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[37]最後だけ追加
投稿者:相田英男
投稿日:2016-07-06 23:59:26

相田です。

下の投稿が長すぎて、末尾が切れてしまったので、最後だけ追加します。情けなくてすみませんが、ご容赦ください。

*********************************

2.10 あとに残されたもの
 学術会議から出された原子力委員会への様々な批判も、決して無意味ではなかった。問題の黒鉛ブロックには耐震性を考慮した種々の改良が施され、蜂の巣型(六角形)の断面形状の側面に凹凸をつけることで、振動の際にも容易にずれない構造が採用された。結果として、茨城県に造られたコールダーホール改良型炉(東海第一原発)は、1998年に運転を停止するまで、大事故に至ることは無かった。

 問題はこの後である。コールダーホール型原発は、東海第一発電所の1機のみで終わり、その後は日本には全く建設されることはなかった。代わって導入された原発は全て、英国炉とは全く異なる構造を有するアメリカ製の軽水炉であった。あれほど坂田達が問題提起したコールダーホール炉の安全対策は、炉型が異なる軽水炉にはほとんど役に立つことなく、無駄な努力となってしまった。本来ならば、軽水炉を導入する際にも、コールダーホール炉と同じレベルの安全対策が、事前に議論されてしかるべきであったが、そうはならなかった。

 科学者達の体制への激しい抵抗も、ここまでが限界だったのだ。坂田が安全審査委員を辞職した後の素粒子論グループは、武谷三男を唯一の例外として、社会的発言に関する情熱を急速に失ってゆくことになる。

 1960年以降には朝永、坂田は研究の第一線から退き、その一方で、高度な数学技巧の競い合いの様相を呈してきた素粒子論に愛想をつかし始めた湯川は、弟子達に他の研究分野への転向を薦めるようになった。広重徹が科学史に転向したのもその一例である。彼等一時代を築いた「大ボス」達の活動の衰えにより、素粒子論グループは求心力を失い始めていた。

 また、社会情勢の変化も物理学者達の運動に影響を与えていた。素粒子論グループの若手研究者達にとって、50年代までの最大の問題は就職難であった。湯川のノーベル賞受賞以来、素粒子論グループへの参加者は大きく増加したが、大学の研究室のポストが非常に少なく、若手の多くは厳しい生活を強いられていた。つらい環境に置かれた若手研究者の不満の捌け口が、政府の対応に向けられていた事情があったのである。

 しかし、55年に東大に原子核研究所が開設されて多くの研究者が移ってからは、素粒子論グループの就職先も徐々に増え始め、60年以降の高度成長期になるとポスドク生活に悩む研究者はほとんどいなくなった。皮肉なことであるが、生活基盤が安定して研究活動に専念できるようになったことが、彼等を社会的発言から遠ざけることとなったのである。

 学術会議を舞台とした科学者達の抵抗は終わった。しかし決着はまだついた訳ではなかった。アメリカからの軽水炉の導入をめぐる最後の戦いが、茨城県東海村の日本原子力研究所を舞台に幕を開けていた。ここで主役となるのは、嵯峨根遼吉と菊池正士の箕作家(みつくりけ)出身の二人の原子核物理学者であった。日本の原子力開発のリーダーとして、体制側から大きな期待を受けて原研に登板した二人であったが、彼らを待ち受ける運命は、またしても悲劇であった。

第2章終わり(第3章、「ぼやき1547」に続く)

相田英男 拝



[35]未投稿の話です
投稿者:相田英男
投稿日:2016-07-06 23:26:24

相田英男です。

 先の投稿では、日付を十日ほど間違えたり、IOTのところをItoTなどと書いたりしましたが、今さら訂正はしません・・・・

 今回は私の論考で未発表だった話を載せます。先に「ぼやき」に途中まで書いた伏見康治編の最終回となります。

 そもそも私が今回の論考を書いた目的は、3.11福島事故につながる大元の由来を辿ることにあります。そこで私に見えてきた、特に重要な事件を時系列で挙げると、次のようになります。

1)中曽根予算提出直前に書かれた、福井勇 − 駒形作次 による秘密文書の中で、伏見康治が共産党員の烙印を押されて、原子力サークルから追放されたこと。

2)「藤岡ミッション 」の報告書の中で、原子力委員会の権限を弱める提言が出されて、結果として原子力委員会が強制権を持たない八条委員会とさせられたこと。三条委員会であれば、大蔵省に対して強い予算獲得要求ができたはずだった。

3)55年末の「矢内原提案」により、大学研究者達の科学技術庁予算による開発への参加が不可能となったこと。

4)同じく55年末の「朝永委員会」で、素粒子論グループのメンバーが、政府による原子力開発への協力を拒絶したこと。ここで伏見康治の原子力開発への参画が、完全に絶たれた。

5)初代原子力委員長の正力松太郎が軽水炉でなく、コールダーホール型原発の導入を強行したこと。この時の論争で疲弊した学術会議と素粒子論グループの反対派学者達は、原子力から距離を置くようになり、その後の軽水炉導入の際の安全対策が骨抜きになった。

6)体制派の中で唯一軽水炉の安全性に疑問を持っていた菊池正士が、原研労組の「テロ」により原研理事長を追われてしまった。

 これらの6つの事件は全て致命的なものでした。このうちの、一つでも起きていなかったならば、福島原発はメルトダウンに至らなかったと、私は確信を持って言えます。 そして3)から 5)の出来事については、今回初めて触れる内容です。

 伏見康治が追放されることがそんなに問題なのか?と疑問を持つ方も多いでしょう。でも当時は民科(みんか)の幹部でもあり、左翼学者達からも一目置かれた伏見が、もしも原研の研究にコミットしていたならば、原研労組の反対派をなだめつつ、過激な組合運動を抑えるように尽力したと私は考えます。そして「原子力の日」の前日のような「テロ事件」に至ることも無かったのではないでしょうか。

 私は別に「テロ事件」を起こした原研労組の責任を、今さら追及すつもりはありません。問題なのはこの事件をきっかけとして、理事長の菊池正士が志半ばで挫折したことです。

 この過ちを深く償うこと無しに、左翼達が、福島事故の責任を政府や東電に追及することは許されない。俺達にはそんな古い話は関係無いよ、などという言い訳を、私は許さない。

 山本太郎よ、あんたの先輩達が50年前にしでかした、あまりに愚かな振る舞いを直視してみよ。その上で、今までどおり の言いたい放題できるか、逡巡してみたらどうか。政府は原子炉へのテロ対策を怠っている、等と今更騒ぎ立てるのはあまりに滑稽だ。テロはもうとっくに起こったのだ、あんたの立派な先輩達の手によってな。

 さて今回は、武谷三男への評価の総括と、坂田昌一の最後の活躍についても触れています。島村武久、橋本清之助という重要人物の登場もここでした。話がこんがらがる時は、前後の話もつなげて読みかえして下さい。

************************************

相田英男

「思想対立が起こした福島原発事故」
第2章 札束で引っぱたかれた科学者達

(「ぼやき1515」からの続き) 
2.7 終生原発推進論者であった武谷三男

 話を1954年3月の(中曽根等による)原子力予算が提出された時の日本学術会議に戻す。この突然の事態に対して学術会議では、第39委員会が3月11日に緊急召集された。しかしこの時の会議では、予算の用途を原子力の平和利用に限定し、使い道については学術会議に相談すること、等の要望を国会に申し入れる以外には、具体的な対策は出されなかった。一方で大阪大学の伏見康冶は、原子力の平和利用推進に関する原子力憲章の草案を纏めて、第39委員会に提出したが、この伏見案の扱いについては、例によって第39委員会は結論を出さず、3月18日に開催された学術会議の原子核特別委員会に判断を任された。

 原子核特別委員会とは、元々は終戦直後にGHQの要請により作られた「原子核研究連絡委員会」に由来する。サイクロトロン等の日本の原子核実験設備を全て破壊したGHQであったが、日本の原子核研究者達の活動について、アメリカは引き続き強い関心を示していた。GHQは日本の物理学者達に原子核研究の進捗状況について、半年毎にレポートに纏めて提出するように指示していた。このGHQへのレポートを作成するための組織が「原子核研究連絡委員会」である。初代委員長は仁科芳雄であったが、病気で死去した後に朝永に交代していた。GHQが日本から去った後の52年に、この組織が学術会議に編入・改組されて出来たのが原子核特別委員会である。当時は委員長の名をとって通称「朝永委員会」と呼ばれていた。主要なメンバーは素粒子論グループと、理研の旧仁科研、阪大菊池研等の、原子核研究の最前線の研究者達の中から選ばれていた。

 3月18日の朝永委員会での審議では、伏見草案の基本的な内容を支持すること、兵器の研究は全て行わないこと、研究状況が全て公開されること、能力のある研究者は誰でも研究に参加できること、等を趣旨とした報告書がまとめられて、第39委員会に返答された。続く4月22日におこなわれた第17回学術会議総会の審議では、朝永委員会の結論に、研究に関する自主性を加えることが新たに決まる。そして翌23日の総会で採択されたのが、原子力利用に関する、公開、自主、民主の三原則を謳った歴史的な声明(原子力三原則)であった。

 この公開、自主、民主の三原則は、翌55年末に国会で議決された、いわゆる原子力三法とよばれる、原子力基本法、原子力委員会設置法、総理府設置法中改正法の中の、原子力基本法に盛り込まれることとなる。このため三原則は、原子力平和利用を進めるための、科学者が勝ち取った大きな成果であると、一般には言われている。(ちなみに、総理府設置法中改正法とは、原子力委員会の庶務を担当する原子力局を、総理府の中に設立するという内容である。原子力局は、直後に出来た科学技術庁の内局に移された。)

 しかしこの三原則が原子力研究の健全な推進に、どれだけ役に立ったかについては、識者によって意見が分かれる。そもそもが、三原則を盛り込んだ原子力基本法が成立した直後に、初代原子力委員長の正力松太郎により、英国からコールダーホール型原発を輸入して、早急な原子力発電の実用化を目指すという、「自主」の概念を全く無視した方針が打ち出されている。体制側の対応は最初から、三原則の遵守などは全く意に介さないものであった。

 対する学術会議を根城とする左翼系の科学者達は、三原則こそは全てに優先される評価の基準であると力説した。科学者達は政府や財界等の体制側が、事あるごとに三原則を踏みにじる拙速な方針を打ち出すことを強く批判し、これ以降は、彼ら良心的科学者達こそが体制側の横暴とこれまで戦って来た正義であるという主張を、何度も繰り返すようになる。このような学者達の考え方を、吉岡斉(よしおかさとし)は「原子力の社会史」の中で「三原則蹂躙史観」と呼んでいる。

 一方で科学史家の広重徹(ひろしげてつ)は、三原則などは現実を変える効果など全く無い、単なるお題目にしか過ぎないと、バッサリ斬って捨てている。三原則にこだわって相手の粗探しを行うと、体制側への批判が非常に容易になる。しかしその反面、細かい批判を行うことのみに関心が集中してしまい、体制側が作り上げている大きな流れを見失うことになる。結果として、科学者達は現状を後から追認することしか出来なかった、というのが広重の批判である。広重の考えを受け継ぐ吉岡斉も、原子力開発における三原則の有効性については否定的である。

 さて、これは有名な事実であるが、原子力の「三原則」というアイデアは、実は武谷三男の発案によるものである。武谷は茅・伏見提案と同時期の1952年10月に、雑誌「改造」において「日本の原子力の方向」という論説を発表している。その中で武谷は、「原爆の被害を受けた日本には、原子力に関して最も強力な発言の資格がある。日本人の手で原子力の研究平和的に進めるべきであり、日本で行う原子力研究には外国の秘密の知識は一切教わらない。原子力研究所には、いかなる人の出入りも研究の申し込みも拒否しない。このことを法的に確認してから出発すべきである」 という趣旨の指摘を行っている。この内容が伏見の原子力憲章に引き継がれて、三原則が生まれたとされている。

 従って武谷哲学の否定論者である広重徹が、三原則をボロクソにけなすのも仕方がないところがある。とはいえ、そもそもの「三原則」の発案者である武谷自身は、この時期の状況についてどのように考えていたのであろうか。

 伏見康治の著書「時代の証言」によると、茅・伏見提案から原子力三法案提出に至るまでの、若手物理学者達が原子力研究への反対論を叫んでいる間、武谷自身は何故か沈黙を続けていたという。伏見の考えでは武谷は、自身の唱えた「三原則」が学術会議の声明に取り入れられたことで、内心は満足していたのではないか、と推測している。果たして武谷の真意はどのようなものであったのか?

 この時期の武谷自身の考え方については、立教大学の武谷の下で研究を補助した、物理学者の長崎正幸(ながさきまさゆき)氏が、テレビのインタビューの形で回答している。2014年の9月にNHKの『戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか』というテレビシリーズにおいて、『第1回 原子力 科学者は発言する~湯川秀樹と武谷三男~』という回が放送された。放送された番組の内容自体は、私には特に目新しいものではなかった。しかし、NHKのホームページ上には、番組に登場した長崎氏の発言が、番組未放送の分を含めて掲載されており、こちらの方は非常に興味深いものであった。以下に長崎氏がインタビューの中で、武谷と三原則について述べた箇所を、抜粋して引用する。

―引用始め―

「武谷三男の共同研究者として」
長崎 正幸さん (収録日2014年6月12日)

(前略)
 とにかく日本が原子力を始めるのはいい、いいけども、で、初めのときはしょうがないんだけども、放っといたらね、また日本がアジア諸国に原子力で非常な損害を与えてやるかもしれないと。 だからその手を縛んなきゃいけないんだと。で、その手を縛るための方策が原子力三原則なんだっていうことは、非常に繰り返し言ってましたよね。そうやってやるって言って。相手の手を縛るっていうのは、武谷さんの発想によく出てくるんですよね。(中略)

 手を縛る。っていうか、相手が変なことをする動きが取れないようにしてしまうっていうのが。要するに、どうせやるから、動き出すから、動き出すこと自体は止めんのは難しいけど、とにかく、その動き出す手を何だとかして多少でも縛ってね、悪いほうに行かないようにしようと。そういう考え方を、武谷さん、使ったですね。僕の印象ですけど。(中略)

 相手が強いもんだからねえ、やってることは。だからどうしょうもないんだけど、まあ負け戦であるけども、まあ、負けたからには、とにかく相手の手を縛って、少しはマシな方向へ持ってかなくちゃいけないという考え方でしたよ、武谷さん、いつもね。

 まあ、武谷さんは、いっつも条件て、我々の仕事っていうのはね、一種の条件闘争でね、だから勝つときもありゃあ負けるときもあるしね。まだ負けたからっていって諦めるんじゃなくて、とにかく粘り強く、根気良くやるほかないっていうようなことを言ってましたね。(中略)

 科学技術を否定しちゃったら人間がいなくなっちゃうじゃないかってわけですね。人間が、人類が、人っていうのは人らしくあられたのは、それなりの科学技術を、何万年か前からそれなりの時代にそれなりの科学技術を苦労して発見してきたからだってわけですよね。それは実践があるからこそ生まれたんだと。だから科学技術というのは実践がなければ生まれないですよね。 ただ頭の中で勝手な考え方して生まれたわけじゃなくて、人類が長い間かかって実践の中で鍛えてきたわけでしょ。実践してみて失敗して、これはダメだってこれだってまた新しい考え方、それを何万年もやってきたわけですね。

 だから、よくたとえでね、火を発見したから火事が起きるんだと。だからといってじゃあ火を否定できるのかっていうことになっちゃったら、笑い話でそういうことを言ってましたけど。火を人間が見つけちゃった以上は火は使わなきゃなんないと。しかしそれで火事が起きるからって言って火を否定するわけにいかないんだから、じゃあ火事を起こさないように火をうまく使うにはどうするかっていうことを、それは一種の技術ですね、それを発展させる以外に手がないんだということは、よく例えとしては言ってましたよね、だから非常にうまい例えだと思うんです。

 科学がどこかで失敗したら、今度はもう全面的に否定してね、科学を否定してしまって、非科学っていうのに行くっていうのは、それも間違いだよね。 武谷さんにとっては、とにかく物にはすべて、そのときの状態における、科学の状況における制限、制約があるわけですね。その制約があったからと言って、元も子も無くすように、すべてをね、否定してしまうっていうのは間違いだっていうのが、武谷さんの考え方ですよね。要するに、とにかく我々は、何でもだましだまし使っていかなきゃいけないんだって。俗な言い方すると、そういう言い方してましたよね。 だから、武谷さんは非常にね、何て言うか、現実論者って言うかね。(中略)

 要するに技術っていうものは無くなっていたら、人間は進歩しなくなるんだっていうことをね。言ってましたよね。(中略)だから、とにかく、原子力っていうのは否定するわけにはいかないものだったのね。これとにかくもう、1度人類が発見しちゃったものでしょう。発見してしまったものをね、無いことにしようって、できっこないわけでしょう。だから、発見したんだからそれは進歩させなきゃいけないんだけども、今のやり方、あの当時のやり方で行ったら、歪んだ技術になってしまうということを言ってましたよね。

 武谷さんは原子力を否定したわけじゃないんですよね、決してね。新しい技術の形態、新しい形の技術が生まれたんだということだからそれはもう認めざるを得ないんですよね、だってもう見つかっちゃってんだから。(中略)

 そうですね、リアリスト、一種のリアリストですね。ほんとにこうなんとかうまくやろうって。とにかくなんかね、悪いということがあるに決まってるんだから、だましだましうまくやることこそが人間の知恵なんだというのはね、彼の持論でね。

―引用終り―

 相田です。長崎氏によると、武谷は三原則について「相手の手を縛るためのものだ」と述べていたという。「手を縛る」とは、政府や財界等の体制側が原子力開発を野放図に進めることを防ぐ、という意味での暗喩である。また武谷は、「相手が強い場合は負け戦も仕方ない」とも言っていたという。武谷は、体制側が原子力開発を強引に進めてしまうことは、ある程度止むを得ないことだと認めていたのである。体制側の暴走に少しでもブレーキを掛けられれば、まずは良し、とみなすことが、武谷にとっての三原則の位置付けだったのである。

 この武谷の考え方は、三原則こそが原子力研究者にとっての最高の基準であるべきだ、と持ち上げる「三原則蹂躙史観」とは、本質的に異なると、私には思える。蹂躙史観を唱える武谷のフォロアー達は、三原則が守られない横暴な体制の下では、正しい原子力開発は不可能であり、行なうべきでは無いと主張する。しかし長崎氏によると、武谷の本来の考え方には、原子力技術そのものを止めたり、無かったことにする事などは、現実として出来ないし、やるべきではない、という大前提が最初にあるという。武谷にとっての三原則とは、原子力技術が誤った方向に逸れることを防ぐための、歯止めの一つでしか無かったのである。

 おそらく武谷は三原則にしがみつくだけでなく、三原則に続く二の矢、三の矢となる方針を打ち出して行くことで、体制側への対抗策を強化することを想定していたのではないかと、私は考える。しかし現実はそれが叶わずに、ズルズルと後退を強いられてしまったのではないのだろうか。

 武谷の思想の根本にあるものは、自然科学の力を活用することで、人間は自由と幸福を獲得することが出来るという、自然科学に対する絶対的な信頼である。原子力も「発見されてしまった」からには、最終的には人間の叡智を用いて安全に使いこなすことを目指すべき、ということが、武谷の原子力への見解だったことを、長崎氏は語っている。武谷のこの考えは終生変わらなかったらしい。長崎氏の話を素直に解釈すると、武谷は明らかに原発肯定論者である。武谷は後年活躍する高木仁三郎や広瀬隆等の、原発廃止論者とは本質的に異なる立場に立つ人だったのである。

 私は長崎氏の話を読んで初めて、武谷の素顔が少し見えたように思えた。武谷は、たとえ自分の趣旨と異なる状況であっても、大きな流れをまずは受け入れて、その流れを少しずつでも良い方向に変えて行くべきである、という、極めて常識的な、真っ当な考え方をする人であったのだ。自ら提唱した三原則の呪縛に捕らわれるような、底の浅い考えの持ち主では無かった。但し、自らが言い出した手前、武谷は三原則を軽く扱うような言動は流石に出来ず、ただ黙って見守るだけだったのではないだろうか。

 思想家としての武谷の影響は、本人の意向を遥かに越えて広がってしまい、過激な反対運動に至ってしまったのが、実状だったように思える。長崎氏の語る武谷の素顔が真実ならば、武谷は体制側が決め付けたような「極左」の立場の人などではない。もっと穏やかに現実と向き合いながら、正しい流れを少しずつ土台から築き上げてゆくことが、本来の武谷の狙い(願い)ではなかったかと、いまの私には思える。しかし武谷の真意とは裏腹に、その後の日本の原子力開発は、過激な運動家達の狭間の中で、揉みくちゃにされる運命を辿ることとなる。


2.8 矢内原提案と伏見の敗北

 学術会議にて三原則の声明が出された以降の状況を簡単に記す。1954年5月に内閣に「原子力利用準備調査会」という組織が作られた。これは副総理を会長とし、大蔵、文部、通産の各大臣、経済企画庁長官、経団連会長(石川一郎)、学術会議会長(茅)をメンバーとするハイレベル組織であり、56年初めに原子力委員会が設置されるまでの、原子力行政の最高審議機関となった。並行して7月には、通産省の下に原子力予算の具体的用途を決めるための「原子力予算打合会」が設置され、工業技術院に計上された予算の実施について検討を進めた。学術会議側では、藤岡を委員長とする第39委員会の名称が「原子力問題委員会」と改められ、工業技術院の予算打合会との協議を進め、8月には予算の主たる用途として海外調査団の派遣を決定する。これが先に説明した「藤岡ミッション」である。

 この時期には至る所で「原子力」と名がつく組織が作られており、大変に紛らわしい。これらはいずれも突如現れた「原子力予算」を遂行するため、各処で慌ただしい対応に迫られた結果である。

 さて、何かと曰くのついた「藤岡ミッション」の報告書は、翌55年5月に工業技術院の主体でまとめられ提出された。そこでは天然ウランを燃料とした熱出力1万キロワットの原子炉を、国産の技術で造ることが第1次目標として掲げられた。米国由来の濃縮技術を必要としない天然ウランを燃料とすることで、日本の自主技術を確立すること、即ち三原則に基づく開発の重要性が、初期にはちゃんと謳われていたのである。

 ところが同時にこの調査団の報告書には、国産原子炉建設の前準備として、既に製造技術が確立されているアメリカ製の、濃縮ウランを燃料とする出力50キロワット程度の、小型実験炉を購入するべきという提案も盛り込まれていた。天然ウラン燃料を用いる原子炉の事前準備に、異なる燃料の濃縮ウラン型の実験炉を導入してテストを行うべきという、誠にもって倒錯した主張がされていたことになる。

 実は55年の初頭にアメリカから日本政府に対して、濃縮ウランを提供しても良いという申し出がされていた。外務省はこの事実を伏せていたが、4月に入り朝日新聞のリーク記事より公にされると、学術会議や原子核特別委員会の学者側から、「濃縮ウラン受入れは守秘義務などの制約が伴うため、三原則を破るものである」という、強い抗議と批判が巻き起こされた。それでも政府側の原子力利用準備調査会の議論では、濃縮ウラン受入れに前向きな方針を出しつつあった。藤岡ミッションの報告書で見られる倒錯性は、濃縮ウラン受入れをめぐる当時の混乱を反映した結果である。

 日本政府は結局、濃縮ウラン受入れのための交渉をアメリカと進めて、6月後半にワシントンで日米原子力双務協定の仮調印を行った(正式な調印は11月)。濃縮ウラン受入れに同意を示した藤岡に対し、学術会議の学者達から抗議の声があちこちで出されものの、結局は体制側に押し切られることとなる。

 この時期の日本の外務省は、アメリカ大使館のラポルテ達と密に連絡を取りながら、一連の方針を決めていた事実を、科学史家の山崎正勝氏は「日本の核開発」の中で、米国の多くの公文書から明らかにしている。「日本の核開発」はアメリカの庇護の範囲で進められることが前提であって、科学者達がいくら抗議を行っても方針を覆せるものでは無かったということである。日本の科学者達の反対運動など、アメリカには全て折込済みであった。

 9月になると原子力準備調査会は、原子炉建設4ヶ年計画を決めて、日本の原子力開発の大まかな方向性を示した。この計画は整理されて、ウォーターボイラー型のJRR-1(濃縮ウラン燃料)、CP-5型のJRR-2(濃縮ウラン燃料、CPとはシカゴ・パイルの略)、後に国産第1号原子炉とされるJRR-3(天然ウラン燃料)という実験装置が、順次導入されることとなった。(JRR-1、2、3については第3章で触れる)

 ここでまたおかしな話ではあるが、原子炉の導入とその形式は先行して決定されたものの、それを運用する組織の体制がまだ出来ていなかった。これに対して10月の末に「政府と財界関係者」が集まって、原子力研究所の設立発起人会がひらかれる。設立された「財団法人原子力研究所」の理事長には、石川一郎(いしかわいちろう)経団連会長が選ばれた。研究所とはいうものの、原子力の研究者など当時の日本では、どこを捜してもいる訳がない。濃縮ウランと原子力試験設備の受入れを目的に、体制側の主導で名ばかりの研究所が作られたのである。ちなみに石川一郎も54年1月に訪米した折に、嵯峨根遼吉(さがねりょうきち)の案内でバークレー研究所を見学することで、原子力に理解を示すようになった一人である。

 55年の8月にはスイスのジュネーブで、国連主催の原子力平和利用国際会議(第1回ジュネーブ会議)が開催されたが、日本からは湯川秀樹等の科学者に加えて、中曽根等の超党派の国会議員4人が参加した。彼ら国会議員団は9月に帰国した際に、羽田空港で共同声明を発表した後、10月には衆参両院合同の政治家達による原子力合同委員会(委員長は中曽根康弘)を結成し、原子力に関する種々の法案作成を進めた。先に説明した原子力三法はその中心となる法案である。(その内の原子力委員会設置法については、工業技術院調査課の堀純郎氏が島村研究会で証言した「偽装工作 」の内容が反映されていると推測される)

 原子力三法は55年12月に衆参両院で、共産党、労農党を除く超党派の賛成により可決された。初代の原子力委員のメンバーとして、石川一郎、有沢広巳(ありさわひろみ、経済学者、東大)、湯川秀樹、藤岡由夫の4名と、委員長には国務大臣正力松太郎が就任して、翌56年1月から原子力委員会は活動を開始した。

 島村研究会の席での島村の話では、ジュネーブから中曽根達が帰国した後には、政治家達の「合同委員会」が全てを決めるようになり、原子力準備調査会はほとんど開店休業状態であったらしい。法案の作成以外の、一連の原子力装置の導入と原子力研究所の設立についても、政治家達の主導により全て決定がなされたようである。

 原子力三法が国会で可決されようとしていたこの時期に、地味ではあるが日本の原子力開発の行方を左右するある出来事が起こっている。ビキニ水爆実験の際の放射性物質の拡散挙動を明らかにしたことで有名な、海洋化学者の三宅泰雄(みやけやすお)の著作「死の灰と闘う科学者」(岩波新書、1972年)から、その状況について引用する。

―引用始め―

 これらの法律(原子力三法のこと)が通る前に、一つの重要なできごとがあった。東京大学総長 矢内原忠雄(やないはらただお)博士・東京大学茅誠司教授が国会をおとずれ、原子力諸法に関し重大な申し入れをしたことをいう。それは1955年12月12日のことだった。

矢内原忠雄博士は当時国立大学協会の会長でもあった。博士が衆参両院を訪れたのは国立大学協会会長としての資格においてであった。

 衆参両院で矢内原・茅両博士が国会に要望したことは、原子力諸法の成立によって、大学の研究、教育の自由がおかされることのないようにしてほしい、ということであった。国立大学学協会は、国立大学の協議体で、各大学の学長がその大学を代表して参加している団体である。国立大学協会で、原子力研究の問題がどのように議論されたかを、いまくわしく知ることはできない。しかし、国立大学協会としては、大学所属の教官の意見がまとまっていない段階に政治家ペースで原子力の研究が推進されることに不安をいだいたことは、推察できるところである。

とくに東京大学には原子核研究所(同年7月1目発足)があった。政治家たちは、この研究所の予算を原子力予算にくみいれるべきであると考えていた。

 まえにものべたとおり、当時の国内政治は急速な右旋回の時期であった。政治権力による学問、思想の自由への干渉が、ふたたび露骨になりはじめていた。その平和主義で、第二次世界大戦前に大学を追われ、戦後、大学に復帰した矢内原博士にとっては、政治権力から大学の教育と研究を守ることが、その使命であった。

 また平和主義の立場からも、矢内原博士は原子力研究の早期開始には、きわめて懐疑的であった。たとえ法律で原子力の平和利用がうたわれても、それだけで大学における研究の平和性がつらぬけるかどうか政治の暴力を身もって体験してきた矢内原博士は、政治をけっして信用してはいなかった。 矢内原博士の文章をみれば、当時の博士の憂慮がわかるだろう。

「事実上の軍隊である防衛隊は次第に充実され、膨大な防衛費予算は国会を簡単に通過し、200億にのぼる使い切れない金額さえ与えられる。今や防衛費は予算費目の首位を占める。これは平和国家の予算ではなくて、軍事国家の予算ではないか。……(中略)……もしも政治が自己の好む政策と思想をば国民の問に普及させるために、教育の制度を自己の都合よきように改め、教育の内容に干渉しようとするならば、それは全体主義国家のやり方であって民主主義国家の道ではない。大学の自治を削減し、大学を含めて日本の教育に対する政府の監督権を強くしようとする政策もしくは思想が、責任の地位にある政治家のロから公言されるに至っては、日本教育の民主化はまさに危機に立ちつつあるというも過言ではあるまい」(朝日新聞・論壇、1956年8月15日)。

―引用終り―

 矢内原忠雄は、戦前、戦後にかけて活動した著名な経済学者・思想家である。矢内原について自分は、詳しく語れるような見識を持ってはいないが、内村鑑三、新渡戸稲造の影響を受けた矢内原は敬虔なキリスト教徒でもあった。矢内原は1937年に盧溝橋事件、南京事件に対して批判的な言動を行ったことで、東大教授からの辞任を強要された、所謂「矢内原事件」で有名である。終戦後に経済学部からの要請で東大に復職した矢内原は、教養学部長を経て1952年からの2期6年の間、東大総長を務めていた。

 戦前に軍部の圧力により大学を追われた矢内原にとって、原子力予算提出後の体制側の強引な進め方は、看過出来ない振る舞いであったのだろう。三宅が述べているように、矢内原は東大総長の立場ではなく、国立大学協会の会長として、原子力予算が大学の研究活動に関して一切の束縛を与えないように、国会議員達に強く要請した。

 矢内原の要請を受けて衆議院では、原子力委員会設置法への付帯決議として「原子力利用に関する経費には、大学学部における研究経費を含まないものとする」という条項をくわえた。その後も矢内原からの要請は続き、参議院では付帯決議が「大学の研究経費は含まないものとする」という文面に修正されることになる。このことは、大学の組織(付帯研究施設を含む)に在籍する全ての研究者は、原子力予算に関する研究には公式に触れることが出来ない、という事が、法律で決められたことを意味する。

 要するに、全ての大学関係者はこれ以降、原子力委員会が策定した計画に基づく研究・開発には関与することが出来なくなったのである。大学の学者達は、文部省に配分された大学予算の中でのみ、原子力研究に携わることが出来た。しかし原子力委員会(後に記すように実際には科学技術庁)への割当てとは別に、文科省を通じて与えられる予算は僅かなものであり、原子力委員会との連携も禁じられた条件下では、大学関係者の研究テーマは狭い範囲に限定されたものにならざるを得なかった。

 この「矢内原提案」がその後の原子力開発に与えたインパクトは、とてつもなく大きい。そもそもが、国家が原子力技術をゼロから立ち上げようとする際に、大学からの協力を受けられなくしてしまうなど、あり得るであろうか?普通に考えてみると、あまりにもナンセンスな決定である。三宅は著書において、本来は政治家達が大学側を説得して、大学の自治が守られるような規則を設ける等して、大学と連携出来る仕組みを残すべきだったと主張している。私も三宅の言うとおりだと思う。しかし政治家達は、矢内原の要望をそのまま受入れて、大学側と絶縁する道を選択するのである。

 当時の政治家達にはおそらく、福井・駒形が作った秘密文書にあるような、反体制科学者達への嫌悪感が非常に強かったのではないだろうか。それでも、あからさまに学者達を拒絶すれば、三原則の「民主」を謳う建前から、激しい反発を受けるのは必至である。しかし、向こう側から縁切りの要望を出して来たことで、政治家達は「渡りに舟」とばかりに、言われるがまま法案を書き換えてコトを済ませたのだろうと、私には思える。

 矢内原が国会に申入れに出向いた時には、茅誠司も付き添っていた。矢内原提案の内容は、茅の考えとは当然ながら正反対であった筈である。おそらくは茅も、事前に矢内原との間で相当な議論を重ねたものの、最終的に「硬骨漢」矢内原の意志を変えるには至らなかったのであろう。矢内原の後に東大総長に就任するのは茅であり、その状況であれば全く異なる展開になったことは明らかである。

 さて、この矢内原提案によって大きく運命を変えられた人物は、またしても伏見康冶であった。伏見はかねてより、原子力研究を日本でスタートする場合には、まずは原子核反応に関する基礎研究から着手して、地道に成果を積み重ねることが、当り前ではあるが重要であると考えていた。それにはまず、日本で最も原子核物理の知見の深い旧理研の仁科研、阪大の菊池研、そして素粒子論グループの研究者達との連携が不可欠であり、実力のある彼等が原子力研究に加わることが重要と伏見は考えていた。彼らはいずれも原子核特別委員会(朝永委員会)の関係者でもあった。

 体制側も当初は、原子核研究者達との連携について決して否定的ではなかった。第1回ジュネーブ会議から帰国した際の中曽根達の声明の中では、東大の付設研究組織として同年作られたばかりの原子核研究所の運営について、原子力予算から費用を負担したいとの提案がなされていたのである。

 原子核研究所の設置は、当時の学術会議の重要な課題であった。原子核研究所の設立はそもそも、茅・伏見提案が学術会議総会で取下げとなった後に、伏見が師である菊池正士に話を持ちかけたことがきっかけである。菊池と伏見は、占領軍に破壊された原子核実験設備と研究レベルを、大学の枠を超えた研究者間の連携により復活させることを考えて、原子核特別委員会の朝永委員長に相談した。朝永と菊池の取り纏めにより、学術会議における地道な議論と、予算獲得の努力が重ねられて、55年に東大の付帯施設として原子核研究所が設立された。中曽根達もこの原子核研究所を基礎研究の重要な拠点と認識しており、連携することを学術会議に正式に要請していたのである。

 しかし矢内原提案の方針は、原子核物理学者達が原子力研究に加わる術を、完全に打ち砕くものであった。矢内原の考えについて、おそらくは茅から聞いていたであろう伏見は、状況の打開策として、年末に地元の大阪大学で開かれる原子核特別委員会に一縷の望みをつないだ。物理学者達が大学の自主性を破ること無く、原子力研究に正式に参加できるように、政府に対し要請を行うべきかを、伏見は原子核特別委員会で問うつもりであった。

 さて、東大の原子核研究所の建物は東京の田無市に置かれる事が発表されていたが、田無の住民達からビキニ事件のような放射線の問題を起こされたくない、という反体運動が広がっていた。菊池、朝永を始めとする物理学者達は、地元住民からの理解を得るために度重なる説得活動を行なっていた。大阪での原子核特別委員会では、この田無住民への説得が民主的に行われているか、そして十分な理解を得られているのか、という議題が最初に取り上げられて、二日にわたる大半がこの議論に費やされた。その後に伏見の提案による、原子力研究への参加の是非についての話に移った。素粒子論グループの多くは伏見に批判的であったが、彼らの考えを覆そうと伏見は説得を続けたらしい。しかし、時間が二日目の深夜を回ってしまったことで、結論を出すこと無く委員会は打ち切りになってしまったという。

 委員会の司会者としての朝永は、発言者に言いたいことを全て言わせて、お互いの考えをそれぞれが十分に理解させてから結論を出すという、「民主的」な議事運営を行うことで、評判が高かった。しかし朝永の打ち合わせは毎回、非常に時間を費やすことが問題だった。二日目の夜になり、疲労の出ていた朝永に「朝永先生、いつまで議論を続けるつもりですか。もう宿に帰れない人も出て来ています。結論が出なくても議論を止めて下さい。」と訴えたのは、福田信之(ふくだのぶゆき)だったという。伏見は、この一件での朝永と福田のことを、後々まで恨めしく思っていたらしい。この当時の福田はまだ宗教に帰依しない「まともな人」であった。

 この朝永委員会での議論打ち切り後には、伏見の提案は審議に上げられることは無かった。伏見の原子力研究に携わるという願いは、永遠に叶わぬこととなってしまった。11月に結成された財団法人原子力研究所は、翌56年の6月に特殊法人日本原子力研究所(原研)として正式発足する。この原研の理事の一人として迎えられたのが、アメリカから戻った嵯峨根遼吉であった。嵯峨根はアメリカに骨を埋めることも考えていたが、友人の茅誠司達からの度重なる要請で、帰国を決意したという。体制側は東大を辞職した嵯峨根をリーダーとして、原子力研究の基礎を固めることを選択したのである。


2.9 素粒子論グループ最後の抵抗

 年が明けて56年の1月に原子力委員会が発足してからは、正力松太郎という人物を軸に状況は動くこととなる。正力については、有馬哲夫氏が「原発・正力・CIA」で記したような、CIAのエージェントとして活動した事実が、福島事故の後でメディアで盛んに取り上げられたので、ここでは詳しくは触れない。正力という人を一言で述べると、「招かねざる客」ということに尽きる。ビキニ事件で広がった原子力開発への批判運動を、読売グループのメディア活動により沈静化する処までは、それでもまだ許されるとも思える。しかし、原子力委員長として表舞台に登場してからの、英国製のコールダーホール型原発導入を、周囲の強い反対を押し切って強行したことは、日本の原子力開発に著しいダメージを与える結果となった。

 あの時に正力が登場しなければ、(ついでに矢内原忠雄が東大総長でなかったらば)日本の原子力開発は、学会と産業界とが連携を取りつつ、今よりも健全に発展していたことは、疑う余地がない。読売グループは、創業者の愚かな振る舞いについて謙虚に反省するべきである。

 原子力委員会は、体制上は総理大臣の諮問機関として総理府に置かれていた。原子力委員会の庶務を受け持つ原子力局(初代局長は佐々木義武、その後に衆議院議員に転身する)も総理府に設置されていたが、56年5月に科学技術庁が発足してからは、原子力局は科学技術庁の下部組織に移された。原子力委員長は科学技術庁長官が兼任するという規定を考えても、原子力委員会は実質上は科学技術庁の傘下に置かれたことは明白であった。(科学技術庁が無くなった今では、原子力委員会は再び総理府に置かれている)

 先の中井浩二氏の記述にあるように、科学技術庁とは左翼系科学者達の影響下にある日本学術会議への対抗として、体制側が学術行政の支配権を取り戻すために作った組織である。以後は原子力開発の基本方針と予算の策定は、科学技術庁の管轄として行われることになる。当然ながら大学に所属する科学者達は、矢内原提案の縛りにより、科技庁が管轄する予算の研究には関与することは出来なくなっていた。

 この時に、経済企画庁から原子力局の政策課長に移ってきた官僚が島村武久である。島村は佐々木の後の原子力局長に就任し、以後の役十年の間、科技庁の原子力政策立案の中心人物として活動することになる。原子力委員会発足当時の島村は、正力の付き人の役目も務めていたという。

 原子力委員会発足当初の最大の話題は、正力が就任直後の個人的な談話として「5年以内に原子力発電を実現したい」、とコメントし、この談話が原子力委員会の方針であるとマスコミに報道されたことと、この正力の方針に対して反発した湯川秀樹が、就任早々に原子力委員からの辞意を表明したことである。

 委員会が発足した早々の正力の放言に怒った湯川は、以後はまともな委員会活動に加わることなく、1年後に委員を辞めたといわれている。しかし、近年になり見つかった湯川の遺稿の中に、原子力委員時代に湯川が、天然ウラン燃料を用いた国産原子炉の開発の必要性と、建造計画案をまとめて、原子力委員会に提出した資料が確認されている。湯川が武谷、坂田を始めとする素粒子論グループや、原子核特別委員会のメンバー達の意見を聞き、民主・自主・公開の三原則に準拠した、国産技術による原子力開発の着実な実施を提案していた証拠である(澤田哲生「原子力黎明期における国産原子炉開発構想と湯川秀樹らの関与」日本原子力学 アトモス、2014年9月)。

 原子力委員としての湯川は、非常に前向きに活動を行なっていたのである。しかし湯川の極めて「技術的にまっとうな」意見は、正力にはまともに取り上げられることなく、埋もれてしまったのだろう。

 当時の正力が行った活動の中には、地味ではあるが重要な案件が一つある。56年に正力は、財界、産業界の関係者の協力を取り付けて、「社団法人日本原子力産業会議(略称、原産)」という組織を立ち上げた。原産の初代事務局長に就任した橋本清之助(はしもとせいのすけ)は、戦前の時事新報社の記者の出身で、近衞、東条政権下で翼賛政治の運営に携わった、貴族院議員の後藤文夫(ごとうふみお)の秘書を務めた人物である。戦後にA級戦犯として48年まで拘留された後藤を、巣鴨プリズンで出迎えた橋本は、獄中で英字新聞を読みあさっていた後藤から、アメリカで原子力発電の開発が進んでいることを聞かされる。

 橋本は後藤の話を、旧知であった日本発送電総裁の小坂順造(こさかじゅんぞう)という人物に持ちかけた。日本発送電(日発)は、戦前に国内全ての電力会社を統合して作られた、発電と送電を全て統括する国策会社であったが、GHQの指示により1951年に9つの電力会社に分割された。小坂は日発解体の際の清算金を使って、1952年に「財団法人電力経済研究所」という組織を設立し、橋本はその常務理事に就任する。茅・伏見提案で学術会議が紛糾している最中にも、電力経済研究所では原子力発電に関する独自の調査を進め、中曽根予算提出後には、原子力の産業利用に関する提言を纏めたパンフレット等の資料を精力的に発表していた。この電力経済研究所を元にして原産は結成された。橋本と正力は1944年に戦前最期の貴族院議員にも選ばれた、旧知の仲でもあった。

 原産が設立された目的は、原子力に関する産業界の意見を調整、統一して政府・国会に反映させるという、ロビー活動並びにシンクタンクとしての役割である。しかし当時の新聞報道によると、正力が原産を作った本当の狙いは、日本学術会議の科学者達への対抗措置であったという。学術会議の反体制科学者達の行動を抑え込むための、体制側の仕組みが徐々に構築されてゆく様子がわかる。日本の原子力政策の方針を裏で決めているのは、橋本を取り纏めとする原産であり、原子力委員会は原産の方針を追認するだけだ、という噂も、当時の関係者の間では囁かれていたらしい。

 橋本は若手の優秀な人材を集めて議論や調査を行わせることで、原子力に関する知見を深めていったという。京大の湯川の下で素粒子論を学んだ森一久(もりかずひさ)は、雑誌編集者時代に橋本にスカウトされて、原産で活動することになった。原子力委員時代の湯川が、正力の横暴に耐えかねて辞意を漏らす毎に、森が湯川の下に出向いて慰留していた逸話は有名である。また、京大で物理学、東大で経済学を学んだ後に原産に勤務し、神奈川大学教授となった川上幸一(かわかみこういち)は、原子力に批判的な立場からではあるが、原子力産業の分析に関する優れた論考を数多く発表している。原産と橋本に関してはまだ、十分な資料を集めていないので、説明はここまでとする。

 話を正力に戻すと、彼が強行したコールダーホール型原発の導入に関しては、大きな問題が3つあった。一つ目は、原子力技術が全く無い環境での導入であるため、大半の技術が英国由来となり、自主技術の確立が遅れること、これと共に、英国との間での原子力協定締結が不可避となり、技術の中に非公開箇所が出て来る可能性があることである。即ち、三原則のうちの自主、公開に触れる問題である。原子力委員時代の湯川が最も警戒した点が、海外との協定の結果として原子力技術の中にブラックボックスが作られて、研究成果の自由な発表が制約される可能性であった。

 二つ目の問題は、英国型原発の性能の低さである。天然ウランを燃料とし、減速材に黒鉛、冷却材に炭酸ガスを用いるガス炉は、炉心の熱効率(発熱量を炉心の体積で割った値)が非常に低い。一方の濃縮ウランを使用する軽水炉は、ガス炉の数十倍の熱効率を容易に得ることが出来る。ガス炉と軽水炉では、発電プラントとしての性能が段違いなのであった。当然ながらこの知見は、当時の日本の関係者の間でも周知の事実であった。アメリカからも、当時運転を開始した発電用軽水炉の第1号機の、シッピングポート原発の状況が数年後には明らかになるため、それまでせめて発電炉の導入を待つべき、というコメントも伝えられたらしい。しかし正力の耳には、これらの全ての批判は届くことは無かった。

 三番目はコールダーホール型原発の安全性である。この問題については、設置場所とされた茨城県東海村の隣の敷地が、当時は米軍の射爆場であったため、誤爆の恐れがあるとか、海岸付近の特殊な気象条件により、排気された放射性物質が上空に長時間滞留する可能性などが話題となったが、最大の懸念事項は原子炉の耐震性であった。コールダーホール型原発の炉心は、中性子の減速材となる黒鉛製のブロック3万個を大量に積み上げただけのもので、地震による倒壊について全く考慮されていないことが、1956年11月に訪英した視察団の報告から明らかになる。翌57年1月の学術会議主催による第一回原子力シンポジウムでは、早速コールダーホール型原発の耐震性の問題についての議論が交わされた。

 同年10月のイギリスでは、同型炉のウインズケール原子炉で火災によるメルトダウン事故が発生し、周囲の数十キロメートルの範囲に放射能汚染を引き起こした。この報道が日本に広まると、コールダーホール炉への安全性への懸念が一層高まった。57~59年にかけては、コールダーホール炉の安全性の問題について、学術会議の下部組織の中で盛んに議論され、早急な導入を諌める内容の多くの声明が政府に対して出された。その活動の中心にいたのが素粒子論グループであった。

 57年10月に素粒子論グループは、政府が日英、日米との間で締結を予定していた原子力一般協定(動力炉協定)を急がないように、原子力委員会に要請を行った。翌58年2月には、原子力協定への見直しとコールダーホール型炉の耐震性への対策の重要性を訴える声明を、素粒子論グループは重ねて発表した。この声明に対して翌日には原子力産業会議から、「素粒子論グループの声明は政治的な意図を持ったもので、内容に問題がある」との、反対声明が出されることとなった。

 その時期、坂田昌一は素粒子論グループの取り纏め役に加えて、学術会議においては原子力問題委員会と原子核特別委員会の委員長を兼任するという、重責を負っていた。

 坂田が原子力問題委員長の時代に打ち出した重要な提言に、原子力関連施設の安全性を審査するための組織を、政府から独立して設置するべきというものがある。コールダーホール炉の安全性の議論を通じて坂田は、設備の安全を審査する組織が、導入する組織と同一であってはならないと考えた。坂田は原子力安全保証委員会という、原子力委員会から独立した安全審査組織の設立を学術会議で提案し、これを元に58年5月には正力科学技術庁長官宛に学術会議からの提言がおこなわれた。これに近い組織は、福島事故後に原子力規制委員会として実現されているが、坂田の考えた審査組織は、最高裁判所と同等レベルの政府からの独立性を持ったものであったという。あまりにも時代を先取りし過ぎた坂田の提言は、当時は実現することなく終わる。

 一方で実際の安全審査の仕組みとしては、原子力委員会の下部組織として原子炉安全審査専門部会が設置されて、58年5月に第1回会合が開催された。この審査部会は、坂田の考えた組織とは相当にかけ離れたものであったが、当時の学術会議会長で湯川の後任として原子力委員に加わった(東大工学部を牛耳っていた)兼重寛九郎(かねしげかんくろう)を通じて、この専門部会への参加要望が坂田につたえられた。これに対して素粒子論グループの若手からは、参加を見送るべきという意見が多かったものの、坂田は原子力問題委員会にはかった結果として、学術会議の意見を代表する立場として安全審査専門部会に加わることを決めた。

 安全審査専門部会は下部組織として、国内で設置が計画されていた原子力装置の案件毎に、10の小委員会が設けられていた。問題のコールダーホール型炉の審査は第七小委員会の担当で、通産省の原子力安全審査委員会を兼ねるという、ややこしい割り振りになっていた。坂田は主に研究用の小型原子炉の審査を担当したが、第七小委員会には参加していなかったため、十分な情報があたえられないまま時を過ごすこととなる。それでも坂田は、8月末に学術会議主催の討論会を開催し、コールダーホール型炉の安全性に関する学会からの意見をまとめて、10月半ばに原子力委員会に要望書として提出した。しかし坂田が作成した学術会議の要望書は、審査部会長の矢木栄(やぎさかえ、東大工学部教授、西村肇先生の指導者でもある)には、何故か届く事はなかったという。

 その後の10月末の審査部会では、第七小委員会の最終審査案が報告された。その場で初めてコールダーホール炉の最終審査案に触れた坂田は、その内容の幾つかに疑問を持ったものの、次回の審査部会の日は素粒子論グループの会合と重なっていた。坂田は審査部会の日取りを変えるように要望するも、聞き入れられなかったため、やむなく坂田は、最終審査案に対する要望書を手紙で矢木部会長に提出して検討を依頼した。

 しかしその後の部会では、コールダーホール炉の安全性には問題無しとの結論が、坂田不在のままで可決されて、原子力委員長に報告書が提出されてしまう。安全審査委員としての坂田は、原子力委員会での湯川と同じく、体勢側に名前を利用されるだけの扱いであった。失望した坂田は審査委員を辞任することとなる。

 西村肇先生の回想によると、審査部会の最終結果を公式発表する数日前に、坂田が東大の矢木栄の研究室を訪れて、辞任の意志を直接矢木に伝えたという。動揺した矢木の下に、数日後には兼重寛九郎が突然現れて、自分の考えを安易に曲げないように矢木を諭して引き揚げたらしい。このようななし崩し的な経緯を経て、コールダーホール型発電炉の導入が決定された。

2.10 あとに残されたもの
 学術会議から出された原子力委員会への様々な批判も、決して無意味ではなかった。問題の黒鉛ブロックには耐震性を考慮した種々の改良が施され、蜂の巣型(六角形)の断面形状の側面に凹凸をつけることで、振動の際にも容易にずれない構造が採用された。結果として、茨城県に造られたコールダーホール改良型炉(東海第一原発)は、1998年に運転を停止するまで、大事故に至ることは無かった。

 問題はこの後である。コールダーホール型原発は、東海第一発電所の1機のみで終わり、その後は日本には全く建設されることはなかった。代わって導入された原発は全て、英国炉とは全く異なる構造を有するアメリカ製の軽水炉であった。あれほど坂田達が問題提起したコールダーホール炉の安全対策は、炉型が異なる軽水炉にはほとんど役に立つことなく、無駄な努力となってしまった。本来ならば、軽水炉を導入する際にも、コールダーホール炉と同じレベルの安全対策が、事前に議論されてしかるべきであったが、そうはならなかった。

 科学者達の体制への激しい抵抗も、ここまでが限界だったのだ。坂田が安全審査委員を辞職した後の素粒子論グループは、武谷三男を唯一の例外として、社会的発言に関する情熱を急速に失ってゆくことになる。

 1960年以降には朝永、坂田は研究の第一線から退き、その一方で、高度な数学技巧の競い合いの様相を呈してきた素粒子論に愛想をつかし始めた湯川は、弟子達に他の研究分野への転向を薦めるようになった。広重徹が科学史に転向したのもその一例である。彼等一時代を築いた「大ボス」達の活動の衰えにより、素粒子論グループは求心力を失い始めていた。

 また、社会情勢の変化も物理学者達の運動に影響を与えていた。素粒子論グループの若手研究者達にとって、50年代までの最大の問題は就職難であった。湯川のノーベル賞受賞以来、素粒子論グループへの参加者は大きく増加したが、大学の研究室のポストが非常に少なく、若手の多くは厳しい生活を強いられていた。つらい環境に置かれた若手研究者の不満の捌け口が、政府の対応に向けられていた事情があったのである。

 しかし、55年に東大に原子核研究所が開設されて多くの研究者が移ってからは、素粒子論グループの就職先も徐々に増え始め、60年以降の高度成長期になるとポスドク生活に悩む研究者はほとんどいなくなった。皮肉なことであるが、生活基盤が安定して



[34]中国で建設中のアレバ製原子炉には欠陥部品が使われている。それでも彼らは交換せずに稼働させるだろう。あとは野となれ・・・である。
投稿者:相田英男
投稿日:2016-05-27 23:25:31

相田英男です。
今日は2016年5月17日です。
オバマが広島に来た日です。

 フランスの有名な原子力メーカーにアレバという会社がある。先日、中田さんのブログの中で、アレバが開発したEPRという新型原発に関する話が書かれていました。

http://blog.livedoor.jp/bilderberg54/archives/48029153.html 

 EPRについては正直なところ、私はこれまでノーマークであったので、なんであんなに建設に手間取るのだろうと不思議に思っていました。今回、中田さんのブログをきっかけに、自分でいくつかの資料をネットで探してながめてみたところ、見えてきたEPRの実情は、予想を超えたダメダメさでした。

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題目:ヨーロッパ新型軽水炉(EPR)は何故ダメ原発になったのか

相田英男

1.EPRの特徴
 EPR (Europrean Pressure Reactor) とは、フランスとドイツが共同開発した新型の加圧水型軽水炉である。EPRの最大の特徴は、福島原発のように電源が破壊されてしまっても、炉心熔融に至らず、自然に燃料の冷却を続けることができるという「受動的安全性」を備えている(と言われる)ことだ。この受動的安全性を持つ軽水炉のことを「第三世代プラス炉」と呼ぶ。現在運転中の軽水炉のほとんどは第二世代型原発にあたる。順に説明すると、第一世代炉とは第二次大戦後にソビエト、英国で作られた炉と、シッピングポート(PWR)、ドレスデン(BWR)の二つの軽水炉のことで、最初期に作られ始めた発電用原子炉である。これらを量産化出来るように改良して普及した炉型が第二世代にあたる。

 その次世代にあたる第三世代の軽水炉で、実際に建設されたものは世界でも4機しかない。それは、日本の柏崎、浜岡、島根にある、改良型沸騰水型原発(Advanced Boiling Water Reactor, ABWR)である(いずれも現在は停止中)。PWR型原発の第三世代炉は、なんだかんだで実は未だに稼働していない。この日本のABWRの4機は、第二世代よりも安全性が高いといわれるが、受動的安全性は持っていない。福島のように全電源喪失が起これば、ABWRはやはり炉心溶融する(そうならないように、電源のバックアップが整備されているが)。全電源喪失が起きても炉心溶融しない(はずの)軽水炉が、アレバのEPRと、ウェスティングハウスのAP1000であるが、共に建設中で運転実績はまだ無い。

 EPR については、10年位前に学問道場でも話題になったことがある。ヨーロッパに留学されたある研究者の方から、日本の軽水炉よりも安全性、経済性が格段に優れた原子炉が欧州で作られて、既に建設が始まっている、日本の原発技術は時代遅れになるだろう、という紹介記事が、何度か書かれていたからだ。私はその時初めてEPRについて知ることとなり、そんなすごい炉が作られたら、確かに日本は追いつけないだろうな、と思った。ところが、先の中田さんの記事によると、ヨーロッパが自信を持って送り出したはずの、EPRの調子が実はさっぱりであるらしい。

2.EPR問題の概略
 数あるEPRの問題の中でも特に深刻なのは、圧力容器という部材の欠陥であるという。PWR軽水炉の炉心は稼働中に157気圧の高い圧力にさらされるが(BWRでは半分以下の70気圧)、この高い圧力を封じ込める部材が圧力容器である。圧力容器は軽水炉の中核となる最重要部材であり、厚みが20㎝かそれ以上の分厚い鋼材で作られている(原子力百科事典ATOMICAより)。ここに欠陥があるとすれば尋常な話ではない。私がEPRの圧力容器問題についてネットで調べたら、日本の原子力規制委員会がまとめた資料を見つけた。絵付きの大変わかりやすい内容で、概要をほぼつかむ事ができる。この資料を参考にして、EPRのどこがダメなのかを、一般の方にわかりやすく解説しようと思う。

http://www.nsr.go.jp/data/000130929.pdf
フラマンビル3号機(EPR)におけるRV材料(上蓋、下鏡等)の鋼材組成に関する問題
(以下は資料①とする)

 一部の説明では、アレバによる圧力容器の設計不良とされているが、この資料①を見たところでは、設計が悪いわけではなくて作り方に問題があるようである。

 資料①スライド4の絵からわかるように、軽水炉の圧力容器は長い円筒の上下に、球体を2分割したドーム形状のパーツ(上蓋、下鏡)を取り付けて作られている。問題はこの上下のドーム状の部材に、通常より強度の弱い箇所が存在していることだ。この部材は初号機のオルキルオト3号(フィンランド)を除く、建設中のEPR全てのプラント〔フラマンビル(仏)、台山1,2号(タイシャン、中国)〕で採用され、下部の部材(下鏡)は圧力容器と一緒に既に現地で設置されてしまっているらしい。上蓋はなんとかなるが問題は下鏡で、こちらを交換するには圧力容器全体をもう一度吊り上げて外すことになり、とんでもない手間と費用がかさむことになる。現実的にはアレバ単独で下鏡を交換するのは不可能だと思う。

 何でこんな事になったのかの理由も資料①に描かれている。ドーム部材の作り方は、資料①スライド4と7によると、大きな溶解炉(鉄を溶かす御釜)を使って鉄材を溶かして、円柱形状の鋼塊(こうかい)をまず作る。この鋼塊を薄くロールで圧延し、最後に型で押し潰してドーム形状に仕上げるのだという。溶解後の鋼塊の上下の部分にはスラグと呼ばれる細かいゴミや不純物が集まっているので、圧延の前にこの上下の使えない部分を切り飛ばす事になる。ところがアレバは上部分の切り飛ばしが甘く、鋼塊上部に使えない部分が残ったままで圧延にかけてしまった。その結果、絵に描かれているようにドームに成形した後で、てっぺん部分にちょうど質の悪い部材が残ってしまったという。

 何ともお粗末な話であるが、資料①の最後のスライド12には、このトラブルの防止方法もきちんと書かれている。その方法とは、単に、鋼塊をもっと大きな御釜で溶かすことだという。日本でこの部材を作る際にはスライド7のように250トン溶解炉を使うところが、アレバの溶解炉は157トンと容量が小さかった。鋼塊を大型にすることで、上下の不具合部分をたくさん切り飛ばしてやれば、質の良い部分だけで圧延が出来るでしょう、という事だ。言われなくてもわかるよ、そんな事は、てなものである。

3.日本製鋼所(JSW)が有する、恐るべき鍛造(たんぞう)技術
 実は圧力容器を作るには、今回問題となった上下のドーム型よりも、間の円筒部分の方が難易度は数段高い。しかしEPRでは、この難しいはずの円筒部分では問題はなかったらしい。何でドームよりも円筒の方が作るのが難しいのか?円筒を作るには、板材を圧延した後で筒状にグルンと巻いて、突き合わせの部分を縦方向に直線状に溶接すれば、簡単に作れると思うであろう。初期の軽水炉ではこの方法で圧力容器は作られていた。私が論考で取り上げた原研のJPDR(動力試験炉、今は解体されて存在しない)の圧力容器も、この方法で作られていた(技術評論家の桜井淳(さくらいきよし)氏の著書「日本原子力ムラ行状記」による)。

 しかし近年の軽水炉は違う。最近の原子炉圧力容器では、円筒の縦方向に溶接をしてはいけない。原子炉を稼働する際には、圧力容器の円筒の周方向に引っ張り力が加わるため、縦方向に溶接線があると、割れる恐れがあるとASME(アスメ、アメリカ機械学会のこと)により縦方向溶接線を無くすように推奨されているのである。現在、圧力容器の筒の部分は、溶接無しの丈の短い筒を縦に数段重ねて、円周方向にグルンと溶接して作られているのである。

 継ぎ目のない円筒の作り方は、陶芸の手まわしロクロを思い浮かべればよい。鋼塊の中心に穴を開けてくり抜き、分厚いドーナッツにする。その後に高温に加熱して、回転させながら鍛造(たんぞう、高温の金属をプレス機で変形させる技術)を行い、外径を徐々に拡げてゆくのである。言うのはたやすいが、100トンを超える馬鹿でかい真っ赤に焼けた鋼塊を、大型機材を駆使して加工するのは、至難の技である。

 EPRでこの加工が難しい筒の部分にどうして問題が無いのかというと、作ったのがヨーロッパでなく、我が日本の日本製鋼所(JSW)の室蘭工場だからである。日本製鋼所は100トン以上の大型鋼塊の鍛造技術に関して、世界トップの技術力を持つ日本の誇るべきメーカーの一つだ。

http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/denkijigyou/jishutekianzensei/003_haifu.html
資料4 (株)日本製鋼所における「技術・技能の伝承」と「人材の育成」 
(以下は資料②とする)

 上の資料②のスライド5の中に、JSW室蘭工場で原子炉圧力容器を作る際の方法と、実際の写真が記載されている。見ただけでおよそのやり方はわかると思う。スライド5の図面に載せてあるプレス設備は、最大荷重1万トン以上の超大型の装置である。その大型プレス機の外側に巨大なリングを置いて、厚みを少しずつ減らすのだ。写真の中の人間から鋼塊リングのサイズが把握出来る。なんとも恐るべきアクロバティックなやり方で、圧力容器のシームレスリングは作られているのだ。同じものを中国でも作ろうとしたものの、ことごとく失敗したという。そりゃそうだろう。

 JSWは明治の創業以来、日本最北の室蘭で鍛造技術を黙々と磨いて来た。戦艦大和の大砲もここで鍛造されたという。JSWはざっくりいうと三井系列の兵器産業部門の中核企業である。三菱重工と並ぶ日本の国家の屋台骨を支える重要企業の一つだ。左翼連中からは兵器産業会社とか、軍産複合体の一員だとか、原発会社とか、さんざん批判されるだろうが、このような高い技術力を持つ企業が地道に活動することで、社会の安定が図れるのも疑いようのない事実だ。

4. 圧力容器は何故割れる?
 EPRの圧力容器の作り方が悪いとして、いったい何が問題なのかを簡単に述べる。圧力容器の材料は鉄なのだが、もう少し詳しくいうと低合金フェライト鋼というもので、鉄の 中に1%ちょっとくらい他の元素を加えた合金である。水道管などに使われる安価な炭素鋼(鉄と炭素の単純合金)よりも、ニッケル(Ni)、モリブデン(Mo)、マンガン(Mn)などの特殊元素を加えて、強度を増している。資料①のスライド8に合金の成分表がある。

 EPRの圧力容器で何が問題なのかというと、運転中にバキンと割れる可能性があるかもしれない、と心配されている。金属を構造材料として使うメリットは、力を加えるとグニャリと曲がるからだ。手持ちの針金やスプーン等を探して、手で力を加えると曲がるのだが簡単には折れない(昔は関口少年のスプーン曲げとか、テレビで話題になった。わかるのはジイさん連中だけだろうが・・・・)。一方で、力を無理に掛けると、曲がらずに割れてしまうセラミックスのような材料は、構造材料としては危なくて使えない。金属に力を加えた時にグニャリと曲がる現象を、冶金学(やきんがく)では塑性変形(そせいへんけい、plastic deformation)と呼ぶ。構造材料として重要な性質は、強度が強いだけではなく、塑性変形が可能であることである。だから鉄のような金属材料が重宝されるのだ。

 鉄鋼材料は金属の中で構造材料に最も広く使われている。しかし鉄鋼材料にはある問題があって、温度が低くなると塑性変形が出来なくなり割れてしまうのである。鉄は温度が下がるとセラミックのように 、恐ろしくもバキンと割れるのだ。なんで温度が下がると鉄が割れるのか、それは鉄の塑性変形の主体となる「らせん転位(てんい)」(screw dislocation、金属の結晶の中に存在する原子1個分の線状のズレのこと)という格子欠陥(こうしけっかん、lattice defects、金属結晶中の原子の規則配置のズレの総称)の一種の動きが、温度が下がるに伴って急激に難しくなるためである。らせん転位が動きにくくなると、力を加えても鉄が変形出来なくなり、曲がるより先に割れてしまうのである。なんで、らせん転位が低温で動きにくくなるのかというと、パイエルス力という結晶周期に対応する力が転位に作用して、その大きさが低温になると・・・・・・、となる前に話をやめる。

 これがフェライト系鉄鋼材料(体心立方結晶(BCC構造)を持つ鉄合金のこと、BCC結晶についてはWikipediaとかを見てください)で生じる「低温脆性(ていおんぜいせい)」のメカニズムである。広瀬隆(ひろせたかし)よ、あんたは私が上で書いた内容を正確には理解出来ないだろう。広瀬は「原子炉時限爆弾」という本の中で、原子炉メーカーの技術者は金属材料について 全くわかっていないと、無責任にもほざいていた。私は原子力には関係無い会社にいるのだが、これくらいの金属の基礎知識は、企業研究者ならば誰でも持っている常識なのだ。いらぬ心配を拡めて世間の不安を煽るな、アホ。

 ちなみに、鉄にクロム(Cr)という元素を13%以上加えた合金をステンレス鋼と呼ぶ。クロムの作用により、鉄の表面に不動態皮膜(ふどうたいひまく)という薄い皮膜が出来て、サビにくくなるのだ。さらに鉄にクロムを18%、ニッケルを8%加えると、結晶構造が 面心立方構造(FCC構造、Wikipediaとか参照のこと)に変化して、低温でもらせん転位が動きやすくなるため、低温脆性が原理上起きなくなる。この材料がオーステナイト系ステンレス鋼と呼ばれるもので、サビにくくて低温でも割れないという、優れものの材料である。一般に18-8ステンレスと呼ばれる材料がこれである。

 こんないい材料が出来てバンザイと、最初は皆喜んでいたのだが、世の中はそんなに甘くはなく、オーステナイト系ステンレス鋼もやはり割れてしまう場合があったのだ。これが「応力腐食割れ」(おうりょくふしょくわれ、stress corrosion cracking, SCC)と呼ばれる現象である。応力腐食割れはBWR型軽水炉の部材で多発し、関係者を大いに悩ませることとなる。私の原子力の論考の第5章で触れると思う。

5. 初めからヤバイと思っていたアレバ
 話がそれたが、鉄が低温で割れるとはいえ、通常の材料で割れるのは、零下何度の低温での話である。軽水炉の圧力容器が零度以下に冷やされるのは、ほとんどあり得ないことなので、原子炉で鉄を使うことには全く問題はない。しかし、鉄の成分が資料①のスライド8の表の値から外れて、不純物などが多数混入してしまった場合は、室温(20℃くらい)か、場合によっては100℃を超える高温でも、割れが生じてしまう場合がある。EPRの圧力容器では、これが起きる可能性が高いことが確認されている。

 上の説明のように、鉄鋼材料はある温度以下に冷えると急激に割れやすくなるのだが、この温度を延性−脆性遷移温度(えんせいぜいせいせんいおんど、ductile brittle transition temparature, DBTT と略す)とよぶ。DBTTより高い温度では鉄は割れずに、DBTTより低温になると割れやすくなるということだ。

 DBTTを評価する方法が、資料①にも記載されているシャルピー衝撃試験と呼ばれるもので、角棒形状の鉄の試験片を横に置き、その中心を振り子の先に付けたハンマーで叩き割るという、ユニークな実験である。試験片は振り子の最下部に置かれ、試験片を叩き割ったハンマーが、その後にどれ位の高さまで上がるかにより、鉄の割れやすさを判断する。割れやすい(変形しにくい)材料では、ハンマーが当たった瞬間に破断するため、その後にハンマーは高い位置まで上昇して最後に落下する。一方で変形し易い材料では、割れる前に試験片が変形してハンマーのエネルギーを吸収するため、ハンマーは低い位置までしか上がらない。試験片を叩き割ったハンマーの動きで、鉄が割れやすい(脆性)、または、割れにくい(延性)かどうかの、判断が出来るのだ。

 資料①のスライド2によると、ASN(フランス原子力局、日本の原子力規制庁に相当する組織)からの要求に従って、アレバが 米国製EPRに使用する予定の上蓋から試験片を採取して、シャルピー衝撃試験を行った。その結果がASNが定めた安全規格値を満たさなかったことが、問題が大きくなったきっかけらしい。面白いのは資料①スライド2の説明で、

-引用始め-

AREVAは上蓋・下鏡を新しい方法で製造することとした。2008年以降、ASNとAREVA間で設 計が妥当であることの評価方法を協議。合意を得ず、AREVAは製造開始。

-引用終わり-

という記載があることだ。ASNとアレバの間で、新しい作り方について協議をしたものの、物別れとなり、ASNが疑惑の目を向ける中で、アレバは勝手に圧力容器を作り始めてしまった。そして、容器を実機に組み込んでしまった後で、衝撃試験の結果が基準に満たないことがわかったのだ。アレバのやり方はある意味、確信犯的なやっつけ仕事であり、安請け合いして仕事をミスする三流メーカーによくあるパターンだと思う。

 さて、上の引用で「新しい方法」と書かれているならば、「古い方法」もある筈である。古い作り方とは一体どのようなものなのか?おそらく誰もが察しがつくであろうが、フラマンビルの前に造り始めたEPR初号機であるオルキルオト3号機の、上蓋・下鏡の製造元はJSW(日本製鋼所)だったのだ。JSW室蘭の250トン溶解炉により最初の上下の蓋は作られたが、EPR2号機以降になるとアレバはJSWでの製造を止めて、フランスの子会社で内作させることとしたのだ。しかし、アレバの「新しい方法」がJSW等のそれまでのセオリーから離れた作り方だったため、ASNが疑問を呈した。そしてASNの危惧に全く沿う形で、実機に欠陥が見つかってしまったのだ。

 次の資料のスライド12の中に、JSWが作ったERP用の圧力容器、蒸気発生器の部材の一覧が記載されているので、確認して頂きたい。

http://www.aec.go.jp/jicst/NC/senmon/kenkyuukaihatu/siryo/kenkyuu08/ka-si08.htm
資料第1号 室蘭製作所における原子力発電機器用鍛鋼品の取組み
(以下は資料③とする)

 資料③のEPRに関する表において、上下の蓋はそれぞれ①(Closure Head)、⑦(Bottom Head)に該当している。オルキルオト3号機の①⑦にはF(おそらくFinish、製造完了のことか)マークが記載されており、JSWが作ったことが確認されるが、それ以降のフラマンビルと中国の台山1の原発では、①⑦にFマークの記載は無く、JSWは上下蓋を作っていないことがわかる。そして、フラマンビル、台山は既に圧力容器の据え付けを完了して、建設工事は終盤に差し掛かっているのである。もはや、あちゃー、としか言えない状況である。(台山2号機も圧力容器は既に設置済みで、上下蓋①⑦は多分アレバ製である。米国EPRの圧力容器はまだ現地設置されていない)

6.世界最新鋭の原発は張子の虎だった
 今回の事例から見えて来たのは、ヨーロッパでの物づくり技術力の著しい低下だ。日本で鍛造を行う場合は、JSWの技術が基準となることから、アレバのような失敗は(現状では)まずあり得ない。10年くらい前の原子力業界御用達の業界紙である「電気新聞」の記事で、EPRの建設工事を見学した技術者のコメントを読んだ記憶がある。それには、「日本の原発の建設現場に比べて、EPRではかなり時代遅れな方法が多く使われていた」、とあったと記憶している。EPRの特徴としては、旅客機が衝突しても壊れない、とか、いかなるトラブルが起きても安全性を確保できる、等の先進性が広くアピールされていた。おそらくは設計段階では、そのような性能が盛り込まれていたのだろうが、その先進性を実機の建設に反映できなかったのだ。

 EPRの概念設計はおそらく80年代から始められていたと思う。その時点では、欧州でも第2世代軽水炉の建設を経験したベテラン技術者達が多数存在し、先進的な設計を取り込んだとしても十分に実現性があると、関係者達は見込んでいたのだろう。しかし、時が経つにつれてベテラン技術者達は少しずつ現場から離れて行き、「現実の物づくりの困難さ」の認識が、開発担当者達の中で徐々に薄れてしまったのではないのだろうか。

 上の資料③スライド12によると、初号機のオルキルオト3号の圧力容器、蒸気発生器は全て、JSWで作られている。流石にアレバも、最初の1発目は信頼できるメーカーに全てを任せたのだが、2号機以降では少しずつ内作に切り替えた様子が伺える。アレバがJSWから内作に変えたのは、納期の短縮とコストダウンの必要に迫られたからだと思う。「主要機器がまともだった」オルキルオトの建設が10年以上遅れて、違約金や追加工事の予算がアレバの経営を圧迫するようになった。続くフィラマンビル、台山では、そのダメージを少しでも取り返すために、圧力容器の一部を内作に切り替えたのが、結局は仇になった、ということだ。

 この圧力容器のトラブルはアレバとEPRの致命傷といえる。EPRは張子の虎だったのだ。

 高性能のマシンを提案することは立派なのだが、商業設備ならば安く作って利益を上げることも大切だ。高性能の機械を安く作るには裏付けとなる高い技術力が必要なのだが、アレバの、圧力容器という最重要機器を作る際の技術判断をみると、あまりにもお粗末としかいえない。最近の風潮で、プレゼンテーションなどのバーチャル技術は素晴らしいのだが、現実の物作り技術が遂にバーチャルに追い付かなくなったのだろう。I to T〔Internet of Things(モノのインターネット化)〕等といった、美辞麗句で誤魔化しても、日々の地道な継続と積み重ねがなければ、現実の物はつくれないことの証明である。技術力が衰えつつある日本も他人事ではない。

7.台山(タイシャン)原発は一体どうなる?
 他人事でない話はもうひとつあり、それは中国の台山に造られてしまったEPRだ。こちらの2基の圧力容器には、アレバが「内作」した部材が既に設置されてしまっている。彼らはこいつを、これからどうするつもりなのか?私の予想では、新規部材への交換はせず、このまま稼働させると思う。フラマンビルの方はASNが待ったをかけても、台山の稼働の判断はアレバと中国政府の取決めで決められる。おそらく手間と金のかかる交換等せずに、このまま運転するだろう。

 資料の①によるとアレバはASNに、欠陥があったとしても圧力容器が脆性破壊する(バキンと割れる)ことはない、とコメントしているらしい。一見開き直りにも思えるアレバの主張であるが、これには実は一理あり、現在稼働中のアメリカの軽水炉の中には、圧力容器の劣化が進みDBTTが100℃を超えるプラントが現れている。しかしASME(アメリカ機械学会)は、圧力容器が破壊に至るには材料の脆化以外にも、相当に厳しい条件が加わる必要があるため、これらの原発でも脆化の状況を継続監視しながら運転を行うことに支障はないと、判断しているという(桜井淳「日本原子力ムラ行状記」による)。

 日本でも九州にある玄海1号機等の旧式の原発では、DBTTが100℃を超えて上昇しており、緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動して炉心が水で急激に冷やされた場合に、大きな熱応力(大きな温度差により圧力容器内部に働く力のこと)が加わり、圧力容器が割れて大惨事になるという警告を、東大金属工学科の教授だった井野博満(いのひろみつ)氏が行っている。しかし元東大教授の井野氏といえども、権威のあるASMEの判断を覆すのは難しいと思う。(結局のところ、玄海1号炉は2015年12月に廃炉が決定された)

 私の論考の第5章のネタばらしになるが、井野氏は武谷三男(たけたにみつお)の愛弟子の一人である技術評論家の星野芳郎(ほしのよしろう)が組織した、現代技術史研究会というグループのメンバーである。実は西村肇(にしむらはじめ)先生も、この研究会のメンバーである。一方で先に触れた技術評論家の桜井淳氏は、原研等で原子力実験に携わりながらも、星野芳郎に弟子入りして評論家としての指導を受けており、星野の正当な後継者を自認している。しかしその桜井氏は、井野氏を始めとする現代技術史研究会のメンバーの主張を、正当な技術論から離れた左翼政治運動の一環であると、厳しく批判しているところが面白い。ちなみに元は原発容認派だった桜井氏は、福島事故をきっかけに軽水炉の即時廃止を主張するようになった。

 話は戻るが、アレバの言うように、台山原発の圧力容器の一部が脆化していたとしても、すぐには破壊することは無いのだろう。しかしEPRは全くの新設計の原発であり、未だ運転実績はない。EPRは、他の第2世代原発のような枯れた技術による機械ではないため、「想定外」のトラブルが起きないとは言えない。仮に圧力容器が破損しても、EPRでは「受動的安全性」による多重防護装置が機能するため、他の原発よりも安全だとアレバと中国が言い張るのなら、何をかいわんやであるが・・・・

 このような状況に至ったならば、日本も台山原発が少しでも安全に稼働するように、積極的にコミットするべきだと思う。南シナ海に面した台山が事故ったならば、日本への影響も避けられまい。アレバから圧力容器の図面を入手して、独自に強度解析を行って検証するなど、先方に要求しても良いのではないのか?資料①などでは、日本の原子力規制委員会も調査は進めているようだが、静観するだけでは済まなくなるだろう。

 副島先生の新刊ではないが、今後中国が世界覇権国として台頭するならば、原発大国として米欧日に取って替わるのも、避けられない必然だ。左翼が主張するように日本の原発を全てシャットダウンしても、共産党が支配する中国、そしてロシアでの新規な原発建設を止めることは出来ないだろう。この事実を冷静に受け止めて対応する姿勢が、今の日本の識者達にあるとは言えまい。

相田英男 拝



[30]参考<「反原発」異論』をめぐって 松岡祥男>
投稿者:1094
投稿日:2016-04-23 07:13:08

参考
http://www.fitweb.or.jp/~taka/Nyadex.html

「反原発」異論』をめぐって 松岡祥男(「猫々だより140 2015.2)

 吉本隆明『「反原発」異論』(論争社)を読んで、その刊行の意義はじゅうぶん認める。けれど同時に、なんか嫌な感じもした。
 副島隆彦の「序文」は、「反原発」を〈正義〉と錯覚する倫理的反動を真っ向から批判している。しかし、原発(福島第一原発事故)を〈踏み絵〉にしている点では、「反原発」を主張する人たちと同じだ。わたしは、それに反対である。あの東日本大震災と福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人々のことをおもうと、とうてい副島のように言えないと思うし、また〈事態〉に対して無力だからだ。こういうことは〈面々の御はからい〉がほんとうなのではないのか。
 たとえば、遠藤ミチロウは福島県の出身で、震災以降は、救援のコンサートを企画したりしている。彼が仮に「反原発」の立場にあったとしても、それは当然だとおもう。そうだったとしても、彼は吉本隆明を尊重する気持ちを少しも失っていないことは、先のNHKの番組(「戦後史証言プロジェクト 吉本隆明」)をみても明らかだ。吉本隆明が存命だったら、遠藤ミチロウの活動を励ますことは疑いない。
 「原子力」に対する基本的な認識と「原発事故」とは微妙に位相が違うし、その全体の構造は多岐に渡っている。それを是か非かの一点に集約して〈踏み絵〉にすることはできないはずだ。
 原発の事故に〈責任〉があるのは、誰がなんと言おうと〈政府〉と〈電力会社〉であり、地域住民はそれに対して、どんな立場をとろうと〈自由〉なのだ。そして、原発の設置や再稼動は周辺住民の〈直接投票〉で決すべきだと、わたしはかんがえる。そんなことは、今の状況では実行されることはないとしても、それが国家を開くということだ。
 それに、この大将(副島)はご立派なことに、「弟子」を従えているとのことだ。吉本隆明は「弟子」など一人も持たなかった。むろん、わたしなどそういう器量は初めから持ち合わせていない。

 「それでも原子力の研究を続けねばならない」と吉本が書き続けたので、吉本隆明の熱心な読者及び吉本主義者だったものたちまでが、吉本のこの考えに距離を置いていった。その代表は糸井重里氏と坂本龍一氏だと私は考える.
                 (副島隆彦「悲劇の革命家 吉本隆明の最後の闘い」)

 「それでも原子力の研究を続けなければならない」というのは、揺るぎない〈基礎〉的な科学的真理である.
 しかし、どうして、吉本思想の「背教者」として糸井重里を挙げるのか。わたしはこの発言に強い違和感を覚えた。
 糸井重里は、評論家でも思想家でもない.吉本隆明との関係でいえば、年齢の離れた友人みたいなものである。遠くからみていても、糸井重里は昭和女子大学人見記念講堂での「芸術言語論」という大規模な講演会の開催や、『五十度の講演』を刊行して、晩年の吉本隆明を応援してきた。多少やりすぎに見えたことはあるけど、〈善意〉の人というべきだ。その糸井重里をここで槍玉に挙げるのは、絶対に不当である。
 また、坂本龍一は音楽家で、もともとお坊ちゃん育ちの、極楽トンボなのだ。いまさら取り立てていうほどの存在ではない。どうしてもそういう人物を挙げろと言われたら、わたしなら芹沢俊介などを挙げるだろう。
 そもそも、誰が吉本隆明(その思想)と〈距離〉を置こうと、〈背反〉しようと、その人の勝手であり、そんなことは、本質的にどうでもいいことである。なぜなら、じぶんにとって、吉本隆明がどんなに重要な〈存在〉であるかが問題なのだから.
 そういう点で、副島の「吉本隆明は、敗北し続けた日本の民衆の、民衆革命の敗北を一身に引き受けて死んでいった悲劇の革命家だ」という総括に全面的に同意するとしても、その発想は党派的思考でしかない。それは政治から宗教にまでまたがる、あらゆる宗派思想の止揚をめざしてきた吉本隆明の全営為に〈逆立ち〉するものだ。それら全部を「吉本主義者」という倒錯の言葉が表象しているといっていい。
 だいたい、この本の編者も含めて、六〇年安保闘争、「反核」運動、オウム真理教事件、福島第一原発事故というふうに、象徴的なことがらを捉えて、「悲劇の革命家」といっているけど、わたしはそういうところだけで言うのは〈一面的〉だとおもう。
 吉本隆明が真に〈革命的〉な思想家であったのは、言語表現論や共同幻想論や心的現象論をめぐる〈体系的構築〉は言うまでもなく、晩年の負けると決まっている〈老い〉との闘いを最後まで止めることなく身をもって〈開示〉しつづけたことをはじめ、オウム真理教事件のことを言うなら、同時期の阪神大震災に対する的確な〈分析〉なども抜かすことはできないはずだ。そういう〈切実な課題〉に真向かいつづけたところにある。
 もちろん、ろくに読みもしないで、出鱈目なことを言いふらしたり、じぶんの限界を棚上げし、世論の動向に迎合して、吉本隆明を中傷する輩はごまんといる。だから、姜尚中みたいな連中と〈闘い〉は終わることはないのだ。

 この『「反原発」異論』に収録されているものと、「編者あとがき」で紹介されているもののほかにも、大阪で行われた「ハイ・イメージ論199X」(1993年)の講演の後の質疑応答がある。
 吉本隆明は、明確に〈敵〉(わたしにそう語った。その党派性を否定していたからだ)と位置付けたうえで、「デス・マッチをやってもいいんだぜ」というふれこみのもと、いつもそうであるように〈単独〉で臨んだのである。
 吉本隆明はどんな場合でも、講演会の主役はそこに集った〈聴衆の一人ひとり〉であるという原則を持っていたからだ。
 そして、次のように質問に答えている。

 それから核エネルギーのことですが、これはなかなか確定的な論議がしにくくて、僕も確信を持っていえないけれど、エネルギー産業だけでなく学問も技術も実際の工業も、一般的に科学技術的なものは全部、少ない費用で多くのエネルギーを得られるもの、より安全でより精度の高いものを科学技術が生み出せば、今まであった産業は衰退してしまう。これが自然科学や技術の趨勢というか、一般てきなあり方だと思うのです。だから原子力エネルギーよりも効率的で公害が出なくて、あらゆる面でこれより良いエネルギーの取りかたが可能になれば、原子力発電というものはひとりでに衰退して行くだろうと思います。仮にいくら核エネルギーに固執しようとしても、より経済的でより安全なやりかたが生まれてくれば、原子力発電みたいなものは直ちに衰退に向かうだろうと思っています。

 だから核エネルギー肯定論者でもなんでもないですけれど、科学技術というのはもっといいものを必ず生み出します。蒸気機関車から段々進んできましたし、石炭から石油になったようにエネルギー問題も段階が進んできました。必ずいいものはできますから、ある期間だけ日本は40%使う、フランスは99%使ってるというふうになってますけど、それは危険でもありますけれど、技術者がものすごく気をつけて、反対する人がその情報をよく疎通させて、少し危ないとすぐ指摘できるようなシステムを作っておけば、ある程度はそれでやれるし、止むを得ないこともあるんじゃないかと思いますから。
 僕は核エネルギーに対してやみくもに反対していないことは確かです。そういうこといつでも怒られています。「あいつはけしからん」といつも怒られています。危険なことをわざわざやらせるわけでもないし、やらせる立場でもない。僕が云って別に何が変わるわけでもないですけれど、自分の経験と考えではこういうことです。
         (吉本隆明「ハイ・イメージ論199X」質疑応答)



[29]第4章 理不尽すぎる審判(その1)
投稿者:相田英男
投稿日:2016-04-23 07:02:44

みなさんこんにちは。相田英男です。

これからここに、5回に分けて、私の論考「思相対立が起こした福島原発事故」の第4章「理不尽すぎる審判」の全文を載せます。この章は私が最も書きたかった内容なので、読み応えがあると思います。

実は第4章の内容は、1964年2月と3月に国会(衆議院)で開かれた3回の委員会の議事録からの抜粋です。例えば以下から議事録の全文が読めます。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0068/04603120068009a.html 
(③ 第046回国会 科学技術振興対策特別委員会 第9号 昭和三十九年三月十二日)

(注:同じ第046回国会の ① 科学技術振興対策特別委員会 第4号 昭和三十九年二月十三日、② 科学技術振興対策特別委員会原子力政策に関する小委員会 第1号 昭和三十九年二月一九日、についてはリンクが上手く貼れなかったので、国会会議検索システムから辿って下さい。
 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/main.html )

この中でも、3月12日の委員会こそが最大のクライマックスであり、日本の原子力の方向と福島事故への道筋が決定付けられた日です。この日の議事録を私が見つけた時の、驚きと怒りは今でも忘れません。上の議事録を読んで頂ければ別に事足りるのですが、長いし、余計な会話も多いし、登場人物達の立場などもよくわからないと思うので、以下の私の抜粋を始めにご覧ください。

ちなみに、この中で私が最後までわからなかった、2月20日に菊池理事長がいきなり辞表を出した経緯については、ferreira(フェレイラ)という方ブログの中で先日、驚きの真実が掲載されていました。
http://ferreira.exblog.jp/

ferreira氏によると、当時発行された右翼雑誌「全貌」の64年5月号に、原研の裏事情が全て書かれているそうです。(私もそこまでは調査がまわりませんでした)原研のリーダーであった菊池理事長が、稚拙なマネージメントをした結果が、自らを窮地に追い込むことになったみたいです。やはり菊池は年末の国1号炉のスト事件で限界に達していたのかな、とも思えます。

有史以来初めての、原子炉にテロを掛けられた研究所長になってしまった重圧は、相当なものだったのでしょう。育ちの良いボンボンの菊池は、追い詰められた土壇場の状況では脆かったのですね。茅誠司のような叩き上げ学者ならば、何事も無く混乱を収めることが出来たでしょうが。茅誠司は左翼学者に凄く嫌われていたので、原研理事長は無理だったのですが。

それでも、2月19日の委員会での菊池理事長が述べた、原研の今後の技術方針は、筋の通った素晴らしい内容です。こういうプランを持っていた菊池を追い詰めた、周囲の連中が愚かだったと、私は思います。

今回、ferreira氏と私の力で、日本の原子力開発における最大の闇の部分を切開して、光を当てられたと考えています。64年の2月と3月の出来事が、全てを決めていたのです。これらの議事録がオープンであるにもかかわらず、この内容に踏み込まなかった日本の科学史家達は、どうしようもないと思います。彼等は皆、武谷三男、広重徹の影響で、左翼バイアスが強すぎて、事実がありのままに見えなくなっているとしか思えません。

ここで書いた事件について詳しく調査して纏めると、博士論文が書ける位の濃密な内容でしょう。但し悪名高い「全貌」からの引用は、流石にできないでしょうが。

相田英男 拝

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相田英男
「思想対立が起こした福島原発事故」
第4章 理不尽すぎる審判
4.1 原研とはおいらん道中なのか?
4.2 菊池正士、国会に立つ
4.3 最強の刺客あらわる
4.4 訪れた運命の日
4.6 打ち出された「森山ドクトリン」
4.6 悪いのはすべて理事長
4.7 オセロの駒にされた原研労組
4.8 正義は何処にある

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第4章 理不尽すぎる審判
4.1 原研とはおいらん道中なのか?
 
63年末から半年の間、JPDR導入をきっかけに労使問題で紛糾した原研の様子について、科学史家の吉岡斉(よしおかさとし)は、主著である「原子力の社会史」の中で次のように記している。

-引用始め-

(原研では)1959年6月以来ストライキが頻発し、(中略)労使関係が極度に悪化したため、原研首脳陣の人事面での管理能力の欠如が、クローズアップされた。このように原研という組織自体が、政・官界の強い不信感にさらされた。そうした不信感の高まりを受けて64年1月、衆議院科学技術振興特別委員会が、原子力政策小委員会(中曽根康弘委員長)を設置し、「原研問題」の調査に乗り出した。そして三ヶ月後の64年4月、特別委員会は統一見解をまとめ、原研改革の基本方針を提示した。(中略)それ以降原研は、政府系の原子力開発の中枢機関としての地位を剥奪され、研究所内の管理体制が大幅に強化された。

-引用終り-

相田です。ここでの吉岡の説明はすこぶる簡単なものだが、その最後には「原研は、政府系の原子力開発の中枢機関としての地位を剥奪され(た)」という、なんとも尋常ではない記述がある。第4章では、この吉岡のいうところの、原研が「原子力開発の中枢機関としての地位を剥奪される」過程を、具体的に追ってゆくこととする。

さて63年12月のJPDR(動力試験炉)の引取りを終えて、年が明けた64年1月には、自民党政治家達の手により原研の混乱した状況を収拾するため、中曽根康弘を委員長とする「原子力政策小委員会」が設置されたとされる。しかし、具体的な動きが公に確認されるのは、翌月2月13日の「第46回国会 科学技術振興対策特別委員会 第4号」である。議事録によると、この日は島村武久が再び登場し、社会党の久保三郎(くぼさぶろう)議員からの質問への答弁を行っている。

久保議員の質問は原子力行政全般に関する広い内容で、ここでは特に引用は行わない。ただ、年明け以降にJPDRが停止している理由について、久保議員は「GEからの引き渡しが終わった後で、JPDRに故障が見つかったためではないのか?」と問い質した。これ対し島村は、「JPDRの停止理由は、労組との争議(ストライキ)協定が切れていることも一因であり、協定締結次第に運転に取り掛かる予定である」と回答している。

第3章で記したように原研では、GEからJPDRを受入れるために、11月28日に労使間の争議協定(スト実施前の24時間の猶予を設けること)が慌ただしく締結されたものの、引渡し後の12月末には協定は失効していた。年明けから原研の労使間では、新たな争議交渉が進められていたものの、未だ合意されておらず、それが解決できないとJPDRの運転は出来ないことを、島村はさりげなく訴えている。このJPDRの新たな争議交渉は、この後、様々な外乱が加わることで難航する羽目となる。

2月13日の討論でもっと面白いのは、同じ社会党の岡良一議員と科学技術庁長官の佐藤栄作とのやり取りである。以下に議事録から一部を引用する。

―引用始め―

(岡委員) いま問題になっておるのは、原研の組織と運営がこれでいいかという問題でございます。八年の間に五百億をこえる国家資金を投入しておるはずでございますし、また、原子力政策の中核として国民の大きな期待をつないでおる、原研が、現状でいいのか。あるいは原研の組織、運営の刷新、そのためには日本の原子力政策そのものがもう少しきちっとしなければいかぬ。いわば、原研にもし混乱がある、あるいは停滞があるとすれば、その大きなバック・グラウンドとしての責任は、むしろ原子力政策そのものにある、原子力委員会にある、こう申し上げたいのでございますが、この原研の停滞、混乱、紛争というものの真の原因というものを、われわれが前向きに解決しようとするならば、ここまで掘り下げて考えるべきではないか、こう思っておるわけです。この点、長官の御見解を承りたいと思います。

(佐藤国務大臣) どうもこれは事柄の性質上、どこか責任者を明らかにしたいというお気持ちがおありのようですが、私考えますのに、第一段は、特殊法人でございますから、特殊法人内部において解決すべき事柄のように思います。さらに、それが方針を決定する立場においては原子力委員会、あるいは原子力委員長である私自身がそういうことを考えるべきですが、そう理屈っぽくならないで、今日までのところまだ基本的な方針もはっきりなっておらない、これは事実でございますから、ただいま何があるのだと言われれば平和利用という、それだけははっきりしておるから、その方向でさらにこれを掘り下げていく。これは原子力委員会等においても問題だろうと思います。(中略)

 そういう事柄と関連をいたしまして、私どもの立場は、管理者(引用者注:原研理事側のこと)に対してのいろいろの要求はできる。しかしながら、組合側に対してどうこうという問題は、これは管理者の中できめることじゃないだろうか、かように実は思っておりますので、労使双方の紛争の渦中にはなるべく入らないように注意しておるつもりです。(中略)

問題は、やはり私どもが方針として明示するもの、これは管理者に対してする。それから労使双方の問題は管理者内部の問題である。やはり区別して考えて、組合の内部の問題まで原子力委員会の責任にするというのは少しぼやっとしておりまして、範囲が広過ぎやしないだろうか。(中略)なるべく労使双方の紛争は労使双方できめていく、そういう形でありたいものだ、かように思っております。

―引用終り―

相田です。岡議員は、「原研がここまで混乱した原因は、原子力政策がきちんとしていないためではないのか、原子力委員会はこの事態の収拾にもっと積極的に取り組むべきではないのか」と、原子力委員長の佐藤大臣に迫った。岡議員の主張は、私にも大変もっともなものだと思えるが、これに対して佐藤は、「労使紛争の解決は原研内部の話し合いで行うことが筋であり、原子力委員会はこれに介入するつもりはない」と、責任をかわした。どんなに原研でもめごとが起ころうとも、労使関係という組織の内部問題には原子力委員会は関与しないと、佐藤は逃げを打った。

しかし、このような弱腰の回答を受入れる岡議員ではなかった。少々長くなるが、岡議員の佐藤への訴えを続けて引用する。

―引用始め―

(岡委員) 私が申し上げたのは、別に労使間に紛争があるということだけを申し上げたのではない。問題は、原研を現在刷新しなければならないとすれば一体どこに原因があるかということを、労使の問題をも含めて、これはわれわれにも責任があるのだから、謙虚に反省して、この反省の成果に基づいてそこに初めてほんとうの刷新ができる。(中略)本質を突き詰める必要がある。こういう本質を突き詰めることによって初めて前向きの解決ができるのだと、こう私は考えておるわけです。

 そこで、たとえば先ほど久保さんの御質疑にもお答えになられましたが、原研でいろいろな炉をたくさんつくられましたが、一体一貫性ある研究体系というか(中略)、そういう計画性のある一貫した研究体制の上に炉がつくられておったのかどうか。この点では私は非常に疑問にも思っておるし、たびたび委員会でも申し上げておったわけです。たとえば具体的に申し上げまして、日本で動力炉をつくるというので、原研の若い研究者の諸君がどんな炉の形がいいのであろうかということをいろいろまじめに検討した。ところが、しゃにむにコールダーホール型が採用された。

かと思うと、一方ではまた国産動力炉、これは原子力委員会のほうでは天然ウラン重水型。そうかと思うと日本原子力発電株式会社は第二号炉は軽水炉型、三号炉も四号炉も電力会社にまかせて、多分軽水炉型のものではないかなというように、全然一貫性がない。原子力研究は自主的にと基本法に書いてあるのだけれども、これでは全然一貫性というものが見られない。こういうところに、やはり原子力研究所に働く人たちの、初めは非常に開拓的な精神を持って入ってこられた諸君の、いわば意欲をそぐ、士気をそぐ大きな原因があるのではないか、私はそう思うのです。(中略)

(佐藤国務大臣) もちろん国産炉というものが、技術者によるわが国の純粋な国産炉、そういうものに非常に力を入れるべきだと思います。しかし、原子力そのものが、先進国だといいましてもどんどん改良されつつある今日でございます。その基礎的なものだけを準備した、こういうのが現在の状況でございますから、いま言われること、将来力を入れること、これなどはまた変わってくるだろう。で、ただいま実用に原子力発電所をつくる、そうして大きいものをつくる。そうしなければこれは間に合わない。おくれている。そのおくれを取り返す。それにはどうしたらいいか。それは外国の例などを見て、そうして外国が成功しているものを日本でつくってみようじゃないか、こういう形になるのが、これは普通のことではございますまいか。(中略)

(岡委員) 御存じのように、アメリカは濃縮ウラン軽水減速冷却、フランスへいけば天然ウランでガス・クールド重水減速で、英国は黒鉛減速で天然ウランでガス・クールド、それぞれタイプを持っている。ところが、カナダへいけば天然ウラン重水一本である。しかも、そういう炉のタイプにいたしましても、長官お示しのように、やはり日進月歩にどんどん進んでおるわけです。だから、外国のものをまねようと思ってあとを追いかけていったら、これは切りがない。(中略)

ところが、人が足りないのに、外国からあれこれの炉を入れる。こういうことで、ただ完成された自動車と燃料を外国から買って運転手を養成する機関になっているというような姿に原子力研究所が、追い込まれたのでは、私は日本の原子力研究所が真に原子力政策の拠点として、中核として発展し得ないのではないか。こういうところにやはり原研の現在の停滞、混乱の一つの大きな要因があると思うのです。

―引用終り―

相田です。日本の原子力技術が外国に遅れているから、よそで成功した原子炉を入れようといっても、アメリカ、フランス、英国、そしてカナダと、それぞれ形式の異なる炉型を開発しているではないか。まねをしようとしても全てを買う訳にはいかないだろう。なぜ日本独自の、主体性をもった開発方針を原子力委員会として打ち出すことをしないのだ?という、まことにもっともな提言を、岡議員は行っている。

ここで岡議員が懸念を示している、外国の原子力技術へのサルマネ体質は、現在の「原子力ムラ」においても一向に解決されないままであることは、誰もが理解できると思う。50年前にすでに国会で俎上に上げられたこの問題が、なぜ現在に至るまで放置されたままであるのか、その答えはもうじき本論考で明らかにされる。岡議員の質問からの引用を続ける。

―引用始め―

(岡委員) なぜそういうことになったか。私はそこに原子力研究をゆがめる要因があると思う。先ほど申しましたように、なぜコールダーホールが入ってきたのか。その当時この委員会では何回も何回も問題になった。やはり、正しい研究を一本で進めようとする、その一本のレールを押し曲げようとする外部の力があった。それが原子力研究所が各国の炉の陳列会場であるといわれるような形にまで持ってきた一つの大きなあれじゃないか。

こういうものにゆがめられたのでは、ほんとうの日本の原子力政策、一貫性のある正しい軌道に乗った発展というものは望み得ないと思う。こういうものを排除していくというくらいの大きな決意を持って、ほんとうに日本の若い科学者の意欲を満たし得るような原子力体制、研究体制というものをつくるということが、原研立て直しのまず一番のめどじゃないかと思うのです。(中略)

私結論だけ申し上げておきますが、とにかくこれは、下世話なことで恐縮だが、日本原子力研究所はおいらん道中をしておるという話が実はある。なぜかと聞いてみましたら、とにかく花かんざしからこうがいから高げたまで、よその借りもので、見た目は非常にあでやかだ、しかし中身は遊女だ。他人のきげんきづまばかりとっておるというのが心でしょう。こういうことは私どもはまことに不快な話でございます。

 この際、長官もおっしゃられたように、やはりそういうおいらん道中ではなくて、ほんとうに自分の足で歩けるように原子力研究所の立て直しをやってもらいたい。それにはまず、日本の原子力政策というものが他の力によってゆがめられないように、同時に、こういう新しい科学の分野の研究でありますから、もっと計画性、総合性、一貫性というものを十分に尊重していく。原子力研究所内部においてもっと指導体制というものを確立してもらいたい。もうその日限りというような、右顧左べんのような姿では困る。確立し得るように予算その他の面においてもやはりめんどうを見てもらいたい。(中略)

(佐藤国務大臣) よく伺っておきます。

―引用終り―

相田です。第三章で触れたように、岡議員は精神科医から社会党の衆議院議員に転じた方であるが、原子力についても強い関心を持ち、熱心に勉強されていることが、言葉の端々から伺える。岡議員は、55年に成立した原子力基本法の提案に社会党を代表して加わっているが、その後の原子力委員会の開発方針が一貫せず、「その日限りの、右顧左べんのような姿」で彷徨い続ける状況に、強い憤りを感じていたのだろう。ちなみに岡議員の主張の合間には、佐藤大臣が何回か返答しているのだが、岡議員の話に比べるとあまりに内容に乏しいために、ほとんど引用しなかった。

「原研がおいらん道中をしている」という箇所は、今の国会の風潮ではほとんどセクハラに近い問題発言であるが、このようなユーモラスな例えを使うことで、岡議員の発言には説得力が増している。「(日本の原子力は)見た目は非常にあでやかだ、しかし中身は遊女だ」とは、正に至言というしかない。この日の討論では、原子力委員会の怠慢を叱責する岡議員に、佐藤大臣が完全にやり込められる結果となったが、戦いはまだ序盤戦に過ぎなかった。

続く2月19日に開かれた、「科学技術振興対策特別委員会 原子力政策に関する小委員会 第1号」では、参考人として当事者の菊池理事長が招かれて説明を行うこととなる。


4.2 菊池正士、国会に立つ

2月19日の「原子力政策に関する小委員会 第1号」は、原研の状況と問題点について調査することを目的として、中曽根康弘小委員長の下で開催された。原研からは、菊池理事長の他に2名の理事が参考人として出席し、主な報告と答弁は菊池理事長自身が行っている。この日の最初に菊池が述べた、原研の近況報告から引用する。

―引用始め―

(菊池参考人) 最初に(中曽根小委員長が)おっしゃいました、原子力の日本における位置と原研という非常に大きな問題でございますが、私のただいま原研の理事長をやっておりますそのままといいますか、(中略)率直に私のいま原研の理事長をやっております点の感じを申し上げたいと思います。

 まず第一に、日本の原子力の出発の当時のこと、ちょうど七、八年前のことを考えてみますと、まあ非常な意欲と勇猛心をもって、短期間に諸外国とのおくれを取り戻すというような、非常な勢いをもってこれに飛び込んだわけです。(中略)当時、私は学界の側におりまして、学界の側は、これはかなり批判的であり、消極的であった。私も学界の側にありましたのですが、原子力のような事業が当時の学界のような消極的な――消極的と申すと語弊があるかもしれませんが、非常に用心深い態度だけでは、原子力というものはとても日本には芽ばえまいというふうには考えておりました。したがって、私も当時原子力委員会の参与等をいたしておりましたが、出発後にも、私は学界としてできるだけこれに協力してやっていく考え方をとってやってまいりましたのですが、とにかく非常な決心と勇猛心をもって開発に飛び込んだという状態でございました。

 それから約八年ばかりたって、現在の原研というものが置かれている状態といいますのは、私は決して弱音を吐こうとは思いませんけれども、これを戦争にたとえるならば、非常な決心でもってある部隊を送り出した。それで、非常な苦戦をしている。それに対してあとから兵たん部も補給部隊もどんどん来ればいいのでありますが、これがなかなかおくれていて、来ない、前線に取り残されて非常に苦戦をしておる、そういう感じを私は率直に申して持っております。これは決して私の弱音ではありませんが、事実そういうことになっていると思います。

それで、いろんな労務問題、その他の関連も、こういった非常な苦戦の状態になりますと、いろいろな意味で士気も乱れます。こういう場合に、士気をまとめ、秩序を保って整然とやるということは非常な努力が要る仕事でございます。(中略)戦争の場合ならばスパイが入り込むという余地もできましょうし、いろんな問題がそこに起きるわけでございます。

 ですから、私はこの原研の問題を他に押しつけようとは決して思いませんけれども、そういった日本全体としての原子力の開発という観点からこの原研の立場を十分に見ていただいて、そして、原子力政策というものをはっきり立てていただいて、この際戦線を縮小するとか、あるいは補給部隊をどんどん送るとか、そういったような措置をここで十分とらなければ、せっかく飛び出していった先発隊が見殺しになるという事態も起こりかねないということを私はここに申し上げたいのであります。

―引用終り―

相田です。この日の菊池は最初から、非常に率直に自らの考えを綴っている。中曽根予算提出に始まる原子力開発の勃興時には、学術会議を中心とする科学者達が非常に消極的であったため、菊池は「これではだめだ」と「とにかく非常な決心と勇猛心をもって(原子力の)開発に飛び込んだ」という。

しかし菊池は現在の原研について、部隊が最前線に孤立している一方で補給が満足に得られず苦戦している状況であると、戦争に例えて話している。戦争中に海軍技師としてレーダー開発に従事した菊池らしい説明だと思う。菊池はここで「労務関係の問題も苦戦による志気の乱れに起因している」と述べ、「この際戦線を縮小するとか、あるいは補給部隊をどんどん送るとか、そういったような措置をここで十分とらなければ、せっかく飛び出していった先発隊が見殺しになるという事態も起こりかねない」という切実な要望を訴えている。それに続く菊池の説明を引用する。

―引用始め―

(菊池参考人) もう少しそれを秩序立てて申し上げるならば、確かに日本には原子力委員会というものがございまして、これが原子力の政策をきめてまいります。現在原子力の開発に関する長期計画というものもできております。(中略)しかし、かなりそれが抽象的なものでありまして、必ずしもあまり具体的にはなっておりません。それから、そういう原子力政策を遂行するためには、必ずそれに伴ういろんな予算的、あるいは人員的な裏づけが必要になります。それで、私の一番感じますのは、原子力政策を立てるということと、それに伴うそれの実行計画の具体的な樹立、これが必要だと思います。

実行計画と申しますのは、金と人の問題でございます。これを現在のごとく(中略)、原子力研究のような息の長い仕事をするためには、どう見ましても、一年ごとの概算要求の提出、それの切った張ったといったやり方、これでは大きな計画の立てようがございません。諸外国のいろんな例を見ましても、いまの日本のような予算のやり方で原子力の開発をやっている国はないといっていいと私は思います。少なくとも向こう三年くらいにわたってのはっきりした予算と人の裏づけというものがないことには、こういった仕事はできないといわざるを得ないと思います。(中略)

私は何も原子力だけに時別な措置をしなければいかぬというところまでは言っているわけではございませんが、日本の将来のエネルギー問題として原子力のことを非常に重要視されるならば、少なくとも原子力について何かそういった考慮がしていただけないと非常にむずかしいということを感ずるのであります。

これは決して弱音とか泣き言を申すつもりはないのでございますけれども、四年間ばかり原研の仕事をやってまいりまして、つくづく感ずるところであります。もちろん原子力委員会ともたびたびそういう話はいたしますし、原子力委員会としても十分その点は考えて、いろいろやっていてくださいます。しかし、これは単に原子力委員会とか原子力局とかだけの問題ではございませんで、日本全体のいろいろな面のあり方に関連することだと思います。そういったことが私はこの原子力をやっていく上の基本に大きな問題としてあるということを申し上げたいのであります。

―引用終り―

相田です。結局のところ菊池はここで、問題の核心は原子力委員会のありかたにあるのだ、と述べている。原子力委員会という最高組織はあるものの、そこで決められる長期計画は抽象的な内容に過ぎず、具体的な予算、人員に対する裏付けがなされていないことが、実務を進める際の大きな障害になっていると菊池は説く。原子力委員会が長期的な計画を打ち出しても、予算の遂行は大蔵省の一存で決められてしまい、原研の労務費等のお金は、大蔵省が決めた単年度毎の概算要求の中からむりやり絞り出さねばならない。これでは、長期的な安定した研究開発の遂行など無理ではないか、ということである。「少なくとも向こう三年くらいにわたってのはっきりした予算と人の裏づけというものがないことには、こういった仕事はできないといわざるを得ない」という菊池の主張については、まったくもって、私も同感である。

 菊池がここで訴えた、原子力委員会が実際の研究開発の遂行に役立っていないという指摘は、2月13日の岡議員の主張と全く同じであることに、注目すべきである。続いて菊池は、今後の原研の活動方針について説明している。

―引用始め―

(菊池参考人) 大局的な話はそのくらいにしまして、いま少し原研の現状を申しますと(中略)、原研には現在JRR1、2、3、4と四つ研究炉がございまして、そのほかに動力試験炉JPDRがございます。それから、それに伴っていろいろ大きな研究設備としてはホット・ラボであるとか、あるいは再処理試験場であるとか、それからまた最近はRI製造工場もどんどんできつつあります。(中略)これらのものが、今後の日本の原子力の発展のためのファウンデーションにとっては必要欠くべからざるものであろうと、私は信じております

 それから、それでは今後こういうファウンデーションの上にどういった仕事をやるのか、(中略)いま原研としてこれだけはやっていこうと思っていることで、はっきりしておりますことは、第一番目は、まずいわゆるプルーブン・タイプといいますか、現在欧米でもう十分開発された炉で、近い将来日本にどんどん導入されてくるであろうという、これは産業界を通じて、電力業界を通じて入ってくるであろうという炉型で、主としてこれはイギリスのコールダーホール、これはもう建設もなかば以上進んでおります。

それから、二号炉としては、おそらくアメリカ式の軽水炉が入るであろう、将来ともこの軽水炉型は相当な数が入ってくるであろう。そういうようなことを目標といたしまして、こういったものに対する、たとえば今後はこれがだんだん国産化されていくことが当然考えられる。そのための国産化、それから国産に伴って、これはただ前のものをまねしてつくるだけではなく、いずれその部分、部分でありましょうが、改良しつつ国産していくでありましょう。そういったことに対する寄与、これを一つの原研の重要な目標に考えております。

―引用終り―

岡議員からは「おいらん道中」と揶揄されたものの、近年稼働を開始した大型原子炉を中心とする原研の一連の「ファウンデーション」は、今後の日本の原子力の発展のために必要なものだと菊池は説く。これらのファウンデーションを用いて取り組む最初のテーマとして、菊池は「プルーブン・タイプ炉の国産化」を挙げている。

「プルーブン・タイプ炉」とは分かりやすく述べると、「発電装置としての機能を(欧米において)実証済の原子炉」という意味である。菊池の説明にあるように、このタイプとしては、当時既に建設中のコールダーホール型(英国製)と軽水炉型(米国製)が該当する。しかし、前者の日本への導入は最初の1基のみで終わってしまったことから、プルーブン・タイプとは実質的には軽水炉を指すことになる。すなわち菊池は、原研の第1の目標として、「軽水炉型原発の国産化」への貢献が重要であると主張しているのである。何はともあれ、まずは軽水炉の技術的なバックアップが大事であるということである。

軽水炉型原発が真の意味でプルーブン(この場合「商業設備として安全性が十分に証明されている」という意味)であるかどうかについては、原発反対派からは異論が噴出するであろう。3.11福島事故を起こしてしまうような設備が「プルーブン」であるなどとは、到底言える訳がないのだが、この問題に関してはここでは触れないことにする。

さて菊池が想定していた、軽水炉の国産化を進めるための「ファウンデーション」となる設備とは何か?当然ながらそれはJPDRであることは明らかである。このような、まずは手近な処から技術を着実に積み上げて行こうとする菊池の方針は、極めてまっとうなもので、技術開発の王道であると自分には思える。この菊池の路線に従って、原研がその後も軽水炉の改良を継続していたら、福島事故は間違いなく防ぐことが出来たであろうと、私は断言できる。しかしながら、現実はそうはならなかった。

菊池はこれ続く第2、第3の原研の目標について、以下のものを挙げている。

―引用始め―

(菊池参考人) それから、さらに非常に遠い将来を見ましたときに、原子力の将来が高速増殖炉に置かれているということ、これはいま各国とも共通な目標であります。この高速増殖炉というものが完成いたしませんと、原子力というものの開発をやる意義というものが非常に減殺されます。(中略)これにはいろいろむずかしい技術がございますので、われわれとしても、高速増殖炉の問題はいつまでもこれを追究していき、でき得るならばやはりここにある程度の実験炉の建設を目標に、これを追究していきたいということを考えております。

 それからもう一つは、いわゆる二年ばかり前から出始めました国産動力炉の開発をひとつやる。これは遠い将来を考えますと、高速増殖炉一本ではこれに必要なプルトニウムの資源をどこからか持ってこなければならぬ。その資源を持ってくるために別のタイプの、いわゆるコンバーター・タイプの炉が必要になってまいります。(中略)こういう炉ももちろん諸外国でいろいろなタイプの炉がすでに開発されつつあります。(中略)その中でも特に日本にとってこういう種類のものが非常に重要であろうと思われるものを取り上げて、今後の国産動力炉の炉として取り上げていこうということが原子力委員会の考え方でありまして、その部会で決定されたのがいわゆる重水炉、天然ウランを基調とした重水炉ということになっております。(中略)

 現在、それでは重水炉でどういう型をやるかということについていろいろ検討中でありまして、(中略)これが決定されれば、そういった意味の国産動力炉と増殖炉の開発、それから最初に申しましたプルーブン・タイプの炉の国産化、改良、そういったことを原研の開発の主要目的としてやっていきたい、かように考えているわけでございます。

―引用終り―

相田です。ここで菊池が触れている「コンバーター・タイプ炉」とは、西堀栄三郎(にしぼりえいざぶろう)による「半均質炉開発」が頓挫してからの「国産動力炉開発」の後日談である。最終的に目指す方式は「高速増殖炉」であることは変わっていないものの、その前の「つなぎ」として選定されたのがコンバーター炉である。「コンバーター」とは一般には「変える、変換する」という意味があるが、原子力においては、原子炉が運転する際の「ウラン燃料の転換」を指す。すこし説明すると、原子炉を運転する際には、ウラン235の核分裂により発生した中性子が、核分裂しにくいウラン238に吸収されて、再び核分裂を起こすプルトニウム239に「転換」される。この時の、新たに作られた核分裂性プルトニウム239の量を、「燃えて」無くなったウラン235の量で割った値を「転換比」と呼ぶ。

通常の軽水炉では転換比は0.6であるが、「もんじゅ」に代表される高速増殖炉では転換比は1.0を超える値となる。すなわち高速増殖炉では、元のウラン燃料が無くなった後により多くの燃料が新たに作られることになる。「夢の原子炉」と呼ばれる所以である。菊池が触れた「コンバーター・タイプ炉」とは、転換比が軽水炉より上回るものの1.0には及ばない程度(だいたいは0.7~0.8程度)の性能を持つ原子炉のことである。

このような炉が必要とされた理由は、高速増殖炉の実現には技術的な困難が高いので、その前段階の技術として、将来の高速炉の燃料に用いるプルトニウムを事前に準備するという目的が、原子力委員会と原研との間の相談で出されたためである。本当にそんなものが必要なのか?という疑問も、当時からあったようであるが、炉型としてはカナダで開発されていた、天然ウラン燃料に重水冷却材を組み合わせた原子炉(CANDU炉の前身にあたる装置)を参考に出来ることから、半均質炉のような前例のない炉型ではなく、実現性の高い堅実な方針にシフトしたと言える。この考え方を発展させることで、青森県で1978年に臨界に達した装置が新型転換炉「ふげん」である。

実は、残りの高速増殖炉においても、当時の原研では着実な進展が現れていた。63年に原研では高速炉の反応実験を行うための臨界実験装置(Fast Critical Assembly, FCA)の予算が認可され、67年4月に臨界を達成する。さらに65年からはFCAの建設と並行して高速実験炉の設計が原研で開始され、68年には240枚の図面による2次設計図面を完成させた。原研でこの一連の高速炉開発を指揮した能澤正雄(のざわまさお)氏は、阪大菊池研の出身の非常に優秀な研究者であった。この設計図面を元に茨城県大洗海岸に建設されて、1977年に臨界に達したのが高速実験炉「常陽(じょうよう)」である。

しかし、原研の輝かしい成果になるべき「常陽」の建設と運用は、原研から引き離されて、67年に分離独立した動力炉・核燃料サイクル事業団(動燃)に移されてしまう。この経緯については次章で述べる。

半均質炉の失敗等の問題はあったにせよ、菊池がこの日に打ち出した原研が取り組むべき3つの目標は、技術的な重要性と実現性の観点からは非常に妥当で、当時の状況の中ではベストな考え方であったと、自分には思える。特にプルーブン・タイプ炉(軽水炉)の国産化を最初にきちんとやりぬくのだ、という目標が、福島事故を防ぐ観点から極めて重要であることは、言うまでもないであろう。

しかし、このような菊池の前向きな決意表明に対しての、中曽根の反応はあまりにそっけないものであった。以下に引用する。

―引用始め―

(中曽根小委員長) いまのお話の中で、われわれ聞きたいと思ったのは、内部の経営管理の問題です。内部機構とか、あるいは労務問題やなんか、問題がなぜ起きているか、どうしたらよいか、そういう所見をひとつ述べてください。

(菊池参考人) それでは、まず経営管理の問題から問題点を申し上げたいと思います。(中略)非常に具体的な面で言えば、(中略)東海というところにああいう大部隊があり、そして東京に本部というものがある。この機構をどういうふうに能率化したらよいかというような問題がもちろんございます。(中略)つまり、東京本部と現地との関係が必ずしも一元的にいかない、その組織上にも多少不備な点があるということを考えております。(中略)

 それから、労働問題でございますが、これはJPDRの場合にいろいろな問題が起こりましたが、(中略)実情を申しますと、ああいうものの建設に当たる人は、相当高度の技術者あるいは研究者に近い人たちを相当多く必要とします。建設自体を、とんかちをやる人の意味ではございませんが、その研究をまとめ、建設をまとめ、そしてそれを監督し、それをつくっていく段階では、非常に高度の技術的な知識を持った人、研究者に近い人を大ぜいつぎ込んでやってきたわけでございます。

しかし、それが一方完成して、運転という段階に入りますと、そういう人たちがただコントロール・デスクですわって運転するのでは、そういう本人の仕事として不適でありますし、十分に陣容のある外国なんかでは、そういう建設段階が済めば、すぐそれを運転のグループに引き渡すというようなかっこうで、簡単に片づいていくわけであります。

原研では、まだ原子力に関する運転とか保守とか、そういったような要員が十分に育っておりません。そういった人たちの訓練や養成ということは、われわれも十分心がけておりますけれども、しかし、実際にそういうことができるようになるためには、そういう炉があって、そういう炉にくっついて仕事をしてそういう人は養成されていくのであります。どうしてもそういう要員の不足を生じます。したがって、仕事が非常に無理になる。あっちこっちに無理ができて、いわゆる労働条件が悪くなるというような事態もそこに出てまいります。

それから、非常に高度の知識や技術を持った研究者に、そういった仕事を長いことやらしておきますと、そこに不平不満も出てまいります。そういったようなことがJPDRには一つの内在的な問題としてだんだんと含まれて、最後の段階にそういうことが非常に起きた。一方、原研の一般的な労使関係のよくない問題もございまして、そういうものとこういうものが結びついて、ああいうようなたいへん申しわけないような事態が起こってきた、そういうふうに考えます。(中略)

これはしかし、こういった発展の途上やむを得ないことでありまして、その間に労使間の一般的な関係がよければお互いに協力して何でもやろうという意識がそこに生まれて、そういう問題も克服してどんどんやっていけるわけでありますけれども、その他いろいろ複雑な問題もありますし、それから先ほど申しましたような、たとえば研究の目標とか、そういったようなものについてまだ十分徹底していない点もありますために、複雑な要素が結びついてああいうことになってしまった、そういうふう見ます。(中略)

(中曽根小委員長) どうも御苦労さまでした。

―引用終り―

相田です。中曽根にとっては結局、菊池が力説した原研が取り組むべき今後の技術課題についてはどうでもよく、労組をどうやって管理するつもりなのだ、という点だけが関心の的であった。これに対する菊池の回答は、それまでの技術の説明に比べるとあまり歯切れの良いものでは無い。大型原子炉の稼働に伴って必要となる管理、保守の人材が原研では足りないため、高度な能力を持つ研究者にこれらの単調な仕事を担当させてしなったことが、不平不満を生んでしまった、というものである。菊池は11月2日付けの理事長声明で記したように、労組の対応を「暴挙である」という強いニュアンスで批判することはしなかった。ここでは菊池は明らかに労組をかばっている。願わくは、労組に対する厳しい責任追及をすることなく、この難局を乗り切りたいと思っていたのであろう。しかし自民党の代議士連中は、菊池のそんな甘い親心を見逃すことは無かったのだった。

この日はこれ以降、菊池に対しての厳しい叱責はなされなかった。ただ中曽根は最後に、原研で起こった問題についていくつかの項目に分け、各調査項目への見解を記した報告書を提出するように菊池に要請した。中曽根は同様の調査資料を、原子力委員会でもまとめて提出することも求めた。中曽根は「これらの項目に対する御所見は、抽象的な、いわゆる大臣答弁的なものは必要はないのであって、ものごとの実体に触れた、核心に触れた御見解を御提出願いたいと思います。いわゆる大臣答弁と称するようなものは、出されても意味はありません。(中略)時期は今月一ぱいでけっこうでございますが、恐縮でございますが、なるたけ長文のものを御提出願いたいと思います」と述べた。

この中曽根の提案を受けて3月に、原研と原子力委員会から「調査項目書」が独自に提出され、その内容が「科学技術振興対策特別委員会 原子力政策に関する小委員会」において審議されることとなった。そして3月12日の小委員会には原研から菊池が、3月19日の小委員会には原子力委員会から当時の委員の兼重寛九郎が、それぞれ出席して説明と質疑が行われた。菊池が再度登場した3月12日の委員会の日付は、奇しくも東日本大震災の翌日であるが、しかしその時には、中曽根が上で要求した「調査項目書」の内容は、もはやどうでもよくなっていた。2月21日に菊池は、他の原研理事者2名と一緒に、佐藤栄作科学技術庁長官宛に辞表を提出していたのだった。

(つづく)



[28]第4章 理不尽すぎる審判(その2)
投稿者:相田英男
投稿日:2016-04-23 06:47:23

相田です。第2章の2回目です。

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4.3 最強の刺客あらわる

 2月19日の小委員会での菊池の説明を境として、事態は急変する。原研では労使間の争議協定が結ばれる目途が立たないことを理由に、JRR-2、3、JPDRの大型原子炉の運転が再び停止され、菊池理事長と菅田理事(労務担当)、久布白理事(JPDR担当)の理事者3名は辞表を提出した。それまで労務交渉を担当していた菅田清次郎(すがたせいじろう)理事は、菊池が信頼を寄せていた人物であったが、交渉不調を理由として引責辞任させられた後に、副理事長の森田乕男(もりたとらお)氏が、労組との交渉を菅田氏から引き継ぐこととなった。

 この時期の原研で起きた詳細状況については、資料が見当たらないので不明であるが、大型原子炉3台の運転停止が菊池の意志ではないことは、少なくとも明らかである。前年の11月に同様の措置を行った際には、菊池による深刻な事態を憂慮した声明文が出されていた。しかし2月19日の国会で菊池は、労組をかばう内容の説明を行っており、11月のような厳しい姿勢で菊池が交渉に臨む雰囲気は見られない。菊池の国会説明のあとで、状況が大きく変わったと考えるべきだろう。

 おそらく私は、19日の説明で労組を厳しく批判せず、原子力委員会の方針に疑問を投げかけた菊池に対して、危機感を抱いた自民党側が理事長職からの辞任を強要し、労組との交渉窓口を自分たちの要求に従いやすい森田副理事長(同和鉱業株式会社出身)にすげ替えることで、事態の打開を図ったのであろうと推測する。そしてこの時期に、自民党側の重要メンバーとして新たに加わった人物が森山欽司(もりやまきんじ)である。森山欽司は同じく衆議院議員として、環境庁長官、官房長官、法身大臣を歴任した森山真弓(もりやままゆみ)の夫である。

森山については、第1章の福田信之(ふくだのぶゆき)の説明の際に少し触れた。後に科学技術庁長官に就任する森山は、1974年に原子力船むつの出港を強行して、放射線漏れ事故を引き起こした張本人としてあまりにも有名であるが、「むつ」事件の十年前の64年にも原子力問題に携わっていた。そしてこの時期の森山の活動が、その後の日本の原子力開発の方針に、「むつ事件」に勝るとも劣らない決定的な影響を与えていたのである。この日本の原子力開発史における重要事実を公に主張する人物は、あまりにも少ない。

ウィキペディアによると、森山の父親の邦雄は鳩山一郎法律事務所に所属する弁護士で、1928年の第1回普通選挙で立憲政友会から栃木県選挙区に立候補したが、落選したという。森山自身は1941年に東大法学部を繰り上げ卒業後に外務省に入省するが、直後に陸軍に入隊してそのまま終戦を迎えている。戦後の一時期に外務省に復職した森山は1年間で退職し、父親の後を継いで栃木県から衆議院議員総選挙を目指すことになる。

1949年の第24回衆議院議員総選挙で初当選した森山が、その後の落選、再当選を繰り返しながら取り組んだ課題が労働問題であった。1958年から63年の5年の間、森山は地元栃木県の日教組(栃木県教職員組合)の切り崩しに尽力し、対抗組織である栃木県教職員協会を育てる等の活動により、最盛期には1万2千人を超える規模を擁した日教組職員を、数百人に減らすことに成功した。それと並行して、1960年12月に第2次池田内閣の郵政政務次官に就任した森山は、郵政省職員組合の全逓信労働組合(ぜんていしんろうどうくみあい、全逓)と対決する。

森山は当時の郵政省にあった、勤務時間中に一時間以上の職場大会参加者に対してのみ戒告処分が行われてきた慣習を改めさせ、四十五分以上の職場大会参加者の全てを戒告とする処置を徹底させた。結果として森山の在任7ヶ月の間に、過去20年分にあたる組合員への処分が強行される羽目となる。また、61年の春闘において、地方の郵便局で行われていた電話交換業務が自動化されることへの反対闘争が盛り上がった際には、森山は全逓側に一切の妥協をせずに交渉に臨み、スト権を解除させることに成功する。

このように、左翼系の過激な労働組合と対決して鎮圧することを得意とする、自民党の「労働組合潰しの専門家」が森山であった。日教組、全逓を制圧して名を挙げた森山が、原研問題を収拾するためにこの局面で登場することになる。原研労組にとっては、最強最悪の天敵と相対する事態となった。

3月12日に原研からの「調査項目書」を審議する目的で開催された、第046回国会 科学技術振興対策特別委員会 第9号においては、委員長を自民党の前田正男(まえだまさお、後の科学技術庁長官)が務め、理事として自民党から佐々木義武(ささきよしたけ)と福井勇(ふくいいさみ)、社会党から岡良一、原茂(はらしげる、社会党左派)が出席した。佐々木は島村の前任の科学技術庁初代原子力局長であり、その後に衆議院議員に転身した人物である。そして、福井は言うまでもなく「あの秘密文書」の執筆者の一人である。秘密文書のもう一人の執筆者の駒形作次(こまがたさくじ、先代原研理事長)も、兼重寛九郎(かねしげかんくろう、東大工学部教授)と共に、原子力委員の肩書きでこの日の委員会に出席している。これに加えて、ある意味この日の主役ともいえる森山欽司が、他の委員と交代する形で、無理矢理に質問者として参加することとなった。

他には参考人として、原研からは菊池理事長と森田副理事長、そして労組を代表して一柳勝晤(いちりゅうしょうご)組合執行委員長が呼ばれている。変わったところでは、労働事務次官として労政局労働法規課長の青木勇之助(あおきゆうのすけ)という名前も見られる。これに佐藤栄作科学技術庁長官と中曽根が加わっていたならば、間違いなく当時の原子力行政に関するオールスターキャストと呼べる陣容であった。しかし、このVIP二名だけはこの日の出席者の中に名前がみあたらない。この日に起こるであろう深刻な事態を予測して、いらぬ言質を取られないように、この二人は敢えて出席を見送ったのだと、私は思う。

なぜならこの日、日本の原子力行政を代表するメンバー達の前で繰り広げられたのは、菊池正士の公開殺戮ショーとしか呼べないものあったからだ。


4.4 訪れた運命の日

これからの内容は、1964年3月12日に開かれた、第046回国会 科学技術振興対策特別委員会 第9号 の議事録から引用して解説する。相当な長文引用になることを御容赦頂きたい。

この64年3月12日の国会の議事録を、日本で最も読み込んだのは私だろうと断言できる。自分がこの50年前の国会でのやり取りを、最初に目にした時の衝撃は、今でも忘れない。その後に、この議事録を読み返す度に、最初に読んだ時と全く同じ、怒りと、切なさと、やり切れなさと、悲しみが、何度でも自分の中に込み上げてくるのを感じる。

自分は本論考を書くと決めてからずっと、この日の国会でのやり取りに関する資料を探していた。しかし、書籍などからは全く確認出来なかった。福島事故以来の一連のテレビ報道でも、この64年3月の出来事については、全く触れられることはなかった。私がほとんど諦めかけた時に、過去の国会での議事録がネットで公開されていることを知り、辿ってみたところ見つけたのが、この議事録であった。以下に紹介するその内容は、真に驚くべきものである。

原子力推進派も反対派も共に、この議事録を刮目して読んでみればよい。先人達が如何に愚かなやり取りを繰り返し、その結果、致命的な誤ちを犯してしまったのか、その事実がここには余すことなく記されている。

午前10時44分に始まったこの日の委員会では、初めに菊池により、前回2月19日以降の原研の状況について説明が行われた。以下に引用する。

―引用始め―

(菊池参考人)いろいろとお騒がせしまして、たいへん恐縮に存じております。まず、先般来の原研の争議協定は成立いたしました。そのことから申し上げますと、この争議協定は、今後一年間の期間で成立いたしました。しかし、(中略)一年後にはまたこの問題が繰り返されることは明らかであります。それで、私の考えでは、この原子力関係の施設に対しては、はっきりとした法的規制でストの予告というものは必要であるということにしていただきたい、これは私は強く要望しておきます。

これは原子力研究所に限りません。将来原子力に関するいろいろな施設がだんだんできてまいります。これに対して、発電所などはすでに公益専業としてそういうことができておりますけれども、そうでない、たとえば今度原燃公社の再処理試験所であるとか、あるいは原子力船であるとか、あるいは原研の内部でも、いままでやっております炉のほかに、放射性物質をやっております場所とか、再処理の試験所とか、いろいろございますから、そういった全般の施設に対する規制というものは私はぜひあるべきだという考えを持っております。(中略)

 それから、その他の問題でございます。この協定ができましたから炉がすぐ動き出すというわけではございません。このほかにまだ超勤協定、直に関する勤務態様、それに関連する手当の問題がやはりこの三月一ぱいで切れます。これから三月末日までの間に極力組合と協議して、支障なく四月から運転できるようにしたいと思っておりますが、いろいろと困難な点も予想されますので、四月に入りましてもすぐに運転を続けられるかどうかという点について、ここでまだはっきりと申し上げられないような段階にございます。(中略)

ここでただ一つだけぜひお願いしたいと思っておりますことは、たとえば、ああいうような大きな施設やものをつくっていく事業をやります関係上、少なくともいまから先五カ年ぐらいにわたっての具体的な計画が実際持てるようなかっこうで仕事をやらしていただきたい。と申しますのは、その間にどれだけの人がつぎ込めるのか、またどれだけの金がつぎ込めるのか、そのことを前もって承知の上で、それに合わせたような計画を立てていきたいということが、われわれの前々から非常に強く希望しているところでございます。これが現在のように毎年毎年の予算で査定されていくことになりますと、事業と金、人のアンバランスがどうしても生じるということでございます。

それの使途その他について政府その他から強い規制を受けること、これ自体は私は当然受けるべきだと思っております。ただ、その計画を立てる際に、その間に投入し得る金とか人というものが、あらかじめ少なくとも五カ年ぐらいにわたってはっきりしたものがありませんと、第一年度をどうやら動き出しても、あとが続かなくなって事業がやれないというようなことで、とかく支障が起こりがちでございます。そういうことを私は一番強くここで将来の日本の原子力の開発をしていくためにぜひお願いしたい、こう申し上げたいのでございます。そのことがまたいろいろな面で労務問題その他にもつながってくるということを強く感じる次第でございます。 以上でございます。

―引用終り―

相田です。2月19日の説明に比べると、菊池の話には余裕が無くなり切迫感が感じられる。これは菊池が既に、理事長を辞めることで責任を取る腹を決めているからであろう。菊池がここで訴えているのは、大きくは二つで、一つは原子力施設への争議協定、もう一つは原子力開発予算の長期安定化についてである。

原子力施設への争議協定というのは、改めて確認すると、「原子力施設を運用している職員達が原子炉にストライキを打つ際のルール」のことである。菊池の提案は、職員達が「原子炉に対してストライキを打つ」場合には、24時間前に予告を行うことを「法律により明文化せよ」、ということである。しかしである。一般常識的な観点からして、「原子炉に対してストライキを打つ」という行為が、許されるものなのだろうか?そんな「行為」が、通常の常識感覚を有する技術者達の手で「現実に行われる」などということを、施設管理者は果たして想定しなくてはいけないのであろうか?

菊池はここで、そんな「行為」を考えることなど技術者として論外だ、あるまじきことだ、と激しく訴えているように私には思える。そしてこの菊池の憤りは、一流の実験物理学者として学会をリードしてきた研究者の実感として、至極まっとうで、正当なものであると自分は感じる。

菊池はさらに、「争議協定」が問題とされるに至った要因が、原研への予算の不安定性によるとし、「少なくとも五カ年ぐらいにわたるはっきりしたもの」を前提にしないと、原子力開発に支障をきたすことになる、と主張している。単年度で猫の目のように予算が変えられると、人員予算の方にしわ寄せが来てしまい、それが今度のような激しい労使紛争に至った要因だ、ということである。2月19日の説明でも同様の話を菊池は訴えている。

この主張も、当時の状況を客観的に見た上で、至極まっとうなものと思える。これについては、原子力委員会のそもそもの構成であるとか、当初は体制側が原研職員への高待遇をほのめかしながら、実際には大蔵省はバッサリ人件費を切った、等の問題が別に存在するのだが、ここではその説明は控える。

菊池がここで触れた2つの訴えは、技術的な観点から非常に重要で、正当な内容であると自分には思えるのだが、これ以降は、菊池のこの主張がきちんと取り上げられることは無かった。この後の議論は、菊池の訴えから大きく逸脱した、異様な方向に変質してゆくことになる。

菊池の次に、原研労組の組合執行委員長の一柳氏が挨拶行っており、一部を引用する。一柳氏の説明は、原研設立から生じた様々な問題について、労組側からの解釈を総括した内容になっている。

―引用始め―

(一柳参考人) 原子力研究所が発足いたしまして八年ばかりたっております。その間、私たちは、わが国唯一の原子力センターに働く者として一生懸命働いてまいったわけであります。その間、私、労働組合の委員長という立場でありますので、主として労働問題という観点から見ましても、種々の問題が発生いたしております。御承知のように発足後二年たちました昭和三十二年には、主として東海村の生活環境の不備という問題を中心にいたしまして、いわゆる人権闘争というのが起こっております。こえて昭和三十三年になりますと、発足当時のはなばなしいかけ声に反しまして、給与とかあるいは人件費とか、そういう面に関しましては、すでに息切れの現象が出てまいりまして、給与の先細りというふうなことが問題になり始めたわけでございます。

 昭和三十四年になりますと、その当時東海村におきまして急速にふくれ上がってきました東海研究所の機構あるいは研究体制の不備の問題、そういう問題と一緒になりまして、ついに六月には、原研始まって以来のストライキに発展いたしたわけでございます。この給与の先細りという問題は、とうとう中労委にまで持ち込まれまして、昭和三十四年の十二月には、公務員に対しまして百二十あるいは百三十という中山あっせん案というものが御承知のように出てまいりまして、一応のケリがついたというふうなことになっておるのでございます。ところが、この中山本格あっせん案と申しますものは、わずか一年足らずの寿命に終わりまして、三十六年になってまいりますと、その骨子がすでにくずれてまいっております。給与も、じり貧と申しますか、相対的にだんだん下がっていくということが急速に表面化してまいるわけでございます。

このころ問題になりましたのが、原研の理事者側の自主性の喪失とか、あるいは原子局とか大蔵省の壁、こういう問題が問題になったわけでございます。この問題は、昭和三十六年度のベースアップにおきましては、再び中央労働委員会にまで持ち込まれたのでございますが、とうとう決着がつきませんで、組合のほうは、中労委の勧告を守ってくれ、所のほうは、守れない、ということで、昭和三十七年度のベースアップについて、四月には給与の一方的改定の強行という事態が起こっておるわけでございます。給与の一方的改定の強行ということが非常に悪い契機になりまして、その後原研の労使間には、不信感と申しますか、そういうものが急速に大きくなってまいりました。労使関係がその後急激に悪化しておるわけでございます。(中略)

当時の組合の機関紙などを見ましても、給与に関するそういう自主性の喪失というものは、外堀を埋められたようなものである、次に来るのは、予算を通じての研究統制あるいは人員を通しての人事統制というものが来るのではないか、そして原研の経営が全体として主体性を失ってしまうのではないか、こういう警告が出されておるわけであります。(中略)

その後の経過を見てまいりますと、(中略)JRR2のCP5型、あるいはJPDR動力試験炉、こういう大型の原子炉の運転開始に伴う諸問題がその後起こっております。そういう問題を通じて明らかになってまいったわけでありますが、原子炉はできたけれども、運転のための要員がなかなか十分に確保されない、あるいは直勤務に関する種々の厚生問題、そういうものがなかなか片づかない、あるいは原子炉を使っての研究計画がなかなかうまくいかない、しかも基礎的な研究部門から原子力部門へ人間がどんどん引き抜かれていく、あるいは基礎部門から何か新しいプロジェクトなどにコネをつけておかないと予算や人員が満足についていかない、そういうようないろいろ行き詰まりの現象があらわれてきたわけであります。そういう中で、今後も新しい原子炉、JMTR国産動力炉とか、そういうものをつくっていく、そういうはなばなしい計画が発表されるわけであります。

そういうわけで、一体そういうことになるのはなぜだろうという素朴な疑問が原研の各部門で起こってきたわけであります。こういう議論をかわしておりますと、行きつく先ははっきりしておりまして、原研の自主性というものはどうも初めからなかったのではないか、現在の原子力政策のもとでは、原研は必然的にそういう運命を負わされておるのではなかろうか、それでは困るのじゃないか、こういう声が全所的に起こってまいったわけであります。

先ほどからのお話で、原研は曲がりかどに来ておるということをよくいわれております。しかし、私たちの目から見ますと、これは原子力なら原子力、あるいは科学なら科学にはそれぞれそれ自体の発展の法則というものがあります、そのような自然の発展の形に比べますと、現在までの原子力政策に基づいて引かれておる路線というものはややずれておるのではないか。それが八年たってそのままきたものだから、現実との乖離が大きくなってきて、急に転換する必要をしいられておる。そういうことで、これは曲がりかどというものではないのではないかというふうに私どもは考えておるわけでございます。

―引用終り―

相田です。一柳氏の話は、第3章で私がまとめた原研の状況とほぼ同じであり、特に追記することは無い。一点書くならば、菊池が訴えた「原子炉へのスト問題」については全く触れられておらず、菊池が辞表を提出するに至った経緯について、組合側は責任を全く感じていない、ということである。

ここからこの日の主題となる、森山欽司による質疑が始まる。森山は初めに、労使間での争議協定が結ばれるまでの経緯と、協定書と共に発表された「共同声明」について質問した。

―引用始め―

(森山委員) 本日は、科学技術振興対策特別委員会に、参考人として、日本原子力研究所の理事長さんをはじめとして、関係者の方々がお集まりになっております。おそらく、この参考人においで願うという企画は、だいぶ前から当委員会で立っておったと思うし、特に原子炉が従来停止しておった、それについてこれを再開するという目的をもってこの参考人の招致になったと私は思うわけでございます。しかるところ、最近この労使間において原子炉の再開に関して協定書が成立した、これで当面の問題が解決したような新聞の記事が出ております。それで、この際特に理事者側からこの点についての御説明を詳細に伺いたい。

まず第一番に、共同声明なるもの――これは私は異例だと思いますが――共同声明なるものを出した。どういう共同声明を出したか。それから、争議協定書ができております。そのあらましをごくかいつまんで、御説明を願いたいと思います。

(森田参考人) 御承知のとおり、昨年の十二月九日にJPDRをアメリカからわれわれのほうへ引き取りました。そうして、そのときの争議協定というものは引き取りまでということになっておりましたので、そこで争議協定というものはなくなったわけなのです。そこで、われわれといたしましては、そのときの引き取り前のいろいろの問題があった状況から非常に落ちついた状況になりましたので、このままある程度の運転をしつつ争議協定を結ぼうじゃないかという腹がまえはあったのでありますが、いろいろわれわれのほうでも考えまして、とにかく組合の良識を信ずるということにつきましては、組合もまさかストライキを理由に事前通告を短かくしてやるような組合ではないというような観念のもとにそう考えたのではありますが、これはわれわれの主観的の判断であるので、これではどうしてもいけないから、この際争議協定ができるまでは大型炉をとめる。少なくともわれわれの生活のサイクルの二十四時間というものはわれわれとしてはどうしても持たなくては、安心して炉を動かすことはできない。

いろいろ説をなすものは、三十分でも一時間でも間違いなく炉は安全にとまるというような議論はあるにいたしましても、万が一これがどうかなった場合につきましては、菊池先生おっしゃるように、この付近に自分が住んでおったとしても安心して住めないということまで言われます。こういう状態ではいけない。とにかく二十四時間というものをわれわれにとるということで、国民を安心させ、われわれも安心して炉を動かすということが絶対必須条件であるということを感じまして、とにかく炉をとめて、いちずに争議協定の締結をやろうじゃないかということで、実は私二月の二十日ごろから労務担当になりまして、二十六日ごろから組合側と折衝をいたしました。(中略)

いろいろ組合側からも要望が出たりいたしまして、じんぜん日を費やしましたが、(中略)とにかくすべて従来正常ならざることが多かった原研において、少なくとも二十四時間の事前通告をとるということは一歩正しきに近づくんだという信念のもとに、共同声明を出しまして、争議協定を結んだ。それが三月の十日に相なったわけでございます。 共同声明は御承知のとおりでございまして、一応読ましていただきますと、

「原子炉が停止している状態は原研の社会的使命をはたす上に大きな障害をきたしている。炉の停止措置が事態の収拾をますます困難にしている現実を反省し、労使間の誤解を正し、正常な労使慣行を今後とも尊重することを相互に確認し、原研の自主性のもとに事態を収拾することを申し合わせた。」

こういう共同声明を出しまして、協定書に入ったのであります。この協定書につきましては、昨年炉が動いておりますときに協定をいたしました協定と同様のもので締結をいたしました次第でございます。

―引用終り―

相田です。森山からの質問に答えたのは菊池でなく、副理事長の森田氏である。森田氏は、2月の20日頃に労務担当となり、組合との折衝にあたったという。翌21日は菊池が佐藤栄作長官に辞表を提出したとされる日であることから、おぼろげながら状況が見えて来る。先に記したように、菊池に見切りをつけた自民党議員達が、民間企業出身の森田氏を代わりに据えて、組合に強く当たりながら争議協定を強引に纏めるように指示したのであろう、ということである。後に森山は、原子炉の運転を再開しようとする菊池と森田氏の対応は軽率すぎるというコメントを、何度も繰り返しているが、森山のこの発言からも、大型炉3基(JRR-2、JRR-3、JPDR)を全て停止した理由が自民党からの横槍であることが、推測される。ちなみに新たに締結された争議協定書の内容は、森田氏のコメントにあるように、前年11月にJPDR引取りを目的に締結された協定と、ほとんど同じ物であった。上の森田氏の説明に対する森山の質問から引用を続ける。

―引用始め―

(森山委員) そういう共同声明を出されて、当面の争議協定ができたわけですが、これによって原子炉の停止を解除するということになるわけですか。

(森田参考人)お説のとおりに、炉を動かすにつきましてのいろいろな手当の問題その他につきまして、この前の十二月末のときに、これは三月末日までそういう諸般の規定はそのままにしておこうということで――三月中は間違いなく炉の運転をすることができるので、すでにJPDRも運転の準備をいたしておるはずでございます。

 そこで、一つ心配いたしますことは、四月一日から協定すべきものは、一つには超勤の問題です。超勤問題の規定がどうしてこれに影響があるかと申しますと、三直やっております場合に、ラップして三十分オーバータイムがつくわけです。それから、一人の者が休んだ場合に、前の直の者が次の直に直結して二直働くという場合がある。そういう場合に超過勤務というものはどうしても必要になってまいります。しかしながら、超過勤務手当の規定がこの三月三十一日で切れますと、御承知のとおりに、これは組合との協定がなければ支払うことができないという問題が一つ。

それから直勤務の問題がからんでまいります。結局三交代をやるについての勤務状態でございますから、これもまた組合と協定をしてやらなければならない問題になってまいる。(中略)組合と話し合いをしなければ、協定がなければ直勤務というものはできないのではないか。それから、もう一つございますのは、従来原子炉運転手当というものを出しております。これは大蔵省当局とお話をいたしまして、これを改定して管理手当と交代手当というものに分けて、(中略)廃止することになっておるのでございます(中略)しかるに、JPDRにおける従来の運転手当をこれにかえますと、一部従来より減額される従業員が出てまいる。(中略)この三つの問題が、四月一日からの運転に支障を来たす三つの条件になっているわけでございます。

(森山委員)そうすると、現在は原子炉を運転すべくその準備をしている。しかるに、四月一日からは超勤の問題、交代勤務の問題、それから原子炉運転手当の処置の問題等について組合と話がつかなければ――またつかない心配がある、ということは、炉がとまるかもしれない、こういうことですね。

(森田参考人) さようでございます。

(森山委員) 私は、「原子炉が停止している状態は、原研の社会的使命をはたす上に大きな障害をきたしている。」という共同声明のこの一項については全く同感でございます。しかしながら、この今回の争議協定が成立したというだけでもって、四月になればすぐにまたとまるかもしれないという公算がきわめて大きい現在に、一体原研の理事者は直ちに炉の再開準備に入るなんていうようなことは、軽率じゃないですか。ひとつ菊池理事長に御返事を伺いたいと思います。

(菊池参考人) いま森田副理事長から申し上げましたように、すぐ準備に入ると同時に、いま副理事長が申し上げましたようないろいろなことが解決されなければ四月一日から炉は運転できない、そういうふうに考えます。ですから、軽率とおっしゃいました意味がどういうことか、そこを十分確かめた上で運転を再開したいと思います。

(森山委員) あなたは私の言うことがわからないらしい。とにかく争議協定ができたからといって炉の再開準備を始められた。動かすつもりだ、こういうことが森田さんからお話があったのです。しかし、超過勤務の協定の問題、交代勤務の問題、原子炉運転手当等の処置の問題について、組合との折り合いがつかない場合に――つかない公算はかなり大きいということを森田さんは言っておるのです。そうすると、もう一回とまるかもしれない。わずか二十日間か十五日間しかやらないでまたとまるという事態が予想されるならば、いまお動かしになるのは適当であるかどうか、こういうことを私はお伺いしている。理事者としてはっきりした確信を持たないで動かした、またとまった、というような事態をまたおやりになるのですかということを私は伺っておる。(中略)

この際、原子力局長がおいでになるようだから伺いたいと思うのです。炉の停止については、原子力研究所のほうから通報を受けているだろうと思う。監督官庁ですか、あるいは原子力委員会の事務局というのですか、わかりませんが、通報は受けていると思う。しかし、この際、すぐ先に、もう一カ月、三週間あるいは二週間以内に問題が起きるようなことについて、はっきりしないうちに炉を動かそうとされるいまの原研理事者の安易なやり方についてあなたはどう考えているか、ひとつ伺いたいと思うのです。

(島村政府委員) まず第一点でございますが、(中略)ただいま御質問になり、あるいは菊池理事長からお返事のありましたような意味での炉の運転の状況の報告、あるいは予定というものは従来とっておりません。私どもが承知いたしておりますのでは、JPDRも本年に入ってできるだけ早く、おそらく二月の上旬ということになっております。そのころから動かすという予定を承知いたしております。先般来の紛争に伴いましてさらにいろいろこちらからお尋ねした結果、争議協定が結ばれれば動かすというふうに承知いたしております。(中略)ただ、すべての炉の運転計画というものは、森山委員がお尋ねになりましたような意味で通報を受けるようなシステムにはなっておりません。それが第一点でございます。

 第二点、四月一日からまたとめなければならないような不安定な状態において、いまこれを動かす準備を始めるということについてどう思うかという点でございます。この点につきましては、私どもといたしましては、すべての問題が労使閥におきまして円満に解決されましてその上で動かす、あるいは動かす準備を始めるというのが一番望ましいことだと考えております。現在は争議協定こそできておりますけれども、まだスト権は確立されっぱなしというふうな状況でございまして、私どもの目から見ました場合に、原研の労使関係が現在安定した状況にあるというふうには残念ながら見ることができないのではなかろうか、そういうふうに考えております。

しかしながら、争議協定ができ、少なくとも二十四時間前の通告を受けることができる、あるいは保安要員が確保されるということでありますれば、従来の理事者側から伺っております。(中略)つまりすべてが解決した上で動かすのが一番望ましいことでありますけれども、すべてが解決しなくても、理事者の責任において安全が保持できる状態まできたから動かすと言われることに対しましては、私どもは格別疑義を感じていないわけであります。

(森山委員) いま原子力局長はすべてが解決してとおっしゃいましたが、私はすべてというのをそれほど広くは解してないのです。少なくも森田副理事長が言われましたように、超勤手当の問題、交代勤務の問題、原子炉運転手当の処置の問題等、当面の問題ですね。すべてといえば、あとからお話しいたしますが、もう驚くべき状況になっておるのです。それはあとで申し上げます。

 そんなことまでやれとは言っていないが、少なくもこの程度の問題は片づけてやる。そして、こま切れ運転にしてやっていくようなことに、もしこのままの情勢でやっていきますと、今度は菊池理事長も十分御心痛のように、原研はすでに今回の問題で二名の理事が退任しておる。非常に大きな一つの社会的批判も受けておる時期です。いままでのようなだらだらしたやり方をやってはいかぬと私ははっきり考えておる。しかるに、今度の炉の再開はきわめてだらだらしたやり方であると私は思う。(中略)こんなやり方で、いままでとやり方が違うのですか。その点ちょっと伺っておきたいと思うのです。心がまえとしての問題です。

(菊池参考人) 私はいままでとやり方を十分違えているつもりでおります。今度のことも、いま森田副理事長が言われました三つの協定を結ぶについて、いままでのような態度でなしに、はっきりこちらの納得がいくような態度をどこまでも強く持していきたい、そういう意味で、態度はいままでとはさらにその点十分変えていくつもりでおります。はっきりしていくつもりでおります。

(森山委員) 口ではっきりすると言われましても、いまのようなことをしておられると、私どもはまわりから見てあまりはっきりしているとは思っておりません。しかし、なぜはっきりしていると思わないかということはまた後ほど、これから続ける質疑の中で私は申し上げたいと思う。

―引用終り―

相田です。争議協定は締結されたものの、森田副理事長は、超勤の問題、交代勤務の問題、それから原子炉運転手当の処置等の、組合との未解決の問題が残されていると説明した。これを受けて森山は、理事長の菊池に対して、「大型炉の運転準備に取り掛かるのは軽率すぎる」と、菊池の対応を強く批判している。森山は当時47歳であり、還暦過ぎの菊池とは干支が一回り下になるのだが、物理学会の重鎮として名を成す菊池に対しても、「あなたは私の言うことがわからないらしい」等と、全く臆するところはない。大型炉を早く動かそうとする原研の対応に、ここでの森山は大きな懸念を示し、釘をさしている。繰り返すが、これらの森山の対応は、菊池の辞表提出を始めとする2月後半から急変した原研の厳しい状況が、自民党政治家たちの圧力によることを裏付けているように思える。

原子力局の原研への管理状況を質した森山に対し、局長の島村から「争議協定ができ、少なくとも二十四時間前の通告を受けることができる、あるいは保安要員が確保されるということでありますれば(中略)、理事者の責任において(中略)動かすと言われることに対しましては、私どもは格別疑義を感じていないわけであります」と、菊池への助け舟となるコメントが出された。しかしその後も森山は、「こんなやり方で、いままでとやり方が違うのですか、(中略)心がまえとしての問題です」と、菊池への厳しい姿勢を変えることはなかった。

ちなみに森山は、この日の議題であった筈の原研からの「調査項目書」について、これまでの質問の中で全く触れていない。後にわかるように、森山は実はこの「調査項目書」を読んでいなかった。それどころか存在そのものも知らないままで、森山はこの日の国会に臨んでいたのだった。質問者としてそんなことが許されるのか?という気もするが、森山は「調査項目書」には頼らずに、自らが「独自のルート」で調べた資料を元に、この日の質疑を行っていた。

(つづく)



[27]第4章 理不尽すぎる審判(その3)
投稿者:相田英男
投稿日:2016-04-23 06:43:22

相田です。第4章の3回目です。

******************************


4.4 訪れた運命の日(つづき)

次いで森山は「共同声明」の内容について、原研管理者(森田氏)と労組(一柳氏)の両方に質問を行った。

―引用始め―

(森山委員)そこで、次の問題に入りまして(共同声明の文章の中に)「正常な労使慣行を今後とも尊重することを相互に確認し、」こういうことがございます。正常な労使慣行というのは、どんなことをもって正常な労使慣行としておるのか。ひとつ使用者側から承りたい。

(森田参考人) たとえば組合の時間内の活動だとか、組合活動等につきまして、これはここで申し上げるのはまことにわれわれ使用者としてもお恥ずかしいのでございますが、現在のところ規制が行き届いておらないというようなことでございます。それを正常ならざるものだとわれわれは感じております。

(森山委員) それは不正常なお話なんだ。正常な労使慣行とはどんなことをやっておったのかと聞いておるのです。今後尊重するというから、どんなことをこれからあなた方は尊重してやるのか、承りたい。

(森田参考人) 正常なる慣行と申しますれば……。

(森山委員) 森田さんちょっと返事に困られるようですから、聞きますまい。不正常な労使慣行は今後は尊重しない、そういう意味ですね。そういうように逆に読んでいいわけですね。

(森田参考人) さようでございます。

(森山委員) それでは組合側に承りますが、「正常な労使慣行を今後とも尊重する」というのは、どういうことをあなた方は考えているのですか。(中略)

(一柳参考人) 労働者と申しますか、それに働いております者が、私どもの労働条件につきまして、経済的地位とか、そういうものの向上をはかる、そういうような点に関する団結権、団体行動権、団体交渉権、そういうものを信頼しないということが不正常な労働関係であるというふうに思っております。

(森山委員) 労働組合運動というのは労働者の経済的地位の向上を目ざす、そんなことは、組合があればわかり切っている。ただ問題は、ここに労使慣行ということが書いてある。どんな慣行をやっておったのか。正常な慣行として今後あなた方が維持したいのはどんなことか、言ってください。(中略)

(一柳参考人) その点につきましては、現在所側との懸案事項は非常にたくさんございます。(中略)しかも、その交渉が、(中略)所側のほうのそういう問題に関する主体性のなさと申しますか、そういうところからくる硬直した態度と申しますか、そういうものによって非常に交渉が長引いております。(中略)こういう事務折衝というのはほとんど連日やらなければ問題が片づかないというふうな状況でございます。そういうのが現在まで続いておったわけでございます。

 それが正常であるかどうかということは若干問題があると思います。しかし、これは現在までの原研の中におけるひとつの労使関係というものの歴史的な事実というものから見ましてやむを得ないのではないか、というふうに考えております。

(森山委員) 時間内の組合活動というようなものについて、あなたは、問題があるかと思うが、しかしこれはやむを得ないといっても、そういうものは、いまこれから詳しく入りますけれども、あなたはそれでいいと思っているの。それは正常な労使慣行だとあなた方は主張したいのですか。すぐこの次に具体的に入りますから、返事を慎重にやってくださいよ。

(一柳参考人) (中略)そういう時間内の組合活動というものについても、私も多過ぎて困っておると思っておる。しかし、やはりこのままでは労使間の問題はどうしても解決していかない。その話し合いをやはり続けていかなければならない。そういうような状況の中にありますので、そういうふうな慣行はやっていかなければ問題は片づかない、そういうふうに考えております。

(森山委員) いまの返事で私は満足しませんけれども、ひとつ具体的にそれでは入ってまいりたいと思います。

―引用終り―

相田です。森山と参考人の間で「正常な労使慣行とはいかなるものか?」というやり取りが幾度も繰り返されるが、議論の内容が段々と科学技術とは何ら関係ない方向にそれ始めている。「労働問題の専門家」としての森山の、原研労組への厳しい追及がここから本格的に開始される。

―引用始め―

(森山委員) 先ほど森田副理事長が、心配なのは四月一日からの超勤協定の問題だ、こういうお話がありました。それで、その超勤協定について現在の原研の労使間の協定書というものを読ましてもらったのですが、どうもこれだけだとよくわからない。

 三十八年三月三十日に結んだ時間外及び休日労働に関する協定書、昭和三十八年三月三十日、三八の一八号というものです。それを三十八年十一月十六日に、三八の一〇二号というので三月三十一日まで延期をしている。これまで大体三カ月ごとにやっておる。何回やっているのかわかりませんが、三回か四回超勤協定を結んでおるようですね。

 そしてその内容にいろいろなことが書いてある。これも読んでみると、どうもこれでもずいぶんゆるふんだなと思うんだが、どのくらいの超勤手当をやるのかということは、これには書いてないですね。何かあなたのほうには、労使間だけでもって、よそに見せない秘密協定をやっているのじゃないですか。どういう超勤協定の実情になっているか、この際ここで説明をしていただきたい。要するに、現在どういう形でやっておるのかということを説明していただきたい。

(森田参考人) 大体超過勤務手当というものは、本来は実績でもって超過勤務をいたした者に対して支払うべきものであると観念をいたしておるわけでございますけれども、われわれのほうでは、当初研究が主体をなしておったというような関係もありましてある程度予算がついている範囲内で平均化して超過勤務をしない人に対しても、あたかも給与のごとくに支払われておる部分があるのでございまして、これまで東海村では十三時間の平均がついておる、こういうことをいたしておりました。これは全体の超勤のワクの中でパンクすることは明らかだと存じまするし、また超過勤務という性質上からも、こういうことは許すべきではないということで、これは正しきに戻すべくただいま早急に案を練っております。昨日も大体の骨子を完成いたした次第でございます。

(森山委員) いまのお話だと、一時間も超過勤務の実績がない者でも、十三時間分の超過勤務手当をやる、現状はそういうやり方でおやりになっているのだということですね。

(森田参考人) さようでございます。

(森山委員) そういうものは正常な労使慣行とお認めになりますか。そういうことを外部には発表しない覚え書きでおやりになっているらしいですね。

(森田参考人) これはまことに汗顔じくじたるものでございまして、こういう支払いをしておったのは当然理事者の誤りだと思いますから、これは正しきに戻すべくやるつもりでございます。

(森山委員) 菊池理事長は、こういう問題をどうお考えになりますか。正常な労使慣行とお思いですか。

(菊池参考人) いいえ、思いません。

(森山委員) 労働組合の委員長はどうお考えですか。

(一柳参考人) これはやはり一つの歴史的な背景からそういうものが出てきておるということでございます。(中略)つまり昨年度のベースアップのときになかなか話がつきにくかった。それで、こういうことを申し上げるのは内部の恥のようなものでございますけれども、なかなか話がつかないというのは、原研の理事者の給与に関する主体性というものが非常に制約されておるので何ともならないのだ。だけれども、超勤ぐらいについては何とかやっていけるから、そういうもので少しカバーしよう、というような経緯でこういうものがついてきたのだ、こういうふうに私は考えております。(中略)

確かに超勤自体をとってみますと、それが実績時間に並行しないということはおかしなことでございますが、そういう経緯を考えた上でなければこういう問題は解決できないと思います(中略)そういうようなものは暫定手当というふうな形に直してしまうとか、そういう形で私どもとしては労働条件の切り下げにならないようにものごとを解決していただきたい。そうしなければ話はあまりうまくいかないのではないかと考えております。

―引用終り―

相田です。森山は組合との間の超勤協定(通常勤務時間外に業務を行う際の賃金の取り決め、要するに残業代のこと)の具体的な内容について、自らの「独自の入手資料」を用いて問い質した。労使間の協定書が僅か三か月の短期間で次々改訂される割には、具体的な手当の金額がそこに書かれていないのは、非公開の秘密協定があるのだろうという、森山のあまりに鋭い指摘に対して、森田副理事長は超過勤務をしない組合員に対しても、平均十三時間分の手当てを毎月支払っていた事実を認めざるを得なかった。

これはかなり姑息なやり口のようであるが、大手の民間会社等では、給与の上乗せのような意味合いで、組合員への一律の残業手当を支払う事例は割と多いと思う。ただし、特殊法人である原研は、給与金額の絶対値は別としても、公務員と同様の給与規定に従う必要が当然あることから、実体のない残業代の支払いが「正常な労使慣行である」と主張できる筈などなかった。森山の指摘に対して森田、菊池の両名が、この慣行が問題であり正すべきものと認めた。

労使間の秘密の覚書の下で、非公開の残業代が支給されていた事実が明らかにされたことで、労組の立場はいきなり苦しい物となる。そもそも原研の労使関係が揉めた理由は、給与の水準が約束よりも低いからだと組合が主張していたにもかかわらず、実際にはヤミ手当のようなものをもらっていたとなると、労組の主張には説得力を失ってしまう。協定が秘密裡であるとすると、各組合員が本当は幾ら給与をもらっているのかもはっきりしなくなる。

これに対し一柳委員長は、我々組合員の給与が約束よりもずっと低く抑えられてきたのだから、理事者側の裁量でせめて出せる範囲で、何とかやりくりしているのだ。暫定的な手当のようなもので、本来の約束された給与水準に達するまではもらう権利がある、と開き直りのような回答を行った。

しかしこの後に出た、先代原子力局長の佐々木義武からの質問によって、労組はさらに厳しい立場追い込まれることになる。

―引用始め―

(佐々木(義)委員) 関連。ただいま歴史的な結論というお話でございましたが、ちょっとお伺いしたいのです。創立以来いままで原研ではストは何回やっておりますか。

(森田参考人) これまたお恥ずかしいのですが、六十六回やっております。それから、昨年中だけで四十四回やっております。

(佐々木(義)委員) 組合の委員長に聞きたいのですが、そういう歴史的な結論の結果を尊重すべきだ、こうおっしゃるのですか。

(一柳参考人) 昨年四十何回というお話でございますが、これはどういう勘定のしかたか、私ちょっとあれなんでございます。つまり、私どもが通告してストライキをやっておりますのは、具体的に申しますと、昨年以来大きくもめました問題というのは三つでございます。

 一つは、七月にJPDRの直勤務手当を切り下げる。それからもう一つは、五班三交代の約束の時期を延ばすということでごたごたが起こりまして、(中略)これがストライキの通告という回数でまいりますと十日ばかりになっておりまして、その日ごとに出すわけであります。そういうことになっておりますので、そういう勘定をすれば十回ほどということになるかもしれません。しかし、これは一まとまりのそういうものでございます。

 それから、もう一つもめましたのは、昨年の暮れの期末手業でございます。この期末手当と申しますのは、所側のほうから一昨年の支給率を二割程度下回る案を出してこられたのであります。それで、これでは困る、これ以上お金はないということで、もめてしまいまして、そのときも一波、二波というふうにやっておりますから、それも二回という所側の勘定になればそうでありましょうが、それも一まとめのものであります。

 もう一つは、昨年十月からやっておりますベースアップに関する問題であります。これにつきましても一波、二波あるいは部分という形でやっておりますので、それを一つずっと勘定すれば四十何回ということになるかもしれませんが、もめております問題というのはその三つであります。

 その三つも多いとかなんとかいうことはありましょうが、そういうもののうち、ベースアップ及び期末手当につきましては、政府関係機関労働組合協議会というのがありまして、結局統一行動が大部分でございます。(中略)

(森山委員) この問題については意見が違うわけですから、四月一日から起きる超勤手当の問題について、すでにこれを正常な慣行と見るか見ないかということについて大きな相違があるということがはっきりしたわけです。したがって、このままでいくと四月一日までに簡単に話がつきそうにないということになりますと、原研の労働組合というのは、先ほどお話しのように大きな事件は三つかもしれないけれども、その間にあやのごとく、昨年中でも四十四回のストライキをやっておるのですから、大小取りまぜてやっておるわけです。これによって炉がとまることがないとは保証されない、それだけは私は言えるだろうと思います。

―引用終り―

相田です。原研労組がストを行った回数は、創立以来66回、そのうち63年だけで44回であるという衝撃的な数値が、森田氏から報告される。一柳氏はこれに対してたまらず、細かいストの回数は問題ではなく、大きな流れとしては3回だけである。原研の方に通知した回数を全て数えると多く感じるのだが、実態は3回なのだ、という趣旨の回答を行っている。しかし一柳氏の話は、どうにもつらい言い訳にしか聞こえない。大きな流れの中とはいえ、10日に1回以上のペースでストが起きる職場というのは、凄まじい状況というべきだろう。

これを受けて、森山の労組への追及が更に激しさを増すことになる。

―引用始め―

(森山委員) それから次に、私は、これはごく簡単に一、二の例として聞いてみたい。時間内の組合運動に対してはどういうふうな申し入れをしておるかということを、ひとつ経営者側に承りたいと思います。(中略)この問題についての資料はいまちょっと手元にございませんけれども、私の記憶で御確認を願いたいのです。たしか組合総会とか組合大会とかいうのが年に何回か認めておりました。それについては年次有給休暇の中から認める。それに評議員会とか中央執行委員会とか、そういうようなものについてはまた幾日かの、たとえば中央執行委員会なんというのは週に一日ぐらいではなかったかと思いますが、(中略)そしてそれについては覚え響きとして外部に発表しないという案でもって、賃金カットをしないのだ、まあそういう案です。そういう案を私はお出しになったように記憶しておるのですが、その辺どうですか。

(森田参考人) これは世の中の一般の通念からいって当然おかしいものだとわれわれは十分に了解いたしておりますので、これは全部撤回いたすことに私きめたわけでございます。

(森山委員) この勤務時間内における組合活動についての提案は、ここ数年来何回も出ておるようですね。その経過を私が調べたところでは、組合の総会ぐらいは年次有給休暇の中からこれを転用するということにしておるようですが、その他の大部分の評議員会とか中央執行委員会とかその他いろいろな組合活動は相当な回数及び時間これを認め、賃金カットをしないという、外部に発表しない覚え書きがいままでは出ておるじゃないですか。そういう事実をお認めになりますか。

(森田参考人) さきに出したものについては、相当そういうことになっておったように記憶いたしております。それではとうてい困るということで、撤回することにいたしたのでございます。

(森山委員) ちょうど労働省の労働法規課長が来ておりますが、時間内の組合活動で、賃金カットをしないで年次有給休暇に振りかえ、または賃金カットにならないで認めているような例が他にございますか。

(青木説明員) 賃金カットをしているかしておらぬかという実態は、各それぞれの事業場の内部問題がございまして、われわれの調査では明らかになっておりません。しかし、御存じのように、労組法の第七条第三号におきましては、一定の事項、すなわち勤務時間中の団体交渉あるいは経営協議会などの協議、そういう法で認められます事項以外の組合活動について賃金を支払うことは禁止されております。

(森山委員) そうなると、労働組合運動というものは相互不介入、自主運営の原則の上に立っておる。そういうものに原子力研究所は月給をやって、時間内の組合活動を野放しにいままでしておったというやり方、また二月における提案と同様の趣旨を認めるようなやり方は、ある意味におきましては労組法上の不当労働行為になりませんか。

(青木説明員) 法の規定の純法理論的に申しますと、そういう結果になります。

(森山委員) 菊池理事長に伺いますが、なぜとのような不正常な労使慣行を従来やってこられたか。それを承りたい。

(菊池参考人) これは、いまおっしゃったとおり、純法理論的には認められないことは私も承知しております。(中略)一番大きな原因は、やはりわれわれは非常に大きい、たとえばこの間の動力試験炉というようなものをかかえております。これについては、一日おくれればどれだけの補償を払うというようなペナルティーのついた仕事をかかえております。そういう場面で、いよいよ超勤協定が切れた。それで組合との各種の交渉が始まる際に、どうしてもそっちのほうを何とかやらなければいけないという気が強くなりまして、そのためにやむを得ずそういうことを知りつつやった。そのために、その協定の期間が二週間とか一月とかの短いもので、次の段階になると、また同じようになる。

そういうことが繰り返され繰り返されまして、去年のJPDRの引き渡し直前に、これではどうにもいけないというので、引き渡し前でありますが、私はあえて炉をとめて、労使の正常化をはかろうという決心をしたわけであります。その後いろいろないきさつもございまして、とにかくJPDRは受け取ろうということで、三月一ぱいの、先ほど問題になりました協定を引き渡しまで延ばしまして、やってきたわけでございます。

 それで、ここで、いまおっしゃったようなほんとうの正常化をやらなければならぬように考えております。だから、ただいままでそういうようないきさつで、非常にゆるふん的な態度であったことをわれわれははっきり認めます。そういう態度ではいけないと思っております。

(森山委員) 理事者側は、正常な労使慣行にあらず、時間内の組合運動は正さなければならないというお考えのようでございます。

―引用終り―

相田です。残業代のヤミ支給問題に続いて、森山は勤務時間内の組合活動の実態について質した。労組の専従者以外の組合員の大勢が、勤務時間であるにも係らず組合活動に時間を割いており、その間の給与は原研側から支給されているのではないのか?その内容は「例のごとく」非公開の取決め書にのみ書かれており、法律上の不当労働行為にあたるのではないのか、という、あまりにも厳しい追及である。

準備万端の森山はこの時のために、労働省の労働法規課長の青木氏をわざわざこの場に呼んで、原研の対応は労働組合法に違反するものだ、という発言を青木氏にさせている。これに対して理事長の菊池は、悪いとはわかっていたものの、JPDR等の大型装置を計画通りに設置して稼働させることを優先せざるを得ないことから、わかっててやってしまった。非常に「ゆるふん」な対応であり、正すべきである、と森山に頭を下げるしかなかった。

確かに森山の言う通りなのだが、こんな情けない言い訳をさせてしまうまで、菊池を追い込んでしまうのも、一体どうなのかと思ってしまう。菊池を国会に呼び出してその名声に泥を塗り、恥をかかせるために原研理事長として招聘した訳ではないだろう、菊池がやるべきことはこんなことでは無いはずだ、という無念さと憤りを、自分は読みながら感じずにはいられない。

森山はこの問題を、一柳氏に直接質すことになるが、森山の度を越した厳しい追及に、会場は一時騒然となる。

―引用始め―

(森山委員) そこで、組合の委員長に承りたいが、いままでのような野放しの、野放図な労働組合運動、時間内の労働組合運動、すなわち専従制度さえもまだ認めてない、すなわち組合の委員長以下相当数の人間がこの組合運動に相当専念していることは明らかな事実でございます。にもかかわらず、俸給は組合からもらうのじゃなくて、原子力研究所から俸給をもらって組合運動に没頭しておる。その他の各種組合活動におけるところの勤務時間のロスというものを、一切賃金カットをしないというような従来のやり方について、これを正常な労使慣行と考えておるかどうか、承りたい。

(一柳参考人) 労使間の諸問題を解決していくための諸手続とか、あるいは諸機関とか、あるいは団体交渉とか、種々の委員会とか、そういうものがございます。こういうものをちゃんとやっていくということは、これはいい労使慣行である。そういうふうに私考えております。いままでいろいろ協議とか事務折衝とか、そういうことがありました。そういう問題が、現在まで生々発展してまいりました原子力研究所の中では、労働条件その他についても変更がたびたびございます。(中略)そういうことは正しい労使慣行であると思っております。したがって、そういうことはやっていかなければならない。そうしなければ問題は解決していかないし、問題はますます混乱するばかりである、そういうように考えております。

(森山委員) どうもあなたの言うことはわからない。原子力研究所が設立されてすでに八年たっておる。その間に専従制度すらない。組合運動は野放しである。こういう実情をあなたは正常な労使慣行と考えておるのか。
  〔「参考人に対してそんな言い方は失敬じゃないか」と呼ぶ者あり〕

(前田委員長) 森山君、もう少し静かに、ひとつお願いします。
  〔発言する者あり〕

(前田委員長) お静かに願います。

(一柳参考人) 先ほどから申し上げておりますように、労使間のいろいろな問題がございます。その問題を解決するためにやっておりますいろいろな会議とかいろいろな委員会とか、そういうものは正常な労使慣行であると思っておりますので、そういうものは私どもは今後やっていかなければ、原研の当面しておるいろいろなむずかしい問題は解決していかないと思います。(中略)

(森山委員) あなたの返事はよくわからないのですがね。ただ、専従制度がなくて八年も経過していることは正常だと思いますか。あるいは組合運動が野放しになって、何回やってもよろしいし、また何回やってもこれは賃金カットの対象とならないようなやり方は正常だとお考えなんですか、こう聞いているのです。イエスかノーか、聞かしていただきたい。

(一柳参考人) いまのおっしゃり方では私ははなはだ困るのでございますが……。

(森山委員) 答えやすいように聞いているのですから、ちゃんと答えてください。

(一柳参考人) 先ほどから申しておりますように、労使間の諸問題を解決するための諸手続、それから諸機関、それからそういうものに関する調査活動とか、そういうものに関しましては、これは正常な労使慣行であるし、したがって、これは今後やっていかなければならないと思います。

(森山委員) それでまた、正常な労使慣行について理事者側とこういう常識的なことにおいても違うという事実が明らかになった。

―引用終り―

相田です。文章からでは詳細はわからないが、のらりくらりとはぐらかす一柳氏に対し、途中で森山が激高して声を荒げて、会場が騒然となったことがわかる。最早、原子力を議論するのではなく、原研の労働問題を問い質す場になってしまっている。森山のワンマンショーと化している。


4.6 打ち出された「森山ドクトリン」

森山の労組への最後の問いかけは、労働協約の問題である。以下に引用する。

―引用始め―

(森山委員) それからもう一つ、最後に伺います。原研が発足して八年目だというが、労働協約がない。私ちょっと拝見しますと、ばらばらの協約を、三カ月か二カ月あるいは一カ月、こま切れのようにばらばらにやっている。しかし、総合的な長期にわたる労働協約をいままでも締結してなければならないと私は思いますし、これからも早急に締結しなければならないと思うが、これについて原研の理事者はどう考えるか、御返事を承りたい。

(森田参考人) 労働協約がないということはまことに不正常になるゆえんであると考え、われわれも労働協約の締結についてはあらゆる努力をいたしてまいったわけでありまして、まさに協定の寸前にまで至ったことも二、三回あるのであります。最後は三十七年くらいにまさに締結しそうになったのでありますが、遺憾ながら、その当時組合の執行部の期限といいますか、それが半年ごとの更改になっておったわけです。

労働協約を締結するためには半年ぐらいはどうしても話し合いをしなければならないので、そうすると、まさに寸前のところに至って、向こうが選手交代というようなことになりますので、数回そのチャンスを逸していままでに至っておるような実情で、まことに遺憾のきわみと存じます。

(森山委員) 労働法規課長がおられるので、労働省に承りたいのです。この程度の規模の、二千人近い組合員を擁するところの組織において組合活動が行なわれ、そして労働協約がかくも長期間締結されないなどという事態は、一体ありますか。少なくとも正常な事態ではないように私は思う。(中略)

 私が先ほど声を荒らげて質問しましたことは、その点はおわびを申し上げなければなりませんけれども、どうもあまりにも常識と違うことを平然としてお答えになるものですから、義憤にかられて声を大きくしたということでございまして、ひとつ委員長において御了承を願いたい。

(青木説明員) 全国的な調査というものは行なっておりませんが、一昨年民間の事業場単位の労働組合につきまして、協約の実態調査を行ないました。その結果によりますと、千人以上の規模の事業場におきましては約八九%が労働協約を締結いたしておりまして、この労働協約によって労使関係を規律するということに相なっております。(中略)

この労働協約の締結のしかたにつきましては、個別協約を積み上げていく方式もございます。しかし、一般的にわれわれは総合的に労働条件の分野、その他ただいまここで問題になっております組合活動の分野、あるいは争議関係の分野、そういうものをひっくるめて、総合的な労働協約を労使間で締結をしていただきまして、これによって労使関係の正常化をはかっていくのが最も正常なあり方じゃないか、こういうふうに考えております。

 なお、組合活動の規制の関係につきましては、この調査によりますと、協約で規定いたしておりますものが千四百九のうち九百十五ございます。その規制の内容はまちまちでございまして、一応届け出によってできるもの、あるいは許可、承認によってできるもの、そういうふうにまちまちになっておりますが、現在約七割以上が協約でもってそういうことを規制しておるというのが、実態調査の結果の数字でございます。

(森山委員) こういう労働協約を結ぶのは常識的であり、正常ないき方だと私は考えるわけだし、いまの労働省の調査の結果の報告を見ても、これは明らかであります。組合の委員長としては、労働協約の締結についてはどう考えるか。

(一柳参考人) この問題については、前々から私どものほうとしても結びたいということで、やってきたわけでございます。だけれども、なかなか意見が合わなかったり、そのほかにいろいろ問題がありまして、どうも途中で中断してしまってだめになったりするわけであります。

 ただ、労働協約がないというお話でありますが、私どもは、ないのではないと思っております。御承知のように、労働約協には債務的なものと規範的なものがございます。そのうち規範的の、いわゆる労働条件とか、そういうものに関する部分、それについては全部あるわけでございます。ただ、そのあるのが、いわゆる個別協定方式、いま言っておられましたが、そういうふうなことの積み重ねということでできておるわけでございます。債務的な部分について欠けておるところがあるということなのでございます。

それが、たとえばこの間できました争議協定というものもその一部分でございまして、そういたしますと、それによって追補されていくという形になっております。したがって、全くないというのは、そういうことではないのであって、債務的部分のうち欠けておる部分がある、そういうことであります。

(森山委員) あなたと論争するつもりはございませんが、ただ私の感じでは、とにかくばらばらである、しかもこま切れであって、もっと労働協約としてまとまったもので、労使間がしっくりいくような協定を結ぶ必要があるということを申し上げた。世にいわゆるその意味の労働協約というものはないじゃないか、こういう議論を言っておるわけです。その点については、これ以上申し上げません。

―引用終り―

相田です。ここでの森山の主張は、「原研のような大きな組織では、労使の間で総合的な長期にわたる労働協約を結ぶべきではないのか?」というものである。「なぜ1ケ月、3カ月などのこま切れの協定をばらばらと結ぶのだ?これでは、いつまでも交渉事が減らずに、業務が停滞し続けるのではないのか?」という、これもまた、あまりにもっともな内容だと思える。要するに、協定がばらばらであるがゆえに、労使間の協議に多大な時間が費やされ、ずるずると就業時間内の組合活動が公然化され、協定の度に組合の新たな要求が出されて、更なる協議の時間を費やすというような、組合ペースの悪循環が続くのだろう、ということである。ある意味で原研の労使問題の核心であるといえる。

ここでも森山は青木労働法規課長を呼んで、「民間企業における千人以上の規模の事業場では、約八九%が労働協約を締結しており、調査結果を準備させており、労働協約によって労使関係を規律するのが一般的だ」という調査結果を説明させるという、念の入りようある。労働組合潰しの専門家としての森山の力量が、如何なく発揮されている。

 労働協約がない理由について森田副理事長は、「これまでに協定の寸前にまで至ったことも二、三回あるのだが、組合執行部の期限が切れて担当者が交代してしまうので、そのつど仕切り直しする羽目になる、誠に遺憾である」という、情けない言い訳をここでも繰り返す羽目となった。一方の一柳委員長からは、「労働協約は無いわけではなく、個別方式の積み重ねとして規範的なものはあるのだ。労働条件はそれで規定されているから良いのだ」という、現状を肯定する趣旨の回答がされている。切り貼りの協定の積み上げでも実態はカバーできているのだから、別に問題はないだろうという、開き直りともとれる発言である。

 ここまでの、森山の作り上げた一連の筋書きにより、原研内部の労使間に信頼関係が全く存在しないこと、労使間の交渉は組合のペースでグダグダに進められていることが、白日の下に晒されてしまった。自民党側の作戦勝ちである。森山は自らの主張に説得力を持たせるため、さらなる証拠を取り出して追及を行った。

―引用始め―

(森山委員) なお、参考のために、私はいま書類を取り寄せてまいりましたのですが、この一月三十日付に菊池理事長名で勤務時間内の組合活動に関する申し入れ書というのを出しておる。それについて二月末協定成立を目途として別紙案によってやりたい。そこに協定案ができまして、そして例によって外部に発表しないという覚え書きをつくっておる。

その覚え書きの内容によると、労働組合の組合活動を勤務時間内に行なうことができるものとして、総会年二回以内、一回の時間午前九時から午後五時五十分までの必要時間、この場合、原子力研究所は労働組合の組合員から年次有給休暇の請求があったときは了承する。それから、大会というのがありまして、年に八回以内、一回の時間四時間以内。それから、評議員会として年に八回以内、一回の時間四時間以内、ただし闘争委員会設置期間中は認めない。回数は闘争委員会設置期間に応じ減ずる。それから執行委員会としまして、闘争委員会を含む、週一回以内、一回の時間四時間以内。執行活動、ただし専従制に移行する段階の暫定措置として、その期間は一年以内とする、原則として特定の五名以内とする、というようなこと等が規定をされておるわけです。

しかもこれが、年次有給休暇と特に明示してあるもの以外は、全部原子力研究所で月給をもらいながらこれらの組合活動に専念するというようなたてまえになっておるように私どもは了解をいたしておるわけです。すなわち、賃金カットをしないというふうな提案になっておるようでございます。

それで、私は、そういうことはおかしいではないか、しかもこういうような協定ができておらない現状については、専従もなければ、総会であろうと、大会であろうと、評議員会であろうと、執行委員会であろうと、あるいは専従にその仕事をしておる人たちであろうと、これらが全く野放し状態になっておって、しかも月給は全部原子力研究所からもらっておる。今日の原子力研究所の労働組合の財政的基礎に対してとにかく月給をやっておる。組合活動に金を出しておるわけですから、相互不介入、自主運営の立場からあまりにおかしいじゃないか、労働法上の不当労働行為になるのではないかということを私は質問し、それに同意の意見が労働省からあったわけでございます。やや具体的に皆さまの前に一応御報告を申し上げておきたいと思います。

 そこで、私はこういうような点から見まして菊池理事長にお伺いをしたいと思います。(中略)原子力研究所の研究方向をどう持っていくかということは、私は大きな問題だと思います。私は原子力問題についての専門家でございませんから、その問題について私見をこの際申し上げることは差し控えさせていただきたい。しかし、研究所であれ工場であれ、とにかくたくさんの人が集まって仕事をするというところでは、今日労働組合ができるのはもう当然でございます。そして、その労働組合というものに折り目がちゃんとついていかなければならない。折り目が正しくなければならない。

いま見ますと原子力研究所の労働運動というのは、総合的労働協約はもちろん、勤務時間内の労働組合運動は全く野放しにされているというような状況になっておるわけです。もしたくさんの人が仕事をするにしても、組合というものが結成されて、そういう形における労使関係がないならばまた別ですが、組合というものが結成されておりながら、折り目、筋目の正しくないような組合運動を放置しておっては、どんな方向に研究方向を持っていこうとされましても、ちょうど、イソップ物語だったか何かにありますように、砂の上に皆さま方が楼閣を築こうとするようなものであろうと私は思うのです。まずたくさんの人が集まって仕事をするについては、その基本になるところの労使関係というものががっちりしておらなければ、その上にどんなりっぱな建物を建てたって、下がぐらぐらしておったら、それは全部こわされてしまうと私は思うのです。

その意味において、今日の日本原子力研究所の労使関係の実態というものは、まずこれを手直ししていかなければ、これを改善していかなければ、またがっちりした労使関係の基礎をつくっていかなければ、日本原子力研究所はその業績をあげることができないのではないかというふうに私は考えるわけでございまして、この点についての菊池理事長の御見解を承りたい。

菊池理事長も、主任研究員の方々も、原子力研究所の今後の方向ということについていろいろと御苦心をなさっておられるわけでございます。菊池先生は、特に私どもの学校の先輩でもございますし、その道の大家でございます。かねてから御尊敬を申し上げておるのでございますけれども、しかしながら、どういう方向に原子力研究所の方向を持っていかれるにいたしましても、たくさんの人と一緒に仕事をし、そのたくさんの人が労働組合を結成して、そういうものとの労使関係の上に立って仕事をしなければならないとするならば、その労使関係というものについてはっきり折り目、けじめをつける必要があるのではないか、折り目を正す必要があるのではないか。それなくしていかなる原子力研究所の運営方向というものも、どんなりっぱなものができても、くずれ去るであろうと私は思います。そういう意味で一つ御意見を承りたいと思います。

(菊池参考人) 御説のとおりと思います。

―引用終り―

相田です。森山が準備して読み上げた「勤務時間内の組合活動に関する申し入れ書」に書かれている内容は、概ね事実だったのだろう。原研労組は森山が言うところの「協定ができておらない現状で、専従もなければ、総会であろうと、大会であろうと、評議員会であろうと、執行委員会であろうと、あるいは専従にその仕事をしておる人たちであろうと、これらが全く野放し状態になっておって、しかも月給は全部原子力研究所からもらっている」という状況でありながら、「給与が約束より少ないのは許せない」という理由をさらに持ち出して、JRR-3への「30分前予告スト」を決行した、ということだ。少なくとも菊池は、それが事実であることを否定することは出来なかった。

ここで森山は、原研が困難な状況に至った理由として、菊池がこれまで訴えていたような、政府の原子力研究の方針が定まらない、原子力委員会の権限が弱い、大蔵省査定の単年度予算では十分な計画が立てられない、などというような考えに対し、「そうではない」と反論を始めていることに注目すべきである。原研が混乱しているのは、理事者側が過激な組合活動を十分に管理できないからで、労使関係にきちんと折り目がつけられることで、はじめて上手く組織が回ってゆくのだ、という方向に、関係者の目を向けるのに、森山は見事に成功したのである。労組側の活動がエスカレートし過ぎたことが、森山に反論を許すきっかけと証拠を与えてしまったと言えると思う。

ここで森山により提唱された、「組織における労使関係に正しい折り目を付けることで、原子力の研究開発を正しい方向に進めることが出来る」という考え方を、私は「森山ドクトリン」と呼ぶことにする。この日の議論で初めて「森山ドクトリン」が披露されたのだった。

(つづく)



[26]]第4章 理不尽すぎる審判(その4)
投稿者:相田英男
投稿日:2016-04-23 06:39:18

相田です。第4章の4回目です。

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4.6 悪いのはすべて理事長
 
ここからは遂に、この日の議論のハイライトとなるやり取りを引用する。かなり長いが、一気に読み進めると思う。この場面こそが、それまで日本の原子力開発に残されていた僅かな希望を打ち砕き、災いの種をまき散らした、まさにその瞬間である。

―引用始め―

(森山委員) そこで、私は組合の委員長に今度は承りたいと思います。

 私の調査したところでは、原子力研究所にははっきりした日本共産党員が二十名、これは公安調査庁で一人一人の名前をあげることができるような確実な党員がおります。巷間伝えられるところによると、三十名か四十名あげております。その中には一柳さんは入っておられない。しかし、その同調者の筆頭にはなっておる。いわゆるシンパですね。これも相当なシンパと見られるような御業績がおありになることは事実でございます。(中略)いずれにしても、昨日公安調査庁の次長からの電話によると、日本共産党員は、原子力研究所に二十名は確実に名前をあげることができる、そしておよそその五倍の同調者がおるということでございます。そうすると、大体百二十名くらいの共産党員及びそのシンパ、同調者がいる、こういうふうに私は考えられるわけでございます。

 こういうところからいくと、私も実はその原子力研究所の労働組合の運動方針はどんなふうな運動方針を掲げておるかということで、研究してみたのです。要約すると、主要闘争目標は、大幅五千円の賃上げ、諸手当の新設、増額等を掲げる一方、原子力基本法の平和利用三原則が米国核戦略の一端や軍事研究、軍事利用の既成事実化の前に空文化されようとしておる、として、内部的には、原研の中心的研究である原子力発電の動力試験炉、いま問題になっている略称JPDR作業の勤務条件改善を名にしたスト強行、外部的にはアメリカ原子力潜水艦の寄港絶対反対を打ち出して、そして政府の施策に対決するかまえを示しておる、というふうに私どもはあなたのほうの運動方針を理解しておるのでございます。

特に一柳君は、日本共産党の機関紙の「アカハタ」にこの原子力発電に対する態度と安全性保証要求について記事を書いておるではないかというあれがありましたが、私はそれを読んでいないから、確認はしていないのです。前の委員長さんがお書きになったものは私は読んでおります。そういうことで、本日御列席の委員長並びに労働組合の人たちが非常に日本共産党の影響を受けるところが大きいということを私は痛感いたしておるものでございます。

それで、私は一柳さんを委員長とする組合というものにそういう認識を持っておるのだが、そういう認識は間違いでしょうか。ちょっとその認識についてあなたの御見解をごく簡単に承りたいと思います。

(一柳参考人) 私も似たようなものを、反共雑誌でございますが、最近何かそういう雑誌で見たことがございます。所内でもそれを見まして、何だこれはというので、だいぶ失笑を買ったような始末でございます。私どもの労働組合といたしましては、別にそういう思想性の問題とかいうことについて調査したこともございませんし、そういうことをやったことはございませんので、何人くらいおるかということについては全然わかりませんし、また私も存じておりません。そういうことでございます。

(森山委員) あなたとしてはその程度のことしかおわかりがないと思うが、私のところにも実は「全貌」というものを送ってきまして、幾日か前にそれを見たら、一柳君もシンパと推定されるものの筆頭に載っておるのです。私がいま申し上げたことは、この雑誌からじゃないのです。この雑誌じゃなくて、別の調査で調査をした。その数字において、私はいま申し上げましたように、公安調査庁という名前まであげて正式に申し上げておるのですから、私の言うことについて裏づけがほしいならば、いつでも裏づけができるような態勢にございますから、それはそれでいいのです。この雑誌を見てあなたにそういう話をするのではないのだから、その点お間違えなく……。

 それから、組合の運動方針については、さっきのような運動方針ではないのですか。

(一柳参考人) 現在の組合の運動方針というのは、四つございます。一つは、原子力平和利用三原則を守り、原研の自主性を回復しようというものでございます。二つ目は、原子炉その他の施設の安全を守り、そして国民とわれわれを放射線の障害から守ろうというのであります。三番目は、組合員に対する種々の弾圧をはね返そうというのであります。四番目が、われわれの労働条件を改善しようというのでございます。その四つでございます。そういうことでございまして、いまお話しのものはどこからおとりになったのか、ちょっと私わかりません。

 しかし、そこで問題になってまいりますことは、一番上の自主性を回復しろということが運動のスローガンに入っておるということであります。この点につきましては、これは私ども経済条件を改善しようということで、前々から一生懸命やっておったわけでございます。ところが、これは理事者のほうから最近お出しになっている原研白書にも書いてございますように、やはり給与に関する自主性がどうもないということがだんだんはっきりしてきたわけでございます。

そういうことになってまいりますと、なぜ一体そういうふうに自主性がないのだろうかということで、そのうしろにあるものは何であろうかということに当然なってまいります。そこで、それはいままでの原子力政策のままでは、これは原研には自主性が与えられないのではないかというふうにわれわれは考えざるを得ない。したがって、その原研の自主性を回復しろ、それがもし経済的条件といったものでできないというのならば、それの自主性を回復してもらうということが私ども運動方針の中の一つの基調になっているわけでございます。

(森山委員) 日本原子力研究所労働組合の運動方針がございますが、そういうものの中にそういう考えはみな書いてありますよ。経済要求ももちろん書いてあります。五千円のベースアップに始まって、いまのような運動方針とか、いろいろ周囲の環境を含む問題とか、みな書いてありますが、私は要約して申し上げた。だから、私の定義づけに御不満ならば、またあらためて、私どもの組合はそういう性格ではないのだということで、そちらからお話があれば、私個人でお伺いする気持ちはございます。いずれにしても、私どもはそういう見方をしているということをごく簡単に申し上げておきます。

 そこで、そういうお考えでいけば、いわゆるマルクス・レーニン・スターリン主義、その基本的な問題としまして、一つの階級闘争的な考え方を持つ。そうすると、労使間の安定というものはなかなかないのですから、すぐ伝家の宝刀であるストという剣を抜きっぱなしになる。たまに抜くから伝家の宝刀だが、どうも開所以来六十六回、昨年だけでも四十回というのでは伝家の宝刀ではない。そういうやり方をあなた方の組合はしてこられたと思うわけです。

昨年四十回のストライキをされたかどうかについては御異論があるようだけれども、しかし、森田副理事長は四十回とおっしゃる。あなたはそんなにやらないとおっしゃるが、数えてみると四十回くらいだろう。いずれにしても、容共勢力の増大、とにかく私どもはそういう思想的なことは申し上げませんが、しかし、それによって組合運動が非常に不正常になって、そして業務が非常に停滞しているというようなことはゆゆしき一大事であるといわなければなりません。事実、業務は停滞したと思います。この点は間違いがない。

 こういう組合のやり方を、今後どうするのですか。こういうことは、あなた方組合運動の立場からいえば納得できるかもしれないが、皆さん方の研究所は、八千万国民の税金によって運営されているのです。そういう重い国民に対する責任を考えたら、単に自分の組合だけの立場で業務停滞をさせるというようなことは、私はとるべき道ではないと思います。その点、委員長であるあなたの所感を伺いたい。

(一柳参考人) その点につきまして、私どもはストライキをやるたびに、実は非常に残念であるということをいつも申しておるのでございます。と申しますことは、何といいますか、いま、すぐストに突っ走るというお話でございますけれども、すぐストに突っ走るということではないのであります。

たとえば昨年の七月にJPDRのところでストライキが起こりましたけれども、これは先ほど申しましたように、JPDRの直勤務に関します協定を延期し、それからそれの手当を切り下げるという問題が発端でございまして、何日も交渉しているわけでございます。その結果、とうとう徹夜の団交が決裂しました。決裂しまして、協定の期限が切れてしまった。協定の期限が切れますと、これは通常の勤務に戻るのが普通である。通常の勤務に戻るのが普通であるにもかかわらず、通常勤務以外の部分について労使協議のととのわないことについて業務命令をお出しになった。したがって、やむを得ぬから、そういう通常の勤務時間からはみ出す部分についてストライキを指命したというのが実情でございます。

 それから、期末手当のときの問題も、何といいますか、昨年の支給実績を非常に下回っている案を出してこられまして、そうしてこれでおしまいなんだ、これ以上金はないというようなお話でありまして、私どもの計算ではあったのでございます。それでは困るということで、何度も何度も交渉した結果そういうことになっております。そういうことでございます。

 それから、ベースアップにつきまして、ベースアップの第一波は、これはやや唐突に行なわれております。スト権を集約いたしましたのが十月の二十四日、その次の二十五日に第一波のストライキを行なっております。しかし、この点に関しましては、積年の問題と申しますか、積年のうらみと申しますか、ことしのベースアップに関しましてはわれわれは異常な決意を持つものであるということは、これは大会でも議決されておりますし、そういう異常な決意を示したいということでそういうことになったのでございます。

 こういうふうに、種々のごたごたが起こるということは、労働組合が先鋭であったり、あるいは何か先ほどからおっしゃっておられますように、共産党ですか、そういう指導がよく行き届いておるとか、そういうことではないのでございます。そういうことはないけれども、こういうことになってしまう一番大きな問題といいますのは、やはり原研の給与というものが現在非常にじり貧であるということ、あまり上がっていかないということ、その相対的に低下している給与について、理事者側が主体性を持っていないということ、ここに最も大きな原因がある、そういうふうに私考えております。決してそういうお説のようなものではない、そのように考えております。

(森山委員) あなたの意見を聞きにおいで願ったのですから、あなたと論争するつもりはありません。しかし、そういうようなお考えでも、事実こうストばかり頻発して業務が停滞してしまう。政府関係機関は原子力研究所だけではない。他にもたくさんある。中には激しいのも一、二あります。しかし、大部分はそんな状況にない。あなたのところだけが激しい。私は見たことはないが、あなたのところは特に激しい。

見たことはないが、あなたのところの東海村なんかの職員宿舎なんか非常にりっぱだ。たいへんりっぱだと感心して帰ってこられる人の話ばかりだいぶ聞いておるので、人間は不満を言っては切りがない。どんどん幾らでも不満が出ます。そういう不満を取り上げて組合運動の名のもとに、どういう御意図をお持ちか知らぬけれども、トラブルを起こしてくるというやり方をやっていかれては、これはいつまでたっても労使間の安定はないように私は思います。

そういう意味において、昨年の一年間業務の停滞が非常に激しかった、今年はそういうことのないようにしたいものだ、何とかならぬかという話を私はしたわけですけれども、どうも先ほど来のお返事のようなことでございますから、これ以上の質疑をすることはやめたいと思います。

ここで最後に、私は原研の管理者にお伺いをいたしたいのです。労働組合運動をこのように野放図に走らせたものは、もちろん組合にもいろいろ問題がございます。けれども、多くの場合、労使関係の不安定の原因は管理者がだらしがないからだ。それが一番大きな原因です。そういう問題について、菊池理事長はどうお考えになります。この際ひとつ立場を鮮明にしていただきたい。

(菊池参考人) 私はこの原研に赴任いたしましたのは四年前でありますが、それ以来のいまおっしゃたような業績を見まして、全くどうにもこうにもできなかったことについて深く責任を感じております。すでにいまおっしゃいましたような意味で私は管理者として落第だと思っております。

(森山委員) 私は管理者として落第である、こう思われたということだけでは済まないのでして、先生のような国家の宝である碩学が、責任をもっておやりになった団体、研究所がこういう状態になって、もう一回先生のお力で立て直すように努力をしていただきたいと私は思います。特に研究方面においてはわが国原子力研究の将来を考えると、どうしても先生のお力をかりなければならない状況だということでございます。私は理事長がもう少し腹を固められて事に当たらなければならないのではないかと思います。(中略)

まだこまかいことをお聞きすれば数限りなくありますけれども、要約して、一つの私の質問のデッサンだけを皆さんの前に申し上げたわけでございます。これは要するに、日本原子力研究所の現状は、労使関係がきわめて不安定であるということ、その不安定な基礎の上に、いかなる方向づけというものも意味をなさない。よく、原子力研究所をどういう方向に持っていっていいかわからないからうまくいかぬのだ、という議論を聞くのだけれども、そんなことよりも何よりも先に、まず常識的な労使関係を打ち立てなさい。それをやらなければだめなんだということを私は強調したわけです。

 しかし、この点については、理事長、副理事長から完全な御同意を得られたものと思いますので、私の質疑を終わりたいと思います。

 最後に一言申し上げたいことは、日本原子力研究所は、申すまでもなく日本科学技術の先端として国民が大きな期待を寄せておる研究所でございます。そうして、その財政的基礎はあげて国民の税金によってまかなっておる。国民はこの原子力研究所の行くえに厳粛なる監視の目を怠っていないということをお忘れなく、今後の運営に当たっていただきたいと思います。

 質疑を終わります。

(前田委員長) この際、一時三十分まで休憩いたします。(午後零時五十一分休憩)

―引用終り―

相田です。ここの文章を最初に読み終えた時に、自分の中に強烈な脱力感とやるせなさが込み上げてきたことを覚えている。

ここだ、ここで全てが決まったのだ、と。

菊池が森山に「自分は管理者として落第です」と謝罪しまったこと、すなわち、技術を正しい方向に何とか戻そうとする科学者達の代表たる菊池が、ヤクザな自民党政治家に屈服してしまったことが、日本の原子力開発の方向が歪んでしまった原点なのだと、私は断言する。

一読して誰もが感じると思うが、ここに書かれている森山と一柳氏のやり取りは、(公開されている範囲の)日本の原子力に関する資料の中でも、群を抜いて激しく、また面白すぎる内容である。

森山は原研労組に対し「お前達は共産党の影響下にある左翼政治活動集団に過ぎない」と、真っ向から決め付けたのに対し、一柳氏は「雑誌などに書いてあるのは、単なる与太話であり、あの内容は組合員の間でも失笑を買っている」と返答した。しかし納得しない森山は「自分の話は雑誌ではなく、公安調査庁に依頼して調べさせた情報なのだ。内容に文句があるなら何時でも証拠を出してやる」と、さらにたたみ掛けている。

一柳氏は「組合の運動方針は、原研の自主性を回復すること、安全を守ること、組合員への弾圧をはね返し、労働条件を回復することで、共産党とは関係ない」と繰り返すものの、森山は「お前達の方針は、マルクス・レーニン・スターリン主義に基づく、階級闘争的な考え方なのだ。だからストライキばかり起こすのだ、だから原研は業務が停滞するのだ」と、バッサリと斬って捨てている。まさに森山の言いたい放題である。科学技術振興対策特別委員会で議論する内容とは到底思えないものの、今読んでも物凄いインパクトはある。出席者は全員が眠気が吹っ飛んだのではないか。

しかし、よくよく読んでみると、ここでの議論で最も重要な箇所は、実は共産党云々の話ではないのである。森山が菊池に対して放った「労働組合運動をこのように野放図に走らせたものは、もちろん組合にもいろいろ問題がございます。けれども、多くの場合、労使関係の不安定の原因は管理者がだらしがないからだ。それが一番大きな原因です」という問いかけが全てである。

ここでの議論は一見すると、森山と一柳氏の間で激しい非難合戦が繰り広げられているようであるが、その実は森山により「原研の責任者がだらしないからだ」という主張に、話が落とし込まれていることに気がつく。要するに森山は、原研労組を責めているように見せながらも、巧妙に、原研の統括者である菊池に、全ての責任を押し付けている。「全ては菊池が悪いのだ、だらしないからなのだ」ということである。

そもそも一月前の2月13日のこの委員会では、社会党の岡議員が「日本の原子力行政の方針に主体性が無いことが問題だ」という主張を、佐藤栄作科技庁長官に強く訴えていた。続く2月19日には、菊池もやはり「原子力委員会の方針に具体性が乏しく、長期的な予算の確保が難しいことが、研究が混乱する原因だ」という趣旨で、原子力行政への批判を述べている。社会党議員と原研理事長という立場の異なる両名が、同じような批判を行ったことで、自民党議員を中心とする体制側に強い危機感が生じたことだろう。苦境に追い込まれた体制側が、最後に飛び道具として持ち出したのが森山だったのだ。森山の登場は、おそらくは中曽根からの協力要請によると自分は推測している。

飛び道具としての森山の威力は絶大だった。まさに核兵器級のインパクトを与えることとなった。それまでの行政体制に問題があるという、岡議員や菊池の主張は吹き飛ばされて、問題の中心は「原研の理事者がダラけた組合を厳しく管理しなかったためなのだ」と、見事にすり変えられた。

更に見過ごせないのは、組合側も「理事者に主体性が欠けているのが、原研が混乱した理由なのだ」と、混乱の責任を菊池に押し付けていることである。「理事者が政府に対し強く予算を要求出来ないことが、給与が上がらない最大の問題であり、我々がストに至るのも仕方が無いことだ」という主張を、一柳氏は崩すことはなかった。この構図は菊池にとっては相当に辛い。森山からは「理事者が組合に強く対応出来ないのがだらしない」と非難され、労組からは「理事者は主体性を持って予算の獲得に当たれ、さもなくばストだ」という真逆の要求を突き付けられるからだ。

結局のところ一柳委員長も森山(自民党議員)も、自分達が所属する組織がそれまで重ねてきた行為の後ろめたさを誤魔化すために、結託して菊池に責任を押し付けたといえる。どちらもが、自分達の組織の歪んだ正当性を押し通すために、無理やりに菊池を追い込み、潰したのだ。ここにおいて、左翼も自民党もグルであり、日本の原子力の将来に最も必要だった人物を、自分達の組織を延命させるために生け贄にしたのだと、私は断言する。両者は同罪であり、その罪はあまりにも深い。

菊池の一体何処が悪かったのだろうか?

はっきり言って技術的な観点からは、菊池は全く間違ってはいない。2月19日の委員会で菊池は、原研の今後のやるべき課題として、軽水炉、国産動力炉(コンバーター炉)、高速炉の3つに注力すると表明したが、この方向性は当時としては極めて的を得た、適切な判断であった。もしも菊池がここで踏ん張ることが出来て理事長として2期目(次の4年間)を全うしていたならば、福島事故は起こらなかっただろうと、私は断言出来る。しかし、技術的に極めて真っ当であった菊池は、技術とは全く無関係の問題を背後から突き付けられて、無惨にも潰された。

「何故こんなことになったのだ?!」という静かな怒りが、自分の中からは消えない。こんな不条理を起こしておきながら、その関係者達は、右も左もどちらもが、素知らぬ顔でその後を過ごし、さらにその後継者達は、「自分達は哀れな一般市民のために、世の中の不正義と戦うのだ」、と「事実を隠蔽したまま」ぬけぬけと叫び続けているように、自分には思える。

「お前らたいがいにしろよ」と、心の中で叫ばずにはいられない。「お前らも皆全員が、福島事故を起こした共犯ではないのか?後ろめたさを全く感じないのか?」と。

菊池については、まだまだ書き足りないのだが、ここでは3月12日 の出来事についての話を続ける。

(つづく)



[25]第4章 理不尽すぎる審判(その5)
投稿者:相田英男
投稿日:2016-04-21 23:24:12

相田です。第4章の5回目で、これで最後です。

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4.7 オセロの駒にされた原研労組

さて、午後からは質問者が社会党の原茂議員に交代して質疑が再開される。しかし、午前中の森山の質疑があまりに面白すぎるため、これ以降の委員会でのやり取りを読み進むにつれて、かったるさを感じるのは止むをえない。とりあえず、原議員の菊池への最初の質問から引用する。

―引用始め―

 最初に、菊池理事長さん、森田副理事長さんにお伺いをしたいと思います。(中略)先ほど森山委員が質問をなさいました中に、二、三これはおかしいのじゃないかなという考えを持ちましたので、これを先に解明をしていきたい。

 第一には、先ほど、六十六回ストライキがあった、森山さんの意見によると、労働組合がすこぶる不逞である、ためにストライキが何回も頻発したのだというような趣旨で、組合の側に対する質問があったようです。私は実は、もし労使間に紛争が起きるとすれば、むしろこれは経営の側のほうにおもな責任がある、六十六回ストが起きたということは、理事着各位のほうにこれを紛争なしに解決するだけの手腕とか、あるいは経綸とか、そういう意味の、情熱といいますか、そういうものに欠けるものがあった。(中略)いずれにしましても、労働組合の側にのみストライキというものの責任を負わせた考え方というものは、非常に間違いじゃないかと思うのです。この点、理事長さんにひとつお答えをいただきたいと思うのです。(中略)

(菊池参考人) おっしゃいましたとおりに、この問題が組合だけの責任であるというふうに私は考えておりません。いろいろな原子力の開発体制をめぐる客観的な問題、それから理事者側の経営のやり方、それから一方には、組合の態度――態度と申しますか、姿勢と申しますか、どういう考え方であるかという、そのいろいろなものがまじり合ってそういう問題になりましたので、これのすべてが組合の責任であるというふうに私は決して考えておりません。

(原(茂)委員) 私はもう少し、すべてがおもにやはり理事者の側の負うべき責任が多い、紛争が頻発するということに関してはそのように考えております。そう理事長さんにお答えをいただこうというわけではありませんが、まずそういう意味の立場だけ明快にしておきたいと思うのです。

―引用終り―

相田です。説明からわかるように、原議員は森山とは真逆の労組側の肩を持つ立場から質問を行っている。しかし、最終的な問題の責任を理事者に負わせる方針は、森山と同じであることに注目されたい。森山と原議員は、菊池に全ての責任を押し付けることで、お互いの立場の正当化を図っている。原議員は森山の話について「二、三これはおかしいのじゃないかな」などと疑問を呈しつつも、結論は同じなのである。全くもって腹立たしい限りである。

その後しばらく原議員は、労働法規課長の青木氏を呼んで、原研労組の振舞いが労組法上の不当労働行為にあたるのか否か、という内容について、延々と議論を行っている。労組側の不満もそれなりの理由があるのだから、杓子定規に労組法を当て嵌めなくてもよいだろう、ということである。森山にやり込められた原研労組の印象を少しでも挽回しようとする、原議員の親心的な対応であるのだが、このあたりはどうにも言い訳がましいという印象を拭えない。

さて、かったるくも腹立たしい原議員の質疑ではあるが、その中でも菊池との間で見逃せないやり取りがいくつかある。例えば以下の箇所である。

―引用始め―

(原(茂)委員)二月の上旬か何か知りませんが、おそらく理事長さんの名前か何かで、大臣(佐藤栄作科技庁長官)に対して、新しい原子力研究所の体制としてこういうふうに組織分化を行なうべきだ、部局の機構の新しいつくり方をすべきであるというようなことを何か答申されたことがあると思うのです。(中略)そのとき大臣からどう答えられて、あるいはその大臣からの意向が原子力局に伝わって、あなた方の出された意見というものがどういうふうに結末がついたのかということを、ここで第一点としてお伺いしたい。

次に、(「原研調査項目」の)下から六、七行め、「原研の理事者は経営を委任されているとはいえ、その権限は非常に幅の狭い分野に限定されており、労働組合に対しても、殆んど実体的な交渉を不可能にしているきらいがある」くしくも午前中の論議のせんじ詰めた形を忌憚なく理事者各位は反省をされて、私たちには力がないのだ、問題はどこにあるのだろうということをお考えだろうと思います。なぜ一体こんなことが堂々と――「調査項目」に正直にお書きになったからよろしいのですが、書かざるを得ないような状況になったのか。(中略)この二つを先に……。

(菊池参考人) まず第一番目の、佐藤大臣にこちらから答申をいたしましたのは、原研内部の機構の問題でございまして、国全体としての機構の問題ではございません。それから、ここにございます原子力委員会を行政機関にしたほうがいいとかどうとかいう意見は、ここに意見として出しましたけれども、とうていわれわれの及ぶ範囲ではない。これは私個人この文章については責任を持ちますけれども、個人的な考えとしてここに述べたものでございます。これを実現するということは、とても私などのできるととじゃない。これは議会その他を通じて原子力委員会設置の法律そのものから変えてかからなければできない仕事だと思いますので、これをどう実現するかということは非常にむずかしい問題であるけれども、われわれとしてはそう考えるという意味でございます。

それから、いま最後の、幅が狭いということ、これは事実でございまして、これは準政府機関として国の税金を使う機関がことごとくそうであると同じような意味で非常に狭い幅を持っております。それは確かに、一方、組合が全く民間の企業と同じ形態の労働法によって守られているという面に対して、こういうことのいい悪いは別として、国民の税金で成り立っている準政府機関共通に持っている問題だと思います。(中略)これはすぐどうしなければいけないとか悪いとかいうことを言うよりも、むしろ事実を言っているわけなんです。

たとえばベースアップ問題にしましても、国民の税金でやっております以上、国全体としての公務員に準じたベースアップ以上の大幅のベースアップをすべきではないと私どもも思っております。そういう意味で、そういう機関の性質上からくるある意味の幅がそこに当然きめられていると思います。それは、一方に組合が持っている非常に広範な労働法によって守られているものと、対立と申しますか、何といいますか、そこに非常に問題が起こる可能性があるわけであります。

(原(茂)委員) いまのおことばの中に、労働組合は三法によって保護されている、だが私たちはと言って、(あなたは)それが具体的によく説明できなかったのです。しかし、理事者の側も、原研のいまの経営のやり方や運営のしかたを見ていますと、民間の企業だったらつぶれていますよ。六十六回もストライキを起こすような状態で、労働管理の面だけでも、人事管理の面だけでも、経営は満足に運営できなかった。あなた方はとんでもない大きな力で保護されている。その点は自信を持って、誇りを持っていいんじゃないでしょうか。(中略)

したがって、そういう点は組合だけが三法によって保護されているのではなくて、組合はぎりぎり、最小限度のところを、当然憲法に保障された範囲で三法による保障があるだけなんです。もっと大きな保障というものは理事者の側にある。いま、どういうふうにしたらいいかということは政府機関全体の問題なんで、どうしたらいいかわからない、こうおっしゃったのですが、そうじゃなくて、共通の問題であろうと、どんな問題であろうとかまいませんが、そういう実体的な交渉を不可能にしているという、その不可能にしているものは一体何だろうということを、一つでも二つでも実例をあげてお聞かせ願いたい。(中略)

(菊池参考人) たとえばベースアップに例をとりますと、ベースアップの幅というもの、つまり言いかえれば、組合の側としましても、われわれの置かれている立場というものを十分に了解してもらいたいということが一つございます。そういう一つの共通の地盤の上に立って事を論じませんと、ベースアップの問題にしても、あまりにも違った土俵の上で相撲をとっているようなかっこうになってしまう。そういう意味で、不可能になる、問題がむずかしくなるということを言っております。(中略)

(森田参考人) ベースアップにつきましては、われわれとしては常々よそよりよけいとろうという努力をいたしてまいりました。二、三年前に中央労働委員会にまで持っていって、そのときはわれわれは少なくともこのくらいは出していただきたいという意欲のもとにそれを出していったわけです。しかしながら、不幸にしてそれは通らなかったということと、科学技術庁関係では横の関係がだんだん密接になってまいって、原子力局が科学技術庁の中にあります関係上、科学技術庁関係は一応こういう基準でやるのだということで大蔵省と局との間でお話し合いがついているように思いますので、これはなかなかわれわれの力ではいまのところやり得ないのじゃないか。

それから、給与全体のことにつきましては、おっしゃるとおり、原研発足の当時は当然ほかよりよけい出すべきだという相当はなばなしいスタートをしたように私は承っております。その後、中曽根さんが長官のときに一二〇、一三〇というような大体の基準をお出しになりまして、それを守り抜こうとしてそのときも努力したわけでございますが、漸次これが縮小の傾向にあるということだけは、横との連絡上、これはいまのところ結果論的にはそういうことになってまいったわけです。

―引用終り―

相田です。ようやくここで原議員は、この日の本来の審議テーマである「原研調査項目」の内容について、質疑を始めている。但し森山の質問に比べて、原議員の話は全く面白くないので、ここでは大幅に割愛している。

さて、上の菊池の答弁の中での「原子力委員会を行政機関にした方がいい」という言葉に、私は注目する。これは要するに、原子力委員会の体制を行政権を有する3条機関に変更して、提案内容に強制力を持たせて欲しいという、菊池からの要望である。菊池が述べるように、これを実現するには法律から変える必要があるため、実現は難しいものの、研究機関の最高責任者として菊池は強く望む、ということである。原子力委員会が全然役に立っていないのが、結局は問題の核心なのだ、という不満を菊池は繰り返して述べていることが、ここでもはっきりと伺える。しかし原議員もまた、菊池が訴えた原子力委員会の体制の問題について、深く追求することはなかった。

原議員はここで菊池に、組合よりも原研の理事者側の方が政府による大きな保護を受けているのだ、だから、もっと理事者の方から具体的な解決策を模索して提案するべきなのだ、と主張している。しかし対して菊池は、ベースアップ問題を例にとり、その条件を原研理事者側が決めることは困難であるのだから、その立場を組合が理解してもらわないと、解決は困難だ、と回答した。要するに、お金の問題を解決する権限は、理事者には無いのだから、一体どうすれば良いのだ!?という、単刀直入の反論である。

森田副理事長も、「ベースアップ要求はこれまで行っているのだが、結局は科学技術庁と大蔵省の間の話合いで決められるのだから、如何ともし難い」と、重ねて説明している。これ以上の、どういった「具体的な解決策」を示せと、原議員は訴えるのだろうか?苦肉の策で、超過勤務手当を原研内の予算から工面して、全組合員に一律支給したものの、森山から「正常な労使慣行に反する」とバッサリ否定されてしまった。結局は外野の連中は、現場の窮状を冷ややかに見つめているだけでしか無いことが、よくわかるやり取りである。

その後も原議員からの、理事者側への責任追及は続くことになる。例えば以下のように「調査報告書」の記載に原議員はクレームを付ける。

―引用始め―

(原(茂)委員) その次に五六ページの下から三分の一ぐらいのところにありますね。いわゆる「労組活動の最終目標が経済闘争にあるのか、また、それとは異なった別の目標があるのか理解に苦しむ」とある。ほんとうにこういうふうにお考えになっているのか。(中略)違った目標というものは一体どういうところにあるのか。何を言おうとするのか。何ですか。
 
(森田参考人) これは読みようによっては非常に重大なことになりますので、私、実は東奔西走いたしておりまして、十分に私ども責任は持ちますが、読んでなかったのでございます。つまり組合活動というものは本来経済活動であるべきものだと思いますが、いままでのわれわれの組合の活動を見ておりますと、単に経済活動だけでなくて、つまり安全問題だとかいろいろ理屈に走るようなことが非常に多くて、経済活動のみでないということが言えるのではないかと思います。

(菊池参考人) これに書きましたことは、こういうことでございます。これは現在どこでもそうでございますが、原研の中にもいろいろな政治的な色彩がございます。そうしてそういった政治活動的な場がやはり原研の内部に持ち込まれている気配が十分にあるということを言っておるわけでございます。

(原(茂)委員) そうであるのでしたら、労働組合の存在理由というものは、経済的な目的を達成するために労働組合があるのですよ。その労働組合を現に認めて、理事者も相手にしているのですよ。それなのに、経済闘争に目標があるのかどうかわからないという、そんな前提に立って組合と話し合いしたら、話になりませんよ。

思想的な動きがあるとか、いわゆる政治的な動きだとか、違った目標があるとかということは、労働組合が、組合員というよりは働く者として、基本的にほんとうにそこから国全体の平和を脅かされたり何かしては話になりませんから、これは別途にやるのはあたりまえのことです。(中略)その問題をいろいろな形でやっていこうとしてもかまわない。

だからといって、それをやるからといって、何か経済闘争という目標を全然持っていない組合であるかのような思想を持っているから、労使の紛争は絶えないのです。こんなばかなことはない。経済的な目的というものを達成するための存在が組合なんだ。(中略)それを前提にして、労働組合とは相対するようにしなければいけないということであります。

(中略)そういう考え方は、そのこと自体が皆さん自身が自主性を持っていない。なぜ自主性を持たれないのか。(中略)こういう考え方がある限り、労働組合との話し合いというものは今後うまくいきません。

―引用終り―

相田です。原議員は「労組活動の最終目標が経済闘争にあるのか理解に苦しむ」とは、一体どういう意味なのだ、そんな偏見を持つことが、「理事者の自主性に欠ける」大きな要因なのだ、という批判を理事者側にむけている。ここにおいて森田副理事長が「私はそこは読んでいませんでした」という、苦しい言い訳をせざるを得なかったのが、残念ではあるが可笑しい。菊池はもはや細かな反論はせず、「そのような気配が原研の内部に持ち込まれているのは事実だ」と述べるだけであった。

原議員は「主目的は当然経済闘争にあるのだ、こんな馬鹿なことを理事者は考えるべきではない」と菊池達を責め立てるのだが、読みながら自分は「原子力潜水艦の寄港反対運動が、原研労組の経済闘争とどう関係するのか?」という疑問も、抱かざるを得ない。国会において報告書の細かな文言を追求するのも大事であろうが、もっと重要な問題もあるだろう。

理事者側に対して、厳しく責任を追求した原議員は、最後に労組側に対しても幾つかの説明を求めている。その中で争議(ストライキ)協定の問題が長引いた問題について、一柳氏は次のように回答した。

―引用始め―

争議協定の問題につきまして、これが長引いたのはなぜかというお話でございます。争議協定をめぐってごたごたいたしましたのは、最近二度ばかりあるわけでございます。一度は昨年の十一月でございます。十月の二十九日から始まったので、まあ十一月でございます。これは動力試験炉がまだ工事中でございまして、そこの施工者であるゼネラル・エレクトリックからの指令によって原子炉がとめられたわけでございます。そのときでございます。もう一度は、本年の二月の半ばから、これは新聞等の報道によりますと、原子力局あるいはその他から何かお話があってやったというふうに私は聞いておりますが、それによって原子炉がとまった、その二度でございます。

昨年の十一月のときには、これは御承知のように、後に訂正されましたけれども、日本人技術者のミスオペレーションの問題であるとか、そういうふうな問題に関するGEに対する理事者の主体性の問題であるとか、こういうふうな問題がひっからまりまして、それと、いまちょっと前におられますので少々あれなんですが、毎週週末になると理事者が東京に帰っておしまいになったというふうなことがありまして、長引いたわけでございます。

今回の二月の場合には、この争議協定の問題に関しまして、炉がとまる前に、それに先立ちまして労使間で非常に平和裏に話し合いをやっておったわけでございます。話し合おう、そういうことになっておりまして、やっておったわけなんでございますが、そこへ突然炉がとまっちゃった。せっかく話し合ってやろうというときに炉をとめて、その問題についてやろうというのは、これは一種の所のほうのストライキみたいなものでございまして、しかもそういう行為というものが、交渉等によって聞くところによりますと、あるいは新聞報道等によりますと、理事者の主体的な意思ではない、よそから何かやられたものらしいというふうなことで、話し合いの空気というものは非常にこわれたわけでございます。しかも時を同じくしまして、たまたまその前のJPDRの事件につきまして、労務の担当の理事の方が辞表を提出されたり、あるいは労務担当の理事がかわられたりした。ちょうどそれが同じ時期にきましたので、この間お休みみたいなことになりまして、早く片づかなかったというのが表面的な理由でございます。

―引用終り―

相田です。昨年11月の問題というのはJPDRの運転開始の話で、これについては第3章で触れた通りである。年明けの2月においては一柳氏によると、当初は平和裏に話合いが持たれていたものが、突然に大型炉が止められ、労務担当理事も辞任、交代するという、非常に雰囲気を壊す行為が、理事者側から一方的に行われたという。これらの理事者側の態度の急変は、自らの考えではなく、外部からの圧力によると、組合側はみなしているという。一柳氏のここの指摘は非常に重要で、自民党議員達によるテコ入れが原研に行われた事実を裏付けるものと考えられる。

但し一柳氏が、11月の問題の際に交渉が長引いた理由を、週末になると理事者が東京に帰ってしまうかからだ、と無責任な説明をしている事はいただけない。菊池が東京に帰ってしまうので話が纏まらないとは、何という言い草であろうか。ならば、菊池が東海村にずっといたならば、話が付いたとでもいうのだろうか?

続いて、菊池がこだわっていたストライキの事前予告時間について、一柳氏は次のように語った。

―引用始め―

 それから、二十四時間の意味であります。二十四時間の意味という点に関しましては、団体交渉の席上でも問題となったところでございますが、別にこれは安全性ということとは関係はございません。つまり、炉をとめるのに何分である、それからそれを連絡するのに何分である、そういうふうに積み上げた値ではないのでございます。現にJRR2という原子炉は、三千キロワットで運転しておるときに一分でとまります。それからその後、炉心の熱除去のためには、ポンプを一ないし二時間回しておればよいということでございます。それからJRR3、国産一号炉という原子炉は、一千キロワットの運転時に自動制御計によってとめますが、それには大体三分で出力を下げ、次の一分で化学反応は停止する。それから後三十分ばかり炉心の熱除去をやるということになっております。それから、動力試験炉JPDRに関しましては、さきの争議協定期間中に一度とめたことがございますが、そのときには大体二時間ぐらいでとまったという実績がございます。

 それから、三十分前予告のストライキのお話がございました。これは昨年の十月の二十五日に行なわれましたベースアップの第一波の争議のことであると考えます。この日は午後二時にストライキの実施を所側に通告いたしまして、現場において直ちに保安要員の交渉に入ったわけでございます。交渉成立後、炉がとまってからストライキに入るということにいたしまして、所側の手で炉の停止が行なわれております。それで二時三十九分に完全に停止いたしましたので、二時四十分から保安要員を残して退出したということになっておりますので、これは安全上は何ら問題はない、こういうふうに考えております。

―引用終り―

相田です。ここでの一柳氏の説明は、12月の委員会で小林議員が島村武久に述べた内容から、全く変わっていない。スト開始前の24時間の猶予時間には安全上の意味は無い、そして実験炉(JRR-3)へのスト開始30分前予告でも、炉は安全に停止したので、何も問題など無かったのだ、と一柳氏は明言した。菊池が最も懸念を表明していた問題に対して、労組はここに至っても、対立する姿勢を変えるそぶりを見せなかった。このような労組の対応に、菊池は大きな落胆と失望を抱いたことであろう。2月19日の委員会での説明で菊池が労組をかばったことが、菊池が辞表を出すに至った最大の要因の一つと推測されるにも係らず、組合からのこの冷酷ともいえる菊池への仕打ちである。菊池がやる気を失った理由の一つが、この頑なな労組の姿勢にあったことは否定できないと、私には思える。

今現在も日本原子力開発機構の中の原研労組(旧名称のままで存在する)に所属する方々が、この日の一柳氏の話の内容をどのように考えるか、自分は機会があれば是非とも聞いてみたいと 望んでいる。

一柳氏は最後に、勤務時間中の組合活動の状況について、以下のように述べた。

―引用始め―

それから、私どもの労働組合の活動につきまして、朝から晩まで何かかってにやっておるような印象を与えるということでございます。その点につきましては、私どもといたしましてはそういうことはないのでありまして、先ほど労働省のほうからも、大会等まで金を出すのはおかしいというお話がございましたが、私どもの大会は全部賃金カットされております。それから、職場大会、分会その他はいずれも時間外に行なっております。ただ、先ほどから申しておりますように、交渉事項が非常に多い。たくさんある。現在労使間でペンディングになっておる問題が二十ばかりあるかと思いますが、非常に多い。だから、しようがない、毎日一生懸命詰めてやっておる。その準備等のために執行委員のうちのある部分はずっと仕事をしなければならない。そういう状況でありまして、大会その他一般組合員の活動につきましては、全く賃金カットされております。全く正常に行なわれておる、そういうふうに考えております。

―引用終り―

相田です。ここまでの一柳氏の話を聞いていた森山が、こらえきれずに議長に発言を求めた。

―引用始め―

(森山委員) 一つは組合のほうから、賃金カットをしているとかしていないとかいう具体的なお話があったのですが、勤務時間中の組合活動については、三十三年十月三十一日案、三十六年八月一日案、三十六年十一月一日案、三十七年十二月二十八日案、三十八年四月二十二日案、それからことしに入っての三十九年一月三十日案と、何回も案を出して、まとまっておらなかったことは御承知のとおり。そして一番最近のものは三十九年の一月三十日案でございます。

 それで、ことしの一月の案と去年の四月の案の差はどういうことかと申しますと、総会は年二回やる。要するにこういう問題について、回数の規定もなければ、どのくらいの時間そういうことを時間内にやることについて認めるかということについても規定がなかったから、おそらくきめようとしたのだろうと思います。それによると、総会は年二回やって、一回の時間が九時から十七時半までの必要時間、これはカットすると書いてあります。ただし年次有給休暇の請求があればこれを認める、この場合にはカットしない、こういうことです。これは年次有給休暇という意味でカットしないのですから、これは当然のことです。

それから大会というのがあって、これが四月の案では年十二回ということで理事者側が提案した。今度はことしの一月には八回に減らして、一回の時間は四時間、スト権が集約されている時間を除きこれはカットしないということになっております。それから評議員会は、四月の案では年十二回、一月の案では八回に減らしております。一回の時間は四時間以内、これはカットしないということになっておるのであります。だから、いままでもこれはもちろんカットしていない。大会でも評議員会でも、回数も無制限、カットもしていない。大体理事者が十二回を八回に回数を減しただけで、カットしていないのです。

それから執行委員会の場合ですが、月に六回、これが去年の四月案です。本年の一月案は、週一回、一回の時間四時間以内、これもカットしないというふうになっておるわけです。そういうふうに、もう理事者側の提案すらも、これらの問題についてカットしないなんという驚くべき提案を本年の一月三十日までしてきた。したがって、ただ回数を十二回を八回に減らすというまことにだらしのない提案を経営者側がしている。だから、実情はやっていないのでしょう。こういうのは当然のことであって、それを組合委員長が言うといかにもカットしたような印象を与える。こういう種類のことはたくさんございますが、私は一々これを論駁いたしません。

もう先ほどの組合の委員長の話について納得できないことが多々あるわけでありますが、ここは論争の場でありませんから一々申し上げませんが、手元にありました資料について、理事者側の提案から推してこういうことであるのでしょうということを私は具体的に申し上げるわけでございます。

そこで、もう一つだけ。「原研調査項目」というのができておるのをきょうまで存じませんでしたが、原委員の御質疑で、理事者の裁量権に制約があることが労使紛争の根本原因だ、一体そうですかと詰め寄られたと思う。理事長はそれについて、「根本的原因であり」、という書き方について適当でない点をお認めになったようです。これは三六ページですが、五二ページに「原研の労使関係が不安定とされるものは、経営者に与えられた権限と経営の体制が、原研の体質の流動的な発展に追いつけない程固定されたものであること。」そのほか二項目をあげられておるわけです。

この問題は私は午前中に申し上げたことであって、確かに予算によって制約を受け、経営上の制約がなかなかあることは事実でございます。特に経理関係について。ところが、他方において組合は労働三法によって労働権はほぼ完全に保障された要求をすることができてくるわけだ。そこで非常に苦しいということは私どもはよくわかるわけだが、一体原研のいまの労使関係の不安定というものは、そういう制度上の問題であろうかどうかということになる。すなわち根本原因であるかどうかということになると、私はそうでないと今朝来申し上げておるのでございます。

労働問題というものに対する認識が全くない。その一例として超勤の手当の問題もあげ、それから時間内の組合運動の問題も野放し状態、それから労働協約一般の従来の取り扱いの問題も、大体組合運動のイロハがなっていないじゃないか。そういうことは予算上の制約とかなんとかいうことと関係がないことだ。そういうイロハができていない。

もう組合が特殊の性格の組合でありますから、これは私からそういうことを組合に言ってもしょうがありません。

しかし、この組合が悪いのは、これは管理者がぼやぼやしているからだ、管理者が認識不足だ、おざなりだ、親方日の丸で眠っているからこういうことになったのだ、それが根本原因なんじゃないですか。そういうことを私は午前中に申し上げた。そういう点お考えになられたから、理事長は、これを根本原因だというふうに、すなわち機構にその責任をおっつけるということにちゅうちょされたのではないか。私たち国民の税金によって立ち、国民から大きな期待と関心の目をもって見られているということに対する心がまえが足りなかった。労働問題とか労務管理というものに対する真摯な姿勢が正されていなかったということが根本問題じゃないかということを私は午前中に申し上げた。

そういう点を御考慮になって、根本問題、すなわち制度にその責任をすりかえるということをちゅうちょなさったのではないかと私は思うのですが、理事長、いかがでございましょうか。

(菊池参考人) 午前中御返事したとおりでございます。そういう意味で私、非常に責任を感じているということであります。

(森山委員) そういう心がまえの問題だということで……。

(菊池参考人) が大きな責任でございます。

―引用終り―


相田です。原議員の質問の間、労組ペースで進んでいたムードを盛り返すために、森山がここで割って入った。ここでの森山は、午前中に述べた就業時間内の不正な組合活動の話を繰り返しており、新しい内容を述べている訳ではない。一柳氏による「就業時間内で組合活動を行う際の賃金は全てカットされている」との説明に対して、森山は自らのルートで入手した原研労使間の従業条件の覚え書きの内容から、「実情は賃金カットなどされていないのだろう」と、強く反論している。実際の証拠資料に基づく森山の主張の方が、一柳氏の主張よりも説得力があるように思えるのは、やむを得ない処である。

しかし、ここでも森山の本当の目的は、組合側の主張を論破することではなく、問題の責任が原研理事者の管理方法にあるのだという方向に、話を誘導する点にあることを、読者はよく理解するべきである。森山は自らの話の前半において、労組側の就業管理のルーズな対応を激しく糾弾しつつも、それを枕詞にして、原研理事者への責任追及への道筋をつけることを、怠っていない。相当に練りに練ったストーリー創りであり、作戦だと思う。

原研理事が直面する労務管理の難しさについては、後の3月19日に開催された小委員会において、原子力委員の兼重寛九郎が次のように語っている。

―引用始め―

労務問題につきましては、原研は、前に述べましたとおり、その経営を行なうにあたりまして、特殊かつ困難な諸条件があるということは認めなければならないと思うのであります。特に原研の労働関係は、労使対等の原則に立脚した一般労働法規の適用を受けます反面、給与、諸手当等の労働条件の主体をなすものにつきまして国の監督に服するという、民間企業と異なった制約があります。

―引用終り―

相田です。上で兼重が述べるように、原研の労組は一般労働法規の適用を受けることで、理事者側と対等の条件で交渉できる一方で、給与、諸手当等の経理条件は、国(大蔵省)の監督に従って決められてしまう。結果として、理事者側の対応策が民間企業よりも著しく限定されてしまうことが、原研の労使問題の本質であることは、兼重を含めた関係者の誰もが認めるところであった。

しかし、森山はこのような原研理事者側の苦しい事情は認めつつも、途中から「一体原研のいまの労使関係の不安定というものは、そういう制度上の問題であろうかどうかということになる。(中略)私はそうでないと今朝来申し上げておるのでございます」と話の方向を変える。そして「これは管理者がぼやぼやしているからだ、管理者が認識不足だ、おざなりだ、親方日の丸で眠っているからこういうことになったのだ、それが根本原因なんじゃないですか」と、結論を落とし込むのである。最後には、菊池から「そういう意味で私、非常に責任を感じているということであります」という証言を、ここでも引き出すという、念のいった演出まで行っている。

この日の状況を冷静に観察すると、原研労組の一連の反抗的な行動が、森山の「問題の原因が体制にあるのではなく、原研理事者の管理の仕方にある」という主張に、説得力を持たせるための道具として使われたことがわかる。組合が激しく抵抗すればするほど、森山の主張の説得力は増すのである。

2月13日と19日の委員会では、岡議員と菊池により体制側の問題、特に原子力委員会の指導力の無さが問題であることが主張されていた。しかし森山は、労組が激しく体制側に抵抗してきた経緯を逆手にとって、体制の問題ではなく、原研理事者が組合に弱腰だったのが混乱の理由なのだと、話を見事にひっくり返した。あたかもオセロゲームの白黒を一気に裏返すように、この日の森山は「原研労組というコマ」を使って、自民党を大逆転に導いたのである。


4.8 正義は何処にある

森山の質問に続いて、この日初めて岡議員が発言を求めた。岡議員は最初に前回2月13日の質問と同じく、原子力委員会の対応があまりに鈍い点を質した。

―引用始め―

(岡委員) ほかにも質問の方がおられますので、私は特に労使紛争というふうな形でこの問題の経過をあまり取り上げたくはありません。ちょうど兼重さんも来ておられますが、原子力委員会は、原子力研究所の紛争というものに対する責任を感じておられますか。どうもぼやっとしておられるように思うのだが、感じておられるのだろうか。

(駒形説明員) 原子力委員会は、原子力の政策というものを通して日本の原子力を推進するという任務を持っておるのでございます。日本原子力研究所は、この原子力の推進ということについては、非常に大きな役割りを果たしているものでございますから、そういう意味から、原子力委員会というものも、原子力研究所が円滑に運営されていくということをはからなければいけないのじゃないか。でありますから、原子力委員会の立場はそういうふうにすべきであると思います。

(岡委員) いま駒形委員の言われたことを聞くと、原子力委員会は、原子力政策を企画し、決定する機関である、原子力研究所は、原子力政策を推進する中核であるから、この紛争、その停滞に対しては責任をとると言われるのか、とらないと言われるのか。ここをひとつはっきり言ってもらいたい。

(駒形説明員) それぞれやはり担当すべき部門があって、責任をとる、とらぬということの御質問でございますけれども、当然われわれがやるべきことに対して責任をとる、こうお答え申し上げるよりいたし方ありません。

(岡委員) それでは、原子力委員会は一体ことしになってから正規な委員会を何回開かれましたか。そしてこの問題を取り上げられましたか。(中略)とにかく、原子力委員会の常勤の方が二人もこの間まで外国へ行っておられたというようなことは、少なくともいまあなたのおっしゃったように、日本の原子力政策を推進する中核機関がこういう紛争を起こしておるときに、海外へ行っているということ自体、私は非常に不謹慎だと思う。

―引用終り―

相田です。ここでの岡議員の口調は、2月13日での佐藤大臣への質問に較べると、かなり穏やかであり、厳しく追求するような姿勢ではない。自分では自民党を追い込んでいたつもりであったのが、森山に完全にひっくり返されたことで、「やられた、もう取り返しが付かない。うかつだった」と、諦めの境地だったのではないだろうか。対する先代原研理事長の駒形からの回答が、あまりにも中身のない官僚答弁に終始しているのも、会場に漂う空しい雰囲気を際立たせている。更に引用を続ける。

―引用始め―

(岡委員) それから、実は私もきょうは、この春さき、気候もいいし、ほのぼのとした委員会だと思ってきましたところが、昼前にわかに春のあらしどころか、マッカーシー旋風が吹きまくって、たださえノイローゼぎみの菊池さんはじめ、たいへんなことで、私も精神病者の専門で、非常に心配です。マッカーシー旋風が吹きまくってオッペンハイマーが追放された。アメリカにはそういうこともある。しかしこれは、要するに原子兵器をつくる国のできごとである。日本では原子兵器をつくらないのだから、何もマッカーシー旋風が吹く必要もないのに、ことさら吹いてくるところを見ると、何かそういう気がまえでもないかという錯覚に襲われたということを、正直に告白しておきたい。

 それはそれとして、菊池理事長にお尋ねしたい。あなたのほうの共同声明の中で、原子炉の運転をとめたことは紛争の解決上きわめて遺憾であったと反省するという趣旨のことばがございました。これは、あなたも長く理事長をしておられたのだから、そういうとほうもないことを無理無体にやるということは、原研の内部の事情から見てもおもしろくないということは、二月二十二日に炉をとめられない前、あるいは炉をとめるときにそういうお気持ちではなかったかと思うのですが、正直なところをお聞かせ願いたい。

(菊池参考人) 最初その方針でやっておりました。その後いろいろ、これは決して委員会や局からの指示ということではなしに、ただそれでよいかどうかということについて、突っ込んで原子力委員会のほうとも、島村局長とも話し合いをいたしました。そしてその結果、そこに至るまでの私の行なってきた言動から照らしましても、そういうやり方は今回とるべきでない、私はそういうように考えました結果、あの段階で確かにその方針を変えたわけでございます。しかし、これは十分委員会や原子力局、島村君と話し合った末、私も確かにそうだという信念で変えたのでありまして、指示によって変えたというわけではございません。

(岡委員) ちょうど私ども十四日に原研へ参りまして、非常に皆さんにお世話になりました。そのときの私どもの印象では、JPDRの準備はもうほぼでき上がっている、一両日にでもこの運転ができると、現場の責任者も言っているし、理事者の方もその点チヤフルに言っておられた。あの労組の諸君も、処遇上いろいろ不満はあるけれども、炉をとめるというような非常手段に訴えなければならぬような雰囲気でもなければ、情勢でも全然なかった。ところが、JPDRどころか、他の炉も全部とめてしまう。こういうことは原研理事長としての責任を逸脱したことだと思う。そこまでやることは、いまおっしゃいましたが、原子力委員会と御相談の上でおやりになったのですか。

(菊池参考人) 十分に意見を伺いました。そして、ごもっともな意見でもあると思いました。そういう意味で、相談というよりも、御注意をいただき、それを検討したということです。

(岡委員) とにかく(二月の)十三日の日には、島村局長は、この委員会でこういう答弁をしております。JPDRについては、準備の整い次第、争議協定が結ばれ次第に運転をする、そう言っておられる。ところが、さて争議協定が結ばれたかどうか。現地へ行けばもうほとんど一両日で運転ができるという状態にあった。ところが二十日に、いま申しましたように、他の炉も全部運転を停止して、そして争議協定というものが大きく浮かび上がった。(中略)きょうはああいうとほうもないマッカーシー旋風というものが吹いている。推理小説じゃないが、一連の関連があると感ぜざるを得ない。

原研の炉の停止というものを組合側に責任があるかのようなそういう形において、まじめな研究者団体の権威なり名誉というものを棄損するような方向に原子力政策を振り向けていかれるならば、これまた重大問題だと思う。こういう点もこれ以上申し上げませんが、いずれ小委員会等で十分に究明をしたいと思います。これで私は終わります。

―引用終り―

相田です。相変わらずのユーモラスな例えを使っての岡議員の説明であるが、この日の委員会が修羅場になってしまうことを、岡議員は全く予想していなかったらしい。ひと月前の自分が質問した委員会の翌日2月14日に、岡議員は東海村まで出向いたという。組合員からも話を聞きつつ、原研が明るい雰囲気であることに安心していた筈であったのが、まさかの「マッカーシー旋風が吹き荒れる」展開になってしまったようである。

おそらくは、自分と相通じると期待していた菊池が、無残な仕打ちを繰り返し受ける様子を見ていて、つらくなったのだろう。岡議員は原議員のように、菊池の責任を厳しく問い質すことはしなかった。ただ、大型炉を全部止めたことは、原子力委員会の了解を得たものであるのかを、岡議員は訊ねた。

これに対して菊池は、原子炉を止める判断は原子力委員会との間で、十分に相談した結果であると述べている。しかし、私は菊池のこの説明は嘘だと思う。年明け以降の原研では、労組に厳しく対応する必要が無いと菊池が感じていたことは、2月19日の菊池の話から明らかだ。岡議員が「推理小説じゃないが、一連の関連があると感ぜざるを得ない」と述べているように、自民党議員達からの圧力が菊池にあったと考えるのが妥当だと思う。しかし、ここでの菊池はもはや「真実を主張する」ことを放棄していたのだろう。

この日の菊池は、ほとんどの質問者からの集中砲火を浴びて、満身創痍となって国会を去ることとなった。一体、菊池はなぜ、ここまで激しい批判にさらされることになったのだろうか。おそらくそれは、菊池が最後まで「自分の筋」を通そうとしたからだ、と私は思う。原研が混乱した原因について菊池は、「原子力委員会の指導力が不足しているからだ」と、体制側の欠陥を挙げる一方で、30分前予告ストを断行した労組の行動に対しては、「暴挙である」と強く批判した。しかし体制側、労組側にそれぞれ向けられた菊池の鋭い批判は、両組織の正当性を揺るがす危険なものであった、ともいえる。自分の発言が窮地を呼び込んでいることに気付かなかったことが、菊池の失敗だったのだろうか。

体制側(原子力委員会)が菊池を受け入れて、大蔵省と折衝して原研の予算を3年間または5年間確保させる(これは法律上難しいであろうが)か、あるいは、労組が菊池を受け入れて、争議協定を1月中に締結する、等の措置を取っていれば、このような悲劇には至らなかっただろう。しかし体制側、労組は共に菊池に歩み寄ることをせず、あたかも「阿吽の呼吸」をもって、混乱の全ての責任を菊池に押し付けることに成功した。原子力委員会と原研労組の間に根回しがあったとは流石に思えないが、結果として、両者の共同謀議(コンスピラシー)により、理事長の菊池がカモにされて詰め腹を切らされたのだ、と言えるだろう。

ここに至って私は、正義は一体どこにあるのだ、と考えずにはいられない。

さて、岡議員が言及した「この間まで外国に行っていた」原子力委員の一人は、兼重寛九郎であった。3月19日の小委員会における、原子力委員会が作成した「調査項目」書の審議の際には、兼重自身がその説明を行った。そこで兼重は、原研が窮地にあった最中に海外に出張して不在にした理由について、苦しい言い訳を強いられている。しかしこの日の委員会に岡議員は出席しなかった。別件で用があったのだろうが、今さら兼重を問い質したところで、大勢(たいせい)を変えられないと判断したのであろう。

この3月19日の委員会では、前回12日の会議を欠席した佐藤栄作と、中曽根康弘の二人が、白々しくも二人そろって出席している。修羅場が終わって危険が去ったと見たのだろう。前回の主役である森山もこの日の後半に再び登場し、原子力委員や佐藤に向けて「原研労組の活動は、共産党に大きな影響を受けていることを認識すべきである」と、(腹立たしくも)主張している。

ところが面白いことに、この時の佐藤は森山に対し「個々の組合員にも思想の自由はあるのだ。ただそれが他の政治活動を主にするような運動で、現実に問題を引き起こすならば、社会的な批判もあるだろう」と回答した。ここでの佐藤は明らかに、「個々の組合員にも思想の自由はある」と、森山の過激な発言に釘を刺している。後年のノーベル賞受賞者としての、佐藤の度量の深さの一端なのであろうか。今回の一連の問題で、原子力委員長としての佐藤が指導力を見せたのは、記録に残る形ではこの発言だけのように自分には思える。

(第4章終わり)

相田英男 拝



[19]番外編の投稿:重掲[1694]の続きの続き
投稿者:相田(Wired)
投稿日:2014-11-23 23:42:29

 みなさんこんにちは、相田です。
 南部の話の後半を投稿します。

 前回よりもさらに色々と危い内容になっていますが、南部の仕事を一般の方々向けに解説するという無謀な試みを、とりあえず見守って下さい。

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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」

第1章 素粒子論グループの光と影

1.8 〔番外編〕南部陽一郎、朝永門下生のキリスト(その2) 

 さて、前にも述べたが、ここの話は全て西村肇先生が「現代化学」という雑誌に書かれている紹介記事「南部陽一郎の独創性の秘密をさぐる(1)(2)(3)」の受け売りである。西村先生は応用化学の権威である一方で、素粒子物理学に関しても造詣が深く、南部の実力についてかねてから注目されていたという。自らを「南部の追っかけ」であることを公言されている。

 南部が問題の論文で計算した方法は、朝永の「超多時間理論」とは異なり、以前のダンコフが試みたモデルであったという。ダンコフは電子の「自己エネルギー」を計算する際に、計算項の一部を抜かしてしまい、結果として発散が残ってしまった。計算間違いが無ければ10年前に、ダンコフにより「くりこみ」は完成した筈であった。南部は朝永の講義を聴きながらダンコフのモデルの筋の良さを見抜き、自分一人で朝永グループとは異なる手順で、ラムシフトの計算を秘かに行っていたという。

 西村先生によると、南部論文の驚くべき点は朝永グループとの人数差だけではないらしい。電子の「自己エネルギー」を計算する際には、電子から電磁波(光、photonと同じ)が放出され「中間状態となった電子」が、再度電磁波と反応して別の安定状態に至るが、その過程のエネルギー変化を全て計算で求めることになる。朝永グループの計算は「中間状態となった電子」を「通常の電子」1種のみとしているが、南部の論文では「通常の電子」と「反粒子=陽電子」の場合の二通りを考えて計算を行っているという。「中間状態となった電子」が2種類ある場合は、理屈から計算量が3倍に膨らむことになるのだが、その結果として朝永グループとの人数差と合わせると、南部は通常の研究者と比べて何と10倍以上の速度で計算を行っていると、西村先生は述べられている。

 朝永グループも別に皆アホではなく、当代一流の物理学者の集団である。それを相手に10倍以上のスピードでの計算が可能とは、信じがたい話である。しかし南部の元論文(ネットでダウンロード出来る)を見ると、彼の計算の速さの理由が素人の私でも少し見えてくる。

 南部は論文の中で、電子がエネルギーのやり取りを行うそれぞれの過程について、矢印を用いた独特の略図を用いて区別している。西村先生によると南部のこの略図は、当時まだ未発表であった、R.ファインマンが発明したファインマン・ダイアグラムと呼ばれる、素粒子反応の計算方法と同じ物であるらしい。ファインマンは朝永と同じ「くりこみ論」により、ノーベル賞を同時受賞している著名な物理学者である。「ご冗談でしょうファインマンさん」等に代表される、軽妙なエッセイの著者としても知られる。

 ファインマン・ダイアグラムとは、素粒子の生成、消滅反応を、矢印、波線、丸等の単純な記号の組合せて描いた、一見にして子供の落書きのようにしか見えない図形である。しかしながら、それぞれの記号の位置に、定められたルールに従って数式を当て嵌めると、素粒子反応を記述する極めて難解な数式がいとも容易に導かれるという、手品のような物理数学のテクニックである。量子力学の創始者であるN.ボーアは、学会で初めてファインマン自身からこのダイアグラムの説明を聞いた時に、内容があまりにふざけていると感じて激怒したそうである。

 南部は彼自身の論文で、ファインマン・ダイアグラムに近い技法を、何と自ら編み出して、事前に電子のエネルギー変化の過程を厳密に整理、分類した後に、ラムシフトの計算を行っていたらしい。この当時の南部は、まだ20代後半の駆け出し研究者である。真実であるならば、南部の物理センスの凄まじさは言葉を失うレベルである。

 ただし、南部がラムシフトを計算したこの論文に関しての解説は、西村先生以外には見当たらず、南部自身ですらも何故か全くコメントしていないようである。実際の南部の論文を眺めると、西村先生の説明のとおりの内容と私には思えるが、朝永への遠慮とかの様々な支障があって、あえて触れないのであろうか? 南部自身は、武谷、坂田等のように、物理に直接関係ない話をベラベラ主張することを全くしない人なので、「論文に全て書いてあるからそっちを読めばわかる」ということなのであろう。たとえ読んだところで、何が書かれているか全くわからない者が(私を含めて)ほとんどなのであるが・・・・

 南部の物理学者としてのスケールの大きさは日本には収まりきらず、その3年後にはアメリカに渡っている。南部はシカゴ大学に迎えられ、素粒子物理学の教授 -あのE.フェルミと同格の― として、数々の偉大な業績を残すこととなった。南部のノーベル賞受賞の対象となった「対称性の自発的破れ」という理論は、私の学力では理解がおぼつかない難解さである。それでもいえることは南部のこの理論は、固体物理学で知られる超伝導現象を素粒子物理に適用したモデルということである。超伝導とはある種の金属やセラミックス材料の電気抵抗が、一定温度以下の低温でゼロとなる現象である。

 20世紀初頭に発見された超伝導現象のメカニズムは長らく不明なままであったが、1950年代の後半に、バーディーン、クーパー、シュライファーの3人のアメリカ人物理学者により、物質中の2個の電子が組み合わさって運動することで、ボーズ・アインシュタイン凝縮という最低エネルギー状態に落ち込む現象が生じて、超伝導が発現するというモデル(BCS理論)が発表された。当時アメリカに移っていた南部はそのニュースを間近で聞きながら、BCS理論の背後に素粒子物理学との深い相関があることを予感したらしい。数年の考察を経た南部が、1960年に発表した理論が「対称性の自発的破れ」である。

 世の中に存在する物質は莫大な数の原子により構成されており、個々の原子は陽子、中性子、電子等の素粒子により構成される。さらに陽子、中性子の内部にはクオークと呼ばれる微細粒子が存在するとされている。このように物質を構成する要素を微細化、単純化することで自然の本質に迫ることを目的とした学問が、日本の湯川を始祖とする素粒子物理学である。

 それまで多くの物理学者は、個々の素粒子まで自然を単純化してモデル化することで、多数の原子が組み合わさって構成される実際の物質の挙動を、精密に予測し得ると考えていた。しかし南部は、素粒子の持つ性質を突き詰めると、その背後には超伝導と同じ現象が存在していると主張した。言い換えると、物質を究極的に微細化・単純化してゆくと、そこを支配する法則は何と、マクロな物質(多体粒子による構成体)で生じる法則が再び現れるのだという、それまで誰も考えもしなかった破天荒で逆説的な考え方を、南部は導入したのである。

 今盛んに報道されている「ヒッグス粒子」に関するP.ヒッグスの論文は、南部の「対称性の自発的破れ」に関する論文の、ほとんど焼き写しであることはよく知られている。南部の論文に示唆を受けたヒッグスは、自らのアイデアを論文に纏めて多数の学会誌に投稿するものの、掲載を全て拒絶されてしまったという。しかしある論文誌の査読者を務めていた南部自身がヒッグスの論文を目にして、「いい内容だ、がんばれ」と勇気づけた(encourageした)という。この論文がヒッグスのノーベル賞受賞の対象となった。

 さらにそのヒッグス論文のモデルを用いて、グラショウ、ワインバーグ、サラムの3人の物理学者が、電磁気力(電磁気的相互作用)と弱い相互作用という二つの現象を併せて記述できる「弱電統一理論」というモデルを60年代後半に提案した。70年代になりこの弱電統一理論により予測される粒子が加速器実験により確認されたことで、提案者の3人は1979年にノーベル賞を受賞し、素粒子物理学の理論体系は一応の完成を見たとみなされるようになった。しかし、これらの一連のモデルのそもそもの起源は、南部による超伝導現象(固体物理学)と素粒子物理学の融合という、他に類を見ない独創的な発想にあるのである。

 南部がこの理論を考え付いた理由の一つに、彼の出身大学が東大だったことが挙げられる。東大は素粒子物理学では湯川、朝永、坂田を輩出した京大に出遅れていたが、統計物理学や固体物理学等の多体現象を扱う分野が伝統的に強い。伏見康治も統計物理学の専門家である。朝永教室に通う前の南部も固体物理学を深く学んでいたことから、BCS理論が発表された当時に、そこに潜む重要性を直感で見抜くことが出来たといわれる。

 しかし戦後の東大は、南部やその同世代の若手の素粒子物理学者達を冷遇し、彼らを全て大阪市立大学等の地方の新設大学等に放逐してしまった。武谷は当時、彼ら東大の若手素粒子物理学者達の才能を惜しみ、東京に残してくれるように大学側に何度も懇願したが、聞き入れられなかったという。その後に彼らの幾人かは東大に戻されたが、アメリカに渡った南部は二度と日本の大学に帰ることはなかった。

 南部がノーベル賞を受賞した際に、文科省が「あれはアメリカ人の仕事だ」と南部の業績を軽くあしらったのは、南部の実力を見抜くことが出来ずに追放してしまった東大学閥OBの思惑も関係している。南部は60年代末に国籍をアメリカに移してはいるが、南部の非凡な才能は東大時代に既に開花していた。

 ちなみに南部の業績はこれだけではなく、クオークの性質に「色」という新たな「自由度」の概念を持ち込んだ「クオーク色力学」の創生と、素粒子の挙動が点ではなく、一定の長さを有する「ひも」として記述されるという「ひも理論」の開祖もまた南部なのである。「クオーク色力学」「ひも理論」それぞれが、ノーベル賞に値する優れた発見であると言われる。

 日本の「歴代の物理学者」の中で最もスキルが高いのは、仁科でも湯川でも朝永でも坂田でもなく、南部なのだとプロの物理屋の中では語られている。その一方で、南部のノーベル賞受賞は80歳を過ぎてからとあまりにも遅かった。南部の凄まじい才能に脅威を覚えた、アメリカの物理学者達の働きかけがその一因にあるとも言われている。

 戦後に若手科学者達が貧しい日本から、海外に頭脳流出することが問題にされた際に、武谷は「(物理学者では)南部以外は、別にいなくなってもどうってことない」と、コメントしたそうである。一方の南部は、研究に取り組む際には単なる数式上の整合性だけではなく、「自分のモデルが実体として存在する場合にどうなるか?」と、つねに考え続けていたという。武谷三段階論が科学の方法論として有効であるのならば、南部の一連の研究成果こそは、坂田のそれをも上回る三段階論の理想が結晶化した姿であると、おそらくはいえるのだろう。

 あの大変口の悪い益川氏も、ノーベル賞を南部と共同受賞する件を聞かれた際には、感動が込み上げて人目も憚らずに涙を流したという。当然ながら益川氏は、南部の実力についてよく知っている。益川氏のひねくれた物腰を私は好きではないが、南部のことを思った際に思わず出た、自分の気持ちに正直な態度には好感が持てる。

(番外編終わり)

相田英男 拝






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