私は、どうしても、ここの「建設中の第2ぼやき」に、書いておきたいことがあった。 このことを書いて公表すべきかと
三日間、考えたが、やはり、書いておく。 チャンドラ・ボースと、インド独立運動の英雄たちの霊に報いるためにである。
有末精三(ありすえせいぞう)という陸軍中将にまでなった軍人がいた。
彼が、チャンドラ・ボースが、台北(たいぺい)から、東京に飛行機で撤退する時に、飛行機を計画的に事故を起こさせて、離陸したばかりの飛行機を爆破して、そして、ボースを死なせて
いる。いや、殺したのだ。
ボースは、敗戦につぐ敗戦の日本軍と日本政府を、見限って、
今度は、ソビエト・ロシアを頼って、ソビエトに、向かおうとしていた。そして、ボースは、イギリスからのインド独立運動を、インド民族の悲願を達成し、継続させようと、彼は、意気揚々(いきようよう)としていたのです。
有末精三中将は、すでに、このとき、アメリカがわと内通していた。そして、日本とドイツが、敗戦したあとの、戦後世界体制がどのようになるかを、冷酷に、教えられていた。 米内光正(よないみつまさ)海軍大臣の海軍だけでなく、陸軍の情報部の中にも、フィリピンのマニラの師団本部を中心に、すでにアメリカのスパイになって動いていた軍人たちがいたのである。
「チャンドラ・ボースの役割は、終わった。ボースを消せ」 これ以上、この男を、自由に動かさせるな。戦後世界体制にとっての障害要因である。 そのように、アメリカとイギリスは考えた。いや、ロックフェラー一族は考えた。
副島隆彦が、見抜く、真実は、以下のとおりに、証拠の文章を並べて証明される。私、副島隆彦には、鬼神(きしん)が乗り移っているのである。一切の真実を表に出そうとする、副島隆彦を甘く見るな。
のちに、戦後になって、チャンドラ・ボースの実兄たちが、独立後の民族の指導者(ただし、今でも非公式)となった、チャンドラ・ボースの死を、台湾まで、調査にやってきて、そして実兄のスレス・ボースは、「私の兄は、死んではいない」 と言い張った。不思議な言葉だ。
真実は、おそらく、「私の兄は、殺されたのだ。日本軍に、口封じで殺されたのだ。 事故ではない」と、この実兄は喚(わめ)いたはずなのだ。 以下の証言の中の、チャンドラ・ボースの間近(まじか)にいた、世話係(連絡将校、リエゾン・オフィサー)でもあった、特務機関員だった将校の表現では「それで、周囲が困惑した」 となっている。ここでは、こういう不可思議な表現に変更されている。
副島隆彦は、本当のことを書く。今の日本の言論界の情勢に、差しさわりがあろうが無かろうが、そんなことは、構わない。私には、多くの英霊の御霊(みたま)が、乗り移っているのである。 私こそは、「欧米列強の植民地として隷属していたアジア諸民族の、解放、独立 のために日本人の聖戦 」 を、今こそ、誰よりも、強力に、頑強に唱える人間だからだ。
日本民族主義を名乗り、愛国者を名乗った、その実、アメリカの手先どもが、腰砕けになった、今こそ、私たちのような本物の人間たちが、歴史の舞台にせり上がってゆく。
この「建設中で、まだ工事中の第2ぼやき」にだからこそ、こっそり(でもないか)と走り書きで、書いておきます。私が斃(たお)れたら、私の屍を乗り越えて、私が掲げた灯(トーチ)と拾い上げて、また真実の灯をともし続けてください。
有末は、以下の「経歴」 にあるとおり、1941年からは、北支(ほくし)方面軍参謀副長 であり、インパール作戦の際は、光(ひかり)機関という陸軍特務機関の幹部である。
そして、戦後は、なんと、「有末機関ありすえきかん)」という有名な世界反共スパイ戦争のためのCIA(元は、OSS)の附属機関となって、長く暗躍している。
もう、そろそろばれることはあるまい、誰にも露見すまい、もう誰も大きな真実を見抜く者はおるまいと、たかをくくって、いいかと思って、1987年に、『終戦秘史有末機関長の手記』(芙蓉書房出版刊) を書いている。犯罪者は、犯行現場に、運命にひきづられるようにして戻ってくるものなのだ。
さて、そこでだ。ここで佐藤勝(さとうまさる)氏の文章が出てくる。 なぜ私が、急に有末精三に注目したか。
それは、「国家の罠(わな)」「国策捜査(こくさくそうさ)」で、今をときめく、本当は世の中の表には出てきていけない、現代の日本外務省の情報将校である佐藤勝(さとうまさる)氏が、外務省の欧亜局長だった東郷茂徳(しげのり)のお孫さんの失脚劇で、政治家の鈴木宗雄(すずきむねお)氏と共に、「日本外交におけるロシア派」として、「中国を挟み撃ちにするための人材」として育てられたはずなのだが、ひょんなことから、・・・で表に出てきてしまった。イスラエルのロシア研究学者の博士との付き合いをアメリカの情報機関に暴かれた。
その佐藤勝氏が、有末精三氏を、今度の例の、「アメリカの日本改造計画」(イースト・プレス刊、関岡英之と編集部編) で、褒(ほ)めちぎっている。この本には、私もインタヴューで出ている。この本から引用する。
(引用はじめ)
「日本がポツダム宣言を受諾したとき、参謀本部第一部の連中は、みんな逃げてしまったんです。そのとき、参謀本部第二部の長は、有末精三という人でした。・・・・・・・有末は、まず先遣隊(せんけんたい)をマニラに送ります。
マニラからの情報で、マッカーサーは厚木空港(神奈川県)に降りるつもりだと判明する。それを知って有末は、アメリカ側が日本の内情を正確に把握していると悟るんです。・・・・・
・・そこで、(有末は)厚木の将校宿舎の水洗トイレが壊れて汚れているというのです。修理するんです。宿舎をきれいにしておいて、アメリカの先遣隊が降り立つ日には、都内のホテルからビールやサンドイッチ調達して、給仕たちをスタンバイさせておくわけです。・・・・・・ (P46)
佐藤 アメリカは次第に有末の能力に対して脅威を感じるようになりました。日本に警察予備隊(現在の自衛隊)をつくらせたときに、アメリカは情報部門を認めませんでしたが、有末と彼の部下たちには莫大(ばくだい)な資金を渡して「有末機関」という組織を作らせ、反共活動に特化させたんです。・・・
(P48)
「アメリカの日本改造計画」(イースト・プレス刊)
(引用終わり)
副島隆彦です。 有末精三という軍人は、敗戦後、慟哭(どうこく)しながら、自分の同僚だった将軍たちの罪状を米軍と占領政府の検察官に、洗いざらいずべてしゃべった、“裏切り者”田中隆吉(たなかりゅうきち)中将たちとは違って、ケロリとして、特殊で、特別な待遇を受けている。
マッカーサーが、厚木から横浜まで、凱旋行進をしたときに、ずっと沿道に、日本人を並べ、うちひしがれで、やせ衰えた、生き残り日本人の老人、女、子供たちに、アメリカ国旗の小旗を準備して、振らせたのは、この有末精三と、このあと政治家になった橋本龍伍(はしもとりょうご、橋本龍太郎の父親)であった。
副島隆彦の眼力にかかったら、大きな真実が、露見する。 有末精三が、チェンドラ・ボースを、東京の終戦処理のための最高人材たち(大蔵省なら、渡邊武、わたなべたけし)らと計画して、葬ったのだ。
以下の証言の類を、じっくり読めば、すべての謎が、解けるのである。 有末だけは、なぜか、チャンドラ・ボースと書かずに、「ポース」と書いている。
(転載貼り付けはじめ)
昭和三十五年五月七日 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行『ネタージ(民族の指導者、という意味)』 から
「 スバス・チャンドラ・ポース先生」
元陸軍中将 有末 精三(ありすえせいぞう)
私が日本陸軍大本営第二部長として着任したのは、一九四二年七月であった。
その頃の戦勢ではドイツ軍と日本軍が、印度洋(いんどよう) で握手しようというような意気込みで、したがってインド革命解放の志土スバス・チャンドラ・ポース氏を、是非(ぜひ) 東亜(とうあ) に迎えたい希望が切実であった。
同氏は当時ドイツにおられた。 私は一九四三年二月シンガポールに行き、ラス・ビハリー・ボース先生(インド独立の志士で日本に亡命後もこの運動に生涯を棒げられた)に逢い、是非とも、スバス・チャンドラ・ポース先生を迎えたいというインド人全部と、さらに目本軍関係者(光機関)の希望をまとめて帰京した。
その後ドイソ側や海軍側とも交渉してようやくそれが実現、同年初夏の候、はるばるドイッの潜水艦でアフリカ沖を回って、インド洋で日本の潜水艦に乗り移って東京にこられた。
その時私は、初めて先生の馨咳(せいがい)に接した。その上品な温容、そして烈烈たる気塊、初対面ですっかりその人格に敬服してしまった。当時の参謀総長杉山(すぎやま)元師や首相東条(とうじょう)大将等も、たしかに先生に逢われてからの感想は、私のそれと似かよったものが多かったとうけたまわりました。
その時に私の印象に残っていることが二つある。
第一に、この日の戦争の勝敗についての感想を聞いた。もちろん日本側が勝つとの判断であったが、その理由は日本に人が多いということ、つまりマンパワー、人の質と量に非常な期待をかけておられたことである。
その説明に「人」が総てを決定する要素であり、さすが革命、民族独立運動に一生を棒げておられる先生の信念の程を察して、言い知れぬ感激に打たれた。
第二は、その祈、ラス・ビハリ・ボース氏と杉山元師、田辺(たなべ)参謀次長と私の五人が星ケ丘茶寮(ほしがおかさりょう) での会食の時の印象である。
もともとラス・ビハリ・ボース先生は相当の年長者であり、ことに日本におけるインド独立運動の先覚者であり、そのうえこの度の光機関関係のインド側の代表者でもあった。その上にスバス・チャンドラ・ポース先生を迎えるので、我々関係者の間に、このお二人の間がいかがかと密かに心配していたのだった。
したがって、この会席の席次等も十分留意して、円卓にしつらえた程であった。しかるにお二人ともよく打ち解けて、お互いに肩のこらない相互の尊敬で、いかにも和やかに、しかも紳士的なよい会食で終った。
終ってから立ち上がるとき、スバス・チャンドラ・ボース先生はビハリ・ボース先生の手をとって立ち上がらせ、その上きわめて自然にその外套を着せて上げられた。この光景を見て、私は本当に同志として大望を抱き、共に闘われる御兄弟のように感じ、その好い印象は今もってわすれることができない。
思えば一九四五年夏、スバス・チャンドラ・ボース先生は、雄図(ゆうと)半ばにして台湾上空での飛行機事散で亡くなられた。しかもその時はインド独立どころか、友邦日本が敗戦の憂き目に呻吟(しんぎん)しておったので、さぞや無念にこの世を去られたことであったろう。
あれから十五年、その問に祖国インドは独立を勝ち得、友邦日本も漸次(ぜんじ)復興の途を辿っている。先生の霊もいささか慰められるのではないかと思われる。
(昭和三十五年五月七日 スバス・チャンドラ。ボース・アカデミー発行『ネタージ』より)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。次に、有末精三の軍人としての経歴を簡単に示しておく。
(転載貼り付け始め)
有末精三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア』(Wikipedia)
有末精三(ありすえせいぞう、1895年5月22日 - 1992年2月14日)は、 旧日本陸軍軍人(陸軍中将)である。弟の有末次は陸軍中将、有末四郎は陸軍軍医大尉。妻は村田信乃陸軍中将の娘。北海道出身。
二・二六事件以後の軍内部でのいわば下克上の風潮が強まる中、参謀本部軍務課長時代に、阿部内閣の実質的成立者であったといわれる。 また終戦に際し、GHQとの交渉に携わり占領政策の円滑化を図る。
経歴
• 陸軍士官学校29期恩賜の軍刀拝受
• 陸軍大学校36期恩賜の軍刀拝受
• 1941年(昭和16年)3月 北支方面軍参謀副長
• 1941年(昭和16年)10月 少将
• 1942年(昭和17年)8月 参謀本部第2部長
• 1945年(昭和20年)3月 中将
• 1945年(昭和20年)8月 対連合軍陸軍連絡委員長
• 1987年、『終戦秘史有末機関長の手記』芙蓉書房出版 ISBN 4829500093
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。ここから、先は、チャンドラ・ボースを慕(し)って、その死後も、彼の思い出と、霊を祀(まつ)り続けている、篤実(とくじつ)の、身近に接した人々の文である。しかし、ひとりは、有末の部下だった、特務機関員の陸軍将校である。
ダイエーの社長で、本当に偉かった、あの中内功(なかうちいさお)は、インパール作戦の、白骨(はっこつ)街道を命からがら、折り重なる日本兵たちの死骸と、骨の上を踏みしだきながら、逃げ延びて、本当に少数だけ生き延びた、下級の日本兵のひとりである。
私、副島隆彦には、あそこで、大きく幾重にも騙(だま)されて、無念に死んでいった、日本兵、すなわち日本民衆の霊が乗り移っている。 だから、彼らの魂が、私にこうして、真実を書かせる。
当時、「援蒋(えんしょう、蒋介石支援)ルート」切断のための、昭和天皇の最後の必死の聖断で開始された、インパール作戦の時期だ。日本軍は、ビルマ各都市から、さらには今のバングラデッシュの都市にまで、攻め込み、チャンドラ・ボーズの率いたインド国民軍(INA)と共に、大英インド帝国にまで、攻め込んで、イギリス軍と正面から、今にも激突しそうになっていた。
インド国民は、イギリスの殖民地支配から解放されることを渇望していた。チャンドラ・ボースは、インド民衆の希望の星だった。しかし、カンジーは、自分がかわいがったボーズを、甘い考えだと、冷静に世界規模(世界歴史規模)の頭脳で考えていた。
チャンドラ・ボースを、シンガポールで設立した、仮のインド政府の大統領(首班)とする、インド国民軍(INA)の約2万人の兵隊が、東南アジア各国から、集まり、義勇兵として組織されていた。そして、アンダマン諸島と、セイロン島までは日本海軍が、制海権を握っていたので、進軍した。
あの憎き、支配者イギリス軍とインド民衆の、いきり立つ、民族独立の、地の叫びに、ボースは、応えようとしていた。 チャンドラ・ボースは、カルカッタ市長になり、インド国民議会の議長になり、ガンジーのそばに居て、ガンジーには決して、逆らったことは無く、後継者としての地位を得ていた独立運動の英雄だった。
ガンジーは、武力による独立運動は、しなかった。だから偉い。絶対的に偉い。しかし、当時のインド民衆は、イギリスの酷薄(ごくはく)な植民地支配にいきりたっていた。
(転載貼り付け始め)
平成7年8月18日
「 ネタジ (チャンドラ・ボースへの、今でもインドで使われている指導者という尊称。副島隆彦注記) の50年祭にあたって」
はじめに
ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー 事務長 林 正夫(はやしまさお)
1995年8月18日
指導者という意味の「ネタジ」と尊称されたインド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースに関する本は数多く出版されている。
しかしその大部分は、ボースがインド独立に向って活躍した輝かしい時代を扱い、終戦直後に台北の松山空港で起きた悲しむべき飛行機しこにより悲惨な最後を遂げてからのことは述べられていない。臨終のことを書いた文章に、ボースがカレーライスを食べた等、とんでもないことがかかれていることもあった。
事故後、台湾の日本軍司令部から東京の参謀本部へ、そしてインド独立連盟のラマ・ムルティ氏たちに手渡された遺骨は、敗戦直後の複雑な世相に恐れをなしたため、お寺からも収容を拒否されたが、杉並の蓮光寺の先代住職望月教栄(もちづきすうえい)師に命懸けで預かっていただいたまま、今日に至っている。
日本と共に戦い、しかも戦局が破綻する最後まで、その固い信念を変えることなく、われわれと行動を共にしたネタジの遺骨はいまだに祖国に還えることなく50年が経過したのである。
昭和31年に、インド国民軍(INA)の第一師団長だったシャ・ヌワーズ・カーン氏を団長に、アンダマン・ニコバルの司政官を務めたマリク氏、ネタジの実兄スレス・ボース氏を委員とする第一死因調査団が来日した。
調査団はわざわざ台湾に飛び、さらに事故当時治療の指揮をとった吉見胤義(よしみたねよし)軍医以下、必死になって看護にあたった人たちにも会い、真相の解明に努力下した結果、スバス・チャンドラ・ボースの死を認めたのであった。特に団長は「帰国したら飛行機か巡洋艦でご遺骨をお迎えに来ます」といって、関係者を喜ばせたのである。
しかしこの調査団を羽田空港に見送りに行ったその日、岩畔豪雄(いわくろひでお)氏と私に向い、実兄のスレス氏が、急に 「ネタジは死んでいない」 と言い出したのには唖然とするほかはなかった。怒ったシャ・ヌワーズ・カーン団長とマリク氏は我々に別れを告げ、先に階段を降りていったが、スレス氏は飛行機の出発時間ぎりぎりまで、ひとり残り「死んでいない」と言い張っていた。
こうした実兄の発言は肉親の情や複雑なインド国内事情を反映したものなのだろう。その後、第二、第三の調査団が派遣されてきたが、結局結論の出ないままであり、ネタジのご遺骨返還の吉報を待つ我々の来たいは薄れていったのである。
偉大なネタジを知る同士が相い集まりスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーが結集されてからも 40数年賀すぎさっている。創立以来、アカデミーでは遺骨変換を願って日印両国に手を尽くしてきた。特に第二代会長江守喜久子(えもりきくこ)女史は、熱意と真心からわざわざインドに渡る努力のされたが目的を達成することができなかった。
第三代の会長片倉衷(かたくらあい)氏も同様に努力されていたが、平成3年に逝去された。94歳の高齢であった。他のメンバーもほとんど高齢者ばかりである。蓮光寺とアカデミーのかたい絆により、毎年ボースの誕生日会と命日に慰霊祭を行ってきた。
世の中の移り変わりと共にチャンドラ・ボースの名前を知らない人が多く、「中村屋のボース」と言われた同姓のラス・ベハリ・ボースと混同されている方も少なくない。 ネタジの死後15年にあたり、たまたま江守喜久子女史の次女松島和子(まつしまかずこ) さんから、母堂のご遺志を継ぎボースの永代供養をという申し出をいただき、蓮光寺の住職望月康史 師のご了解を得て、平成2年境内にネタジの胸像が建立された。
さらに松島さんのご厚意により永代供養を行うにあたり、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースを知らない人々に、インド独立にかけたネタジの生涯を紹介するとともに、多くはアカデミーに参集したネタジに関わった日本人の記録を 「ネタジと日本人」と題して残すことができた。
その後五年を経て、蓮光寺に寄贈した本も慰霊祭に参加した多くの人々に渡りなくなったので、ネタジの50回忌を終るにあたり、再び松島さんから「改訂増補版」を新たに差作成して蓮光寺に寄贈したいとの有難い申し出があり、戦後50年の記念として新たな編集企画をインド国民軍の指導将校であった縁で村田克巳(むらたかつみ)氏に依嘱して作製することにした。
ネタジの霊の安らかならんことを祈り、日本とインド両国の友好のきずなとなれば幸いである。
平成7年8月18日
ネタジの50年祭にあたって
ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー
事務長 林 正夫
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。ここからが、「光(ひかり)機関」という 日本陸軍ビルマ派遣軍の将校だった北部邦雄(ほくぶ、あるいは、きたべ、 くにお)の証言である。
(転載貼り付け始め)
「 ポースさんに対する思い出」
元陸軍大佐・光機関ビルマ支郡長
北部 邦雄 (きたべくにお)
ボース氏がドイツから潜行して、初めてラングーンにこられたその日、飛行場から私の宿舎に午後一時やって来られて、初めてお会いしました。
当峙私の機関にはたくさんのインド人が協力していたが、ボースさんは「そのインド人はただ今から全部私の指揮下に入れるから承知してもらいたい」と一言われた。
私はそこで「もちろん結構ですが、ポースさんは今来られたばかりで、まだインド側の組織や機構は何も出来ていないから、そういうものが整備するに従って、逐次インド側に渡すことにしましょう」 と言うと、ボースさんは 「否(いや)、ただちに渡してもらいたい」 と言われる。
私は「そんなことをすると一時私の方でやっている情報の蒐集(しゅうしゅう) その他の仕事がある期間ストップするから困る」 というようなことで、午後一時頃から夕食もせず、七、八時問も話をしたが、お互いに自説を主張して結論を得なかったが、ボースさんの熱心なことと、自説を固守する意思の鞏固なことには感心をした。
午後九時頃になって、「タ食を共にしたいと思うが何を食べますか」と聞くと、「すき焼きをご馳走になりたい」 と言われた。ポースさんはインド教徒であるから牛肉は禁物の筈であるのにと、心中(しんちゅう)吃驚(きっきょう)したのであったが、これはボースさんがインド人に、インド独立のためには宗教を超越してインド教徒や回教徒が一致団結する必要があることを、実行において示しておられるのだと感心をさせられた。
ボースさんがインド人を集めて反英とインド独立を説かれる会場にしばしば同行した。ボースさんはインド人に向って「力のある人問は力を、金のある人間は金を、知識のある人は知力を出して英国と戦え」と、実に名調子の熱弁であった。
わずか二、三十分にして全聴衆に催眠術にでもかかったような感動を与え、あるインド夫人のごときは、自分の身につけていた指輪、ネックレス、イヤリングという風に、全部の宝石類を机の上に置いていった。全く数十分の演説で、人を裸にするようなこんな名演説家は見たことがない。
(昭和三十五年五月七日 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー登行『ネタージ』より)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。以上の、陸軍特務機関将校の証言に、真実が透けて見える。先ほどの、林正夫氏と、以下のご婦人らは、本当にチャンドラ・ボースの霊を守り続けていた人たちだろう。
(転載貼り付け始め)
「アカデミーと再度の訪印に際して」
1960年4月18日
江守喜久子(えもりきくこ)
不思議なご縁と申しましょうか、一介の主婦である私が「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」の副会長に推されて発足3年目を迎えて、再度インドを訪れることになりました。
私とインドとのつながりは、偶然といえば偶然、戦時中、明治神宮の鳥居のそばで、通りすがりの兵隊さんにお茶を接待したことがあります。このことは新聞にも度々出ましたが、当時、日本に身を寄せていた親日派の印度留学生たちと知り合ったのも、お茶の接待がきっかけでした。
彼等は何(いづ)れも印度の独立と祖国愛に燃えていたのですが、日本の敗戦とともにその夢も崩れ、連合軍の日本占領によって罪もないこれらの留学生たちが銃殺刑に処せられるという噂が広がりました。
私は驚いて、早速官庁に奔走し、嘆願運動を続け、印度留学生を家近くのアパートに収容してお世話をすることにしたのです。
45名の異国の青少年(16歳から23歳)(副島隆彦注記。インド独立後に、インド政府の枢要の人材として、日本が、属国の指導者たちとして育てようとして選抜して、東京に集めていたインド青年たち。帰国して、インドでも取り調べられたのちに、民族独立運動は正義の運動だから日本政府の意思に従ったことは不問に付された。副島隆彦注記終わり ) のお世話をするということは、食糧事情の困難な折とて、並大抵のことではありませんでした。
終戦となった日より、11月3日、彼等を印度に帰還させるまで、当時の苦しい社会情勢を考えると、よくもそれに耐えられたとわれながら驚くばかりです。民族を超えての人間愛というか、とにかく、この若人たちを救わなければならないという、一途の信念であったという気もいたします。
ボースさんの御遺骨が密かに東京のサハイ さんのお宅に運び込まれ、人知れず、ささやかな供養が営まれたのもそのころです。当時の情勢から私は供養に加わることは遠慮すべきであると思い、蔭(かげ)から先生の冥福(めいふく)を祈りました。ところが供養が終わってから、留学生たちは口々に 「おばさん、ネタージは僕たちの希望と光でした。どうかネタージの供養をつづけてやって下さい。お願いです」というのです。
印度の若い知識層は、ネタージ に対してどのような共感と尊敬を寄せていたか、この若き情熱には、切々と胸に迫るものがありました。以来、この印度の偉大な志士、ネタージの気高い魂の眠る蓮光寺への墓参と供養は、今日までつづけさせていただいております。
一昨年(1958年)の10月のこと、ネール首相の来日の時、留学生のダーサン という方と、ネタージの甥のアミヤナ・ボースさんが来られて、
「印度にはサラト・ボース・アカデミィという会があります。日本にもこれと同じ会が発足して、日印間の文化的結びつきができれば、こんな喜ばしいことはないのだが・・・」という懇請の意味の言葉がありました。
そこで私は、故人と特に関係の深かった渋沢敬三(しぶさわけいぞう)先生、大島浩(おおしまひろし)先生、河辺正三(かわべしょうぞう)先生、岩畔豪雄(いわくろひでお)先生方と御相談し、早速御同意を得て、ネタージの誕生日に当たる1月23日に「ネタージを偲(しの)ぶ会」 を催す運びとなったのであります。
50数名の方々とその席上での相談の結果、全員賛成、ここに「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」の発足を見るに至りました。
この会はネタージに縁故の深い方々の集まりで、ネタージの高潔な人格を通して、日印間の文化的、精神的な交流を来かめることを目的にしたものであります。
ささやかな会合で、まだ事業らしい事業もしていませんが、ネタージの御遺骨を国家管理に移すこと、身命を抛って祖国の独立のためにつくされたボース先生を思うとき、1日も早く先生があんなに愛された祖国の土に、御遺骨を埋めて差し上げたいと切に思わずにはいられません。
それから、8月18日の御命日には法事を営むこと、1月23日の誕生日に「ネタージを偲ぶ会」を催すこと、ネタージに関する資料を集めることなどに微力を尽くしています。
昨年、私はマミアナ・ボース氏の御招待を受け、会議出席後かつての留学生たちを訪問して、1カ月ばかり印度の各地を旅行しました。初めて接するカルカッタ、ボンベイ、ニューデリー、アジャンタ、タシマハール、プナの士官学校など一人旅の私を心から迎えてくれました。わけても若いころからの憧れであったアジャンタへの旅が、こうしたいきさつから実現しようとは想像もできないことでした。
何年かぶりで出逢ったかつての留学生たちは私を歓迎ぜめにして、涙の出るような感激でした。
特に印象が深かったのは、先生が起居されていた部屋が、印度独立のため旅立たれた、その日のままの姿で残っていることでした。きちんと整頓されたベッドにも書棚にも、また平素の通り置かれてある靴、スリッパにも、先生在りし日の香りが染み込んでいるようで、薄暗い部屋ではありましたが、先生の生前の静かで清らかな日常が偲ばれて、一世の英傑の末路と思い合わせて一抹の哀愁を覚えるのでした。この建物は今では、図書館、資料室などに利用されて、先生の遺徳を偲ぶよすがとなっています。
印度旅行中に、サトラ・ボース・アデミィからネタージ会館設立援助について懇請がありました。先生はカルカッタに住まわれるようになったときから、この土地を国民的な霊場として、公的な慈善事業に利用することを祈願しておられたようです。
独立運動のため、潜行万里の苦難の旅につかれたのも、このカルカッタからです。先生にとってゆかりのある土地に、ネタージ会館が建立されることはまことに意義の深いことと思います。
現在この建物のある土地は、ボース氏の兄上の所有でありますが、会館建設のために提供されることになっております。この会館から生ずる収入は、ネタージ・バーワン霊場の維持、サラト・ボース学院、アザド・ヒンド病院車サービス、ネタージ研究所の諸経費にあてるため、寄付することになっています。
複雑な印度政情とはいえ、かつては同盟国の指導者であられ、高潔なる人格者であった先生を崇拝するあまり、私は4月19日、日本を出発して、再度印度、セイロンへ旅立ちます。
この旅行の目的は、もちろんインド政府に先生の御遺骨を速やかにお迎えしてほしいと懇願(こんがん)するためです。またネタージ会館設立の寄付金についても特に相談してきたいと思っています。セイロンの留学生やかつての45人のあの人たちの幾人かと逢うのも、私の心に秘めたよろこびの一つでありますが・・・。出発に前夜4月18日しるす。
(1960年5月7日 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行「ネタジ」掲載)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 私は、この他にも、チャンドラ・ボースの生涯の文章をたくさん読んだ。それらを、ここに並べることは今日はしない。 ここは、あくまで「建設中の第2ぼやき」 である。そのうちもっとたくさんここに書き加えます。チャンドラ・ボースがどれぐらい偉かったかを、書かなければ。
それでも、私、副島隆彦は、ガンジーのようになる。絶対に軽挙妄動(けいきょもうどう)はしない。敵どもの術中にはまることはしない。そのように深く警戒しています。
それでも、インド独立の悲願のために命をささげたインド人の志士たちの魂と、それに助力しようとして、清新で無垢(むく)は日本国民の魂を尊いものだと私は思います。 この真実の発掘の文章を読む人は、どうか、今の私の胸中も察してください。
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
続けて、私は、勢い込んで、以下に長文の「鳥生バード論文」を載せます。私は、これをここに全文掲載できることを、心から嬉しく思います。念願がかなった、という気持ちです。
私は、このバード論文を発表することを、去年の6月からずっと気にかけていました。ところが、これを、一体どこに、どのように載せていいのかが、全く分からなかった。それでもがき苦しんでいました。
バード君との約束を、こうして果たせて、そして、彼の論文のすばらしさを、先の「29」「30」「31」の横山全雄老師の仏教論文に続いて、こうして、公表できて、大変、嬉しい。今日は、これだけで私はもう満足です。人間は、いつ死んでもいい、という覚悟を決めて、毎日を、すがすがしい表情で生きたいものです。
ところが、現実の私は、目の前に山積する原稿と、デジタル文章のウズの前で苦しんでいます。いつか私たちの真実探究の苦闘の日々が報われる日が来るでしょう。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
----- Original Message -----
From: "副島隆彦"
To: "Toriu Mamoru”
Sent: Thursday, June 01, 2006
鳥生(とりう)バード君へ
副島隆彦です。
私は、君の以下の歴史論文を、読んでひどく驚き、かつ大変気に入りました。私は、君の以下の、「紀元前2900年に、エジプト初期王朝の王が、メソポタミアまでを、遠征していた。それが、シュメール人を征服して、セム人の王権を打ち立てた。そして、これがどうやら人類最古の世界帝国だろう」とする。この論述に大賛成です。すべては、丁度、紀元前3千年から始まった、とする説に納得がゆきました。
私の頭の中で、エジプトと、メソポタミア(バビロンの都、いまのバグダッドの南あたり。エデンの園の跡 もこの近くにある。今も残っている) の関係が、ずっと分からなかった。
どちらも紀元前3000ぐらいだ。同じだ。この時に、古代文明というよりも、人類の文明=王権 の誕生があった(都市らしきもののの成立だけでなく)とする、考えに、今回、私は、君と一致しました。私にとっても大変、嬉しい、とです。
私は、この世界史の全体像を、鴨川君が送ってくれた、「ユダヤの歴史」というさる学者が書いた論文とつき合わせるようにして読んだことで、君の書いていることの真実性が判定できました。たいへん嬉しいことです。
私は、一昨日(2006年5月30日)に、大学から、アルル君と電話で、「人類の古代史、人類の歴史の発生、四大文明=帝国の発生なるもの」をヴィオス録音しました。 私にとって気になっていた、紀元前3000のエジプト文明 と紀元前2900年の メソポタミア文明の、発生(誕生)のことが、ずっとこの10年来気になっていたのです。なぜなら、発生=誕生こそは、重要なことだからです。
録音をしてから、君の文を、今朝読んで、その重要性が、ようやく分かった。エジプト王のセソストリス王という王(ファラオ)のメソポタミアへの大遠征が、すなわち、エジプト文明とメソポタミア文明の同時期発生を理解する上で、ものすごく重要だということです。
その紀元前3千年に、バグダッドに成立した人類最初の、古代帝国(世界覇権国)は、どうやら、エジプト人による征服王朝であって、原住民であるシュメール人を征服した、セム族の、黒人種の、どうやら、今のヌビア人のようなスラリとした漆黒の民族による出張政権による古代帝国であった、ようだ、という考えに大賛成です。私の中で、これらのことがはっきりしました。
従って。バード君。君が、「ヘロドトスの大著、歴史」を読み破って、セソストリス王の重要性を、再発見したことは、のちのち、大変な業績だと私は思います。それを、私は、今後は、ずっと喧伝(けんでん)し称賛するでしょう。
西洋の西洋史学者たちでも、この明白な事実の確認が出来ていない、ということは、一体、どういうことでしょうか。 私、副島隆彦は、自分が独力で築き上げてきた、「すべては帝国―属国関係で説明がつく」理論に、従って、これを、実際の人類史の、いろいろの場面に当てはめてみさえすれば、大きな真実が、たくさん、浮かび上がってくるのだと、いよいよ確信を深めています。
西洋(欧米)の学者たちでも、駄目なのですから、中公文庫の「世界の歴史」シリーズ本を書いているような、日本人の世界史の古代史学者たちでは、とてもではないですが、こういう人類史の根幹に関わる大きな真実を知りえないでしょう。だから彼らは、そろって馬鹿者たちなのだだということも君の文から分かりました。私たち在野の学究(がっきゅう)が、頑張らなくてはいけない。
私は、岩波書店刊の歴史学研究会(西洋史、世界史の日本人学者たちの学会)の編の「世界史年表」という本を、読みながら、自分でメモをずっと取っていって、先週、古代史の部分を全部まとめました。それを使いながら、アルル君に私の考えを録音を頼んだのです。
それと、鴨川ひかり君が、重掲に貼り付けた、「ユダヤの歴史」の文章が気になって仕方がなかった。これらのすべての事実を付き合わせて、「人類の古代世界史の全体像」すなわち、「古代文明と人類初の世界帝国の誕生、発生」を自分の脳で、しっかりと理解しておきたかった。
ユダヤの旧約聖書の記述と、古代世界史を、しっかりと一致させて起きたかった。古代のユダヤ王国は、バグダッドに在(あ)った世界覇権国の属国に過ぎなかった。丁度紀元前千年(BC1000)ぐらいに、続けて出現して王位に付いた サウル王、ソロモン王、ダビデ王というユダヤの3人の王は、バグダッドのシュメール人の帝国に服属して、属国となっていたことがこれで、はっきりと、確定できました。
ですから、同時に、紀元前1250年(BC1250)だと、世界史学者たちが全員一致で確立しているモーセの出エジプト(Exodus エクゾダス)は、それよりも、250年前である。そして、どうやら、モーセたちは、エジプトから脱出して、カナーンの地に「帰った」のではなくて、帝都であったバビロン(バグダッド)の捕囚(ほしゅう)から、自由になって、今のイスラエル(パレスチナ)の地に、定住して、属国として、それなりに繁栄したのだ、ということも分かりました。
だから、ユダヤ人が、自分たちの聖典(キャノン)として、ものすごく大事に言う、旧約聖書(バイブル、Biblo ビブロ)も、それほどのものではなくて、にしても、そんなに権威はないし、威張れるほどのものではない、ということが分かってきました。シュメール人(バビロン人)の存在が、今から8千年から7千年ぐらい前まで遡れることと、彼らの集落(古代の都市のはじまり)の存在があった。
そして、そこに人類の最初の統一王朝のようなものが出来ていた。そこには、自分たちの創世(そうせい)の神話がすでに出来ていただろう。ユダヤ民族の、旧約聖書の記述は、それらのシュメール人の神話を、真似して、うまい具合に自分たちの創世の物語にしてしまったのだ、ということもよく分かりました。道理で、そのせいで、旧約聖書には、「バビロン、バビロン」と、呪(のろ)うがごとくに、たくさん出てきます。
ですから、君の論文にも触発されて、私は、「人類の古代史の全体像、全歴史を、世界史年表を使って説明し尽くす」という試みをやってみました。それは、このヴォイス録音で、うまくいったと思います。
人類史上の、世界帝国というのは、紀元前3000年からこっちの、人類史において、ほとんどの場合、どんな民族による征服王朝であっても、たいていは、バグダッド(今のイラクの首都)にあった帝国のことだ。このことが、私の頭で、はっきりしました。
紀元前490年と480年の、2回のペルシア戦争と言って、ギリシア人の都市同盟が、果敢に戦って、侵略してきたアケメネス朝のペルシア帝国(ダレイオス一世)に負けなかった、征服されなかった、というが。 しかし、それでも、いくら西欧中心主義での世界観であっても、それでもなお、当時のペルシア帝国(首都はバグダッドだ)が、世界覇権国(ヘジエモニック・ステイト)だったのだ、ということが、透けて見えるし、この事実は覆(おお)い隠しようがない。
ですから、私は、BC1250年の、モーゼなる男の、ユダヤ人(メソポタミアでは、アピル=ヘブライ人と呼ばれた)たちを引き連れて、カナーンの地(パレスチナ)に、40年掛けて「戻ってきた」という「出エジプト記」 Exodus エグゾダス の記録が、本当にあるのか、それは、メソポタミア(バビロンの都)からの「バビロン捕囚」も第4次まである、4回もあって、そのうちの一つだろう、と、ずっと疑っています。いまもそうです。 バード君に、このことを調べてほしい。
アルル君に、話し始めたのは、 「あのな。いいか。アルル君。今から丁度、紀元前1000年頃に、サウル王、ソロモン王、その子のダビデ王というのがいてな。それが栄えていたの。しかし、それは、アッシリア帝国という、バビロン(今のバグダッドだよ)にあった(おそらくシリア人)の帝国の属国だったのだ。この事実が重要なんだ。
すべては、帝国―属国の関係なんだ。そして、帝国の首都はだいたい、バグダッドだったんだ。おもしろい視点だろ? これで、人類史のすべてが、鳥瞰(ちょうかん)出来るんだよ。 私は、このことに一六歳の時から気づいて、知っていたんだ。それで、山川出版の、高校世界史の教科書を読み破っていた。」 と言う風にヴォオス・レコードしてもらいながら、語り始めました。
「それでな。この紀元前千年あたりに在ったアッシリア帝国を遡ると、シュメール人、アッカド人、古バビロニア人。 それから、ヒッタイト人(これは五〇〇年間も続いた) が、あった。」
「それから、アケメネス朝のペルシャ帝国の時代があって、ペルシアが世界覇権国で、これが、ギリシアを攻めたから、「ペルシャ戦争」というのだ。ダレイオス一世が強かった。ギリシア都市同盟は、征服はされなかったが、相当に弱かった。」
「ところが、その孫だろう、ダレイオス三世の時に、紀元前333年に、イッソスの戦いで、マケドニアのアレキサンドル大王という 二十歳ぐらいのガキの王様に、イッソスの戦いで、なんと、ペルシアが負けてしまったんだ。打ち破られてしまったんだ」
「それで、そのあとの、たったの8年間である。アレキサンドル大王が、子分どもを引き連れて、ペルシア帝国の全土を、うろうろあっち、こっち、財宝を求めてだろうが、移動して回った。これをアレキサンダーの大遠征と言っているんだよ。たったの8年間だよ」
「だから、紀元前2900年と、紀元前1000年頃のこと、と紀元前333年とかを、しっかり区別をつければ、 世界史の古代史の全体像は、はっきりと分かるのだよ。
「陰謀論のアホたちが、6千年前から7千年前にメソポタミア(今のイラク)にいた、シュメール人というのは、宇宙人だ、宇宙からきたのだ、とか言うのも、簡単に、粉砕出来る。」
「それと、旧約聖書の全部のユダヤ人の歴史を、しっかりと檻(おり)の中に入れて、すべて、冷酷に測定できる。ユダヤ人の歴史なんて、そんなに古いわけがないよ。各予言者(民族指導者)たちの存在を、歴史年表の中にしっかりと、はめ込んで、事実の中にはめ込むことが出来る。」
「 だから、人類の古代の世界史というのはな、チグリス河・ユーフラテス河の分岐点にあるバグダッドを中心に考えて、それが、文明の発祥、すなわち、それが、そのまま、世界帝国(覇権国、世界政治権力)の誕生と同じなのだ、と分かるのだ。このことがものすごく重要なのよ。これで全部だと言っていい。 人類の4大文明とか、言うけれども、やっぱりすべての中心は、バグダッドを首都とする帝国の文明だな。この理解で十分だ」
「頭の容量の足りない、歴史知識を順番に、頭に入れることの出来ない連中は、断片的な知能しかない人間だから、すべての事象(じしょう、できごと)を相互に深く関連させて統一的に考えることができないからね、ほっておくしかない。私、副島隆彦のような人間でなければ、こういう大きな壮大な仕事は、日本では出来ないんだろうねえ」
と、こういうことをアルル君に電話で話しました。
ですから、バード君。君の以下の論文は、大変優れています。しかし、私の、この「バード論文は凄い」ということの意味がわかる者は、なんとかこれを読んでくれる人を含めて、ここの弟子たちを含めて、今のところは、日本に50人ぐらいしかいないでしょう。
それで、まず私が、私の「古代史の全体像」を書いて、紀元前2900年の重要性と、紀元前1250年のモーゼの出エジプト記、それから、アッシリア帝国と、ソロモン王たちが、丁度、紀元前1000年のことだ・・・・とかを、分かりやすい解説文にして、今日のぼやきの会員ページに載せます。
そのあとで、君の論文を誉(ほ)めます。 それに、上記のような解説文を私がつけます。それまでに、君は、私たちの歴史掲示板とかに、君のこの重要論文を載せておいて下さい。一回で載ると思います。
分量制限は、今は、よしなお君がはずしたはずですから。 重掲に載せてくれてもいいです。 冒頭に、君なりの前書きを、つけてください。「副島隆彦が、もうすぐ、私の論文を理解し、評価するための、前提となる『古代世界史の全体像』というような論文をぼやきに載せます」と書いて下さい。
知識は、断片的であってはならない。頭の良くない人間というのは、ものごとの全体像が、つかめない人間のことを言う。私たちの学問道場は、従来の知識、全学問を、縦横無尽に、横断的に、大きく、総合し、統合して、それを抽象性の一番高い水準のところで、まとめてあげてみせる。それがすばらしいことだ。それが学問(サイエンス)なるものだ。大きな謎解きでもある。大発見でもある。大きな真実を明らかにすることでもある。
バード君の今のままの文では、まだ、読む人たちの方が大変だ。知識と教養の基礎のところがみんな出来ていないからだ。 バード君。モーゼ(最近は、モーセ Mosesと書く)の存在を、さらに、「4回のバビロン捕囚」 と、「帰還を許される」というコトバとの関係で、探って下さい。ここには大きな秘密があるはずです。
私は、バビロンの都(今のバグダッド近く。メソポタミア文明、すべての古代帝国の首都) こそは、すべての時代の世界史の中心なのだ、とずっと考えています。この基点の考えを 採用すれば、世界史の「帝国-属国」理論で、すべてが明確に分かるのです。
そして、後の、紀元1096年からの十字軍という、国際軍事活動、(PKO)と、今のアメリカ帝国のバグダッド爆撃、イラク占領までが、全てつながって分かるのです。
アルル君は、私が手書きで作成して、FAXで送った、各時代の いろんな人種、民族のトーナメント戦であるいろんな帝国(覇権国) の一覧表を、よしなお君と、図式・画像にする(イラストレーター? アドビー社の?で)作業をやってくれませんか。
論文は、説得力が大事です。読み手に、なるほどなあ、と思わせる、見せ方、読ませ方が、ものすごく重要です。論証の力は、証拠不足などのせいで弱くても、気合いを入れて、「なんとしても、読み手に分かってもらおう」という気持ちで、気合いを入れて書くことが大事です。
バード君に承諾してもらいたいことは、この君の論文を、後に再度、ぼやきの会員ページに載せることになるかもしれませんということです。 ただし、それは、会員の読み手たちの半数ぐらいが、「なるほどなあ」 と、思うようになれるだけの、歴史教養の基礎の枠組みを、私、副島隆彦が丁寧に、実感を込めて、説明してからあとの話です。この手続きが大変なのです。
今の日本では、相当に頭のいい、私たちの会員の読書人階級の人たちの理解を何とか得られるように、君の論文を、私が、読み解いて、解説しつくさなければ、ならないのです。この作業が大変なのです。そのために、副島隆彦の頭脳が、この国に出現し、需要されているのです。私の頭と口と文章を、経なければ、「実感を伴ってなるほど、と理解する」ということがなかなか出来ないのです。
私が、いつももどかしく思い、「どうして、みんなは、このことを分かってくれないのだ」道端(みちばた)に倒れ伏しそうになるのは、こんな時です。 ですから、どのように君の優れた論文をどのように「上手な見せ方に」処理するかを、私が真剣に考えますから、しばらく、お待ちください。
私は、バード君の以下の論文で、「エジプトとメソポタミアだけが、紀元前3千年ごろには、古代世界の肥沃な地帯であり、そこに文明=世界帝国が出現したのだ」ということを知りました。やっぱりそうだっかのか、という気持ちです。 かつ、一番初めは、エジプトの方が大きくて、アフリカがどんどん乾燥していった残りのナイル河の肥沃な地帯だった。
そこに出現していた大きな王権があって、セソストリス王という王とが、はるばる出かけて行った。 しかし、それは陸続きに、あるいは、沿岸部を船も使って、「肥沃な三日月地帯」だったところを、ずっと遠征して行って、そして、シュメール人たちがいた、メソポタミアの大平原までやってきた。そしてシュメールの都市国家群を征服して、そこに、人類で始めての古代帝国を築いた。
それが同時に、「人類史の4大文明」と言われるものの誕生、発生 と同じことでもあるのだ、ということを、私は君の論文から、はっきりと知り、非常に満足しました。
この喜びを、なんとしても、他の人たちにも、伝えなければなりません。ただし、時間をかけて、です。どうせ時間がかかるのです。 ヘロドトスの「歴史」の記述は正しかった。
モーセは、本当は、エジプトからではくて、バビロン(バグダッドから)脱出(Exodus 、エグゾダス、出エジプト)したのだということの更なる研究をよろしく。
副島隆彦拝
----- Original Message -----
From: "Toriu Mamoru"
To: snsi@mwb.biglobe.ne.jp
Sent: Sunday, May 28, 2006 4:57 PM
Subject: 簡単な一言で結構です、批評を戴ければ幸いです。
副島隆彦先生へ
須藤喜直様へ
鳥生(バード)です。いつもお世話になり有難うございます。
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)には、初期王朝時代(前3000年-2660年頃)にエジプト王(ファラオ)セソストリスによる「大遠征」があったことが書かれています。
しかしこれは一般に無視されています。添付ファイルでの私の提出論文は、この人類史上の特筆すべき「大遠征」があったのではないかというのがテーマです。お忙しい中、また度々のことで、まことに申し訳ないのですが、もちろん簡単な一言で結構です、批評を戴ければ幸いです。 以上です。
(ここからが、バード論文です。副島隆彦注記)
「前3000年頃に、エジプトによる大遠征があったのでは ない か。――バード筆 2006.0?.??」
はじめに
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)には、初期王朝時代(前3000年-2660年頃)にエジプト王(ファラオ)セソストリスによる大遠征が書かれている。一般の歴史書はこれを無視し、これを記すことはないが、これはあったのではなかろうか。
エジプト王(ファラオ)によるアジア・ヨーロッパへの大遠征ついての記述
ヘロドトス(前485-425年頃)は『歴史』において、エジプト王による大遠征を書いている。エジプト王(ファラオ)のセソストリスは、有史以来、初めて艦隊を率いて紅海からアラビア海、ペルシア湾までの沿岸住民を征服したという。
彼はさらにその遠征からエジプトに帰還後、大軍を率いて大陸を北上し、その進路の民族をことごとく征服し、アジアばかりではなく、トラキア(エーゲ海北岸、黒海西南岸)、スキュティア(黒海西北岸)などのヨーロッパにまで達したという。また、エチオピアをも征服したという。
(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から
そこで私もこれら諸王のことは措き、彼らの後に王位に就いたセソストリスという人物について語ることにしよう。 司祭たちの語るところによれば、セソストリスは有史以来初めて艦隊を率いて「アラビア湾」(訳注1)を発し、「紅海」(訳注1・2)沿岸の住民を征服したということで、彼はさらに船を進めて浅瀬のために航行不能の海域にまで達したという。
その遠征からエジプトに帰還すると――祭司たちの話は続く――大軍を召集して大陸を席巻し、その進路を阻む民族をことごとく平定した。独立の維持に懸命となって勇敢に戦う民族に遭遇するごとに、セソストリスは自分と祖国の名および自分の武力によってこの民族を征服した次第を記した記念柱を、その国に建てるのが例であった。
また戦闘もなく容易に町々を占領できた国には、勇敢に戦った民族の場合と同様の事項を記念柱に刻んだ上、さらに女陰の形を彫り込ませたのである。それによってこの国の住民の怯懦〔きょうだ、臆病で意志が弱いこと-引用者〕であったことを示そうとしたのである。(巻2-102)
[訳注1]たびたび注しているように、「アラビア湾」が今日の紅海、「紅海」は主としてインド洋を指す。(P425)
[訳注2]ここにいう「紅海」は今日慣用の語より広義で、紅海のみならずアラビア湾、ペルシア湾をも含む。「南の海」と呼ぶこともある。この用語法は今後も頻出するので、括弧に入れてそれを示す。なお、これに対して次の「こちらの海」は、いうまでもなく地中海を指す。(P391)
かくしてセソストリスは大陸を席巻し、アジアからヨーロッパに渡り、スキュタイ人およびトラキア人をも征服するに至ったのであるが、これはエジプトの軍隊が達した最遠距離の記録であると私には思われる。というのは右の民族の国土では例の記念柱がたっているのを確認できるが、それより以遠にはもはや見られないからである。(巻2-103)
またエジプト王でエチオピアに君臨したのはこの王ひとりである。(巻2-110)
(引用終了)
バードです。 このエジプト王セソストリスが大遠征をしたらしい。ヘロドトスはメンフィスのヘパイストス(プタハ)神殿の祭司(神官)たちからそれを聞いたのだ。その際ヘロドトスが、この神官たちの話に対して疑念を抱いている様子は全くない。エジプトの大遠征がずっと大昔にあったのは皮膚感覚として了解しているかのようだ。
しかし上の引用にみるように、それは驚くほど簡単に書かれている。したがって、その全容がよく分かるように書かれてはいない。実に不親切でそっけない記述であり、ここはヘロドトスらしくない箇所である。これでは、この「大遠征」の実体はよく判らない。
ヘロドトスは本当にこのように不親切に書いたのであろうか。それとも写本時の編集の際に、詳細説明の部分が省略されたのであろうか。私は現在、後者の「省略された」可能性が大きいだろうと想像している。
それはともかく、ヘロドトスの『歴史』の記述から、なんとか、この「大遠征」の実体を読みとってみよう。その際に、留意すべきポイントが5つある。それを次に示そう。
(1) 訳注にあるように、本書の訳者松平千秋氏によれば、ヘロドトスの『歴史』では、「アラビア湾」が今日の紅海であり、「紅海」がアラビア海、ペルシア湾、インド洋などを指すという。これは注意しなければならないことである。これに従った理解をする必要がある。
(2) 次に、上記の引用では、「浅瀬のために航行不能の海域にまで達した」とあるが、これはどういうことか。海域ならば浅瀬であっても上陸できるし、水深のあるところを迂回すれば先へ進めるはずだ。どうとでもなるだろう。これはあまり意味ある言葉ではない。ここは、河川の遡行(そこう、川の下流から上流へさかのぼって行くこと)のことを言おうとしたのではなかろうか。
つまり、ここは「浅瀬のために航行不能になるまで河川を上流までさかのぼった」とか「河川は船でいけるところまで上流に行った」ということを言おうとしたところだと解すべきではなかろうか。今はそういうように読み替えを行なうことにする。
(3) エジプトに帰還の後、再度大軍を率いて大陸を席巻した時、艦隊を使ったとは書いていない。なんとなく艦隊を使わなかったかのような雰囲気にもみえる。しかし、艦隊を使わ・u桙ネいというのは、いかにも不自然である。それは無理がある。もとよりヘロドトスの記述は、艦隊の使用を否定するものではない。そこで、その二度目の遠征のときも艦隊を使ったこととする。
(4) この遠征による征服地域は、大帝国アケメネス朝ペルシア(前546-330年)の最大版図と同等かそれ以上の地域であるだろう。これは、次のような記述があるからである。
(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から
ペルシア王ダレイオスが右の像〔エジプト王セソストリスの家族の巨大な石像6体-引用者〕の前面に自分の像を建てようとした時、ヘパイストスの祭司は、ダレイオスにはセソストリスの果たしたほどの業績がないといって、それを許さなかった。セソストリスはダレイオスに劣らず多数の民族を征服したのみか、スキュタイ人をも平定したが、ダレイオスはスキュティアを占領することができなかった。
されば功業においてセソストリスを凌駕することができなかった者が、その人の奉納した物の前に自分の像を建てるのはよろしくないというのである。祭司の言葉に対し、ダレイオスもこれを了承したという。(巻2-110・u栫j(引用終了)ペルシア王ダレイオスとは、おそらくペルシア帝国のダレイオス1世(在位前522-486年)のことだろう。
その頃は、エジプトはペルシアに征服されていた。そのダレイオス1世に対してエジプトの祭司(神官)が、スキュティア(黒海西北部および北部地帯)を征服したかどうかの分、エジプト王セソストリスに及ばないとして、反論し了承させている。それでエジプトから見れば自分たちの神聖な場所に、異民族の支配者の石像を設置しなくて済んだのだ。ということは、エジプトの支配地域がダレイオス1世当時のペルシア帝国と同等か、あるいはそれ以上の広さであったということだ。
ダレイオス1世の治世にペルシア帝国は最大版図となり、東はインダス河流域から、西は小アジア、トラキア(エーゲ海北岸)、エジプトまでである。
(5) ヘロドトスの『歴史』によると、初代エジプト王ミンがいてメンフィスを開きその地を安全して、「広大なヘパイストス神殿(エジプト名はプタハ神殿)」を建立したと書いている。(巻2-99)セソストリスが、この初代エジプト王から何代目かは書かれていないので、判らない。
が、このセソストリスの4代後のケオプスが大ピラミッドを建造したとなっていぁw)@Αι豎譟ΑΡ譟ΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΡ譟ΑΑΑΓ貲譯譯譯譽譯譟Γ貲譯譟ΑΑ譟τ譽髻ΑΑΑΑΑΓ譟Ψ譟Ρ譽豺紂並6-2181年頃)の第3王朝期(前2686-2613年頃)から建造されたので、セソストリスは初期王朝時代(前3000-2686年頃)の人である。その第1王朝(前3000-2890年頃)か第2王朝期(前2890-2686年頃)の人だ。
ヘロドトスは、エジプト王3代で100年として計算している。これに従って計算すると、セソストリスは前2820-2786年頃となる。ただし、セソストリスからケオプスまでを実際の王位継承通りに記したかどうか、はなはだ疑問である。途中少しずつ省略している可能性がある。
だからもっと古い人である可能性がある。ここではとりあえず、セソストリスは前3000-2800年頃の人とする。以上のような留意点を考慮して、ヘロドトスの『歴史』をつなぎ合わせると、次のような「大遠征」があったことになる。
前3000-2800年頃、エジプトによる「大遠征」があり、東はインド沿岸、インダス河流域、イラン南岸、メソポタミア、南アラビア、エチオピア、パレスティ・u档i、シリア、小アジア(トロイアが含まれる)、クレタ島、トラキア(エーゲw)海北岸)、スキュティア(黒海西北岸)を支配したというエジプト王の事績が浮かび上がってくる。
おぼろげながらではあるが、ヘロドトスの『歴史』にはそのことが書かれている。(ただし、ギリシア以西に関しては、その征服は断じてなかったと言っている。ヘロドトスがそう書いたのか、写本時にそうなったのか、判らないが。)
ヘロドトスがあげた「大遠征」の証拠ヘロドトスはその遠征は実際にあっただろうと考え、証拠を4つほど挙げている。
(1) ヘロドトスが第一に挙げているのは、コルキス人の存在である。黒海東岸のパシス河はアジアとヨーロッパの境界にある。(この境界はヘロドトスの時代から現在まで変わらない。)そのパシス河流域のコルキスに住むのがこのコルキス人である。ヘロドトスは、このコルキス人がエジプト人であり、これはその「大遠征」従軍兵士の一部がそのときにここに住みついたのであるとして、その証拠としている。(巻2-103~104)
コルキス人は色が黒く髪が縮れていること、世界中でコルキス人とエジプト人とエチオピア人だけが昔から割礼を行なっていること、コルキス人はエジプト人と同じ方法で割礼を行・u桙ネうこと(フェニキア人およびパレスティナのシリア人はその風習をエジプトから学び、小アジア東部カッパドキアのシリア人はコルキス人から学んだという)、エジプト人と同じ方法で亜麻を栽培していること、これらがコルキス人がエジプト人であることを示すという。(巻2-104~105)
(2)ヘロドトスが第二に挙げているのは、記念柱の存在である。ヘロドトス自身が、エジプト王が建てた記念柱をいくつかパレスティナ・シリアで見たというのだ。
(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から
エジプト王セソストリスが各地に立てた記念柱は、大部分失われて残っていないが、私はパレスティナ・シリアで現存するものをいくつか見た。それには前述の碑文や女陰の形も刻まれていたのである。(巻2-106)
(引用終了)
バードです。 エジプトの支配から脱したところにおいては、この記念柱はその地の新たなる支配民族によって撤去されたのであろうが、このパレスティナ・シリアではヘロドトスの時代(前5世紀)まで残っていたのだ。女陰の形があるので、その地では戦わずして服従したのだろう。そしてそこはエジプトに近く、エジプトの支配が続いていたということだろう。
残念ながらヘロドトスはこの記念柱の高さとか幅とかの寸法や材質を書いていない。それは彼らしくない。もしかしたら、彼は書いたのに、後世の写本・編集時に省略されたのかもしれない。
(3)ヘロドトスが第三に挙げているのは、岩壁に浮き彫りにした人物像の存在である。ヘロドトスは自身の目で、その人物像をイオニア地域(小アジア西岸)で、ふたつ見たという。
(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から
またイオニア方面にも岩壁に浮き彫りにしたこの人物の像が二つある。一つはエペソスからポカイアへ通ずる街道上にあり、他はサルディスからスミュルナに通ずる路上にある。いずれの場合も、4ペキュス半(199.8cm-引用者)ほどの背丈の男の姿が掘り込まれており、その男は右手には槍を、左手には弓をもち、その他の服装もこれに準じている。
というのは、つまり一部はエジプト式、一部はエチオピア式の服装をしているという意味である。そしてその胸部には、一方の肩から他方にわたって、エジプトの神聖文字で記した碑銘が刻んであるが、その意味は、「われはこの地を、わが肩によりて得たり」というものである。
それがどこの何者であるかをよそでは碑文に記しぁw)气ナ譯譟譴里任△襪・海海糧衒犬砲狼④靴討い覆ぁ・修海任海譴蕕料鮓・燭發里涼罎砲蓮△海譴鬟瓮爛離鵝別・蹌院砲了僂反篦蠅靴燭發里盍佑・△襪・・・磴い發呂覆呂世靴い箸い錣佑个覆蕕覆ぁ・粉・押檻隠娃供[訳注1]トロイア戦争において、トロイア方の援軍として参加したエチオピアの王。(引用終了)ヘロドトスは、エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)で「われはこの地を、わが肩によりて 得たり」 という意味の碑銘が刻まれているのを見たというのだ。
これはエチオピア王の像だという学者も幾人かいたが、ヘロドトスはエジプト王セソストリスのものだとしている。(ここでトロイア方の援軍としてエチオピア王が参戦したとあるが、これはトロイアとアフリカ、つまりエジプトとエチオピアの深い関係を暗示している。トロイアはエジプトによって建設されたのではないだろうか。)
(3)ヘロドトスが第四に挙げているのは、メンフィスのヘパイストス神殿(エジプト名はプタハ神殿)の6体の巨大人物石像の存在である。このエジプト王は自分の業績を記念するために、高さ13mの石像2体と9mの石像4体の巨大石像を建てたのだ。
(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から
彼は自分w)の功業を記念するために、ヘパイストス神殿の前に、自分と妻の姿を写した30ペキュス〔13.3m-引用者〕もある二個の石像と、四人の子供のためにはおのおの20ペキュス〔8.8m-引用者〕の石像を残している。(巻2-110)
(引用終了)
バードです。 この6体の石像は、現在はなくなっているが、ヘロドトスは明らかにそれらを見たはずである。残念ながら、これもこれ以上詳細に書かれていない。彼らしくないと思う。以上4つが、ヘロドトスが挙げた証拠である。
その他考えられる「大遠征」の証拠これまで述べたように、ヘロドトスはメンフィスのヘパイストス神殿(プタハ神殿)の祭司(神官)からエジプト王の「大遠征」を聞かされて、特別疑いを持った雰囲気はなく、むしろ当然のように聞いている様子である。おそらく、ヘロドトスの時代、すなわち紀元前5世紀には、人々の間ではそのようなことは、広く人びとが共有する記憶であり、常識であったのではなかろうか。
そのヘロドトスは先の4つの証拠を挙げたが、現在の歴史学からあげると、次の2点が挙げられると思う。(1)第一の証拠は、といっても状況証拠であるが、エジプトぁw)气气气气カ辰塙餡氾譴任△襦 前3000-1000年頃までは、世界の総人口の過半がメソポタミアとエジプトの狭い地域に集中して住んでいて、その人口はそれぞれ数百万人あるいは1000万人以上であった。それに対して、それ以外の地域の総人口は、数百万人規模でしかなかったという。つまり、当時はメソポタミアとエジプトが突出して栄えていたというのだ。
(引用開始)
佐藤次高&鈴木董ほか『都市の文明・新書イスラームの世界史1』(講談社現代新書、1993年)から
メソポタミアとエジプトの当時〔前3000年頃のこと-引用者〕の人口は、それぞれ数百万人規模とも、1000万人をこえていたとも想定されている。世界のその他の地域の総人口は、数百万人規模であったろう。
それぞれが百万ヘクタールの、二つの地域に、世界総人口の過半が集中して、そこだけに文明があった時代がおよそ2000年間〔前3000-1000年頃のこと-引用者〕続いたのである。この中東の歴史は重い。(P38)
(引用終了)
バードです。 このようにこの時期は、メソポタミアとエジプトだけが世界に抜きん出て力があったのだ。実はメソポタミアにしてもエジプトにしても、その可住地域は狭い。それぞれチグリス・ユーフラテス両河流域、ナイル河流域に沿った狭い地域なのである。
しかしここで灌漑農業 (かんがいのうぎょう。田畑を耕作するのに必要な水を水路から引き、土地をうるおすなど、水利をはかる農業) が始まると、非常な余剰生産をもたらし、ここだけが栄え、大人口増加をもたらしたのだ。このような時期にエジプトは世界ではじめての国家統一がなり、これによってエジプトは圧倒的に優位にたったのである。
メソポタミアは文明の発達はエジプトよりも早かったのであるが、ティグリス、ユーフラテス両河の激しい氾濫と、北東(山岳地帯)と西南(乾燥地帯)からの異民族(蛮族)の侵入があり、その対応に追われていた。それで都市国家を脱して統一国家の形成に至ることはなかった。都市国家に分立したまま外敵に備え、また都市国家同士で不和抗争が絶えない状態であった。外の世界に対して遠征をおこなう発想と余裕はなかった。
(引用開始)
岸本通夫ほか『世界の歴史2・古代オリエント』(河出文庫、1989年)
シュメール人は灼熱の太陽の下、土と水を相手に「エデンの園」の建設にはげむ。しかしそれは決して容易なことではなかった。彼らの生活を脅かすものが絶えず周囲に存在した。害虫、猛獣、毒蛇、病原菌の類がそれである。それに、この地に侵入をはかる異民族があとを絶たなかった。
シュメールの地をも含めて、メソポタミアは、エジプトのように周囲を自然の防壁で保護されているわけではない。西からは遊牧民がうかがっていた。北や東からは山岳民がねらっていた。それにシュメール人どうしでも、水や土地の問題をめぐって、早くから不和抗争が絶えなかったであろう。しかし、かれらの生活をおびやかす最大のものは、またしても水であった。
エジプトが「ナイルのたまもの」といわれるように、たしかにメソポタミアも、ティグリス、エウフラテス両河のたまものであったにちがいない。けれども、エジプトのナイル河の氾濫は文字通り定期的で、その年ごとの増水の速度も緩慢なものだった。
だから古代エジプト人が恐れたのは、氾濫ではなくて、むしろ氾濫の不足、つまり「低いナイル」であって、それは飢饉、飢餓を意味していた。反対に「高いナイル」は、豊作を示すものであった。
ところが同じく肥沃な沖積土を運んだと入っても、チグリス、エウフラテス両河は、ナイルにくらべてはるかに始末におえなかった。川はそのコースを絶えずかえたし、また川が運ぶ土の沈殿が水路をすぐにだめにしてしまう。そしてさいごには、土砂の堆積のため浅くなった川を流れる水が、堤防自体を破り、いっさいのものをのみつくす。
当時のシュメール人は洪水の危険に絶えずおびやかされていたことは、考古学的調査によっても知ることができる。(略)メソポタミアは、一方では聖書の作者に「エデンの園」のイメージをあたえていながら、他方では「ノアの洪水」の伝説も、この地が起源となった。
シュメール人の住みついた土地は、最初から楽園であったわけではない。楽園にするために、かれらは土と水を相手にし、そしてこの地に侵入してくる人たちと争わなければならなかった。これらがシュメール人のすべてを決めていった。(P31-33)
(引用終了)
バードです。 このようにメソポタミアは、異民族と洪水に悩まされた。しかしエジプトは、ナイルは穏やかな河であった。ナイルの東西は砂漠であり、エジプトの南端以南には6つの急端(滝にような早瀬)があって航行不能であり、外敵の進入路はナイル河口からしかなかった。そういう自然の防壁で保護されていた。
それゆえ外敵の侵入は比較的簡単に防ぐことができた。その自然的、地理的条件はメソポタミアよりはるかに恵まれていた。それが、エジプトに世界最初の統一王朝ができた大きな要因であったのだろう。だから統一されたエジプトだけが、この時代世界の中で圧倒的に強かった。それで、先述した前3000-2800年頃の「大遠征」が可能であったのだ。
(2) 第二の証拠は、メソポタミアには、初期王朝時代にキシュ第1王朝が成立したことである。年表によると、これは前2900年である。キシュはシュメールの北方、のちのアッカド地方に位置する都市である。キシュ王国成立のときから、メソポタミアの地に王権という覇権の概念が登場したというのだ。そしてそれ以後「キシュの王」の尊称は長く続いたという。
(引用開始)
大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮『世界の歴史1・人類の起源と古代オリエント』(中央公論社、1998年)から
ウバイド期は、0,1、2、3、4期に分類されるが、つづくウルク期(前3500年~前3100年頃)やジャムダド・ナスル期(前3100年~前2900年頃)にいたるまで、南部メソポタミアでは文化の大断絶はない。(P151-152)
最古の粘土板記録が成立したウルク後期の最末期(おそらく前3100年頃)から初期王朝期。 Ⅲ期までがシュメール人による都市国家時代である。(P165)
「洪水が襲った。洪水が襲ったのち王権が天より降りきたった。王権はキシュにあった」。キシュでは計23王が即位したという。「洪水」後はじめてのこの王朝を、われわれはキシュ第Ⅰ王朝とよんでいる。キシュはシュメールの北方、のちのアッカド地方に位置する都市であった。(P166)
キシュには、ごく古くからセム人が住みつき、彼らが強大な王権をうちたてたのであろう。王朝表では、キシュ第1王朝初期のほぼすべての王たちに、セム後の名前が与えられている。けれども、王朝創始者であるかのように位置づけられているのは、第13代エタナであった。彼は「牧人であり、天に昇り、国々を平定し」、1560年治世した。
前2000年紀のはじめまでには、『エタナ物語』がアッカド語で書かれた。これによれば、神々によってキシュの王権を与えられたエタナが、のち「子宝の草」を求めて、鷲(わし)にのって天にのぼったのである。エタナより数えて9人目のエンメバラゲシ、そしてその息子のアガは、確かに実在したのであろう。
アガのときにキシュの覇権は終わる。「キシュは武器もて打たれ、王権はエアンナ(=ウルク)へうつった」。ウルク(第1王朝)では、まず太陽神 ウトゥ の息子が324年統治したという。けれどもアガと同世代だったのは、第5代のギルガメッシュである。(P168)
セム人はおそくとも前3000年紀〔前3000年-前2000年までのこと-引用者〕のはじめには、南メソポタミアの北部地方、つまりのちのアッカド地方に住みついていた。王朝表は、大洪水の後、北部の都市キシュが全土の覇権を得たとしているが、たしかにセム人が強大な王国をキシュに建設していたのであろう。セム人ははやくからシュメール地方の一部にまで進出している。(P182)
マリ出土碑文ではメスカラムドゥは「キシュの王」を名のっていたが、その息子とおもわれるメスアンネパダも、ウル出土の円筒印章で「ウルの王」でなく「キシュの王」とされていた。都市国家ラガシュやウルクの支配者のなかにも、「キシュの王」という称号をもったものがいる。
北方にまで支配権を及ぼそうとした諸都市王が、好んでこの称号を用いたのである。古い時代には、キシュの強大な王権がシュメール南部にまで影響力をもっていた。この記憶のために、「キシュの王」という尊称が生まれたのであろう。(P175)
《年表》(P548-549)
・3300-3100年 ウルク期後期。シュメール南部ウルクで大公共建設物がさかんに作られる。ウルク後期最末期(エアンナⅣa層時代)のウルクで粘土板文字記録システムが成立。シュメール都市国家時代の開始。
3100-2900 年メソポタミアでジャムダド・ナスル期。シュメール都市文化が各地に伝播。
2900-2750年 シュメール初期王朝Ⅰ期。このころアッカド地方で強大な王権が存在(キシュ第1王朝)
2750-2600年 シュメール初期王朝Ⅱ期。このころエンメルカル、ギルガメッシュらのウルク第1王朝か
2600-2350年シュメール初期王朝Ⅲ期。このころウル第1王朝。シュメール・アッカド諸都市国家の抗争も活発化。すこし後に、シュメール北部のシュパルク(ファラ)やアブ・サラビクで最古のシュメール文学テキスト成立。(サルゴン大王のアッカド王朝が成立するまで)
(引用終了)
バードです。 この歴史書は恐る恐るキシュ王国のことを書いているようだ。がともかくここでは、セム人は早くからシュメール地方の一部にまで進出し、前2900年頃強大なキシュ王国を建設し、メソポタミア全土の覇権を得ていたということが書かれている。おぼろげではあるあるが、これがエジプト王の「大遠征」の証拠ではなかろうか。
この「大遠征」の時に、この「大遠征」を背景としてキシュ王国を中心にして、セム人がメソポタミア全土を征服した。ということではないだろうか。ちなみに、その後メソポタミア文明で重要な役割を果たしたアッカド人、バビロニア人、アッシリア人などは、セム系の諸民族である。また、フェニキア人もイスラエル人もセム系の民族である。
引用文中では、ウルク後期の最末期から初期王朝期Ⅲ期まで(前3100年-2350年頃)が、シュメール人による都市国家時代であるとする一方で、ウバイド期(前5300-3500年頃)、つづくウルク期(前3500年~前3100年頃)やジャムダド・ナスル期(前3100年~前2900年頃)にいたるまで、南部メソポタミアでは文化の大断絶はないとも言っている。
だとするならば、前2900年頃、文化の断絶があったということだろう。この断絶は、「セム人の進出」だったのであり、それはすなわち、エジプト王の「大遠征」によるメソポタミア支配だったのではなかろうか。だから、キシュ王とは、エジプトから見れば、総督(地方・u梺キ官)であったのだろう。
(この総督を従属する異民族に任せたのが、エジプトの失敗だったかもしれない。それは長く続くことはないからだ。長い目で見れば、失敗だろう。エジプトから見れば、総督は自民族で構成すべきであったろう。)
以上の2つが、現代の歴史学から見た証拠である。この時期、エジプトはメソポタミアを征服し、支配したのだろう。だとすれば、世界人口の過半がメソポタミアとエジプトに集中していたこの時期に、エジプトがその他の地域を征服することは比較的簡単であっただろう。
以上によって、ヘロドトスの『歴史』における、エジプトは前2900年頃メソポタミアを支配し、その他にも広大な地域を征服、支配したという記述はほぼ間違いないとみていいのではなかろうか。このようにみると、エジプト王セソストリスによる「大遠征」は前2900年頃の出来事ということになる。第1王朝と第2王朝の境目である。そのどちらになるかは判らない。
「大遠征」の否定説ところが、この「大遠征」はなかったことのように否定されている。この否定説が一般である。訳者の松平千秋(まつだいらちあき)氏も、訳注で「異論はある」としながらも、第19王朝のラムセス2世のことだとしている。また、藤縄謙三(ふじなわけんぞう) 氏も同じく、ラムセス2世の遠征だろうとしている。
(引用開始)
ヘロドトス『歴史・上』(岩波文庫、1971年)から
[訳注] セソストリスは普通第19王朝のラムセス2世(前14世紀後半〔ママ-引用者〕)のこととされる。ただし異論はある。(P425)
藤縄謙三『歴史の父 ヘロドトス』(新潮社、1989年)から
さて、右の王名表に続く時代の王たち十代になると、様相は一変し、神官たちは詳細に事蹟を物語る。例えば、その第一代目のセソストリス王は、名前から言えば、第十二王朝の Senwosret を指すらしいが、国外へ大遠征を敢行しているから(巻2-102~110)、その点から言えば、第十九王朝のラムセス二世(前1290-24)を指しているようである。
遠征から帰ったセソストリス王は、捕虜たちを強制労働に使役し、全土に縦横に運河を開削させて灌漑し(巻2-108)、国民の各々に同面積の方形の土地を分与して、年貢を課したという(巻2-109)。要するにエジプト王国の経済や財政の基礎は、この王によって置かれたことになる。(P168)
(引用終了)
バードです。 藤縄氏は、国外への大遠征はラメセス2世のこととし、遠征で連れてきた捕虜たちを使役したのは、セソストリス だというのである。そして遠征の記述に対してはなにも論及しない。これは変な論理である。
これが世界の学界の動向なのであろう。だから普通、この大遠征を書いた歴史書はないのだ。エジプト王で最大の遠征をしたのはラメセス2世だということだろう。しかしラメセス2世は北シリアのカデシュで五分五分の激戦をしたのみで、それ以上北に進めなかった。つまり、小アジアへさえも進めなかったのである。また、紅海やアラビア海への遠征もないようだ。
(引用開始)
岸本通夫ほか『世界の歴史2・古代オリエント』(河出文庫、1989年)
この(第19)王朝が理想としたのは、第18王朝時代の繁栄を取りもどすことであった。夢よもう一度というわけである。ラメセス1世(在位前1303-02年ごろ。ギリシア名、ランプシニトス)が在位わずか2年で死んだあと、セティ1世(在位前1302-1290年ごろ)、ラメセス2世、メルネプターの諸王は失地回復につとめた。
かれらはたびたび西アジアに出兵したが、南下するヒッタイト国の勢力と衝突して、戦局は思うようにはかどらなかったらしい。ラメセス2世 (在位前1290-24ごろ)がヒッタイト軍とまじえたカデシュの戦い(前1285)はことに壮烈をきわめた。その模様は両国の記録にくわしくとどめられて、今日まで伝わっている。
戦機いよいよ到来したとき、ファラオは、敵のスパイの偽情報をまに受けたばかりに大敗を喫し、奮戦のすえ、やっと危地を脱することはできたものの、この戦いでエジプト軍は甚大な損害を受けて、南に退いた。このように何度も戦いが繰り返されたのち、両国間には平和条約が結ばれた。ラメセス2世はのちにヒッタイト国の王女を第一婦人に迎え、永遠の友好関係を誓っている。(P245)
(引用終了)
バードです。 このように、『歴史』の「大遠征」とラメセス2世の遠征は全く違う。なのにどうして、これらを同一視しようとするのであろうか。そして、この「大遠征」の記述に対しては論評を避けている。エジプトの神官がこれをラメセス2世の事績として話したのならば、ヘロドトスにはそれはウソだと判ったはずで、この記述はなかったか、もっと異なったものになったであろう。
ヘロドトスは初期王朝期の事績として聞いたはずである。この「大遠征」がラメセス 2世の遠征のことであるとするならば、ヘロドトスが ウソを書いた、あるいはエジプトの神官に騙されてそのままウソを書いたということになる。
実際、一般には、『歴史』のこの部分(巻2-102~110)は事実無根の架空の話、間違いだらけの記事として扱われているのだと思われる。そしてそれゆえ、この部分は歴史学から無視されているのだろう。
むすび
このように、ヘロドトス『歴史』に書かれたエジプトの「大遠征」は、なかったことになっている。初代エジプト王が建てたヘパイストス(プタハ)神殿は、今はほとんど跡形もなく、ナツメヤシが茂る畑地になっているようだ。セソストリスの建てた6体の巨大石像も跡形もないのだろう。
(引用開始)
尾形禎亮監修『ナイルの遺産-エジプト歴史の旅』(山川出版社、1995年)から
メンフィスは、統一王朝の成立後間もない時期に上下エジプトの境界に建設された都であった。この都は初め「白い壁」インブウ・ヘジュとよばれたが、のちにペピ1世のピラミッド名をとってメンネフェルとよばれるようになり、これがさらに転訛(てんか)してメンフィスとなった。
メンフィスの町は、古王国時代まで首都として栄え、その後も長らく下エジプト第一州の州都として重要な位置を占めていた。ミート・ラヒーナ村の近くにあるメンフィスの遺跡には、かつての繁栄をうかがわせるものはほとんど残っていない。
わずかに、メンフィスの主神プタハの神殿跡とそのまわりにいくつかの遺物、たとえば石灰岩製のラメセス2世の横たわる巨像や、アメンヘテプ2世のものとされるスフィンクス、聖牛アピスのミイラづくりに使用された解剖台などが散在しているだけである。(P79)第1王朝成立後(前3000年頃)首都であったメンフィスの主神プタハを祀った神殿のあったといわれる遺跡跡。かつての繁栄を物語るものは残っていない。(巻頭・写真でみるエジプト-メンフィス)
(引用終了)
バードです。 これは、エジプトが最も栄えた時代の遺跡が徹底的に破壊されたということである。いつごろだれがなぜ破壊したのだろう。この破壊とともに、エジプト初期王朝時代の歴史が消えてなくなったようだ。これによって、この「大遠征」の具体的証拠はなくなったのだろう。
しかしそれでも、私はこの「大遠征」はあったと思う。さらに、ヘロドトスの『歴史』は、この「大遠征」はトラキア、スキュティアまでだとしているが、私は、艦隊を率いて、ギリシア、・・・スリア、フランス、スペイン、アルジェリア、チュニジア、リビアと地中海を焔uれたのではないかとさえ考えている。
当時それがあったとしても、ちっとも不思議ではないと思うのだ。(言うまでもなく、このころはまだ、ギリシアの地にギリシア人はいなかった。ローマ人はローマの地にいなかった。)
私は、歴史知識があるわけではない。歴史学者からみれば、中学生程度の知識しか持ち合わせていないだろう。ここ数年当学問道場で得た知識によって、歴史にウソがかなりありそうだと確信し、それから歴史を批判的、多面的に読み出したばかりである。
だから、エジプトの支配があった場合どういう意味になるのか、またエジプト文明の評価がどうなされているのか、どうなされるべきか、そういうことは判らない。またエジプトを深く知るにはどんな本がよいかなど、知らない。
しかし少ない知識でもそれらを丹念につなぎ合わせれば、見えなかったものが見えてくる。無視され抹殺されたところも見えるようになる。そのわずかの知識・情報を検討した結果、エジプトの征服が、その頃(前2900年頃)あったのではないかと思うのだ。またそう考えれば、この時代の人類史の据わりがよくなると、感じてのことだ。(了)
(鳥生バード論文、転載終わり。副島隆彦記)
From: "副島 隆彦" GZE03120@nifty.ne.jp
To: "鳥生 守 様
Sent: Saturday, December 09, 2006 9:49 AM
鳥生 守君へ
副島隆彦です。
私は、去る2006年11月4日の私たちの講演会でも話したとおり、、君の学説を採用して、セソストリス王が、紀元2900年ごろに、エジプトから攻め進んで、メソポタミア(シュメール)人がずっと住んでいた地帯、今のバグダッド=バビロン 周辺)を征服して、人類で最初の、世界帝国(世界覇権国)である。
セム族=もともとの北アフリカ黒人系?=による征服王朝?)をつくり、これが、そのまま人類の古代文明のはじまりである。そして以後、ずっとこの5千年間、ここが人類のすべての文明のである、と言う考え。
そして、セソストリス王は、トルコ(小アジア半島)から、さらに先の方まで、ずっと征服して回った、本当の大王(大王というのは、本当にものすごく戦争が強かった王だけに与えられた尊称である) だという考えに賛成します。
ところが、このセソストリス王の記述は、ヘロドトスの「歴史」中で、わずか、2ページだということ。このことが少し気になります。
それから、「船で紅海(こうかい)を渡った」とか、書いてあります。私は、当時の、紀元前3000ぐらいは、エジプトからメソポタミアまで、ずっと、森林(レバノン杉のような大木が生い茂る)もあったような沃野(よくや)が続いています。
そして、草原や農耕地にも部分的 (川のほとりとか)にははなっていて、そこをたどって、セソストリス王のエジプト人の軍団がメソポタミアまで、攻めて行って、征服したのだと、考えています。 すなわち、当時は、シナイ半島も今のような砂漠ではなかっただろう、と。
ですから、船で、アラビア半島に渡った部隊もいただろうけれども、本隊は、陸路を行ったはずだ、とどうしても考えます。 この辺が、私は、どうもしっくり来ないのです。
この紀元前3000年(今から丁度5千年前)問題を、第四?氷河期(最後の氷河期)の終わりの時期との関係で、まだ、確定できないのです。それで、まだ、考え込んでいます。さらに最新の君の考えを教えてください。 副島隆彦拝
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
私たちが、これまで読んできた日本の歴史の本は、僧侶たちの目からみたものではなかった。僧侶の目からみた日本の権力者たちや体制の作り方、というものの本当の姿を、横山老師の文から知って、私は本当のことをたくさん知りました。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
わかりやすい日本仏教史④
室町時代から安土桃山時代の仏教
[大法輪誌平成十八年三月号カルチャー講座掲載]
鎌倉幕府が滅ぶと、建武の新政を経て室町幕府が起こり、応仁の乱の後、戦国時代が到来します。そして、やがて信長秀吉の時代を迎える戦乱の世に、仏教がどのように時代に関わったのか見てまいりましょう。
● 建武の新政
天皇制の歴史の中で稀な天皇親政を実現した後醍醐天皇(在位一三一八ー一三三九)は、地方武士のほか天台真言や興福寺などの寺院勢力をも味方に付けていました。中でも真言僧文観(一二七八ー一三五七)は後醍醐天皇の帰依を受けて醍醐寺座主となり、鎌倉幕府倒幕を祈祷。後醍醐天皇は倒幕を果たし、新政を実現します。
しかし京都の治安は乱れて政治は混乱し、足利尊氏が兵を挙げて光明天皇を擁立すると、三年足らずで新政は崩壊。後醍醐天皇は逃れて行宮を営み、吉野と京都に朝廷が両立し、全国の武士も両勢力に別れて抗争が続く南北朝時代となります。文観は側近の一人として吉野や河内にも随行し、南朝復興に尽力しました。
● 室町幕府と臨済p> 京都に幕府を開いた尊氏は、鎌倉幕府滅亡や南北朝の動乱で死んだ人々の怨霊を何よりも恐れていました。そこで帰依していた臨済宗南禅寺の夢窓疎石(一二七五ー一三五一)に勧められ、諸国に安国寺と利生塔を建立。敵味方一切の霊を弔う怨親平等の精神に基づく鎮魂を祈らせ、後醍醐天皇追悼のため京都に総安国寺として天竜寺を建立します。「安国寺」は既存の禅刹を安国寺と認定し、「利生塔」は真言天台律などの旧仏教寺院により新たに建立されました。
幕府は、一三四二年南宋の官寺に倣い「五山十刹の制」を定めます。南禅寺を五山の上に置き、五山の下に十刹やその他末寺が定められました。天竜寺、相国寺、建仁寺など権勢上五山と格付けされた臨済宗寺院では、五山文学と言われる自らの修養の境涯を漢詩に表現する漢詩文や儒学などの研究が盛んでした。
夢窓門下の春屋妙葩は、三代将軍義満によって禅宗寺院僧侶を管理する「僧録」に初めて任ぜられ、諸禅寺の住職任免、所領寄進などの行政的権力を与えられます。義満は京都と鎌倉にそれぞれ五山を定め、臨済宗は室町幕府の官寺と化し、大勢力を築きました。
● 室町文化と時p> 臨済禅の宗風は文学だけでなく、書画や印刷、建築、彫刻、造園術なども明からもたらします。
枯淡の美を追究する水墨画が流行し雪舟など山水画に卓越した禅僧が現れ、苔寺で有名な西芳寺庭園などこの山水画の趣向をいれた禅宗庭園が夢窓らによって造営されます。枯山水・竜安寺の石庭も室町時代後期に築庭されたものでした。
また、八代将軍義政によって、鹿苑寺銀閣など後の住宅建築の原型となる書院造りが発達します。茶の湯も、義政が書院の茶として禅の精神を茶に取り入れ始めたもので、侘び茶として町衆や公家・武家に広まり、後に千利休が登場し大成します。
時宗(じしゅう)は、遊行回国を行う一方、各地に道場を設けて信徒を組織し、農民や在地小武士らにも教えが広まります。
また、従軍して負傷者を看取り、戦没者を弔う陣僧としての役割を担い、軍旅を慰める興を催す活動から阿弥衆として芸能文化の創造に関わることとなります。猿楽師観阿弥・世阿弥の父子は時宗の徒と伝えられ、将軍家の庇護のもとに能を大成しました。
●曹洞宗の発展
幕府公認の臨済禅は次第に一般武士や商工業者などとの関係が薄れたのに比べ、曹洞宗は、時代に相応した浄土教や真言などとの兼修禅を唱えることによって民衆に禅を広め、発展します。
瑩山紹瑾(一二六八ー一三二五)が出て、北陸に教勢を張り、能登の諸寺を禅院に改め、また後醍醐天皇の「十種勅問」に奉答して帰依を受け、総持寺に勅額を賜って永平寺と並ぶ根本道場としました。
室町時代後半、戦国の世になると臨済禅の間隙をぬって教線を拡大し、各地地頭、領主など武士を支持者にして全国に広まりました。
●浄土宗の発展
法然歿後二十あまりの流派に分かれていた浄土宗では、法然の弟子で、平生の多念の念仏を重んじる弁長の流派から聖冏(一三四一ー一四二〇)が出て、浄土宗の教義を大成。独立した一教団としての基礎を築きます。関東地方へ布教して信徒を獲得し教団を拡張しました。
弟子の聖聡は常陸や千葉の領主の保護を獲得し、江戸に増上寺を建立。浄土宗寺院は全国の在地領主たる武士団の援助のもとに建立され、菩提寺として発展していきます。
また、皇室の浄土宗への信仰は非常に篤く、浄土教に深い知識のある僧侶に帰依して教えを受けています。清浄華院等煕は、一四六二年国師号を後花園天皇から賜り、一四六九年には知恩寺の法誉が朝廷の命令で天下泰平・国家安全・宝祚長久を祈祷しています。
●応仁の乱と一向一揆
一三九二年、義満の時代に南北朝の和議が交わされ、後亀山天皇が京都大覚寺に入り南朝が解消。これによって武家の分裂は収まります。
しかし、八代義政の後嗣争いから応仁の乱(一四六七~一四七七)が起こると、京都から各地へ戦乱が広がりました。京都の名刹寺宝は灰燼と化し、荘園が消滅した諸大寺は衰退していきました。そして、和議成立後も幕府は有名無実の存在となり、ついに群雄割拠の戦国時代が訪れます。
親鸞亡き後、有力教団が三派に分かれた浄土真宗(一向宗とも呼ばれる)では、親鸞の曾孫で比叡山や南都で学んだ覚如が、大谷本廟を中心とした本願寺を建立し、教団を立て直します。
その後一世紀に及ぶ沈滞期を経て蓮如(一四一五ー九九)が出て、現在にいたる真宗教団の発展を基礎づけたと言われています。蓮如は、階級職業の差別無く、平常の信心が確立するとき往生が決定するなどと平易な文章にしたためた「御文」を用いて伝道しました。
そして、北陸、東海、近畿の手工業者や農民に布教し、多くの信徒を獲得するようになると比叡山衆徒に襲撃され、蓮如は北陸の吉崎に本願寺を建立します。
その隆盛を見た加賀の守護富樫政近が本願寺を攻撃すると、蓮如は京都山科に逃れ本願寺を建設。その後本願寺門徒による一向一揆は政近を敗死させ、一四八八年加賀国は本願寺領となり、一世紀あまり土豪や農民と僧侶が合議制によって統治しました。
●法華一揆
応仁の乱後、焦土から復興した京都の町は幕府権力の低下により、武装化した町衆による自衛が計られます。法華(日蓮)宗は鎌倉末期に京都に布教して以来、しだいに勢力を拡大、戦国時代中期には洛中に大寺院が多く建てられ豪壮な寺域を擁していました。
一向一揆が京都に迫ると、細川晴元らと結んで法華門徒が蜂起。生活と財産防衛のため町衆が法華の信仰と結びつき二年に亘り戦い、法華宗門徒による京都防衛は成功します。
しかし、一五三六年法華宗徒が比叡山衆徒と衝突すると、比叡山に味方する興福寺や六角氏の援兵により寺院を焼かれ、法華宗側は敗北。京都の法華各寺院は堺に逃れました。
●信長の叡山焼き討ち
天台宗では、皇族や摂関家出身者を延暦寺座主に迎えて祈祷や修法に努め、また学者も輩出し念仏も盛ん
に行われていました。
西教寺の真盛(一四四三ー一四九五)は、戒を重んじた称名念仏を説いて、後土御門天皇の帰依を受け、天皇はじめ公家たちに源信の「往生要集」や浄土経典を講じています。各地に百余りの不断念仏道場を開き数多の帰依を受けました。
しかし、一方で比叡山には暴逆な衆徒が僧兵となり、浄土真宗など新しい宗派の進出を圧迫して戦乱を起こしていました。
一五四三年、ポルトガル人によって鉄砲が伝えられると、いち早く導入した織田信長が諸大名を破って上洛を果たし、なおも激しく抵抗を続ける寺院勢力の根源を抑えるため寺院所領の削減を図ります。
(根来寺根本大塔)
真っ先に削られた延暦寺は、それを不服として朝廷に訴え出ますが、浅井・朝倉勢を匿ったことに端を発して、信長は、一五七一年、比叡山の堂塔を焼き払い僧俗三千人を殺戮。
さらに、徹底抗戦していた各地の一向一揆をも平定していきます。最後まで抵抗していた石山本願寺も一五八〇年に開城し、一向一揆もついに終息しました。
●秀吉の根来・高野山征伐
応仁の乱の後、真言宗でも、高野山や根来山
では学僧とは別に経済的運営を司る行人と呼ばれる僧らが寺領を守るため自ら武器を取って僧兵化していました。彼らは寺領保護の名目で他領を横領し、一時高野は百万石、根来は七十万石を領していたと言われます。
高野山は信長に反逆した浪士を匿い、信長と対立します。ときあたかも戦国武将の間を隠密として徘徊する聖衆があり、信長は千人を越える高野聖を捕らえ処刑。
さらに、一五八一年、信長は高野征伐を決し、十三万の軍勢を配して高野山を包囲、攻撃します。これに対し山上では防戦と降伏祈祷の修法に努め陥落せず。翌年、信長は京都本能寺で明智光秀の夜襲により客死します。
信長の後を継いだ秀吉は、一五八五年十万の兵とともに根来山を攻め、大小二千七百の全伽藍を焼き払い、これにより根来山は貴重な聖教重宝の数々を失いました。
秀吉は根来山攻めの後、高野山にも迫ります。高野山客僧・木食応其(一五三六ー一六〇八)は、このとき秀吉の陣中にいたり赤心から一山の無事を請い願い上げます。これに感動した秀吉は、自らの祈願のため存続を許し、逆に一万石を寄進。さらに生母供養のため青厳寺(現在の金剛峯寺)を建立しました。
(高野山金剛峯寺)
●キリシタンの波紋と秀吉の宗教政策
反宗教改革の戦いを挑む尖鋭集団であったイエズス会の創設メンバーの一人、フランシスコ・ザビエルが鉄砲伝来の六年後に九州に上陸し、キリスト教を伝えます。
イエズス会は、日本の神仏信仰を偶像崇拝だとして批判。仏教僧、特に禅僧との論争を早くから展開します。仏教側の唱える輪廻思想に対しキリスト教は創世説を説き、万物の創造者を認めるか否かで議論が分かれたと言われています。また、キリシタンになった者でさえ、神の存在を知らずに死んだ先祖が地獄に堕ちて永久に救われないという教えには納得しなかったと言います。
信長は、寺院勢力を押さえ込み、また貿易の利潤を手にするためキリスト教の布教を許可。そして、京都に南蛮寺(教会)、安土にはセミナリオ(神学校)の建設を認めます。
布教を認めた大名の港には貿易船が入港し、布教と貿易が一体となっていました。さらにキリシタン大名大村純忠が長崎を教会領として寄進したことを知ると、秀吉は「日本は神仏国であり、日本の神を認める仏教と認めようとしないキリスト教とは氷炭相反する」として、一五八七年、キリスト教の布教を禁じ、バテレン(宣教師)追放令を発布します。
秀吉は、太閤検地(一五八二)によって土地制度を一新してすべての寺領を没収し、後に由緒確かな所領のみ寄進名目で返還。本願寺や比叡山、高野山、興福寺などの復興を援助します。
そして、一五八九年奈良の大仏をも凌ぐ方広寺大仏を京都東山に造立。亡き父母の供養として大仏殿落慶には各宗の僧を招き千僧供養(一五九五)を行いました。しかし、これら一連の施策は仏教界全体の懐柔を目論むものであったと言われています。
鎌倉時代に誕生した新仏教が生活文化にまで深く浸透する一方で、仏教が政治権力に対する抵抗勢力として影響力を示した時代でした。しかし、それが故に体制に飲み込まれていく先駆けともなりました。
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わかりやすい日本仏教史⑤
江戸時代の仏教
[大法輪誌平成十八年四月号カルチャー講座掲載]
今回は、二百数十年に及ぶ近世封建制度の中で仏教がどのように継承されていったのかを見てまいりましょう。
●江戸幕府と寺院統制
一六〇三年江戸に幕府を開いた徳川家康は、二年後には征夷大将軍を秀忠に譲与し、大御所として実権を掌握。寺院統制や外交文書起草のため南禅寺金地院崇伝や天台宗の学僧天海ら僧侶を政治顧問として招きました。この頃既に、寺院勢力は武力も経済力も失っており、しだいに幕府に干渉統制され、封建機構の中に組み込まれていくことになります。
幕府はまず、各宗ごとに江戸に触頭寺院を置き幕府の命令を周知させ、本山の地位を保証した上で全国の末寺を組織統制させます。そして、一六〇八年に天台宗延暦寺に下した法度を皮切りに、崇伝(一五六九ー一六三三)起草による寺院法度によって各宗寺院の守るべき規則を定め、一六六五年には各宗共通の法度を発布。
各宗内の職制、座次、住職資格、本寺末寺関係などが規定され、末寺住職の最終任命権を本山が握ります。そして、すべての寺院が本山から本寺、中本寺、直末寺、孫末寺へいたる中央集権的な組織に組み入れられることになります。
また、法談の制限、勧進募財の取締まり、新寺建立や新興宗教の禁止などが規定されて、自由な布教活動や新しい教義、異説の提唱が禁止されたのでした。
●キリスト教禁制と檀家制度
キリスト教布教がスペイン、ポルトガルの植民地獲得の手段であることを知った家康は、一六一三年、崇伝に対し「バテレン追放の文」作成を命じます。
これにより宣教師が追放され、信徒の改宗が命じられると、改宗した者にはその身元を引き受ける檀那寺から寺請の証文を取らせました。
重税と飢饉に苦しむ農民らが起こした一揆にキリシタンが多く含まれていた島原の乱(一六三七)が起こると、幕府は寺請制度を強化。キリシタンだけでなく全住民に寺請が強要され、誰もがどこかの寺院の檀徒になることが義務づけられます。
一六六四年幕令によって、家ごとに各人の年齢宗旨を記載し捺印させて、村の名主と組頭が連署し、檀那寺の住職が証明する「宗旨人別帳(または宗門改帳)」の作成が全国画一的に法制化されます。これは戸籍の原簿として、また租税台帳としても利用されました。
婚姻、旅行、移住、奉公の際にも檀徒であることを証明する寺請証文の携行が、また死亡時には住職が検分し、キリシタンでないことを請け合いの上引導を渡すことが義務づけられました。そして、形の上では全国民が仏教徒となり、葬式、年忌法要、墓碑の建立が定着し風習化していきます。この所謂檀家制度が全国に普及するのは、四代将軍家綱の時代でした。後には一家一宗旨、さらには檀那寺を変更することも禁止されたのでした。
●東照宮造営と天海
家康は、死に際に幕府の守護神となることを遺言したと言われます。一六一六年、駿府で家康が息を引き取ると、側近の一人であった天海(一五三六ー一六四三)が、徳川家の子孫繁栄と幕藩体制の維持を願い、神道と仏教を融和した山王一実神道方式により、「東照大権現」の称号を勅許に基づいて贈与。天海は、日光山に東照宮を造営して、死の翌年家康を神として改葬しました。
さらに天海は江戸城の鬼門にあたる上野に寛永寺を創建して、東の比叡山、すなわち東叡山と山号して関東一円の鎮護とします。法親王の入寺を請い、天海死後法親王は輪王寺宮と称し天台座主として東叡山に常住しました。
●紫衣事件
尊貴を象徴し、古来高徳の僧尼に対し朝廷より賜っていた紫衣(紫色の法衣)は、朝廷の収入源の一つでもありました。
しかし幕府は、一六一三年、この紫衣勅許に先立ち幕府への申し入れを要するとした「勅許紫衣之法度」を定めます。そして、一六一五年には「諸宗本山諸法度」を定めて、僧侶・寺院の地位や名誉に関する朝廷の特権を剥奪し、僧侶の昇進一つも天皇の一存では通らない事になりました。
後水尾天皇(在位一六一一ー二九)は、幕府に相談なく十数人の僧に紫衣着用の勅許を与えます。このことが明らかになると幕府はその無効を宣言し、これに抗議した臨済宗大徳寺の沢庵宗彭ら四人の僧を流罪に処し、天皇は譲位。しかし、沢庵は後に許されると三代将軍家光の帰依を受け、品川に広大な敷地を有する東海寺を建て迎えられています。
●不受不施派(ふじゅふせは)の弾圧
法華(日蓮)宗に不信者から布施を受けず法を施さないとする不受不施派があり、京都妙覚寺の日奥はこの義を頑なに守り、秀吉の催した千僧供養を拒否。池上本門寺など関東の諸寺院に不受不施派の勢力が強まります。そして、国主の供養は別であるとする受不施派の身延山と対立。
法華の信者でない者を謗法者として、国主からの布施を受けないということは国主を誹謗者扱いすることになり、国家に対する反抗であるとして、幕府は一六三〇年、不受不施義の唱導を禁止。しかし、その後も勢力が衰えなかったため、寺領も布施であるとして、一六六九年不受不施派の寺請が禁止されて寺院からも追い出され、不受不施派は地下に潜伏したのでした。
●教学の振興と各宗の変遷
各宗派の自由な活動を制限する一方、寺院住職に一定期間の修行や学問を義務づけるなど、幕府は教学の振興を促します。檀林、学寮、談義所など学問所が整備され、宗祖研究、経典解釈など教学が促進されました。
浄土宗では、源誉慈昌(一五四六ー一六二〇)が家康の信任を受け、増上寺を現地に移して伽藍を整備。徳川氏との師檀関係を結び、関東に十八檀林を興して弟子らの修学に寄与しました。
本願寺が東西に分立した浄土真宗では、西本願寺に西本願寺学黌(後に学林と称す)が創設され宗学研究を奨励。東本願寺では、学寮と称して真宗学と南都の仏教や天台の学問を学ぶ兼学制により盛大となり、すぐれた学者を輩出します。
また曹洞宗では、早くから江戸に栴檀林が設けられ、祖録、仏典研究、漢学詩文の学問が学ばれ、儒学研究の昌平黌と並ぶ江戸の二大学問所として名を馳せ、多くの碩学を生み出しました。
新しい宗派の設立が制限された江戸時代に、唯一黄檗宗の開基が認められています。渡来僧の招きにより、一六五四年、中国黄檗山万福寺住持を辞して隠元隆(一五九二ー一六七三)が渡日。明の禅と念仏が習合した禅浄一致を説く念仏禅を伝えます。隠元は京都宇治に黄檗山万福寺を建立、日本の[黄檗宗]の開祖となりました。
臨済宗では五山は振るわず、妙心寺に教勢を奪われます。至道無難は禅を平易に表現して生活に即した禅を説き、一絲文守は天才的な禅説法により多くの人の菩提心を喚起、後水尾上皇の帰依を受けました。
無難の孫弟子に白隠慧鶴(一六八五ー一七六八)が出て、妙心寺第一座となるも名利を離れ、諸国を遊歴して三島の龍澤寺を開山。平易な言葉で喩えを用いて禅を説き、禅の民衆化に努めました。また多くの門弟を育て、今日臨済宗僧徒の大半がこの白隠の法流に属すと言われるほどの影響力を及ぼし、臨済禅の中興と言われています。
●綱吉と護持院隆光(ごじいん・りゅうこう)
五代将軍綱吉は、世に悪法とされる生類憐みの令(一六八五)を発布し、犬に限らず動物の殺生を禁じます。
綱吉は仏教に帰依して、寛永寺などを修築し、また筑波山知足院別院を移転して護持院と改称し神田橋外に大伽藍を造営。特に護持院の隆光には、生母桂昌院とともに帰依して毎年二回護持院に参詣するのが定例でした。
隆光(一六四九ー一七二四)は、真言宗新義派の開祖覚鑁に諡号奏請のために尽力し、興教大師号を賜ります。護持院は幕府の祈願所となり寛永寺、増上寺と鼎立。隆光は真言宗新義派の「僧録司」に任ぜられ、将軍の外護のもとに熱田神宮、室生寺など多くの寺社を復興。日々登城して権威を振るい、今日にいたる真言宗新義派の大勢を築きました。
●戒律復興 安楽律と浄土律
檀家制度ができて生活が安定し安逸に陥った僧界に対する非難の声が挙がると、各宗に僧風の粛正運動や戒律の復興運動が起こります。
最澄の念願により大乗戒壇を建立した比叡山に妙立(一六三七ー九〇)が出て、堕落を弁護する口実ともされた梵網戒に加え四分律を護持することによって乱れた僧風の粛正を主張。さらに本来衆生は等しくさとりの性を備えているとする天台本覚思想を批判して、中国の正統天台教学への復帰をも目指します。
弟子の霊空は、一六九三年第五代輪王寺宮公辨法親王の帰依を受け、叡山飯室谷の安楽院を律院として与えられます。そして、「安楽律」を唱えて宗内の改革を志し、東叡山、日光山にも律院を設けて安楽律を宣布。元禄以後は特にこの妙立・霊空の門流が栄えました。
浄土宗でも中期に僧風刷新のため浄土律が興ります。京都法然院を再興した忍徴は自誓受戒して律を広め、弟子に霊潭があり僧儀の復興に努めました。その弟子に湛慧、普寂の学者が出て、倶舎唯識など各宗を兼学。自誓受戒して律院を設け持戒念仏に専心し、多くの講席を開筵して、宗内に大きな影響を与えました。
●真言律と慈雲尊者
一方真言宗では、江戸の始めに明忍が出て、廃れた戒律復興を誓い、一六〇二年栂尾山で自誓受戒。槇尾山を戒律復興の道場として学徒を集めます。
そして、浄厳(一六三九ー一七〇二)は、戒を仏道修行の基本と位置づける「如法真言律」を唱導します。高野山で密教を修め梵語を研鑽して、明忍の旧跡槙尾山に登り、和泉高山寺で自誓受戒し、延命寺を創建。
一六八四年、江戸に出て講座を開くと常に聴者は千人を超え、数多の帰依を受けます。五代綱吉は湯島の地を与え霊雲寺を建立。浄厳は関東如法真言律宗総統職に叙せられ、百五十万人を超える人々に三帰五戒を授け、結縁灌頂を授けた者三十万余人と言われます。
さらに慈雲尊者飲光(一七一八ー一八〇四)は、お釈迦様在世当時の戒律復興を目指して
(慈雲尊者)
「正法律」を創唱します。慈雲は、奈良に出て南都仏教や真言宗を修学し、律を研究。臨済宗にも参禅し、のちに河内高貴寺が正法律の本山として幕府に認可され、無数の道俗、様々な人々を教化しました。
「十善戒」を人の人たる道と説き、宗派意識を越えてお釈迦様の根本の教えへの復帰を主張。後生の仏教者に多大な影響を与えました。神道、西欧の事情にも明るく、多くの著作がありますが、中でも日本に伝わる梵学及び梵語学習上の参考資料を蒐集網羅した「梵学津梁」一千巻は今日でも世界の驚異とされています。
●巡礼の流行と庶民信仰
檀家制度により信仰を選ぶことのできない民衆の自由な信仰心をかなえ、かつ物見遊山半分で遠く旅をして聖地に詣る、参拝旅行が元禄時代前後から流行します。
特にお伊勢詣りや讃岐・金毘羅詣りをはじめ、富士山、江ノ島、高野山、善光寺などへの参拝が盛んになります。また西国・板東・秩父の百観音巡礼や四国八十八カ所遍路が一般民衆にも流行します。
さらに、遠国の寺社の秘仏や霊宝が、江戸などの都市に出張して公開される「出開帳」が盛んに行われ、民衆が群参し賑わいました。
幕府権力の管理統制のため封建機構の一端を担わされた江戸時代の仏教は、信仰心を問うことなく全国民に仏教信者としての勤めを強いることになり、人々に崇高なる信仰の価値を見失わせる発端となりました。
しかし、各宗に真摯に時代と対峙し、特に持戒研学修禅に基づいて民衆を教化した高僧が現れ、仏教を継承していくのでした。‐
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わかりやすい日本仏教史⑥
明治時代の仏教
[大法輪誌平成十八年五月号カルチャー講座掲載]
今回は、明治時代という近代国家形成の過程において、仏教がどのように近代化を経験したのかを見てまいりましょう。
●排仏論と出定後語(しゅつじょうこうご)
黄檗宗(おうばくしゅう)開祖隠元(いんげん)の弟子鉄眼道光(てつげん・どうこう)は、一六八一年漢訳経典を総集した大蔵経六七七一巻を出版します。
この鉄眼版大蔵経出版に関わった富永仲基(一七一五ー四六)は、「出定後語」を著して仏典成立に加上説を創唱。真にお釈迦様が説いたのは阿含経の数章に過ぎず、後は後人の付加であると主張。後に大乗非仏説論に発展しました。
江戸後期になると、国学者本居宣長や平田篤胤らは仏教伝来以前の古神道を理想とする復古神道の立場から仏教を排撃。平田篤胤は「出定後語」の理論を借用して「出定笑語」を書き、文章が平易通俗的であったこともあり多くの人に読まれ、明治維新にいたる王政復古運動、さらには廃仏毀釈の思想原理になるのでした。
●神仏分離令と廃仏毀釈
九月より明治と改元される一八六八年三月、神祇事務局より神仏分離令が発令されます。神社に別当あるいは社僧として仕える僧侶の復飾(僧侶を辞めること)、神社でご神体としている仏像や梵鐘、仏具などの撤去を命じ、神社から仏教勢力の排除を通達します。
当時は神仏習合により、大きな神社であっても神職の上位に社僧など僧侶がいて神社を管轄し、神職はその指示に従っていました。しかし、仏教勢力からの独立を長年求めてきた神職らは、この神仏分離令が発令されると、幕藩体制下で寺院からの精神的圧迫に反発していた民衆を巻き込み、強引な破壊行為を各地で巻き起こします。この、世に廃仏毀釈と言われる野蛮行為によって、仏像経巻など国宝にも比せられる多くのものが瞬く間に全国各地で灰燼に帰す事態となりました。
一方では、奈良興福寺のようにすべての僧侶が何のもめ事もなく復飾して神官となり春日社に仕え、伽藍仏具などは処分されるといった例もありましたが、その多くは、神社と寺院に境内を分離して別々の管理のもとに置かれ、今日に至っています。
こうした神仏分離令による混乱の最中、この危機的な状況を打開すべく、一八六八年(明治元)十二月各宗派合同の「諸宗同徳会盟」が京都興正寺にて発足し、僧風の粛正と仏神儒の三道による国民教化、キリスト教排撃のための護国護法を訴え、仏教界全体に革新の気運を促すものとなりました。
●明治新政府の宗教政策
かくして王政復古の旗印の下にうち立てた明治新政府は、その権威のため天皇陛下を神権者とする国家神道を国教とする政策を推進します。
そのため、寺院を勅願所とすることや勅修の仏教儀礼は廃止され、それまで天皇皇族の菩提寺であった京都泉涌寺との関係は、一八六八年(明治元)十二月には改められ、皇室の葬礼も神式に改訂。
さらに江戸時代民衆掌握の手段として寺院に作成させた宗旨人別帳に代わり、一八七一年(明治四)戸籍法並びに氏子調規則が制定され、それまでの寺院の役割を神社がそのまま取って代わることになりました。
●大教院の設立と信教の自由
西本願寺の島地黙雷は、キリスト教に対抗するためには民衆教化に実績ある仏教が中心的役割を担うべきであるとして神道唯一主義を批判する建言を提出。一八七二年(明治五)教部省が設立され、神官僧侶双方による教導職が定められます。
そして、敬神愛国を広めることなどを規定した「三条の教則」が布告され、僧侶も天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治的思想を国民に浸透させる役割を担うことになります。
しかし教導職養成の為に設置した大教院は神道様式に仏教側が迎合し、単なる神仏混淆の新しい国教を作る運動と化し、神仏分離の当初の原則とも矛盾するものとなりました。
一方、一八七一年(明治四)末から欧米を訪問していた岩倉使節団は、訪問国でキリスト教迫害を抗議され、信教の自由を承認せざるを得ない状況に追い込まれます。時同じく欧州に宗教事情を視察した島地黙雷らは三条の教則は政教を混同するものであり、政教分離と信教の自由を主張する建白書を提出。仏教の自律性を要望します。
そして、一八七三年(明治六)にはキリスト教禁制を撤廃。氏子調べも中止となり、大教院は解散。神道を非宗教として信教の自由を保障することが通達され、仏教諸宗派の宗政については各管長に委ねることとなりました。
●肉食妻帯の解禁
一八七二年(明治五)四月、「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事」という、それまで僧尼令によって定められていた肉食妻帯の禁を解く布告がなされます。
さらに同年九月には僧侶にも一般人民同様に苗字を称させる太政官布告がなされます。これらは国家として出家者を特別扱いしないという意思表示であり、神道を国の教えとする上で当然のことでした。
戒律は、本来国家とは何の関わりもなく自発的に遵守されるべきものです。しかし、古来国法によって厳重に管理されてきたために、仏教の世俗化に拍車をかけるものとして志ある僧侶たちは反対し、一方では喜んで肉食妻帯する僧侶もあったということです。
その後、この肉食妻帯問題は明治後期に各宗の宗議会で戒律問題として公認すべきか否かで紛糾し、結局自然の成り行きに順じることとされ、今日に至っています。
●護法運動の旗手 行誡と雲照
こうした仏教排撃の機運に抗して仏教擁護のため僧風の粛正と宗派を越えた通仏教の立場から様々な護法活動が展開されます。
浄土宗の福田行誡(一八〇九ー八八)は、この混迷期に政府に対し数々の意見を建白したことで知られています。仏僧本来の面目に帰るには、まずは戒を守り自戒内省し、広く他宗の学問も修める兼学を提唱します。
伝通院、増上寺貫主として、縮刷大蔵経刊行にも着手。「仏法を以て宗旨を説くべし、宗旨を以て仏法を説くなかれ」と言われ、仏教の真理に基づいた説法をすべきであると戒めています。
また、肉食妻帯は法律上のことであって、僧侶のあるべき姿を真摯に守るべき事を要求して自らもそれを実践し、他宗の僧侶や民衆からも崇敬されたと言われています。
真言宗の釈雲照(一八二七ー一九〇九)は、古今未曾有の排仏の事態に至ったのは、みな僧侶自らの破戒濫行の罰であるとして仏教界の刷新を主張。その一方で、太政官に出頭して「仏法は歴代天子の崇信する所にして皇国の神道及び儒教の忠孝と相助け国家を擁護するものである」などと数度に及び建白。また宗内でも護法に奔走します。
一八八五年(明治十八)東京に出て、政府の大書記青木貞三、山岡鉄舟らの支援のもと目
(雲照律師五十歳頃東洋書院「釈雲照」より)
白僧園を建立します。戒律学校として平素四十名ほどの持戒堅固な僧侶がその薫陶を受け、その学徳と戒律を厳格に守る崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信はじめ、財界人、学者に及ぶ錚々たる人々が訪問し帰依しています。
雲照は、西洋哲学の方法論から仏教哲学を体系化した井上円了が創設した哲学館(後の東洋大学)で「仏教大意」を講じるなど、慈雲尊者の唱えた人間の原理としての「十善戒」を広く紹介。在家者のために「十善会」や「夫人正法会」を発足して、社会の道徳的宗教的な教会として国民道徳の復興に貢献しました。
●近代仏教学の萌芽
明治時代の仏教は、こうした戒律主義からの護法運動に加え、欧化主義の影響から原坦山、大内青巒、井上円了らによる仏教の開明的啓蒙活動が盛んに行われます。そして、さらに欧州で花開いた近代仏教学がわが国にもたらされてまいります。
欧州では十八世紀末頃から、植民地であったインドやセイロンに渡った官吏や司法官などが現地の言語文化を研究し、中でも梵語や初期仏教語であるパーリ語に惹かれ、辞書を編纂、数々の典籍を翻訳していました。
この欧州で発展した近代仏教学を学ぶため、日本からも多くの学者が訪れますが、中でもいち早く東本願寺の南条文雄、笠原研寿の二人が本山よりロンドンに派遣され、一八七六年(明治九)、梵語文献による仏教研究の開拓者マックス・ミューラーに師事。梵語を学びます。
南条文雄(一八四九ー一九二七)は、岩倉使節団が帰国後イギリスに贈呈した鉄眼版大蔵経の目録を梵語題名と題名の英訳、それに解説を付した「三蔵聖教目録」を出版するなどの功績によりオックスフォード大学から学位を得て、一八八四年(明治一七)帰国。
南条文雄の紹介で、一八九〇年(明治二三)ロンドンにマックスミューラーを訪ねた高楠順次郎は、欧州におけるインド学の黄金時代にインド学梵語学を学び帰国。渡辺海旭らと共に漢訳経典叢書である「大正新脩大蔵経」や南方仏典を翻訳した「南伝大蔵経」出版など大事業を指揮。文献実証主義によるインド学仏教学の伝統をわが国に築きました。
こうして、学問の世界では漢訳仏教ではない、インドの香り高い仏教が欧州経由で研究され、中でも小乗と貶称されてきた南方上座部所伝の仏教が仏教学の主流となりました。
(インド文字によるパーリ語在家勤行次第)
●海外交流の先駆者 興然と宗演
時同じくして、仏教の本場を訪ねその実情を学び、わが国の衰亡した仏教を振興すべく海外に旅立つ僧侶が現れます。
釈興然(一八四九ー一九二四)は叔父雲照の勧めにより、一八八六年(明治十九)セイロンに渡ってパーリ語を学び、一八九〇年キャンディにてスマンガラ長老を戒師に具足戒を受戒。ここに日本人として初めて南方上座仏教の僧侶(グナラタナ比丘)が誕生します。
翌年には、のちにインド仏蹟復興に貢献するダルマパーラ居士と共にインドに渡航しブッダガヤに参拝。ヒンドゥー教徒に所有され荒廃した大塔を含む聖地買収をダルマパーラ居士と共に計画。興然は雲照とも連絡を取り奔走しますが、諸般の事情が許さず断念します。
興然は七年に及ぶ外遊後も南方仏教の黄色い袈裟を終生脱ぐことなく、自坊三会寺で南方仏教の僧団を日本に移植すべく外務大臣林董を会長に「釈尊清風会」を組織。弟子らをセイロンに派遣します。
一九〇七年(明治四十)には、当時わが国で最も持戒堅固の聖僧として仏教国タイに招待され、一年間滞在。しかし南方仏教の僧団移植は叶いませんでした。
また、鎌倉円覚寺の釈宗演(一八五九ー一九一九)は、一八八七年(明治二十)より興然滞在中のセイロンの僧院に三年間滞在。帰国後円覚寺管長となり、一八九三年(明治二六)米国シカゴの万国宗教大会に日本代表の一人として出席。この時の講演原稿を英訳したのが宗演の弟子鈴木大拙でした。
その講演に感銘を受けた宗教雑誌「オープンコート」発行人ポール・ケーラスのもとに大拙は編集員として奉職。禅や東洋思想を次々に米国で紹介していきました。
宗演は、日露戦争にあたり建長寺管長として従軍僧となり、一九〇六年(明治三九)に両派管長を辞すると、渡米して諸大学で禅を講じ、大統領とも対談するなど、大拙とともに禅の世界に向けた啓蒙に成功したのでした。
●西域探訪 光瑞と慧海
脱亜入欧と言われ、仏教も欧州を経由して新しい研究がなされ始めた頃、アジアに目を向けて旅立ち貴重な文物をもたらす僧侶が現れます。
ロンドンに当地の宗教の実情と制度研究を目的に滞在していた西本願寺の次期宗主大谷光瑞(一八七六ー一九四八)は、スタインなどの西域探検に触発され、中央アジア探検を決意。光瑞は、大谷探検隊を組織、一九〇二年(明治三五)から三回にわたり、仏教東漸の経路を明らかにすることや遺存する経論仏像などの蒐集を目的に派遣、各地から貴重な仏像仏画古文書類を持ち帰りました。
また黄檗宗の河口慧海(一八六六ー一九四五)は、漢訳経典の正確さに疑問を感じ、梵語やチベット語経典の入手を発願。一八九七年(明治三十)より二回にわたりインド、ネパール、チベットを訪ね、チベット語、梵語を習得。梵語仏典、チベット大蔵経をはじめ仏像仏具、動物植物鉱物の標本に至る膨大な資料を持ち帰ります。
帰国後は、持ち帰った膨大な経典の研究翻訳、文法書や辞書の編纂に努めます。東洋大学などでチベット仏教を講じる傍ら、お釈迦様の教えへの回帰を目指して仏教宣揚会を結成。出家が成り立たない時代にあっては、三帰五戒受持を根幹とする在家仏教を実践すべきであると提唱し、真正なる仏教の再生に邁進しました。
文明開化の明治という変革の時代、僧侶や在家仏教者により仏教の近代化のために様々な活動が展開され、仏教を時代に対応させようと努めた時代でした。
六回にわたり日本仏教史を学んでまいりました。各時代の歩みに学び、今を生きる私たちの教えを模索する一助となればありがたいと思います。 おわり
(本稿が掲載された大法輪誌の 創刊号と最近の表紙)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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(転載貼り付け始め)
わかりやすい日本仏教史②
平安時代の仏教
[大法輪誌平成十八年一月号カルチャー講座掲載]
今回は、天皇親政による律令制がしだいに衰退し、藤原氏系の貴族が政治の実権を握る時代が続いた後、院政を経て武士階級の台頭を迎える平安時代の仏教を見てまいりましょう。
● 日本仏教の二大巨人①ー最・ 桓武天皇(在位七八一-八〇六)は即位後都を長岡に遷し、さらに七九四年平安京に遷都して人心の一新とともに、仏教界の刷新を図ります。
後に天台宗を開宗する最澄(七六六-八二二)は、近江に生まれ受戒の後、世俗化した奈良の官寺をさけて比叡山に草庵を結びました。この参籠行の間に、宮廷の仏事に奉仕する「内供奉十禅師」に任ぜられ一流の宗教者として公認されるようになります。
そして八〇四年入唐し、九ヶ月半ほどの間に天台山の行満に天台、越州の順暁からは密教を伝授されるなど多くの高僧から教えを受け、さらに多くの典籍を入手して帰朝。
桓武帝から熱烈な歓迎を受け、翌八〇六年には、円(天台の教え)密(密教)禅(禅の行法)戒(戒律)の四つを兼学する一大仏教センターとして[天台宗]を立宗します。
最澄は、様々なこの世の中の表れである現象をそのまま真実の姿であると捉えました。そのため、さとりと迷いの世界の同一性を強調し、さとりについてもその機根を問うよりはすべての人にさとりを開く能力があるとして、無差別平等の思想を説きました。こうした最澄の思想は法相宗との論争にも発展しましたが、後の日本仏教は最澄的な立場が主流となり、日本仏教を性格づけることになるのでした。
さらに最澄は、南都仏教が支配する東大寺戒壇での四分律(二五〇戒)に基づく受戒を小乗戒と否定、僧侶も大乗菩薩であるべきとの信念から、本来在家者のための戒を説く「梵網経(十重四十八軽戒)」を大乗戒として出家者に受戒させる大乗戒壇を設けることを上奏。こうして最澄の死後八二八年、それまでの三戒壇に加え、他国からは認められないもう一つの国立戒壇が比叡山に成立しました。このことはその後、最澄の意に反して戒律軽視の傾向を助長することになるのでした。
● 日本仏教の二大巨人②ー空海
最澄が入唐した第十二次遣唐使第一船に乗っていた空海(七七三-八三五)は、讃岐に生まれ、後に都にのぼり大学に学ぶものの仏道に志し、四国で虚空藏求聞持法を修すなど山林での苦修練行に加え、詩文や語学、書道の才に卓越していたことも幸いし留学僧として入唐を果たします。
空海は、時の世界都市長安でインド僧般若三蔵や牟尼室利三蔵らに梵語を習い、正統な真言密教の継承者であった青龍寺の恵果阿闍梨に遇い、密教の大法を悉く相伝され、経論、曼荼羅図、密教法具などを授かりました。在唐二年ほどで帰朝した後、これら密教の典籍や絵図など二一六部四六一巻を記録した「御請来目録」を朝廷に奉り、密教思想の体系化に着手します。
最澄は、自らの密教を補完するために度々経典類の借覧を空海に申し入れています。嵯峨天皇(在位八一〇-八二三)が即位すると、空海の文人としての才と密教の祈祷が宮廷や貴族に受け入れられ重用されました。そして八一二年高雄山寺にて、最澄の依頼により最澄とその門弟泰範、円澄らに金剛界、胎藏界の結縁灌頂を授けています。
空海は宇宙的スケールのもとに南都仏教や天台の教えをも含む総てを包摂する密教的思想体系を作り上げ、その実践法表現法をも兼ね備えた真言教学を大成。
空海は、八一二年[真言宗]を開宗し、この広大な実践的思想体系を体現する道場として、八一六年高野山が下賜され、八二二年には東大寺に真言院を建て、翌年には京都東寺を賜っています。さらに正月に宮中で行われる最勝王経を読誦する法会に真言密教による「御七日御修法」を併せ行う勅許を得て、南都諸大寺ばかりか宮中での修法も密教化することに成功していきました。
(高野山根本大塔)
● 密教化する南都仏教
南都の諸大寺は、九世紀半ば頃より律令制の崩壊から経済的援助を貴族に求めざるを得ず、彼らの要望する密教の修法を行うために真言密教を兼学する必要に迫られます。
そしてそのために官寺ではそれまでの上座・寺主・都維那といった三綱組織を廃して、貴族の子弟が迎え入れられる貴族化密教化を余儀なくされました。
最も勢力のあった法相宗では、新興勢力であった天台の最澄と、一切の衆生に仏になる可能性(仏性)を認めるか否かという論争を行った会津の徳一や大乗戒壇に反対した護命らをはじめ多くの優秀な学僧を輩出し、藤原氏の氏寺であった興福寺を中心として栄えました。
律宗では、東大寺戒壇で受戒した僧が唐招提寺で一年から五年戒律を学ぶ規則があり隆盛を誇りますが、比叡山に大乗戒壇が出来た頃からこの風習は廃れ衰微しました。
● 天台宗の発展
天台宗では、円仁(七九四-八六四)が入唐して五台山や空海が修学した長安の青龍寺で密教を学び帰朝。天台の教えと密教は理論的には同等であるが実践に於いては密教が勝れているとして、天台宗も密教化していきました。
また円仁(えんにん)は、比叡山に実践法として中国天台山の「四種三昧」の行法を取り入れ、中でも常行三昧に五台山の五会念仏の節と作法を採用し、その後弟子らによって不断念仏法となり日本浄土教の起源となります。
また有名な回峰行(かいほうぎょう)(一定期間比叡山の西塔東塔横川の三塔を巡る行)は、円仁の弟子相応が創始し、さらに彼の努力により最澄と円仁に伝教、慈覚の両大師号を賜りました。
その後天台宗も貴族の子弟が登山して生活が貴族化したり、有力流派の反目があり、十世紀後半頃からは僧兵が跋扈する時代を迎えます。
そうした穏やかならぬ世情の中、円仁が伝えた五台山の念仏がしだいに僧から文人貴族に広まり、東国で争乱があり治安が悪化して人心が動揺すると、空也(九〇三-九七二)が京で念仏勧進を行い熱狂的信者を集め、また源信(九四二-一〇一七)は「往生要集」を著し、地獄や極楽を説いて六道輪廻の観念を人々に浸透させ、弥陀の相好や浄土の荘厳を観ずる念仏を説きました。
● 真言宗のその後
空海の第一弟子実恵(じつけい)の系統に益信が出て東寺の興隆に努め、宇多(うた)天皇の帰依を受けます。天皇は出家受戒の後譲位されて、九〇一年灌頂(かんじょう)を受け仁和寺に入り、御室と称して平安仏教の一大中心となりました。宇多天皇は、歴代天皇の内三分の一以上もの天皇が退位後仏門に入る法皇の先駆けでした。
その後観賢(かんらん 八五三-九二五)が出て、東寺を中心とした真言宗の統一を実現し、空海の忌日に御影供を創始して大師信仰を起こし、また空海に弘法大師の諡号を賜ります。
高野山は九九四年、火災による伽藍全焼のあと藤原道長ら貴族の外護のもとに復興。その後登山した覚鑁(一〇九五-一一四三)は、鳥羽上皇の庇護のもと真言天台の両密教の諸法流を受法して、それらを大成した一法流を開きました。金剛峯寺座主にも任ぜられましたが、常住僧らの反感を買い衆徒七百人と共に紀伊根来に退去、そこで新義真言宗を開基します。
その頃既に大寺の所領内に設けた別所で生活し念仏する集団があり、そうした浄土教に深い関心を持った覚鑁は、密教の大日如来と阿弥陀如来は一体平等であるとして、密教の立場から密教と弥陀信仰の融合を計りました。
念仏を唱えながら、我が身が弥陀に入りそのまま大日となる、と観想して仏との一体感を味わう覚鑁の秘密念仏は、後に高野聖と呼ばれる行者に引き継がれていくのでした。
● 神仏の習合
奈良時代からすでに正式に受戒せず山野を巡り修行する遊行僧の活動が盛んでした。こうした遊行僧の働きかけもあり、律令制の基になっていた神社で神の仏教帰依が進み、各地に神宮寺を誕生させていました。後にはこれら神宮寺の多くが宮中で信仰された真言密教の教えのもとに編成されていきます。
これに呼応するように元々仏寺であった寺院でも特定の神社を勧請したり、寺域を本来治めていた神を守護神として奉祀。
そして、遊行僧が神域である山に入り仏を礼拝することは同時に神をも礼することになり、山を神として崇める日本古来の山岳信仰との融合を起こします。平安中期頃には、本来のあり方(本地)である仏が人々のもとに仮の姿(垂迹)として現れたのが神であるという本地垂迹説が形成され、神仏習合という独特な日本仏教を醸成していきます。
また、山岳信仰と密教が結合して山林抖?を行とする修験道が形成され、金峰山や醍醐寺を開創した真言宗の聖宝や熊野行幸の先達をつとめた天台宗の増誉らによって修験者が組織づけられていきました。
● 仏教の儀礼と信仰
皇室における祭祀が整えられたのは平安前期のことでした。天皇の忌日に読経する「国忌」、正月八日から七日間玉体安穏、鎮護国家、五穀豊穣を祈る「後七日御修法」、天下泰平、疫病退散などのため般若心経を書写して祈願する「勅封心経会」「彼岸会」「盂蘭盆会」などが宮中の仏教儀礼として明治初年まで行われます。
こうした鎮護国家を祈る国家仏教としてだけでなく、この時代の仏教はしだいに個人の宗教として受け入れられていきました。特に、人々が要望する悪霊の調伏、病気平癒などのために祈祷法や儀礼を備え、そこに音楽や絵画など文化的側面も加味した天台真言の両密教は当時の貴族、文化人にとっても魅力溢れるものであったようです。
また平安中期以降には仏事法会の重点がこうした現世利益や追善供養から参会者に対する唱導説法に移行し、さかんに釈迦講、法華八講など講会と呼ばれる様々な説経の会が催されます。この祈祷から聞法への流れは貴族から一般庶民にも広がり仏教の教えがより身近なものになりました。
そうして、既に仏教の伝来と共に伝えられていた輪廻思想が、この時代には死後閻魔王の裁きを受け地獄に堕ちる恐怖として次第に民衆にも浸透。特に平安末期から台頭してくる武士階級において自らの行いの罪悪感から、地獄に堕ちるべき身の衆生に代わって生前の功徳を閻魔王に説いて救済してくれる地蔵菩薩の信仰が盛んになります。そして、今日でもよく目にする道端の草堂などに地蔵を祀る風習が起こるのもこの時代のことでした。
● 末法の世の到来
釈迦入滅後二千年に始まるという末法の世は、我が国では一〇五二年(永承七年)にあたるとされました。
この説は「三時説」といい、仏滅後千年を教えと修行とさとりが備わった正法の世、次の千年が像法の世でさとりが無く、その後一万年は教えのみで修行もさとりも無い末法の世が来るというものです。これは本来仏教僧団内での自戒の意義を担うものであったようですが、日本ではしだいに斜陽する貴族階級の一大関心事となっていきます。
十一世紀中頃、極楽往生を願って道長が法成寺を、子の頼道が宇治の平等院を建立するなど多くの貴族が競って華麗な浄土系寺院諸堂を建設します。この頃すでに、彼ら貴族政治に陰りが見え始め、地方武士勢力が台頭、また疫病の流行や天変地異が頻発して治安が乱れ、さらには僧兵の横行などから、正に末法の世の到来を予感させていました。
そして、末法ではお釈迦様を教主とする信仰は無効との疑念が生まれ、念仏を主とする弥陀信仰が盛んになる中で、仏舎利との結縁を求める舎利会や五十六億七千万年後に下生して法を説くとされる弥勒仏に救いを求める埋経(金泥による写経を地中に埋納し経塚を建てる)、また西国三十三カ所など霊験あらたかな霊場に参じて直接救済を求める霊験所巡拝なども盛んに行われたのでした。
平安時代は、総じて密教を中心として宮廷貴族から一般庶民にも仏教が伝わり、心の安穏を神をも包摂した仏教に求める国民性が形成されていく時代でありました。
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わかりやすい日本仏教史③
鎌倉時代の仏教
[大法輪誌平成十八年二月号カルチャー講座掲載]
朝廷や貴族が政権を握っていた時代から武士階級による権力掌握へと国家制度の大きな変革に加え、天災飢饉外患に悩まされた鎌倉時代、仏教がどのように展開したのかを見てまいりましょう。
● 鎌倉仏教を担う遁世僧(とんせいそう)
平安末期、南都の諸大寺や天台真言の大寺院は、皇室御領や摂関家領を遙かにしのぎ、各地にたくさんの荘園を所有します。有力寺院は皇族貴族の受け入れ先となり、生活は華美なものとなりました。
そのため真摯に仏道を究めて、時代に応じた教えを布教し救済活動をするには官僧からの離脱に踏み切るほかありませんでした。これから述べる鎌倉仏教の担い手たち(一遍を除く)は何れも官僧の世界から遁世した上人や聖と呼ばれる僧たちです。
● 法然浄土教の民衆救済
その先駆けをなすのは、僧兵が跋扈し騒動の絶えなかった比叡山から、十八歳の時黒谷別所に移った法然房源空(一一三三ー一二一二)でした。
法然はその数年後、奈良京都に遊学して各宗の奥義を学び、一一七五年四三歳の時、もっぱら弥陀の名号「南無阿弥陀仏」を称える称名念仏だけで極楽往生するとした専修念仏の立場を確立し、[浄土宗]を開きます。当時京の町は飢饉や大火が続いて疫病が蔓延し、末法そのものの様相でした。
法然は、阿弥陀仏が前世でたてた「心から弥陀を信じ十回でも念仏すれば極楽往生させよう」との一願を弥陀の分け隔てのない大慈悲ととらえました。そして、我が身を徹底して内省し、救われる資格のない罪深い醜い心を持つ者であっても、心で念仏し口で名号を唱えたならば、その弥陀の本願によって救われるのだと説いたのでした。
関白九条兼実らの帰依を受け、平安後期から流布された末法思想の影響や既に各地にあった念仏集団が法然の教えを支持して、瞬く間に東国武士など地方にも教えが広まったと言われます。しかしその間、諸行を兼修する延暦寺や興福寺などから弾圧を受け、弟子らのあらぬ嫌疑から専修念仏停止の宣旨が下り、法然も土佐に流罪となりました。
● 非僧非俗の念仏者 親鸞と一遍
この時の法難で越後に流された親鸞(一一七三ー一二六二)は、まだ多くの門弟の一人で無名の存在でした。もともと比叡山の常行堂で不断念仏行に励んでいた親鸞は、二九歳の時下山。六角堂に参籠後、聖徳太子の夢告により洛東吉水の法然の下に参じ、その数年後法難に遭遇します。
後に許された親鸞は常陸に移り、熱心に農民や武士らに伝道。六十過ぎに京に戻ってから九十歳で死ぬまでは「教行信証」などの著作に取り組みます。
親鸞は、自ら罪深き身であることに慚愧して厳しく自己を省みるとき、そこに自力による作善はあり得ず、何のはからいも捨てて弥陀自身による諸善が逆に衆生に回向されることを信じることにより浄土に往生するとした絶対他力の教えを説き、[浄土真宗]を名乗ります。
親鸞は、非僧非俗を主張し公然と妻帯したことでも有名ですが、そのことは今日に至る日本仏教の戒律軽視、さらには無戒化を招く元になったと言われています。
親鸞にやや遅れて登場してくる一遍(一二三九ー一二八九)は、親鸞以上に他力の信に徹底し、阿弥陀仏がさとりを得たとき既に一切の衆生が往生することが決定されていたとして、信ずる心の有無に関わらず六字の名号の功力によって往生すると説きました。
そして、人々が弥陀と結縁するためには「南無阿弥陀仏」と書かれた算を配ればよいと確信し、山野に野宿を重ねて全国を遊行。時に鐘や鼓で調子を取り踊りはねながらの念仏・踊念仏が一般民衆に広まり、各地方武士層に支持されます。時衆と名乗りその時その場所の衆まりを重んじる僧俗の遊行回国の念仏衆として、後に[時宗]を形成しました。
● 南都仏教の復興
南都仏教界では、末法思想が蔓延し浄土教が広まる中で、仏教本来の姿を取り戻すべく戒律の復興運動が盛んになります。
法相宗の貞慶(一一五五ー一二一三)は、法然の浄土教に対して最も厳しく異を唱えた一人でした。貞慶は平安末期に実範が企てた戒律復興を引き継ぎ、戒・定・慧という仏教の基本を損なう法然の念仏は仏教を滅ぼすと訴え、「興福寺奏上」を起草、弾劾します。
貞慶は戒と唯識を学び笠置山に隠遁して、なお法相宗を興隆します。そして、お釈迦様を本師と仰ぎ、弥勒念仏を修して弥勒信仰を広めました。
華厳宗では、一一八〇年平重衡によって焼かれた東大寺大仏殿の勧進職に任ぜられた重源が、伊勢神宮で「大般若経」を転読祈願して全国を巡り、後白河法皇や源頼朝を含む貴賤の喜捨を受け、大仏殿を再建します。
その後、栂尾山に住した明恵房高弁(一一七三ー一二三二)が「摧邪輪」を著し、仏教本来の姿勢であるさとりを求める心・菩提心を不要とする法然の念仏を烈しく批判しました。
明恵は華厳の他、真言密教や臨済禅を学び、座禅に立脚した実践的華厳学を樹立。後鳥羽上皇や建礼門院に戒を授け、後鳥羽上皇と幕府方で争われた承久の乱(一二二一)では敗残兵をかくまうものの、逆に執権北条泰時の帰依も受けました。インド巡礼を計画するなどお釈迦様を慕い、今日も行われる仏生会や涅槃会を創始したことでも有名です。
その後東大寺戒壇院に住した凝然(一二四〇ー一三二一)が出て、声明、音律、国学、神書に通じ、鎌倉時代の華厳学を大成。さらに律宗を教理的に大乗仏教と位置づけた「律宗綱要」や、今日も読まれる仏教概論「八宗綱要」など多くの著作を残します。
律宗では、貞慶に学んだ覚盛が正式な具足戒を授ける戒師のないことを嘆き、一二三六年自ら仏前に誓願して戒を受ける自誓受戒を東大寺大仏殿にて行い、唐招提寺に住して戒律の復興に努めました。
● 西大寺流律僧の社会貢献
覚盛とともにこのとき自誓受戒した睿尊(一二〇一ー一二九〇)は、はじめ高野山で密教を学び、その後荒れ果てた奈良西大寺を復興して戒律の教えを民衆に広めました。乞食や囚人遊女に至るまで戒を授け救済活動をなし、橋や港湾の整備、造寺造塔にも多くの業績を残しています。
(奈良西大寺金堂)
睿尊は後嵯峨、後深草、亀山など五帝の戒師になり興正菩薩の号を賜ります。生涯に具足戒を授けた者千三百余人、菩薩戒を授けた者は九万六千余人に上るといいます。
睿尊の弟子忍性(一二一七ー一三〇三)は、鎌倉に極楽寺を開き、悲田院、療病院を作って乞食や病人(ハンセン病患者)を養い慈善救済活動に尽力。道や橋を造り井戸を掘るなど土木事業もなし、忍性菩薩と尊称されたのでした。
蒙古襲来(一二七四・一二八一)にあたり睿尊は盛んに異国降伏の祈祷を行い、鎮護国家寺院として国分寺の役割が見直されると、そこに西大寺流の律僧が進出して特に西国の多くの国分寺を再興しました。
● 禅宗の形成 栄西と道元
我が国への禅の初伝は飛鳥時代と一般に言われています。が、一宗派として座禅を重視する宗派が確立するのは栄西(一一四一ー一二一五)が二度入宋して臨済禅を学び、即心是仏の禅を宣揚してからのことです。
栄西は比叡山で天台の教理を学び、入宋して密教を修得し、その後再び入宋して臨済宗黄竜派の禅を学び、一一九一年帰朝。九州博多で禅を布教し[臨済宗]を開基します。その後将軍頼家の帰依を受けて、京都に建仁寺を建立。
栄西は禅の実践によってのみ王法も仏法も栄えるとして、自らも厳しい持戒禅定の生活を送りました。栄西は「喫茶養生記」を著して日本にお茶の風習を普及させたことでもよく知られています。
栄西滅後三十年にして来朝した中国僧蘭渓道隆は鎌倉の建長寺開山となり臨済系の純粋禅を伝え、ついで来朝した無学祖元は円覚寺を創立し、折しも蒙古来襲にあたり、北条時宗を激励し般若力を念じて勝利に導き、終生鎌倉武士の教化に励んだということです。
一方、道元(一二〇〇ー一二五三)は、比叡山で天台を学んだあと入宋して天童山の如浄より曹洞禅を授かり、一二二七年に帰国。京都の南に位置する深草安養院などで座禅第一主義を唱えて禅堂を開き、[曹洞宗]を開基します。そして、「正法眼蔵」を著し、後に越前に移り大仏寺(後の永平寺)を開山。
人は本来仏であるとした天台の教えに基づき、座禅は仏になるためではなく、仏としての修行・座禅であるとして、日常の行ないすべてを禅と捉え、出家を重視してただひたすらに坐る「只管打坐」を主唱しました。
●日蓮の法華経帰依
平安後期に台頭した地方武士層を中心に、法華経を所持し読誦書写する法華経信仰者を背景として鎌倉中期に日蓮が登場してまいります。
日蓮(一二二二ー一二八二)は、安房清澄寺に入り密教や浄土教を学んだ後、比叡山など各地を遍歴、一二五三年法華経への絶対帰依を宣言します。そして[法華(日蓮)宗]を開き、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始めます。
念仏者を非難して専修法華の立場から、鎌倉で布教。その頃鎌倉は飢饉や疫病に見舞われていました。そこで「立正安国論」を著して幕府に献じ、念仏、禅、密教を禁じて法華経を唯一の正法と認めない限り災害が続き、他国の侵入を受けるなどと予言。伊豆に流罪となります。
日蓮は、人の心の中には仏から地獄までのあらゆる性質が備わっており、法華経を中心とする本尊とその心との合一は、末法の凡夫にとってすべての生き物の成仏を可能にする教えの真髄が込められた「題目」を唱えることによってのみかなえられると説きました。
ことごとく他宗派を非難して弾圧され続けた日蓮ではありましたが、地方武士や女性に信者が多く、彼らには家族や主従の道徳を説き報恩を強調したと言われています。
●真言宗の歩み
以上述べてきたように、この時代に新しい宗派を起こしたのは、天台宗の本山・比叡山で修学した遁世僧たちでした。
一方真言宗では、頼朝が鎌倉に幕府を開くと、源家の氏神を祀る鶴岡八幡宮の社僧別当職に真言僧が補任されたのをはじめ、僧坊が各地にでき、学僧衆も鎌倉に集まります。
そして、頼朝の一族及び北条氏は霊峰高野山を崇敬して、頼朝
は勧学会を開き、北条時宗は勧学院を建立。密教経典の注釈書や空海の著作「声字実相義」「般若心経秘鍵」などを教材に教学の進歩を促しました。
(高野山奥の院)
高野山では、そうした学僧らとは別に諸国を巡り弘法大師信仰と高野山納骨を勧めた遊行者集団高野聖が平安末期の大火後特に大きな勢力を持つようになります。歌人として有名な西行もその一人で、高野山で真言宗を兼修する念仏行に励み、諸国を遍歴して勧進などに従事したのでした。
また、入宋して戒を修めた俊?によって再興された京都泉涌寺は、承久の乱の後即位し崩御した四条天皇の葬儀を他の寺院が幕府の目をはばかり断ったとき敢えて引き受け、その後皇室の菩提所となりました。明治初年まで歴代天皇、皇族の葬儀を行い墓所が設けられ、位牌が祀られています。
鎌倉時代は政治社会の変革とともに、寺社の門前町にも定期市や座が開かれ、商業経済が発達しました。仏教も時代の様相に応じた平易な新しい教えが興って救いを求める民衆に広く浸透した反面、その影響により日本仏教が輪廻からの解脱を求める仏教本来の姿勢から逸脱していく一過程となりました。
また、これまで死穢をきらう国家行事に参加する義務のある官僧が出来なかった葬儀に遁世僧は積極的に関わり、今日に見る僧侶が葬送に関与する習慣が始まるのもこの時代のことでした。
(「分かりやすい日本仏教史」第2回から第3回までを転載終了)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
この「第2ぼやき」が、開通して、私は大変、嬉しいです。
私は、ずっと困っていたのです。 せっかくの大著の、大論文を、一体、私は、どうやって、優れた会員たちに読ませれば
いいのか、私は、ずっと考え込んで、悩んでいたのです。
一体、どうやって以下に載せる「日本の仏教の全体像」の大論文を、みんなに読んでもらったいいのか。私は、去年の9月から、ずっと悩んでいました。
ただ横山老師の論文を、お許しをもらって、こうして貼り付けるだけでいいのか。それでは、きっと多くの人には分かってもらえない。以下の文章の何がそんなに、すごいものなのかを、自分には、分からない、という人々がたくさんいるだろう。
だから、私、副島隆彦が、解説を加えなければならない。どうして、副島隆彦が、驚愕(きょうがく)して、驚嘆(きょうたん)したほどの文章=論文 なのかの、解説が為されなければならない。ところが、解説を加えるには、本文の論文の方だけでも、ものすごく長文である。
どうして言いか、分からないまま、年を越して、そして、私は、1月半ばに、自分のPCの故障(ウインドウズが起動しない)に直面して、それで、慌てふためいて、新品のPCに買い換えたのだが、そうすると、今度は、送受信メールの7千本を、新しいPCに移し変えることが出来なかった。
それで、横山老師から、送っていただいた「日本への仏教の伝来の全体像」は、そのまま虚しく半年間寝込んでいました。
私は、私でずっと、どうやったら、この論文を、会員に読んでもらえるのかが、分からなかった。
それで、思い余(あま)って、主要な弟子たちに、「第2ぼやき」を作ってくれ、と頼み込んだ。「そこには、第2東名 と同じように、目下、工事中の文章を載せるのだ」と説得した。
きっと、私の言いたいことの意味が、よく分からなかったと思う。「先生は、出来るだけ会員ページに書いてください」というのが、主要な弟子たちの、私への切実な要請であった。そのことは、私も痛いほどよく分かる。私は、ここの会員をこそ大切にしなければならないのだ。
それでも、すばらしい、論文や、文章は、どんなに長いものであっても、それを、みんながネット上で読めるようにしてあげなければならない。それは、言論人としての、私、副島隆彦の一生涯の闘いの、その工程であり、行脚(あんぎゃ)の旅そもものだ。
同行(どうぎょう)の人々と、喜びと悲しみを共にしたいのだ、という私の勝手な願望(よくぼう)だ。
こうやって、遂に、「第2ぼやき」という、「現在、工事中」を意味するページ(サイト)が、旧路を改良して、開設してもらった。私は、「どうしたらいいのか」で悩んでいた自分の苦悩が、一気に、吹きとんだ、気がします。
ですから、このあと以下の横山全雄(よこやまぜんのう)老師の文章の解説付きの、「これが副島隆彦による、仏教とは、何か、の読み破りだ」の文は、会員ページに、どんどん書いてゆきます。 この2段構えの体勢が、ようやく整った、ということです。私は、この体勢が出来たことを、ひとりで欣喜雀躍(きんきじゃくやく)で喜んでいます。
何を、そんなことで、喜んでいるのか、と思う人がまだ大半でしょうが、私は、私の抱えてきた、ネット文章を発表する際の、「人の苦労を盗作することなく、自分の業績としての思想・知識の創意工夫をきちんと残せるようにする」という大問題を、こうやって解決出来ました。 冒頭での説明は、以上です。
横山氏の「分かりやすい日本仏教史」は、6回分あります。
それを、まず、この「29」から始めて、3回ぐらいで、載せます。 真剣に読んで、各所で、その内容の凄(すご)さにびっくりする人は、相当な読み手(読書人)です。そうでない人たちは、後日、私、がどんどん、「何がそんなに凄い内容なのか」を解説して行きます。 ご期待ください。 副島隆彦拝
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(まず、メールのやりとりの転載貼り付けから始め)
横山全雄(よこやまぜんのう)様
副島隆彦から
2006年9月15日
拝復。
横山住職様から先に、有難い ご本 と冊子をお送りいただいておりました。
私はこの夏の間に、「仏前勤行次第の話 2」を、就中、「わかりやすい日本仏教史1~6」を繰り返し5回ほど、徹底的に読み込みました。心から感謝申し上げます。大変勉強になりました。
私の仏教知識など浅薄きわまりないものであります。先刻の私の「船井幸雄氏は道教の思想家である」論に、驚かれた横山様からのご指導ご助言ということもよく理解しています。
それでも私は、「横山版 簡潔日本仏教史」に感嘆いたしました。日本の全歴史上の名僧高僧そして権力者と結びついた権力僧たちのことが全て関連づけられて、理解できました。
私のこれまでの日本史理解の足りない分からない点の半分ぐらいを横山論文が、きれいに見事に穴埋めして下さいました。
それでお願いでございますが、この「日本仏教史1~6」の部分のデジタル文章が横山様のお手元にありましたら、メール(ネット)で、お送り下さいませんでしょうか。
もし、横山様にご了承いただけるなら、ぼやきの会員ページ(会員1,500人にだけ限定ですので、世の中には広まりません)に載せさせていただきたいのです。
大変優れた日本仏教通史であるからです。このような研究はふつうの日本史学者にはできないのです。仏教コトバの使い方の不正確さも含めまして。その他に、私、副島隆彦の考えを、要所要所にお返事の形で書いて、横山様に返信メールとして全編に渡って加筆しまして差し上げたいのでございます。
私は、とりわけ持戒堅固(じかいけんご)な僧侶(戒律を厳格に守る崇高な人格の僧侶)が果して、高僧のうちどの人物たちであるかを厳しく確定したいのです。それと日本独特の自誓受戒問題と兼学問題も徹底的に調べたいのです。
横山様、時期を見まして、私は福山の御寺に参りますので、お時間をおとりいただき、まず2泊3日ぐらいで、私にあれこれ日本仏教界の真実を率直にお教えいただきたいと思います。いかがでございましょうか。横山様に一切のご迷惑はおかけしませんので宜しくお願い申し上げます。
こういうことをメールでお願い申し上げることをいささかためらいましたが、自筆にいたしますと、このように乱筆の限りであります。長年もの書きをやっておりますと、このような早書きの汚い文字しか書けなくなりました。申し訳ありません。
私は、まず驚いて富永仲基(とみながなかもと)の「出定後語(しゅつじょうこうご)」から読んでいます。神仏儒へのこれほどの批判があったのか。そして、それをわい曲した平田篤胤(ひらたあつたね)の狭隘(きょうあい)、偏頗(へんぱ)なる神道簒奪思想が幕末から明治神国体制を作って行ったのか、と一連の流れの真実を、やっぱりそうだったのかと知って驚いています。
横山老師に伏して、私と学問道場のためにご尽力下さいますようお願い申し上げます。取り急ぎ。以降はeメールで交信させて下さい。 敬具 副島隆彦拝
(貼り付けおわり)
To: "副島隆彦" GZE03120@nifty.ne.jp
Sent: Wednesday, September 20, 2006 8:00 PM
Subject: 日本仏教史テキスト文書と一太郎文書を
送らせていただきます
副島隆彦先生
昨日19日夕、書状拝受いたしました。直々に、しかも手書きの書状を頂戴し、誠に有り難く、また申し訳なく思っております。日々お忙しい中、小生のために貴重な時間を煩わせてしまい恐縮いたします。
不遜にも送らせていただきました冊子をお読みいただきましたとのこと、重ねて有り難く思う次第であります。自誓受戒(じせいじゅかい)や兼学(けんがく)、出定後語(しゅつじょうこうご)についてなど、日本仏教の急所を鋭くご指摘になられており、さすがに目の付け所が冴えておられると感心いたしております。
「わかりやすい日本仏教史」は、大法輪(だいほうりん)誌から、掲載依頼を受けたため、急遽短時間に手元にある数点の資料から、大事な部分だと思った内容をつなぎ合わせた文章であります。それにもかかわらず、興味を示して下さいまして、ぼやきの会員頁に載せていただけるとのこと。誠に恐縮いたします。もとより十分な内容とは言いがたいものではないかとは存じますが、日本の最高の知識人である学問道場会員の皆様に、少しでも仏教を知っていただく縁となれば誠に有り難いことだと思います。
このメールに添付いたしますので、どうぞご利用下さい。(なお、数字がすべて漢用数字になっております点や、読みにくい言葉遣いなどはお手数ですが、ご訂正下さい。また写真がうまく送れませんでしたら別送致しますので、ご連絡下さい。)
それから、國分寺(こくぶんじ)まで先生がご足労下さり、日本仏教界の真実について述べよとのことでございますが、様々な資料に基づいて、あれこれと書くことは出来ましても、浅学非才にして先生のような碩学にご教示するほどの知識も経験も不足しているかと存じあげます。従いまして、代わりに、仏教に関し何かお問い合わせのことがございましたら、出来る限り意に添えるよう資料渉猟の上、ご返答させていただけましたらありがたいと存じます。
また、わさわざ先生に遠路お越しいただきますのは誠に申し訳なく、小生東京に出る機会が年に数回ございますので、その折にでも先生のご都合が宜しければ、立川の事務所、またはどこか適当なところにお伺いさせていただいては如何かとも考えております。
先生からの丁寧な書状に対しまして、このような簡単なメールを差し上げますのは心苦しい限りですが、要用のみにて失礼申し上げます。先生におかれましては、益々お忙しい毎日かとは存じますが、どうかお身体ご自愛の上ご活躍下さい。 全雄拝
備後國分寺 横山全雄
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領1454
(ここからが論文の掲載です。副島隆彦記)
わかりやすい日本仏教史br> 仏教伝来から奈良仏教まで
[大法輪誌 平成十七年十二月号カルチャー講座掲載]
本講座において、平成十四年七月号より七回にわたり「わかりやすい仏教史」と題してインドから中国にいたる仏教史を学んでまいりました。
今日私たちが目にする仏教は国々によってかなりの違いがあるようです。その違いはどうして生じてきたのか。同じ仏教としてお釈迦様にはじまる教えの変遷を辿りその歩みを見てまいりましたが、いよいよ教えがわが国へと海を渡ります。
● 仏教伝来
日本へ仏教を伝える百済には四世紀の中葉、インド系の僧摩羅難陀が海路百済を訪れ仏教を伝えたといわれています。
その後百済は新羅・高句麗連合軍との戦時下に入り、任那を領有していた日本に援軍を頼む際の土産として、金銅の釈迦仏像と経巻ならびに僧をわが国の朝廷に贈ったというのが仏教の公伝(西暦五三八)と伝えられています。欽明天皇七年のことでした。
既にインドでは仏滅後一千年が経過し、唯識説が確立してそろそろ密教が勃興してくる時代。中国では鳩摩羅什が法華経、華厳経といった重要経典を含む膨大な経典を翻訳し終わった時代のことでした。
欽明天皇の「西蕃の仏を受け入れるべきや否や」との問いに、蘇我氏は諸国の例に倣うべきであるとして賛成し、物部氏は古来の天神地祇の怒りを招くとして反対したと言われます。この崇仏排仏に端を発した両者の抗争は、その後政治的社会的権力争いの様相を呈し戦闘にまで発展しました。
結局崇仏派の蘇我氏が勝利したことによって、仏教は豪族たちの間で採用され、競って氏寺を建立し、美しい仏像や経典類の調達に奔走することになりました。
百済や高句麗から仏像や仏舎利などが流入し、それら仏像に仕える僧が必要となり、五八四年蘇我氏の仏殿(後の法興寺)にて、高句麗僧恵便を師として司馬達等の娘らが出家して善信、禅蔵、恵善の三人の尼僧が誕生。
これをもって日本仏教史上の起点と位置づけ、日本書紀は「仏法の初め、これよりなれり」と記しています。後に善信尼らは正式な受戒のために百済に渡っています。その際百済からは僧恵聰はじめ数名の僧侶の他、造仏工、造寺工、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者が来朝しています。
● 聖徳太子の仏教
推古天皇は即位(在位五九三-六二八)とともに兄用命帝の子聖徳太子(厩戸皇子、五七四-六二二)を摂政として指名しました。太子は、かつて物部氏との戦いに戦勝祈願した四天王を祀る寺を難波に造り、翌年には高句麗僧慧慈を師として「三宝興隆」の詔勅を発し、仏教を基礎にした道徳精神を国民に宣布。
(わが国最初の寺と言われる奈良飛鳥寺)
わが国の黎明期における先覚者である太子は、氏姓による社会階級の他に個人の力量に応じてその身分を表示する階位制度である「冠位十二階」や社会の秩序を制約する道徳法である「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣など内外の政治外交に活躍され、その後の国家の道筋を形作りました。
この遣隋使の主目的は、仏教文化の摂取にあったとも言われ、学問僧を随行させ仏法の修得や経典の蒐集にあたらせています。これによって、仏教を本場中国からも直接摂取するなど、自発的計画に基づく積極的な大陸文化の輸入が計られていきました。
六〇六年、太子は推古帝に勝鬘経の講義をし、翌年には法隆寺を建立。この頃から太子は仏教研究に専念されたと言われています。遣隋使によってもたらされた仏教書に基づいて太子は勝鬘経義疏や法華義疏などの経典注釈書を残しました。これらは古来太子の真撰か偽撰かの議論がありますが、いずれにしてもこれらの著作を日本仏教として重要視してきた事実に代わりはありません。
外護者であるべき太子がわが国最初の仏書を著し、その著作においては広く人々を救うとする大乗教を重視し、在俗の身による修行を尊重するなど、その思想傾向は、後々まで日本仏教の性格を規定するものとなりました。
六二二年太子が斑鳩宮で逝去すると、妃橘大郎女は天寿国繍帳を織らせ、太子の来世に天寿国(弥陀の浄土)への再生を願ったと言われています。この聖徳太子の時代を経て、仏教は日本に定着し国家仏教として繁栄していく基礎が出来上がりました。
● 仏教文化と僧尼の統制
大陸から流入した儒教道教の類が文字の修得や文学の理解に役立つものでしかなかったのに比べ、仏教は、あらゆる生活芸術にいたる諸々の文化水準向上に繋がりました。
金銅や木彫の神秘的な相貌、流麗な肢体をもつ仏像は精緻な彫刻技術を、瓦葺き、重層、丹塗りの複雑な仕組みの伽藍は精密な建築技術を、調度類である、天蓋、仏壇、厨子、仏具は精巧な工芸技術をもたらし、さらには、その寺院で催される法会には伎楽が演奏され、経典を写すための筆や紙の製法に至るまで、仏教は大陸の数多の新文化技術をわが国に一度に導入する効用がありました。
そして、公伝から百年経った推古帝の時代には飛鳥地方を中心に四十六もの氏寺がその壮麗さを競い、僧八一六,尼五六九、と記録されています。そこでこの時代には早くも次第に増えていた僧尼の統制が必要になり、六二四年に僧正、僧都、法頭の役が置かれました。
大化の改新後は、中央に「十師」の制を置いて衆僧の監督をさせ、諸寺には寺司、寺主を置かせました。そして、七一八年には「僧尼令二十七条」が定められ、僧尼統制の規則が完備することになります。
それによれば年間の出家者の数に制限を設け、希望者は試経を受けねばならず、そこでは教学の素養と「金光明最勝王経」などの音訓読誦が試験されました。得度後は十戒の護持を制約され、寺院に住し、護国経典である「金光明経」や「仁王経」「法華経」などを読誦して鎮護国家、風雨順時、五穀豊穣などを祈祷する責務があったのでした。
また許可なく山林に入って修行することや寺と別の道場を設けて民衆を教化したり、天文災禍を説いたり、吉凶を占ったり、巫術療病することも禁じ、違反者は還俗させられました。こうしてわが国では鎮護国家を祈り国家に奉仕する者として僧を位置づけ、伝来百年ほどにして仏教は国家の統制のもとに保護管理されることになります。
● 平城遷都と国分寺
壬申の乱による政変を経て、即位した天武天皇(在位六七二-六八六)は一切経の書写、放生会を行う詔、大官大寺の造営、また使を諸国に遣わし金光明経や仁王経を説かせるなど積極的に関連事業を行います。
天武帝の死後皇位を継いだ皇后持統天皇も、六九四年金光明経百部を諸国に送り、毎年正月に読誦することを命じて国家の公の行事とするなど、天武帝の施策を継承。こうして律令国家として強力な実権を掌握したこの天武、持統の政府において、正に仏教が国家の宗教的支柱として重要な位置を与えられることになったのでした。
しかし、次の文武天皇時には旱害、風害、疫病、飢饉が相次ぎ治安も乱れ、さらには政情不安に陥ります。そこで平城遷都の大事業がなされ、七一〇年、律令体制の充実を誇示し飢饉や疫病に対する攘災招福の意を込めた奈良遷都がなされました。
そして聖武天皇(在位七二四-七四九)が即位すると、七三七年に国毎に釈迦仏一躯、脇侍菩薩二躯を作らせ大般若経の書写を、続いて国毎に法華経十部の書写と七重の塔の建設を命じ、七四一年国分寺制度の詔勅が発せられます。
国分僧寺には僧二十人、尼寺には尼十人を置き、水田十町ずつを施入することと規定。金光明経の読誦によって天神地祇が国家に永く慶福をもたらし、五穀豊穣で、先祖の霊魂をも含めた平和安穏を祈念し、国家を守護することがその目的でありました。
● 大仏造立
それら国分寺の総国分寺として大和国分寺を東大寺とあらため、七四三年毘盧舎那大仏造像の詔が発せられます。諸国国分寺と相応じて全国に毘盧舎那仏の世界を現出させ、天皇を中心とする中央政府と国司、国民との繋がりにおいて理想的国家の建設を目指したのでありました。
その理想国家の象徴が大仏であり、身の丈は一四.七㍍もあって当時世界最大の金銅仏でした。七五二年、既に皇位を譲られた聖武先帝は、文武百官とともに大仏の開眼法会に臨席。一万の僧が列席し、大導師の座には唐から来朝したインド僧菩提僊那が着し、呪願師を唐僧道?が勤め、またベトナム僧仏哲が故国の伎楽を披露するなど異国情緒溢れる、正にかつてない盛大な儀式が執り行われました。
この大仏の造立には、官僧から離脱して民衆を教化し様々な土木事業をはじめ社会活動に尽力した僧行基(六六八-七四九)を勧進職に任命し、彼の組織した公的得度を経ていない私度僧集団を公認して、勧募に協力させています。かつて民衆に罪福の因果を説いて様々な事業に民衆を駆り立てた罪で朝廷の迫害にもあった行基ではありましたが、この大仏造立の功績から最高位である大僧正に任ぜられました。
● 南都六br> 日本に伝えられてから、徐々に蓄積されてきた仏教が、奈良の諸大寺においてその専攻科目ごとに出来上がった六つの集団を南都六宗と呼びます。今日のような教団組織としての宗団ではなく、あくまでも専門分野ごとの研究グループという意味合いであったようです。
最も早く伝えられた[三論宗]は、龍樹の「中論」と「十二門論」それに提婆の「百論」の三論に基づいて大乗仏教の中心課題である空思想を中心に研究する学派でした。
正倉院文書によれば天平年間に当時の皇族貴族が発願した般若心経の写経が数多く作成されており、心経に対する関心が早くもこの頃から芽生えていたことが窺われます。三論宗の学僧智光はわが国最初の般若心経注釈書「般若心経述義」や「大般若経疏」などの著作を残しています。
この三論宗に付随して研究された[成実宗]は、インド部派仏教の学派にあたり、現在時における外界の対象は実在と見るが心やその作用は実在と認めないとする、訶梨跋摩の「成実論」を中心に研究する学派でした。
また[法相宗(ほっそうしゅう)]は、インド大乗仏教の唯識学派にあたり、入竺沙門玄奘三蔵によって中国に伝えられ、入唐した道昭(六二九-七〇〇)は直接玄奘から学んだと言われます。意識下に潜在する心の分析に特徴があり、菩薩は輪廻を繰り返し永遠に近い時間修行する必要がある、機根により仏となれない人があるなど、三国伝来の持説を主張しました。
道昭は諸国を遍歴し社会事業をもなし、わが国で初めて火葬に付されたことでも有名です。後に入唐した学僧玄(-七四六)は、唐の玄宗皇帝から紫の袈裟着用を許されるなど重んじられ、帰朝後も国分寺の創建に関わり聖武帝に重用されましたが、それが為に政治に深く関わり遂に筑前観世音寺に左遷されてしまいます。しかし彼が唐より将来した経論五千余巻は興福寺に勅蔵され、後のわが国仏教学の発展に大きな役割を果たすことになりました。
[倶舎宗(ぐしゃしゅう)]は、法相宗に付随し、世親の「倶舎論」を中心に学ぶインド部派仏教の学派に相当します。倶舎論の中で規定する諸概念によって唯識説が成立することから、法相宗の基礎学として学ばれました。
[華厳宗(けごんしゅう)]は、初期大乗を代表する華厳経を学ぶ学派であり、大仏開眼の大導師菩提僊那とともに来朝した唐の道?が初めて伝えました。
一つのものが世界の一切を含み、また一つのものは全てのものとの関係のもとに成り立っているとする華厳の教学は、律令体制の目指す統一国家の原理としてこの時代特に重要視されたのでした。
また[律宗(りつしゅう)]は、遣唐僧普照らの招請に応えて渡日を決意し、苦難の末七五四年に来朝した鑑真(がんじん)和上(わじょう)(六八七 - 七六三)によって伝えられました。当時の僧尼は官僧とはいえ、正式な三師七証という受戒を受けておらず、他国で承認されるものではありませんでした。そこで、当時中国で主流であった「四分律」(インド法蔵部所伝)に則った授戒制を導入する必要に迫られていました。
鑑真が来朝するとその年のうちに東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、そこで、聖武太上天皇、光明太后、孝謙天皇はじめ四百余人が菩薩戒を受け、既に官僧であった八十名あまりも旧戒を捨てて正式な具足戒を受けたということです。さらに下野薬師寺と筑前観世音寺にも戒壇が設けられ、僧はこれら三戒壇のどれかで受戒することが必須となりました。
なお、これら六宗のうち、法相宗、華厳宗、律宗の各宗は、それぞれ興福寺・薬師寺、東大寺、唐招提寺を大本山として今日までその法灯が継承されています。
こうして大仏開眼を頂点とする華やかな燦然たる仏教文化が咲き誇ったかに見えるこの時代、政治的には様々な内乱クーデターが続発する時代でもありました。また玄、道鏡など僧侶が政治の表舞台に躍り出るなど、僧風が乱れ腐敗堕落を招きました。
しかし乍ら、こうしてわが国は国家の形成期に、はからずも伝来した仏教の理念と文化によって、その基盤が形作られたのでありました。
(分かりやすい日本仏教史」第一回 転載終了)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
(転載貼り付け始め)
「株式日記」サイトから
テレビ朝日『たけしの世界はこうして騙された』
アポロ計画の月面着陸はアメリカ政府の捏造か?
「SNSI・副島隆彦事務所から新年のご挨拶。副島隆彦から」を転載します。
(前略)人類の月面着陸はアメリカ政府による捏造(ねつぞう、でっちあげ)であったことがこれで白日の下にさらされた。改めて衝撃を受けた人々はいるだろう。それを最後に、テレ朝は、「エイプリルフールにヨーロッパで放送された番組です」とたけしに言わせて逃げた。
予告どおり、故スタンリー・キューブリック監督の奥さんのクリスチャン・キューブリックがはっきりと証言していた。「夫の遺品の書類の中からNASAのトップ・シークレットの書類として、夫が月面着陸の二人の飛行士の様子を、ロンドンの撮影所で撮ることを要請されて実行した」という内容の証言だった。
このロンドンの撮影所の名前や所在も分かっている。私、副島隆彦は、すでに昨年4月ごろに、ここのぼやきで主要4回ぐにわたってこの人類の月面着陸の捏造について書いたから、その中に、スタンリー・キューブリック Stanley Kubric による捏造映像のことも書いた。
遂に、アメリカ政府の中枢にいる人間たちが、35年前の自分たちの権力犯罪の自白を始めた。ということである。真犯人は、当時、まだ30代だったドナルド・ラムズフェルド(現国防長官)であり、アレグザンダー・ヘイグ国務長官(当時。その前は、国防長官)であり、ヘンリー・キッシンジャーその人であった。
この3人が、ほぼはっきりと、「当時のソビエト・ロシアの宇宙開発、即ち、同時に大陸間弾道の核ミサイル開発に対して、アメリカが劣勢に立ってたので、それを挽回するために、進行中のアポロ計画では、とても人類を月に送ることなど出来ない、と分かった段階で、捏造映像を制作して、捏造発射の壮大な劇をやり、その映像を、秀作『2001年宇宙の旅』(1968年発表)を撮り終えたばかりのキューブリック監督に依頼する。この件は、ニクソン大統領も最終決断した」という証言だった。
ラムズフェルドというのは、若いころからここまで悪い人間だったとは。きっとデイビッド・ロックフェラーの信任が厚い人なのだろう。だから、今は、ラムズフェルドの方が、派閥抗争で、先輩格のヘンリーの国務省内の派閥を駆逐しつつある。
ヘイグとキッシンジャーがどれぐらい悪いグローバリスト(インターベンショニスト、他国政治干渉・破壊主義者)であるかについては、私の政治映画評論集である『アメリカの秘密』の中の映画「大統領の陰謀」の中で明確に解説した。
当時のNASAのアポロ計画の最高責任者は、ヴァーノン・ウォルターズ将軍(CIA副長官)であった。ウォルターズは、とても人間を月には送れない、と分かった段階でホワイトハウスに具申して判断を仰いだ。その時に捏造案が出された。ヴァーノン・ウォルターズ自身は捏造に反対だったようだが、政権幹部たちの決断に押し切られた。
上記のワル3人組の他に、ローレンス・イーグルバーガーやイブ・ケンドールという女性や、ジャック・トランス、ウイリアム・カレルらが証言していた。
「人類初の月面への降り立ち」をやって見せた、アームストロング船長や、バズ・オルドリン飛行士の奥さんのロイス・オルドリンやバス自身の証言も、ほんのわずかだか放映された。
キューブリック監督のチームによるロンドンでの「2001年宇宙の旅」のまだ壊されていない撮影セットを使っての月面捏造映像以外に、ケープカナベラル基地に、ハリウッドの映画スタッフを700人動員して、そして、アポロの次々に打ち上げられるロケットの映像の各種の捏造や、本物の発射台を使っての嘘のロケット発射を撮った。後に、怪しい俳優であるトム・ハンクスが監督までした映画「アポロ13号」で使われた映像の多くは、この時に作られたものだろう。
おまえら。本当に、よくやるよ。私、副島隆彦は、君らアメリカ・グローバリストのこういう腐った情熱にほとほと感心する。お前たちは全員、生来の犯罪者だ。深い軽蔑の感情しか起きない。
デイトリヒ・マフリーという当時は、ロシア政府のKGB(ケージービー)のスパイ(工作員)をやっていた人物も証言に出てきて、「KGBは、アポロ月面映像で、ドイツ製のハッセルブラッド・カメラを飛行士が手にしていて、それに被服が何も施されていないことを確認した時点で、アメリカの月面着陸は無かったことに気付いた」と話した。その後、ソビエト政府内部でどういう対応が取られたかについては何も語らなかった。
このテレ朝が、恐る恐る作った、たけしの馬鹿番組の中で、使われた真実の報道番組の映像は、アルテ社というテレビ局の制作である。このアルテ社はドイツ政府とフランス政府が共同で出資して作っているテレビ放送会社であり、日本のNHKの教育番組のような感じの放送局だ、と、たけしか誰かにサラリと解説させていた。この番組が2003年4月1日に、ヨーロッパで放送された後に、テレ朝はこれを入手したのだろう。
そして、「これマジ」の方に、アメリカ政府とその意向を受けた日本政府からの圧力がかかった後に、処理に困って、グズグズと8ヶ月も抱き抱えていたのだろう。「いやはや、どうしたものか。自分たちの首が飛んで、テレビ業界人間としての出世が止まるのは嫌だなあ。アメリカは本当に怖(こわ)い国だなあ」とぼそぼそと呟(つぶや)きあったのだろう。
おそらく、ラムズフェルドらは、自分たちが35年前にやったこの大犯罪(より正確には、36年前からになるだろう)を、そろそろ、じわじわと少しずつ、自分たち自身でばらしながら「おちゃらかしの冗談のような話」にしてしまって、居直って、「ああ、悪かった。悪かった。私たちが悪かった。
みんなを騙して悪かった。でもあの時は、ああするしかなかったんだ。ワルキ(悪気)があってやったんじゃない。政権担当者として仕方が無かったんだ・・・」という言い訳(弁明)をして居直る気だ。
彼らは責任をとる気が無い。彼らは逃げ切るつもりだ。自分たちが、人類に対して行った大偽造犯罪からすり抜けて、まるで人事(ひとごと)のような、遠い過去の話にして、そして逃げ切るつもりなのだ。こういう極悪人の大嘘つきどもが支配・管理を任されている世界帝国が、今のアメリカ帝国だ。馬鹿野郎どもめが。全く開いた口が塞(ふさ)がらないよ。
「権力者は犯罪を起こさない」という考えで、ヨーロッパ近代の国家観は出来ている。
何故なら正義と悪を判定するのも国家の機能・権能・権限の一部であるから、自分たち自身が犯罪者であっては、裁判制度が成り立たなくなる。だからその反射効(はんしゃこう)として、「権力者は犯罪を犯さない」となる。では、もし個々の為政者(政治家、高官)たちの個人の非行として処罰され指弾される以外の、権力(行政権の主体、政府)自体の犯罪は、一体、どうやって裁かれるのか。これが今なお分からない。
行政学、行政法学、国家官房学(ドイツ流)、国家学をもってしても、こういうことは分からないのだ。それは何でも溶かしてしまうモノを容れる容器が無い、と言うことに喩(たと)えることが出来る。私、副島隆彦はこういうことをずっと考えている。
それから、人類月面着陸(アポロ計画)の捏造、という事実が満天下に明確になった時点で、時効(じこう)による免責というものも考えないとすれば、一体、あの者たちの罪(つみ)は、一体、何罪なのか、という問題がある。この事もずっと私は考えていた。
罪名が無いのである。いまだに見つからない。私は8ヶ月間ずっと考えているが、犯罪名が無いのである。刑法学でいうところの構成要件該当性(こうせいようけんがいとうせい、タートベシュタント、あるいは法律要件と言ってもよい。)が見つからないのである。
詐欺(さぎ)罪ではない。詐欺であるには、被害者が騙されて、「自分の金品その他の財物(ざいぶつ)を自らの意思で交付する(相手=犯罪者に渡す)」という行為が必要である。
これがアポロ捏造には無い。アポロの映像に、世界中でテレビを見て、報道写真を見て、新聞記事を読んで、小学生・中学生の教科書の中の記述や写真を見て、百科辞典その他の科学辞典の解説文を読んで、騙された人類62億人全て(犯罪関係者たちだけを除く)は、一体、自ら進んで何を騙されたのか。自分の脳内の思考力(考えて判断する力)を騙されただけだ。
洗脳(ブレイン・ウオッシング、あるいはマインド・コントロール)されただけだ。これ自体は、何罪に当たるのだろうか? 私、副島隆彦はずっとこういうことを考えている。強盗罪でもない。嘘つき罪というのはない。
背任(はいにん)の罪に近いものだろう。代議制民主政体(デモクラシー)では、国民の信任を受けた者たちが、みんなの代表者=代理人として行動することになっている。
そしてその信頼(トラスト)を裏切ったら、それは背任の罪となる。団体(フェアトラーグ)の法理を使って、これを国家法人説に従って当てはめればこういうことになる。
60年前に、敗戦した日本やドイツの戦争指導者たちを戦争犯罪者(ウォー・クリミナル)として裁いた、東京裁判(トーキョウ・トリビュナル、極東軍事裁判法廷)やニュールンベルグ裁判では、「人道(=人間性)に対する罪」(クライム・アゲインスト・ヒューマニテイ)と「人類に対する罪」(クライム・アゲインスト・ヒューマン)という新しい罪名を作って(創造して)、事後法(遡及法)でも構わないといして裁いた。
この「人間性に対する罪」を類推適用すると、おそらく、ラムズフェルドやキッシンジャーは、「人類全体の脳(思考)に対する虚偽作成の罪」とでも言うべきものに該当するだろう。これ以外に、あのふてぶてしく居直る者たちに罪名を問うことは、今の私の知能をもってしても出来ない。
私、副島隆彦は、たかが東アジアの一国である日本国の知識人であるに過ぎない。だから、世界法廷でこれから徐々に裁かれることになるあの者たちの事をいくら罵(ののし)るように書いても、それは小さな反体制(左翼)言論が世界権力者たちに向かって遠吠えしているに過ぎない。そういうことは私自身がよく分かっている。
事態は冷酷に世界基準で進行してゆくだけであって、日本国、日本人ごときがいくら何か言ってみても何にもならない。進行してゆく事態を、この日本語と言う東アジア言語の一種で、後(あと)追いして報告、連絡するだけである。それでも、私、副島隆彦がその真実の日本国への報告者という重要な任務を負っている。その自覚だけはある。
だから、あのテレ朝の番組自体は、気弱わな朝日新聞内の大(おお)アジア主義者が、ぎりぎりのところで見せる、アメリカ帝国の自分たちへの支配への抵抗線である。そのこと自体を私は評価する。ああいう腰の引けまくった、臆病番組、お笑いの振りをして権力者たちの犯罪にへっぴり腰で立ち向かおうとする最後の努力を評価する。
そして、その為に局(株式会社テレビ朝日)内で生涯の出世が吹き飛んだ何人かの勇気ある、まだ見ぬディレクターたちに感謝する。あなたたちが、経営陣や日本政府の弾圧に抗して、下請けの制作会社の社長たちと共に必死で食い下がって、あそこまで放映したことの重たさを、私がこうして見届けて後世に残します。
それでも、欧州アルテ局に、この番組「オペラシオン・ル-ン」“ Operation Lune ” という番組そのものをきちんと、すべて削除無しで放送するというだけのことともできないのか。それは、近い将来のことなのだろう。
私が、一番、問題にするのは、実は、あの番組を見た日本国内の人間たちである。その中でも、「アポロは月に行っていない、人類は月面に到着していないなどと言い出した、副島隆彦というキチガイ・変人評論家とその信者たち」を、途方も無いアホ(ネット語ではアフォか?)だと、初めの初めから嘲(あざ)笑って、ずっと卑劣な攻撃を私たちに加え続けている者たちのことである。
この者たちは、一体、この先、どうするつもりか? 自分自身の愚かさを恥じて、私たちに謝罪するか? まだ強気で、匿名・仮名のまま書きなぐり続けるのか。既に内部分裂が始まっているだろう。ある者は既に、副島隆彦への中傷、悪口をやめて他の場所にいってしまっただろう。
ある者は知らん顔をして、いつの間にか態度を変えて、まだ月面着陸を信じて疑わない理科系の技術者たちを中心とする愚鈍な日本人ロボット工場人間(アシモ君たち)のことを馬鹿呼ばわりすることになるのか。
山本弘(やまもとひろし)とか志水一夫(しみずかずお)とかの「と学会」(とんでも本学会?)の連中は特にひどい。君たちの弁明を受けに私は行くから、私を君たちの大会に招待しなさい。
彼ら「人類の月面着陸(アポロ計画)がアメリカ政府自身による捏造であったなどということなどわずかにも信じられない」と堅く信じて疑わない者たち自身の脳内で起きつつある、脳(思考力)の大きなひび割れ現象のような、自己猜疑心の動揺が、その脳が割れるような痛みと激しい動悸として起こるだろうことを、私は一番注目しているのだ。これは一生の間にそうそうはないことだから、私は大きな関心を持って凝視している。
自分の脳が割れるような痛みを感じる、ということを、私の敵たちが、今まさに私の目の前で演じてくれている。こんなに興味尽きない現象は滅多に有るものではない。
政治思想研究学者としての私は、ある時、人間を襲う、この思想転向体験の類を物凄く興味深いものとして位置づけている。
だから、ラムズフェルドやキッシンジャーのような世界規模の大犯罪者たちの行動分析よりも、ある意味では、この哀れな転向人間たちの、引きつって歪む表情や仕草の方に私は深い興味がある。
彼らには、まだまだこのあとも、ずっと私たち人類月面着陸(1969年のアポロ計画の成功)はアメリカ政府による捏造であると主張し続ける、勇気ある者たちに向かって、「そんなことを考えるやつは頭がおかしい」と嘲笑し悪罵を投げ続けて欲しい。それらの記録はずっと残る。そしてやがて、自分自身の脳に、真実の火柱となって襲い掛かってくるだろう。私はその日が来るのは近いと思っている。その日まで私は闘い続ける。
このようにして、私の人類月面着陸捏造問題への肉薄はこれからも続く。本も出す。やると言ったらやる。
あの、私たちの脳に、そして人類全体の脳に嘘の打撃を与えた者たちの大きな責任(文字通り人類の知能に対する罪)を私は厳しく追及し続ける。(後略)
SNSI・副島隆彦事務所から新年のご挨拶。副島隆彦(阿修羅BBS)
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(私のコメント)
私(副島隆彦注記。この私というのは、「株式日記」を主宰しているよく分からないオヤジです。注記終わり) はアメリカのアポロ宇宙船が月面に着陸したかどうかははっきりと断定は出来ない。
しかしアメリカが本当に月面に着陸してアームストロング・オルドリン両宇宙飛行士が月面に降り立ったのが事実なら、当時のニクソン政権の要人が揃って、たとえジョーク番組のために嘘の証言をするだろうか。ラムズフェルド、キッシンジャー両氏は現役の国防長官であり、現役の米政権の指南役なのだ。それが社会的地位を失う危険を犯してまで嘘の証言をするだろうか。
この放送はフランスのテレビ局が製作した番組を、テレビ朝日が買ってたけしの特別番組として放送したものですが、情報の出所がフランスであるところが興味深い。以前にNHK-BSでCIAの内幕を暴露した番組を放送していましたが、これもフランスの放送局が製作したものだった。歴代のCIA長官や副長官が出演していましたが、フランスにはこのようなアメリカのVIPをインタビューするコネクションがあるのだろう。
この番組はアメリカ国内では影響が大きすぎるためにまだ放送されていない。FOXテレビが以前に似たような番組を制作して放送したそうですが、写真などのおかしな点を指摘して、それに対する解説が主なもので、キッシンジャーなどの政府要人のインタビューはなかった。
技術的にはNASAぐるみで月面着陸を捏造することなど不可能だと私は信じていました。ところがニクソン政権の政府要人の証言が出てきた段階でひょっとしたら、本当に捏造したのではないかと思えてきました。
動機としてはソ連に対する恐怖感から、なんとしてでも軍事技術開発のために、月世界旅行だと予算の獲得のためにアメリカ国民を騙す必要があったのだ。中国にしても有人宇宙飛行計画は、軍事技術開発のための世界に対するカモフラージュになっている。北朝鮮ですらミサイル開発実験で日本近海にミサイルを撃ち込みましたが、これを人工衛星打ち上げと言っている。アメリカのはこれのスケールを大きくしたものに過ぎない。
しかしアメリカの月世界旅行の反響があまりにも大きかったために、真相を明らかにするには反響が大きすぎることを考慮して、今まで伏せられてきたのかもしれない。ソ連も月面探査を無人探査機で行っている。有人で行うには技術的に大きな壁があるのかもしれない。
アポロ計画も月周回軌道までは行ったもかもしれないが、そこから先は捏造だったのかもしれない。月面に反射鏡を置くだけなら無人でも出来ることだからだ。
副島隆彦氏がアポロの月面着陸は捏造だという記事を見て、なんでまたと思っていましたが、年末のたけしの番組を見ると本当に捏造に思えてきます。テレビ朝日としてはお笑いバラエティーとして逃げを打っていますが、それだけ常識外れのとんでもない事なのですが、日本人はあまりにも生真面目すぎて常識にとらわれすぎる面があります。そのために私などは小さい頃から変人奇人呼ばわりされて来た。
日本人は理数系の公式で説明できることは比較的に理解が早い。しかし人文系の公式がない世界では常識にとらわれすぎて、実例が起こるまで信用しようとしない面があります。東大出の役人達が良い例だろう。彼らは前例がないと信用しようとしない。
このような事は、ある程度直観力がないと分からない事で、生まれながらの才能がものを言う。だからアポロ計画の捏造を直感でおかしいと気付く人は僅かであり、日本人は変人奇人呼ばわりされることを何より恐れるから、2ちゃねらー達は副島隆彦をバカにする。
「株式日記」でも今まで常識といわれてきたことを、ひっくり返す記事を書いてきましたが、さすがにアポロ計画の陰謀だけはなかなか付いて行けなかった。今でも半信半疑ですがこれからの展開が楽しみだ。しかしもし捏造だったとするとアメリカの信用は永久に失墜する。どっちみちアメリカの滅亡は半世紀後に迫っている。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
以下に載せるのは、「西郷隆盛のホームページ」というサイトの中の、「西郷隆盛の生涯」という伝記風の偉人解説文の中の、その中の一章として、載せられたいました、
「西郷隆盛の遣韓論(けんかんろん)」という一文です。ものすごく重要な文章でしょう。かつ、大変すばらしい筆致で書かれています。
書いた人は、「tsubu(ツブ)」と名乗る人物で、彼が主宰するサイトのなかの、彼の文章のようです。 私、副島隆彦は、以下の文章は、きわめて重要だと、一読して分かりました。
それで、ひとまず、以下に転載します。この場合、まだ、上記のブツ氏の転載許可をもらっていません。それで、彼から抗議がくることが大いに予想されます。そのときは、謝罪して、すぐに以下の貼り付けを削除します。
このブツ氏のような、匿名、仮名の人のサイトには、責任と所在の明瞭性がありませんので、どうも、私は、すぐには、転載以来のメールを出す気にならないのです。
どうか、優れた言論は、書き手の姿を、ある程度は、はっきりさせて、自分の全人生の実像を明らかにした上で、堂々とやっていただきたい、というのが、私、副島隆彦の願いであり考えです。
こんな、ネットばい菌がうようよしている危険な時代に、自分の姿形(すがたかたち)を、表にさらして、どういう攻撃がかかるか分かるか、分からないのに、勇気がある、というよりもただ単に、裸(はだか)踊りをしているだけだ、という、生来、慎重で用心深い人たちの考えは、私も分かります。
それでも、自分の実像と姿をさらして、勇気を持って、公開の場で、しっかりと、はっきりと、責任のある言論と思想活動をする知識人、言論人が、層を成して出現しなければ、一国(いっこく)の国民の自由は守れないのです。この切実さを、どうか、すべての人が分かってください。
私は、知識、思想、言論、は、なるべくみんなのもの(公共の財産)であるべきだから、著作権の過度の主張のしすぎは、いけないと思っています。 私自身は、自分のネットの文章の転載依頼があれば、作為的な人々からの要請でなければ、すぐに応じようといつも考えています。
このネット上の文章の転載問題(ネット文章の著作権問題)は、これから重要な話題になってyくでしょうから、私たちも一種に考えてゆかなければならないでしょう。 とりあえず、転載します。 西郷隆盛という希代の本物の英雄についての、驚くべき本当のことが書かれていました。
私は、以下の課題は、そのうち、この文章を使いながら、それを、「今日のぼやき」で、自分の作品としての評論文として、公正に引用して、優れた内容を称揚(しょうよう)しながら、日本の著作権(これは国際条約でもある)が定めるライト・オブ・クオート(引用権)を行使することで、「フェアコメントの法理」に従って、どんどん、自由に書いて、国民の言論の増大、増進と、学問の真実性の探究のために、努力しようと思います。
ですから、ツブ氏に、以下の勝手な引用、転載を、ひとまずお許しいただきたい。
併(あわ)せて、私は、「第2ぼやき」の建設の必要性をどうしても、強く感じていて、それを近く、「第2東名(高速道路)」と同じように、解説するではないか、と弟子たちに打診しています。副島隆彦拝
副島隆彦です。2007年2月20日に加筆します。
弟子のひとりの小暮君が、以下の本が、「西郷隆盛は征韓論など唱えなかった」を書いた本であると、教えてくれましたので、その出典を書きます。おそらく上記のツブ氏は、この本を使って、まるで自分で調べて書いた自説であるかのように書いたのでしょう。私は、そういう人は好きではない。 常に、出典、典拠を明らかにして、引用をしなければいけません。 ですから私からは、上記のツブ氏には連絡を取りません。その気がなくなりました。
『 西郷征韓論は無かった 附篇・実在した易断(ユタ)政府と岩屋梓梁(いわ・や・しん・りょう)』 窪田志一(くぼた・しいち)著 日本ロマン集団会発行 昭和57年6月10日発行
定価1300円
です。副島隆彦の加筆終わり。
(転載貼り付け始め)
「西郷隆盛の生涯」から
西郷の遣韓論(けんかんろん)
(征韓論の経緯)
いよいよ西郷の一番の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。
前にも少しですが書いた通り、西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。では、なぜ西郷が征韓論の巨頭と呼ばれることが、歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。
まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきた、悪化してきたのかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の交際(国交)を復活させようとしたことに始まります。
元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていました。しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧力に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は日本との国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、外国と交際を始めた節操の無い日本とは交際出来ないという判断だったのです。
このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている時間や暇がありませんでした。当時の江戸幕府としては国内に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。
そして、その江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を通じて朝鮮との仲介役を務めていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。しかし、その当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否したのです。
朝鮮政府としては、先の「皇上」とか「奉勅」という言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。このようにして、朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。
明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送りつづけましたが、朝鮮政府はその受け取りを拒否続け、一向にらちがあきませんでした。そのため、明治政府は、直接外務権大録(がいむごんのだいろく)の佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣しました。しかし、3人は朝鮮の首都にも入れず、何の成果も得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
目的を果たせず帰国した佐田は、そのことで激烈な「征韓論」を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわりました。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には出仕していません。そして、この佐田の激烈な「征韓論」に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允でした。
木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかも分かりませんが、これは紛れも無い事実です。木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙の中に「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
このように当時の木戸は「征韓論」に熱心になっていたのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題があったので、その征韓論ばかりに構っているわけにはいきませんでした。そして、廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立ったので、木戸としては征韓論を一先ず胸中にしまう形になったのです。
しかしながら、前述した佐田白芽らは征韓論の持論を捨てず、政府の中心人物になおも熱心に説いてまわっていたので、征韓論は人々の間で次第に熱を帯びてきたのです。そして、明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けたとの報告が政府になされたのです。まさに朝鮮現地においては、日本と朝鮮とが一触即発の危機にありました。
その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。
(西郷の遣韓大使派遣論)
閣議に出席した外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、
「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、二つに一つの選択しかありません」
と説明しました。
その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。板垣は、
「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」
と述べ、兵隊を朝鮮に派遣することを提議しました。
しかし、その板垣の提案に西郷は首を振り、次のように述べました。
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす。」
西郷の主張することは、まさしく正論です。板垣の朝鮮即時出兵策に西郷は反対したのです。
その西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな。」と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振りました。
「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす。」
この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)だけが異議を唱えました。大隈は「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い。」と主張したのです。
その意見に西郷は、
「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い。」
と大隈に言いました。
このように西郷に言われれば、大隈としてももはや異議を唱えることは出来ません。そしてその後、西郷はその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決出来るのは、自分しかいないとも思い、相当の自信もあったのでしょう。しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。
また、この朝鮮へ派遣される使節には、大きな危険が伴う恐れがあったのです。西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったとしたら、政府にとってこれほどの危機はありません。そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのですが、この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。
これまで「征韓論」と呼ばれる一連の出来事の経過をごく軽くですが書いてきました。これを読んで頂ければ分かって頂けると思いますが、西郷のどの言葉や行動にも「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこないことが分かることでしょう。逆に、「征韓論」について、反対意見すら述べていることが分かると思います。
これとは逆に、西郷を征韓論者だと決め付けている人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡(西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これはまったく当ての外れた推測としか言いようがありません。
この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後も「テーマ随筆」で取り上げていくつもりなので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは紙幅の関係で控えます。しかし、一応この後のこの征韓論争の経過だけを軽くですが、書いていきます。
西郷はその後、紆余曲折の過程を経て、朝鮮使節の全権大使に任命されます。西郷としては大いに頑張るつもりでその準備を始めたのですが、ここに洋行から帰った岩倉具視と大久保利通が西郷の前に立ちはだかりました。岩倉と大久保は、再び閣議を開き、その席上において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べたのです。理由は次のようなことでした。
西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い。
一見すればもっともな意見と思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず殺されて戦争になるということを前提として論を展開しています。しかし、西郷は戦争をしないために平和的使節を派遣したいと主張しているのです。当然、岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べるのには、西郷自身は納得がいきません。ここで西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局は西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定されたのですが。
しかし・・・、最終的には岩倉の最も腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいました。岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上すると言い張ったのです。今から考えればそんなバカなことがあるか、と思われるかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。そうなれば、今までの閣議は何のための会議だったのかと思わざるを得ません。一人の人間の私心によって、国の運命が決められたのです。こうして西郷の遣韓論は潰されたのです。
ここで一つ付け加えます。よくこの「明治六年の政変」(いわゆる征韓論争)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれている本がたくさんあります。しかし、それはまったく事実と反します。まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していません。
今まで書いてきたように、当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしているのです。また、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保の方ですが、大久保がその後にした事と言えば、明治7年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌8年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮と事を構えています。
また、朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。西郷の平和的使節派遣に反対し、内政の方が優先するといった大久保がこんなことをやってのけたのです。これをもってしても、外征派対内治派という構図が、いかにまやかしであったのかが分かることでしょう。
いつの間にか歴史の通説において、西郷を征韓論の首魁と決め付けるようになったのは、大久保らが自分らの正当性を主張するがゆえのまやかしであったと考えるべきではないでしょうか。この「征韓論」に関しては、いずれ「テーマ随筆」で取り上げていきたいと思っています。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
驚愕の事態も予見される日米密約
今「預金封鎖」(著者、副島隆彦氏)という経済書が、専門書としては稀にみる勢いで売り上げを伸ばしている。発売以来1ケ月を経ずして、発行部数は8万部悠に超えているからその関心の度合い如何ばかりか推して知るべしである。
この著書は、秘密のベールに包まれた国際政治上の密約を暴くもので、この国一国の運命ばかりか世界の運命すら変えかねない驚愕の事実を指摘すると共に深刻な事態をも予見している。その内容以下。
1.[公的資金の投入]・・・(日米首脳会談)二人の間で諸密約が交わされた。・・・5月18日、例の「りそな銀行グループへの政府救援資金2兆円の投入」が決まった。ところが、それよりも1週間早い5月12日に、この「りそな処理案」は、ワシントンで既に決定されていたのである。
その決定は、駐日大使l館のハワード・ベーカー大使に、ホワイトハウスから直ちに連絡された。それで翌5月13日に、ベーカー大使は、日本の大物・実力者政治家3人を、東京・虎ノ門にあるアメリカ大使公邸に裏口から呼びつけた。
そして怒鳴りつけるように指示(指令)を出した。ベーカー大使曰く、「お前たちは、小泉首相の言うことをよく聞いて彼に協力せよ」
2. [デフレなのにインフレが起きる現象]・・・日本銀行が、実体資産(原資)の裏付けなく、お札(紙幣)をさらに大増刷し(毎月平均3兆円)、財務省が国債を更に大増刷している。この国債を日銀に密かに引き受けさせている。
アメリカがそうしろと言うからだ。中央銀行による公債(国債)引き受けは、財政法第4条、第5条に基ずき本来は違法なのである。それなのに、この違法行為を日本政府はアメリカの言いなりになってズルズルと行っている。だから、お札と赤字国債の発行量が膨大に膨らんでいる。だからデフレなのにインフレになるのだ。・・・
3. [日本とアメリカは一心同体]・・・日本の金融システムが、大銀行の抱える不良債権とデフレ崩壊(破綻)したら、保有する米国債の投げ売り換金(日本国内への資金の戻りl現象)がどうしても起きてしまう。そうなると、アメリカの債券市場が暴落する。
米国債の価格が暴落すると言い換えてもいい。長期金利が暴落する。それは明らかに「アメリカ発の世界恐慌」である。この事態をアメリカ政府としては何としても阻止しなければならないのである。・・・・
4. [アメリカの抱える爆弾]・・・アメリカ経済の不安要因はまだまだある。米国債と同様に、ニューヨークの大銀行も危ないのである。・・・そして、恐ろしい額の金融投機を行って、どうやら全体では大失敗して巨額の焦げ付き(隠れ負債)を抱えているらしいのである。
・・・50兆ドル(6000兆円)にも及ぶデリバティブ取引残高を抱えており、そのうちの不良債権化した部分が、ニューヨークの金融界が抱えている”核爆弾”なのである。それはいつか破裂するであろう。・・・
5. [2年後、世界経済の崩壊が始まる]・・・2003年5月6日から日本の株価が上がりだした。アメリカでは、これに先立ち、3月の7600ドルを底値にして上昇を始め、6月中頃に9200ドル台にまで回復した。ここに、「日米同時株上昇の演出」というブッシュ政権が意図的かつ計画的に仕組んだ景気回復のシナリオが存在している。
・・・だから、来年末までの、2年間弱の「短期の見通し」では、金融市場は堅調に上げ続ずける。政治が経済を主導するからだ。しかしこのことは「長期(大シナリオ)で見た場合の」自然の法則(市場原理)や経済原則に反している。だから再来年の2005年頃から、世界の経済の雲行きは急激に怪しくなるだろう。・・・「アメリカ発の世界大恐慌」である。・・・・
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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No.013 2006年8月17日
気になる本の気になる部分を切り抜いてご紹介します。
「アメリカに食い尽くされる日本」
森田実・副島隆彦・著 日本文芸社 2006年7月30日刊
副島 日本の金融をボロボロにして乗っ取ったのは1992年からのクリントンの対日戦略でした。日本を自分たちが自由に操れる国にしたのです。ロバート・ルービンとローレンス・サマーズを実施部隊の司令官にして、何かあるとサマーズが来日して大使公邸で怒鳴りつけるのです。
当時、首相だった橋本龍太郎はさすがに行かなかったのですが、幹事長以下の実力者が全員呼びつけられて、「アメリカに逆らうな」と怒鳴りつけられる。そういう政治が行なわれてきました。今もそうです。そのことを知っている日本の新聞記者たちが、なぜかまったく書かない。ここに問題があるのです。
1998年10月からの“金融ビッグバン”も、橋本龍太郎が無理やり約束させられたものです。当時は、「金融自由化だ」「ビッグバンだ」とあれほど騒がれたのに、今は誰も口にしない。なぜなら、「金融自由化」の掛け声とはまったく逆で、結果的にできあがったのは「金融統制」の体制でした。
日本は騙されたのです。あの時に外資すなわちニューヨークの投機マネーが自由に日本に入ってこれるようにした。そして少額で日本の大銀行を乗っ取れるようにした。
この1998年2月、“ノーパンしゃぶしゃぶ事件”を起こし、大蔵官僚たちを計画的に叩きのめしたのです。日銀官僚の福井俊彦(現日銀総裁)もあのリストに入っていました。名刺があった連中は皆さらし者にされ、官僚として出世が止まったのです。
CIAはこの名簿をインターネット上に流し、さらに愛国派官僚たちが引きずり降ろされる不祥事に発展しました。いわゆる“大蔵落城”です。マスコミはCIAの尻馬に乗って、日銀と大蔵官僚叩きをやったのです。
この時、すでに自民党の政治家たちは一人ひとり弱みを握られてアメリカの軍門に下っていたのですが、日本の官僚たちはアメリカの言うことを聞かないで抵抗していました。その結果、叩きつぶされたのです。
アメリカ批判は依然としてタブーのマスコミ
森田 戦後60年間、時代と友に生きてきて感じるのは、マスコミにおいてアメリカ批判が最大のタブーだということです。1945(昭和20)年の敗戦による占領から1952(昭和27)年4月のサンフランシスコ講和条約発効の時期までは、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が厳しい検閲を行ない、新聞、雑誌、放送のアメリカ批判を許しませんでした。
1952年に独立を回復し、GHQが日本からいなくなった後は、日本人自らによる自主検閲、自主規制でアメリカ批判を封じ込めてきました。それは2006年の現在までずっと続いています。特に小泉内閣になってから、アメリカ批判の声はマスコミから消された。アメリカ批判をする者はマスコミから放逐されたのです。
病的なアメリカ恐怖症が日本のジャーナリズムの根っこにあります。ですから、副島さんが何十年もアメリカの権力構造を批判し続けてきて、潰されなかったということは大変なことだと思います。
日本の政治は、いくつかの段階を経て、その政治体制は、植民地国家日本の“平成版大政翼賛会”というべき体制です。
プッシュ大統領が真のリーダーで、そのブッシュ政権から日本という国を任されている管理者としての小泉首相という構図です。小泉首相は独立国の政治指導者ではなくて、属領の総督のような存在です。帝国の君主から「こうせよ」と命じられればそのとおり実行する。ブッシュ政権の言いなりになっているのが小泉政権です。
広告を通じて日本のメディアを支配するシステム
森田 言論人というのは自立的存在ではありません。テレビなり、新聞なり、雑誌なり、編集者とメディアに助けられなければ仕事ができない。そうしたなかで、自分の信念、理念、哲学を貫くのは並大抵のことではありません。
多くの言論人が、メディアから与えられるテーマに従うことで、自分の考え方や理念、哲学をあまり出さずに、メディアに乗り続けるという道を選ぶわけです。副島さんのように、そのギリギリのところに踏みとどまって自己の信念と思想を貫くのは大変なことだと思います。
今や、日本の新聞もテレビも完全に独占的巨大広告会社の電通に支配されています。新聞もテレビも電通の使い走り、走狗になりました。マスメディアは完全に電通に握られたと思います。
新聞は購読料だけでは会社の経営は成り立ちません。広告料収入は経営の柱で、それなしには新聞経営は成り立たないのです。その広告を牛耳っているのが電通です。これはテレビも同じです。むしろ、テレビの方が広告に頼る度合いはもっと高いのです。
2005年でしたか、「ウォール街でこういう噂を聞きました」と、アメリカから帰ってきた友人が電話をくれました。「アメリカの保険業界中心の経済界が5000億円の金を日本の広告会社に出して、ある広告を依頼した」というものです。
それは、日本人に「民営化を善なるものだ」と思い込ませる広告費として、すなわち、「民営化すべし」という宣伝目的の広告費です。「アメリカの巨大広告会社を通して、日本の巨大広告会社に依頼された」というのです。
私は、アメリカに通じている何人かに聞いてみましたが、全員が「その噂は耳にしたことがある」と言っていました。まだ、当事者の証言は取れませんが、本当だとすると大変なことです。日本国民は、アメリカ大企業の広告によってマインドコントロールされたのです。
副島 オムニコム・グループのBBDOですね。アメリカのデイヴィッド・ロックフェラー系の宣伝広告会社の大手の一角です。ここの会長のアレン・ローゼンシャインが、2005年の8月2日に突如、首相官邸を訪れて、小泉首相と極秘に会談をしています。
この日の3日前に、参議院で郵政民営化法案が否決されて、劇的な逆転劇が進行した。この直後、小泉首相は衆議院を解散することを決意して、「9・11の小泉“クーデター”選挙」になりました。
小泉の民営化を美化したアメリカの巨大広告産業
森田 この情報を、ウォール街から帰ってきた友人から聞いた話としてホームページに書きました。そしたら大きな反響がありました。「それは事実です」という、内部の人と思われる人からのメールもありました。
電通批判の代償は小さくありませんでした。あるテレビ局の幹部からは、「森田さんは電通批判というマスコミ界最大のタブーを口にしてしまいました。今後、森田さんにはマスコミの仕事はなくなります。残念です。さらばです」と言われました。各テレビ局からの出演依頼はなくなりました。
ある新聞社の幹部は、「森田さんの言うとおりだと私も思いますが、電通を批判したとたんに、私の会社は潰れます。だからできないのです。電通は強大ですから」と言っていました。
広告を通じて、日本のメディアを支配するシステムができあがっています。政治権力の影響よりも強く、国民をマインドコントロールできる。日本の広告メディアはアメリカの広告メディアと提携しています。したがって、アメリカの要望である郵政民営化をスムーズに実現するため、広告によって日本人の頭を「民営化は善なるものだ」と考えるように持っていこうとしたのです。
これは成功しました。小泉首相がどんな失言をしてもメディアは首相を守る。小泉は日本社会のタブーを打ち破った偉大な政治家だという幻想をマスメディアが振りまく。すべては日米の巨大広告独占体の広告戦略にもとづいて行なわれたことです。こういう大きな力が働いて、小泉構造改革が展開していったのです。
日本は今、アメリカの事実上の植民地になっています。そのことに気づかない人が非常に多いのは、メディアが「日本は独立国だ」と大嘘をつき続けているからです。
今大切なのは、「日本という国がアメリカの従属国、事実上の植民地国家なのだ」ということを国民の多くがまず認識することです。そして、本当にそれでいいのかどうかを、国民全体で考えることです。私たちの子孫に、従属国になった日本を残していいのかを考えることです。
日本の支配層は、アメリカがすべてを決定しているということを隠しています。広告メディアを使って、いろいろ演技をしている。うまくカムフラージュされた嘘を見抜くことが、日本国民が自立するうえで必要です。
“アフター小泉”を安部晋三が継承する危険
副島 2006年9月から安部晋三の時代が来るようであれば、新たなる日中戦争が数年早まるという恐ろしさを非常に感じています。
5、6年前まで、私は、日本の民族は政治家と官僚たちが、日本を支配しようとするニューヨークの金融ユダヤ人たちとの戦いにおいて、もしかすると表面上は彼らの言うことを危機ながら、面従腹背の構えで国を守ってくれるのではないかと願望を抱いていました。
ところが実情はそうではなくて、彼ら政治家は自分だけが生き残ることを考える人たちなのだ、ということがよくわかりました。国民を捨てるんです。国民がどんな目に遭ってもかまわない、自分が政治家として生き残りさえすればいい。大臣になりさえすればいい。こういう卑屈な人間たちなのです。だから属国なのです。
日本を今、本当に支配してるのはトム・シーファーという駐日米大使です。小泉首相も彼の指図を受けています。シーファー駐日米大使も北朝鮮拉致問題を喧伝しています。日本国内の反中国・反北朝鮮感情を巻き起こす目的で、自ら陣頭指揮をして新潟港まで行ったりしています。日中間で軍事的な衝突を起こし、日本国民を緊張状態に置く目的です。
あと一つ情報ですが、竹中平蔵総務大臣は、すでに2000万ドル、22億円のお金でニューヨークに、ペントハウス(最上階)の付いている高層アパートを1棟買いました。つまり逃げる準備を始めたのです。
(本からの引用終わり)
以下は、なわ・ふみひと氏の文章
●森田実氏は、以前はよくテレビに出ていたのに、最近ではまったく見かけなくなりました。私はてっきり亡くなられたのだと思っていましたが、実は電通という日本最大・最強の広告会社を批判したために、その電通に牛耳られているテレビ局から干されてしまったのだということがわかりました。
経営を広告収入に依存している今日の大新聞やテレビ局は、その広告の取り扱いを差配する電通には頭が上がらないのです。その電通が先の「郵政民営化」の選挙において、小泉自民党圧勝のメディア政策を立案し、実行に移したのです。あの選挙結果を見ますと、情報を大メディアだけに依存している大衆は、マスコミによる操作によっていとも簡単にコントロールされることがよくわかります。
その電通を裏で操っているのはアメリカ最大の広告会社です。その広告会社の裏に、アメリカを支配する金融資本、つまりロックフェラーを中心とするアメリカの支配層がいるのです。森田氏は「民営化のキャンペーンのために、アメリカが5000億円のお金を、電通を通じて日本のマスコミに与えた」という噂があると言っています。そして、それを自らのホームページの中で指摘したところ、各テレビ局から放逐されてしまったというのです。
マスコミ人にしてこの有様ですから、いまや政治家や官僚にいたるまで完全にアメリカのコントロール下にあることは推して知るべしです。まずはそのような現実を知った上で、毎日の新聞やテレビの報道内容に踊らされない心構えが必要でしょう。最近では、靖国問題が大変よい教材となっています。(なわ・ふみひと)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝