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「ビッグ・リンカー達の宴2-最新日本政財界地図(19)」
2004年11月17日(水)
萬晩(よろづばん?)通信員 園田 義明(そのだよしあき)
■森有礼の英国留学
森有礼がスウェーデンボルグ主義の教団のカリスマ的指導者であったトーマス・レイク・ハリスに出会たのは英国留学中のことである。森は新渡戸稲造や内村鑑三と並んで日本におけるキリスト教の受容に大きな影響を残し、この人脈が後に新渡戸らの人脈と合流していくのである。
森の英国留学は薩英戦争(1863年)以後、開国の立場に転じた薩摩藩が密航の形で送り出したもので、1865年4月に森を含めた薩藩留学生15人と五代友厚や寺島宗則ら4人の外交使節が海を渡った。海外渡航は当時国禁であったため、留学生らは藩からそれぞれ変名を与えられ、羽島浦(串木野郊外)から旅立つことになる。
留学生達を乗せた「オースタライエン号(オーストラリアン号)」はグラバー商会所有の船であった。そして、一行をロンドンで出迎えたのもジェイムズ・グラバーとグラバー商会のライル・ホームである。この二人は留学生達の教育プランの作成や生活面の支援など、広範囲に渡って世話をすることになる。
ジェイムズ・グラバーはグラバー商会のトーマス・ブレイク・グラバーの兄にあたり、実質薩摩藩による英国派遣を支援したのはスコットランド生まれのトーマス・ブレイク・グラバー率いるグラバー商会であった。
1863年9月の生麦事件の報復として英国艦隊が鹿児島湾に侵入、そして薩英戦争が始まった時、五代友厚は寺島宗則とともに指揮していた蒸気船三隻を拿捕され、船を焼却された上、捕虜になっている。その失態を怒った同藩士から命を狙われるが、その時に五代をかくまったのがトーマス・ブレイク・グラバーであり、この時から五代とグラバーとの密接な関係が築かれ、この人脈から英国派遣が実現したのである。
グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーディン・マセソン商会に依存していたが、薩摩留学生の学資もジャーディン・マセソン商会(香港)の信用状にもとづいて、マセソン商会(ロンドン)が薩摩藩の手形を割り引く形で前貸ししていた。従って、実質的な薩摩留学生の支援者はジャーディン・マセソン・グループであった。
留学生活の準備に追われている時に、ライル・ホームが3人の長州人に出会ったとの情報がもたらされ、1865年7月2日に薩長留学生達が英国の地で出会うことになる。
■英国で出会う薩長密航留学生
この3人とは野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三であり、1863年5月に同じく密航の形で日本を出発していた。当初は志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)を含めた5名であったが、聞多と俊輔の2名は、実際に海外に出て攘夷の無謀を痛感し、タイムズ記事で長州と英米仏蘭との間で戦争が始まるとの情報が入ったことから、留学を放棄し1864年4月にロンドンを発ち、戦争を中止させるべく奔走していたのである。
英国では後に長州藩から密航した5人の若者を「長州ファイブ」と呼び、彼らもまた明治維新の原動力となった。
この長州留学生はジャーディン・マセソン商会(横浜、英一番館)のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力を得て、ジャーディン商会所有のチェルスウィック号で上海に渡り、ロンドン行きの貨物船ペガサス号とホワイト・アッダー号に分乗しながらロンドンに到着している。
そして、英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンであった。
このヒュー・マセソンの紹介で、長州留学生はロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン博士と出会う。ウィリアムソン博士は、ユニバーシティー・カレッジの化学教授を務めながら、英国学士院会員、ロンドン化学協会会長などの要職に就いており、偏見にとらわれない世界主義的見解の持ち主であった。また、思想的には、ジョン・S・ミルの功利主義やオーギュスト・コントの実証哲学の信奉者として知られていた。
長州留学生5人はウィリアムソン博士がいるユニバーシティー・カレッジに学びながら、揃ってイングランド銀行を見学するなど最先端の知識を吸収していった。
伊藤博文、井上馨のその後の名声は語るまでもないが、井上勝は初代鉄道局長官として日本の鉄道の発展に寄与し、山尾庸三は工部大臣として活躍、遠藤謹助は洋式の新貨幣を鋳造して現在の造幣局のもとをつくった。
薩長連合の成立は1866年1月、それより先の1865年7月に遙か彼方英国の地で後の日本を背負う薩長の若き密航留学生達が出会い、留学生サークルも誕生し、親密な交流が始まっていたのである。
■留学生を送り込んだ幕末・維新期のビッグ・リンカー
まず、薩長の留学生を密航させたグラバー商会とジャーディン・マセソン商会に関わる人物のビッグ・リンカーとしての側面を見ていきたい。
密航留学生などを通じて薩摩・長州両藩との人脈を築いたトーマス・ブレイク・グラバーは、欧米列強に対抗すべく軍備強化に乗り出していく幕末・維新期の日本にあって武器商人として華々しい活躍を成し遂げる。少し長くなるが、すでに両書とも入手困難になっているため、杉山伸也の『明治維新とイギリス商人』(岩波新書)や石井寛治の『近代日本とイギリス資本』(東京大学出版会)のグラバー商会とジャーディン・マセソン商会の艦船・武器の取引内容を紹介しておく。
幕府は1862年7月に外国艦船の購入を許可すると、幕府や各藩は競って契約に乗り出し、日本は格好の外国艦船マーケットとなった。こうした中でグラバーはジャーディン・マセソン商会から委託されて、鉄製蒸気スクリュー船カーセッジ号(12万ドル)を幕府経由で佐賀藩に売却した1864年10月を契機に本格的な艦船取引に乗り出していく。
艦船取引は利潤も大きく、このカーセッジ号についても販売価格12万ドルに対して簿価は4万ドルとなっており、この取引だけでジャーディン・マセソン商会は5万8000ドルの純益をあげている。
グラバーはこの艦船取引に際して下の三つの方法をとっている。 グラバーが蒸気船や帆船を見込みで買いつけ、商会用にすでに運航させている船舶を売却する。 グラバーが、ジャーディン・マセソン商会やデント商会などの販売希望者、あるいは幕府や諸藩など購入希望者からの委託をうけて適当な購入先や船舶をさがし、仲介・斡旋の手数料をとって販売する。 幕府や諸藩からの依頼によって艦船の建造の仲介をする。
この中で特に(2)の場合、利潤はジャーディン・マセソン商会とグラバー商会の間で折半されることになっていたが、仲介者への手数料などの経費は予定価格に上乗せして販売されていた。
留学生達が英国で学んでいた頃、すなわち1864年から68年の5年間にグラバーないしはグラバー商会の名前で販売された艦船は24隻、価額にして168万ドルに及ぶ。これは、同時期に長崎で売却された艦船の約30%、価額にして36%にあたる。そして、この売却先は薩摩藩が最も多い6隻、ついで熊本藩の4隻、幕府、佐賀藩、そして長州藩の各3隻となっている。しかし、薩摩藩6隻の内のユニオン号(桜島丸、後に乙丑丸)は土佐藩士である上杉宗次郎(近藤長次郎)が仲介して長州藩が薩摩藩名義で購入した船であり、実際には薩摩藩5隻、長州4隻となる。
グラバーはこうした艦船の売却以外に、各藩の依頼によって英国での船舶建造も仲介していた。この建艦は、グラバーの長兄であるチャールズ、そして薩摩留学生達をロンドンで出迎えたジェイムズらがアバディーンで設立した船舶保険会社、グラバー・ブラザーズ社を通じて行われている。
最初に建造された艦船はサツマ号で1964年に建造されている。薩摩藩が発注したのは『薩摩海軍史』では1865年となっていることから、発注前に建造されていることになる。このサツマ号は不運にも日本への回航の途中に破船しているが、薩摩留学生が密かに旅立ったのが1865年4月だったことを考えれば、この建造費用の処理などをめぐる話し合いが五代友厚立ち会いのもとで密かに英国で行われていた可能性が高い。薩摩藩は留学生とともに英国に渡る五代に対して小銃、弾薬、紡績機械の買い付けに当たらせていたのである。
グラバー・ブラザーズ社が手掛けた日本向け建造船舶はサツマ号を含めて7隻あるが、この内の鳳翔丸と雲揚丸の二隻が長州藩発注となっている。
グラバーはこの艦船取引の他に、小銃や大砲などの武器や弾薬類のビジネスも手掛けており、1866年1月から7月と1867年に長崎で売りわたされた小銃の合計3万3875挺の38%にあたる1万2825挺を扱っていた。
中でも有名なのが長州藩との取引である。幕末の長州藩は幕府の敵で、長崎では武器の購入ができない。そこで、1865年、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎らは薩長和解のために亀山社中を使って薩摩藩の名義でグラバーから武器を購入して長州藩に譲り渡す仲介をし、7月には長州藩は薩摩藩士になりすました英国留学組の伊藤博文と井上馨を長崎に派遣した。この時の取引でミニェー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を9万2400両で購入した。
この亀山社中が斡旋した艦船取引もある。土佐藩士である上杉宗次郎(近藤長次郎)が仲介して薩摩藩名義で購入したユニオン号がこれにあたる。しかし、この仲介は表面化し、上杉宗次郎は盟約違反を同志らに問われ切腹する。長州から得た謝礼金をもとに英国留学に旅立つ目前であった。
また、グラバーは幕府から薩英戦争で鹿児島の街を焼き尽くす最新式のアームストロング砲35門、砲弾700トン、総額18万3847ドルにものぼる大量の注文を受けていた。一部は1867年に長崎に到着していたものの、幕府は瓦解寸前で、新政府側に同砲は渡った。仮に幕府が入手していたら、戊辰の戦いだけでなく、その後の国の行方さえ違っていたかも知れない。
興味深いのは、薩英戦争前に、薩摩藩はこれから戦おうとする英国からアームストロング砲100門をグラバー商会に注文していたことも記録に残っている。しかし、この話を耳にした外務大臣ラッセルが1863年2月20日に販売を禁じる指示を出していた。従って、グラバーの日本での活動はジャーディン・マセソン商会を通じて英国政府に伝えられていたことは間違いない。
■マセソン・ボーイズとロスチャイルド家
『多くの冒険の末に、3人(5人の誤り―引用者=駒込武注)はロンドンに着いた。そこで、彼らは、コモン・センスを備えたキリスト教的人物の世話になるという幸運に恵まれた。その人は、彼らの逃亡を援助した会社のメンバーであった。ヒュー・マセソンである。今日の日本は、ヒュー・マセソンの相談と世話に少なからぬものを負っている。「はい、私はマセソン・ボーイズの一人でした」。先日、日本の首相は私に語ってくれた。「私は多くのものを彼に負っています。」』
上は京都大学の駒込武の『「文明」の秩序とミッション―イングランド長老教会と19世紀のブリテン・中国・日本―』(『地域史の可能性―地域・世界・日本―』山川出版社)からの引用であり、日清講和条約締結の準備が進められていたさなかの1895年3月4日の『ウエストミンスター・ガゼット』に掲載された伊藤博文首相へのインタビュー記事である。
駒込によれば、この記事の中で伊藤は、交渉相手である中国政府の非文明的な性格、たとえば責任の所在の曖昧さについて不平を漏らすとともに、李鴻章は「私の西洋に対するすべての知識と、私が日本で行ってきたすべての改革について知識を得たがっていた」と誇らしげに語っている。
また駒込は英国に密航した5人の長州留学生を『いち早く西洋近代文明への「改宗者」になった』と評し、彼らもまた『自分たちの社会の劣等者を今や彼らが「文明」とみなすものに向けて改宗させるための、もっとも熱心な宣教者となる』と書いている。
続けて、当時の覇者英国は、キリスト教的な使命感も手伝って、自国を「文明化の使命」と位置付け、『「文明」の担い手にふさわしい人々と、その対極にある「非文明的」な人々を序列化しながら、多元的な「中心―周縁」構造を生み出していった。「中心」は「周縁」の人々を魅きつけ、「周縁」から「中心」への旅を生み出すことになる。』とし、『近代日本は、そこからキリスト教をとり除き、天皇制という疑似宗教を忍び込ませるという作業を密かに行いながら、「文明化の使命」という点ではブリテンを模倣しようとした。』と結んでいる。
グラバー家は英国国教会に近いスコットランド聖公会に属し、トーマス・ブレイク・グラバーもフレイザーバラにある聖公会系のセント・ピーターズ・エピスコパル教会で洗礼を受けている。
そして、英国留学生の世話役になっていたヒュー・マセソンは、イングランド長老教会の海外宣教委員会の委員長を1867年から1898年までの30年以上の長きにわたって努め、宣教師の人選、現地の活動状況に応じた資金の配分などに大きな権限を持っていた。つまり、ビジネスマンと宗教家のふたつの顔を持っていたことになる。そして、スコットランドの「ケルト辺境(Celtic fringe)」の出身者としてのケルト民族であったことにも注目しておきたい。
駒込の「中心―周縁」構造を借りれば、イングランド出身の英国国教会徒が当時の英国の「中心」に位置している中にあって、その「周縁」にいたスコットランド系のヒュー・マセソンとグラバーは、英国の「中心」へと駆け上がる野心から、日本を「自らの周縁」にするために「周縁」としての薩長と手を組みながら「中心」である幕府を崩壊させたことになる。
グラバーは、明治維新の成功が長崎貿易の縮小をもたらし経営が悪化、倒産に至る。しかし、高島炭坑の支配人、三菱が高島炭坑を買い取ってからの渉外担当顧問として、岩崎彌太郎、彌之助、久彌に仕え、キリンビールの基になったジャパン・ブルワリー・カンパニーの経営にも携わりながら、1911年12月16日、「周縁」の地の歴史に名を刻みながら麻布富士見町の自邸で息を引き取った。
多数のグラバー関連文書が見落としてきた重要な事実をここで指摘していきたい。グラバーとは対照的にヒュー・マセソンは英国の「中心」を率いるエスタブリッシュメントとして、1873年3月に鉱山採石最大手と知られるリオ・ティント(リオ・ティント・ジンク、RTZ)を設立し、1898年まで会長を務めた。設立に関わった金融業者、事業家による国際コンソーシアムの中にはロスチャイルド家の名前もあった。さらにロスチャイルド家は1887年から89年にかけてリオ・チィントの大株主となり、経営に大きな発言力を持つようになる。
左手のアヘンを兵器に持ち替え、「左手に兵器、右手に聖書」となったグラバー商会やジャーディン・マセソン商会は、密航という手段を用いてまで、「周縁」の若き担い手達を留学生として「中心」に招き入れることで、人的交流を深めながら「周縁」との関係を強化しつつビジネスにつなげていった。
この手法は、ヒュー・マセソンやロスチャイルド家によって英国の「中心」に取り込まれ、ハード・パワー一辺倒の戦略から「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」へと転換させていくのである。
■ソフト・パワーの「永遠の輝き」
英国の「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」を最も象徴するのが、ローズ奨学生制度である。
ローズ奨学生制度は、英植民地政治家として知られたセシル・ローズがロスチャイルド家の支援を受けて南アフリカで1888年に興した世界最大のダイヤモンド生産・販売会社であるデ・ビアスなどの財産をもとに1903年に創設された。
大英帝国繁栄のシンボルであったビクトリア女王の死去(1901年)、そしてボーア戦争(1899-1902年)では予想外の苦戦を強いられ、国際的な正統性を失い孤立を深めていく。エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を引き合いに大英帝国の衰退と没落が語られ、自信喪失感が漂い始める。彼らの目には1904年から翌年にかけての日露戦争で勝利した日本人が、愛国心に富み、ロシアに対し一丸となって戦うモラル高き民族に見えた。
ハード・パワーの限界に直面した英国にあって、ソフト・パワー強化のためにローズ奨学生制度が生まれ、1907年には日本の武士道に影響を受けてボーイスカウト運動が始められる。ボーイスカウト運動を提起したベーデンーパウエル卿もセシル・ローズの土地を意味するローデシアや南アフリカで前線部隊総司令官などを務めており、初期段階の次世代の兵士を育てるための青少年への軍事訓練としてのボーイスカウト運動は瞬く間に世界へと拡がっていく。
およそ100年を経て、新たな「中心」となっているにも関わらず、英国の影響を強く受けたローズ奨学生政権が誕生した。クリントン前大統領を筆頭にウールジーCIA長官、タルボット国務副長官、ステファノポロス大統領補佐官、ライシュ労働長官など、いずれもローズ奨学生だったのである。
このローズ奨学生政権を僅差で破って誕生したブッシュ政権は、再選をかけた戦いを聖戦と位置付け、両政党にまたがる国際派エリートを自負する東部エスタブリッシュメントを見事なまでに叩きのめし、名実ともに「周縁」が「中心」へと躍進した。
軍産インナー・サークルとキリスト教右派・ユダヤ教右派連合に支えられたはブッシュ政権は、「左手に兵器、右手に聖書」の強力な陣営を率いて、現代版十字軍遠征に進軍していくのである。
ローズ奨学生であったミスター・ソフト・パワーことジョセフ・ナイは、ハード・パワーを過信するブッシュ政権に警告を発し、巷ではボーア戦争とイラク戦争を重ね合わせながら、今再びギボンの『ローマ帝国衰亡史』が注目を集め始めている。
若きクリントンにローズ奨学生になることを勧めたのは、自らもローズ奨学生として英オックスフォード大学に学んだJ・ウィリアム・フルブライトである。このフルブライトが上院議員時代に広島、長崎への原爆投下にショックを受け、「世界の平和を達成するためには人物の交流が最も有効である。」との願いから1946年に創設したのがフルブライト交流計画である。
このフルブライトの奨学金でこれまでに米国に留学したフルブライターと呼ばれる日本人同窓生は約5900名にのぼり、官界、法曹界、金融界、財界、学界、ジャーナリズム、芸術分野で戦後の日本を支え、数多くのビッグ・リンカーを生み出す国際派エリート人脈を作り上げている。しかし、本来リベラルであるはずの彼らは、フルブライトの平和への願い虚しく、イラク戦争をも受け入れた。
100年後のモラル高き民族は、西洋近代文明の改宗者から熱心な宣教者へと見事に変貌を遂げ、ハリウッドから届けられたスクリーンの中だけの「ラスト・サムライ」を呆然と眺めていた。
そして、米国と並ぶ世界的なダイヤモンドジュエリー市場となり、給料3カ月分神話に支えられて今なお「永遠の輝き」で人々を魅きつけている。
これが「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」の威力である。
▼参考引用
・駒込武『「文明」の秩序とミッション―イングランド長老教会と19世紀のブリテン・中国・日本―』
http://www.educ.kyoto-u.ac.jp/~koma/mission.html
・1873 The Rothschilds become shareholders in Rio Tinto
http://www.rothschild.info/history/popup.asp?doc=articles/pophist2_1873
・1887 The Rothschilds finance the establishment of De Beers
http://www.rothschild.info/history/popup.asp?doc=articles/pophist2_1887
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
2006-03-10 研究メモ
■軍産複合体というモンスター 18:10
ドワイト・D・アイゼンハワーは、第二次世界大戦時にヨーロッパ方面連合国最高司令官を務め、かのノルマンディー上陸作戦を指揮した軍人です。占領下ドイツのアメリカ軍司令官を歴任したあと、アメリカ陸軍参謀総長となり、第二次世界大戦後は共和党から出馬。1953年、第34代アメリカ大統領に就任しました。
1961年1月、アイゼンハワーが大統領を辞任する際、彼はテレビ放送を通じて自らが行った政策に関し赤裸々な告白をします。
「我々(政府と軍部)は、アメリカ合衆国の巨大な軍事機構と軍需産業の合体を、アメリカ合衆国史上、初めて試みることになりました。軍産複合体を公認した結果、その影響は、経済、政治、精神に至るあらゆる分野はもちろん、市政、州議会、官公庁にまで及ぶでしょう。しかし、軍産複合体に内在している野心的な巨大成長の可能性に対して、国民は十分な注意と監視をせねばなりません。なぜなら、軍部と軍需産業の一体化は、必ず恐ろしい結果を産む危険性をはらんでいるからです。この巨大な複合組織に、アメリカの自由の基を危うくさせてはなりません。」
アメリカは第二次世界大戦当初、軍需物資の大量生産体制がありませんでした。それを戦時中に切り替え、軍需品の大量生産体制を確立します。そして戦後、その軍需産業と軍部をアイゼンハワーは直結させました。軍需産業と軍部の一体化=軍産複合体が、どれほど恐ろしい結果を産むか、アイゼンハワーは自ら作りだした組織の危険性を米国民に警告したのです。
現在、世界経済を支えているのは、まぎれもなく軍需産業です。兵器は、他のどんな産業の商品よりも高価で取り引きされます。ステルス戦闘機が1機90億円、シーウルフ級原子力潜水艦が1隻4200億円、トマホークミサイルが1発2300万円、と。
また、軍需産業は戦闘機やミサイルだけを造っているわけではありません。ミサイルに必要な火薬は化学薬品ですし、ミサイル本体は鉄鋼業。弾道を計算するためには電子機器はもちろんコンピューターが必要です。広い意味では石油、衣料品、医薬品、運輸業、マスコミ、金融、etc、兵士に配給される清涼飲料水でさえ軍需産業の一部といえます。
この軍需産業は、当然のことながら株式会社です。株式会社であるからには利益を上げ続けなければなりません。そして、軍需産業が生みだす兵器の主たる購入者は“国家”です。演習を除けば、兵器を使うのは戦場。戦争が起これば兵器は消費されます。兵器が消費されれば、国家は再び兵器を購入することになり、軍需産業は潤います。つまり戦争が軍需産業を、軍需産業を基幹産業とする米国経済を、ひいては米国経済に依存する世界経済を潤すという構造になっています。
このような軍需産業にとって、一番の脅威は“平和”。平和になれば兵器は必要ありません。巨大産業となった軍産複合体にとって、世界の平和は自らの存続を脅かし、多量の失業者を生み出し、社会を不安定にします。良い悪いは別として、これが資本主義社会の持つ宿命です。
本来、軍需産業は国家の政策とは無関係です。極端な話、兵器を高く買ってくれるならば、自国の軍部でなくてもいい。同盟国以外の敵国に売ってもかまわないわけです。自国の国際戦略とは、まったく独立した商売をすることができます。しかし国家にとって、こうした事態を見過ごすことはできません。アメリカで開発した兵器は、アメリカの利益に沿って使われるべきであり、同盟国へ兵器を売るならまだしも、敵国に売るなどとんでもない。
その結果おこなわれたのが、アイゼンハワーの軍需産業と軍部を直結です。国家が軍需産業を取り込み、政策に沿った形で兵器を製造・管理する。これが“軍産複合体”です。
軍需産業は軍部のために兵器を造り出す。戦争があれば、軍部はその兵器を消費する。兵器が消費されれば、国家は再び兵器を購入し、軍需産業は潤う。反対に、戦争が終われば軍需産業は不景気になる。
ここまでは従来と同じですが、もはや軍需産業と軍部は一体です。軍需産業が不景気になることは、軍事力が下がることを意味します。それは国家としては国力の衰退と同義となります。アメリカが世界の覇権国であり続けるためには、兵器の消費が必要であり、兵器を消費するためには戦争が必要なのです。
おそらく軍需産業に従事している人々の多くは平和主義者でしょう。しかし、個人個人は平和を願っても、組織を存続させるためにはどうしても数年に一度は戦争が必要なのです。だからこそ、軍産複合体はモンスターなのです。それは、単に利潤を追求する企業ではなく、利潤を国家が生みださなければならない。そのために紛争に介入したり、戦争を起こす。人の生血を啜りながら戦争を永久に続けることでのみ、軍産複合体は生きながらえることができるのです。
アメリカを動かすのは、本来、大統領以下、国民から選ばれた政治家のはずです。国家の政策や法律、予算等を決めるのは政治家です。しかし、民主主義政治には任期があります。それは、もちろん腐敗防止等の自浄作用として考案されたシステムなので必要なものなのですが、どんなに傑出した政治家がいたとしても何かをできるのは任期中だけのこと。任期は4年、2期務めたとしても8年が最高です。大統領といえども所詮は選挙で選ばれる存在でしかありません。
それにくらべて軍需産業の支配者に任期はありません。選挙で選ばれることもない。議会という多数決システムを通す必要もない。軍産複合体の発言は、そのまま国家の存亡に関わるので、国防という大儀のもと、政策を左右することができます。
この軍需産業を中核にする巨大コンツェルンを牛耳るのが、ロックフェラー家やロスチャイルド家といった世界的な大富豪たちであることはあまり知られていません。彼らの想像を絶するような資金が、政治を動かし、世界を動かしているのです。
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副島隆彦拝
「この「第2ぼやき」記事を印刷する」
副島隆彦です。 今から6年前の、2000年9月20日に、大阪のホテルで殺された、元日銀理事で、あおぞら銀行(旧日債銀
、にっさいぎん)の社長になったばかりの本間英世(ほんまひでよ)氏が殺された(警察は、自殺扱いのまま)事件の、記事を、今頃になってですが、ここに集めて載せておきます。
以下の記事は、楽天のブログの中から私が、見つけたものです。
このようなブログは、覆面か仮名で書いている人が多いですから、私は、彼らへの敬意は一切、払いません。ただ、記事を正確に集めてくれている点だけを評価します。 副島隆彦拝
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(1)<訃報>本間忠世・日債銀社長が急死 就任直後、大阪で倒れる
毎日新聞 2000年9月20日
元日銀理事で、今月4日に日本債券信用銀行の社長に就任したばかりの本間忠世(ほんま・ただよ)さんが20日午前9時11分、急性心不全のため大阪市北区の病院で死去した。60歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで行う。自宅は東京都渋谷区代々木4の55の5の104。喪主は妻美智子(みちこ)さん。
本間氏は、破たんして一時国有化されていた日債銀が今月1日、ソフトバンク、東京海上火災、オリックスの3社連合に譲渡され、民間銀行として再出発するのにあたり、社長に就任したばかりだった。
本間社長は就任以来、支店や取引先へのあいさつ回りを続け、19日夜は大阪支店での会合に出席し、スピーチした後、ホテルに宿泊。20日朝、迎えに行った秘書がベッドの上でぐったりしているのに気づき、救急車で病院に運んだが、死亡が確認された。
本間社長の死去に伴い、日債銀は同日、小寺義信専務が社長代行に就任した。日債銀の筆頭株主であるソフトバンクの孫正義社長は「新体制のスタートを切り、これからという時に誠に残念でなりません」とのコメントを発表した。 【大塚 卓也】
(2)「本間忠世・日債銀社長が出張先の大阪で自殺」
日本債券信用銀行社長の本間忠世(ほんま・ただよ)氏(60)が二十日午前八時三十分ごろ、大阪市内のホテルで首をつっているのが見つかり、病院に運ばれたが、同九時十一分、死亡した。遺書があり、大阪府警曽根崎署は自殺とみている。告別式、社葬などの日取りは未定。葬儀は近親者のみで執り行う。自宅は東京都渋谷区代々木4の55の5の104。喪主は妻、美智子さん。
日債銀は一時国有化された後、ソフトバンクを中心とする企業連合に譲渡され、今月四日に民間銀行として再出発したばかりで、日銀出身の本間社長の手腕が期待されていた。
本間氏は一九六三年、東大法学部卒業。日本銀行に入行し、前橋支店長、信用機構局長、理事・大阪支店長嘱託を経て九八年四月に退行。退行後は東京中小企業投資育成に入社、同社副社長を経て、今月四日に日債銀社長に就任した。
社長就任後は全国の支店・取引先のあいさつ回りを始め、十九日も午後から大阪市内の取引先や支店を回り宿泊、二十日午後に帰京する予定だった。
本間社長の死去に伴い、日債銀は小寺義信専務を社長代行に充て、後任社長の人選を急ぐ方針だが、民間銀行として再出発した直後の経営トップの急逝は、今後の経営の行方にも影響を与えそうだ。(9月20日23:23)
なぜ自殺に追い込まれたのか-。20日午前、出張先の大阪市北区のホテルで首をつって自殺した日本債券信用銀行社長の本間忠世氏(60)=写真。同行は、一時国有化された後、ソフトバンクを中心とした企業連合に譲渡され再出発。「ミスター破たん処理」といわれた本間氏はその“切り札”として今月4日にミ長に就任したばかり。それだけに関係者の間では「なぜ?」と衝撃が広がっている。
調べによると、本間氏は19日午後から大阪市内に出張し、支店や取引先を訪問後の午後9時20分、ホテルにチェックイン。20日午前8時、朝食の時間になったため出張に同行して隣室に宿泊していた秘書が部屋を訪れたが、カギがかかっていて応答がなかった。秘書はホテルの従業員に連絡し、合いカギでドアを開けたところ、本間氏がゆかた姿で壁にもたれるようにしてぐったりしていた。部屋のカーテンレールには3メートルのひもがかけられ、本間氏の首にもひもが巻きついていた。
秘書によると、19日は変わった様子はなかったが、以前から「息苦しい」「疲れた」などともらし、「病院に着いたときには意識はあった」と話している。
本間氏は日銀の出身で、その間に培った金融の専門知識や幅広い人脈を買われて民間銀行として再出発した日債銀の社長に就任した。就任後、行内の掌握に分刻みの激務が続いていたうえ、本間氏とソフトバンクや東京海上火災保険、オリックスの3社側とで目指す銀行像が全く食い違っていたという声もあり、本間氏は期待と再建への重圧との厳しい板挟みになっていたようだ。
相沢英之金融再生委員長は「3社の板挟みにあって、心労が重なっていたという話は聞いたことがある。3社がいろいろ注文をつけてきたのだという。だが、心不全と聞いていたので、心臓が悪かったと思っていた」と話す。
日銀の本間氏の先輩は、「最近もちょくちょく会っていたが、再生委とやりあってだいぶ疲弊はしていた」と振り返っている。
本間氏は、平成10年に自殺した日銀理事(当時)の鴨志田孝之氏と同期の入行(昭和38年)。この奇妙な一致もより一層謎を深めている。
〈資料〉最近の銀行マンの自殺
鴨志田孝之さん(58)
(日本銀行理事)平成10年5月2日=東京板橋区の母親の実家で首をつって自殺。現場には「もう疲れた」などと書かれた遺書
上原隆さん(59)
(旧長銀副頭取)平成11年5月6日=東京都杉並区内のビジネスホテルで首をつって自殺。現場には家族あての遺書
福田一憲さん(51)
(旧長銀大阪支店長)平成11年5月17日=兵庫県西宮市の同行武庫川寮の自室で首をつって自殺。部屋には「疲れた」などと書かれた遺書
阿部泰治さん(63)
(そごう副社長・ 旧長銀常務)平成12年4月27日=神奈川県鎌倉市の自宅で首をつって自殺。平成6年に長銀からそごうに副社長として移り、財務や経理を統括していた。部屋には「申し訳ない。勝手を許してください」と書かれた妻あての遺書
(3)日債銀社長自殺、「仕事の重圧としか…」
讀賣新聞 2000年9月20日
再スタートを切ったばかりの日本債券信用銀行の本間忠世社長(60)が自殺したとの悲報がもたらされた二十日夜、関係者の間には「信じられない」との衝撃が走った。今月四日には新しい日債銀のかじ取り役として、力強く抱負を語り、その後も取引先のあいさつ回りに奔走していた。周囲は「まじめな人だけに、追い詰められていたのかも知れない」と、重責を担った本間社長の胸中に思いを巡らせた。
東京・代々木にある本間社長の自宅マンションでは、長男(31)がインターホン越しに、「(自殺については)残念です」と話し、「日債銀社長という職が重圧になったのでは」という問いに、「父は仕事のことは家ではあまり話さないのでよく分かりませんが、そう思わざるを得ません。でも、本人が(社長を)やると言った以上やり通してほしかった」と、震える声で無念そうに語った。
本間社長の遺体は二十日夜、自宅に到着し、妻の美智子さんや長男夫婦が寄り添っているという。 東京・三鷹市に住む本間社長の義姉、本間千枝子さんは同日午後、外出先から帰宅して悲報を聞いたが、自殺とは知らなかったという。「自殺と聞いて本当にびっくりしている。『大変なポストを引き受けた』とは話していたが、それほど気持ちが大きな人ではないので、気の毒だとは思っていた」と動転した様子だった。
日債銀によると、本間社長は社長に就任後、取引先へのあいさつ回りや行内の打ち合わせに追われていた。社長室で行われる各部からの業務報告は午後十時過ぎまで続くこともあり、休日も返上することがあったという。一泊二日の予定だった今回の大阪出張も取引先回りが目的で、ある同行幹部は「社長一人に仕事が集中していた。疲労の色も濃かった」と肩を落とした。
本間社長は、今月四日、就任後初の会見で、「新世紀型の金融機関を目指したい」など力強い口調で抱負を述べた。孫正義・ソフトバンク社長、宮内義彦・オリックス会長ら新経営陣十人が並ぶテーブルの中央に座り、記者の質問の大半を自ら引き受けた。よどみなく新銀行の将来像を語る姿は、けん引役としての意欲を強く印象付けた。
一方、会見では、日銀理事として九七年に日債銀救済のため金融機関から出資を募った「奉加帳増資」に関与したことについて、厳しい質問も浴びた。本間社長は「当時としてあの対応しかなかった」と淡々と振り返り、「詰めて、詰めて考えたが、周囲から『過去は過去。ぜひ出てきてほしい』と強い要請を受け、最終的に(社長就任を)決断した」と述べ、就任までの揺れた胸中ものぞかせた。
日銀で後任の信用機構局担当理事で、一時国有化された旧日本長期信用銀行の頭取を務めた安斎隆さんは、ニュースで本間社長の死亡を聞き、自宅に駆け付けた。
イトーヨーカ堂が設立予定の銀行の初代社長含みで、今年八月、同社の顧問に就任した際には、本間社長から「お互いに大変な仕事になるが、がんばろう」という励ましの手紙も受け取ったといい、「(自殺の原因に)思い当たることはない」と言葉を詰まらせた。 (9月21日01:54)
(4)「金融再生委 公的資金投入決めたのに…」
産経新聞 2000.9.21
本間忠世氏の自殺に金融当局は大きなショックを受けている。
ソフトバンクを中心とした三社連合への譲渡は、そごう問題を契機に債権買い取り特約の「瑕疵(かし)担保条項」に対する批判が集まったことから一カ月延期するなどトラブル続きだった。約三兆円という巨額の国民負担を投じての再建に、金融を知り尽くした本間氏によせる期待は大きかっただけに、かじ取り役の突然の不幸に動揺は隠せない。
金融再生委員会は、日債銀の自己資本増強のため総額二千六百億円の公的資金投入を承認したばかりで、「これで立派な金融機関としてやっていける」(再生委首脳)と安堵(あんど)感が漂っていた矢先だけに、「自殺なんて…」と一様に驚いている。
(5)「新日債銀、船出に試練 本間社長自殺で小寺専務が代行に」
朝日新聞 2000.9.20
特別公的管理(一時国有化)を終了し、民間銀行としての営業を再開した日本債券信用銀行(来年1月4日から行名を「あおぞら銀行」に変更)の本間忠世社長が20日、自殺した。新銀行の再建を託され、経営に乗り出したばかりの訃報に、日債銀や古巣の日本銀行などには驚きと戸惑いが広がった。日債銀は当面、小寺義信専務が社長代行をつとめる。
本間社長は今月4日、ソフトバンクなどの企業連合が買収した日債銀の社長に就いた。経営破たんの影響で、貸し出し資産が大幅に減るなど経営基盤が失われたなかで、中小・ベンチャー企業向け融資の積極化などを打ち出し、具体的な業務計画の実行を急いでいた。就任後の9日、朝日新聞社のインタビューでは「できるだけはやく再上場を果たし、本当の意味での一本立ちができるようにしたい」と意欲を見せていた。
本間社長は日銀時代、金融システム不安に対応するため、1990年に新設された信用機構局の初代局長に就任、大阪支店長を経て同局担当の理事をつとめた。理事のときは、97年の山一証券の破たんに際し、資金繰りを支援する日銀の特別融資(日銀特融)の発動を決断するなど、金融システム維持に力を尽くした。ある日銀職員は「難しい判断を迫られるつらい仕事が多かったが、人柄で難交渉を乗り切っていた。部下が働きやすいと定評があった」と話し、こらえきれずに涙を流した。
日債銀は、米国流のスピード経営を目指し、常勤取締役を本間社長と小寺専務の2人だけに絞っていた。株主からの再建の期待を一身に担った大黒柱を失い、今後の経営に大きな影響が出るのは必至だ。まだ具体的な業務体制や新規事業の計画などは固まっていない。当面は小寺専務が代行をつとめるが、大株主のソフトバンクが中心になって、早急に後任社長探しを始めるものとみられる。 (01:22)
(6)「日債銀・本間社長、就任直後自殺のナゾ」
(2000年9月21日夕刊フジ)
なぜ自殺に追い込まれたのか-。20日午前、出張先の大阪市北区のホテルで首をつって自殺した日本債券信用銀行社長の本間忠世氏(60)。同行は、一時国有化された後、ソフトバンクを中心とした企業連合に譲渡され再出発。「ミスター破たん処理」といわれた本間氏はその“切り札”として今月4日に社長に就任したばかり。それだけに関係者の間では「なぜ?」と衝撃が広がっている。
調べによると、本間氏は19日午後から大阪市内に出張し、支店や取引先を訪問後の午後9時20分、ホテルにチェックイン。20日午前8時、朝食の時間になったため出張に同行して隣室に宿泊していた秘書が部屋を訪れたが、カギがかかっていて応答がなかった。
秘書はホテルの従業員に連絡し、合いカギでドアを開けたところ、本間氏がゆかた姿で壁にもたれるようにしてぐったりしていた。部屋のカーテンレールには3メートルのひもがかけられ、本間氏の首にもひもが巻きついていた。
秘書によると、19日は変わった様子はなかったが、以前から「息苦しい」「疲れた」などともらし、「病院に着いたときには意識はあった」と話している。
本間氏は日銀の出身で、その間に培った金融の専門知識や幅広い人脈を買われて民間銀行として再出発した日債銀の社長に就任した。就任後、行内の掌握に分刻みの激務が続いていたうえ、本間氏とソフトバンクや東京海上火災保険、オリックスの3社側とで目指す銀行像が全く食い違っていたという声もあり、本間氏は期待と再建への重圧との厳しい板挟みになっていたようだ。
相沢英之金融再生委員長は「3社の板挟みにあって、心労が重なっていたという話は聞いたことがある。3社がいろいろ注文をつけてきたのだという。だが、心不全と聞いていたので、心臓が悪かったと思っていた」と話す。
日銀の本間氏の先輩は、「最近もちょくちょく会っていたが、再生委とやりあってだいぶ疲弊はしていた」と振り返っている。
本間氏は、平成10年に自殺した日銀理事(当時)の鴨志田孝之氏と同期の入行(昭和38年)。この奇妙な一致もより一層謎を深めている。
(7)「異様な新社長発表、日債銀の暗い再出発」
夕刊フジ
あえて皮肉を込めて言わせてもらうとするならば、ソフトバンク絡みの“イベント”としては、「笑顔ナシ」、「握手ナシ」というスタイルでまさに異例としか言いようのないものだった。その様子はまるで、お通夜のような…。
11月20日午前、日本債券信用銀行は東京・九段にある同行本店で記者会見を開き、故・本間忠世前社長の後任社長人事を正式に発表した。12月5日付で新社長に就任するのは、現オリックス・クレジット会長の丸山博氏となった。そして、冒頭で「ソフトバンク絡みの“イベント”」としたのは、この記者会見のことを指す。
この日の記者会見は、日債銀の経営母体となるコンソーシアム、“ソフトバンク連合”から、孫正義ソフトバンク社長、宮内義彦オリックス会長、樋口公啓東京海上火災社長の3氏も同席し、記者団からの質問に応じる格好となった。
ソフトバンク-特に孫社長が“主役”を務める記者会見は、前述したようにマスコミ報道を強く意識した“笑顔”と“握手”がつきものだった、と言っていいだろう。ところが、この日の記者会見では、そうした孫社長が好む“パフォーマンス”は一切行われなかったのである。
「それはそうでしょう。今回の社長人事は、前社長の自殺という異常事態を受けてのものだったのですから…。丸山次期社長だって本音を言えば、日債銀の社長など引き受けたくなかったのが実情です」(ソフトバンク経営中枢幹部)
本間前社長が自殺したのは、さる9月12日のことだった。こうした異常事態を受けて、後任社長人事は迷走に次ぐ迷走を続けていくこととなる。
孫社長自身その辺の事情についてこう認めている。
「最初は、株主以外から新社長を選ぶつもりだった。しかし、(われわれが)適切な人と思う人については、双方の合意に至らなかった」 そうこうする間に、社長不在期間は3カ月近くにも達しつつあった。 こうした状況を受けて、“ソフトバンク連合”サイドとしては、自陣営から社長を選任しなければならない局面に追い込まれていったのである。
当初有力視されたのは、笹井和彦日債銀取締役(ソフトバンク取締役と兼任)だった。笠井取締役は、富士銀行副頭取を経て、安田信託銀行会長ポストも務めた人物で、銀行経営者としてのキャリアについては十分、と言っていいだろう。
「ところが、笹井氏が固辞したのです」(ソフトバンク関係者)
この結果、自らを評して、「銀行業そのものについては、全く経験がない」(丸山次期社長)と認める人物が社長に就任することになったのである。 それではなぜ、こうした事態に陥ってしまったのであろうか。
「言うまでもないことですが、本間前社長の自殺の理由がいまひとつ判然としていないからなのです。とはいえ、日債銀にかかわる何らかの問題が引き金になったことは間違いないでしょう。孫さんには心当たりがあるのではないでしょうか。日債銀の取引先-特に関西地区の-を丹念に洗っていけば、その理由はおのずと見えてくるはずです…」(ソフトバンク連合経営中枢)
これでは「笑顔ナシ」「握手ナシ」もうなずけるというもの。日債銀の迷走劇はまだまだ続きそうだ。
(8)「日債銀・本間社長の自殺がもたらすもの」(00/10/03)
日経ビジネス誌
日本債券信用銀行がソフトバンクを中心とする企業グループ(オリックスと東京海上火災保険が参加)に正式に譲渡されてからわずか半月後の9月20日午前、新社長に就任したばかりの本間忠世氏が、出張中の大阪市内のホテルで死亡しているのが発見された。自殺だった。
本間氏は5通の遺書を残していた。2通は家族あて。そして残りの3通の中には、ソフトバンクの孫正義社長にあてたものもあった。そこには「期待されていたのにお役に立てず申し訳ございません」、こうしたためられていたという。
何が本間氏に死を選ばせたのか。その理由は窺い知れない。だが、日本銀行のエリートとして理事にまで上り詰めた人の死である。新日債銀の社長に就任したばかりということを考え併せると、本間氏が相当なプレッシャーの中に置かれていた、とは容易に想像できる。
「今から思えば、最初の取締役会が本間氏にはショックだったのかもしれない」――。
9月4日、預金保険機構から正式に譲渡を受けた日債銀は東京・九段の本店で、初の取締役会を開いた。出席者は、本間氏ともう1人の常勤役員である小寺義信専務、それに11人の社外取締役──孫氏、宮内義彦オリックス会長、樋口公啓・東京海上火災保険社長と新たに社外取締役に名を連ねた常盤文克・花王特別顧問、成毛真インスパイア社長(マイクロソフト前社長)、池尾和人・慶応義塾大学教授、笠井和彦ソフトバンク取締役、ダン・クエール米国元副大統領らである。
(中略)
「ビジネスモデルは完成したが…」
孫氏が日債銀買収に意欲を燃やしたのはそもそも、ソフトバンク・グループが進めるベンチャー投資の一翼を担わせるためだった。新興ネット企業を中心とするベンチャー企業投資と、そうした企業の株式公開による付加価値で時価総額を極大化してきたのがソフトバンクである。
孫氏はそのために、右腕である北尾吉孝ソフトバンク・ファイナンス社長に投資事業を任せ、ベンチャー企業の株式公開の場としてナスダック・ジャパンを開設した。直接金融の舞台を整えた孫氏にとって、足りなかったのがベンチャー企業群に運転資金を提供する間接金融機能である。それが日債銀買収の動機であり、その実現をもって孫氏のビジネスモデルはほぼ完成した。
ところが、皮肉なことに最近、ソフトバンクグループ内部にはある種の「遠心力」が働き始めている。象徴的なのが、孫氏と北尾氏の関係。今年春ごろから孫氏と北尾氏の間には微妙なすきま風が吹き始めたと言われる。もともと日債銀買収には消極的と言われた北尾氏がソフトバンクの常務を退任してソフトバンク・ファイナンスの社長に専念し始めた5月ごろから、株式市場には「北尾氏がソフトバンクからの独立志向を強めている」との見方が強く流れ始めた。
加えて、北尾氏とナスダック・ジャパンの佐伯達之社長との関係の悪さは知る人ぞ知る。孫氏が「ソフトバンクのための市場」という批判をかわすために、ナスダック・ジャパンの運営に物申さなくなっている半面、北尾氏は同市場に上場したグループ会社株の取引低迷に業を煮やして、「他の市場への上場を検討する」と発言するなど、揺さぶりを強めている。そのため佐伯氏は、当初は予想もしなかった孤軍奮闘を強いられている。
こうした状況に加えて、後継社長のもとで、日債銀までもが「ソフトバンク離れ」の姿勢を強めたとしたら…。
本間氏の予期せぬ死が、ソフトバンクグループに働く「遠心力」をより一層強めるきっかけになる。こう考えるのは、穿ちすぎだろうか。(田村 俊一、小栗 太)
http://bizns.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/search/wcs-bun.cgi?ID=113274&FORM=biztechnews
(9)2005年07月14日
本間忠世の“死”に対する“闇” 「世界を動かす国際金融(152)」
日本債券信用銀行
債務超過額:3兆 943億円
平成10年12/13に一時国有化。総資産:6兆5772億円
公的資金注入:3兆2000億円、資本増強:2000億円
※ 日債銀の貸出記録には朝鮮信用組合への何億ドルもの疑わしい記録が残っている。
※ 平成11年5月の金融再生委の資産判定で1兆2000億円の「譲渡不可能=不適資産」が含まれていることがリークされた。
※ この銀行は平成12年9月4日「あおぞら銀行」として「瑕疵担保条項」とともに民間に譲渡された。社長本間忠世は16日後に自殺(本当に自殺か、その真相は謎。97年以降に起きた政府高官や大銀行のトップの急死はこれで7人目)した。
平成15年9月、普通株式について証券取引法による公開買付が実施され、主要株主であったソフトバンク株式会社は同社保有のすべての普通株式を、サーベラス エヌシービー アクイジション エルピー ジェネラル・パートナー サーベラス・アオゾラ ジーピー・エルエルシーに委譲。
2004年9月30日現在、サーベラスとオリックスと東京海上が持つ「あおぞら銀行」の株数と割合は、以下になっている。
サーべラス
1,753,328(所有株式数・単位:千株)
61.84%(発行株式総数に対する所有株式数の割合)
オリックス株式会社
425,041
14.99%
東京海上火災保険株式会社
425,041
14.99%
「あおぞら銀行」の取締役社長は水上博和である(写真中央の白髪)。
会長はマイケル E. ロッシ。
副会長がピーター C. ヘイガン。
取締役には、前会長のエドワード G. ハーシュフィールド、サーベラスのクエール会長、オリックスの宮内義彦などの名前がある。(2005年6月30日現在)
※ 余談だが、新生銀行の取締役からデイヴィッド・ロックフェラーとヴァーノン・ジョーダンの名前が消えた(6月24日と30日にそれぞれ退任)。ジョン・リードとポール・ボルカーは現在も取締役にいる。
(10)米サーベラスのクエール会長「対日投資80億ドルに」(2005年6月24日)
米サーベラス・グローバル・インベストメンツのダン・クエール会長は24日、「日本への投資額はこの8年間で合わせて80億ドルに達した。今後もさらに投資を続ける」と述べた。傘下に収めているあおぞら銀行については「業績が好転しており、経営内容に満足している」と語った。
あおぞら銀の株主総会に出席するために来日したもので、都内で日本経済新聞記者と会見した。クエール氏は日本経済について「不良債権の処理という大きな宿題を達成し、企業改革という新たな課題に取り組むべき段階に入りつつある」との認識を示した。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20050625AT1F
2401924062005.html
(11)「預金保険機構:買い取り債権は総額1兆6573億円」
毎日新聞 2005年6月18日
金融庁は17日、98年に経営破たんした旧日本長期信用銀行(現新生銀行)と旧日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)から預金保険機構が買い取った債権が、計486件で総額1兆6573億円になったと発表した。簿価から2割以上目減りした債権を簿価で購入する約束した瑕疵担保条項に基づき、預保が引き取った。
預保が実際に支払った金額は両行が積んだ貸し倒れ引当金を除いた1兆2214億円で、今後、不動産などの担保資産の売却で回収できない部分が国民負担として確定する。同条項に基づく両行の申請期限は00年の営業譲渡から3年後の03年3月末で終了しており、今後新たに引き取る案件はない。【斉藤信宏】
(12)「日米中21世紀の展望」(平成13年5月)
浜田和幸(はまだかずゆき)
(途中から)
もっと最近の例では、日債銀という銀行のケースがあります。今ではあおぞら銀行と名前が変わりました。あれがおかしくなって、結局ソフトバンクの孫さんとか、東京海上の樋口さんとか、オリックスの宮内さんらがお金を出して受け皿を作った。その新しい頭取になった本間さんという方が大阪で自殺をしたという事件がありましたね。
何で自殺をしたのか。日銀から建て直しのために来られて、頭取になってまだ2週間たらず。その人が最初のあいさつ回りに行って、泊まったホテルで首を吊って死んだ。その事件が起こった後も大阪の曽根崎警察署というところは、検死も何もしなかった。すぐ東京に送り返して、荼毘にふしてしまった。司法解剖ということを全くやらなかった。そのお兄さん、本間長世さんという有名なアメリカ文学者は、「弟が自殺するわけがない」とおっしゃっていました。
ところが、荼毘にふされてしまっては、原因の究明のしようがない。実は先月アメリカの有力経済誌「フォーブス」で、「本間頭取の死因は自殺ではなくて、他殺であった疑いが濃い」との記事が大きく出ました。要するに、北朝鮮関係の朝銀関与説です。そこの不良債権の取立て問題で本間さんが大阪に乗り込んだところ、こういう世界の人たちとトラブルがあったというのです。
あの日の晩も打ち合わせが終わって、9時過ぎにホテルの部屋に戻ってきた。それから休むまでの間に、その世界の人たちが押しかけてきたとの情報があるのです。たまたま隣室に泊まっていた人がいた。なんだか隣りの部屋がうるさい。叫び声がするというのでホテルのフロントにクレームをつけているんですよ。しかし、そういったことは一切ふせられて、何か原因はわからないけれども自殺ということで処理された。
アメリカの雑誌はそのあたりを詳しく調べまして、あれは他殺であったことをにおわす記事を大きく載せたのです。何でそういう記事を載せたのか。結論が大事です。要するに日本では金融機関が不良債権の処理とか機構改革といった課題に対して、まともに取り組んでいない。それどころか、全く進んでいない。だからそういうところにお金を預けたり、投資をするのは危険だ、という結論になっている。
まずは関心をつかむために、あれは自殺でなくて他殺だったということを大きく報じて、記事を読んでみると日本の金融機関がいまだに過去の呪縛に引っ張られていると断じている。よって、お金は日本の金融機関でなく、アメリカのしっかりとしたところに預けないさいよ、という筋立てになっている。恐ろしいまでの情報操作です。
(略)
http://www.joho-shimane.or.jp/cc/sic/news/no59.htm
※ 浜田氏の文中に登場する「隣室に泊まっていた人」とは、「フォーブス」の日本支局長・フルフォードによると、タレントの森公美子(もりきみこ)さんです。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
副島隆彦です。 今日は、2006年3月11日です。
「教育の原点を考える」というサイトから、私の「属国・日本論」を取り上げて、特に幕末・維新期のところを書評していあったので、転載します。どういう人がこの文章を書いているのかは分かりません。たいした人ではないようです。 副島隆彦記
(転載貼り付け始め)
2005年7月26日 (火)
『属国・日本論』&『石の扉』
IBDのウェブ機関誌に「近代日本とフルベッキ」というシリーズを最近まで執筆していましたが、坂本龍馬を取り上げた際に、評論家の副島隆彦氏の『属国・日本論』について書評を書いたことがあります。
一読してみて思ったことは、『属国・日本論』は良書の1冊ということでした。それなのに、船井幸雄氏のような人物と対談本(『日本壊死―新しき人目覚めよ 』ビジネス社刊)を出すとは、一体全体どういう了見なのか、呆れるしかありませんが、それは兎も角、『属国・日本論』は推薦するだけの価値はあり、「近代日本とフルベッキ」に書いた書評の一部を以下に転載致します。
副島隆彦の代表作・『属国・日本論』
この『属国・日本論』(五月書房)について、筆者自身が副管理人を務める掲示板[藤原肇の宇宙巡礼]の「若き日の修験者・空海のコスモロジーと錬金術」というスレッドに、以下のような書評を先月投稿した(一部訂正)。 http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/2491/1089401588/
エンセンさん、『思想劇画 属国日本史 幕末編』のご紹介ありがとうございました。その後、副島隆彦氏のホームページ[学問道場]を訪ねてみたところ、須藤よしなおさんという学問道場のメンバーの方も『思想劇画 属国日本史 幕末編』の一部を紹介していました。
ただ、エンセンさんの紹介してくれた『思想劇画 属国日本史 幕末編』の一部を拝見したものの、副島氏の「バカヤロー! ふざけたことをぬかすな!」といった台詞に代表されるように、品のない副島氏の言葉のオンパレードといった感があり、故手塚治虫の作品を知る一人として、『思想劇画 属国日本史 幕末編』は手にする気が起こりません。
内容的には良いものだけに大変残念だと思ったのですが、『思想劇画 属国日本史 幕末編』は同じ副島氏が著した『属国・日本論』(五月書房)の「幕末・明治期編」を劇画化したものと後に知り、取り敢えず『属国・日本論』をオンライン書店を通して取り寄せて一読したところ、予想に反してなかなかの良書でした。
特に深く共鳴したのは以下のくだりです。機会があれば拙稿「近代日本とフルベッキ」で紹介させていただく予定です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
政治の流れを大きく背後で動かしているのは、軍事力とそのための資金である。このリアルな事実を抜きにしてあれこれ見てきたようなことを書いてある本は駄本だ。現実の政治を知らない学者たちの、厳密な文献考証だけでも駄目である。どれだけの軍事援助をどのような勢力が行ったのかを見きわめようとするリアルな眼を持たなければ、幕末維新期の謎を解明することはできない。 『属国・日本論』(P.200)
++++++++++++++++++++++++++++++++++
このくだりを読んでピンと来たので、同書を最初から最後まで目を通してみました。そうした中で思わず息を呑んだのは、「なぜ佐藤栄作元首相はノーベル平和賞を受賞したのか」という題名の章でした。
佐藤栄作元首相のノーベル平和賞受賞した理由と、それが20年後のソビエト連邦崩壊に結びつくまでのプロセスを、ものの見事なまでの副島氏のインテリジェンスで以て炙り出している箇所を読み、思わず唸った次第です。
ただ、二カ所惜しいところがありました。
一つは、「甘粕正彦(大杉栄と伊藤野枝を殺害した軍人でもある)」(P.233)とある点です。確かに通説ではそうなのですが、大杉栄と伊藤野枝を殺害した真の犯人は甘粕正彦ではないという説もあるのです。そのあたりの詳細は『賢者のネジ』(藤原肇著 たまいらぼ出版)の「第八章 大杉栄と甘粕正彦を巡る不思議な因縁」に書かれていますので参照願います。
二つは、米国のシンクタンクを分類するのに、〝リバータリアン保守派〟(P.120)という表現を副島氏が用いている点です。しかし、欧米の識者であれば、個人であれシンクタンクのような組織であれ、自らをリバータリアンと名乗るような危ないことはしないはずです。「本当のリバータリアンというのは、自身がリバータリアンであることを徹底的に隠すのが本来の姿であり、自分がリバータリアンであることを公にすれば、命が幾つあっても足りない」というのがリバータリアンという存在であると、知人の在米の某識者が語ってくれたのを思い出します。
上記にもある通り、「政治の流れを大きく背後で動かしているのは、軍事力とそのための資金である」という副島氏の考察は正鵠を射ており、筆者も前シリーズ『日本脱藩のすすめ』の「第六回 国際政治のすすめ(政治編)」に、「金融ヘゲモニーとの軍事ヘゲモニーこそは、パクス・アメリカーナを推進していく両輪に相当する」旨のことと書いていて、副島氏同様に軍事力とその資金が世界を動かしていると考える一人である。
時間があれば、会員の方は前シリーズ『日本脱藩のすすめ』の「第六回 国際政治のすすめ(政治編)」に再度目を通していただければ有り難い。
また、副島氏のいう「政治の流れを大きく背後で動かしているもの」を捉えるには、前シリーズ『日本脱藩のすすめ』の「最終回 再び日本脱藩のすすめ((総編)」にも述べたように、「上次元より観察して物事を的確に判断すること。
例として、日本の経済・政治の現状を正しく把握するには、次元を一つ上げてアジア全体の経済・政治の流れを掴むようにし、アジアの経済・政治の現状を正しく把握するには、さらに次元を一つ上げて世界全体の経済・政治の流れを掴むようにすること」が出来るように修行を積むことが肝心なのである。
オンラインで公開している『竜馬がゆく』の「BOOK」データベースによれば、「薩長連合、大政奉還、あれァ、ぜんぶ龍馬一人がやったことさ」と勝海舟が語ったと書いてある。果たして勝の言っていたことは本当なのだろうか。『属国・日本論』では以下のように述べている。
(引用はじめ)
坂本(龍馬)は、薩長同盟=薩長密約(1866年1月21日、京都の薩摩藩邸で、西郷隆盛と木戸孝允が合意した攻守同盟六ヶ条)を仲介した幕末史上の重要人物とされる。しかし一介の脱藩浪士が何のうしろだても無しに、このような政治力を持てるだろうか。背後にはやはり、ジャーディン・マセソンとその日本対策班であったグラバーと、イギリスの外交官たちがひかえていたと考えるべきだ。
『属国・日本論』(副島隆彦著 五月書房)(P.176)
(引用おわり)
一般に、明治維新は下級武士を中心に日本人だけの力で成し遂げたものであるというのが日本での通説になっているようだが、『属国・日本論』はそうした通説に対して否と答えているのであり、筆者も『属国・日本論』に全く同感である。論より証拠、グラバー自身が薩長の仲を取り持ったと述べた記録が残っており、それにより龍馬の背後にはグラバー、さらにはジャーディン・マセソン商会がいたことが明らかである。
(引用はじめ)
グラバーはのちに薩長同盟、鹿児島訪問、倒幕という文脈のなかで自分を位置づけ、「つまり自分の一番役に立ったのは、ハーリー・パークスと、それから薩長の間にあって壁をこわしたことで、これが自分の一番手柄だったと思います」と自負している。(『史談会雑誌』)(杉山伸也著『明治維新とイギリス商人』岩波新書、1993年)
グラバー自身もこれぐらいの白状は、どこかでやっているものである。いったいこのグラバーの背後に日本を属国にして管理してゆくためのどれほどの策略がめぐらしてあったのか、今のところこれ以上は分からない。 まるで日本人だけで、それも情熱に燃えた下級武士たちの力で明治維新ができたと考えるのは底の浅い歴史認識である。
『属国・日本論』(副島隆彦著 五月書房)P.200
(引用終わり)
以上、龍馬を表に立てて資金面の援助を行い、薩長に武器を売り込むように指図をしていたのがグラバー商会、ジャーディン・マセソン商会であり、さらにグラバー自身が告白しているように、日本の青写真を設計していたのもグラバー商会、ジャーディン・マセソン商会であったことがお分かりいただけたと思う。では、龍馬の背後にいたグラバー、ジャーディン・マセソン商会とは、そもそも何者だったのだろうか。
(引用はじめ)
上海にあったのは(今でも香港にある)ジャーディン・マセソンという大商社である。このジャーディン・マセソンは現在でもイギリスで四番目ぐらいの大企業であり中国の利権を握りしめてきた商社である。
このジャーディン・マセソンの日本支社とでも言うべき商社がジョン・グラバー商会である。おそらく、彼らは全て秘密結社フリー・メイソンの会員たちであろう。私は陰謀理論(コンスピラシー・セオリー)をことさら煽りたてる人間ではないが、この事実は、日本史学者たちでも認めている。この上海のジャーディン・マセソンが日本を開国に向かわせ、日本を自分たちの意思に従って動かした組織だと私は、判定したい。
『属国・日本論』(副島隆彦著 五月書房)(P.170)
(引用終わり)
上記のように、副島氏はジャーディン・マセソン商会およびグラバー商会を「フリーメーソンの会員たち」といった簡単な記述で済ませているが、幕末明治にかけての日本、さらには今日に至るまでの日本にフリーメーソンが大きな影響を及ぼしてきたのであり、そのあたりをテーマに取り上げた『石の扉』(加治将一著 新潮社)という題名の本が最近発売されている。
中でも本シリーズ「近代日本とフルベッキ」と関連して注目すべきは同書の「第五章 解き明かされる明治維新の裏」であるが、内容的には副島氏が『属国・日本論』の中で説いている幕末維新期の域を出ていない。しかし、フリーメーソンの全体像を把握するには格好の書であるので、『属国・日本論』同様に一読をお薦めする所以である。 2005年7月26日 (火)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦記
(転載貼り付け始め)
「三権を掌握してもまだ万全ではない胡錦涛(こきんとう)
体制」
横浜市立大学名誉教授 矢吹晋(やぶきすすむ)
(編集者のN君が送ってくれた。 2005.6.12 副島隆彦記)
(1) 今回のデモは2005年4月9日(第二土曜日)に北京で、16日(第三土曜日)に上海で起こったことで騒がれたが、最初のデモは3月末、深経済特区や日本の自動車産業が集中的に投資している広州であった。深経済特区は一人当たりGNPが1万ドル近い水準にあり、かなり豊かなところだ。どうしてこうした都市でデモを計画したか。
(2) 3月21日に国連のコフィ・アナン事務総長が国連改革を推進するにあたり、「もちろん、新しい常任理事国のうち一つのポストは日本にいく」と発言したのをきっかけに、爆発的な署名運動が起こった。「9月に常任理事国入り問題が決着してしまったらおしまいだ、いまこそ立ち上がれ」という合図としてアナン発言を利用した。こうして5月10日には実に4000万を超える署名が集まった。
中国の大手3大プロバイダー(新浪、捜狐、易網)も日本の常任理事国入り反対の署名をするサイトを設けた。私が注目しているのは、香港『大公報』もこの署名運動のサイトを設けたことであり、これは中央宣伝部が支持したことを意味すると解してよい。こうして一挙にムードが盛り上がった。
(3) そもそも、日本の歴代首相の靖国参拝の歴史を振り返ると、1985年に中曽根康弘首相が参拝したが、翌86年8月15日には後藤田正晴官房長官の勧告に従い、胡耀邦(こようほう)総書記に手紙を書いて参拝しないと表明している。それ以来、96年に橋本龍太郎首相が一度参拝したのを除けば、森喜朗首相まで「中曽根書簡」を守ってきた。
86年から00年まで15年間、11代の内閣にわたり中曽根誓約が守られてきたのである。現小泉首相は一転して参拝に踏み切り、中国や韓国がこれを非難するのを「内政干渉」だと反発しているが、問題は、それまでの11代の歴代首相の判断をどのように見るのかということだ。中国や韓国にしてみれば、それだけ長期にわたり、多くの首相が参拝してこなかったのだから既成事実と受け取り、これが日本としての中国や韓国に対する事実上の約束と受け取ったとしても自然なのではないか。
(4) 03年10月にインドネシアのバリでASEANプラス日中韓3カ国の国際会議があったが、そこで小泉首相と温家宝(おんかほう)首相が会談している。その際に、温家宝首相は会談が気まずい雰囲気にならないように、あえて靖国参拝の件は持ち出さなかった。ところが会談終了後、随行記者が小泉首相に「靖国に行くのか」と尋ねたら「行く」と答えた。
そこまではまだ自分の立場を表明しただけなのだからまだ良いとして、一言口がすべった。小泉首相は「温家宝首相も理解してくれた」と誤報してしまった。これが中国にも伝わり、大騒ぎになった。これはとんでもない話だ。温家宝首相は就任して半年経っただけだったが、失脚しかねなかったとさえいえる。こうした随行記者たちはいつも小泉首相側の話だけを聞いており、中国の実情を全く理解していない。
このような誤報がどれだけ重大な問題を引き起こすことになるかにまるで無頓着であり、ほとんど“政治音痴”というべきだ。この意味では、そうした“外交音痴”の小泉番記者たちが、よけいに日中関係をおかしくしているといえる。
(5)胡錦涛(こきんとう、フー・ジンタオ)が02年11月に共産党総書記に、03年3月に国家主席に就任し、そして04年9月には軍のトップである中央軍事委員会主席の地位を江沢民前から譲渡されたことで、党、国家、軍の三つの最高権力を手にした。しかし、それでも中共中央政治局常務委員会の9人のうち過半数を「上海閥」もしくは「江沢民派」が占めているため、胡錦涛としてはまだ権力基盤を固め切れていないと見てよい。
政治局常務委員の中で胡錦涛とともに行動しているのは温家宝だけである。たとえば03年春のSARS(重症急性呼吸器症候群)禍の時に、実際に精力的に動き回ったのはこの2人と呉儀だけだけだったのは有名な話である。他の7人は何をしていたのかよく分からない。SARS騒動は権力構造が透けて見えるよい機会であった。
ただ、04年秋に江沢民(こうたくみん、チャオ・ツーミン)が完全に引退したことで、流れが変わった。まず、江沢民自身が自らの腹心として用いてきた曾慶紅(そうけいこく)国家副主席が胡錦涛支持に回った――曾慶紅の20年にわたる秘書が汚職容疑で逮捕されており、曾慶紅自身が胡錦濤に“首根っこ”をつかまれている。
胡錦涛に次いで党序列2位の呉邦国は、上海閥といわれながらも以前から中立気味の姿勢を示しており、胡錦涛支持と見てよい。今回、あまり注目されていないとはいえ、問題となるような行動を示したのは宣伝担当の李長春である。
そもそも、今回の反日デモをめぐる政治権力争いは、07年に開催される党大会が視野に入っている。それまでに胡錦涛が権力を固めることができれば当然続投することになるが、それまでに揺さぶりをかけて続投できないということになれば誰が代わりに浮上するかというと、9人の常務委員の中で07年の党大会開催時に64歳と胡錦涛と並んで年齢的に最も若い李長春(りちょうしゅん)なのである。
もし胡錦涛が続投してしまえば李長春は最高権力者になれないまま、2期10年間常務委員を務めただけで一緒に引退していくことになってしまう。このため、07年の第16回党大会開催までに胡錦涛を追い込むことができれば、李長春の“野望”が達成されることになるわけだ。
(6) 04年9月に江沢民が中央軍事委員会主席の地位を断念するにあたり、その内幕としていろいろなことがいわれているが、そうした国家機密事項が外部に漏れ伝わってくるわけがない。巷間伝えられる俗説のほとんどはあまり根拠のないものだ。ただはっきりしていることは、04年8月下旬の小平(としょうへい、トン・シャオピン)の誕生日の前後に江沢民をはじめ党や軍の長老が皆集まった際に、長老全体の意思として江沢民に辞任を勧告したことだ。
江沢民自身は07年までその地位にとどまり、“院政”を続けるつもりでいたようだが、それによる“二重権力状態”に対して長老たちが危機感を強め、いっせいに江沢民を非難したのである。誰が賛成したか、反対したかという次元の話ではないわけだ。
また、江沢民と他の長老勢力との確執が表面化している際に、いうまでもなくその下の現役幹部組はどちらについた方が得策かを冷徹に判断して行動していたわけである。胡錦涛は当然のことながら江沢民辞任の立場で行動したが、いまや局面は胡錦濤政権が二期目も続くか、それとも一期限りで終わるかということであろう。
胡錦涛が今権力を集中しつつあるが、それは江沢民の残党たちが左遷されることを意味する。そのため自己保身に走り、胡錦濤に対する面従腹背が目立つようになる。今回のデモは最初に広東で起こり、後に当局が取り締まりに消極的だったことで最もそれが激化したのが上海だったことも重要である。広東省と上海市の党委書記である張徳江と陳良宇はともに江沢民に近く、胡錦濤体制が固まらないことに自らの利益を感じているはずだ。そこからこの機会を利用して、自己の権力を維持するのを目的に、胡錦涛に揺さぶりをかけたものと見てよいのではないか。
実はここに中国の悲劇がある。今回のデモは江沢民から胡錦涛への権力移行期に伴う権力闘争の過程だからこそ生じたものだ。胡錦涛は江沢民前政権の反日的な政策を改めて日中関係の打開を考えていた。江沢民は反日・愛国的教育を推進し、ナショナリズムに依拠して国内の統一と安定を図ってきた。たとえば98年に来日した際にも歴史問題を執拗に取り上げたことで、日本国民の間では“嫌中ムード”が強まったものだ。
これに対し、胡錦涛や温家宝はより穏やかな対日姿勢を見せ、江沢民の反日路線を相対化しようと試みていた。ところが、日本側では胡錦濤の柔軟路線に対する呼応がまるでなく、逆に小泉首相の靖国連続参拝など反中国的な外交政策を採ったため、胡錦涛や温家宝の対日政策は中国国内では“弱腰”だと非難されるようになった。
そうした権力の空白期に反日デモが起こったために積極的な誘導あるいは鎮圧ができなくなったのが中国の政治状況であろう。デモの仕掛け人側からすれば、いわば二重権力的な過渡期の間隙をついたことからあれだけ大規模なものになったわけだ。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
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