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[174]メタフィジックスとは「設計」である
投稿者:相田英男
投稿日:2021-07-15 21:50:14

相田です。

この4月から環境が激変して、頭と体が分離しそうな気に襲われる毎日だ。じっくり練った文章を書く余裕が、全くないののだが、それでも、これだけは、ちょこっとだけ、書き留めたい。

会員専用掲示板で副島先生が、物質と精神の関係について書かれている。先生の話にしては、別段、激しくも無く、暴き系でもなく、淡々と静かに話が進むだけだ。が、その中で「メタフィジカル」について触れられた箇所は、技術屋としての私の頭に刺さった。

メタフィジカルとは「形而上的」などではない。物質の下にある、ものの成り立ちを規定する「概念」である。建築物を作る際の設計図のようなもの、と考えれば良い。

このように副島先生は、語られている。いきなり、非公開掲示板のネタバラシをするのも、どうかとは思う。また、上の文の内容も別に、そんなに大した内容でもないじゃん、と、多くの方は思うかもしれない。

しかし、私は、副島先生からまたしても、偉大な概念を教わった。目から鱗が、またおちた。

メタフィジックスとは設計の事だった。

設計こそがメタフィジックス

同じことばかり繰り返してバカじゃねえの、と、言うならば言え。

根詰めて書くと気力が続かんので、途中で止めるが、技術で最も大切なのは設計である。設計とは、単に図面を書く事ではない、とかいった文章を、だいぶん前に描いた気がするが、とりあえず、もういいや。

村上陽一郎大先生の高弟達の方々の文章から、全く聞くことも無かった概念を、さらりと語られる。やっぱし、あのアホ連中とは一味違うわ、私の師匠は。

(あとは書ける時に書きます。←日本語がヘンだ)

相田英男 拝



[173]少しくらい漏れたからと、別に大騒ぎするな、と言いたいのだろう
投稿者:相田英男
投稿日:2021-06-18 16:21:23

相田です。

 中国のEPRでトラブルが生じた、と米CNNが報じたという。EPRとは、第3世代プラス型と呼ばれる、新型の軽水炉型原発だ。私の原発本にわかりやすく書いたが、電源を全て失っても、自律的に炉心を冷却出来る「受動的安全性」を持つ原発が、第3世代にプラスが付く。プラス型でない第3世代型は、受動的安全性を持たない「能動的安全性」である。

 このプラス型原発は、EPRの他に、ウェスティングハウスが設計したAP1000の2種類が、既に建設されて稼働している。AP1000については、説明する必要はあるまい。どちらのタイプも、稼働しているのは中国のみである。

 ネットで断面的に載るニュースでは、状況が全くわからないので、少し調べた。すると以下の記事を見つけた。筆者には申し訳ないが、全文引用する。書いてある内容は、概ね正確だ。

「台山原発のSNS「微博」公式アカウントは当直の職員が端午の節句用のちまきを食べたとか、宿舎前のマンゴーの樹からもいだマンゴーを食べているとか、平穏な日常をアピールする投稿があり、少なくとも放射能汚染が起きているような様子はなかった。」という箇所には、思わず笑った。「少しくらい漏れても、それが何なん?」と、表向きは言いたいらしい。

 今回のネットのニュースの書き込みでは、「中国の技術は信用ならない」とか、「欧米日本から技術を盗んで作られた原発」とかの、悪意ある意見が満載である。「何もわかっていないな」と、私は思う。

 中国の原発技術は、既に世界最高レベルなのだ。欧米日本は、既に、中国に遥かに負けているのだ。第3世代プラス型の2タイプの原発を、どの国よりも早く、建設し、運転できたのが中国だ。日本人が、何を舐めた目で、中国を見る事が出来るのか?思い上がりも大概にした方が良い、右翼連中よ。

 華龍1号に使われるシームレス圧力容器も、既に自前で中国はつくれるようになったらしい。わざわざ日本製鋼所室蘭から買う必要も、最早無くなったようだ。私が兼ねて言うように、中国の技術が世界を制する時代が、遂に来たのだ。そのように、冷静に受け止めべきでは無いのか?

 放射能漏れの原因は、ウラン核燃料の不具合であるようだ。原発自体の設計や、作り方の欠陥では無いらしい。欧米日本では、すぐに原発をシャットダウンするレベルだが、「原発自体が壊れた訳ではないから、別に止めなくてもいいじゃん。もっと電気を起こす方が大事だぜ」というのが、中国の主張だ。「無茶苦茶だ」と、一般の方は思うだろう。が、風力発電などのクリーン発電でも、機械のトラブルを抱えながら発電を続けるのは、ごくごく普通にやっている事だ。電力会社達は、そんな事は全く公にしない。ひたすらに美辞麗句を並べ立てるのだが。

 まあ要するに、だ。東芝がAP1000で大赤字を出した時に、「原発なんか、無駄な金ばかり掛かる、時代遅れの発電だ。原発にこだわる日本は、世界に遅れている。自然環境に優しい、再生可能エネルギーに早くシフトしないと、欧米の流れに取り残されるぞ」と、何処の誰かもわからない、投資家の宣伝屋とか、左翼の運動家達が主張した通りの事態が、日本に目出たく現出したという訳だ。

よかったな。あんた達が望んだように、日本の国はなったよ。そうして、技術力と経済力を少しずつ失って行けば良い。みんなが望んだのだから、その道を。

ものづくりの力を失うのは、亡国への道だと、いつになったら気づくのか。

(引用始め)

どうすれば防げるのか? 世界が中国の原発だらけになる日
6/17(木) 10:01配信,JB press
(福島 香織:ジャーナリスト)

 米CNNが特ダネとして報じた、中国広東省の台山原発で「差し迫った放射能危機」が起こり得るという報道には、正直言ってちょっと焦った。中国でそろそろ大きな原発事故が起きても不思議ではない頃だと、かねてより思っていたからだ。

【写真】中国・台山原子力発電所の制御室で作業するフランス人と中国人の技術者。

 中国の易姓革命の思想からいえば、国家指導者が2期10年を期限とした禅譲を拒否し、権力をほしいままにせんとすれば、相次ぐ厄災に見舞われ天命が改められる、かもしれない。禍はたいてい連れ立ってくるものだ。疫病とセットになってくるのは、飢饉、大地震、隕石か。現代科学技術が直面する最大の厄災といえば原発事故だろう。旧ソ連の崩壊の引き金はチェルノブイリ原発事故だった。原発大国を目指す国は必ず一度は大事故を経験してきた。中国とて例外のはずがなかろう・・・と。

 幸いなことに、CNN報道の直後、国連のIAEA(国際原子力機関)は「放射性事故が発生したという痕跡はない」とのコメントを出した。CNNの勇み足報道だったのか・・・。いや、新型コロナ肺炎のアウトブレイク初期に、WHOも「ヒトからヒトへの感染はない」と間違った発信をしたではないか。

 本当のところ中国の原発の安全性はどうなのかを、改めて考えてみたい。

■ ホワイトハウスは技術提供に同意

 CNNは6月14日、中国広東核電集団(CGNPC)と国営フランス電力会社(EDF)が合弁で建設、運営している広東省の台山原発で放射性物質を含んだ希ガスが漏れていると報じた。EDFの子会社で技術供与をしているフラマトム社が米国エネルギー省に問題解決のための技術支援を求め、その中で「差し迫った放射能の脅威」が発生し得るという表現があったという。

 広東省台山原発は、フランスが設計した第三世代欧州加圧水型炉(EPR)の2基1組の原発で2009年から建設が始まった。商業運転を開始したのは2018年、2019年と比較的最近のことだ。このタイプの商業運転は世界初であり、目下世界で最大の単基発電容量を誇る原発ユニットである。同時に、中仏エネルギー領域の最大合弁プロジェクトでもある。運転開始式典にはマクロン大統領も出席した。この中仏協力プロジェクトの出資比率は広東核電が70%、EDFは30%で、原発の管理と運転にフラマトムも関与している。

 こういう経緯で造られた原発の問題で、フランス側が米国に救援を求めるというのは尋常でない。さらに不安にさせられることには、フラマトムが米国側に提出した報告の中で、事故発生後、中国政府は放射能漏洩の警戒基準値を、フランスの基準を上回るレベルまで緩和し、台山原発の稼働停止を免れようとしているのだという。

 CNNの報道によれば、フラマトムは5月末に米エネルギー省に、台山原発には潜在的問題があると報告。続いて6月初めに、反応炉から放射性ガスが漏れていると報告した。そして、事故と緊急安全事態への対応のために、中国とフラマトムに技術協力するよう米国に正式に要請した、という。

 米国側の事態への関心は大きく、ホワイトハウス国家安全委員会では1週間かけて何度か会議を招集してこの問題を検討。技術提供して問題解決を支援することに同意しているという。ただし、CNNは「まだ危機レベルには至っていない」というホワイトハウスの認識も報じている。

■ 中国当局は「安全面の基準は満たしている」

 このCNN報道の後、各国メディアは後追いし、中国当局に確認しようとした。だが、その日(6月14日)は旧暦の端午の節句の休日であり、中国政府機関も広東核電側も電話やメールに応じず、台山原発として「運転開始以来、厳格に規定文書に照らして、技術プロセスコントロールメカニズムが運行されており、2基の原発とも、運行基準は原子力安全法と原発技術基準の要求を満足させている」「目下原発周辺地域の環境観測データはすべて正常である」と一方的にコメントを出しただけだった。 

 台山原発のSNS「微博」公式アカウントは当直の職員が端午の節句用のちまきを食べたとか、宿舎前のマンゴーの樹からもいだマンゴーを食べているとか、平穏な日常をアピールする投稿があり、少なくとも放射能汚染が起きているような様子はなかった。

 EDF側がAFPなどの取材に応じて説明したところでは、燃料棒のコーティングに問題があり、蓄積された希ガスが放出されたが、「メルトダウンとかそういった状況が発生したわけではない。汚染がどうのという話ではなく、ガスの排気をコントロールしているということだ」という。この希ガスはキセノンとクリプトンで、放射性物質ではあるが、半減期が短く、構造も安定しており、放射能濃度も中国基準値に至っていない、という。

 台山原発から135キロの地点にある香港天文台の観測によれば、香港での放射能濃度に異常は見られない、としている

 原発運転停止を避けるための放射能濃度基準値を引き上げたというCNNの気になる報道については、中国生態環境部の報道官は6月16日になって、「発電所の外では、放射能検査の許容限界基準値を引き上げることは承認していない。承認したのは原子炉内の冷却剤の不活化ガスの活性比率に関する限界値の基準であって、これは原発外の放射能濃度検測と無関係だ」と説明した。

 また中国生態環境部は16日に、燃料棒の破損により冷却材中の放射性物質の濃度が上昇したことを改めて認めて発表したが、技術や安全面の基準は満たしていると述べている。

 ということで、今のところCNNがちょっと大げさに報じすぎたのではないか、との見方に落ち着きつつある。

■ 世界最大の原発大国になろうとしている中国

 ただ、いずれにしろ今回のCNNの報道は、私たちにいろんなことを考えさせた。

 たとえば、5月末に台山原発に問題が発覚した後、中国側は半月も何のアナウンスもしなかった。米国に技術支援を求めたのは、運営管理に参与するフラマトムだった。なぜフラマトムが米エネルギー省に直接助けを求めたのだろう。

 フラマトムのパートナー企業の広東核電は、2019年8月に米国商務省から人民解放軍関係企業としてエンティティリスト(制裁リスト)に指定されている企業だ。「よっぽどのこと」でない限り、米国が技術支援に同意するはずがない。これをどう理解するのか。

 実は「よっぽどのこと」が起きていると米国が認識しているのか。それとも、いざというとき、原発技術を提供してくれるかどうか、フラマトムを通じて広東核電が探ってみたのか? あるいは広東核電がフラマトムを通じて米国の技術データや文献を手に入れようと画策したのか? そして、G7閉幕と同時にCNNにこの情報がリークされたた意味はなんだろう。

 あー、なんだCNNの誇張報道か、と安心するだけでなく、中国が世界最大の原発大国にならんとしている現状の意味を、いろいろ考えるきっかけにする必要があるのではないだろうか。

■ 隠蔽された大亜湾原発の放射能漏れ事故

 フラマトムはもともと米ウエスチングハウスの技術を導入したフランスの原子炉メーカーだったが、独シーメンスの原子力部門とともに、フランスの原子力総合企業アレバに統合され、「アレバNP」と社名を変更した。だが、2015年にアレバの経営危機により、アレバNPはフラマトムと社名を戻して国営フランス電力会社(EDF)傘下に入った。

 だから台山原発の技術は、米ウエスチングハウス、旧フラマトム、シーメンス、アレバに出資していた三菱重工などの技術を集約したものだといえる。

 2015年にアレバ製の原発圧力容器材質に問題ありとフランス原子力安全省から指摘を受けた際は、台山原発の工事が延期された。この時、一部中国メディアは、中国側が問題を見つけられず、パートナーのフランス側から工事延期を申し入れられたことについて、「安全の確保を外国に頼り切っている」と中国当局に批判的な報道をしている。2017年に竣工して1年試験運転した時には部品の破裂事故があり、それも香港メディアに暴露された。

 つまり、最先端技術の原発を一番乗りで商業運転にこぎつけるも問題が相次ぎ、いずれも外部からの指摘や告発で明らかになった過去がある、ということだ。

 中国側は、第3レベル以下の原発事故は「無傷の事故」であり、国際的に可視化させるのはよろしくない、という立場を表明している。とはいえ、深刻な事態が発生したときに、中国は正しく適時に情報が公開できた試しがない。新型コロナしかり、SARSしかり。

 原発事故でいえば2010年、中国広東省の大亜湾原発の放射能漏れ事故が1年のうちに3度も起きた際もずっと隠蔽し続けていた。このうちの事故の1つは、反応炉の冷却管に3本の亀裂が入ったところにホウ素の結晶ができており、職員が2ミリシーベルトの放射線を浴びるという深刻な事故だった。大亜湾原発は1993~1994年に運転開始となった中国初の外国(フランス)の資金と技術を使って作った古い原発で、最初の商業原発でもある。

■ 世界の原発の大半が中国製に? 

 中国は、こうした隠蔽体質に加えて、過剰な自信が問題だ。

 中国は今年(2021年)3月、自主開発の第3世代原発「華龍1号」をパキスタンで竣工させ、試験運転に入っている。これは中国国産原発の海外輸出第1号で、その後、中央アジアや東南アジア、アフリカなどの途上国に中国製原発を輸出しまくり、エネルギー「一帯一路」を作ろうという野望の第一歩とみられている。

 中国は国内だけでも2030年までに100基以上の原発を稼働させる予定の“原発大国”だが、真の狙いは世界の途上国の原発の大半を中国が造ることで、その国のエネルギー政策に関与していくことだ。

今、石油が国家の命綱であるように、今後、原発がエネルギーの主役になれば、原発技術が国家の命綱になる。つまり、原発事故の処理や廃炉の際に、必要な技術を持っている者がその国の生殺与奪の権を握る、ということになる。

 IAEAによれば2030年までに世界で造られる原発は300基近いと予測されているが、その大方を中国が造る可能性がある、という予測もある。

 華龍1号は、日本の原発エンジニアたちから見ても設計がよくできている、という感心の声を聞く。フラマトムから受け継いだEPR技術と自主開発技術ACP1000を融合させた中国の独自技術は、福建省・福清原発5号機の原子炉にも使われている。

 ただ、これは中国の原発関係者からもよく聞く話ではあるが、設計が素晴らしくても、実際に建設すること、安全に管理すること、そしてトラブルや事故発生時に適切に対処できることはまた別である。それを維持するために膨大な経験と技術の蓄積、人員の育成が必要だが、中国は技術の獲得を追い求めるあまり、後者、特に人材育成が遅れていると言われている。作業員の研修時間が異様に短いことなども指摘されているが、同時に、国家の隠蔽体質、言論統制体質が、現場の風通しを悪くし、いざというときに事態の処理にあたる人材を育てにくくしている。

 こうしたところまで考えると、世界が「カーボンニュートラル」を目指すなら、中国が唯一の原発大国になるシナリオだけはどうしても防がなくてはならない、と改めて気づかされる。

 日本は福島原発事故の不幸な経験からいまだに原発アレルギーが強いが、依然として世界トップレベルの技術力を持ち、しかも「フクシマ50」(事故発生後も原発内に残り対応し続けた50人)と呼ばれた名もなき作業員に代表されたようなハイレベルの人材を育成ができる土壌がある。今回の報道を機に、日本としても原発との向き合い方を考えてほしい。

(引用終わり)

相田英男 拝



[170]フラーの論考を読んで
投稿者:宮林謙吉
投稿日:2021-05-21 09:00:13

相田さんが引用しておられるフラーの論考は、西欧の研究者が日本の研究者や技術者に対して抱く観点を説明したものですが、これは今や日本人研究者の中で科学の真髄に触れた人が中国の研究者の研究スタイルに抱く感想と似ているかも知れません。

中国の研究コミュニティは競争が激しいのか、身につけた技能で可能なテーマに手当たり次第に手をつけ、論文を出版した数を稼ごうとするスタイルが鼻につく研究者が実際にいます。結果を得たときに、ある世界観・自然観に照らして、それらが深まるために役割を果たし得る知見をもたらすかどうかを考慮して研究テーマの選択をする、というセンスが感じられないのですね。文化大革命で、アカデミックな活動をするコミュニティの、ある年代の層がごそっと抜けた断絶の影響であるかも知れません。

その中国は、もう10年以上にわたって、欧米や日本で研究歴があり、ひとかどの仕事がまとまった人を、ポジションを用意して呼び戻すことを続けていますから、サイエンスの研究に臨むときの世界観・自然観を体得した研究者もこれから増えてくることは間違いないでしょう。



[169]村上陽一郎の科学史業績の真髄を、著作物を読まずに解説する(その4)
投稿者:相田英男
投稿日:2021-05-14 13:03:03

さて、以下にフラーの論考の引用を続けよう。

(サイエンス ウォーズより引用始め)

 ここで日本の読者の方々に強調したいのは、西欧においていまだに、科学と技術の間に、大きな文化的な区別があるという事である。もちろん過去150年間にわたって、科学は新しい技術の発展の手段となったし、技術は常に科学的な探求に、インスピレーションを提供し続けてきた。しかし(西欧では)、科学史と技術史はいまだに別物であり、そこで研究に着手する際の動機は、その研究業績が科学史に属するのか、技術史に属するのかを決定するにあたって、最も重要な鍵なのである。

 このことを端的に示すよい例は、98年3月に日本で行われた、科学・技術・社会に関する国際会議である。これは「科学と社会の技術化」をテーマにした、STS(科学・技術・社会研究)国際会議であり、村上陽一郎国際基督教大学教授を運営委員長とし、官・民のさまざまな団体の後援・協賛のもとに東京・広島・京都で開催されたものである。ここで私のような西欧からの参加者は、日本の科学論研究者達がどのように、みずからの研究領域を設定しているのかを知る、貴重な機会を得た。

 私がこの会議で学んだことは、日本の科学論の研究者達は、科学・技術と社会との関係について、西欧の研究者達の「標準的な見解」とは、微妙に異なった方法で理解していることだった。ひとつの明白な例の一つは、日本の科学論者達は、マイケル・ファラデーとトーマス・エジソンの両方を、ほとんど同じような意味合いと意義付けをこめて、「科学者」として論じていたことだった。確かにこの二人には、かなりの面で共通点が認められる。二人とも出身は貧しく、正式な教育はほとんど受けていなかった。しかし、両者はその後に実験研究の道へと進み、電磁気学の領域での輝かしいまでの業績を残した。

 しかしながら、西欧の科学史家達は長きにわたって、エジソンよりもファラデーに対して、はるかに強い関心を示してきた。それゆえに、19〜20世紀の科学の歴史に関する一般書の中では、エジソンの名前は大抵は省略されている。彼ら二人の間には、こうなるにあたって、二つの点での違いがあることが明かとなる。まず第一にファラデーは、自然の中にある根源的な力を推し量りたいという動機に突き動かされていた。この欲求は、彼の宗教的なバックグラウンドから生まれたものであり、このためにファラデーの研究は、エジソンについて知られているような、ほとんど道具主義的で、実用一辺倒の関心の持ち方に比べて、より啓発的と考えられるのである。

 第二に、ファラデーとエジソンの両者は、自らの研究についての詳細なノートを残している。が、ファラデーの記述は方法論について、エジソンに比べてはるかに深く自覚している。ファラデーの記述は、ほとんど「何でもかんでも試してみる」というやり方をとっているエジソンとは、明らかに異なっている。もし自然科学をコント流に、キリスト教の世俗的な後継者であるとみなすなら、ファラデーの示す精神性と規律は、彼を明らかにエジソンより重要な人物であると思わせるのである。

 ここで私が主張する点は、(西欧における)サイエンス・ウォーズや科学論の中で論じられる「科学」の定義は、西欧で科学が発展してきたやり方、すなわち宗教という確立された権威に対する対抗者としての発展、ということに非常に色濃く影響されているということである。その意味において科学論とは、科学の体制派に対して(のみ適応されるのであるが)の、プロテスタント的な(宗教)改革に類するものといえる。コペルニクスやダーウィンを取り巻いた論争が、往時の権威に挑戦した、われわれ科学論者のさきがけとして、心に思い浮かぶであろう。

 にもかかわらず日本においては、コペルニクスの太陽中心説も、ダーウィンの進化論も、紹介される際には、西欧で起きたような大きな抵抗もなく、比較的容易に導入されたのだった。その帰結として、コペルニクスについてのガリレオ、ダーウィンについてのハックスレイのように、人間と世界との間を科学的に関係付けるのか、もしくは、宗教的に関係付けるのかという、どちらかを選択しなければならないと主張し、英雄的立場に立った人々を、日本の科学の歴史では、必要としなかったのである。この点で、明治期における日本が示した西欧科学の選択的な受容過程は、科学の在り方についての興味深い視点を、我々に与えるものである。

(引用終り)

 相田です。正直、私は、上のフラーの文章に強い衝撃を受けた。フラーはここで、欧米の知識人達が、日本人に対し密かに持っている偏見を、あけすけに語っているからだ。日本では、「科学技術」と極めて一般に、幅広く書かれて、言われている。が、西欧では本来、「科学」と「技術」との間には、もっと明瞭な断絶と格差が存在する。その格差について、日本では無自覚である、と、フラーは主張するのだ。

 西欧における科学とは、中世期までのキリスト教の概念を、長い年月をかけて徐々に置き換える事で発展してきた。コペルニクスの地動説や、ダーウィンの進化論が、受け入れられるまでに、長い時期と議論が必要だったのはそのためだ。しかし、日本では地動説や進化論は、殆ど疑いを持たれる事なく、最初から事実だとあっさり認められて、広く普及した。この違いを、フラーは重要視する。

 エジソンは日本では、西洋の偉人の代表として広く知られる人物である。が、欧米において、エジソンは科学者とは認められず、その評価は低い。それは、西欧では「科学」と「技術」の間に、日本人が意識しない、歴然とした格差が存在するからだ。彼の地における科学とは、宗教の世界で議論された考え(神学)を、現実世界の現象に拡張した概念(方法論)である。世の中の役に立つ、立たない、ではなく、方法論をきちんと提示する事が、重要視されるのだ。この点で、何でもかんでも場当たり的に試してみる事で、成果を挙げた発明家のエジソンは、欧米ではあまり評価されていない、とフラーは語る。

 ノーベル賞物理学者の南部陽一郎が、英語でインタビューを受けた際に、「自分が科学に目覚めたきっかけは、子供の頃にエジソンの伝記を読んだから」と語っていた。それを聞いていた、アメリカ人物理学者は「エジソン?そんなのが日本では読まれているのか?」と、怪訝そうに聞き返していた。その訳は、フラーが教えてくれたように、エジソンの業績は、彼の地では、真っ当な科学の成果とみなされていないからだ、と今の私には、大変腑に落ちる。


8.日本の科学者は、カラー道着を着て戦う柔道選手である

さらにフラーの文章から引用を続けよう。

(サイエンス ウォーズより引用始め)

 一般に知られるように、19世紀後半の四半世紀に、明治政府に雇われて教育・研究面での助言を行った西欧人、いわゆるお雇い外国人達は、彼らを雇った側である日本人達とは、異なる目的を持っていた。日本人の側では、いわゆる「富国強兵」に資するような、防衛力増強を中心とした近代化を目的とし、西欧の技術的なノウ・ハウに興味が集中していた。一方で、ヨーロッパやアメリカからのお雇い外国人達は、西欧の科学の発展に不可欠であった文化的な価値、哲学的な体系、そして、政治的なイデオロギーをも分け与えようとした。実際のところ彼らは、西欧固有の歴史が、全人類の進歩のための模範となるようなものを提供できる、と考えていた。(マルクス主義はこの19世紀的な発想を、おそらく最も強く信奉した20世紀の哲学であろう)

 かくして、このお雇い外国人達は、日本における科学の諸制度の確立にあたり、次のように主張した。世俗化したキリスト教的倫理と、唯物論的形而上学により包含された、リベラルな資本主義的民主主義を伴わないならば、これらの研究に関する諸制度は、機能を十分に果たすことはできないであろう、と。

 これに対して日本側は、経済史家であるアレクサンダー・ガーシェンクロンがいうところの、「後進性の相対的な有利さ」を利用した、巧妙なる懐疑主義をもって対抗した。「後進性の相対的な有利さ」とは、経済発展に遅れて参入する者は、先行者の失敗から学ぶことができる。さらには、技術革新を組み合わせて総合し、自国固有の資源からより、効率のいい代替物を見いだすことにより、有利な立場を手にする、という考え方である。

 ガーシェンクロンの考えは、日本の場合には、知的資源および物質的資源の両方に関して、とてもよく適用できると私は考える。日本では、西欧科学の諸概念を翻訳した時に、それらにまつわる、形而上学的な意味合いを削ぎ落とし、より操作的な概念に創り変えてしまった。形而上学的な概念は、ヨーロッパでは何世紀もの間にわたって、深淵だが結論の出そうもない議論の源となり、実験的な自然探求を妨げて来たのだった。

 このことをよく表す例として、ニュートンが「引力」を自然に存在する現実的な力として導入した際に、他の論者達によって、彼が「神の手」を物理学に導入しようとしている、と受け取られたことがあげられる。日本は、このような議論を回避することに成功した。このこために、西欧各国が「科学革命」を成し遂げた10分の一の時間で、科学を基礎とした世界的な五大技術国に成りおおせた、と、みなせる。

 科学革命は、通常は17世紀に起こったとされているが、1898年の時点で、当時科学的に最先端の位置にあった国家であるドイツでさえも、大学で自然科学を学ぶ学生と同数の学生が、神学を学んでいたのだった。それとは対照的に、ヨーロッパの教育に自然科学の導入を遅らせることとなった、宗教的・階級的な障壁は、日本では何の影響ももたらさなかったのだ。

(引用終わり)

 上の引用では、明治維新後の日本が、西欧の知見を導入しながら、近代化に邁進する過程が、西欧側の視点から述べられている。所謂「和魂洋才」として、日本人の誰もが知っている概念ではある。が、与えた側である西欧の知識人から見ると、日本の近代化の過程に、彼らは、相当な違和感を持っている。その事実が、フラーの文からよくわかる。

 引用文中の「世俗化したキリスト教的倫理と、唯物論的形而上学により包含された、リベラルな資本主義的民主主義」という表記は、私の訳も変なのだが、要するに、「科学を正しく学んで身につけるには、神学に基づく西洋の思想的な背景を、一緒に学ばないと意味がない」、ということだ。「お雇い外国人達」は、最初はそのように考えて、日本人を一所懸命に「指導」した。しかし、日本側は、「思想的な背景」などの受容には、全く関心を示さず、目先の知識や技術ノウハウの吸収だけに、ひたすらに、注力したのだった。

 その様子を間近で見ていた西欧側は、「形だけの、単なる知識として “科学” を学んだ処で、意味は無い。こんな調子では、日本に “科学” が根付くことなど、まず無いだろう」と、たかを括っていた。

ところが、だ。

 日本が近代科学を西欧から学んだのは、先生側の西欧の科学の歴史に比べて、あまりにも短い年月だ。その近代国家としては、よちよち歩きだった日本が、名目上だけではあったのだろうが、大国ロシアを戦争で打ち破ってしまったのだ。その結果は、「えっ?まさかそんな!?」と、教えた西欧側の方が、衝撃を受ける程だった。

 神学的な方法論などに目もくれない日本人が、高度な近代技術を使いこなし、大国ロシアと渡り合う事が出来た。この事実は、科学に対する西欧側の認識を、根本から変えるインパクトがあったのだのだ。だから日露戦争は、世界史の重要イベントの一つとして、記録されることになった。「なるほどなあ」と、私は大いに納得した。

 しかし、彼ら西欧人の日本の科学を見る目は、決して暖かくは無い。神との対話の中から、長い年月を掛けて生まれた方法論が、西欧における本来の「科学」である。そのような「歴史と伝統」の裏付けのない「日本の科学」は、西欧人には、何処かズレており、違和感が拭えないものなのだ。

 彼らの日本を見る視点は、例えるならば、白鵬やその前の朝青龍等の、モンゴル人の大相撲の力士達を、「あいつらは、日本の文化と格式と伝統を知らない」と軽蔑し、悪口を言い続ける、相撲ファンのようなものだ。あるいは、だいぶん以前ではあるが、白一色だった柔道の道着が、国際大会ではカラー化された事がある。そのカラー道着を最初に見た際に、我々日本人が、「何か違うよな」と、違和感を抱いた時と同じだ。そのように私は考える。

 西欧の学者達からみると、日本人の科学者達は、カラー道着を着て試合をする柔道家のような物なのだ。そのような色眼鏡を通じて、西欧人は日本の科学者達に接している。この事実をはっきりと教えてくれるフラーに、私は大変感謝する。受け取り方は、各人それぞれであろう。が、調子の良いおためごかしではなく、我にとって苦い真実を、本音で語ってくれる方が、親切ではないか。ライシャワーや、ドナルド・キーンのような、ニコニコ笑う親日家に見えても、本国に戻ると日本人を散々ケナしまくる、性格の悪い外人達とは、フラーは違う。

 さて、フラーの話が長くなった。ここらで、本筋の村上陽一郎に話を戻そう。要するに村上は、フラーが述べるような、西欧人が日本人科学者達に、強い違和感を持つ事実を、正確に知っているのだ。日本科学者達は、西欧からは「あいつ等は、所詮は、本物の科学者達ではない」という偏見で、ずっと見られている。それが「聖俗革命」で村上が、ひそかに主張する、裏の真実なのだ。

 村上が講演会に呼ばれた際に、枕詞として頻繁に話す内容がある。「東京大学は、日本で初めて出来た総合大学ですが、ヨーロッパの大学と比べて、大きく異なる点が二つあります。一つは工学部を主要な学部として、最初から設置したこと、もう一つは神学部を持たなかった事です。当時の大学で神学部が無かったのは、世界中でも東大だけでした」という趣旨の話である。この話の後で、村上は話題を変えて、その日の講演の主題に移るのが定番となっている。

 私は村上が、毎回この話をする理由が、正直よくわからなかった。しかし今では、村上の考えが良く理解できる。というか、これまで引用したフラーの文の中に、村上の真意が、あまりにも明瞭に、語られているではないか。

「日本の科学者達は、大相撲のモンゴル人力士達や、カラー道着を着て戦う柔道家である」

 この事実を理解していること。これこそが、あの、ふてぶてしいまでの、村上の自信の源なのだ。これに対しカッとなり、「お前も日本人のくせに、よくそんな事が言えるな!?」等と、村上を罵倒するのは簡単である。しかし、我々が村上の主張に、論理的に反論するのは、極めて困難なのも事実だ。キリスト教の文化がない国家で暮らす我々には、日本の国教をキリスト教にするしか、方法は無いだろう。残念な事ではあるが。

 さらには、フラーが語る、「日本では、西欧科学の諸概念を翻訳した時に、それらにまつわる、形而上学的な意味合いを削ぎ落とし、より操作的な概念に創り変えてしまった。形而上学的な概念は、ヨーロッパでは何世紀もの間にわたって、深淵だが結論の出そうもない議論の源となり、実験的な自然探求を妨げて来たのだった」という指摘も、極めて重要だ。

 我々技術屋や自然科学者達が、科学哲学やSTS等の、科学論の文献を読む際に、「こんなまどろこしい、意味不明な議論を、科学をネタにしてやる事に、一体何の意味があるのだ?」と、いぶかしく思う事が必ずある。しかし、科学論者達に言わせると、「 ”形而上的な概念” に基づく、抽象的議論を繰り広げる俺達の方が、“西欧の本来の伝統” に従うのだ」という事になる。「俺達の “形而上学的な議論” が、科学に本来あるべき深い背景を与えているのだ」という、強い自負が、科学論者達の心中にはあるのだろう。

 ただし、私のような、何処にでもいる技術屋が、日本の科学論者達の議論を、冷静に眺めると、「あんたら、そんなに立派な事やってるつもりなん?」という素朴な疑問が、頭の中から消えないのも事実だ。

 我々現場の泥臭い技術者達と、彼らとは、折り合いの付かない筈だ。

(たぶん続く)



[165]村上陽一郎の科学史業績の真髄を、著作物を読まずに解説する(その3)
投稿者:相田英男
投稿日:2021-05-13 17:43:50

6.村上陽一郎の業績をざっくりとふり返る

 村上の本を読むのが苦痛とはいえど、何も読まずに村上について、とやかく言う訳にはいくまい。なので今回、彼の弟子の方々によって書かれた、村上の業績に対する論考集である、「村上陽一郎の科学論、批判と応答」(新曜社、2016年)という本を、私は買った。この本に書かれている、村上以外の方々の文章は、読むのに苦痛は感じなかった。おかげで、村上の業績に関する私の理解は、かなり深まった。よかった、よかった。

 さて、この本からわかったのだが、「科学論研究者」としての村上の業績は、大きく3つに分けられるらしい。①「聖俗革命」の提唱、②「科学史の逆遠近法」の提唱、そして③「安全学」の提唱、である。

 長くなるのもアレなので、手っ取り早く説明を進める。③の安全学について村上は、1998年に「安全学」という著作を書いて、話題になった(らしい)。私はこの本を読んでいない。しかし、私は読まないで断言するが、この本で書かれている村上の安全学は、はっきり言ってクズである。論考に値しない駄文である。その理由は簡単で、村上は2001〜2010年まで、原子力安全・保安院の保安部会長であったからだ。当時の原子力安全・保安院は、原発の安全性を管理・統括する国家の最高機関だった。政府は、安全学の第一人者としての村上の力量に期待して、その安全部会の頂点の立場に、村上を招聘したのだ。ところが、運が良いのか悪いのか、9年間務めた安全部会長の任務から村上が外れた直後に、東日本大震災と福島原発事故が起きてしまった。

 村上の提唱する安全学は、日本の歴史上最悪の原発事故に対し、全くの無力だった。その事実が、如実に証明されてしまったのだ。そうだろう?

 村上本人はこの件に対して、後から「慚愧にたえない」とか、「地震に対しては予知できたが、津波については予想するのは無理だった」などと、言い訳を繰り返している。「全くもって、情けないことこの上ない」と、私は思う。

 本来なら村上は、この事実を受け入れて、自分の安全学がなぜ福島事故に役立たなかったのか、その理由を、事故の具体的内容と合わせて、謙虚に振り返るべきである。そして、その反省を加える事で、ブラッシュアップした自らの安全学の研究成果を、新たに著書として発表するべきであろう。しかし、そんなことまで村上は、絶対にやらない。村上の安全学は、所詮は、自分の業績に箔をつけるための、内容の薄いアドバルーンだからだ。

 現実の事故に役に立つとか、役立たないとかは、最初から、村上には関心など無いのだ。「あの先生は安全についても研究して、本を書かれているのか。立派な人だよなあ」と、素人読者を騙せれば、それで良いのだ。

 言い訳にうろたえる村上の様子を眺めながら私は、「神はやはり、世の中の不正をよく見ているものだ」と、しみじみ感心する。

 あと②「科学史の逆遠近法」については、特にここでコメントする必要はない。科学技術の現場に全く関与した事がない、文科系の科学論者達同士の間で、ブツブツと議論していればそれで良い。彼ら以外の周囲には、全く、何の影響も及ぼさない、無意味な考え方である。だからここではすっとばす。

 さて、残る村上の業績は、①「聖俗革命」のみとなった。村上によると、17〜18世紀のヨーロッパでは、学問の考え方に大きな変革が起きた。神の存在を前提とした神学を中心とした学問から、神を必要としない自然科学への変革である。村上はこの変革を、神聖な領域から、人間中心の世俗領域に学問を引きずりおろす行為であるとして、「聖俗革命」と名付けたという。これが村上陽一郎の、科学史家としての最大の成果とされている。(らしい)

 さて、副島隆彦の読者の方々は、この内容をどう考えるであろうか?「どっかで聞いた話だなあ」とは、思わないだろうか?

 私は、副島先生の映画評論で「薔薇の名前」を取り上げた文章を思い出す。あの映画評論で副島先生は、「ルネサンス以降の神学者の中から、コペルニクスやガリレイの発見に触れる事で、神の存在を疑う者達が現れはじめた。彼ら進歩的な神学者達は「宇宙を構成するのは神ではなく、数学に基づく法則である」という考えに行き着き、「神は死んだ」と確信を抱くようになる。この時に科学(サイエンス、近代学問)が誕生したのだ」と明確に述べている。この副島先生の考えは、村上の「聖俗革命」そのものではないのだろうか?

 私は副島先生の著作物は相当に読み込んでいるつもりである。それ程親しくは無いものの、電話で何度も話もしている。しかし、副島先生が村上陽一郎について語るのを、見たり聞いたりした記憶は、私には一度も無い。副島先生の先生は、あの社会科学の泰斗として知られる小室直樹である。副島先生の学問の基礎は小室直樹であり、上の「神は死んだ」の考えも、小室の教えによるものだろう、と、私は自然に考える。

 そもそもが、村上が唱える「聖俗革命」とは、例えばクーンの「パラダイム論」のような、科学史上のグローバルな、重要な新発見と言えるのであろうか?敬虔なカトリックの信者であるとはいえ、日本人で海外留学の経験も殆どない村上が、独学でヨーロッパの古典文献を読み込む事で、ヨーロッパの学者達の誰もが気づかなかった「聖俗革命」の概念を独自に発見した、とでも、いうのであろうか?

 そんな事は絶対にあり得ない、と、私は断言する。

 学問の体系が神学から、神を排した自然科学や社会科学に変化した、等という概念は、キリスト教徒である欧米人達には、ごくごく自然な、単なる常識的な概念に過ぎないのではないのか?アジア人である日本人には、ピンとこないであろうが。

 今回の学術会議問題の最中に、高橋洋一などの体制派の知識人達が、村上の事を「科学哲学の世界的な泰斗」と持ち上げていた。しかし、向こうの一般知識人の誰もが知るであろう常識を、文明周辺国の東アジア人に紹介するだけの作業が、「科学哲学の世界的な泰斗」の最大の業績であるとは、如何なものであろうか?全くもって理解に苦しむ私の方が、頭がおかしいのだろうか?

 とりあえず、村上の業績に対する私の理解は、上記の通りだ。ただし、これだけで済ませられる程、村上は、無能な人物では、流石に無かった。これからが、私の本論考の核心となる(筈だ)。


7. 村上は、欧米科学者達が持つ、日本人科学者達への偏見を、正確に理解している

 村上の研究業績については、ざっくりと概略は理解はできた。しかし私の頭の中は、どうにもスッキリしなかった。村上は、あのように業績内容がスカスカにも関わらず、なぜ、エラそうな態度を、今でも取り続ける事が出来るのか?そんなに彼の本を読んだ訳ではないものの、村上の文章の端々には、何ともフテブテしい自信が見え隠れする。そのように、私には思える。

 村上の、あの、不敵なまでの自信の源は、一体何処から来るのであろうか?

 そんな疑問を頭の片隅に置きながら、ネットを見ていた私は、スティーブ・フラーという科学論者の翻訳文を、たまたま見かけた。それほど長くない文章だった。が、私は直感で、「何かある!」と理解した。その文章には、村上が自分の論考で、極めて回りくどく、勿体を付けまくりながら、長たらしく述べる内容が、極めて簡潔に、単刀直入に語られていたのだった。以下には、そのフラーの文章の、翻訳の一部を抜粋して引用し、内容について解説する。

 村上の業績を解説するのに、外国人の研究者の翻訳文を、長々と引用するのは、倒錯しているとしか言いようがない。が、その方が私には、理解と説明が容易であるため、致し方が無い。私は村上陽一郎の、レトリックまみれの、それでいて、内容の方はスカスカの、独特のエキゾチック文章には、可能な限りもう触れたくないのだ。どうか勘弁して頂きたい。

 そのフラーの文章は、1999年にsocial epistemology(社会認識論)という雑誌に掲載された、”the‭ ‬science‭ ‬wars ‭: who exactly is the enemy?” (サイエンス ウォーズ、真の敵は誰なのか?)というタイトルの論文に、記載されている。フラーは1959年にニューヨークで生まれた学者で、アメリカとイギリスの両方の大学で教えているという。‬

‭ 塚原東吾(つかはらとうご)という、村上陽一郎の数多い弟子のひとりの学者が、この論文の翻訳をネットに挙げている。私はそれを読んで、かなりの衝撃を受けた。ただし、塚原の訳文は、英語が苦手の私から見ても、かなり稚拙だった。引用箇所の一部にもあるが、「19世紀の‬大学では、自然科学を学ぶ学生と同数の学生が工学を学んでいた」という記載が、どうしても私には、不条理に思えて仕方なかった。それで私は、フラーの英文をネットで調べて、確認した。すると塚原訳では、“theology” を“technology”と間違えていたので「ああ、やっぱりな」と、私は納得した。おそらく塚原は、自身ではなく学生に訳させた文章を、よく確認もせずにネットに掲載したのであろう。

 フラーに興味を持った私は、フラーの著書である「科学が問われている」(産業図書、2000年)という翻訳書を入手して、読んでみた。すると、その最初の日本語版への序文の中に、上記の論文の文章が、丸々転載されているのに気付いた。塚原と同じく、村上の弟子筋の4人の学者が訳したその前書きは、訳は大変正確であった。「ラッキー」と私は喜んだが、嬉しいのは最初だけだった。惜しむらくは、その「序文版」の文章は、学術書を気取った堅苦しい表記になっており、私のような一般人には、かえって難解になっていたのだった。塚原版の方が、訳は怪しげなものの、直訳調で、変に表記をこねくり回しておらず、素人にも理解はしやすい文章であった。

 頭を抱えた私は、よくよく考えた末に、塚原(の弟子の学生?)版を基礎とし、訳が正確な「序文版」の文章と比較しながら、下記の引用文をまとめる事とした。一応、原論文の英文も参照はした。内容の大筋は間違ってはいないと思う。

 さて、引用文の中でフラーが語るのは、科学技術に対する、西洋のオリジナルな考え方と、明治以降にそれを移植された、日本人による考え方の違いである。まずは引用する。

(サイエンス ウォーズより 引用始め)

 いわゆる西欧の大学人 – 自然科学者ではない西洋の学者達 – は、一般的に、自然科学に対して二つの見方を持っている。1つの見方は人文学に対応しており、もう一つの見方は社会科学に対応している。

 まず人文学者たちは、技術について、より一般的には、手工業や工芸的な職人的伝統に結びついた知識形態の、広範な文化的意義を理解していない。なので、彼らは自然科学者に対しても「慇懃(いんぎん)なる無視」の形をとっている。今では信じ難いことであるが、ほんの100年前までは、西欧の人文学者たちは、大学の敷地内に実験室ができることを、異様な光景が現れ、騒音や臭いが発生するからという理由で、反対していたのである。

 実際のところこれらの偏見は、1905年に日本がロシアに日露戦争で勝利したこと、そして明治維新政府によって作られた日本の大学には、アカデミズムの中心に自然科学と工学(技術)が置かれていることを、西欧の人々が一般的に知るようになって、初めて実質的に見直された。それにもかかわらず、古くからの人文学的な偏見は、特に政治関係の集団の間では未だに強く残っている。

(中略)

 対して社会科学者達は、一般に自然科学について、社会を合理的に統治するための原則を与えるものとして言及するだけでなく、自らの学問上のモデルを提供するもの、と見なしている。

 ここで、「実証主義」と「社会学」という両方の語を発案し、自然科学が世界の秩序を与える源泉として、カトリック教会に置き代わるべきであると主張した、オーギュスト・コントについて想起するのは、有意義であろう。コントの著作は19世紀初期に書かれたが、科学に対する彼の「神聖不可侵なもの」といった見方は、二十世紀末の今日でも継続している。

 科学社会学の創始者としてしばしば言及されるロバート・マートンは、事実上は一度も、科学研究が実際に行われている現場を観察していない。むしろマートンは、過去の傑出した科学者と哲学者によって与えられた科学という営みの説明を、一般化したのである。しかしこれは、宗教社会学を研究する際に、もっぱら神学者や聖人達の証言のみを根拠としていることに近い。社会科学者にとっては、自然科学の営みについて社会科学的に研究することを伝統的に渋って来た。その理由は、その種の研究から得られる知見が、彼らの「科学者」としての身分そのものに影響を与えかねないからである。

(引用終わり)

 相田です。上の引用文については、そのままの概略を理解していただければ良いだろう。私が最も注目したのは、フラーが日露戦争に触れている箇所である。副島先生がかねてより言われているが、西洋側から見た「世界史」の中で、日本が初めて登場するのは、20世紀初めの日露戦争が最初である。それ以前の江戸時代、室町時代、諸々、における日本の存在は、西欧から全く無視されているという。上でフラーは、その意味を説明してくれているのは、非常に興味深い。日露戦争の日本の勝利は、科学史上においても、エポックメイキングな出来事だったのだ。

 日本の近代科学は、明治維新後に西洋からの指導を受けて広まった。しかし、僅か50年程度の年月により、日本は大国ロシアを打ち破る程の、技術力と産業力を備えるに至った。その事実に西洋側はショックを受けた、とフラーはいう。しかし、これを読んで、「おお、日本がロシアに勝った事が、向こうではそんなに大事件だったのか。思っていたよりも、日本は西洋に評価されているんだな」とか、思った方は、早とちりのし過ぎである。フラーの話は、そんなに日本人に甘くはない。

 もう一つの重要な記述は、オーギュスト・コントの「自然科学が世界の秩序を与える源泉として、カトリック教会に置き代わるべきである」との考えを、フラーが引用している点だ。西欧における自然科学は、宗教に代わる社会規範として広まったという経緯が、重要であると、フラーは主張する。

(続く)



[163]村上陽一郎の科学史業績の真髄を、著作物を読まずに解説する(その2)
投稿者:相田英男
投稿日:2021-05-10 21:38:09

⒋ レトリック(修辞法)の魔術師、村上陽一郎

 村上陽一郎は多作家である。数十冊もの著書を執筆し、今でも毎日新聞に書評を載せている。学術関係者でない一般の人々も、村上の文章に一度は触れた機会があるだろう。大学入試の国語の例題文にも、毎年どこかで、村上の文章が使われているらしい。

 しかし、私は問うが、村上の文書を読んで、その意味がスラスラとわかる一般人が、どれ程いるだろうか?はっきり言って、村上の文章は難解である。今回あらためて、村上のいくつかの論考を読んだ私は、レトリック(修辞法)の存在を強く意識した。村上の文章が難解なのは、内容が高度であるからでは、実は無い。レトリックが多用されているからである。

 具体的には、一般人が誰も知らない、海外の作家や哲学者の名前を、文章中に唐突に入れる、とか、日本語で書くべき用語を、敢えてカタカナの英語(もしくはラテン語)で書く、とか、やたらと長い文節を主語にする、もしくは、文章の途中に長い文節の注釈を入れる、とか、などの、技巧を多用するのが、村上の文章の大きな特徴だ。レトリックを使う技術は、日本の文筆家の中でも、村上は、トップスリーにランクされるのではなかろうか?私が読んだ文筆家では、文句なしに村上がNo.1である。

 レトリックとは、文章を飾るための技術である。文章の細部を “御化粧” する事で、あたかも、内容が深く、高級そうな雰囲気を醸し出すのが、その目的だ。要するに、内容の薄い文章を立派に見せ掛けるために、レトリックは使われるのだ。

 私が論説文を読む際には、これまでレトリックを意識した事はほとんど無い。筆者の主張がどんな内容なのかを理解できれば、私にとってはそれで良いからだ。しかし、村上の文章を読む際には、あまりにも多用されるレトリックが気になり、読み進むことが、私にはなかなかできない。学生時代の私が、村上の文章が苦手な理由が、レトリックが多用されることにあると、今になってようやく気付いた。

 私の学生時代の話だが、昔の知り合いに、ピアノが得意なある女の子がいた。その彼女は作曲家のジョージ・ガーシュインの曲が苦手で、あの独特の和音、というか、雰囲気の曲を聴くと気分が悪くなる、と、かねがね言っていた。ある時、彼女を含むグループで、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を聴く機会があったのだが、彼女は途中で「ダメだ、胸やけと目まいがして耐えられない」と言って、部屋を出て行ってしまった。

 私が村上陽一郎の文章を読む時にも、彼女がガーシュインを聴く時と、同じような気分に陥るのがわかる。村上が何を言いたいのか、さっぱり要領を得ないので、論文や著書の最後まで到達する前に、イライラ感が募って、気力が尽きてしまうのだ。今でもそうである。

 しかし、村上の主張を十分に理解しないままだと、私の村上への批判は、ピントのずれた頓珍漢な内容になり、説得力が失われる懸念も大いにある。何とか、あのレトリックだらけの、膨大な村上の論考集を読まずに、村上の主張の概略が理解できないものか、私は知恵を絞った。

 そんな図々しい事が出来るわけがないと、普通は思うだろう。ところが、だ。たまたま目にした、とある海外の学者の論考を読む事で、村上陽一郎のこれまでの主張の概要が (おそらくは、村上の膨大な論考の80%以上に当てはまるであろう、その趣旨が )遂に、私には、明確に、理解できてしまったのだ。

 その内容は、他の方が村上の文章を読み進める際にも、大いに参考になると私には思える。以下はその、レトリックに満ち溢れる、エキゾチック村上流文章(と、どなたかがネットに書いていた)を、一般の方が読み進める際の、手引き書として書いた内容だ。高校生にもお薦めだと思う。大学入試の論説文に、もしも村上の文章が出たならば、俄然有利になることは請け合いだからだ。


⒌ 村上陽一郎と中山茂

 村上陽一郎は数十冊を越える膨大な著書を出版している。この一連の著作本が、村上の主たる業績といえる。ところが、であるが、意外なことに村上は、博士号を持っていないのだ。その膨大な著作物の一部を抜粋して、博士論文に纏めて提出することなく、村上は研究者としてのキャリアを終えた。博士号を持たずとも、村上は、東大駒場の科学史・科学哲学研究室の教授になり(1986年)、新規に発足した東大先端研究所の所長に迎えられ(1993年)、その後に国際基督教大学の教授(1995年)等を、歴任している。かなり珍しいケースだと思う。

 博士号を取得しなかった理由について村上は、あちこちで言い訳がましい弁解を書いている。学生時代の東大駒場では、科学史の分野で博士号を出せる教授が居なかったから、というのが、その理由らしい。村上以前の科学史の学者達は、物理学や生物学、数学などの専門分野で論文を提出して博士となった後で、科学史に転向した学者が多かった。一方で、東大から海外の大学に留学して、科学史の専門過程で博士論文を書いてPh.Dを取得した学者も、村上の同僚達には多くいる。村上自身も一度、英国の大学に留学する機会があった。だが健康上の理由と、上智大学への助手の席に誘われて、そちらを優先したために留学の機会を失したのだ、と言い訳している。

 ちなみに日本の科学史研究者で、最も由緒正しい経緯で博士号を取得した人物が、中山茂(なかやましげる)である。自伝によると中山は、終戦直接に東大の物理学科に入学して、天文学者の萩原祐介(はぎわらゆうすけ)の下で天文学を学んだ。しかし、萩原のパワハラまがいの指導に嫌気が差した中山は、大学院に進まず、卒業後には平凡社に入社して、出版業界で数年を過ごす。この時期の中山は、科学書の出版作業を手掛けるのだが、執筆を依頼する人物達に、星野芳郎(ほしのよしろう、1922〜2007)のような在野の科学史家、技術史家が多くいた。星野達との交流を通じて中山は、科学史に関する知見を深めてゆく。

 数年間、出版業務を手掛けた中山は、フルブライト奨学制度に応募して採用された。科学史を学ぶために、中山は留学先にハーバード大学を選んだが、そこにいた助手の一人が若き日のトーマス・クーン(1922〜1996)だった。英語の授業に難儀していた中山に、クーンは自分の授業について行けるように、手書きの研究ノートを渡して直接指導してくれたという。クーンの指導のおかげで、中山は落第による留学の打ち切りを免れた。が、本業の固体物理学の論文を全く書かずに、アリストテレス研究等の科学哲学に没頭していたクーンの方が、中山よりも先にハーバードから追放されてしまう。中山を残してハーバードを去ったクーンは、直後に、有名な「パラダイム論」の研究成果を発表して、脚光を浴びる事となる

 クーンがいなくなったハーバードで中山は、中国科学史の大家だったジョゼフ・ニーダムの指導の下で、中国天文学の研究を続けて、日本人のフルブライト生として初めてのPh.Dを取得する事が出来た。帰国した中山は、東大駒場の研究室に助手として迎えられ、天文学と科学史の両方を兼ねて研究をしていた。しかしハーバード流の科学史研究を東大に持ち込もうとした中山の考えは、当時の駒場にいた科学史、科学哲学の研究者にとって煙たいものだった。物理、生物、数学の専門過程から科学史に転向した研究者達から、中山は敬遠され、科学史研究者として東大に残る事を拒絶されたらしい。

 中山自身はこの扱いに抗議して、東大に居座り続けた。しかし中山は、学生への指導も授業も任される事なく、単なる一研究者として、助手扱いのまま定年まで駒場で過ごす事となる。出版業界に詳しい中山は、研究内容を著作として多く出版すると同時に、師であるクーンの代表作である「科学革命の構造」(みすず書房、1971年)を翻訳して、ベストセラーにもなった(この本こそが、かの有名な「パラダイム論」のオリジナルである。この訳本も20刷を越えて重版されている。羨ましい)。このため、中山は万年助手のままでも、収入には苦労しなかったようだ。

 1974年に日本で初めての国際科学史学会が、海外から多くの科学史研究家を招いて開催された。その際に中山のコネを頼ることで、クーン、ニーダム達の著名な研究者を、海外から招く事が出来たという。(ちなみに、病を押してこの国際会議の準備と運営に奔走した広重徹は、学会が終わった半年後に死去している。広重自身は死の間際まで、自らの病が不治であるとは認識していなかったらしい)

 余談となるが、この日本の科学史上の最大のイベントとされる、1974年の国際科学史会議で、取りまとめの中心として活動したのが、今回、右翼にその名が知られるようになった、あの福島要一(ふくしまよういち、1907〜1989)である。国際科学史会議の準備機関である組織委員会の副委員長(4名)の一人が、福島だったのだ。その下に30人いる委員の中に、広重徹と中山茂の名前がある。福島は在野でぶらぶらしながら、学術会議の活動だけに没頭していた訳ではなく、科学史研究家として学会にも参加していた。著作物も福島にはかなりある。学術会議を通じて予算を取ってこれる福島の存在を、科学史学会側も重宝していたのだろう。

 なお、駆け出し時代の村上は、上記の組織委員会のメンバーに名前が見られず、この国際学会には殆どコミットしていない。当時の福島のことを村上は、「大学人でもない素人かぶれが、大きな顔して出しゃ張るんじゃねえ」位に、内心では思っていたのでは無かろうか?この辺りが、今回の騒動で、村上が福島の事を罵倒する要因の一つだと、私は思っている。見掛けの端正な容貌とは正反対の、ネクラの、全くもってしつこい性格である。村上という人物は。

(村上は、「別に私は福島の固有名詞は出していない」などと、ふざけた言い逃れをするのかもしれない。「F氏は伏見康治で、特定政党とは公明党のことだ」と、後から言い出したら笑える。ちなみに伏見は、自分の苗字のアルファベットを“Husimi”と書くので、F氏ではない。どうでもいい事だが。茶化してはいるが、伏見とその盟友の、渡辺慧:わたなべさとし、の二人の物理学者は、フォン・ノイマンに匹敵する能力を持った、数学の達人だった)

 余談から戻ろう。華麗な留学経歴を持つ中山茂を、万年助手として駒場に封じ込める傍らで、東大科学史研究の表の顔として抜擢されて、活躍したのが村上陽一郎だった。但し、東大以外の一部の学者達からは、村上が東大の科学史研究の代表だとみなされる風潮を、疑問視する意見も、影ではあったようだ。グローバルな経歴からは、村上よりも中山の方が、圧倒的に格上なのは明らかだからだ。

 私自身は、中山によるクーンの訳本は読んではいない。が、中山が主催して、トヨタ財団の支援を受けながら、発刊にこぎ着けた「通史 日本の科学技術(全四巻)」(学陽書房、1995年)(以下は「通史」)は読んだ。「通史」は、日本の科学史研究が誇るべき金字塔の一つだと思う。広重の「科学の社会史」の内容を、ブレイクダウンして詳述する目的で、中山は「通史」を企画して纏めている。個人が手元に置くのは少々大変であるが、「通史」は、日本の理科系研究者の必読書の一つであると断言出来る。

 村上の一連の著作物の方は・・・私には、どうにも読む気が出ないため、コメントのしようがない。

(続く)



[162]村上陽一郎の科学史業績の真髄を、著作物を読まずに解説する(その1)
投稿者:相田英男
投稿日:2021-05-05 15:52:20

⒈ 初めに

 昨年、2020年の秋、菅義偉政権の発足直後に騒ぎとなった、日本学術会議の6名の学者達への任命拒否の問題は、私にも意外すぎる出来事だった。あそこまでまでの世間の関心を呼ぶとは、予想も出来なかった。事態が落ち着き、忘れ去られかけている今になっても、一般の大多数の人々にとって、日本学術会議とは、よくわからない不可思議な団体としか思えないだろう。「普通の学会と何が違うのだ、なぜ菅政権が目の敵にするのだろうか?どうして、共産党を始めとする、左翼政党の政治家達は、名簿通りの任命実施を訴え続けるのだ?」という疑問が消えないだろう。「こんな問題をいつまで国会で取り上げるのは、さっさとやめて、コロナウィルス対策の議論をしろ」と言われるのも、当然だとは思う。

 私の日本学術会議に対する個人的な考えは、「現状では存在する意味は全く無い。なので、今すぐにでも菅政権により解散、消滅させられても、何ら支障は無い」だ。

 しかし、である。

 戦後の原子力問題の歴史を調べて、本まで出させてもらった私には、よくわかるのだが、1949年の発足直後の日本学術会議は、極めて重要な役割を持っていた。日本の主要な科学技術政策の全てを、学術会議の場で審議して承認を得るという不文律が、存在していたからだ。国家の学術方針を、学者自身が選んだ代表が議論して決定することが、本来の学術会議の役割だった。

 政府に対する要望書を作成して提出するだけが、学術会議の役割ではなかった。発足時には極めて重要な役割を負っていたその団体が、何故、今のような体たらくになってしまったのか?「あんな組織は最早、時代遅れの遺物にすぎない」と、潰してしまう前に、その理由をきちんと総括するべきだと、私は思う。


⒉ 学術会議の意義を説明できるのは科学史家である

 学術会議は、要するに学者の集まりに過ぎないのであるが、「左翼の巣窟だ」とか、「終戦直後にGHQの横槍で出来た」とか、「中国政府と裏で繋がっており、貴重な日本の最先端技術を横流ししている」とかいった、怪しげな憶測がネットで飛び交い、大いに盛り上がった(これらの指摘の幾つかは、私自身が以前に、自著やネットで書いて広めた事でもあるのだが・・・)。今の世間では、「学術会議は反体制の極みである」というような雰囲気が形成されている。確かに、単なる学術組織にしては、理解し難い点が多いのは事実である。現役の学術会議の会員達や、元会員であっても、一般の方々に、学術会議について納得できるような、平易な説明をできる人物は、殆どいないのではなかろうか?

 学術会議の位置付けと役割について、正確に理解するには、科学史の文献を読むしか無い。具体的には、広重徹(ひろしげてつ、1928〜1975)という科学史家が書いた「科学の社会史」と「戦後日本の科学運動」の2冊が重要だ。加えて中山茂(なかやましげる、1928〜2014)という、広重の友人だった学者がリーダーとなってまとめた、大作論文集である「通史 日本の科学技術」(全4巻)も役に立つ。1949年の発足から、1980年代に会員選抜方が推薦式に変更されるまでの経緯が、詳細に書かれている。これらは、学術会議を理解するためのバイブルと呼べる文献だ。

 科学史という学術分野についてもまた、一般の殆どの方々は、関心など持たないだろう。科学史とは文字通り、科学の歴史について調べる学問である。ニュートンがどうしたとか、アインシュタインがどうした、とか、マンハッタン計画で原爆が開発される経緯がどうだ、とかいう内容を調査して、まとめる研究である(物理科学史の場合は)。

 日本には日本科学史学会という専門の組織がある。しかし、その学会に所属する大学の先生達だけが科学史家だ、という訳ではない。広くは、広瀬隆や竹内薫(たけうちかおる)といった技術評論家も、科学史家に含めて良いと思う。さかのぼると、武谷三男や、高木仁三郎、宇井純(ういじゅん)等の環境問題の活動家達もそうである。

 1974年に、日本で初めて開催された国際科学史学会では、日本側の学会代表として、晩年の湯川秀樹が登壇して挨拶をしている。片や湯川のライバルだった朝永振一郎は、「量子力学 Ⅰ、Ⅱ」という有名な教科書を書いている。その前半の「量子力学 Ⅰ」で朝永は、プランク、ボーア、ハイゼンベルクによる量子論の形成過程について綴っており、本格的な科学史の解説本としても読める内容となっている。70年安保闘争時の、東大の全共闘委員長だった山本義隆(やまもとよしたか、1941〜)は、釈放後に在野の科学史研究者として、ラグランジュやハミルトンなどの解析力学の歴史について、詳細に調べて本を書いている。
 
 このように科学史家として活動した方々には、意外にも、一般世間に名の知られた人物が、多くいる事がわかる。

 ここで、まぎらわしいのだが、科学哲学という名前の分野が別にある。科学史は広い意味での「歴史学」に含まれるが、科学哲学は「哲学」の派生分野の一つである。科学そのものの結果では無く、科学者達が考える思考方法や、認識論といった課題が、科学哲学の研究対象となる。科学哲学の文献には、カール・ポパーとか、トーマス・クーンとか、ファイアアーベントとか、ウィトゲンシュタインとか、ウィーン学団とかの、我々理科系人間から見ると馴染みの薄い、浮世離れした哲学者達が活躍する世界に見える。

 近年になり、国内外の物理学者達から、「科学哲学の扱う内容は、無意味な、単なる空想の積み上げに過ぎず、あんなものは学問とは呼べない」、という批判の声が挙っている。一例として「科学を語るとはどういうことか?」(須藤靖、伊勢田哲治、河出書房、2013年)という本を参照されたい。

 さらに加えると、科学技術社会論(science technology society, 以下はSTS)と呼ばれる研究分野が、また別にある。こちらは、科学技術が一般の人々の生活にどれほど役立つのか、科学と社会との関係はどのようなものか、といった内容について調べる分野である。

 このSTSについて記すべき点の一つは、STSとは科学に対する否定論(反科学運動)ではないのか、という根強い批判が、一部の自然科学者達の中にあることだ。これについて、北海道大学の数学者である北村正直(きたむらまさなお)氏等が、次のように主張されている。STSは、70年代後半から80年代に掛けて欧米で広まった研究分野である。STS研究の中心は、60年代末から70年代初頭に掛けて、世界中で盛んだった学生運動に破れた、新左翼系の学生達だという。大学に研究者として残った彼ら知識人の一部は、ポストモダニズム(脱近代主義)的な教義を掲げて、科学的知識の追求は欧米国家による物質文明化と覇権の維持に繋がるものと見做し、反科学、反理性的な講義や研究を行っていた。STSはアメリカのそのような流れの中で生まれて、発展した研究分野であるらしい。

 1996年にアラン・ソーカルという理論物理学者が、ポストモダニズム系の「ソーシャルテキスト」というアメリカの論文雑誌に、難解な物理の専門用語をちりばめた思想論文を投稿し、その特集号(題目は"Science Wars")に掲載された。しかし、直後にソーカルは別の雑誌の中で、掲載された自らの論文の内容が全くのデタラメであると公表し、大騒ぎとなる。このいわゆる「ソーカル事件」については、覚えている方も多いだろう。この時にソーカルが喧嘩を売った相手は、物理学の先端知識や用語を生半可に使うことで、偉そうに振る舞う(とソーカルに思えた)STS研究者達であったのだ。このことは、日本ではあまり知られてはいない。

 さて、大変話がややこしくなったが、ざっくり説明すると、科学史が「歴史学」、科学哲学は文字通り「哲学」、STSは「社会科学」に、それぞれ属する研究分野らしい。この科学史、科学哲学、STSの三つの分野を合わせて「科学論」という総合分野になるという。数学を(あまり)使わない文科系の研究者達が、科学のなりたちについて研究する、このような分野が存在するのである。

 それで、ようやく本題にはいる。上記のいわゆる「科学論」の全般において、1970年代以降の日本の中心人物と見做されてきた学者が、村上陽一郎(1936〜)である。村上は、東大生が最初の教養過程で過ごす場所の駒場キャンパスにある、科学史・科学哲学の研究室に長くいた。小谷野敦(こやのあつし)という、東大出身の作家の方によると、東大駒場学派と呼ばれる、文科系エリート学者、兼、作家達の集団があり、村上陽一郎はその一員であるという。

 見かけが若造りで男前である、とか、チェロのアマチュア奏者であり音楽の造詣が深い、とか、美智子妃元殿下と知り合いであり、村上が参加するアマチュアオーケストラの演奏会に美智子妃が来られた、等の、学問の業績に全く関係ないエピソードも、村上には何故か豊富である。先に書いた広重徹と中山茂の二人は、村上の一つ上の世代の科学史家である。その更に上の世代が、武谷三男(1911〜2000)達となる。


⒊ なぜ私は、村上陽一郎を恨むことになったのか

 ここから私の個人的な話をする。以前の西村肇先生(1933〜)の「自由人物理」の感想で私は書いたが、高校時代の私は実は、数学や理科が得意ではなかった。現代国語や社会などの文系科目の方が、理数系の科目よりもテストの成績が良かった。共通一次試験の社会の科目に、理科系クラスの誰もが敬遠した世界史(暗記する内容が地理、政経よりも段違いに多い)を、私は学年で一人だけ選択した変人だった。その数学の苦手な私が、無謀にも、大学の理科系学部を受験するのを知った高校の世界史の先生は、私に、「相田君は歴史が好きみたいだから、大学で科学史を勉強したらどうですか?あれは、そんなに数学とか勉強しなくてもいいでからね」と、ありがたくも助言してくれたのを、今でも覚えている。

 前述の感想文に書いた通り、入試の際の無謀な選択のせいか、私の物理学者になるという夢は、大学2年生の早々に挫折した。「やっぱり物理のプロになるのは、自分にはきついな」と実感した私は、世界史の先生の言葉を思い出し、教養学部にあった科学史の講義を見つけて、受けてみた。その科学史の講義で渡された教科書が、村上陽一郎の単行本だった。書名は忘れた。しかし、日本の科学史界の第一人者という触れ込みの、その学者が書いた本は、私にはあまりにも難解だった。難解というよりも、文章の表現が、あまりにもまどろこしすぎて、著者が一体何を主張したいのか、私の頭に全く入ってこなかった。

 苦痛を感じながらしばらく頑張ったものの、その本を最後まで読み通す事が、私には遂に出来なかった。

 その時に私は思った。「科学史という世界が、こんなにも意味不明で、抽象的な文章を読み続けなければならないのなら、自分にはとても向いていない。こんなしょうもない本に時間を使うくらいなら、物理の難しい参考書を読む方が、きつくてもまだましだ」と。

 心底から、その時の私は、そう思った。

 ついでに書くと、当時、自分の下宿先で眺めるだけだった、山内恭彦の「一般力学」や、久保亮五の「演習 熱学・統計力学」等の、専門教科書の難解さに手を焼いていた私は、「村上陽一郎の本が理解できないのは、自分の頭が悪くて文章読解力が足りないからだ」、とも、愚かにも硬く信じ込んでいた。「ああいった、抽象的で、思わせぶりな描写が多用されるのが、高度な内容の文章に違いない」と、未熟な私は思っていた。

 それから30年程の時間が経ったのちに、私は広重徹という人物の存在を知った。「物理学史 Ⅰ, Ⅱ」という、日本科学史界の後世に残る名著を残した広重の、幾つかの論考に目を通した私は、広重こそが、大学時代に私が学びたかった科学史家そのものである、と気付いた。一般の方々にとって、広重徹などは、全く関係ない存在だろう。が、物理を真面目に勉強した経験がある者にとって、広重が残した一連の著作物は必読である。科学(物理学)を愛し、科学が生み出す問題や矛盾に対して逃げずに向き合い、それを乗り越えるための方法を模索し、終生悩み続けた人物。それこそが、広重徹である。

 ただし、私がそれに気付くのは、あまりにも遅すぎた。

 広重を知った私は、「科学史の第一人者として、巷で認められている村上陽一郎とは、一体何なのだ?あんな人物が、どうして、大知識人として世間では賞賛されるのだ?」という疑問を抱かずにはいられなかった。そんな考えを、頭の中でひきづる中で、学術会議の任命拒否問題が起きたのだった。

 私は先に書いたように、学術会議を終わらせる前には、その意義と問題点について正しく考察し、記録を残すべきだと考えてきた。その役割を果たすのは、当然ながら科学史家達であろう、とも思った。科学史家は、前述の広重徹や中山茂たちの文献を読み込んでおり、学術会議がこのようになった経緯について、熟知しているからだ。そう思っていた私にとって、村上陽一郎がネットの文章に書いた、「学術会議と特定政治勢力(明らかに“共産党”と明記しない村上の書き方が、なんともイヤらしい)との深い関係」を強調する文章は、極めてショックだった。

 私には、科学史の大家と呼ばれた人物の主張とは、到底信じられなかった。村上は、学術会議という組織が、かつては、ごくごく短い間ではあるのだが、日本の科学体制の中心だったという事実の重みを、全く感じていないのは明らかだった。広重徹や中山茂が生きていたら、当時するであろう主張と、村上のコメントは、あまりにもかけ離れていた。

 私は村上陽一郎の対応に、激しい怒りを感じた。村上があのように書くことで、彼より若い弟子筋の科学史家達は、表立って学術会議を擁護することを、ためらうであろう。だから私は、ささやかではあるが、村上陽一郎の対応を全面的に批判する事を、今回決意した。

(続く)



[159]あんましウソ技術を広めるんじゃない
投稿者:相田英男
投稿日:2021-04-23 23:07:46

 相田です。

 私には、懐かしい味わいを感じる記事だ。でも、内容を良く読むと、脱力でげんなりしてしまう。

(引用始め)

核融合炉は日本では「次世代原発」として語られることが多いが、電力供給が止まれば反応が止まるため、従来の原子力発電に比べれば安全性は非常に高く、廃棄物も出ない。

(引用終わり)

 本気でこのように思っているのなら、筆者は完全に頭がおかしい、としか言えない。そうではなく、単に勉強不足なのであろうが。

 日本の核融合研究のメッカは、茨城県にある旧原研の那珂(なか)研究所である。イーター(ITER)という国際核融合実験炉を誘致する際に、実際に那珂研で核融合反応を起こしたらどうなるか、検証した。すると、D - T(デュユートロン:重水素 - トリチウム:三重水素)反応で生じた14MeV の高速中性子が、住宅街を突っ切って太平洋までバンバン到達してしまう、と、計算でわかったのだ。これではアカン、と、那珂研への誘致をやめて、六ヶ所村に切り替えた、という関係者達の逸話がある。結局イーターはフランスに行ってしまったが。私は大変セイセイしたよ。

 Googleマップで、那珂研と太平洋の位置関係を調べてみれば良い。核融合炉が稼働すると、その範囲全てが、大量の高速中性子にさらされるのだ。高速中性子は電荷を持たないので、物を置いて遮蔽する術(すべ)が無い。D - T反応タイプの核融合炉が稼働すると、その周囲に、JCO臨界事故の騒ぎとは比較にならない、桁違いの中性子による被曝を巻き起こすのだ。それが核融合炉の実態だ。少し頭を使えば、誰でも気づくのだが。

 そんな話は、少し前の技術者達は皆常識で知っていた。だから日本では核融合研究は廃れたのだ。Googleだろうがアマゾンだろうが、大金をいくら積んで研究しようが、自然界の摂理そのものは変えられない。素人投資家達からあぶく銭を巻き上げるための、ウソ技術として、核融合研究が吹聴されているのだ。

 勝手にやって、踊っとれ。アホども。

(引用始め)

次世代技術「核融合」、欧米と日本でこんなに違う扱い
4/19(月) 11:00配信 日本経済新聞

 米グーグルのほか、アマゾン・ドット・コム創業者のジェフ・ベゾス、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが出資するのが、次世代原発の1つの形態である核融合炉開発だ。従来型の原発に比べて安全性は非常に高く、廃棄物も出ないが、日本ではこの技術を手掛けるベンチャー企業の境遇は厳しい。欧米と違って投資家の動きが鈍いからだ。

 ドーナツ形の真空容器の中に、セ氏1億度を超える超高温の重水素と放射性物質であるトリチウム(三重水素)を閉じ込め、原子をくっつけることでエネルギーを生み出す――。ここで起きているのは地球と1.5億kmも離れた太陽の内部で起こっているのと同じ反応だ。酸素がない宇宙空間で生じている反応であり、もちろん二酸化炭素(CO2)を排出しない。そんな太陽と同じ反応を地上で再現するのが核融合炉だ。

●グーグルやアマゾン創業者が出資

 米グーグルのほか、アマゾン・ドット・コム創業者のジェフ・ベゾス、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが出資するのが、次世代原発の1つの形態でもある核融合炉開発だ。核融合炉は日本では「次世代原発」として語られることが多いが、電力供給が止まれば反応が止まるため、従来の原子力発電に比べれば安全性は非常に高く、廃棄物も出ない。

 この分野の研究は、日米中韓、欧州連合(EU)、インド、ロシアの7国・地域が共同で進める国際熱核融合実験炉(ITER)が約20年前に着手した。しかし、国家間の調整が進まないことからプロジェクトの進捗が遅れている。こうした現状を横目に、盛んになっているのが民間企業の動きだ。ここ数年で欧米中心に40~50社の関連企業が生まれている。

 「核融合発電に必要な機器を作ってくれないか」。欧米の核融合炉関連企業からそうした引き合いがくるのが、2019年10月に設立した京都大学発のベンチャー、京都フュージョニアリング(京都府宇治市)だ。核融合炉は、プラズマの中で核融合反応を起こす過程と、そこで発生する熱を取り出す過程から成る。京都フュージョニアは後者で利用する機器に不可欠な独自技術を持ち、共同創業者の小西哲之・京大エネルギー理工学研究所教授の研究成果がベースになっている。

 グーグルが出資する米TAEテクノロジーズやゲイツが投資する米コモンウェルス・フュージョン・システムズは数億ドルレベルの資金を投資家から調達している。一方、京都フュージョニアは累計調達額が5億円程度にすぎない。調達資金の規模には2ケタの違いがある。

●「海外ではチャンスでも日本ではリスク」

 背景にあるのが、重厚長大産業のベンチャーが育ちづらい日本の土壌だ。米国では電気自動車(EV)メーカーのテスラを筆頭に重厚長大産業で新しい会社が生まれているが、日本市場に目を向けると主要プレーヤーの顔ぶれはここ数十年代わり映えがしない。

 「海外ではビジネスの種と捉えられても、日本ではリスクとしかみられない」と京都フュージョニアの長尾昂CEOは嘆く。実用化は「50年以降」(小西氏)とみられている核融合炉。たしかに設立数年で大きな売り上げ、利益を上げるのは難しい。それが、米国では助走期間と解釈してもらえるのに対し、日本では「なかなか収益を上げられない会社」と見られてしまう。

 現状では、核融合を手掛ける多くの欧米企業は多くが最終製品メーカーであるため、技術が実用化されなければお金にならない。それに対し、京都フュージョニアはそれらのメーカーに機器を販売するBtoB(企業向け)事業を手掛けるので、実用化以前でも売り上げは立つ。それでも、日本で活動していると投資家の目は厳しいのだという。

●民間の動きが鈍い日本

 これと似た現象が先行して起きているのが宇宙産業だ。米国の宇宙産業は当初、国が主導して進められていたが、近年では専門のベンチャー企業が生まれ、IT関連企業との連携も進み、民間主導へ移行した。一方、日本では宇宙航空研究開発機構(JAXA)を中心とする国主導の形態は変わらず、米スペースXのような中核企業は育っていない。日本の宇宙産業の市場規模は数千億円。米国と比べると2ケタ違う。民間の動きは鈍い。

 エネルギーの分野は日々革新が進む。ただでさえハードルが高い2050年のカーボンニュートラル(炭素中立)を実現するには、イノベーションや大規模な資金は欠かせない。日本の産業界、投資家が及び腰のままでは、世界競争の中での成功はおぼつかない。

 「脱炭素」に関して、日本の政府が企業の研究開発を支援するために創設した基金は、今後10年間で2兆円だ。4年間で2兆ドル(214兆円)を投じる米国や、約30年間で水素戦略だけで4700億ユーロ(約60兆円)を投じる欧州連合(EU)に、大きく水をあけられている。

 もっとも、国が巨額を投じるだけではイノベーションは生まれない。国が新たな市場の立ち上がりを支援しながら、米国のように民間企業に資金が回るような土壌づくりが不可欠だ。

中山 玲子

(引用終わり)

相田英男 拝



[154]何でも書けばいい、ちゅうもんでは無かろうが
投稿者:相田英男
投稿日:2020-12-10 16:57:38

相田です。

 学術会議をめぐる論考については、マイナー過ぎる団体ではあるし、創立当時の昔の話も、調べるのが大変だろう、とかも思うので、多少は変な主張でもしょうがないと、私は見ていた。しかし、先日ネットに載った下記の論考は、内容のあまりの薄さに、読みながら目眩を覚えずにはいられなかった。

 いくら何でも、これは無いだろうと、私は思った。

 論者は一応、名のある大学のシンクタンクに席があるようだ。が、この記事を書くために彼が読んだ学術会議に関する文献の量は、私が読んだ文献の10分の1に満たないだろう。そうでないと、下記のような情け無い内容にはならない。

(引用始め)

 具体的にケリーが手掛けた仕事は、第1に、日本の科学者に各自の研究を毎月報告させ、日本の研究を常時監視し、純粋な民生技術以外は潰した。この報告に嬉々として協力したのが、学術会議会長を務めた茅誠司らの3人の科学者である。彼らは三銃士と称し、誇らしげにケリーに協力した。

(引用終わり)

 相田です。茅誠司が学術会議会長だったのは、流石に論者も知っているようだ。が、茅が60年安保闘争の際の東大の総長だった有名な事実を知っているのか?小さな親切運動の提案とかも含めて。

 茅誠司は東京工業大学(旧蔵前)を卒業して、東北大、北大を経て、東大の物理の先生になった。東大の生え抜きではない茅誠司が、総長になった理由は何か?当時の東大で最も大きな権力を持っていたのは、学術刷新委員会の委員長も務めた、機械工学者の兼重官九郎(かねしげかんくろう)だった。その兼重を差し置いて、外様の茅誠司が総長になった理由は、茅がケリー等のGHQ側と粘り強く交渉して、日本の科学技術の低下を最小限度に留める事に尽力したからだ。左翼ではなく、体制側(日本政府)から茅誠司は、絶大な信頼を得ていたのだ。

GHQの一部のメンバーは、モーゲンソー・プランと呼ばれる、日本から重工業産業と科学力を取り上げて、スイスのような農業国に変えてしまえ、という考えを本気で持っていた。そうならないように、ケリーと接触して説得し続けたのが、茅誠司達の本当の成果なのだ。

 論者の引用箇所では“三銃士”とされているが、通常の科学史の文献では“三人組”とされる。右翼系の論考では“三銃士”と書くのかどうか、私にはわからんが。そこには茅に加えて、田宮博(生物学者)と嵯峨根遼吉(さがねりょうきち、物理学者)が入っている。嵯峨根遼吉は物理学者の長岡半太郎の末子である。嵯峨根もまた、重要人物だ。

 嵯峨根は東大を卒業後に、アメリカの加速器技術の大家であるアーネスト・ローレンス(確かノーベル賞受賞者の筈)の元に留学して、最先端の実験技術を学んだ。帰国後に嵯峨根は、理研の仁科芳雄が作ったサイクロトロンの実験に尽力した。それに並行して、海軍の技術士官だった伊藤庸ニ(いとうようじ)の呼び掛けに嵯峨根は応じて、戦時中は海軍の電波兵器やレーダー開発にも、積極的に協力した。

 しかし、戦時体制中に思うような研究が出来ずに、忸怩たる思いを重ねた嵯峨根は、戦後には科学者達自身がイニシアティブを取り、大型研究を積極的に推進すべきと考えた。戦前の古臭い硬直した学術体制を打破するために、嵯峨根はケリーに協力したのだ。ネイティブ並みに英語が達者な嵯峨根を、茅誠司は頼りにしていたらしい。

 ところが何と、その学術会議発足時の総選挙では、嵯峨根はあえなく落選してしまう。茅誠司以外の、学術刷新委員会の多くの関係者達は、左翼学者達の人望がなかったため、落選の憂き目にあった。

 あの兼重官九郎でさえも、最初の選挙では落選したのだ。次の選挙で返り咲いた兼重は、茅誠司に続いて学術会議の会長に就任し、学術会議が持っていた権力を切り離して、政府側に移す事に尽力した。茅と兼重の尽力の結果、学術会議は、政府に提言するための、強制力のない単なる暇な学者達の集団と化したのだ。以降は、共産党の学者達が集まっても、「ガス抜きのために言いたい事だけ言わせておけ、別にあいつらの話を聞く必要など全くないから」というスタンスで、政府は学術会議に対応する事が出来た。これが真相だ。
 
 さて、学術会議で活躍する機会を奪われた嵯峨根は、再度アメリカにわたり、カリフォルニアのローレンスの研究所で研究を行っていた。が、折を見て、日本からやっ来た要人達を研究所に招待し、最先端の原子力技術をPRしていた。その要人の一人が、若き日の中曽根康弘だったのだ。嵯峨根の説明を受けた中曽根は、それからしばらくして、国会に、かの有名な原子力予算を提案する。学術会議の夢が破れた嵯峨根の執念が、日本を原子力開発に駆り立てる結果となった。

 とか、色々と知って、考えると、だな、茅や嵯峨根が、GHQの走狗となって日本の共産主義化に協力した、などという考えが、大きな間違いであると容易にわかるだろう。戦後に、左翼学者達のカリスマとして君臨した、物理学者の武谷三男は、茅誠司と嵯峨根遼吉のコンビを「政府の犬」だと、蛇蝎の如く嫌っていた。武谷のエッセイの至る所に、茅と嵯峨根への文句が出てくる。

 なので、私から見て下記の話は、どう考えても矛盾だらけである。

 論者の勤務先は、日本でも有数の資金を持つ大学のようだが、少しは、学術会議についての蔵書を調べてみるべきではなかったのかねえ?ドローンの話だけで世の中の問題が全部片付く訳じゃないよ。

 池田信夫が、デタトコショウブでブログに書いた文章を参考にするから、こんな薄っぺらい内容になるのだ。

 プレジデントオンラインも、素晴らしいメディアであると、改めて認識出来た。こんなんで許されるんだ。みんな読者を舐めてるよ。

 珍しい記録として、記事を残しておく。

(引用始め)

学術会議の腐敗に、科学者みんなが困っている
12/9(水) 9:16配信 プレジデントオンライン

■学術会議にかけられたGHQの呪い

 今や軍事武装ドローンを持っていない軍隊は、北東アジアではモンゴル軍と自衛隊だけ。中国は言うに及ばず、韓国軍や台湾軍にすら劣後している。

 この一因として、戦略環境変化を認識できず、20世紀の工業化時代の発想に多くの日本人がとらわれていることが挙げられる。その元凶になっているのが、今話題の日本学術会議である。

 この学術会議は1950年の声明以来、一貫して軍事研究の禁止を訴えているのだが、実はこの組織自体が、GHQによる日本非軍事化のためにつくられたと言っても過言ではない。まるで小野田寛郎元少尉のように、失われた司令部からの命令を後生大事に、この弧状列島で守っているのだ。

 経緯を説明しよう。GHQの当初の政策は、軍事的に日本を無力にしつつ、復興に必要な民生関連は残すという方針を掲げていた。

 例えば、GHQは日本占領開始とほぼ同時に原子力・レーダー・航空機といった軍事研究を禁止し、軍事研究と判断した施設はすべて破壊し、組織を解体した。一時は理化学研究所ですら解体されそうになった。学術会議の創設はこの流れの中にあった。

 46年1月、ハリー・C・ケリー博士が赴任してくるのである。彼は原子力などを研究する物理学者であったことからも明白なように、日本の原爆開発を筆頭とする軍事研究の調査・監視・評価・判定・解体を主任務としていた。

■純粋な民生技術以外は潰した

 具体的にケリーが手掛けた仕事は、第1に、日本の科学者に各自の研究を毎月報告させ、日本の研究を常時監視し、純粋な民生技術以外は潰した。この報告に嬉々として協力したのが、学術会議会長を務めた茅誠司らの3人の科学者である。彼らは三銃士と称し、誇らしげにケリーに協力した。

 第2は軍事研究施設の解体で、東大航空研究所の航空機開発用風洞の解体はその典型である。

 第3は、こうして収集・分析した情報を元にした、GHQの科学政策への助言である。

 そして、最後がケリーのもっとも大きな仕事となる学術体制の刷新であった。彼は着任早々の46年の春前から東京帝国大学教授であった、先の三銃士と接触し、彼らに科学者が現実の社会問題に貢献し、活動するための民主的な組織をつくるべしと促した。ケリーとこの三銃士を中核とする集団は、科学渉外連絡会を設置し、そこが準備の中核となり、47年8月、内閣臨時機関の学術体制刷新委員会が設置され、ここが学術会議の創設を提言した。

 そして、49年に学術会議が創設されるのだが、この一連の流れにケリーは深く関与した。三銃士ら科学者に新組織の理念・方向・あり方を指導したほか、刷新委員会では、所属するGHQ経済科学局を代表して演説を行い、会議がそれに対する答礼の決議をわざわざ行うなど、大きな影響力を発揮した。それは学術会議の第1回選挙の開票・集計作業に立ち会っていることからも明らかである。

 そして、発足から間もない50年4月に軍事研究禁止声明を出すのである。その2カ月後、朝鮮戦争が勃発し、GHQの政策は逆コースと呼ばれる、日本の再軍備へと路線を180度転換した。その意味で、学術会議の声明は、GHQによる日本の非軍事化政策の最後の象徴だったのだ。

 さて、今日。いまだに学術会議は2015年の新声明でも、この方針を継承している。ケリーの命令を70年も守るという、小野田元少尉も驚愕の墨守である。

 しかしながら、今やドローン、3Dプリンター、サイバーと民生技術が軍事技術を上回る時代である。そもそも軍事技術が単独で成り立ちえたのは、人類史上のまばたきのような近代の一時期だけである。

 しかも学術会議の姿は、当初ケリーらが目指した、科学者が自由かつ進歩的に現実の社会問題に貢献するという理想像からかけ離れているではないか。事実、ケリーは来日するたびに学術会議の腐敗を悲しみ、嘆いていたという。この機にすべてを見直すべきだ。


部谷 直亮(ひだに・なおあき)
慶應義塾大学SFC研究所上席所員
一般社団法人ガバナンスアーキテクト機構上席研究員。成蹊大学法学部政治学科卒業、拓殖大学大学院安全保障専攻博士課程(単位取得退学)。財団法人世界政経調査会 国際情勢研究所研究員等を経て現職。専門は安全保障全般。

(引用終わり)

相田英男 拝



[153]みんな、知ってて気づかないフリをしてるんだ。悪い奴らばかりだ
投稿者:相田英男
投稿日:2020-11-20 12:26:27

 相田です。

 今回の学術会議の件については、本題よりも、周りでコメントする論者達の対応に、私は関心を持っている。中でも、Yoh.M.という元科学史家の、右翼まがいの発言については、この掲示板でも以前に強く批判した。日本を代表する科学史家の発言として、レベルが低すぎると私は感じたのだ。

 東工大の科学史の教授に中島秀人(なかじまひでと)という人物がいる。彼は東大駒場を卒業した、Yoh.M.の直接の弟子である。私は気づかなかったが、今回の問題について中島教授は、幾つかの新聞で、学術会議の成立時からの経緯を踏まえて、丁寧な説明をしていた。その内容は、広重徹の著作の記述を正しく踏まえており、非常に妥当なものだと私には思えた。中島教授の、科学史家として真っ当すぎるコメントを読むと、私にはYoh.M.への怒りが再燃するのを止められなくなった。

 実の処、私はYoh.M.の発言に、何故ここまで強い怒りを覚えるのか、自分でも内心よくわからなかった。それでここしばらくの間、私は、Yoh.M.についての論考をネットを中心に調べて、じっくり考えてみた。

 黒木玄(くろきげん)という、口の悪い数学者の方がいる。黒木氏は、Yoh.M.について「彼は高校レベルの微積分も理解できていない学者だ。あれでよくも、日本を代表する科学史家などと認められるものだ。あいつの書いた本を読む大学生は、貴重な時間を無駄にするだけだ」と、無茶苦茶にケナしているのを、私は知った。本を読むのが時間の無駄?、かどうかは置いとくとして、Yoh.M.の著書にある微積分の誤解については、他の幾人かの数学や物理の専門家でも、黒木氏の主張を支持する発言があった。

 これらの事実を私は、しばらく、じっくりと考えた。そして、ハッと気づいた。Yoh.M.は、あっち系の、福田信之に匹敵するレベルの、行っちゃっている学者なのだ、と。業界人はその事実をよくわかっており、敢えて言わないのだ、という事実を。それに気づかない私が、苛立ちをおぼえていただけなのだ。

「ナルホドなあ」と、頭の中から、モヤモヤが一気に消えて行くのを、私は感じた。そう考えるしか、状況を説明出来ない。やはり、アメリカ留学から帰国後に、駒場で村八分にされた中山茂(なかやましげる、戦後にフルブライト奨学生として渡米し、ハーバード大学から初めてPh.D.を授与された日本人研究者。駆け出し時代のT.クーンが直接指導した最初の弟子が中山氏だった。彼のゼネラル・エクザムの面接試験では、教官の一人にあのE.ライシャワーが − 駐日大使として赴任する前の − 出席し、激しく議論したという)の方が、遥かに理があったのだ。誰もがそれをわかっていたのだ。

 そうすると、Yoh.M.が駒場でこれまで指導した、多くの科学史家の弟子達は、皆、彼と同じレベルなのであろうか?という疑問が湧いてくる。しかし、中島教授の上の発言を読むと、そうとは思えない。おそらくは、Yoh.M.の弟子達も「しょうがねえなあ、でも、今更ホントの事言ってもなあ。先生の本を読んでも、どうせ誰もわかりっこないから、そのうち居なくなるまで、ほっとこうぜ」と、皆で内心は思っているのだろう。

 あれ程多くの駒場卒の学者が、全員アホであったならば、恐るべきスキャンダルである。駒場の教育とは一体何なのだ、と、全国各所の進学校や有名学習塾からの、激しい抗議や殴り込みが起きてもおかしくはない。流石にそこまでは、駒場も落ちぶれてはいない、という事だろう。

 しかしYoh.M.の所業にも、かなりボロが出始めていると、私には見受けられる。駒場の名誉の為にも、弟子の方々はそろそろ、真実をカミングアウトするべきではなかろうか?予備校の先生で「今でしょ」で名を馳せた、有名タレントの方は、Yoh.M.の駒場での教え子だったという。彼はYoh.M.のことを「私が知る限りで、最も頭の良い方だ」と、絶賛していた。しかし、あれが本当に駒場の優秀な先生だと、世間一般に認知されたままなら、将来の駒場の権威を著しく毀損するのではないか?、と、人ごとながら私は大変心配になる。

 まあ糸川英夫のような、無茶苦茶やって大学を首になった教授も、かつてはいたから、別にYoh.M.ごときを気にする必要は、無いのかもしれないが。

 気分がスッキリして、私は大変気持ちが良い。

 相田英男 拝






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