほしい」
鈴木は竹中にそういった。結局、話し合いがつかず二人は別れた。鈴木はこのあと竹中から何も知らされず、しかも突然出版された本には、承諾しなかった共同研究の成果が収められていた。
鈴木にとってもアメリカでの研究生活の集大成だった論文だ。
悔しさのあまり涙を流したのだろう。
●共同研究を独り占め
竹中と鈴木の二人が共同研究論文を発表した経緯は前に述べたとおりである。竹中の本が出版される二年前、設備投資研究所発行の『経済経営研究』で発表した「税制と設備投資」と題する論文が二人の共同研究だった。
エイベルの投資理論を日本経済に適用した実証研究は、竹中の処女作の価値を高める重要な論考だった。そこには「税制と設備投資」で行った実証研究の結果が引用されている。ペンシルバニア大学で二人の作業を見ていた小川の証言では「データのハンドリングは鈴木さんのほうがやっていた」ということだから、実証研究では鈴木が主導していたことになる。
ところが、鈴木との共同研究に基づくものであるということは、巧妙ともおもえるやり方でぼかされていたのである。
「あとがき」のなかで本の内容のもとになった初出論文を竹中は列挙しているのだが、鈴木との研究についてはなぜか日経新聞八二年二月二日付「経済教室」を挙げている。
先述したように、早くエイベルを紹介しておくために書いたいわば紹介記事といってもいいものだ。二人が本格的なエイベル論文を書くのはその後である。
ささいなことにおもえるかもしれないが、鈴木にとっては非常に重要な記述である。日経記事が二人の共同研究だとすれば、一般の読者は、竹中がその後ひとりでエイベル理論の研究を深めたと解釈するだろうからだ。
一方、肝心の鈴木との論文「税制と設備投資」を、竹中は数多く列挙した参考文献のなかに入れてしまっている。鈴木との共同研究に関しては、本格的な論文のほうは参考文献にすぎず、本のベースにしたのは新聞記事だと竹中はいっているわけだ。
鈴木が共同論文の成果を竹中単独の著作のなかに入れることを拒んでいたことを考えると、竹中が考え出した巧妙な仕掛けだといわれても仕方がないだろう。
現在明治大学教授となっている鈴木と電話で話をすると、「あまり思い出したくないことなので」と言葉少なだった。本が出版されて以降、竹中とはまったくつきあいはなくなったという。本の内容についてたずねようとすると、「みたくないからみていません」とだけ鈴木はいった。
●開銀の成果も個人の成果に
「鈴木さんとなにかあったみたいだけど大丈夫なのか」
出版直後、鈴木とトラブルが起きていると耳にした開銀の同僚が心配して竹中にたずねると、彼はこう答えたという。
「鈴木さんのところはちゃんと切り分けてやったよ。だから大丈夫だよ」
じつは竹中の処女作を見て驚いたのは鈴木だけではなかった。開銀の後輩研究者だった高橋伸彰(たかはしのぶあき)は、自分が作成したはずのグラフが竹中の本のなかに掲載されているのを発見して驚いた。
開銀の定期刊行物『調査』で発表した論文のなかで作成したグラフだ。縦軸に設備の年齢(新旧)をあらわす「ヴィンテージ」、横軸に「投資率」をとって描かれた曲線は設備の新しさと投資率の関係を示す重要なグラフだった。竹中の著作ではグラフの下に小さな字で「各年のヴィンテージは日本開発銀行推計」と書いてあるが高橋の名前はない。これでは竹中が独自に作成したグラフだと読者が勘違いしても無理はない。現在立命館大学で教鞭をとっている高橋は研究室でこう話した。
「最初見たときはびっくりしましたよ。しょうがないなあとはおもったけど、竹中さんにはいってません。そのことよりぼくが不思議におもったのは、あの本が設備投資研究所の成果、特に石油ショック以降の研究を集大成した内容だったことです。だから個人名の著作として出版されたことに違和感をもった」
開銀研究者には隠すように、しかも鈴木とのあいだで問題が起きることは目に見えているのに、なぜ竹中は本の出版を強行したのだろうか。
●サントリー学芸賞受賞
竹中の処女作出版に尽力した人物がいる。開銀の上司だった佐貫利雄(さぬきとしお)である。佐貫は、自分の担当編集者だった先述の渡邉昭彦(わたなべあきひこ)を竹中に紹介したのだ。
佐貫が日ごろから竹中に繰り返し言っていたことがある。
「単著を書け。共著を書いても意味がないぞ」
単著とは単独での著作物のことである。経済学では共同論文は珍しくないが、その際は執筆者は複数になる。これが共著である。アカデミズムに認められて学者に転身するためには、まず単著を書いて博士号を取得することが必要だと佐貫は説いていた。実際に佐貫が実行した方法でもある。共著では博士論文として提出するときに支障があるし、業績として申告する場合にも単著よりはるかに価値が下がるからだ。
竹中の執筆に協力した小川は、竹中には博士号を獲る意図があったのだろうと証言していた。竹中が単著にこだわったのもそのためだろう。出版された時期は、ちょうど当初の大蔵省出向期限が切れる間際だった。竹中としても背水の陣をしいた賭けだったのだろう。担当編集者だった渡邉はこんな感想をもらした。
「大学院を出てなくても開銀では排除されても、単行本でなら勝負できると感じて実際に勝負したんだとおもうよ」
竹中の処女作『研究開発と設備投資の経済学』は一九八四年度のサントリー学芸賞を受賞した。選考委員の森口親司(もりぐちしんじ)・京都大学教授(当時)の選評には
「著者は以前に日本開発銀行設備投資研究所につとめていただけに、研究上の有利さがあった」との記述がある。
大蔵省に出向して事務仕事で長富(ながとみ)の信頼を得た竹中は出版賞を受賞したことで、研究者としても存在感を示すことができるようになったのである。(以下次号、文中敬称略)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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