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● [95] 浜田和幸氏のグリーンスパン論
投稿者:副島隆彦 投稿日:2000/02/21(Mon) 03:55
副島隆彦です。つづきです。
「文藝春秋」2000年3月号に載った浜田和幸(はまだかずゆき)氏の評論文について、私の感想を書きます。
浜田氏ともあろうものが、この程度のアメリカ思想理解か、と落胆しました。
私は、『ヘッジファンド』(文春新書)を書いた浜田氏と、共闘しようと考えていました。 それは、グローバリストたちの動きを彼なりに、向こうの新聞を丹念に読んで解明しようとしていたからです。 とくにジョージ・ソロスをロスチャイルド系と見破ったのは、日本人としては最先端です。
ほかの日本言論人たちは、満足に向こうの新聞を読む力もありませんから。本当のところは。 中西輝政(なかにしてるまさ) 氏あたりでも、どうしようもない。私の本を読んで、後追いでなにか書こうとしているからです。
他の言論人たちも、まったくアメリカ政治分析ができていません。世界で通用している政治思想を、よちよち歩きでいいから、自分の頭で世界基準で知ろうとするところからはじめなからです。 私は、そうやって自力でなんとかしようと苦闘してきた。 正直にやれ、ということです。
浜田氏は、リバータリアニズム という言葉は、ひとつも使っていない。知らないだろう。 このタイトル文を付けたのは、文春の編集者だろう。
まったく馬鹿ですね。この程度の頭で、度量のひろい政治評論理解者のつもりです。 アイン・ランドを、「カルト女流作家」などと書いて、それで当然だと思っている。アメリカの保守思想の大きな流れのかけらも知らない。
なんにも知らないで、戦後の55年間を、日本の土俗保守派全てが、生きてきた事を、よくよく証拠だてています。
アメリカのニューディーラー(=元祖グローバリスト)が、吉田茂以下のおかしな日本保守指導者層を育てたことに起因します。日本の保守派は、アメリカのリベラル派に育てられたのです。
私は今書いているこの文章を、あとでファックスで、文春の編集部に送り付けることにします。 私の担当者なる人も文春内にいるのですが、そんな社内事情など、かまっていられません。
すべては、私の書いた『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社 プラスアルファ文庫)の理解を前提にしか、この国では始まらなくなっているのです。
ほんとうに日本はアメリカの属国です。この理論を苦労して15年かけて築いたのは、私です。
石原慎太郎や福田和也ら20人ほどが、それを、どれぐらいたくさん、恥しらずにも剽窃・盗文したかを、これから徐々に明らかにしてゆくつもりです。このネット(情報通信)革命のおかげで、こういう表現行動ができるようになりました。当然、反論も、堂々となされなければなりません。
このグリーンスパン論は、浜田氏が、あれこれの種本を使って、(それもだいたい私にはわかります)面白い紹介文になっています。
どうせ大きくは、日本知識人というのは、思想知識学問の密輸業者でしか、ありませんから。 この日本語と言う言語の壁を利用した、原住民のまじない師の集団です。
いよいよ、私のような人間の出現によって、それらの秘密が、公然と暴き出され始めているのです。 私は、もう決めたのです。もう我慢しない、と。 あらゆる種類全ての言論統制と戦うのだ、と。
グリーンスパンFRB議長が、若い頃から リバータリアンだ、ということは、アメリカの知識人層ならみんな知っていることです。 アイン・ランドの思想の熱烈な信奉者だということも。 ですから、彼が原理的な市場尊重主義者(資本主義の原理的擁護者)であるのは、あたりまえです。
なにを今更、という感じです。私が、いつも書くとおり、日本で一流とか思われている学者知識人たちなど、 欧米の高校生並みの知性なのです。
はやくこの事実をみんなで認めたほうがいい。 言葉の壁がどうにもならない、の問題についても、私が、10年まえに『欠陥英和辞典の研究』を書いて闘ってきたのです。
浜田氏が、最後のほうで、「しかし、これはあくまで単年度ベースで見た数字に過ぎず貿易赤字ともども累積する双子の赤字は・・・・」以降は、私の本、『悪の経済学』その他から、学んだのだろう。
日本は、文明の周辺属国だから、特に、知識人層が、知識泥棒ぐせがあって、これが2000年間、抜けない。
浜田氏は優秀なほうである。 彼が、私の本を読んでいることは、編集者たち(廊下ひばり)たちを通して、私は知っています。 やはりたちのこの、日本リバータリアニズム運動(NLM)で、アイン・ランドの本を何冊か翻訳することは、大切なことだ、と、いま、決断しました。明人くん、皆さん、がんばりましょう。
古村(ふるむら)くんが、書いていたとおり、アメリカの大学生で知的な人は、みんな、アイン・ランドの本を読むのです。
30年ぐらい前からそうなのです。 アホ・リベラルで終わりたくなかったら、みんな気づくのです。 ランド女史が、ウェストポイント(陸軍仕官学校)で行った講演などは、じつにすばらしいものです。
アイン・ランドが、アメリカの保守本流(バーキアン)である、大御所保守評論家のウィリアム・バックレー (日本で言えば、小林秀雄に相当する) と激突して、アメリカの保守派知識人たちは二つに割れたのです。1950年代の終わりごろです。
そしてランドらは、1964年の大統領選挙で、バリー・ゴールドウォーターを支持しようとした。
ところが、奇怪な暗殺で相手方のJFK が1963年の11月に殺されて、ジョンソンが勝ち、以後はロックフェラー家が完全に支配する巧妙なアメリカ政治支配、かつ政界支配の構造ができていったのです。 私の本を本気で細かく読めば、書いてあります。
アイン・ランドを、「カルト女流作家」などと、馬鹿が。 この東アジアの土人の知識人どもめが、いい加減にしろ!!
副島隆彦拝。
● 「今日のぼやき」 2000.3.6 から引用
宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、
もう世界規模では捨てられた思想です。
今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。
東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。
はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。
「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、とにかく訳(わけ)が分からないように書く。
読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。
室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。
じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちはアメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。
日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。
(引用おわり)
● 副島隆彦です。
以下の書き込みは、私が『小室ファミリーズ』の『小室・副島何でも掲示板』に、書いたものの続きです。
そういうわけで、日本のアホ知識人の総体は、翻訳文のむずかしい、なんだかよくわからない文意を無理矢理、 自分勝手に、読み込もうとします。おフランスのポストモダンの連中の、書き方の、責任もあるのです。
分かりやすく、簡単にかくと、自分の偉さが、減少すると、かんがえてしまう。
ところが、世界覇権国アメリカの学者・知識人たちは、そんな書き方はしません。 彼らは、実に鷹揚(おうよう)です。自分たちが、世界の政治知識人の頂点であり、かつ現実の権力も動かせるのですから、当然です。
グローバリストというのは、そういう意味で、強大なのです。 今のヨーロッパの知識人たちが、ぐちゃ、ぐちゃの複雑な心理になるはずです。
なぜなら50年まえまでは、じぶんたちが、世界の知識・思想・学問の中心だったのですから。ですから、90年代になると、日本の若い学者志望者たちは、アメリカに行くようになったのです。ヨーロッパなんか、行かなくなったでしょう。下等学問である、「人文=文学研究」を除いて。いまは、みんな若い野心家は。みんなアメリカに行きますよね。そういうことです。 わかりましたか。
それから、ナターシャさん(はじめまして。)の、考えに対しても、私の宮台君へ視点の答えになるように、答えます。
私は、宮台真司君の、『権力の予期理論』も、彼から贈呈された時に、読んでいます。あの本が、彼の、処女論文集であり、
おそらくいまでも、唯一の、かれの、公表している学者としての論文でしょう。 たしか、修士論文である、「ニコラス・ルーマン論」 (先述した、ドイツ文化マルクス主義のユルゲン・ハーバーマスの権威と闘って、
「だって、アメリカの資本主義のほうが、強いじゃないか」と言った学者です。ルーマンは、アメリカ・ グローバリストに寄っていった若手の学者です。ただし、宮台君は、こんなことは、なんにも知りません。) のほうは読んでいません。
宮台くんの、この『権力の予期理論』は、アメリカのグローバリスト学者たちの理数系があつまる、MITの、学者たちの、研究を模倣したものです。MIT は、コンピューター・サイエンスの牙城でもあります。 フォン・ノイマンや、フランツ・シャノンらの世界です。従って、「ゲーム理論」の生まれ故郷です。
このゲーム理論を様々に使って、MIT系の学者たちは、経済学、社会学、政治学に、80年代に、はびこりました。日本の若い社会学者たちが、訳も分からず、これに、感染しない訳がありません。宮台君もそのひとりです。
自分が、一体、何を書いているのかよく分からないのです。あの本で、いちばんよくなかったのは、自分が種本にしたアメリカの学者の本を、載せなかったことです。あるいは、故意にごちゃごちゃにしてしまいました。
ですから、あの本で、全国の若い、いま34歳以下の女性社会学専攻学生は、宮台くんに、ポーッとなった人がたくさんでたようです。ところが、やっぱり、あの、わけがわからない文章です。人間は、どんなにあこがれた振りをしても、よく分からないことは、結局、分かりません。感動と実感を伴わない理解は理解になりません。
ですから、何年かすると、やっぱり、「わけがわからないや」ということで、人々は、離れて行きます。これが、 日本リベラル派、全体の、致命的な欠点です。 「反権力・反体制」という一語の大きな力にしがみついて、まとまりつづけるしかないのです。
宮台君の『権力の予期理論』は、アメリカの(ほんとうは、ハンガリー系ユダヤ人の)ゲーム理論ですから、「囚人のジレンマ」理論や、 「互酬性(ごしゅうせい)の戦略」理論を、下位理論として使いながら、ほとんどは、「4象現マトリックス」で、説明しています。
なにを、だらだらと、と言いたくなる本です。そういうことを、わたしは、彼に、そのころ、書いて送っているはずです。
簡単に言えば、「相手が、自分を、こう裏切ったら、こっちは、こう出るぞ」というのを、たくさん、ずーっとシミュレーション(机上演習)風に書いて行く訳です。 これが、いまのメリカ社会学(の影響を受けた日本社会学者たちの一部)の生き方です。
そして、このゲーム理論は、アメリカの軍事理論として使われてゆくのです。アメリカの学者たちは、自分の研究業績が、
現実の政策(応用)として、使われてゆくことを目的に、生きているのです。 それに対して属国の知識人たちは、ただひたすら、
それらを翻訳して、自国に持ち込み自分が、その第一人者になることが目標になります。 哀れな話ですが、これが私たち運命です。
だから、いまのヨーロッパの大学には、もう、残り滓しかないのです。日本とおんなじで、大学は硬直化した古臭い学者たちが、居座って占拠している空間らしいです。
従って、宮台くんの業績は、この、特殊な、アメリカの、戦略思考型の、ゲーム理論の、焼き直し版なのです。ところが、それが、きちんとMIT(マサチューセッツ工科大学)系の社会学者の思想骨格を、日本に、移植していれば、
それだけで大変な業績ということになるのですが、それを、やらない。できない。
だから、私は、学者としての宮台君の学力をあんまり認めていません。むかしから、よく知っていますからね。
ゲーム理論だったら、永田えり子さん(滋賀大教授)が、研究発表していました。彼女は、当然のように、フェミニスト理論家でもありますが、宮台君のゲーム理論理解につき、たくさん、批判したいようです。
私は、彼らと、何年も同じ研究会にいたのですから分からないはずがありません。 もっと、もっと、すべてを、明らかにしてゆくでしょう。
ただし、ゲーム理論が重要なのは。 それは、旧来の理論モデルが、マルクス主義などの、政治デイロギー (すなわち、勝手な宗教)であったことを、強く批判して、冷酷な客観としての権力なるものの、描写をやろうとしたことです。 人間の個々の主観から離れた、法則性の発見を目指したのです。 その試みや、よし、です。
でも、ほんとうのところ、ゲーム理論も、駄目だったのです。 大きなところで、駄目でした。
アメリカ行動科学( behavioral science, ビヘイビアラル・サイエンス)という50年代いらいの壮大な学問運動自体の、大敗北の、最後の、小山程度、でしょう。
アメリカ行動科学(バーラス・スキナー と、タルコット・パーソンズが、最大の代表)は、ソビエト・マルクス主義ぐらいは、打ち壊せたでしょう。
しかし、19世紀ヨーロッパにいたる近代学問の荘厳な成果をうちたおし、その上に学問的、覇権を達成することは、できなかったのです。これが、アメリカ・リベラル派学者たちの、真の悲劇でした。 アメリカは、ソビエトは打ち倒せましたが、学問的には、失敗したのです。
従って、今の日本の社会学というのは、ほかの学問の悲惨ですが、ものすごく不毛です。よくもまあ、これで学者の集まりといえるなあ、という惨状です。ですから、宮台君が、あの、「ブルセラ」とか、「女子高生の売春の肯定」や、
「おやじの、保守の評論家たちの偽善を、糾弾する」に、向かったのでしょう。このへんの、気持ちは、よく分かる。
私は、3年ほどまえ、そのように、彼に、手紙を書きました。 そういう記録は、すべて、私の手もとにのこっています。
彼は、私の家にも、遊びにきているんだから。 私が、にせものの日本刀を、振り回したので、たいへんいやがっていたことを覚えています。
小室先生が、「社会学者は、大天才か、凡庸か、どちらかしかいない」と、よく言っていました。 小室直樹撰集についてですが、どうかんがえても、宮台君じゃ、どうにもならない。
光文社のカッパ・ビジネスの小室本を並べ直して出すだけでしょう。
橋爪大三郎の、膨大なノートと、私の小室理論の整理がなければ、『全集』は、無理です。だいたい、宮台君は、たまーに、
小室ゼミ に、顔を出しただけでなんにもやってないんだから。あとで弟子だとかなんとか、よくゆうよなあ。
彼の先生の、東大社会学の、エライ先生たちだった、富永何とか、と吉田民人が、小室先生を敬遠していじめた張本人立ちなのだから。 それから、駒場の教養学部に、三田宗介という、社会学者がいて、たしか宮台君は、大澤真幸とともに、この三田宗介の弟子でもあるはずだ。
この三田宗介が、西部すすむを東大教養部から、追い出したときの策略をやったのだった。10年前の古い話だけど、私は、こういうのを、たくさん知っているのです。
そうか。やっぱり、ネット革命は、すごい。こういう話は、どこの雑誌も、書かせてくれないから、 世の中につたわらないのだ。 それで、みょうな権威すき人間がばれないかとおもって、
頭のちょっと良い読書人の知識人見習いたちを、だましつづけるのに、都合がよかったのだ。 もう、そうはさせない。 このネット革命は私のためにあるようなものだ。
サイバッチやら、まぐまぐ やらに芸能人の私生活暴きの、スキャンダリズム言論を任せておけばいい、というものではない。 私は芸能人になど興味はない。
が、日本の知識社会が、奇妙な言論統制下にあるのは断じて許せない。 全部ぶち壊す。思想家としての全重圧をかけて、この課題を追求することに決めた。
近いうち、宮台真司に会う事があったら、(どこかの出版記念パーティででも)かならず、 彼の長年の失礼な態度について、質問してみる事にする。
私は、宮台真司の最近の言動は、こういうことだと思う。
「学問なんか、あきちゃったよ。現実を、なんとか、変えなくては」 なのだろう。 それで『噂の真相』の岡留一派にくっついて社民党から、 ラジカルな新左翼のポーズをとって、選挙にでも出てみよう。ということなのだろう。
私という本物のラジカルが出てきたら、この人たちは、どうするのかね。 宮崎学(みやざきまなぶ)だって私にとっては、どうとゆうことはない。
ほんの、きのうも、宝島社の社長の蓮見清一(はすみせいいち)と、あれこれ昔のことを含めて話してきたばかりだ。
呉智英(ごちえい)が、私をどれだけ敬遠しても、もう私がはるかに、仕事の中身で彼を抜いちゃったから、どうにもならないんだ。
ああ、だんだん文章が品がなくなってきましたねえ。 簡単にいうとガラが悪くなってきました。
ですから、宮台君が、現在をどう考えているか、というと。 自分も芸能人になって、美人の女優や、女性司会者たちと、
つきあいたい、ということだと、おもう。 このけんでは、もかしの、宮台君の仲のよかった、女性たちに聞いてみようとおもう。
彼女らも、何人かは、学者になっている。おそらく、フェミニズム研究かなにか、やっているだろう。 いまの、あの茶髪の宮台君の所業を、彼女らがどう言うか見物だ。自分の性生活まで、暴くように書いて、それでも、お仲間で『噂の真相』一派と仲良く「反権力ごっこ」 をやっている。あの神経が私にはわからない。
あんなにおかしな、女性差別と、各種の暴露言論をやって、私から見たら、このひとたちこそは左翼差別主義者だと思うのだが。
藤原紀香が、少女のころ部落解放同盟のモデル写真になっていた、などということは、いくらサイバッチでも書かない。
やっぱり、『噂の真相』をネット系のスキャンダリズムがこえるのは、まだまだ先の事なのか、と、考えてしまう。
今の日本では、有名人・芸能人・権力者にたいする、反感と、ねたみ、嫉妬の感情をいだくことがすなわち左翼的ということになってしまっている。
ほんとうに今の、日本の左翼と呼ばれるのは、岡留正則と、佐高信(さたかまこと)と、田中康夫と、筑紫哲也と、宮崎学の、連合が左翼ということになってしまっている。 ほんものの左翼たちは、きっと、泣いているだろう。
若いひとたちは、だまされやすいから、気をつけてください。私のこの記述についても、 かならず証拠があった時に信じるというぐらいにしてください。 自分が読んで味の不明なことは、「わからない。もっと分かるように書いてくれ」と、
聞き返すようにしたほうがいい。日本の知識人は、根本から、知識の組み立てかたを、考え直したほうが、いい。
そうしないと、どうせ、世界基準で、外国人と話さなければならないときに、恥をかくだけです。
これまでのように、日本国内でだけ通用する学者というのを、認めては、いけません。 学問・知識・思想は、どんなに初歩であってもよいから、世界基準でなければなりません。
これで私の宮台真司論は、一応おわります。もっと、もっと、そのうち書きます。
● 今日のぼやき「341」と「342」のあたり
ですから、小室直樹先生も、ここで大きく躓(つまづい)いたのです。日本という、おかしな、東アジアの原住民たちの国で、
世界基準の本物の知識人が、理解されずに、悲劇を味わった、だけの話では、ないのです。
小室先生は、このタルコット・パーソンズに習いに行ったのです。ポール・サミュエルソンに薦められて。 そして、その、
「構造ー機能分析」という学問を、持って帰ってきたのです。この、アメリカ行動科学の最大の武器は、 ・・・結局、使い物に、なりませんでした。本国のアメリカでも、リベラル派学問が、80年代に衰退をはじめ、代わって、
保守派のシンクタンクが延び始めたのです。「祈り」とか、「まじめな生活」とかの保守思想が復権したのです。
ですから皆さん、わかるでしょう。 小室先生は、この20年間、ずーっとマックス・ウエーバーの理論だけを使いつづけたのです。 ディルケームのアノミー理論以外は。 そうでしょう?
ですから、いまでもウェーバーだけが真に偉大なのです。ウェーバーだけで社会学は成り立っているのです。
あとは、みんな雑魚です。 ウェーバーの理解を共有することが、世界中(たとえ、あの中国においてさえ)の社会学者の共同性の保証なのです。
ですから、小室先生が昔、残念そうに私に教えてくれました。
「あのね。経済学だけは、80%学問として、自立できたんだ。ほかのは、 全部,駄目だった。科学(サイエンス)になりきれなかったんだよ。」 と。 先生は、そうやって、こっそりと私に真実を教えてくれました。
ですから、いまでもマネタリスト理論を、組み込みながらのケインジアン理論が生きており、これで、世界中の各国政府の経済政策 (財政政策 と 金融政策から成る)は、曲がりなりにも生きているのです。 これで世界が動いているのですから。
ところが、このケインズ経済学以外の、ソシアル・サイエンスは、ぜんぶ、失敗したのです。
そのことをアメリカの超一流学者たちは、みんなで白状しています。
●:04/12/13 09:30:36
副島隆彦の今日のぼやきより
(引用開始)
今のアメリカの露骨な手先に、若いのでは評論家の宮崎哲也(みやざきてつや)がいる。田原総一朗の子分をやって、後釜を狙っているが、 あの気持ちの悪い悪人顔では、長持ちしないだろう。
昨日、東京駅で彼とすれ違った。この時に私が咄嗟に「宮崎君」と声を掛けたが、恐ろしい形相のまま歩き去っていった。
この男は、本当に数年前よりももっと悪魔のような顔つきになっていた。竹中平蔵、オリックスの宮内義彦、 孫正義も、同質の悪魔のような雰囲気を外部に放っているだろう。金融ユダヤ人どもの手先になって、日本国民を苦しめ片棒を担ぎ続けることで、 地獄に堕ちるがいい。
(引用終了)
● (以下は、2001年 ぐらいの文だろう。副島隆彦注記)
バイリンガル系の中には、(特に女性が向いているが) ゴールドマンサックス在日支店あたりにはいって、
日本金融乗っ取り、破壊攻撃の尖兵(せんぺい)をやって、それで年収2億円とかをもらって、30歳で、汐留(しおどめ)地区の一億円高層マンションを現金で買ったりしているのだろう。みんな今では、 私の主著の「覇権アメ」を読んでいるはずだ。しかし、副島隆彦の名前は死んでも口にはしない。
もうジョゼフ・ナイも副島隆彦という名前を知ってるだろう。自分が管理している日本で、自分たちに楯突く雑草のようなやつ、ということで。
それで、最近、東大教授をしている藤原何とか、という40歳ぐらいの若い学者が、 テレビに出て、「ネオコンとは」とか、「レリジャス・ライトが」とか 偉そうに解説しているそうだ。
宮台真司と宮崎哲弥の馬鹿ふたり組も、例によって「ネオコンの中のこの人たちが リバータリアンで」などと馬鹿な嘘八百を「朝生」でしゃべっているそうだ。 私はあきれてしまう。
副島隆彦です。この「日本リバータリアン掲示板」は管理人の明人君にすっかり任せきりで、申しわけなく思っています。 私は、最近は政治家の後援会での講演会や、地方経済界での講演会に行く事が多くて それで忙しいのです。
私の年齢でさえ、最早、静かに本を読むと言う事はできなくなりつつあります。元々、現世を捨てて落ちこぼれていいから、自分の好きなように生きると決めた人間なのですが、なんだか、このごろ私のアメリカ政治分析を聞きたいと言う人が、増えてきました。
まず、はじめて、この私たちの website に来られた方々に、ご挨拶を申し上げ、敬意を表 します。明人君が、すべて厳しくかつやさしく、 入門gateway を示されるので、仲良くかつ 冷酷にこの場で自分の思想力を磨き会いましょう。
まず、Ayn Rand 女史についてですが、 アイン・ランド と表記する事に決めます。
その理由は、すでに3年前に、私は宇都宮に住む久世基文(くぜもとふみ)さんとこの件で合意 しました。久世さんが、ランド女史の伝記を、詳しくお読みでした。その中にランド自身 が発音(本当は、発声だろう)記号つきで「自分の名は、アイン・ランドと読む」と、 語ったくだりがありました。 その本も、やがて私たちで翻訳しましょう。
そういうわけで、アイン・ランド に決定します。以後、日本国では、そのように表記します。 久世さんは優秀な方です。理科系の人で隠者のようにお暮らしです。50歳を超されたでしょう。
私はこの日本リバータリアニズム運動 に参加するよう誘いました。しかし彼は「自分はもうインターネットをやる元気もお金もない」とおっしゃいました。残念です。
久世さんは、かって、日本ハイエキアンの代表である西山千明(にしやまちあき)先生らと、真の自由主義運動をされていましたが、西山先生も、高齢で、フーバー研に行かれたようで、運動も立ち切れたのではないか。
私たちが、新しい波となって、引き継いで行きましょう。 この、思想後進国・日本で、この日本語というオンボロ言語で、なにかを本気で考え、書くということはいまだに大変なことです。
しかも当時は世界水準だと、勝手にいれあげたマルクス主義その他の左翼思想が、歴史のごみ箱に入ってしまっても、それにとりつかれた自分を、愚か者だったとして、きちんと 表明して前進して行けばいいのに、それができない人が多い。ですから、いわゆる日本 的リベラル の人たち( 欧米のリベラルからは、相手にされない。 世界基準の Social Democrats 社会民主主義者 に入れてもらえない。)は、もうどうしようもないでしょう。
若いひとたちはまじめに本を読む力がある人なら、今は、かならず、私たちのほうへ 来てくれるでしょう。これは、時代の波なのであって、個人が、逆らえることではないのです。
しかし、このサイトは、リベラル派ですが悩んでいる人たちが、つっかかってくるのを歓迎しましょう。ずばりと世界にながれる大きな真実を教えてあげましょう。
Libertaranism は、どのように、カタカナ表記しようか、私自身が、悩みました。そのことは、『リバータリアニズム入門』のあとがきで私が書きました。
最低、この本だけは、読んでから。あるいは、読む事を表明してから、何か、書き込んできてください。
あまりにも勉強の足りない人は、論外です。 考えが足りなすぎるというより、本を きちんと読むという習慣のできていない人は、日本アホ・リベラルのまま自己善意のひととして生きて死んでゆかれれば、それで、よろしい。 l
故に、このNLM の権威によって、Libertarianism は、リバータリアニズム と、表記する
と、決断します。 隠れ日本共産党員系の若い学者たちが、いかにリバータリアニズムをゆがめて解釈し、変な論文を書こうが、すべて、世界基準で流れる理解幅を前提にして粉砕します。
このことは、私の近著『アメリカの大嘘 』(講談社、1999年12月刊)の初めの方で名指しで説明してあります。 このつづきをすぐ書きます。 取り急ぎ。 日本リバータリ
アニズム運動万歳! 副島隆彦拝。
● [15] リベラル派的リバータリアンも参加してほしい
投稿者:副島隆彦 投稿日:2000/01/29(Sat) 15:42
副島隆彦です。 アメリカのリバータリアンには、ACLU (エイ・シーエル・ユー 、America Civil Liberties Union アメリカ市民自由連合) という、大きな政治団体があって、 これはリベラル派の団体に数えられるのですが、その主張は、徹底した市場重視で、明らかにリバータリアン的です。
彼らは、「シビル・リバータリアン」(Civil Lbertarian ) と総称されます。
全米リバータリアン党(Liberarian Party) のような真性の保守派のリバータリアンとどれぐらい違うのか、そのうち調べに行かねばなりません。
日本には、まだ、そのようなリベラル派のリバータリアニズムを理解する人がいるとは思えませんが、やがて現れるでしょう。
その人たちのために、このサイトが、同じ研究仲間として迎え入れる広い土壌を作っておきたいですね。
たしかに、明人君が、言うとおり、日本的リベラル派は、人格崩壊をきたした人が多いです。自分自身の信念の体系がひどく揺らいでいるからでしょう。
ですから、もし何かリバータリアニズムについて語ろうというリベラル派のひとには、 最低限度、あの『入門』本だけは、読んでからこのサイトに来てもらいたいですね。 そのときは、みんなで、歓迎しましょう。
副島隆彦拝
● [111] ランド女史の objectivism について 投稿者:副島隆彦 投稿日:2000/02/28(Mon) 04:40
副島隆彦です。
アイン・ランドが、自分の思想を指して、 objectivism ( 客観主義) と名乗ったのはなぜか、と言う質問につき必要と考えましたので、私の知る限りで、答えます。
ここでの客観主義 、オブジェクティビズム とは、objective thinking のことで、「自分の脳の中で生まれた思考を、基にした、思考をしないで、外側の世界の 冷酷な進行を、認める」 と言う事です。 これに対し、subjective thinking とは、
「自分の脳のなかで生まれた思考 idea を基にして、それを外側に出す」 ということのようです。
すなわち、ランドもまた、ノミナリスト系に属し、 プラトン=アリストテレス系の idearism と、闘う覚悟を若い時にきめたらしい。 ですから、「本質 と現象」 と言うような考えかた をしません。 「本質(エッセンス)」を否定します。
したがって、この、ランドの objectivism は、ほんとうは、ベンサマイト Benthamyte (ベンサム主義) を、名乗りたかったのでしょうが、時代的に、あまりに早くて危険だと思ったので、一歩、退いたのでしょう。
ベンサム主義の、過激な怖さについては、ここでは、触れません。 おそらく日本人ではまだこのことの理解は無理でしょう。 副島隆彦拝。
● 「財産権こそは諸人権の土台である」論文
投稿者:副島隆彦 投稿日:2000/04/14(Fri) 15:57
こんにちは、副島隆彦です。
「財産権(こそ)は人権である」 というヤン・ナーバソンの言葉を引用している『リバータリアニズム入門』からの、
重要な抜粋が、この website の頭のほうに載せられた事は、大変、重要な事だとおもいます。
財産権(所有権)は、日本では、憲法29条で、「財産権は侵してはならない。
②財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれをさだめる。
③私的財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」
このように定めてあります。この29条は、今でも猶お、共産党系が圧倒的である日本の
憲法学者たちによって、不当に、無視されてきた条文です。
言論・表現・出版の自由などの、いわゆる「精神的自由権」のほうを無闇と、たかく持ち上げて、
この財産権(営業活動の自由を含む)の規定を、ものすごく低く扱ってきました。
明人さんが、以前に、掲示板で、人権と自由(権)ーーーー各種の自由とは、各種の自由権のことです。
このことを知らない人が多いですーーーーについて、簡潔にすばらしい定義を与えていました。
今、過去ログを捜したのですが、見つかりませんでした。
財産権が、その他のあれこれの人権(これを、「人権カタログ論」と言います)の
土台であり基礎となる人権です。
ですから、人権論を云々するのであれば、それを保証する財産権をまず、言わなければならないのです。
財産権とは、財産「への」人権である、と。
私は、20余年まえに、大学の卒論でそのことを、書いた記憶があります。
ソビエトの知識人たちは、なぜ、諾々と殺され、収容所に送られて行ったか。それは、
じつは、スターリンの凶暴な性格、以前に、知識人たちが、勝手な理想主義に自らだまされて、
「私有財産の否定」とか、「私有財産の国有化(公有化)」を、みずから実践したからです。
もし私有財産権が守られていたら、裁判で財産を食いつぶすまで2年ぐらいは争えたでしょう。
ところが、自宅まで国有財産であることを、認めてしまったものだから、政府と争うとすぐ追い出されました。
これでは、国家と闘うどころの騒ぎではありません。すぐに飢えて死ぬしかありませんから。 そのようにしてロシアの知識人たちは、自業自得でひどい目に遭っていったのです。
ですから、財産権が諸人権の土台であり基礎なのです。宗教のように、各種の人権を、ただ至上の権利としてたてまつっても仕方がないのです。日本共産党系を含めた、日本的 リベラル派というのは、馬鹿だねえ、といつも思うのは、こういう事を考える力が無いからです。
生来知恵が足りないから隠れ党員をずーっとやっているのでしょうが。 このように私は、すでに20歳すこしの頃から、リバータリアニズムを自力でなんとなく体得出来ていた人間です。左翼思想にかぶれてひどい目にあったという青年期をもっているからです。
余談ですが、あの日本レヴェルでの碩学・丸山真男(まるやままさお)も、どうやらやっぱり日本共産党員だったのではないか、 という説が最近ちらほら学者たちの間で、語られています。そう言えばそうですね。 丸山は共産党の悪口を書いた事がないですから。
言論の自由を至上のように言いますが、一体、誰が人の意見にそれほど耳を傾けますか。 言論のほとんどは商業言論なのであり、売り物として市場で売られているものです。
この見方は、日本では、山本夏彦(やまもとなつひこ)氏という希有の作家・コラムニストが、書いてきました。 私は、山本夏彦が、数少ない日本リバータリアニズム的な人物だと考えています。
こういう見方をに出来るようになることが、日本人の成長なのでしょう。 「地獄への道は善意で敷きつめられている」と、書いたレーニン自身もその後の左翼たちもこの格言を、たびたび引用しながら、やっぱり、自分たち自身が「地獄への道」を突き進みました。
ですから、リバータリアニズムは、決して、理想主義ではありません。 慎重に慎重に自分の頭の中身を吟味します。もしかしたら、今このとき、何かの計画主義に自分がだまされていないだろうか、と。
リバータリアニズムは、寛容の思想ですから、他の人たちが、どんな思想を信じるのも認めます。集団運動も認めます。ただし、それを、人に押し付けるな、と言います。ここが大事なのでしょう。
ですから、財産権こそは、各種の人権の土台なのです。
空論でしかない特殊日本的人権論を、神棚に飾っているような人々は、考え直した方がいいですよ。
それから、「人権にも本当はそれぞれ 価格(値段) があるのだ」 というドキッとするようなことを最後に書いておきます。 副島隆彦拝
● 05/01/18 18:23:52
元阪大助手の小林和之(こばやしかずゆき)は、自分のホームページ上で 、 「どうして日本の法哲学界はこんなにも知的に貧困なんだろう。論文を読んで、 "他人の書いたものの切り貼りがほとんどで、 まるでいやいや書かされた小学生の夏休み感想文のようだ"と思うことは珍しくない。」
(私は)「(日本の)法哲学界の頂点にいるという自覚はあって、そういう立場におかれた人間としての責任を果たそうとしてはいるのだけれど。」
「挑発の意味もこめて「業界トップ宣言」をしてみようかとも思ったけれど、なんだかハズカシイからとりあえずはやめておこう。 だって、(日本の)法哲学界の第一人者、なんて、「三丁目でイチバンかけっこが速い」とか言っているようなものだからね。」 的なことを書いています。
他にも、 日本法哲学会は知的に貧困である。
日本法哲学会には一流の研究者が一人も居ない。
日本には、法哲学会界の進歩に貢献したと言える者が一人も居ない。そもそも法哲学界において日本人研究者は全く存在感がない。 貢献どころか島国を一歩出れば、個人的な知り合い以外に名前を知られている者すら一人も居ないのではないだろうか。
さらに、 書いてる論文については、周知のとおり、
外国の研究者の引き写し 外国と日本の状況の違いを考える事なく無批判に引き写す 「発展途上国型輸入学問」
「他人の書いたものの単なる感想文は哲学ではない。」と言っております。
http://thinker.jp/tls/works.htm
副島隆彦と言ってる事が同じだね。副島よりも説得力はありそうだ。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
清国の敗北により、南京条約を締結した。上海など5港を開港し、香港をイギリスに割譲した。
中国側にすれば、阿片戦争は自国が植民地にされることに反対する愛国のために戦争だ。日本人は、今でも阿片戦争を、いぶかしい顔つきで見ている。日本は当時に、イギリスの属国になったので、イギリスの顔色を伺う国民になったので、
阿片戦争に対する態度をはっきりしないまま、現在に至る。
作家の陳舜臣(ちんしゅんしん)の書いた歴史小説の『阿片戦争』等をしっかり読んで、全体像を理解しなければいけないのだが、その時間が無い。香港の中国への返還を祝して作られた中国映画の「阿片戦争」はかつて見ました。
以下に載せるのは、ネット上の 阿修羅掲示板 に在った「阿片戦争の全体概要の文」である。これをここに載せておきます。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
★阿修羅♪
地球史探訪:アヘン戦争 ~林則徐はなぜ敗れたのか?
世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような
小国」と戦って負けるとは誰が予想したろう。
-----H13.01.21----31,649 Copies----205,877 Homepage View--
■1.失敗の予感■
1838年 (道光18)11月,湖広総督・林則徐(りんそくじ
ょ)は時の清国皇帝・道光帝から欽差大臣(皇帝の命により全
権を与えられた特命大臣)として、イギリス商人によるアヘン
密輸入根絶の勅命を受け、広東に向かった。出発に際して、林
は、
死生は命なり。成敗は天なり。(生き死には運命であり、
事の成就、失敗は天命である。)[1,p145]
と語って涙を流したという。失敗を予感していたのであろう。
この予感は当たり、清帝国はアヘン戦争敗北の代償として莫大
な賠償金をとられ、香港を割譲し、これ以降、列強の餌食にな
っていった。
当時の清国のある高官は、英国を「ケシ粒のような小国」と
呼んだ。その英国に、世界の中心たる大清帝国が戦って敗れよ
うなどと、林則徐以外に誰が予想できたろう。林は、そして清
国は、なぜ敗れたのか?
■2.英国のアヘン輸出の狙い■
当時、中国から輸入される茶は、英国人の生活の必需品であ
った。ところが英国から輸出できるものは何もない。ここで英
国が目をつけたのがインド産のアヘンであった。インドからア
ヘンを中国に輸出し、そのインドにはイギリスの工業製品を売
り、そこで得た代金で英国が中国茶を買う、という三角貿易を
成立させた。
しかし中国ではアヘン中毒患者が激増し、1838年当時の輸入
金額は1400万両以上に達していた。清朝の年間歳入4千万両の
実に1/3以上である。輸入超過は支払いのための銀の流出を
招き、銀貨の高騰が税金を実質的に高めて、農民を苦しめた。
清朝はアヘン輸入を禁じたが、アヘンの価格を高騰させ、密
売の利益を高めるだけで、密輸入は後を絶たなかった。英国の
商船と清国の密売人が、賄賂として2%の現物を警備当局に納
めると、見逃してくれるだけでなく、清国海軍が密輸船を海賊
から保護までしてくれる。当局は賄賂の半分を自分の懐に入れ、
残りは「密輸入品取り押さえ」の証拠として政府に提出する、
という見事な密輸入システムが出来上がっていた。
手を焼いた清国朝廷で、アヘン厳禁論が起こり、その具体的
な政策を提言した林則徐の上奏文が皇帝の目にとまり、特命全
権大臣としてアヘン撲滅を命ぜられたのだった。
■3.戦いの開始■
どうして汝らの国でさえ吸食しないアヘンをわが国に持
ち込み、人の財を騙し、人の命を害するのか? [1,p152]
1839年2月4日、林則徐はこのような書面をアヘン商人達に
つきつけ、積み荷のアヘンをすべて供出するように命じた。こ
の時のイギリス貿易監督官チャールズ・エリオットは、いった
んは要求を拒否したものの、林則徐による広州のイギリス商館
封鎖という強攻策に屈して、イギリス商船が持ち込んでいたア
ヘン2万283箱(1425t)を中国側に引き渡させた。林はこの
大量のアヘンを衆人環視の中で焼却して、アヘン撲滅の決意を
見せつけた。
さらに林則徐は「将来アヘンを中国に持ち込まない。もし違
反した場合には積荷は没収、人は処刑されても構わない」とい
う誓約書の提出を求めたが、エリオットはこれを拒否し、広州
に滞留するイギリス人全員をマカオまで退去させた。
5月27日、香港の対岸で、イギリス人水夫達が上陸し、酒
に酔って、一人の中国人を暴行し、死亡させるという事件が起
こった。林則徐はただちにエリオットに犯人を中国官憲に引き
渡すよう要求させた。エリオットは犯人不明と称して拒否した
が、林則徐はマカオに移ったイギリス人商人に対して、食糧br>給を絶った。エリオットは50数家族とともに、沖に停泊中の
イギリス貨物船に移った。
ここにイギリス軍艦ボレジ号、続いてヒヤシンス号が到着し、
誓約書を提出して正常な貿易を再開しようという一部のイギリ
ス商船を押さえつつ、清国軍艦や砲台を攻撃して、小競り合い
を繰り返したが、清国側は林則徐のもとに一致団結して反撃に
転じ、イギリス船を外洋に追い出した。
道光皇帝は林則徐の果断な処置を「朕の心はために深く感動
す」と賞賛した。
■4.イギリス軍来襲■
英本国では、政府が議会で清国への派兵を提案した。グラッ
ドストン議員は、「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続
的に不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだこと
もない」と反対した。しかし投票の結果は、271票対262
票の僅差で戦費の支出が承認された。
兵員4千、軍艦16隻、大砲540門、輸送船および武装船
等32隻からなる派遣軍が1840年6月に清国の近海に姿を現し
た。イギリス軍はいったんは広州湾を封鎖したが、林則徐によ
って固められた防備に乗ずる隙がないと見ると、北上して上海
の近くの定海を襲い、さらに北京を指呼の間に臨む天津沖に姿
を現して、英外相の書信を北京政府に手渡した。それには没収
したアヘン代金の賠償、謝罪、沿海の島の割譲などを要求して
いた。
宮廷の権臣たちは動揺した皇帝を説得して、イギリス側が要
求もしていないのに、林則徐を罷免させ、「国を誤り、民を病
しめること、これより甚だしきはない」と叱責させた。
■5.清国が防備を固めて持久戦に持ち込めば、、、■
林則徐は、このような事態を正確に見通していた。イギリス
艦隊が広東に姿を見せた時に夫人に送った手紙にはこう書いて
いる。
いま、イギリスの兵船は中国海域に現れたが、広東
に対してはどうすることもできないと分かれば、きっ
と他の省に対してその矛先を向けるに違いない。だが、
他省の海港には何ら防備がなされていないから、諸省
の総督・巡撫は、少しでも自分たちに都合の悪い事態
が出てくれば、罪を余になすりつけて、余の誤った処
置が敵の攻撃を挑発したと非難することであろう。余
としては、その是非をただ公論にゆだねるのみである。
[2,226]
まだ清国は、イギリス軍の攻撃にほんのかすり傷を受けたに
すぎない。自国の広大な領土、厖大な人口を考えれば、戦いは
序の口であった。一方、イギリス軍も、定山占領後、4千の兵
員のうち、マラリアや赤痢などで4百数十名の死者を出してい
た。またイギリス本国からの兵員の補充、武器弾薬の輸送は膨
大な負担となっている。
さらにこの戦争で貿易を阻まれている各国の商人は、みな憤
懣の情を抱き、本国から兵を呼び寄せてイギリスと戦おう、と
いう声すらあった。イギリスは進退窮まっており、清国が防備
を固めて持久戦に持ち込めば、敗退の運命にあった。
林則徐は最後の抵抗として皇帝に出した上書の中で、次のよ
うに述べている。
広東の海関は道光元年以来すでに3千万両の銀を徴収し
ておりますが、その利益は当然外夷(海外の野蛮国)の侵
攻を防ぐために使われるべきであります。もし、これまで
の関税の十分の一を大砲と軍艦の製造に投入しておりまし
たならば、彼等を制することまことに容易であったであり
ましょう。・・・現在、広東の各地は厳重な防備を備えて
おり、敵の乗ずる隙はございません。[2,p230]
■6.清国の敗北■
しかし、この上書は「たわごと」と退けられた。林則徐の後
を継いだ?善(きぜん)はイギリスのご機嫌取りのために、林
則徐が雇い入れた水勇(義勇兵)をすべて解散し、英艦の侵入
を防ぐために港に敷設していた筏(いかだ)や鉄の鎖を取り払
った。
?善は香港割譲などを含む仮条約を結んだが、英軍が天津を
離れて危機感の薄らいだ皇帝は、強硬姿勢に変わり、「土地は
寸度と言えども割譲することを許さない」として、再びイギリ
スに宣戦布告をした。
しかし防備を解いた広東は、イギリス軍の攻撃にひとたまり
もなかった。また広州に送られてきた4万の外省兵は、城外に
英軍が迫っているというのに、城内で民家を略奪し、暴力沙汰
を繰り返したので、住民と外省兵が戦うありさまであった。さ
らに英軍の手先となって偵察をしたり、軍夫として英軍の大砲
を引いたり、さらには清国兵船を焼いたり、清国軍を襲撃した
中国人も多かった。
1842年8月29日、道光帝は和議に同意せざるをえなくなり、
江寧条約(南京条約)が結ばれた。香港割譲、広東・廈門他5
港が開かれ、さらに没収アヘン代金、英軍遠征費用など21百
万ドルの支払いが約束された。大清帝国の威勢は地に落ち、列
強による中国半植民地化への動きが始まった。
■7.清国はなぜ敗れたのか?■
林則徐が広東で実施し成果を上げた政策と防備を中国全土に
展開できていれば、アヘン追放に成功し、英軍を撃退すること
ができていたのは間違いない。
その林則徐を背後から倒したのは、彼の成功を妬み、国家の
安泰よりも、自身の権勢を先にする権臣たちが、皇帝を左右し
たからであった。また国防に十分な努力も払わず、アヘン密輸
を手助けして賄賂をせしめていた地方行政官たち、収入を得る
ために英軍の手先になった兵員たちも同罪である。これらの人
間に共通しているのは、国家という「公」よりも、私利私欲、
すなわち「私」を優先させていたことだ。
「公」よりも「私」を優先していた、という意味では、道光
帝自身も同じである。英軍が遠い広東で戦っている間は強硬姿
勢をとっていたのに、北京に近づくとすぐ屈服してしまったの
は、国家の独立よりも自らの安泰を優先していたものと言わざ
るを得ない。
皇帝から、権臣、地方役人、兵員にいたるまで「私」の横溢
する国家の中では、林則徐の「奉公」は孤独な、かつ無益な努
力であった。林自身、それを知っていたからこそ、皇帝から欽
差大臣に任命された時に、「死生は命なり。成敗は天なり。」
と言って涙を流したのであろう。失敗して失脚すると知りつつ、
なおもアヘン撲滅に立ち上がった林則徐こそ、真の愛国者と言
わねばならない。
■8.アヘン戦争とペリー来航■
アヘン戦争終結の11年後にペリーがわが国に来航した。ペ
リーが幕府に白旗を渡して、開国要求を聞かなければ戦争にな
り当然日本が負けるから、降伏する時にはこれを用いよ、と脅
した事実はすでに本講座149号で紹介した。わが国も清国と同
様の危機がやってきたのだった。[a]
(副島隆彦記 ここからあとの、伊勢氏の記述は、頭が悪い。
日本属国化のことが全くわかっていない。中国と同じだったのだ、
と思いたくないのだろう。副島隆彦注記おわり)
この時に、吉田松陰が決死の覚悟で黒船に乗り込み、欧米の
軍事技術を学ぼうとした[b]。こうした多くの志士たちの献身
的な活躍の結果、迫り来る欧米勢力を前に、わが国は明治維新
を断行して近代国家建設に成功し、その成果が日露戦争勝利と
なった[c]。日露戦争とアヘン戦争とは、日中両国それぞれの
近代世界システムとの対決であるが、その過程も結果も対照的
であった。
開国と攘夷、尊皇と佐幕と、日本国内でも鋭い意見の対立は
あったが、それらは政策の違いであって、どちらの側にも国を
売ってまで、保身を図ろうとする人物はいなかった。最後の将
軍・徳川慶喜が潔く大政奉還をしたのも、徳川家という「私」
より国家の統合と独立の維持という「公」を優先した証左であ
ろう。
■9.「奉公」の精神を点火した「無私」の祈り■
この慶喜の父、徳川斉昭は水戸藩主としてペリー来航時に幕
政参与として重きをなした人物だが、次のような歌をのこして
いる。
身は辺地に在りと雖も心は皇室を奉ず
大君につかへささぐる我がこころ都のそらに行かぬ日ぞな
き
その都の空のもとでは孝明天皇が次のような御製(天皇の御
歌)を詠まれていた。
あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異国
(とつくに)の船
すましえぬ水にわが身はしずむともにごしはせじなよろづ
国民
1首目は、黒船を国の独立と民の安寧を脅かす存在として受
けとめられ、重苦しい不安を感じられていた事が窺われる。2
首目はご自身の身は澄ましえぬ汚濁の水に沈もうとも、千万の
国民が植民地化された諸国民のように、隷従の憂き目にあうよ
うな事があってはならない、という祈りであろう。
このような無私の祈りが国家の中心にあり、それが幕府の要
人にも、草莽の志士にも、「公」を思う気持ちを点火したので
ある。林則徐が孤独に抱いていた「奉公」の精神は、わが国で
は朝野に充満しており、それがわが国を植民地転落の運命から
救ったといえよう。 (文責:伊勢雅臣)
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
(転載貼り付け始め)
http://utusemi-web.hp.infoseek.co.jp/page56.htm
「血盟団秘話」
井上日召
私は七歳の時にお盆の秋草を採っていて、「桔梗は紫で女郎花(おみなえし)は黄色い、なぜだろう」ということに疑問をおこして以来三十年、あらゆる天地間の現象に懐疑をいだき、
無限の闇黒世界を彷徨した。人生の真とは何か、善とは何か、これの解決に死以上の難行苦行をつづけたのであった。
大正十年の春、中国の革命運動から、ほとんど日本に亡命するような恰好で帰国し、郷里の群馬県川場村の三徳庵で修行中、十三年の五月、はからずも開悟(かいご)の機縁に恵まれ、三十年の疑問を一瞬に氷釈(ひょうしゃく)しえたのである。
その年の七月、私は天の声をきいた。「九月五日を期して東南に向かって進め」というのである。これが私の日本革新運動に起ち上がる、第一歩だ。三徳庵から東南は、東京に当る。
浅草妙教寺に野口日主上人という、豪傑僧がいた。頭山満翁や大連の金子雪斎翁と肝胆相照らした仲で、かねて国家革新の志をもっていた。ある日、野口上人を訪問すると、雪斎翁も上京し
て、期せずして三人の旧知が一堂に会した。その時、いろいろな話の後で、「時に井上君、かねての案をこのさい実行したいが、喋ったり書いたり、気運をつくるほうは、我々老人が当るから、君はまげて実施を引き受けてもらいたい」という。
両翁は手軽に言うが、その内容は大変なのだ。かねての案というのは、日主上人と雪斎翁が長い間練り上げた、国家改造の具体案で、純然たる非合法である。その中に、日本の支配階級ならびに準支配階級、六千人の殺戮なんという、すさまじい項目があるのだ。
私は二人に見込まれて、いやおうなく承諾したが、実は非合法には反対だった。私は当時、同志倍加運動で革新ができると信じていた。それはつまり五人の同志が毎月一人ずつの同志を獲得し、新しい同志がまた毎月一人ずつの同志を獲得するという行き方で、無血革命を成就しようとするものだった。しかし、この考えは甘かった。
それはともかく、私は革新を引き受けたのである。引き受けた以上は実行しなければならぬ。さて、何から始めるか? ついでに言っておくが、国家革新というと、誰でも、その源流として、 北一輝や大川周明や満川亀太郎らを思い出す。しかし、それらの錦旗(きんき)革命派の他に、金子、野口両翁の革新計画があったのだ。それを世間の人は知っていない。金子翁の振東学舎の幹部だた、本間憲一郎すらもこれを知らなかった。
さて、革新だ革命だと騒いでみても、決してできるものではない。根本は人だ、人間だ。私はまず私の計画を実行するに堪える人間から造ってゆかねばだめだと思った。昭和の初めに私は
茨城の大洗(おおあらい)に近い、立正護国堂を本拠として、青年の練成に余念がなかった。集った者は、主として茨城の青年で、古内栄司、菱沼五郎、小沼正ら二十余名であった。
これに海軍の藤井斎、古賀清志らが合流し、後には安岡正篤や大川周明、西田税らによって養成された陸海軍将校や民間青年が、みんな周囲に集まって来た。安岡や大川や西田はさかんに革新を説いて、青年を煽動するけれども、決して先頭に立ってやろうとはしない。そこで和尚ならやるだろうというので、みんな寄って来たわけである。
昭和五年に時勢の急迫をひしひしと感じ、護国堂を去って東京に出た。翌六年の十月事件には、民間側の実行を引き受けたが、軍人側が不発に終わって、うやむやのうちにけりがついた。当局は私を臭いとにらんで追及が厳しくなった。当時私は小石川の今泉定助翁の屋敷にやっかいになっていたが、刑事が踏み込む一瞬前に、かねて用意の海軍大佐の正装で、自動車を駆って渋谷の頭山邸に至り、一週間ほどかくまってもらった。
十月事件の頃には、私の掌握している同志が、陸海軍の若いところと民間で、四十数名あった。
これらの連中が、十月事件のだらしない体たらくを見て、なまじりを決して起ち上がった。
「なんだ、あいつらは。革新だ、国家のためだといいながら、あるのは名利の念だけじゃないか。天下国家を売り物にする連中は、もはや相手にしない。革新は俺たちがやる」
何しろさんざん苦悶したあげく、死のうと決めた連中である。何も慾がない。生きていることがつまらない。どうして死のうかと、そればかり考えている者どもだから堪まらない。
おりから上海事変が起こったけれども、陸海軍の連中は、誰一人出征しようと言わない。
「死なばもろともと誓った同志だ。成敗を度外視して、一挙に蹶起(けっき)しよう」 と提案した。しかし、私は、「馬鹿なことを言うな。お前たち軍人が出征しないでどうするか。お前たちは前線で死ね、国内のことはおれ達民間が引き受けた」
こういって、なだめすかして、征途につかした。昭和七年の下旬に、私は何となく体の調子が悪く、一ヵ月の予定で、田舎へ静養旅行に出かけた。ちょうど茨城県を廻っているときに、突然
ただならなぬ異変を直感した。急遽帰京して、代々木の隠れ家へ着いてみると、古賀清志
(五・一五、海軍中尉)と四元義隆(帝大生、元の安岡門下)の目がギラギラ光っている。これ
より先、私は十月事件で頭山邸に遁れ、その後、代々木の権藤成卿氏の長屋に潜んでいたのである。
さっそく両人を別室に呼んで、「きさまたち、何か決心しているな」と問いつめると、はたして私の留守中に、日本の最高指導者二十名を暗殺する、テロ計画を立て、実行寸前であることが
わかった。ここに至って私も、もはや何をか言いわんやで、一蓮托生、二月に行われる総選挙期間を、実行期間として同意を与えていた。
そうして一方、実施者の人選にとりかかった。相手は西園寺、牧野、団、井上ら政財界の巨頭二十人として、これを十名で担当する。ただし一人一殺で、各人に第一目標、第二目標を与え、同志相互の横の連絡はいっさい厳禁、誰が誰を狙っているのか、知っているのは私と本人だけとした。
しかも武器として使うとピストルは、決行前日まで渡さないことにした。私は四十数名の中から、十名の最精鋭を選定し、右の次第を堅く申し渡した。
さて、このピストルについて話がある。これはかねてかくあるべしと予期していたので、前年秋、上海の空中戦で死んだ、藤井少佐が大連へ往復飛行を試みたときに、大連で購入を命じたものである。海軍の飛行機に積んで、本人が持って来るのだから、税関もクソもない。それを箱に入れて浜勇治(五・一五、海軍中尉)の家の、玄関の下を掘って、埋めておいたものだ。
いっさいが完了したので、私は薬を飲んで寝ながら、吉報を待っていた。これより先に、支那に行った者に手紙を託して、南京から内地に向けてその手紙を出してもらった。能率のいい日本の特高は、ちゃんと手紙を検閲して、日召はどこか支那をうろついていると思っているだろう。万事うまくゆくはずである。
すると、はたして二月九日の夜、小沼正が蔵相井上準之助をたおしたことが、翌朝大場海軍少尉によって報告された。そこへ四元が来て、権藤長屋にいて、万一権藤成卿氏に迷惑がかかっっては大変だから、どこかへ移ってくれという。どこかといったって、人殺しを安全に匿ってくれる家なんか、あるものか。
「しかたがない、またあすこだ」
私は降り積もった雪の中を、渋谷の頭山邸さして急いだ。
人間の運命というものは、不可思議なものが。狙いに狙って、どう考えても助かるはずのない、池田成彬(いけだしげあき)が助かり、そう早くはいかぬだろうと思った、団が案外あっけなく殺されている。池田を狙ったのは古内栄司だ。これこそ助かりっこないはずの一人である。
古内は謹直そのものの人物で、これが寝食を忘れて、附いていたのだ。池田の別荘、本邸、それをいちいち突き止めて、吸盤のように吸いついていたのだ。しかも本人は麻布一聯隊の営内に居住する、大蔵中尉のところで寝起きしている。警察の手の絶対届かぬ場所にひそんで、寝食を忘れて、つけねらっても、だめな時にはだめなのだ。
井上の時は、二月八日の夕方、小沼がにこにこして、権藤長屋へ現れた。「先生、拳銃下さい」
「見つけたな」と言ったら、「ええ、大丈夫です」「そうか」といって、拳銃と小遣いを五十円渡した。
そうしたら、翌日すぐやってしまった。
だいたい拳銃というものは、素人は三間離れたら当たるものではない。よほどの度胸と腕のある奴でない限り、当たらないものだ。そこで射つときに、相手の身体にこちらの身体をしっかり押しつけて射てば、間違いない。度胸のある者でも緊張すると震えるものだ、で身体ごとぶつけて射たないと、失敗する。
これをよく教えておいたが、二人ともちゃんと、その通りにやっている。本郷の駒込小学校の駒井重次の政談演説会に、応援に来て、車から降りたところをやったのだが、そこで
袋叩きにされて、半殺しになった。すぐに警察に引っ張ってゆかれ、またひどくやられた。それでも小沼は痛いとも痒いとも言わなかった。後で警察の者が、「あれだけやっても音をあげないとは、呆れたものだ」
と言ったが、死ぬ決心をしているのだから口を割るはずがない。それで、いくら叩いても端緒がつかめないうちに、三月五日に菱沼五郎が団をやった。この時には私は
頭山翁の家の、武道場の二階に潜んでいた。五郎のやつがにこにこしてやって来て、パッと服を脱いで、新しいワイシャツの背中を向け「先生、お題目を書いて下さい」「見つけたな」といったら、黙ってうしろを向いた。背中に南無妙法蓮華教と書いてやり、拳銃と五十円を渡した。
「行って来ます」まるで銭湯にでもゆく様子だ。しかし、それまでの彼の苦心は大変だった。彼はまず円タクの助手になって、東京の地理と団琢磨の車の番号を覚えた。それから新聞雑誌を買いあさって、片っ端から団の写真を切り抜いた。
それから三井本館の玄関口が一目に見える三越の休憩室に座り込んで、毎日見ていると、いつも午前十一時になると、写真と同じ顔の男が、調べておいた番号の車に乗って、きちんきちんと判を捺したように出勤してくる。それだけ突き止めておいてから、翌日玄関のところで待っていると、例の車が十一時にピタリと停る。老紳士が出てくる、たった一発でおしまいだ。
その時の状況を後で、警視庁のものが来て、あんな恐ろしかったことは、生涯に初めてだと話していた
が、その話によると、三井の急報ですぐ駆けつけたら、犯人が玄関のところへしゃがんでいる。そばへゆくと、ひょいと顔を上げて、にこにこして手を差し出した。その掌の上に黒光りする拳銃が載っている。差し出した拳銃を受け取らぬわけにはゆかぬし、取りにいって射られたら、それっきりだ。
まわりに三井の銀行員がたくさんいるので、勇気を出して拳銃を掴もうとしたが、手が震えてどうしてもうまく、拳銃がつかめなかったと述懐していた。
小沼が井上を暗殺したときに、警視庁では総選挙の折ではあり、政友会と民政党の党争が苛烈を極めていたので、てっきり政友会関係のテロと見込みをつけて、もっぱらその方面を探索していた。そのうち三井の団が暗殺されたので、これは民政党関係者の復讐だと推定して、見当違いを捜査していた。
しかるにどうして事件の真相をつかんだかというと、それは金鶏学院の安岡正篤が、時の警保局長松本学に密告したからだ。事件には元安岡の門下生だった、四元とか池袋などが参画している。ここにおいて安岡はおのれに
累の及ぶことを恐れて、「あれは井上日召のやらかしたことだ。井上さえ捕縛すれば、事件は終熄する
だろう」と示唆したのである。
これは当時、絶対秘密にされていたが、後に警視庁の役人から、私は直接聞かされたわけだ。しかも
安岡は内務省の機密費の中から、五万円受け取ったことまで、分かったのである。
そういうわけで、私が頭山邸にかくれていることも分かった。頭山邸は警官によって、包囲された。
私は仕方がないから、「若い時に叩き込んだ剣道で、斬って斬って斬りまくり、その上で切腹するから、
そうしたらお前は俺の首を叩き斬れ。そして風呂敷に首を包んで、日召を連れてきたと、警視庁に
放り出せ」と、本間憲一郎に頼んだ。すると本間が「うん、そりゃ面白い」という。
「とにかくその前に、この世の名残りに一杯呑んで一寝入りするから」と、そこにあった一升びんの
冷酒を六合ほどのんで、寝ていた。
後事は古賀らに托してある。五月になると陸海軍の連中も凱旋するので、そうしたら、一挙に起こって、
わしの仕残したことを完了せよ、といいつけてある。今は心にかかる雲もないのである。
そこへ天野辰夫が現れて、例の雄弁で滔々と、慙死の不可なるゆえんを論じ立て、警視総監が国士の礼を
もって待遇するといっているから、ともかく一緒にそこへ行ってくれ、という。考えがえてみれば、罪も
ない警官を斬るなどということは、暴挙である。そこで考え直して、結局天野の説にしたがうことにした。
頭山邸では連日浪人の巨頭が集合して、翁に迷惑のかからぬうちに、日召を追放しようと協議を重ねて
いたのだが、肝心の主翁がうんと言わないので、困惑していたところだ。そこへ私が出頭することを決めた
ので、「本人が出るというなら、よろしい」と主翁の許しが出たので一同愁眉をひらいたということだ。
私は昭和九年に無期懲役の判決を受けて、入所した。その間、減刑、大赦があって、昭和十五年に出所
した。監獄を出て頭山邸にゆき、「先生、私は今日から先生のことをお父さんと申し上げます。亡父の
遺言に、わしの死んだ後は頭山先生をこのわしだと思って、仕えてくれといいつけられております」と
挨拶した。
するとコップに葡萄酒を一杯ついで、私にくれた。私は飲み干して「お父さん、この盃をお返ししても
よろしゅうございますか」といったら「うん」とうなずいたから、一杯ついだ。そうしたら、目を細くして
飲んしまった。その盃を貰って、一緒に行った橘孝三郎やほかの若い者に、お流れとして飲ましたが、
頭山翁から盃を貰ったものは、おそらく私だけではないかと思う。
というのは、翁は酒が嫌いで、若い時から一滴も飲まないのだ。翁一代の間に、酒を飲んだのを見た人は
おそらくあるまい。翁自身も飲んだことはないと言っている。
ある時、私がきいた。
「お父さん、あなたは全然酒を飲んだことはないとおっしゃるが、若い時には、
若い者同士の交際というものがある。好き嫌いは別として、お祭りなどで、すすめられて一杯ぐらいは
飲んだことがあるでしょう」
すると翁が気難しいことをする、ちゃんと目を据えて、じっとこちらの顔を見つめ、
「好かんことはせんじゃった」と、断言した。
「好かんことはせんじゃった」
一語千鈞の重みがある言葉である。
血盟団というのは、こちらで命名した名前ではない。木内検事(元最高検次長)がそう呼んだのである、
世間に通り名になったのであるが、この事件を表面から見れば、二人の若者が二人の要人を暗殺した、
いたって簡単な事件にすぎない。しかし、裏面から見ると、国家革新のあらゆる源流支流が、ある一所に
集中して爆発した重大な事件である。そうしてまた、血盟団を基点として、五・一五、二・二六、神兵隊等
の事件に糸を引くのである。
したがって、人物のつながりも広くて、深い。ことにこの裏に、田中光顕伯のあったことは知る者が
ない。
昭和二年の春、私は駿河の原の松陰寺で、玄峰老師について参禅修行をしていた。ところが同志の
高井徳次郎が寺に来て、田中伯が会いたいといっているという。この話の前に私がどうして田中伯と
相知るに至ったか、それを誌しておく必要がある。
その前に私と高井とは、日本革新について具体策を作った。すなわち下総の鹿野山を開発して資金を
作り、道場を建てて、そこに三十人の修行僧を集め、これを二組に分けて、一日交替で一組は唱題修行に
専念し、一組は百姓をしたり托鉢して、自活の糧を得る。修行期間は一カ年として、所定の期間を修了した
者を逐次全国に分散配置して、次第に日本革新の同志を獲得し、勢力を拡大してゆこうという案であった。
二千円金を作って、それを手附けとし、高井が山の持主の真言宗の和尚に交渉した。土地借入の当事者は
誰かと問うので、高井が一存で田中光顕伯であるといった。和尚は大変喜んで、御希望に応じましょうと
いうわけだ。
ずいぶん乱暴な話で、このことは田中伯のあずかり知らざるところだ。しかたがないので私が田中伯に
初めて面会して、書類を出し、
「かくかくの次第で手続きが逆になって、まことに申し訳ないのですが、国家のため、まげてご了承を
お願いします」と懇願した。伯は「こんなことして、あんた何をするつもりじゃ」とひどく難しい顔を
している。私は、この爺さんだめかなと思って「謀叛します!」といって顔をにらんでいたら、伯は
「謀叛」といって、書類を持って引っ込んでしまった。
これはいけない、いよいよ談判破裂だ。維新の生き残りの志士もクソもあるものか、ひとつ爺さんを
罵倒してやろうと待っていると、すぐに来て「これでよろしいかな」。書類を見ると「八十三翁田中
光顕」と書いてピタッと印が捺してある。しめたと思ったら、
「わしは八十三だが、この節男の子も一人できた。まだ三人五人を叩き斬る気力は持っているつもりじゃ。
あんたはまだ若いんだ、しっかりおやり」ときたものだ。
以来、すっかり伯に信頼を受けた。さて高井と二人で田中伯にまかり出ると、伯の用事というのは、
茨城県に明治天皇の尊像を建て、明治記念館を作って、伯が陛下より拝領した記念品を納めておく。一方
日蓮上人の銅像を建て、一宇の堂を建立して、ここで青年の指導養成を行うという、国家革新の根拠地
建設計画であった。この計画は現茨城交通の竹内勇之助氏の協力で、立派に実現した。
私がこもって青年子弟を訓育した、立正護国堂は、もちろんその施設の一つだった。
ついでに護国堂の修行の次第をちょっと述べておく。私は入門志願の青年に、まず一週間の断食を命じた。
彼らは非常な意気込みで断食を始めるが、三日もたつと悲鳴をあげ、四日目にはたいてい降参してしまう。
断食の苦しさは中日の三,四日が峠なのだ。これを通り越すと楽になるのを知らないのだから、ほんとうに
死んでしまうと考えるらしい。それくらいなことで降参する人間に、大事が托せるものか。何度も何度も
死んだ人間でないと、決して大事は成らないものだ。鉄の扉に頭ごとぶっつかろうというのに、ちっとや
そっとの修行でできるわけがない。血盟団の実行部隊として、私が選び出した人間は、みんな鼻唄でいろいろ
難行苦行をつきぬけた者ばかりだった。
さて、直接行動がいいか悪いかだが、これは悪いに決まってる。テロは何人も欲しないところだ。私は
政治がよく行われて、誰もテロなどを思う人がない世の中を、実現したいものだと念じている。
http://utusemi-web.hp.infoseek.co.jp/page56.htm
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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